2012年01月30日

原発国民投票

 原発国民投票の試みが今取り組まれている。以下、参照
http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2012013002000015.html
 私自身も、日曜日に戸越公園の居酒屋まで署名に行ってきた。渋谷駅前では、連日署名所がおかれていて署名できるはず。2月9日までに、あと数万名分の署名を集めなければならない。次世代のために、我々にできることをする責任を果たしたい。
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2012年01月29日

好きになるってどんなこと?

昨年、『ドリーム・ナビ』12月号に「好きになるってどんなこと?」という題でエッセーを書いたが、その時発表しなかった別ヴァージョンの原稿を貼りつけておくことにする。

―好きになるってどんなこと?―
「大きな愛と小さな愛」
 オスカー・ワイルドの童話に『幸福の王子』というのがある。北の国のある街に、幸福の王子と呼ばれる彫刻があった。至る所、宝石や金銀で飾られた実に立派なものだ。その彫刻の王子様が、街の方々にある貧しい家の事を、ツバメから聞く。そこで彼は、自分を飾っている宝石を一つづつ取って分け与えるように、ツバメに命じるのだ。やがて夏が終わり、ツバメが南の国への渡りに出発しないといけない季節が来ても、王子の使いとしての働きは果てることがない。それだけ世の中には不幸な人が多いのである。やがて、王子の像は惨めにぼろぼろになってしまうが、ツバメは王子のために勤めを果たしたあげく、その足元で凍えて死んでゆく。
 あまねく惜しみなく不幸な人々に注がれる幸福王子の愛は、自分を分かち与え、自分を犠牲にして多くの人たちを救うけれど、この童話を読む人は、彫刻だけに何か冷たい感じがしないだろうか? その心は大きく気高いが、血の通ったものではない。
 この物語を救っているのはツバメの存在だ。本当の主人公はツバメなのだ。彼こそは王子様のことを、その小さな身体と心の全部で愛している。
 王子様の自己犠牲的な愛にも、それなりの事情があったのかもしれない。貧しく不幸な多くの人々の中にあって、一人きらびやかに飾り立てられて立ち尽くすのも、きっと楽ではなかったろう。いっそ裸同然にまで落ちぶれても人々に尽くしたい、そう思うようになったとしても不思議ではない。それをも理解して、ツバメは王子を愛している。ところが、王子の方は自分の大きな愛にばかり気を取られていて、足元に凍えているツバメの小さな愛に気づかないのだ。
 だけど、ツバメの方が本物で、王子の方はニセモノだというわけじゃない。もしそうなら、ニセモノを愛したツバメの愛もニセモノになってしまうだろう。大きなものを恵まれた者は大きなものを与えることができるし、小さなものを恵まれた者は小さなものを与えればいい。どちらも立派なことだ。王子様の贈り物は、多くの人々を喜ばせたが、ツバメのことには誰も気を留めない。ツバメは誰知ることもなく、ただ一途に王子様への小さな愛を貫いて死んでゆく。
 おそらく神様から見れば、愛に大きいも小さいもないのだろう。だがそれよりも大事なことは、ここで救われているのが、貧しい人々ばかりでなく、王子様でもあり、またツバメでもあるということだ。王子様にもツバメにも、やり遂げた幸福の微笑みがあったにちがいない。
 人を好きになることには、王子様の愛のように、どこまでも広がるとらわれない雄大さがあると同時に、また一方ツバメのように、人知れずただ人を理解し、その小さな胸いっぱいに憧れる、秘められた小ささもあるということだ。おそらくそのどちらも、大切なことなのだろう。
  
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2012年01月17日

哲学者って何してるの?

 先日、『ドリーム・ナビ』のための二度目の原稿を送った。お題は「悪い事ってど

んなこと?」である。多分一月か二月後には店頭に並ぶはず。

 元締めの野矢茂樹氏からは、お題は「哲学者って何してるの?」になりそうだと聞いていたので、ここではそちら

のお題で書いてみたのを掲載しておく。
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Posted by easter1916 at 17:49Comments(0)TrackBack(0)

2012年01月01日

スピノザとライプニッツ(4)

(ライプニッツと個体化)
 ライプニッツにおいてもスピノザにおいても、身体は世界と連続している。もともとスピノザにおいては、個体は実体の様態にすぎない。
 それなのに個体化できるのは、身体が一定のまとまりを持っているからであろう。スピノザだと、コナトスと呼ばれる原理によって、このまとまりは維持されている。物体はある硬さを持ち、形を維持している。つまり部分同士は何らかの力で引き付け合っていて、他の衝撃に対して反発する力(弾性)として、外部からの力を受け止め、それを内にポテンシャルエネルギーとして保存し、それを放出することによって形を復元するという形で、自己を維持することを実現しているわけだ。ライプニッツにおいては、このようなコナトスという有り方が、より精緻な力学的裏付けを得ると同時に、生物体へと拡張されている。
 ライプニッツのモナドは、場所を持つが広がりを欠いた存在と見なされているが、それはモナドが身体として場所を持ちながら、その統一原理として広がりを欠くということである。つまり、モナドは身体と不可分、身体において実現しているが、一つの意味として存在しているのである。たとえば、生物的実体は、身体をその場として、生命という意味を表現し、実現しているものとして見れば、この意味自体には広がりがあるとは言えないだろう。物体においては、その形において表現されているまとまりそれ自体には広がりがない。生命活動も身体という広がりの中で展開されるとはいえ、それ自体は一つの意味に他ならないから、広がりを欠いていると言えるのである。
 それでは、生命という意味はいかなるものであろうか? その中には、栄養的活動や生殖や代謝や感覚など、さまざまのものが含まれよう。もちろん、それぞれの活動の意味が生命という意味に含まれるのであり、またそれぞれの活動が身体の中に、したがって広がりの中に実現されているのである。生命活動が極めて複雑なものから成り立つように、このことをライプニッツは「モナドは襞を持つ」と表現した。
 重要なことは、個体とか存在と言えるためには、何らかのまとまりがなくてはならないということ、しかもそれは、単に外から勝手に分類したり区別したりするような名目的なものではなく、実在自体に根拠を置く様なまとまりである必要があることである。たとえば、勝手に時空的位置や領域を限定するようなことによっては、このまとまりは与えられない。なぜなら、時空は何か絶対的に独立した実体ではなく、それ自体の中には何ら差異化や同一性の原理をもたないものであり、それが成立するのは物体の時空的関係としてのみであるからである。ニュートンの絶対時空を認められないのはそのためであった。
 さて、実体のまとまりの原理は、形相とか実体形相と呼ばれてきたものである。アリストテレスであれば、人間といった種がそれである。それは個々の個体に内在的ではあるものの、一つの普遍者でもある。それは意味であるから、取り立てて不自然なことではない。しかしライプニッツに特有なことは、この意味としての実体形相が無限に複雑な細部を襞として持っていることである。
 アリストテレスにおいては、形相に本質的に(自体的に)属していることと、付帯的に属していることとの区別がある。オイディプスが例の三叉路で殺した男は、たまたま彼の父でもあった。ライオス王は自体的にオイディプスの父であるが、同時に付帯的に三叉路で殺された男でもあった。オイディプスの父である男がオイディプスの父でないことは、ライオスがライオスでないことが不可能であるという意味では不可能である。「オイディプスの父がオイディプスに三叉路で殺されなかったことが可能であった」という文は、二通りの解釈を許す。一方の解釈によれば、「オイディプスの父であり、かつ三叉路でオイディプスに殺されなかったことも可能であった男が存在する」というものであり、明らかに真である。他方は、「オイディプスの父であり、かつオイディプスに三叉路で殺されたあの男でないような男が存在し得る」というものであり、三叉路で殺された男がライオスであり、オイディプスの父がライオスである以上、「ライオスでありかつライオスでない男が存在し得る」という意味になる以上、明らかに偽である。
 これは、現代ではスコープ(作用域)の違いと呼ばれているもので、何の新味もない事実である。つまり、前者は存在量化のスコープの内に様相操作子(可能)が入っており、後者は、存在量化言明の外に様相操作子がかかっているだけだ。
 ライプニッツには、スコープの分析も、付帯性の装置もないように思われる。なぜか?
 おそらく、本質構造を反映するようなカノニカルな分析が唯一存在すると考えられていたからであろう。たとえば、動物の分類を考えてみよう。空を飛ぶもの、地を行くもの、水中を行くものに三分するという分類を採用すると、ヤンバルクイナとかダチョウのように飛べない鳥も、地を行くものに分類され、クジラやペンギンも水を行くものに分類されてしまう。その上で、地を行くものを羽があるものとないものに分類したりすることになろう。このような分類は、多分に恣意的なものであらざるを得ない。なぜ、初めの三分類が後の二分類に先立たねばならないのか?ここから、分類はそもそも名目的なものにすぎないという考えが出てきてもおかしくない。
 しかし、数学における体系化を考えると、集合から始めて位相空間、距離空間などを定義するにせよ、自然数から始めて有理数、無理数などに進むにせよ、一貫した体系化が可能であると思われる。ライプニッツは、すべての概念の分析を数学のような概念の体系化を理想として想定していたのではないだろうか?実際にそれが為されるかどうかはともかく、原理的には概念の完全な分析がただ一つ存在するという考えである。
 ライプニッツは、このようなカノニカルな分析が、存在そのものの忠実な反映と考えていたと思われる。そして、数学の体系がすべて決定されていると思われるように、すべての存在が、その本質構造を反映するように表現できるはずである。そしてその本質によって、すべての細部が決定されているはずである。つまり、ライプニッツの決定論は、存在が原理的に完全分析可能であるという想定と一体である。数学における同一性は、それぞれの表現がその定義に立ち返って証明されるべきなら、アリストテレスが考えたような付帯性は数学には存在していないはずである。一見偶然的な事実に依存して指示対象を決定されたとしても、分析してみればそれが偶然的連関ではないことが証明されるはずなのである。たとえば、オイディプスの父である人と、三叉路でオイディプスに殺された人との同一性なども、2+2=3+1のように、それぞれの概念の分析によって同一であることが証明されるはずなのである。これこそが、主語概念がすべての正しい述語概念を含むということである。
  
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