2012年08月26日

江藤淳の『小林秀雄論』について

私は小林秀雄も江藤淳も、あまりまじめにフォローしているわけではないが、それでも初期の小林秀雄(『さまざまの意匠』『私小説論』など)には共感を持って親しんでいるので、江藤淳のこの本も特に前半は興味深く読むことができた。自然な流れとして、自分の自由論や『ヨブ記』解釈のポイントを確認しながら読むことになった。以下は、その読書ノートである。  続きを読む

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2012年08月08日

孫崎享『戦後史の正体』

本書は、戦後の日本外交を、対米従属派と自主独立派の抗争という視点から捉えたものである。我々がふつう信じ込んでいるより(あるいは信じ込まされてきたより)、米国の占領政策がいかに我が国の深部にまで及んでいるか、また独立後もいかに長く規定し続けているかを、克明に証明するものとなっている。

 しかし、そのような粗筋や結論的主張を紹介するだけでは、この本の魅力は伝えられないだろう。むしろ、外交を実際に担う個々人の行動がどのような結果と結びつくかという細部を描くことによって、外交のケース・スタディーとして多くの教訓に満ちたものになっていることが、本書の特徴なのだ。

 たとえば、つい先年(2010)ウィキリークスによって暴露された米国外交文書の中で明らかになった、2008年駐日イラン大使と駐日イラク大使の会談のエピソード(p−104)。それは、イラク大使から駐日米国大使館を通じて、国務省に報告されていたものである。

 その会見において、イラン大使は「米国がイランを攻撃しないことは誰でも知っている」と発言したという。それに対して、そんな結論を出してしまうと、取り返しのつかない失敗を犯す危険があると、イラク大使はたしなめたということだ。

「イラク大使が二度の対米戦争から貴重な事実を学んでいる」のに対して、「イラン大使は物事がよくわかっていないように見える」

 しかし、そうではないのだ! 

イランの政権中枢が原子力開発を推し進めようとしているとき、米国の恫喝に同調して「米国の軍事攻撃があるかもしれない」という弱気な報告を打電することは、大使の解任につながりかねない。そこで、イラン大使は、イラク大使にそう言わせて、それを本国に報告するという形を取って、祖国の安全に貢献しようとしているのである。

 あるいは岸信介氏が1957年首相として訪米し、アイゼンハワー大統領を表敬訪問したくだり。「アイクは、午後用事がなければゴルフをやろうと言い出した。ダレスはゴルフをやらない」(p−192)

 孫崎氏は「この裸の付き合いは重要な意味を持つ」とする。「頭脳明晰な弁護士でもあるダレスは、つねに日米交渉の主導権を握っていた。…けれども岸がアイクとゴルフをして二人だけの時間をもったおかげで、ダレスは二人の関係がどれくらい親密なものかよくわからなくなり、岸に対して厳しく切り込めなくなった。」(p−193)

 我々は外交を、国力を背景にした将棋の如きものと考えがちだ。強国を相手に交渉するのは、飛車、角、金銀を落として将棋を指すようなものだと。

 しかし、相対的弱者にも、何がしか打つ手の有ることがわかる。イラン大使は、米国の軍事力とイラン本国の冒険主義のはざまに立って、まったく無力なように見えるが、イラク大使の反論を巧みに引き出すことによって、祖国の安全に寄与しようとしている。

 岸首相は、宿題を忘れた小学生が担任の先生の前に歩み出るように、アイクの前に現れるが、それでも懐に飛び込んだ小鳥のように、アイクの信頼を得ることによって、ダレスとの交渉を有利に進めるのである。そんなことが可能なのも、圧倒的に強大な相手(米国)も、決して一枚岩ではないからである。アイクとダレスとの間にさえ、ある種の疑心暗鬼が存在しているのだ。

 これらの人の肩に、どれだけ多くの人々の人生・生命がかかっているかを思えば、おのずから粛然とせざるを得ないものがある。

 岸氏の評価については、私は孫崎氏の考えには一部同調できない所があるが(その点については以前、拙著『魂の美と幸い』「教育について」でふれたことがある)、それでも会ってわずかばかりの時間で、アイクから人間的信頼を引き出すことができた岸氏の力量には、舌を巻かざるを得ない。
  
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2012年08月06日

不倫と掟

 最近のテレビ・ドラマで、気になる筋書きがあった。ひょんなことで不倫を犯した女が、夫にそれを告白して家を追いだされ、子供との接近も拒否される、というのである。ジャンクのような細部の説明は省略するが、大きな違和感があるので、そこに含まれる掟をめぐる問題を分析しておきたい。

 まず、不倫を犯すこと自体は、まあいいとしよう。人間はおおよそそのようなことをしがちなものだから、それをどうこう言ってみても仕方ない。しかし、不倫を犯した者がそれを告白することは、彼女が、自身を「誠実な人間」と思いたいという愚かしいナルシシズムに屈してしまったことを意味している。取りあえず、家族、とりわけ子供を守るという家族へのコミットメントよりも、己れの取るに足りないナルシシズムを重視したということだ。(子どもを母親に会わせない男も、もとよりどうかと思われるが。)

 ここで、クリプキによって取り上げられた「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」についての議論を、補助線として引いてみよう。それによれば、規則に従うことと、規則に従っていると思ひ込むこととの間に区別が引けない場合には、そもそも規則が成立しているとは言えないということである。

 この前提を置くならば、家族の掟がきわめて特殊な規則であることが浮き彫りになる。恋人関係においては、当人たちが裏切れば愛がなくなったものと見なされ、関係は直ちに解消される。愛は、当人たちが有ると思えば有り、無いと思えば無いのであるから、有ると思っていることと実際有ることの間に区別が引けないことになる。そこには愛しか繋ぎ止めるものがなく、掟は存在していないと見てよいだろう。

 これに対して夫婦関係は、愛によって支えられるのはもちろんであるが、それだけではなく、掟によっても支えられている。当人たちが、それへとコミットすることが結婚である。すると、掟が存在することと、存在すると思うこととのあいだには、区別がなければならないことになる。それは、たんに愛の関係ではなく、愛によって掟にコミットするものである。それによって愛は、掟という支えを得る。しかし、この掟自身は、愛によるしか支えをもたない。それが家族の掟の特殊性。

 もちろん家族は実定法によって保護を与えられているということもできる。しかしそれは、あくまでも家族の存在を前提にしたもので、それに付随的に財産権とか、相続権とかに対する国家的保護が与えられているにすぎない。家族の存続自身に国家が直接介入することはできないのだ。せいぜい不倫を犯せば離婚において不利な扱いを受けるといった形で、実定法は間接的に家族の保護をなし得るにすぎない。

 すると、この掟は当人たちが存続していると思えば有り、存続していないと思うや、もはや存在していないという意味で、まともな規則の体をなさないものではないのか?

 一般の掟においては、客観的事態と規範とが別のものであることが前提である。事実がどうあれ、規範は第三者(たとえば裁判官)の判断の中に現前している。だから掟の侵犯が為されても、それだけで掟そのものが揺らぐことはない。ところが、不倫においては、その事実の承認は、ただちに規範を無視するものと解釈されることにならざるを得ない。そしてその無視は、直ちに掟そのものの存続を危うくする。当事者の意志以外に、規範の支えとなるものがないからである。

 それゆえにこそ、不倫を告白してしまうことは「私はそんな掟など蹂躙してもかまわない、その程度にしか家族にコミットしていないし、その時々の都合で行動するだけだ」という恐るべきメタ・メッセージを帯びざるを得ないのである。愛と信頼にのみ支えられる掟は、その信頼が揺らげば粉々になってしまう。

 しかしだからといって、恋愛の場合のように、そこにそもそもいかなる掟も存在していないということにはならない。それはなぜか?

不倫を犯した者が、あくまでも白を切ることが可能であるからだ。掟にとって破壊的なのは、あくまでも正直な告白であり、その意志なのであり、不倫の事実ではない。当人が否認し続ける場合、規範と事実の区別は、当人の内的葛藤の中に存続し得るものとなる。それによって当人は、家族に対するコミットメントを引き受けるわけだ。

その場合当然、その配偶者は、その否認を承認せねばならない。それは、彼自身のコミットメントから当然の責任なのである。

 モンテーニュによれば、古代ローマの貴族たちは、帰宅する時わざと大きな足音を立ててゆっくりと玄関を入ってきたという。ひょっとして妻が愛人を引き入れている場合、十分逃げる余裕を与えるためであった。彼らは、自分のナルシシズムと倫理的責任を混同するような幼稚な連中ではなかったのである。

 今回のテレビ・ドラマでは、不倫を侵すのは女性の方ということになっているが、男性の方であっても同様である。それが女性の現実を描いているとも思われない。(脚本は、中園ミホという女性らしいが、ダメな脚本がダメなのは、書き手のジェンダーとは関係ない。)

 これは女性の実像であるどころか、むしろ愚かな男性聴取者の願望の投影なのである。まず幼稚な男性聴取者は、女が「正直」「誠実」であってほしい。その上で、ひざまづいて許しを請い求めてほしいのである。「罪深い妻」に対して、全面的権力と絶対的な倫理的優位性を得たいのである。実際はこのような愚かしい欲望こそ、まったくもって非倫理的なものである。このテレビ・ドラマは、男性聴取者のナルシスティックな欲望に媚びて、幻想を垂れ流しているにすぎない。

 向田邦子のテレビ・ドラマでは、このような男の欺瞞的幻想が無批判に垂れ流されることはけっしてなかった。男たちの弱さや愚かしさが、時としてほほえましくユーモラスに肯定されるかに見える所においてすら、その空虚さはしっかり見据えられていたものだ。それというのも、「世間の掟」(それがいかに欺瞞的なものを含んでいたにせよ)が、常にドラマの根底にあって、諸個人に内面的反省を迫っており、登場人物はその倫理的緊張の中に生きていたからである。

 向田ドラマと比較してみるとき、この数十年の間で我が国のモラル・バックボーンがいかに脆く崩壊してしまったか、我々の社会の倫理的劣化がどこまで昂進したか浮き彫りになるのである。
  
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