2014年08月

2014年08月19日

カントの「コペルニクス的転回」

コペルニクス的転回――「もし対象が我々の習慣能力の性質に従うとすれば、私には我々がアプリオリに対象の性質について何事かを知ることができるというこの可能性を十分に考えることができる。」(『純粋理性批判』B序将察
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easter1916 at 17:02|PermalinkComments(5)TrackBack(0)哲学ノート 

2014年08月15日

カントの超越論的統覚について

カントは、おおよそ次のような議論をしている。すなわち、知覚的経験の自己帰属が可能であるためには、それを一定の内容のある経験として理解することが可能でなければならず、そのためにはカントが統覚と呼ぶ自己意識的な意識の統一をはじめとする一連の能力が存在せねばならない。この議論は、おそらくは正しくまた重要なものであるように思われるが、複雑で錯綜したものであるから、すっきりと理解するのは容易ではない。そこで、それを整理して理解するために、補助線としてHolistic Explanationにおけるピーコックの議論を引いてみたい。

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easter1916 at 20:20|PermalinkComments(0)TrackBack(2)哲学ノート 

2014年08月05日

死者に鞭うて

理化学研究所の笹井芳樹副センター長が自殺した。

小保方氏の「研究成果」が公表されたとき、事情にうとい私は、大方の人と同じようにうれしく頼もしく感じたものである。とはいえ、数々の疑惑が持ち上がり、4月9日の小保方氏自身による弁明の記者会見を見たとき、私は彼女の卑怯千万・愚劣極まりない泣き落とし戦術に唖然とし、この人物がまったく信用のおけない嘘つき常習者に違いないと確信するに至った。このような犯罪者的性格類型に属する人物が、まんまと世界の学界をだまし、我が国の権威ある学者をたぶらかしてきたことに驚くとともに、我が国の精神的頽落もいよいよ来る所まで来た、という感を強くしたものである。

このたび、小保方氏とともに偽装論文事件の最も重要な中心人物である笹井氏が、自分の疑惑に頬かむりをしたまま、まともな弁明もできず、また責任を全うするための詳細の事実解明も行わないままで自殺したことを見て、心底うんざりするとともに、この手の「エリート」の常習的な無責任体質に烈しい怒りを感じた。自分のしたことを解明するという最低限の責任も放棄したこの恥ずべき人物に、全国民的指弾の声を上げなければならない。このような無責任な振る舞いは、立身出世欲にかられて国運を過つようなことをしながら、自栽さえすれば何でも許されると信じる旧軍人のふるまいと、まったく同断のものである。決して容赦してはならない。



easter1916 at 17:39|PermalinkComments(5)TrackBack(0)

2014年08月03日

快楽と苦痛

快楽とは、決して砂糖菓子のようなものではない。むしろ、虫に刺された所をかきむしるようなものだ。我慢がならず掻いてしまうが、それによって余計苦痛が増す。そのうち、掻きむしることが心地よいのか、痛いのかも、わからなくなるまでになる。苦しみそのものが快楽と一体化してしまうのだ。

初めはかゆみを止めようとしていたのに、今や進んで苦しみを求める。ついには、それなしには生きる気もしないくらいに、それこそが生きる意味であり、目的であるかのように、それに固執するのである。

仏教的に見れば、これほどの迷妄はない。この、麻薬にのめり込むような激しい愛着こそ、すべての苦悩の種なのだ。それをきれいさっぱり抜け出さねばならないと説く。

だが、このような解脱、このような悟りへの執着こそ、より高次のかきむしりだとしたら、かかる教えこそは、迷妄の中の迷妄であることにならないだろうか? 

はじめから中途で引き返すような人は、またそうできる人はそうするがよい。日なたで背中のかゆいところを掻いているうちに、猫のように眠り込めるような人は、そうすればいい。だが、魂の奥底までかきむしり、(使徒トマスのように)自分の傷口に手を突っ込んでまで苦しみを追求せずにはいられない人は、ドストエフスキーの主人公たちのように、とことんまで突き進むしかないのではないか? 運命とはそういうものである。


easter1916 at 02:08|PermalinkComments(0)TrackBack(0)哲学ノート 
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