2015年04月30日

shame

Abe's adress in the U.S. Congress is full of vacant shameful flatteries and lies. Quite disgusting !!!

この文章をファイスブックに投稿したら、2・3分で削除された。以前にも、それと似たことがあったが、まさか検閲がなされているとは俄かに信じられなかった。しかし、今回いよいよそれが明らかになった。我が国に表現の自由が存在すると思う者は、よほどおめでたい御仁である。我々がすでにファシズムの暗黒時代にいることを認めざるを得ない。
  

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2015年04月15日

丸山眞男と大西巨人

間宮陽介氏の『丸山眞男を読む』を読んだ。以前にも一度読んだ気がするが、その時の印象はあまりなかった。読み直して、行き届いた良書という印象。批評的エッジという点では、梅本克己や鎌田哲哉氏の丸山論には及ばないかもしれないが、丸山の問題意識に即して、あくまでも内在的に丸山の所論を読み解く一貫性と包括性という点で、他の追従を許さないものではなかろうか?

今回は、特に丸山の名著『忠誠と反逆』をめぐって考えてみた。

丸山は、我が国の武士道を、ヨーロッパや中国の封建的イデオロギーとの対比において、主君に対する無条件の人格的帰依という主観的・非合理的要素が圧倒的であるとして、契約関係に基礎を置いたヨーロッパのそれとも、治国平天下の普遍的世界秩序のもとに、主従関係を体系的に位置付けた儒教的イデオロギーとも、違う特徴を持つものと見た。もとより、単なる主観的感情だけでは、己れを律する規範的イデオロギーとはならないが、儒教的規範を受け継ぎつつも、戦闘者としての戦国武士独自の人生観と人格的モラルを、我が国の武士道は付け加えたのである。

そこに諫争というものが生まれる。主君には無制限の非合理的人格的コミットメントを持つがゆえに、一身を投げ打っても主君を諌めるという私的コミットメントの極限に、逆説的に公的な意味が現れる。無制約の忠誠が、そのままで主君に言いなりにならない反逆的諫争に転化するのである。

このような封建的イデオロギーが衰退するにつれて、一方で公的なものが国家へと集中するが、他方では、私的なものは無規範的な恣意の欲望自然として放擲されてしまう。ヨーロッパにおいて、公的なものが国家へと外在化される一方、私的なものが宗教的内面性として鋭く問い返されるのとは対照的である。

そうなると、公は国家への、またはせいぜい己れが所属する集団への一体化であり、その時々の時流に乗った集団の意志によって、厳格な吟味も経ずに合わせていく便乗主義・順応主義しか残らない。時間を貫いて永続する規範的原理への意識が希薄な分、どこまでもずるずると横滑りしていても、自分としては時代に機敏にキャッチアップしているだけだ、と思い込むことができるわけである。

このような日本思想史の問題点は、繰り返し指摘されてきたところであろうが、『忠誠と反逆』の中には、それを内側から克服する契機が見出せない。思想史の本にそれを求めてもないものねだりかも知れないが、この点の欠如が、丸山眞男を「近代主義者」とするやや浅薄な誤解のもとになってきたことも見逃せない。つまり丸山は、日本思想史の中に「あるべき近代的主体性が欠如している」という主張をしていると見なすわけである。あるべき近代像に照らして、日本思想にその欠如を見る立場。

私は、そのような批判に組するものではない。むしろ丸山は、ありふれた欧化主義や近代主義の盲点をついて、我が国の近代化で失われた封建的規範の積極的側面に光を当てるのであり、その点で、『痩せ我慢の精神』や『丁丑公論』における福沢諭吉の立場に類比的なものである。

しかしそれでも、失われた封建道徳のノスタルジーに縋り付くことはできないように思われる。その意味では、丸山・福沢を読んで、我々が失ったものに注意することはできても、だからどうすればいいのかは見出せないのである。彼らが日本思想史の中に見出そうとしたその逆説的積極性を、どのような理路で現在へと還流させ、生かすことができるのだろうか?

私としては、以前大西巨人について論じたこと(『神学・政治論』所収)を、この問題の手掛かりにできると考えている。大西巨人の『神聖喜劇』は、従軍した兵士の視点から描かれた一種の戦争小説であるが、同じような戦争小説の白眉である大岡昇平の作品と対比してみると、その特徴が明らかになる。

『俘虜記』や『野火』において、大岡昇平は同じように兵士の観点から、克明に意識の反省をめぐらす。突然現れた敵兵に発砲しなかった自分の意識の動きや、人肉を食らう過酷な状況において、それを自分に抑制する場面など、鋭利な意識的反省がつづく。これは大岡氏が、戦争という極限状況において、自分が深く親しんできたフランス心理小説の技法を適用するものとなっている。

これに対して、大西氏の小説においては、主人公の思考が、意識の場で反省という形で展開されるのではない。そのような明晰な意識を超えて、無意識のうちに思考を動かしている要素に注目するのである。

たとえば、主人公東堂太郎は、戦争翼賛的なイデオロギーには全く反対であるにもかかわらず、聖戦賛美主義的で日本ローマン派的イデオロギーに立つ上官の村上少尉に対して、自分の心の奥底で強く惹かれるものを感じている。何が自分の心を動かしているのかを問い返す中で、東堂は、自分自身が生い育ってきた教養の中に、父から受けた武士道的精神やそれに類するテクストがあったこと、また自分自身でも日本ローマン派の安田与重郎のテクストにひかれる部分があったことなどを、次々に引用されるテクストの記憶とともに思い出すのだ。

それらのテクストを記憶の索引から引き出し、自分自身の状況に参照させることによって、あらためてそれを解読し直すという作業を繰り返すわけである。

ここから、安田与重郎のテクストが、実は執筆時期によって微妙な横滑りを起こしていることに気づくことになる。つまり、日華事変の勃発の前後で、単なる古の王朝の伝統への共感を強調する「理想主義的純粋性」から、「超国家主義的・聖戦賛美的政治色」への、時局におもねった順応主義的頽落を起こしているのである。

「東堂は村上への共鳴を通して、またそれゆえ安田への共感を通して、安田の言説の中に、共鳴し得るものと、し得ないものとの間の乖離を、意識せざるを得ないのである。」(p−293)

これが、単に狭義の文芸批評に限定された意味を持つわけではないことが重要である。

たしかに大西氏のテクストは、東堂太郎の記憶の在庫から次々に呼び起こされるテクストのおびただしい引用・列挙を含むという極めて特異な特徴を持つことで知られている。しかしこれは、単なる小説技法の新たな意匠の一つと受け取られてはならない。精神や理論さえも「さまざまなる意匠」の一つでしかないと論じた批評家もいたが、我々は逆に、一見技法のひとつでしかないものの中にも、根本的洞察を、理論的洞察を含んでいることを指摘すべきである。

なぜなら、これは我々の思考や意識が、基本的に象徴界(言語習得)という形で構造化されていることに関わっているからである。

これを踏まえるとき、丸山眞男の問題意識はどのように受け継がれるのか? 

丸山や福沢が、我が国の近代化における精神的弱点を気づいていたとしても、もしそれが、我が国にはヨーロッパにおけるような内面的なよりどころ(キリスト教)がなかった、近代的自我が不十分にしか根付かなかった、などと欠如態でしか表現されないとしたら、彼らの洞察を未来に繋ぐのは難しい。それは近代的精神とか、近代的自我を、何か完結したものとして描き出し、それが欠けているとしたら、それ以上どうするすべもなくなってしまうからである。

しかし、もし主体が象徴界というものによって構造化されていて、しかもそれがさながら地層のように、さまざまのテクストによって複雑に織り成されているものであるとしたら、我々は直接明晰な意識を手にしているわけではなく、それらの地層のしばしば不整合性を含んだテクスト群によって無意識を含む形で自己形成しているのであるから、主体は状況における自分の判断や態度の中に、自分自身では気づかない理由や力が働いていることを、自覚する手立てを持つことになろう。

近代的精神であれ、前近代的精神であれ、多少とも精神病理学的に成立しているものであり、「近代」という規範だけが特権的規範となるわけではない。その意味では、ヨーロッパも日本も、象徴界としては同じである。それを分析するときに参照するテクストの在庫が違うだけである。

また、我々が見失っている伝統も、意識に上らないだけで、しっかりと主体の在庫の中には保存されていることにもなろう。封建的イデオロギーも前近代的なテクストも、それぞれ主体の深層を形成しているわけだ。それらは、いはば過去の疫病に対する免疫抗体の痕跡として、DNAの中に保存されている遺伝子配列のように、我々の精神の在庫の中に潜在しているわけである。我々が状況に直面して訴えるものは、このような主体自身の象徴的秩序の織り成す地層の一部なのだ。

それらはしかし、完全に体系的でも整合的でもなく、断片的で不整合なまま併存している。つまり我々は、他者の意見を聞きかじったまま、受け売りしているにすぎないことが多い。このように出所も忘れられた不確かな言説が、無自覚的に層をなしているのである。

我々が思考するとは、半ば無意識的、半ば意識的に、これらの諸相を参照し、引き比べ、暫定的なまとまりを付けること、不整合性を除去する形で、とりあえずの解釈を付けることなどを意味するだろう。

東堂太郎の思考に見たように、我々は一方的にテクストを意味づける思考主体(ノエシス)であるわけではなく、我々の内や外のテクストを相互参照するとき、一方によって他方を意味づけ、また逆に他方から一方を解釈するようなことを繰り返すのである。つまり、村上少尉の態度の意味を、安田のテクストによって確かめるのみならず、安田のテクストの意味を、村上少尉への共感と反発という主体の内面によって、解明しもする。かかる相互参照こそ、実際の思考過程そのものなのである。

ここからあらためて重要になるのは、主体を、それとの出会いによって立ち上げる象徴界の持つ不完全性である。主体が象徴界と出会うとき、つまり幼児が両親の言語使用に出会うとき、両親の言葉遣いをそのまま模倣するだろう。それは両親の権威を認め、その考え(ならびに欲望)をそっくり取り込むことを意味する。

しかし主体は、結局両親のコピーに終わるわけではない。両親によって示された象徴界のはざまをぬって、自己自身の言語使用を立ち上げることになる。つまり彼らは欲望の自由な主体にならねばならない。おおよそ思春期に、そのような「自我の目覚め」が到来する。両親の言葉の模倣から、反抗を経ておのれの価値を確立すること。それは新たな権威への臣従として実現する。

このとき、主体は幼児期の象徴界との出会いを、あらためて反復することになる。典型的には、宗教的テクストの中に、主体は自己自身の姿を見出すのだ。これは、テクストが主体を呼び出すという経験として現れるだろう。

レヴィナスは、「主体」を、かかる呼び出しに対して応えつつ起ち上がった者と捉えた。レヴィナスから宗教的なものを脱色しようとする「哲学的」理解では、この理解がおぼつかないのである。

主体は、呼びかけに応じたとき、はじめて主体として実存するのだ。つまり、主体にとって、この経験はトラウマ的なものであり、今それを経験しつつあるものとして理解されることはない。むしろ、自分がその呼びかけを聴いてしまったということに気づくとき初めて、自分に呼びかけがなされていたということが、遡って理解されるのである。自分はいつからかずっと呼びかけられていたのだが、それに応答するとき初めて、そのことに気づかされるのである。こうして主体が起ち上がる。つまり自分がその呼びかけを聴き、理解してしまったことに気づく。主体はこの時生成するのであって、呼びかけを聴く以前にすでに存在しているのではない。主体は呼び掛けによって実存(ex-sistence)へと呼び出されるのだ。

このとき、象徴界の完全性(神)という幻想が不可避に生まれるが、実は、主体としての決起は、象徴界の不完全性と一体なのだ。なぜなら、もし本当に象徴界が完全であるなら、主体は呼び掛けられなかったろうし、主体がそれに応える必要もなかったろうからである。そして、象徴界が不完全であるからこそ、主体の自由の余地が存在するのだ。しかし、そこで何という重大な責任が、主体に課せられることになるであろうか!

呼びかけは急迫として、呼びかける。呼びかけに応じるとは、いつでもいいことではない。切迫として、急迫として、今まさに一刻の猶予もないものとして呼びかけられるのだ。なぜ、時間の切迫が存在するのか? 象徴界が不完全であるからである。神は急迫の中で、その窮状において呼びかけるのだ。

大西巨人氏の小説でのクライマックスとも言える箇所、東堂と冬木が、同僚の兵(末永)への理不尽な人権侵害に抗して、同時に声を上げる箇所で、事態は一刻の猶予もない急迫として現れる。彼らは前後の見境もなく、決起するのである(レヴィナス流に言うなら、神は末永の窮状を通して、主体に呼びかけている)。そこで初めて、主体が起ち現れるのだ。その意味では、主体とはトラウマ的なものである、とも言えよう。決起してみて初めて、主体は自己において何が起こっていたか意識するのだ。つまり実存へと呼び出されたことを意識するのだ。
 
  
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2015年04月06日

チェーホフ『三人姉妹』

『三人姉妹』を見た。

どうして、ああセリフを怒鳴るのか? 何とも大げさな身振り。よりにもよってチェーホフのセリフだ。

中年、初老をむかえ、希望も覇気もないチェーホフの人たち。現代の若者たちのように騒ぎまはり、わめき立てるだろうか? 酔っ払いのばか騒ぎの中にさえ、さんにたまったほこりのように、疲労が降り積もっているはずだ。

女たちのセリフ回しに、時間から生まれる残酷な変化が感じられない。若い女にとって、数年の年月はこの上なく貴重だ。それが空しく流れていく。その焦り、悔しさ、そしてやがて訪れる諦観。これらは一本調子の声で語られてはならない。初めの場面のイリーナと、結末でのイリーナとでは、同じような初々しさがあってはならない。花は散りかけている。同じく美しくはあっても、違う美しさ。

美しく、才能と演技力に定評のある女優をそろへながら、この演出(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)は一体何なのか?
  
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