2016年05月30日

「重版出来」

いつものように山形新聞への投稿であるが、今回は少々面白いことがあった。まずは投稿記事をあげておこう。

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「重版出来(じゅうはんしゅったい)」(松田奈緒子)

いま評判のテレビ・ドラマ。大手出版社の新人スタッフ役の黒木華氏の熱演が光る。もともとは松田奈緒子氏の名作漫画の表題だ。

著者の側から言えば、とにかく自作が出版にこぎつけることが大問題であるが、出版の側から見れば、出版した本の重版が問題。というのは、初版だけではそれを売り切ったところで、コストや手間を考えるとほとんど儲けにならないからである。しかし、初版を売り切れば自動的に「重版出来」となるわけではない。売れ行きの「勢い」こそが重要だ。さもなくば、重版しても在庫を重ねるだけでは元も子もない。

ドラマは出版不況が続く中で、企画・編集・営業と、いかに涙ぐましい努力をしているかを描き尽し、共感を呼ぶ。とりわけ身につまされるのは、独りよがりの作家に対して、編集が厳しい注文を出すところ。漫画界のように、独創的な才能がひしめいているところで生き残るほどの作家は、当然、圭角(けいかく)ある個性の持ち主だ。編集の注文を容易に聞き入れるわけもない。

しかし、才能ある個性に対してこそ、編集者の厳しい批判は不可欠なのだ。どんな葛藤を引き起こしても、それは必ず実りをもたらす。著者は常に褒め言葉に飢えていて、どんな空疎な賛辞にもしがみつくが、それ以外は受け付けようとしない。自惚れに満ちた強烈な思い込みが、いかなる批判にも耳を閉ざしているからである。

私もいくつか売れない本を出したことがあるが、売れないには、本人にはわからない相応の理由があるものだ。気取った文飾、こけおどしの晦渋(かいじゅう)さ、あらずもがなのナルシシズム…。編集者はすぐにそのような欠点を見抜く。作品に対する彼女の醒めた視線は、実際は著者の怒りを買ってまでも、育ての我が子を守り抜こうとする愛から来る。編集の言うままにすればいいとは限らないが、それでも厳しい指摘によって作品が改善されないことはまずない。
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実は、この文章は、一か所修正が要求されていた。「こけおどしの晦渋さ」の部分が、「こけおどしの難解さ」に書き換えてはどうかと、やんわりと編集者に提案されたのである。「晦渋さ」はやや晦渋すぎる、というのである。つまり、私の表現そのものが、すでにしてこけおどしの晦渋さだというわけだ。なかなか機知にとんだ編集者ではある。

もちろん私は型通り気分を害し、「晦渋」さえも通用しないのだとしたら、それは読者が悪いだろう…とか何とかブツブツつぶやいたものの、「こけおどしの晦渋」を押し通すほどの面の皮はさすがになかったので、苦々しい思いをかみ殺して、言われるままに従うことにした。はなはだ不愉快なような、愉快なような話ではある。

ところが、ゲラの段階で一転、「晦渋」で構わないということになった。編集の中にも「晦渋」を押す者がいたのかもしれない。それとも、「すべてお任せします」と言った私の言い方が、まるで開き直った啖呵のように聞こえてしまったのか、そこのところは不明である。

しかし、そうしてみると、今度は自分の言葉使いに、にわかに自信が持てなくなってきた。私の日本語が、どこもかしこもグラグラ・ガタガタ音を立てて揺らぎだした。こうなると、ちょうどこれまでなにげなく使っていた漢字が、突然相貌を変え、そんな字があったかどうかさえ確信が持てなくなってしまったような具合だ。すべての文字や言葉が溶けだして、普通であるものとそうでないもの、自然なものと不自然なものの区別もわからず、何とも情けないありさまである。編集者から「それほど自信があるなら、全部自分の思った通りに書けばいい」とばかり、放り出されてしまったようで、妙にさみしい気分でもある。編集さん、どうか私を見捨てないで!
  

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2016年05月25日

美学散歩(13)ジジェクの解釈

ここでついでに、ジジェクの解釈に沿ってラカンの「現実界」の多様な面について、私の理解の及ぶ範囲でメモしておくことにしよう。(ちなみにle symboliqueを「象徴界」と訳すからと言って、le reel を「現実界」と訳すのには抵抗がある)

ラカンもさることながら、ジジェクにおいてさえも、le reel 享楽などをめぐる部分は特に難解であるが、ジジェクの多くの著作のエッセンスを総攬するような本(『イデオロギーの崇高な対象』河出文庫)が翻訳されているので、このさい私がどこに疑問を感じてきたかを、この本に即して明らかにしておきたいと思う。
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2016年05月24日

美学散歩(12)『紅葉狩』補論

『紅葉狩』における第二の変身、上臈の鬼への変身は、何を意味するのであろうか? ここには、精神分析学的に考えると、「死の欲動」「現実的なもの」(le reel)「享楽jouissance」などの諸概念でとらえられるべき典型事例がある。

非常に簡略化すれば、主体が言語を習得し、象徴界に参入してから顧みれば、この出来事(主体の生成)はそれ自体語りえず、考えることも記憶することもできない(なぜなら、そうすることのできる主体がまだ存在しないから)トラウマ的出来事であるが、それを神話として何とかつじつまを合わせようとする。それが例えばエディプスの物語である。

母子一体関係にあった鏡像段階は、失われた何ものかとしてのみ神話化され、エデンの楽園の如きものになる。そのイメージは、『源氏物語』における光源氏にとっての藤壺のように、桐壺の更衣の代替物として、その実際の実在そのものを超えた、いわく言いがたい魅力を備えるもの(これを対象aという)として主体の欲望の「原因」となる。

この欲望の「原因」とは、誤解を招く言い方である。プルーストの小説の中で、ジルベルトの黒い瞳に魅せられた主人公は、それを青い瞳と思い込んでおり、いつも青い瞳のジルベルトを思い出そうとする。

そののち長い間、彼女を思い浮かべるたびに、その眼の光の回想が、彼女はブロンドなのだから、目は鮮やかな空色だ、という風に直ちに私の頭に浮かんでくるのであって、したがっておそらく、もし彼女があれほど黒い眼をしていなかったら…私は彼女の中で、特にその青い目に、あんなに恋い焦がれはしなかったろう。「スワン家の方へ」

ここで、青い瞳は主体の欲望の対象、黒い瞳はその原因となってはいないだろうか? 欲望の対象は、必ずしもその原因ではない。この点で、私は「欲望の対象=原因」というラカンの言い回しに悩まされてきた。
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Posted by easter1916 at 03:36Comments(0)TrackBack(0)

2016年05月23日

列聖

山路を往くと、そこにはまだ鶯が鳴いている。山の鶯はまだ啼き方がへたで、ホーホケキョのホーの部分をたっぷりためて歌うことができない。

そこで、私が啼き方を伝授してやることにした。へたな者どうしで競争していては、この程度でも恋人が得られるものと、高をくくってしまうからである。

はたして私が歌ってやると、しばらくうっとりと私の啼き方を聴いていたかと思うと、やがて次々に鳴き交わして近寄ってくる。近くに侮りがたいライヴァルが出現したと思うのであろう。明らかに複数の声で方々から啼くのが聞こえてくる。よく聴くと、声のピッチも違えば、歌い方のクセも違っているが、どの鶯もおしなべて下手である。

上手な鳥だと、ホーォホケッキョのように歌うものだ。このホーォの部分が特に重要で、ホーと少しピッチを上げた後、ォの部分で心もち抑え気味にする。そして、ためにためておいた力を一挙に吐き出すかのように、巻き舌を使ってケッキョをすばやく転がすのだ。そうすると、女心はいちころである。

そうして5〜6分も口笛で模範演奏を聴かせてやっていると、比較的器用なひとたちは、以前より格段に上達したようである。もちろんまだ師の演奏に遠く及ばないのは致し方ない。

かつて、アッシジの聖フランチェスコは、小鳥たちに福音を説き聞かせたといわれているが、私の場合も、鶯に鳴き方を教えたという点が評価されて、列聖の参考にされないとも限らないと心配している。まあ、いずれにせよ百年以上後のことだろう。

もちろん私は、列聖してもらいたいわけではない。考えてみれば、カトリック教徒ですらないのだから、列聖される心配は、まずないのである。ただ、私が教えた鳥たちが、口伝えで他の鳥たちに私の歌を伝承し、蓼科山のほとんどすべての鶯が、私の孫弟子、ひ孫弟子になることを思うと、愉快である。
  
Posted by easter1916 at 22:27Comments(0)TrackBack(0)