2017年06月21日

パレーシア

街に出ると、至る所でゴキブリのやうな連中が聞くに堪へぬやうなことをわめいてゐたので、そんな連中にあふごとに「××党の大嘘つき!」と叫んでやった。いちゃもんをつけようとにらみつけるガラの悪いやつもゐるが、それでも「うそつき、うそつき!」と連呼してやると、さすがに付きまとってはこない。

私のやうに一人ぽっちのパレーシアを発揮する人々が千人もゐれば、千人の街頭デモをするよりもずっと効果的だらう。今こそ、天誅のチャンスである。


国会では、国民の代表の発言に対して閣僚席から平気でヤジを投げつけながら、警察権力(「防衛省、自衛隊、防衛相としても」?)をちらつかせて、公道での市民の発言を公然と抑圧しようとする政治家! お前はいったい何様だ?! Wir sind das Volk.

パレーシア(権力者に向かってあけすけに言葉を投げつけること)こそは、ギリシア以来、民主主義の基礎の基礎である。(ちなみに、ソクラテスの一連の活動はパレーシアではないので念のため)

パレーシアを「真理を語ること」と翻訳するのは適切とは言えない。真実を暴露する言葉という点が重要なのであり、「アベやめろ」の秋葉原での大合唱は、「真理を語ること」ではなかったが、アベの体質を公然のもとに引きずり出し、真理を暴露したという点では、まさしくパレーシアの典型であったと言えるのである。同様に、『坊っちゃん』の鉄拳制裁は、赤シャツの真理を暴露したという点でパレーシアであった。
  

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2017年06月07日

文脈

堂島サロンというところで話をする機会があった。そこでは、大学の役割ということで話することが求められたのであるが、私の論旨は、大学の文学部(人文学部)ないしは教養学部に期待されているものは、情報や理論と区別されて、「文脈」の教養といえるものではないか、ということであった。12世紀のヨーロッパの発生の時から、大学は文脈というものを教え続けてきたのではないか?

そのさい取り上げたエピソードの一つについてやや詳しく論じてみよう。それは、ディオゲネスをめぐる有名なエピソードである。

アレクサンダー大王は有名な哲学者がいると聞いてディオゲネスのもとにやってきた。ディオゲネスは、例のごとく樽の中に住みながら日向ぼっこをしていたとされている。

大王は彼に、何か欲しいものはないか?と訊いて、鷹揚なところを見せようとした。アテナイを占領してみても、その精神までは征服できていないと感じていたからである。

他方、ディオゲネスにとって、それに答えるのは難しかった。

大王に向かって何か欲しいものをねだるなど、もっての外であったろう。それによって身も心も大王に屈することになるからである。

かと言って、征服者に対する反抗の困難ということはさておくとしても、「何も欲しくない」といった類の答えは、すでに大王の質問の文脈に規定されており、「強がり」にすぎないもの、本当は、例えばアテナイの独立を望んでいるのに、そのことを口に出せない臆病者、という意味を帯びてしまうだろう。

大王の質問は、たとえ無邪気なものに見えたとしても、権力を手にした者が、会話の文脈をまず支配し得るということを心得た、いかにも支配者然としたものであった。それをそのまま理解したとしたら、それに抵抗することは難しい。それが文脈を支配するということである。

ディオゲネスは、「そこをどいてほしい、日陰になっているから」とだけ答えた。

ひょっとしたら、この答えの中に、マケドニアの軍隊のアテナイからの退去の要求を忍び込ませようとしたのであろうか?

ディオゲネスは、そんな要求が決して大王から受け入れられないことは知っていた。そんな要求は軍人の仕事であり、すでにその決着は戦場でついていたはずである。だからこそ大王は、鷹揚な態度を見せつけることができたのである。

ディオゲネスは、そのことを十分に意識していたであろう。そのうえで、王の質問の意味を自分なりの文脈で理解するふりをして見せることによって、自由な精神を示したのである。これは、一応は相手の発言を文字通りに受け取ったうえで、その意味と狙いを覆してみせるという点で、ソクラテスの場合と同様、イロニカルなものであった。大王の真意を知らないふり(すっとぼけ=エイロネイア)をすることで、文脈の付け替えを行ったのだ。

もし「そこをどいてくれ」という要求が、アテナイからのマケドニア軍の撤去を比喩的に意味していたのだとしたら、大王の方が、それをすっとぼけて別の文脈で(文字通りの意味で)理解したふりをすることによって、ディオゲネスの命を救ってやったことになる。

いずれにせよ、このときディオゲネスは、もちろん周りを取り囲む大勢の人々の注視を、意識していたであろう。公衆の面前で、文脈を取り換える戦略が発揮する政治的意味は、彼にとっては明白であった。

そこに、軍事的に追い詰められたアテナイの自由の最後の残光が賭けられていたからである。

はたせるかな、やがてアテナイが滅び、アレクサンドロスの大帝国が夢の彼方に消え去っても、かの出来事はそのときそれを注視していたマケドニアの将兵たちや多くのアテナイ市民の伝承を通じて、アネクドートとして後世まで語り継がれ、我々にまで及んでいる。文脈の教養が自由の条件であることを確かに示しながら。
  
Posted by easter1916 at 01:28Comments(0)TrackBack(0)