2019年03月07日

大澤氏の自由論(2)

大澤氏は、江夏豊投手と落合選手の対話からきわめて興味深い洞察を切り出している。江夏投手は、麻雀の席で落合選手が投手の在り得る投球すべてに対して、周到に備えて球を待つ落合の態度では、江夏のような天才の球を打つことはできないと言うのである。「どうしてお前は『この一球』を待てないのか?」と江夏は語ったと言うのである(p−203)。

打者は、さまざまな球種に備えようとすると自然に、かえって、それまでの投球内容から次の球として最も確率的に高いと判断される球種を待つ態勢を作ってしまう。この確率についての判断は、実際の配球によって変わるので、打者の態勢にも少しづつ変化が見られる。この変化から、投手は、打者が何を待っているかがわかってしまうというのだ。だが、「この一球」を待つことができる打者には、こうした「迷い」からくる態勢の変化が現れないので、どのコースのどんな球種を待っているかを見抜くことができないというのだ。(p−205)

これは実に興味深い考察である。投手も打者も、相手の行動を観察して、何を次にしようとしているかを推測せねばならない。投手が投げなければ勝負は始まらないのであるから、勝負の主導権は投手にある。

しかし、投手がいったん球を手から離せば、それ以後コントロールできないのであるから、打者の方が一瞬後に対応できることになる。つまり、ほんのわずか打者が後出しじゃんけんをしていることになる。

ところが、この一瞬の後出しこそが打者の罠なのだ。打者は、その優位を利用しようとするあまり、球を一つに絞りきることができない。この迷いが投手に読まれてしまう。それを避け、少なくとも投手と対等の立場に立とうとするなら、打者は一球に絞ってそれに賭けなければならない。これが江夏投手の教訓だ。

ところが、大澤氏はこの話を劇的に誇大なものにする。江夏の言う「この一球」を単なるパタンではなく、直知の対象とするのだ。直知(acquaintance)とは、顔見知りの顔のように、一目見ればそれとわかるような、概念に依存しない知識のことである。それは対象が実在して、そこから豊かに情報を得られるような場合に成り立つ関係であるから、いまだ到来していない投球を「この一球」として直知することは本来できない。

「この一球」と指し示すことができる、単一(シンギュラ)の球を待つ――待ち続ける――ことができる者のみが、江夏のような傑出した投手の球を打つことができるのだ。(p−203)

ここでは、いまだ到来していない(それゆえ待ち続けられる)この一球がシンギュラなものとして指し示すことができる、という不思議な関係にあることが強調されている。いまだ実在していないものに対してアクウェインタンスを持つという観念の奇妙さに大澤氏は十分に気付いたうえで、このような表現をしているのである。

確かに、他の類似物ではなく、ただそれをのみ待ち続けていたのだと思わせるものの到来を、我々はまれに経験するようなことがある。『ラ・トラヴィアータ』の第一幕でヴィオレッタが歌う絶唱「ああそは彼の人か」ah,forc'e lui che l’ animaは、ヴィオレッタが長いこと夢見ていた人が、実際に目の前に現れた驚きを歌っている。アルフレードは、この時まさに江夏のこの一球のように、ヴィオレッタの前に現れたのではないだろうか? それは、この人との出会いがまさに運命であったと感じる瞬間である。この出会いの偶然を運命にするものが、大澤氏の「第三者の審級」である。

直接の直知の担い手は、実は、「私」ではないのだ。蓋然性を直知しているものは、まずは「他者」なのである。厳密にいえば、それは、私の自由に可能条件を与えるような、超越論的な「他者」――第三者の審級――である。それゆえ、蓋然性の直知とは、そうした蓋然的事態を直知している第三者の審級を想定することができる、ということなのだ。(p−206)

ブラヴィッシモ! 大澤氏も、このくだりを書いているときには、さすがに「してやったり!」と感じていたことであろう。

それでも私の散文的な(凡庸なといってもよい)理性は、「ちょっと待て」と言わずにはいられないのである。それらすべては、美しい幻想ではないのか? ヴィオレッタはただありふれた乙女らしい類型的な夢を見ていただけなのであり、それにかなう理想的な青年が目の前に現れた時、「この人こそ、私が夢見ていたシンギュラなその人である」と錯覚しただけではないのか? 江夏の教えを受けた落合は、それ以後ただヤマを張るようになっただけではないのか? 東郷元帥がバルチック艦隊の進路を対馬海峡と読んだ時、運命を直知したと感じる(信じる)必要があっただろうか? それらすべては、事後的合理化ではないのか?

大澤氏が来るべき未来に「第三者の審級」になりうる他者を設定するときにも(p−524)、同じようなことがより際立って現れる。未来はいまだ実在していないのであるから、アクウェインタンスの対象にはなり得ず、ただ確定記述によって描写されるだけである。シンギュラなものとして指示できるものではない。それは想像によって自由気ままに設定できるものであり、決して象徴界を担えるようなものではありえない。

大澤氏も「いまだに存在していないものの存在の、この先取り的な想定」(p−524)が「抽象的な不定の〈他者〉のこと」(p−525)であると認めている。つまりシンギュラな指示ではないのだ! そのうえで、「ともあれ、こうした恋人たちと同様に、我々の任意の営みは、これを対象化し――つまり未来の時点から反省的に捉え――、我々の営みから快楽を得ることになる、未来の〈他者〉を措定することができる。〈自由〉とは、この未来の〈他者〉を措定することの能動性=選択性である。」(p−525)と述べる。

この〈他者〉は、「対象化し」「反省的に捉え」ると言うのであるから、少なくともアクウェインタンスの対象ではないだろう。

これに見る限り、大山鳴動して鼠一匹という印象をぬぐい得ない。このような〈他者〉はせいぜい想像の産物にすぎず、それが想定する自由とは、若いカップルがまだ生まれもしていない子供たちの将来を語るようなものである。第三者の審級はどこに行ったのだろうか? どこに運命があるのか? どこに自由があるのか?
  

Posted by easter1916 at 03:22Comments(0)

2019年03月06日

大澤真幸氏の『〈自由〉の条件』(1)

大澤氏の同書を拝読して、あらためてその光彩陸離たる健筆ぶりに刺激を受けた。これほど多くの専門分野を領域越境的に横断して、しかも的を外さない書き手はほとんど現代のわが国にはいないのではないだろうか? であるからして、叙述に多少の瑕瑾があったとしても、それを意地悪くあげつらうようなことは避けた方がよかろう。むしろその勇気をたたえるべきなのである。
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Posted by easter1916 at 04:42Comments(0)