2020年07月
2020年07月21日
『おしん』
山形新聞への投稿。今回は、山形ゆかりのテレビドラマ『おしん』。
「教師は、何を、どのように教えるかを厳密に指示されてきた。…しかしながら、この多くの不利な条件にもかかわらず、少なからぬ教師たちがその授業に驚異的と言えるほどの柔軟性をもたせることができた。…これらの開拓者たちに栄誉あれ!」 (アメリカ教育使節団報告書)
かつて絶大な人気をさらったテレビドラマ「おしん」の中で、最も印象的なシーンの一つは、貧しい小作の娘が初等教育に強烈な情熱を示すところ。すでに義務教育はあったはずだが、農村部では建前にとどまっていたらしい。おしんは小学校へ上げてもらえず奉公に出る。
小作は地主に地代を物納するため、市場と貨幣収入から隔てられている。そのため、わずかな収入といえども、それを何に投資するかを自分で考える機会がない。だから教育など無駄なものと見なされたのである。家政のやりくりや将来設計のために必要なのは、現金収入と初等教育だ。それらがいかに個人の向上心を刺激し、自由と自立に動機とチャンスを与えるか、ドラマは活写して余すところがない。
教師たちは、戦前の硬直した教育システムの中でも、子供の情熱と可能性に応えるため苦闘を続けていた。戦後日本の教育事情をつぶさに視察し、新しい指針を勧告したアメリカ使節団は、我が国の教育権力の形式主義・権威主義を厳しく批判しつつも、現場の教師の努力を的確に捉えていた。
この報告書は、戦争の勝者として上から理念を押し付けようとするものではない。むしろ意外なくらい謙虚に、我が国の教育現場に寄り添おうとしている。彼らが夢見た戦後改革の多くが次々に骨抜きにされ、自由の理念が蔑ろにされていく中で、今なおどの部分が、教育現場で生きて受け継がれているであろうか?
「教師は、何を、どのように教えるかを厳密に指示されてきた。…しかしながら、この多くの不利な条件にもかかわらず、少なからぬ教師たちがその授業に驚異的と言えるほどの柔軟性をもたせることができた。…これらの開拓者たちに栄誉あれ!」 (アメリカ教育使節団報告書)
かつて絶大な人気をさらったテレビドラマ「おしん」の中で、最も印象的なシーンの一つは、貧しい小作の娘が初等教育に強烈な情熱を示すところ。すでに義務教育はあったはずだが、農村部では建前にとどまっていたらしい。おしんは小学校へ上げてもらえず奉公に出る。
小作は地主に地代を物納するため、市場と貨幣収入から隔てられている。そのため、わずかな収入といえども、それを何に投資するかを自分で考える機会がない。だから教育など無駄なものと見なされたのである。家政のやりくりや将来設計のために必要なのは、現金収入と初等教育だ。それらがいかに個人の向上心を刺激し、自由と自立に動機とチャンスを与えるか、ドラマは活写して余すところがない。
教師たちは、戦前の硬直した教育システムの中でも、子供の情熱と可能性に応えるため苦闘を続けていた。戦後日本の教育事情をつぶさに視察し、新しい指針を勧告したアメリカ使節団は、我が国の教育権力の形式主義・権威主義を厳しく批判しつつも、現場の教師の努力を的確に捉えていた。
この報告書は、戦争の勝者として上から理念を押し付けようとするものではない。むしろ意外なくらい謙虚に、我が国の教育現場に寄り添おうとしている。彼らが夢見た戦後改革の多くが次々に骨抜きにされ、自由の理念が蔑ろにされていく中で、今なおどの部分が、教育現場で生きて受け継がれているであろうか?
2020年07月17日
クリプキ再論――誤同定による誤りから免れていること
クリプキのパラドクスについて、概念的思考(悟性)と直観(感性)とを区別したカント的な立場での解決を模索してみた。ポイントは、概念の適用条件を知るために、「ここ」と「今」という直観的概念に依存せざるを得ないが、それらの理解は通常の概念と違って、言葉の適用条件の習得に基づくものではない、という事である。続きを読む
2020年07月08日
朝鮮学校への支援
朝鮮学校の子供たちの教育支援のため、ささやかな寄付をした。ショーヴィニスト政権の下で、補助金が打ち切られているからである。
彼らの祖国が、我々の安全にとって脅威や損害を与えているとしても、そのことは、我々の隣人の子供たちの教育を受ける権利が奪われてよい理由には少しもならない。また、彼らの受ける「民族教育」のある部分に批判的な人もいるかもしれないが、我々の友好的批判が少しでも 聴き届けられるのは、彼らの教育に対して我々が十分な支援と貢献をしている場合だけであろう。
私の立場を見て、政治的リアリズムの欠如とか融和主義と即断する向きもあろうから、「拉致問題」について表明した私のリアリズムについて、再度参照を乞いたい(2011年12月9日「脱北者」、2005年6月24日「スピノザ的政治」)。私は、スターリン主義者と対決する必要が時にあることを否定しない。ただ、その場合も、スターリン主義自体の中にも、敵対性の亀裂が無数に走っていることを無視してはならず、それを活用しなければならないというだけである。
賛同をいただける方たちのために、リンクを添付しておく。
https://mushoka2020.blogspot.com/2020/07/blog-post.html
彼らの祖国が、我々の安全にとって脅威や損害を与えているとしても、そのことは、我々の隣人の子供たちの教育を受ける権利が奪われてよい理由には少しもならない。また、彼らの受ける「民族教育」のある部分に批判的な人もいるかもしれないが、我々の友好的批判が少しでも 聴き届けられるのは、彼らの教育に対して我々が十分な支援と貢献をしている場合だけであろう。
私の立場を見て、政治的リアリズムの欠如とか融和主義と即断する向きもあろうから、「拉致問題」について表明した私のリアリズムについて、再度参照を乞いたい(2011年12月9日「脱北者」、2005年6月24日「スピノザ的政治」)。私は、スターリン主義者と対決する必要が時にあることを否定しない。ただ、その場合も、スターリン主義自体の中にも、敵対性の亀裂が無数に走っていることを無視してはならず、それを活用しなければならないというだけである。
賛同をいただける方たちのために、リンクを添付しておく。
https://mushoka2020.blogspot.com/2020/07/blog-post.html