東アジア共同体構想
東アジア共同体論には、いろんなヴァージョンがあり、論拠もさまざまであるが、ここでは普通あまり考慮されない安全保障という観点から考えてみたい。
私の前提とする認識は、アメリカの相対的地位が、1950年代60年代と比べて、著しく低下している事、そのためアメリカは一国で世界秩序を維持したり、それを指導したりする事が難しくなっている事、またアメリカ自身がそれを意識し、国際秩序維持の負担を他国にも部分的に肩代わりしてもらいつつも、なお自国のイニシアティヴをできる限り確保しようと努めていること、その結果アメリカの世界戦略が一国主義化しつつあり、自国の利害に他国をつき合わせる度合いが増している事、などである。私は専門化ではないので、定量的なデータを示す事はできないが、以上の判断は多くの人が共有している事と考えている。
アメリカが50年代60年代にもっていた良くも悪くも理想主義的な政策(自由貿易や近代化や開発など)は、今では後退し、地球温暖化問題や核軍縮問題など国際協調に逆行する動きが多く見られる。これはアメリカが世界の秩序を指導する責任を維持できにくくなりつつある証拠である。世界各地でアメリカの力が後退しつつあるとき、これまでアメリカが担ってきた秩序維持の努力を他の諸国が共同で担う必要が増している事、またそれをアメリカ自身が求めている事は疑いないところであろう。ちょうど、中華帝国の秩序が東アジアで後退しつつあったアヘン戦争以後の状況に似たような事が進行していると考えてよいだろう。権力の空白が生じないように、適切な移行処置を取る必要があるのである。当然のことながら、アメリカは、国際的責任は放棄しながらも、既得権益はできるだけ手放そうとはしない。そこに問題が生じるわけである。つまり、アメリカに従っていくことは、これまでのようにある程度普遍的国際秩序を作り上げる事に協力し貢献するという意味合いを喪失し、むしろアメリカの私的利益に振り回されるという意味合いを濃くしつつあるといわざるを得ないのである。このたびのイラク戦争には、この点が際立って現れた。かつてのヴェトナム戦争の場合にあった民主主義・自由主義のとりでを守るという(結局は幻想だった)大義すらもなく、アメリカはこの戦争の大義を同盟国に対して説得する自信さえ失ったまま、戦争に突入した。国連安保理決議を取りまとめる事を断念したとき、戦争のための最小限の公共性さえ断念したのである。軍事力においてはなお絶対的優勢であったものの、国際社会における威信はヴェトナム戦争当時に比べて著しく低下している事が裏付けられたのである。このような中にあって、日本がアメリカを支持し続ける事は、公共的価値のためというよりは、アメリカが獲得するかもしれない私的利益の一部のおこぼれにありつけるかもしれないといった思惑しかないのである。これは、もし軍事的成功が得られない事が明らかになった場合、きわめてリスクの大きい選択となるであろう。このように、アメリカの一国主義が高まる中では、これまでのようなアメリカ追従政策は、安全パイどころではなくなりつつあるといえよう。たとえば、イラク戦争のようなことが朝鮮半島で起こる場合、アメリカが対中国政策上の考慮から、単独で朝鮮先制攻撃を仕掛ける可能性はゼロではないが、これは韓国や日本にとって極めてありがたくないオプションであろう。
さて極東では、アメリカ軍のプレゼンスは確実に低下してゆくであろう。他方、中国の軍事的経済的比重は大きくなっていく。秩序のバランスが変わるとき、偶発的危険が高まるのは当然である。それを避け、あるいは最小限に抑える事が、政治的英知であろう。そこで極東の安全保障の基本枠組みを組み立てなおす事が必要となる。これは一部、アメリカ自身が行おうとしている事でもあるが、我々はそれをただ受容するのではなく、積極的に提案してゆかねばならない。なぜなら、アメリカの提案は当然必ずしも我々の利益になるものばかりとは限らないからである。(たとえば沖縄基地の位置づけなど)
目指すべき方向は、これまでの二国間安全保障を多国間安全保障へと緩やかにシフトさせる事であろう。二国間安保の場合だと、アメリカの圧倒的軍事力のもとでは、結局アメリカの世界戦略に組み込まれた従属的な役割しか与えられない。これは自国の軍隊が事実上アメリカ軍としてしか機能しないということである。おそらく今は、極東の基本的な軍事情報すら、日本には供与されていないものがあるだろう。韓国の立場も同様である。これをNATOのような多国間安保に組み替える事によって、我々の外交的オプションは格段に増えるだろう。たとえば沖縄の軍事基地の使用について、我々の関与の余地が生まれるなど。(なぜなら、これまでそれを使用する事ができなかった韓国や中国が一定の条件で使用する事ができるようになるとすれば、彼らが基地使用上の我々のイニシアティヴを承認する事は、当然期待できるからである。)ただし、極東におけるアメリカの関与を排除するような事は現実的ではないだろうし、望ましい事でもないだろう。
アジア共同体の試みに対しては、アメリカは当面歓迎しないだろうが、アメリカの相対的地位の後退という現実を前にすれば、必ずしも絶対に拒絶されるとは限らない。北朝鮮問題や中台緊張、中国の軍事的膨張など、この地域の緊張の潜在的可能性は残っており、アメリカもそれをマネジする枠組みの必要を感じているからである。(実際、朝鮮の核問題には、アメリカの手詰まり状態が顕著である。)
北朝鮮は、自らの体制の維持のためには、東西冷戦的な対立軸が残り続けている事が不可欠であると考えており、それは彼らが六カ国協議には乗り気ではなく、何かといえば米朝二国間協議を望んでいる点にも現れている。しかし冷戦体制で利益を得るのは、アメリカも同様である。朝鮮の軍事的脅威がこの地域におけるアメリカのプレゼンスを要請し続ける限り、アメリカは日本や韓国に対して外交的支配力を維持し続ける事ができるからである。かくて米朝二国は、奇妙に支えあう関係にあり、それらはともに極東新秩序、東アジア共同体などにリラクタントになる根拠である。
中国はこれまで、身近に「突破者」的な朝鮮を持っていることで、(手を焼くふりをしつつ)たくみにそれを外交的交渉のカードにしてきた。国内の人権問題への国際的批判を押さえ込む点でも、朝鮮の存在は利用し甲斐があっただろう。しかし、しだいにその存在は中国自身にとってのお荷物になりつつある。押さえの利かないやくざをちらつかせて脅迫するようなやり方は、長期的に見ればリスクが大きすぎるためだろう。したがって中国も、新しい戦略へと舵を切らねばならない。中国はすでに東アジアの経済的覇権国家に名乗りを上げているが、それを国際秩序の中に組み入れる事には十分には成功していない。また日本やアメリカの協力抜きでは、それは長期的には成功しないだろう。ひとつには、彼らの支配秩序が人権や法治国家のヨーロッパ的伝統にうまくなじんでいない事、また第二に、彼ら自身中華帝国以来、外交的に国際秩序を維持していく考え方を取りにくく(一種の中華思想の伝統)、したがってこれから単独で国際秩序の中で生きる場合、軋轢を生じさせる可能性が高いからである。巨大化した中国が、欧米的秩序と媒介なく衝突するというのは、避けるべきシナリオであろう。中国は今のままでは、国際的普遍秩序を提案する事はできない。いかに彼らが力を蓄えても、欧米も我々も、人権尊重なき秩序は受け入れられないだろうからである。
だからこそ我々は、ますます強大化する中国を東アジアの多国間安保の枠組みの中へと受け入れ、この地域の軍縮と安定を作り出す必要があるのである。それは、一方ではアメリカの覇権を押さえ込むために必要な枠組みという事で、中国にも受け入れやすい提案であろうし、他方で、中国の無制限の軍事的増大を抑えたいアメリカやアジア周辺諸国にとっても歓迎される提案となる可能性がある。このような集団的安保のテーブルは、偶発的有事の際の情報交換として、また相互監視を通じて核管理や軍縮のための基本枠組みとして、安定化に寄与するだろう。平和と安定が保証されれば、この地域の経済的結びつきはさらに飛躍的に強化されるに違いない。文化的多様性や儒教文化の共通性には、たいして気を使う必要はないのである。
政治にとっては、タイミングが重要である。中国が日本との連携をあきらめて単独で中華的秩序をアジアに構築しようと考える前に、我々が彼らと連携する魅力ある提案をする必要があるのだ。
Posted by easter1916 at 02:18│
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田島先輩!おひさしぶりです。
こんなところ(ネット上)で、先輩と久闊を叙すことができるとは思いませんでした。
思えば最後にお会いしたのは法文一号館のトイレでしたね。
「あ、タジマさん。おひさしぶりです!」と声をかけたんですけど、先輩は「あ、元気にしてる?」と笑顔のままのんびり放尿されておりました(ちゃんとアイデンティファイしてくれてたのか心配です)。
あのときのウチダです。日比谷の後輩で、駒場の歴研にいた。
カーの『歴史とは何か』の読書会で「あのー、先輩、ザハリヒカイトって何ですか?」と訊いて、冷たい目で見られた。
ご高覧恐縮です。
内田さんの御著作はほとんど拝読してをります。とりわけ『レヴィナスと愛の現象学』では、初めてヨブ記の納得できる解釈を教へられました。
また最近では、ブログ文体と言へるやうな文体をあみ出され、新しい文学ジャンルを確立されたと言って過言ではないでせう。自分でブログを始めてみて気づくのは、このメディアでは読者との距離のとり方がむづかしいこと。叙事詩が始まった時には叙事詩の文体が生まれたやうに、新しいメディアが生まれるときには、新しい文学形式と文体が同時に生まれるものなのでせう。
私のやうに旧弊なものは、内田さんのやうな軽妙な論じ方ができず、なにやらいかにも大時代的で風情のない文章になりがちです。未だに、何とかして人を説得(オルグ?)しようといった野暮な野心が抜けきらないせゐでせうか?
いつぞやも、「毎日」のY氏と「内田さんの芸」について話題になりました。これからもその芸風でタフな論陣をお張りくださいますよう、期待してをります。
田島様の主だったブログ記事にウェブログ図書館( http://library.jienology.com/ )からリンクを張りました。今後も田島様ならではの専門性の高い記事をご期待もうしあげます。
コメントへのご返事ありがとうございました。
偶然、さきほどまで一緒だった旧友の平川克美くんが田島先輩の「スピノザ的政治」を絶賛していました。
その平川くんに「田島さんてどんな人なの?」と訊かれたので、強面の柔道部の主将でバイオリンを弾いていて革命的左翼でばりばりの哲学派だった人・・・と説明するとなんだか不得要領な顔をしておりました。
武道をやって音楽をやって革命的左翼になると哲学もわかるようになるのかしら・・・と少年の日の私が勘違いしたのは田島先輩の影響だったということに今頃になって気がつきました。