『女王の教室』について
秋口から引いた風邪をいよいよこじらせて、ついに冬休みに入ると寝込んでしまった。
呆けたようにテレヴィの番組を見ながら次々に不愉快な気分に襲われても、スイッチを切る決断も億劫で、嫌悪感と怒りからますます不快になるばかりだ。
なかでも耐え難いばかりに不愉快な番組はといえば、顔のやけに大きな女性占い師がしゃしゃり出てきて、新年の予言をいろいろとのたまふ番組である。このような番組のもたらす白痴化的影響は、エロ・グロ猥褻番組とか残酷・暴力番組の比ではない。その俗悪趣味で悪名高きかの紅白歌合戦ですら、これと比べればまだましであろう(もっとも、うちのテレヴィではNHKは映らないように「改造」されているので、実際にはどうだかわからない)。
占い師の態度が吐き気を催すほど厚かましく、下品であるというばかりではない。また、そのメッセージが、無邪気なものとは程遠く、反動的な偏見や偏狭な差別を垂れ流すものであるというだけでもない。
どんな偏見に満ちた愚劣な意見でも、占いの結果でしかないものに、人はまともな反論は出来ない。だから占い師は、何の根拠も示すことなく、かつ何の反論にも答える必要なく、自らの愚劣な意見を垂れ流す事ができるのである。
もちろん、そんなものをまじめに相手にするのが馬鹿らしい事は、誰にもわかっている。(少なくとも、わかっているつもりでいる。)テレヴィ・スタジオに雁首を並べて、もったいぶって占い師の御託宣にうなづいていたテレヴィ・タレントとかテレヴィの太鼓持ちたちにしても、この女占い師をまじめに信じているものはいまい。
だが、そのことを持って人畜無害とする事は決して出来ない。むしろ、このような何の根拠も示すことなく、また説明責任をも問われる事なき発言が、公然と許されるということそのものが、言論の荒廃と精神のシニシズムを瀰漫させてゆくのである。(小泉純一郎氏の発言が、そのような言論の精神の壊乱によって可能になっている事を見る事はたやすい。)このような番組こそ、所詮何を言っても無駄、逆に何を言ってもいい、何を言ったって、大声でインパクトさえ与えればその責任を取る必要などない、といったたがの外れた社会の瘴気を蔓延させていくのだ。(実際、この座の中にいた幇間たちの名は、覚えておくに値する。古舘市郎氏、和田あき子氏、伊集院光氏…その他の諸氏、これらの人たちは、これまでも大抵そうであったが、今後、テレヴィであれ、その他のメディアであれ、何をしゃべろうが、一切信用できない連中である)
もう一つ気になった番組――『女王の教室』。
この番組も、見ていてなんとも不愉快なものであったが、こちらは、女占い師の馬鹿番組と同列に論じる事はできない。天海祐希氏以下、俳優たちの熱演は並以上のものであり、スタッフの仕事ぶりにも、緻密な熱意が感じられるものであった。これが、それなりに視聴者にインパクトを与えたのも十分にうなづける。
しかし、この番組が与える不快感は、占い師の番組と似たところがある。それは、両者とも、根拠の薄弱な権威者の一方的な主張に、全面的に服従したいという欲望を、視聴者の中に喚起するという事である。あの女占い師の人気は、おそらくその尊大さにこそ有るのだろう。いかに未来を精確に見透していたとしても、それをつつましく自信なさげに語ったのでは、視聴者の欲望に答えることは出来ないだろう。
ここ何十年かの間に、尊大な発言を聞きたいという欲望が大衆の中に増大したのは、驚くほどである。おそらく「朝までテレヴィ」の中で「論客」が互いに尊大さを競い、品の悪さを競いあうようになったのが、始まりかもしれない。
『女王の教室』の阿久津真矢(天海祐希氏演じる独裁的な教師)は、子供たちに向かってではなく、直接、視聴者に向かって語っているように見える。(チャップリンの『独裁者』の中の演説シーンのように)
彼女の冷厳たる説教こそが、この番組の人気の秘密のひとつであろう。
実際の現場経験の豊かな教師から見れば、阿久津真矢の方針は、非現実的で有害なものだろうし、それ以前に、人間として非倫理的である。例えば、密告の奨励とか、反抗者へのルール無視の処罰など。(彼女は、生徒の一人新藤ひかるが、級友の神田和美のために先生に抗弁したというだけで、ひかるが規則に違反したわけでもないのに、真矢が自分で勝手に決めただけの規則をも自ら踏みにじって、新藤ひかるを処罰した。真矢が「ルールだから」というのは口先だけの事であり、本当は平気で彼女自身がルールを破っているのだ。)
阿久津真矢の説教には、凡庸な人生論を超えるような内容もほとんどなければ、真実もない。たとえば、いじめなどの不当な暴力は、たしかにどんな社会にでもあるとしても、それに対しては個人として立ち向かうだけしかないとか、個人として立ち向かう力をつけるだけで十分だというのは真実ではない。人権を掲げて他人から援助を求めるのは、無意味でも、不可能でもない。現実には、人権を守るためにこそ、国家と憲法があるのであり、それなくしては、諸個人が自らを単独で守るのは不可能である。いじめを防止するのは、生徒一人ひとりの力ではなく、国家から委託された学校と教師の責務の一部なのである。いじめがどの社会にでもあるという理由でそれを放置するのは、教師の職務の放棄に等しい。
こんな常識的なこと事を言っても、何らドラマの本質に迫るものではないと言う人もいるだろう。そんな当たり前のことを超えて、何かもっと深い真実が、阿久津真矢にはありそうに見える。しかし、その幻想こそが、精神分析に言うところの一種の転移現象なのである。
今日我々は、権力を持つものに対して極めて容易に転移を引き起こしてしまう。一般に、幼児化した社会では、力が強い者に対して転移しやすいのだ。例えば、これ以外にも、仲間由紀恵氏主演の『ごくせん』などの「学園もの」があるが、教師が超人的暴力を発揮するものが多い。
阿久津真矢も、いざという時になると、暴力に訴える。別段、暴力に訴える事が常に悪いなどと言うつもりはないが、非現実的なまでに、この女性たちの超人的暴力が執拗に描かれるのは何故なのか?未熟で幼児的な人間にとってほど、暴力が、暴力のみが、説得的だということではないだろうか。
しかし、暴力は人を自由にはしない。ただ卑屈にするだけである。ある種の場合、暴力に何かをなす事ができるにしても、暴力に決して出来ない事があるとしたら、それは教育である。それは、暴力によって「教育」されたひとは、必ず以前より卑屈に、以前よりシニカルに、一言で言えば以前より不自由になってしまうからである。つまりそれは、何かを教え込む代償に、教育の可能性そのものを犠牲にしてしまうのである。
子供たちが軍隊や権力に惹かれる時期があるが、その際、力は転移の対象となる一方、ナルシシズム的自我像ともなる。子供たちが成熟した大人に成長してゆくためには、ナルシシズム的自己を断念して、自らを象徴的(言語的)秩序の中に再構築してゆかねばならない。それは掟への臣従を通じて主体化する道である。
ところがそこで、むき出しの力に魅せられた子供たちは、それを、象徴的なもの・規範的なものと取り違えてしまうために、自らのナルシシズムをうまく克服する事ができない。ここにフロイトの「原父」のような幻想が生じる余地が有る。つまり掟を超越したむき出しの暴力が、ナルシシズム的自己イメージを温存するための格好の隠れ蓑を提供するわけである。それゆえ、子供の時期に、暴力と権威との区別を学ぶ必要が、人間的成長のためには不可欠なのだ。それは、勝利と栄光の違い、支配と名誉の違い、力と自由の違いなどを学ぶ事で有る。教育現場における暴力の有害性は、想像的なもの(ナルシシズム)と象徴界の短絡を引き起こすという決定的な点で、子供の成長を阻害してしまう点にある。
防衛庁長官などを勤めた政治家が、時には子供っぽい軍事マニアであったり、治安機関の高官が武器プラモデルのオタク収集家であったりする事があるが、象徴界への参入に失敗したこのようなナルシシズム的人格が、外交・安全保障を担う事ほど危険な事があろうか?そのような連中は、しばしば正義も理性もないような大国の「力の政策」に魅せられ、自らそのお先棒を担ごうとして、国を不名誉な破滅へと導きかねないのである。
阿久津真矢は、以前、生徒に暴力を振るった事で処分を受けているが、反省もしていない。明らかに彼女は、暴力の「教育的効果」を信じているのだろう。
真矢の言動の支離滅裂ぶりを、これ以上あげつらうには及ばない。問題は、その凡庸な主張や未熟な態度に対しても、ただその「厳しさ」にあこがれてしまう視聴者の精神的未熟さの方にあるからである。
唯一つ付け加えておこう。
多くの「学園もの」で、教師の強烈な個性が強調されるが、このような教師像が理想的どころか、かえって有害なのは明らかだろう。もちろん、個々の教師がそれぞれの個性を持つことは自然なことであるが、少なくとも教師として生徒に対する場合には、可能な限り自分の個性は謙抑すべきだろう。いわゆる「熱血先生」のように、何らかの理想に向かって生徒を扇動し導くなど、もっての外であろう。教師は、決して己れの自己愛に屈して、生徒の中に自分のコピーを作ろうとしてはならない。教師は、ただ生徒個々人が自身の中に、それぞれ独力でそれぞれの自由と運命とを見出せるように、手助けをするだけである。
一般に、生徒は、先生の欲望に対して極めて過敏なものである。だからこそ、教師は安易に己れの夢や理想を語るべきではないのだ。
もちろん、生徒を愛していると感じさせても、無視していると感じさせてもいけない。教師は、「無償の愛」ゆえに教育に従事しているのではなく、ただ給料のために教育しているのだとわからせなければならない。さもなければ、生徒は決して教師から自立することはできないだろう。もちろんこのことは、生徒の側では謎を残す事になる。先生に転移した生徒にとって、教師が有限な金のために教育に従事しているはずがないと感じられるからである。教育においては、教師が与えるものと、生徒が受け取るものの間に、常に大きなギャップが存在するのだ。知識や情報のギャップではなく、教育という人間関係の意味についてのギャップこそ、教育を働かせるための機動力である。この点については、以前詳しく論じたのでここでは省略しよう。(『魂の美と幸い』所収「教育について―漱石の『こころ』をめぐって」参照。)
阿久津真矢のように、生徒の全情報をつかんでいる、またはつかんでいるかのように装うということも、有害この上ない。
生徒は通常自分の本当の姿を教師に知られたいという気持ちと、知られたくないという気持ちの一体化した状態にあるものである。それは、彼らが教師に対して鏡像的関係を持とうとして罠をかけようとするからである。しかし、教師は生徒に対して、ごく大雑把な関心以外を示してはならない。もし教師が、生徒の個性をつかんだとしたら、あるいはつかんだつもりになったとしたら、かならずや生徒の方では、その教師によって「理解」された自己イメージに、自分の方から合わせようとしてしまうであろう。こうして、自ら、鏡像の罠にはまってしまう。だからこそ、教師は生徒の個性などにかまけていてはならない。そんなものは歯牙にもかけないことが必要である。真の個性は、個性に注目が集まるようなところでは、決して育たないものである。
教師にとってもっとも必要な美徳は、おそらく慎みであろう。実際にはまだ示されていない個性や、発揮されていない才能が、これから生まれてくるかもしれないその場所を空け、それを尊重すること、自分勝手な思い込みや決めつけで、それを塗りこめてしまわない事が必要なのだ(「この子は昆虫博士だ」とか…)。とりわけ、現実の社会では通用しないとか、大人の常識ではどうのといった「リアリズム」の訳知り顔の小賢しい屁理屈などによって、何か新しいものが生まれ出ずる時に特徴的な生きたあいまいさを、あらかじめ封殺してしまわないことが必要なのである。
どこで読んだ話だったか失念したが、ケインブリッジで古典語の教師をしている人がいた。彼は自分自身、詩人でもあったが、授業はおおむね退屈なものであったそうである。ある日、ホラティウスの一節を講義していた時、思わずその詩句に感動したあまり、「この一節の何と美しいことだろう!」と口走った。彼は、すぐに我に返って、そのように自制心を失ったことを恥じて、思わずほほを赤く染めたが、また以前の退屈な様子に戻った、と言われている。
教師の心も「さすがに岩木にあらざれば、心弱くも」詩句の美しさに我を失うこともあるかもしれないが、教師としてのつつしみを失ったことを恥じるくらいのつつしみはもつべきだろう、という教訓がここにはある。
Posted by easter1916 at 02:20
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田島氏がブログで『女王の教室』を扱っている。それを読んでの感想。
私が年末『女王の教室』をネタに記事を記したのは、そこに人口に膾炙しやすい「権威」イメージの典型(このドラマが評判を呼んだ所以の一つは、そのイメージないし図式の単純さにあると思われる)を見出....
『女王の教室』後始末【断片的日乗】at 2006年01月06日 00:01
名は体を現す、とすれば、彼女の名前は「太木」でなくてはならない・・という事はさておいて、彼女の跳梁跋扈ぶりを見ていますと、馬鹿馬鹿しさを通り越して、索漠とした思いにとらわれてきます。
大衆は断定的な語り口に弱いと喝破したのはヒトラーですが、正にその実例を見る思いがします。
30年以上教職にあって思うのですが、「いい教師でありたい」と言う思いは確かに落とし穴になりますね。「いい教師」という美しい言葉の中に、「支配したい」「影響力を及ぼしたい」という心性がどこかに紛れ込んでいないとは限りませんから。難しいものだと思います。善意は必ずしもいい結果にはつながらないと知っているつもりでも、落とし穴は必ずありますから。
時々、自分自身に冷水をぶっ掛けることとしたいと思います。そのために、何度も読み返させていただきたい一文でした。ありがとうございました。
まろ様
ご高覧恐れ入ります。教育現場での英知あふれる貴ブログを、いつも楽しみに拝見しております。いろんな現場で苦闘していらっしゃる方々がいることにはげまされます。(『源氏物語』についての御意見にだけは、やや異論がありましたが、その点についてはいつか論じてみたいと思います。)
あの項については後に書き込みがありまして、とにかく一度通読してみようかなと思っております。
ただ、それとは別に、『源氏物語』についての論を楽しみにしております。
俺のでて〜こういうの
暴力に訴えたり、生徒の情報を掴んで身動き取れなくするのは確かに子供を卑屈にするだけだと思った。
でも、何らかの理想に向かって生徒を扇動し導くなど、もっての外であろうってのがあったけどそれは必要だと思う。
理想無しに教育をしていくなんて教育していく上で精神的に無理が出る。
あと、給料貰うために教育してると解らせるべきとあったが、そんな人に
子供が教育を受けたいと思うか疑問に思う。
教師に「私は教育をしていくための理想は無い。ただ給料を貰うためだけにやってる。」
なんて言われたら大学生でも不快だし、生徒が言うことを聞くのか疑問
たとえ給料のためであっても嘘でも(そんな教師は極一部だろうけど)
愛情を持って教師をしていると生徒に思わせるべき
あ様
ご高覧ありがとうございます。
物心ついた子供を直ちに丁稚や徒弟に出して教育するより、学校その他の教育機関で教育した方がよいと、思われるのはどうしてか考えた事がありますか? アフリカの内戦では、幼い時拉致された子供が兵士として訓練され、鉄砲玉のように使われる例が知られています。彼らはある意味で「理想的」な兵士になるのです。同様に丁稚で鍛えられた子供は「理想的」な企業戦士になるでしょう。子供には、大人のかかる「理想」に抵抗する力はまだ備わっていないからです。
教育の場は、子供たちを「理想」に偽装されたこのような大人の欲望や「社会の必要」から、隔離・保護するために存在するのです。子供たちに対する「愛情」」を禁欲しなければならないのも同じ理由からです。愛情について語れば何でも許されると考えるような俗論は、教育についても、愛情についても子供についても無知を晒すものです。
(つづき)
子供の教育が、愛ではなく、お金からなされるという事は、単に純然たる真実であり、その点で子供たちをも(自分自身をも)欺くべきではないでしょう。しかしそれは、子供がすぐその真実を素直に信じるということではありません。子供の側では、それを文字通りに受け取る事はないからです。メッセージの送り手と受け手のこのずれこそが、教育の条件なのです。