2006年04月24日

死刑廃止運動

山口県光市の母子殺害事件の最高裁審理が始まったのに、その弁護人が私用を理由に欠席したという事件は、多くの人々を驚かせた。この事件の被害者遺族で裁判を闘っている夫に、多くの人々の同情と関心が集まっていることにもよるが、弁護人の戦術があまりに理不尽に思われたことにもよる。

 もちろん我々は、これまでの審理の記録の詳細を知っているわけではないので、判断を下す十分な材料があるわけではない。しかしその点では、他の大部分の人々と同様であり、それでも一定の判断を暫定的にであれ下してゆかねばならない。なぜなら、被害者遺族は、積極的に民意に訴えかけているし、他方弁護人側も、死刑廃止運動の一環として、同様に民意へのアピールを行っているからである。

 今回、弁護人が審理を欠席したのは、出来るだけ結審を遅らせよういう目的を持っていたのは明らかであるように思われる。依頼者の利益のために、弁護人にはどこまで許されるかという点には、難しい問題があろう。しかし、もしここで裁判官が、弁護人の欠席のまま結審する決断を下していたとしたら、被告人は弁護の最後の機会を奪われてしまったことであろう。その場合、弁護人の責任は重大であったろう。もし、今回の裁判官の判断を見越して弁護人が欠席したのであれば、甘えと言われても仕方ない。

 これで、弁護人がポイントを挙げたと見るのは、まったくの早計というものである。この弁護戦術が、多くの人々に道義にもとるものと見られたのはまず間違いない。その点で、死刑廃止運動に与えた損害は計り知れないものである。

 私自身は、死刑制度の廃止には反対であるが、死刑廃止論を無視してよいなどと思ったことは一度もない。死刑に反対する多くの尊敬すべき人々や、考慮されるべき重要な意見があることを、十分に心得ている。ただ私は、今回のように、政治ゴロのような弁護士によって、本来真剣に考慮されるべき死刑反対論さえも、まったく馬鹿げた主張であるかのように思われてしまったことを、残念に思うのである。

 今後、死刑廃止運動が国民的信頼をうる為には、今回の弁護士たち(安田好弘氏と足立修一氏)を、運動からきっちりと排除してゆく必要があるだろう。さもなければ、死刑廃止運動そのものが倫理的にいかがわしいものとして、完全に信用を失ってしまうだろう。とりわけ、被害者遺族にとっても十分に納得できるような、むしろ進んで運動に参加できるような倫理的高潔さをもつものでなければならないだろう。ところが遺族の方は「今回ほど侮辱されたと思ったことはいまだかつてない」と、憤りを表明されたのである。これでどうして国民的共感がえられよう。

 いずれ将来、死刑廃止が達成されるときが来るとしたら、それは被害者遺族の痛みと苦しみを広く社会が分かち合い、とりわけ廃止運動がそれを受け止め、支えていくような倫理的心性の確立を前提とするだろう。そのような社会的連帯の確立ぬきに、死刑だけが廃止されるというようなことは有り得ないし、また有るべきでもないだろう。そのような考慮もなく、己れの政治的野心の道具として裁判制度をもてあそぶ弁護士たちは、人権感覚とは何の関係もない。

 この母子殺害事件については、私にももちろんその犯行と犯人に対する人並みの怒りや憎しみはあるものの、いまだ死刑にすべきかどうか断定できるだけの材料が有るわけではない。だが、一般論として、死刑制度の存続に私が賛成する理由を簡単に述べておこう。

1)死刑制度は、血讐とか残酷な刑罰と並んで、ゆくゆくは廃止の方向へ向かって進めていくべき制度であると思う。この点では、大方の死刑廃止論の人々と考え方に違いはない(たとえば、死刑が犯罪抑止効果を持つという主張には、実際にははっきりした根拠がない、など)。

2)死刑は、戦争やテロと並んで極限的なケースであり、戦争などがなくなるべきであるように、やがてなくなるべきものである。しかし戦争もテロも、今日なお場合によっては必要なものである。問題は、実効的な代替的手段を開発することであり、それが出来ない場合には、それらをいかに無害化してゆくかという工夫をすることであろう(たとえは、各種の武器の禁止や武器輸出の制限など)。

 私の考えでは、戦争はテロよりまだしも正当化しやすく、死刑は戦争よりさらに正当化しやすい。テロよりは戦争が、戦争よりは死刑が、暴力に対するコントロールが利いているからである。極限的な場合には、テロさえも正当であるという事が自明であるとすれば(自明であると思うが)、当然のこととして自衛のための戦争が正当化されるであろうし、ましてや、より厳密に法の制御の利く死刑が正当化される場合があるのは、当然のように思われるのである。

3)ゆくゆく長い時間をかけて死刑制度がなくなっていくべきだとしても、それは実施を凍結してゆくとか、極めて謙抑的にのみ実施するようにしてゆくという形を取るべきである。なぜなら、いったん死刑制度を廃止した場合には、どんなに凶悪犯罪が現われても、再び死刑制度を復活することはすべきでないからである。極めて凶悪な犯罪が起これば、必ずや世論が沸騰して、死刑制度の復活を求めるようになるだろう。しかしそれによっては、その原因となった凶悪犯罪は裁かれない。死刑制度なき時代に犯された犯罪は、死刑に問い得ないからである。これでは、極端に不公平であろう。

4)さらに、この点は賛同を得られるとは限らないが、私は死刑が被告にとって最期の救いとなりうると思っている。死刑が問題となるほどの凶悪な犯罪者は、たやすく改心することなどありそうもない。たとえ終身刑で監獄にいたとしても、そのような犯罪者にとって獄中の生活は無意味であろう。己れの真実と向き合わない人生など、何年生きても無意味だからである。

 しかし、死刑囚にとっては、死刑執行までの時間が、真剣な改心の時間として与えられうるのである。もしそうであれば、たとえ短くても、彼は真摯に生きた時間をもてたことになるだろう。それは単なる可能性でしかないが、可能性でもないよりはましである。実際、死を前にして劇的な改心を遂げて死んでいく死刑囚も多い。人は、ただその命をながらへばいいというものではないのだ。

 もちろん、これは本人だけが自分にとって何が最善かを知りうるという考えを否定するものであり、濫用されてはならない。しかし私は、価値判断の究極の根拠が常に主観的なものに還元されるという考えは、浅薄な人間観でしかないと思う。

5)暴力の国家による行使をもって、個人的行使よりも忌避する人(「反権力」的メンタイリティ)もいる。しかしそんな人は、権力行使をどこかひとごとのように見ているのである。そうして、「権力の犯す悪」から自分だけ逃れ得るかのように錯覚しているのだ(ノリ・メ・タンゲーレ少女趣味)。権力を可視化する努力なしに、あたかも権力のユトピア的空白がありうるかのごとく錯覚するところから、各種のリンチやいじめが常習化するのである。

 近代憲法が予定しているのは、いざとなれば自ら進んで秩序形成の責任を担う市民であり、自ら権力を創造する気概を持った市民である。阪神淡路大震災のとき、自発的に生まれた市民的連帯には、そのような気概を持った市民の成熟が見られた。関東大震災のとき、ゴロツキどもの無政府状態を許したのと比べて、半世紀にわたる新憲法の下に市民が政治的に成熟しつつあることを、これほど如実に現すものはない。「反権力」で自己満足している子供じみた「左翼」では、永遠に革命など出来ないだろう。


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この記事へのコメント
今回の弁護士のやり方が世論の反発を招くものだったとは思いますが、遺族が死刑を望むのは当然ではあっても他人にもその感情への共感を求めるということに堪えられません。いや遺族が求めるのはしょうがない事だとしてそれに乗っかる人間に嫌悪感を感じると書いたほうがいいかもしれません。その理由はその感情に共感した他人は他人の不幸に乗じてやましさを感じることなく人の死を願えるというとても愉快な立場にたてるからです。「左翼」が反権力で自己満足してるのであれば、いくら遺族が世論に訴えかけているからといっても赤の他人なのに「死刑にしろ」といってる人間は勝ち馬に乗って権力を手に入れたと勘違いしてるとしか思えません。私は遺族の感情はとても他人が立ち入れるものではないと思いますので安易に遺族に共感することは冒涜だと思います。
Posted by 自信不足 at 2006年05月05日 20:55
次数制限に引っかかったのでふたつ目になりますが、阪神淡路大震災で市民的連帯が生まれたということについても、私はそれはかわいそうな人への「共感」というキーワードで世の流れに乗る人間が増えただけでそれだけ見ればいいことだったのでしょうが結局いかに世論での勝ち組に乗るかということにやっきになっている今の状況の萌芽だったのではないかと思います。
世論の勝ち馬に乗るのはいいことだと思う人ならば私の考えなんて笑い話以下でしょうが。
Posted by 自信不足 at 2006年05月05日 21:01
自信不足さま
 ご高覧ならびにコメントをありがたうございます。
 遺族の方に共感できると考える人々の鈍感さに対する嫌悪は、私も感じます。もっとも、「他人の死を願える」ことが、はたして「とても愉快な立場」かどうかは疑問ですが。もちろん私は、遺族の方に共感はしませんし、特殊このケースについて、死刑が相当かどうか判断する立場にもありません。将来裁判員になる事があったら、真剣に悩むでしょうが。
 大震災での市民ヴォランティアに参加した人々の動機は、様々だったろうと思いますが、「時流に乗る」ことだけでは、なかなか運動を続けられるものではないと思います。こういう運動に従事したことのある人ならすぐわかると思いますが、このような運動には、なかなか一言で片付けられない無数の細部があり、初めの観念ではどうにもならない臨機応変の自発的工夫とか自主的判断を求められるのです。
Posted by tajima at 2006年05月05日 22:18
(つづき)
それゆえ、彼らの初めの動機が何であれ、一番肝心なのは、このような活動の只中にそのつど見出されるワクワクするような楽しさなのだと思います。私が重視したいのは、自分で権力と連帯を創り出し、自分たちでそれを運営する事の喜びに気づいた人たちによってこそ、傍観する第三者たちにはまったく予期できなかったような力が発揮されるということです。
 ヘロドトスは民主化されたアテナイのもとで、人々が以前とは見違えるような力とエネルギーを発揮した事を記していますが(『歴史』岩波文庫 中巻p−165参照)、それと同じものを大震災下での市民の中に見出せるのは、まことに感動的ではないでしょうか?
 ところが、このような経験がまったくない奴隷的生活者には、いくら説明してもシニカルに受け流されるだけなのです。
Posted by tajima at 2006年05月05日 22:30
(つづき)
 一つ言い添えれば、自ら権力と連帯を創り出す喜びは、同時に無数の悩みや難題を呼び起こさせるという事です。それは容易に解けない対立や権力闘争です。この悦びと悩みをひっくるめて、自由を享受するということでしょう。
Posted by tajima at 2006年05月05日 22:38
はじめまして。
このエントリーで描かれている「弁護士」とは安田好弘氏のことでしょう。私もTVの報道などで一件を知った時はそのまま「ひどい弁護士だ」という受け取り方をしていましたが、ほかの情報を知るうちに大分印象が変わってきました。
なかなかネット上にまとまったいいソースが見つからないのですが、とりあえず、東京新聞の記事を。

http://www.tokyo-np.co.jp/00/tokuho/20060508/mng_____tokuho__000.shtml

あと、すこし左翼色が強いですが、こちらの記事。

http://takeyama.jugem.cc/?eid=545

うかつに判断できない複雑さがあるようなのです。
Posted by uprime at 2006年06月06日 22:43
もちろん安田好弘氏の事がこのエントリーの本筋でない事は承知しております。しかし世間がバッシングに傾いている中、ララビアータのようなきちんとしたサイトでバッシングの加担になると思える描写を、一読者に過ぎないとはいえ、そのまま通過するのはなにか「道義」に反するのでないかと、迷いましたがコメントしました。気分を害されましたらお許しください。
Posted by uprime at 2006年06月06日 22:43
uprimeさま
 コメントと御批判まことにありがたうございます。気分を害するなど、とんでもありません。貴方のやうな批判こそ、わたくしの最も期待するものです。今後とも迷はず、どんどん御投稿ください。
 安田好弘氏には、直接面識はありませんが、たくさんの共通の友人があり、まったくの他人と考へたことはありません。安田氏を直接知ってゐるわたくしの友人たちは、いづれも尊敬すべき人たちですが、彼らも安田氏のことを賞賛してゐます。だからこそ批判が必要だと思ってをります。
 また、別の私が信頼している友人で、住専処理機構の仕事をしてゐたK弁護士は、自分のところに依頼が来たオウム事件の弁護を、安田氏に紹介した人物と聴いてをりますが(このあたり記憶は不正確かもしれません)、その後不幸な経緯があって、安田氏の取り巻きによって散々な誹謗を受けました。(つづく)
Posted by tajima at 2006年06月07日 15:37
(つづく)
 このやうな経緯を傍目ながら観察してゐると、座視してゐてはならない重要な問題点が有ると思ふやうになりました。それは「反権力なら何をやっても許される」といった思ひ上がった甘え体質が、左翼運動に残ってゐるといふことです。権力を創造する責任感を左翼自身が自覚しなければ、いかなる革命運動も成功はおぼつかないと、わたくしは確信してをります。その点を、安田氏にも、その取り巻き連中にもわかってほしいのです。
 既に書いたやうに、私自身は死刑反対ではありませんが、彼らが本気でその運動を担ってゆくつもりがあるのなら、安田氏がこのままのスタンスで運動を続ける限り、勝利はありえないと自覚すべきだと思ひます。自分のナルシシズムを満足させるやうなことを、運動で優先してはなりません。その点で、レーニンを見習へと言ひたい。
Posted by tajima at 2006年06月07日 15:47
ご返事いただけた事を有り難く感じております。
左翼運動のナルシズムについての問題、上のコメントに書かれた事にほぼ全面的に同意します。

ただ、私が先に「印象の変化」と述べた時に頭にあったのは、安田氏の人となりへの印象の変化もありましたが、なによりもこの出来事全体を眺めるさいの構図の変化でした。
Posted by uprime at 2006年06月08日 22:44
(続き)
報道から我々は、この出来事が安田氏の「死刑反対運動」のパフォーマンスであり、このような事態は「異例」であり、責は当然安田氏が負うものである、という印象を受けたわけです。
しかし詳細を追っていくと、安田氏が弁護を引き継いだのは一ヶ月前であり、被告証言と事件記録の食い違いを精査するために最低三ヶ月は要する、被告の新たな申したてがある等々の理由による延期申請が前もって成されており、また、従来ならこのような申請は認められていた可能性が大きい、前年から新たな「公判前整理手続き」が導入されている、被害者家族には延期申請の存在すら知らされていない
・・・などなど、「死刑反対運動」は次第にフレームアウトされていきます。
Posted by uprime at 2006年06月08日 22:47
(続き)
「被告の自白などは一つの参考意見に過ぎず、司法の場は、物的証拠を重視し真相を出来うる限り追究する場となるべきである」
このように望む弁護士であれば、その者が「死刑賛成論者」であっても、安田弁護士と同じ行動をとる、という事すらありうるのです。安田氏等の行為が「運動」の一環であるとは、私は今や信じていないのです。

このケースの場合、「左翼運動、それらへの批判的な視線」という構図で切り取ると多くの問題を見失うのではないかと思いました。結果的に司法という空間に存在する問題に目をふさぐ事になるのではないか。
司法が我々の共通の「資産」である以上、私が今現在目をふさいでいる事の責を左翼にばかり押し付けてはいられないだろう、というのがこの一連の出来事をおって考えていたことでした。
Posted by uprime at 2006年06月08日 22:50
uprimeさま
 重ねてのご意見、どうもありがたうございます。この件について私自身裁判記録を精査したわけではないので、決定的な判断はもってをりません。しかし、1月先の法廷スケジュールは、安田氏が就任した時当然知ってゐたはずであり、また最近になって被告が意見を変へたためその精査があらたに必要になったのだといふ主張が妥当であるか、それともそれは最高裁で判断が覆る可能性が出てきたため、あはてて被告が意見を変へたにすぎないものなのか、またそのことについての最高裁の判断の方が妥当なものかどうか、といふ点についても、決定的な判断材料はもってをりません。
 ただ、最高裁の判断には、被告がきはめて悪質な居直りをしたためた書簡など、それなりの根拠があったことは疑ふ余地が有りません。それにしても、それが正しかったのかどうかは、なほ問ひ返すことができるでせう。
(つづく)
 
Posted by tajima at 2006年06月09日 01:13
(つづく)
 しかし、いづれにせよ(最高裁の裁判指揮に問題があったにせよ)、出廷拒否は、弁護士抜きの裁判といふ悪しき実例を生む可能性を残してゐるゆえに、到底認められません。裁判所の判断に対して、不断に我々が監視し、批判の目を注ぎ続ける事は、極めて必要だといふことにはまったく同意しますが、それは同時に安田氏のやうな行動をも我々が批判し、排除する事と一体でなければ、我々共有の資産としての司法制度を守り育てていく事にはつながらないでせう。
 その点では、安田氏の行動は、我々の「司法の祖国」への裏切りであり、公共的責任より、自己満足的理念に惑溺するものに見えるのです。
 繰り返して言へば、「祖国」の分裂を認め、敵対性を承認することは、公共性そのものを葬り去ってよいといふことであるどころか、「祖国」(公共性)の奪還のために闘ふことなのです。
Posted by tajima at 2006年06月09日 01:35
>弁護士抜きの裁判といふ悪しき実例を生む可能性を残してゐるゆえに

と言う部分は重いですね。重視すべき点だと思いました。安田氏の行動は順法的ですが、順法的であるがゆえに、現在の法体系への信頼に拠りかかっている事は、確かに私も疑えません。
しかし今回の場合に限って(順法的)緊急避難的な意味合いで、私は安田氏の行為を支持します。また、このような緊急避難か手続き的公正さを欠いた裁判かの二者択一を迫られている状況になってはいないかを見ていく必要があると思います。
(友人に宛てたという被告の書簡がそれほど重視される司法というのがあるとすれば、それは私の価値観からは受け入れがたいものです)
Posted by uprime at 2006年06月09日 08:39
敵対性の承認が公共性の奪還に繋がる、というくだりは興味深く思いました。今の所私は分裂した「祖国」の、田島さんとは違う一方の側に立ちます。
それにしても田島さんのコメントを読むと(哲学者の方にこういう事を言い出す自分の無謀さにあきれるのですが)私にはやはりソクラテスが思い起こされましたね。自分はソクラテスのようには死ねないだろうなと以前より思ってはいましたが、クリトンを読んだ時のもやもや(彼の書の「国家」に現代の国民国家を読み込む事によって起こるのでしょうが)がこのやりとりで思いがけず回帰しました。
Posted by uprime at 2006年06月09日 08:39
uprimeさま
 私自身も、『クリトン』には釈然としないものを持ってきました。なんとなく惹かれながらも、ソクラテスの理屈には納得できなかったのです。
 しかし今回、「祖国」と争ひながら、祖国のために殉じるソクラテスの究極のイロニーの中に、左翼の政治が目指すべき模範を見る貴方の解釈には、大きな示唆をいただきました。さうすると、ポリスの中に己れの人生の意義を見出したソクラテスは、生粋の古代人、アテナイ人であったといふことになり、(普遍的理想を語る)プラトンの形而上学にはうまく収まらないものをもってゐたといふことになりますね。『クリトン』がなんとも謎めいてゐるのも当然といふことです。
Posted by tajima at 2006年06月09日 18:48
人の命についての倫理観で死刑廃止を語っても無駄だと思います。

僕は、死刑は国家が国民の上に立つ事の象徴であって、国家主義を最も如実に表す物と思います。

従って主権在民である民主主義の精神に反しているのです。

「国民の命を国家が奪える=主権在民にあらず」なのです。

「国家の為には、犯罪者には国民であっても死んでもらう。=国家主義」なのです。

よく、廃止論者と肯定論者の違いは私的な感情問題と言われますが、死刑廃止問題は、明確な理論によって廃止が叫ばれているのです。

Posted by sengoku39 at 2011年02月13日 03:26
sengoku39さま
 いくつかおっしゃる趣旨が明確でないところがあります。「国家主義」「主権在民」「民主主義の精神」などで、正確には一体何を意味するのでせう?これらは決して自明な観念とは言へません。「国家主義」と言へば悪と決め付けられるわけでもないし、「主権在民」を自明視することもできません。そもそも「主権」といふ観念それ自体をそれほど手放しに受け入れることができるでせうか?「主権」概念はかなり新しいもの(16,17世紀)であり、それ以前にはそんな観念さへなかったのですから。「死刑制度の是非」のやうな難しい問題を論ずる際に、これら基本的観念を自明視することは、決してできません。論じたうえで、結局主権概念を一定の限度で受け入れることもあり得るとはいへ、初めから前提するやうなことはできないのです。民主主義の精神が国家主義と反するといふのは、かなり特殊な限定付きでないと言へません。むしろ、「民主主義」は、たいてい「国家主義」とか「国民皆兵制度」と親和的であったのです。クリシェをいくつか並べるだけで、いっぱし思考をしてゐると錯覚しない方がいいと思ひます。
Posted by tajima at 2011年02月13日 04:29
ようするに結論として、「死刑」廃止して、その代わり「終身刑」を導入すれば良いだけの、単純な話じゃないですか?

刑務所にかかる税金の問題は、受刑者の待遇の正常化、つまり一日一食で、さらに過重な役務を無料奉仕させる(たとえば刑務所製品の、ユニクロ化、激安ブランド創設・販売の全国展開など)ことで、賄い切れると思います。

問題というのは、たいてい単純に解決できるものだし、単純に解決したほうが良いものです。

ごちゃごちゃ考えすぎると、何がなんだかワケがわからなくなりますよ。
Posted by とどのつまり。 at 2011年02月18日 12:51
とどのつまり様
 単純な話ではないからこのやうに議論してゐるのです。その意味も深く考へないやうな者には、この問題を論じる資格すらありません。
 わたくし自身は、ここでも書いたやうに、死刑が必要だと考へてをりますし、死刑に値する罪が存在するとも考へてをります。貴方のやうに物事を考へる気力も欠けてゐるひとは、死刑に賛成でも死刑に反対でも、問題ではありません。
Posted by tajima at 2011年02月22日 22:01