2007年06月29日

鈴木道彦『越境の時―1960年代と在日』

最近、朝鮮総連と我が国の公安警察行政の中心人物(もと公安調査庁長官)の巨額取引が明るみに出て、我々を驚かせた。このような場合、事件の本質からして、その真相のすべてがくまなく明らかになるような事はあるまいし、それを徹底的に追求する気骨あるジャーナリストも我が国にはいないだろう。したがって、ここにゆすりや恐喝の類を見るべきか、それとも利益誘導や官民癒着の類を見るべきか、あるいはその両方を見るべきか、あいまいなまま終わるだろう。

 もちろん、公安当局のエリートが政権トップの暗黙の意を体して総連と接触し、秘密の情報ルートを確保して、危機的事態をある程度制御可能にしておこうと考えた、という可能性もないわけではない。しかし私自身の考えを言うなら、概してかかる合理的解釈は理に勝ちすぎて、真相である可能性は少ないと思う。というのは、我が国の安全保障を担う担当エリートたちが、それほど戦略的な国家理性に基づいて行動するほど、自制心や大局観を備えているとは、とても思えないからである。残念ながら、我が国の屋台骨はもうずいぶん昔からシロアリに食い荒らされたようにがたがたになっており、革命という神の息吹を吹き込む事によってしか、もはや立て直すことが出来ないほどだからである。だから実際には、ここでもせいぜい我々は、あまりにも矮小な動機やつまらないスキャンダルくらいしか見出せないのではあるまいか? おそらく、そのような精神的矮小性は「敵方」の総連幹部たちの方でも、似たり寄ったりの事情であるに違いない。彼らが特段に自己犠牲的に「革命」(つまり反日活動)に挺身する「愛国者」である可能性など、残念ながらないに等しい。

 しかし、このたびの事件に見るだけでも、一見敵対勢力の間にただ敵対性のみを見て、そこにひそかに進行するもたれあいや癒着や共犯関係を見ないような見方が、いかに素朴なものであるかがわかるはずである。以前から、警察とヤクザ組織の癒着は公然の秘密であるが、まさか総連と公安の間にもそれに似た構図が出来上がっていたとは、我々の素朴さをあざ笑うかのようである。

 鈴木道彦氏の近著(集英社新書)は、多くの点で特出すべき美点を持つ名著であるが、その中で、ふとしたことがきっかけで、ご自身が関わる事になった1968年の金嬉老の事件が詳しく取り上げられている。長らくこの事件に関わる中で、ようやく鈴木氏に見えてきたものは、権力と権力が再生産していく犯罪者との間に生じてくる「犯罪生産機械」とでも呼ぶべき生態なのである。我々は、それを手がかりに今回の事件についても、かろうじて見通しを得る事ができるのである。
 
 1928年在日として生まれた金嬉老は、5歳の時父親を失い、義父と争って12歳で家出するなど、差別の最下層生活を最悪の形で生きぬいた人物であった。細部は本書を読んでいただく他ないが、このような最下層の犯罪予備軍には、深く暴力団組織が食い入っていること、そしてその組員が、ただでさえ生活困難な人々から、様々な弱みに付け入って、さらに過酷な収奪を繰り返すダニのような実態が明らかにされる。ところがさらに、これら社会のダニたちと警察組織が奇妙な形で共犯関係にあるのだ。稲川組の幹部・曽我幸夫と清水署の刑事・小泉勇が、金の人生の前にはっきり二重写しとなって立ちふさがる。さらに鈴木氏は、金氏の裁判で公然と暴力団擁護をする検察官・加藤圭一などをすべて実名で活写し、日本社会の悪を暴きだして容赦しない。

 これらの事は、警察やお上を無条件で信用する本物の馬鹿者でさえなければ、ある程度は当然予想するところではあろう。しかし事は、これで終わらないのだ。曽我の追及に身の危険を感じた金嬉老は、ここで奇妙な事に「知り合いの掛川署の巡査である大橋朝太郎という人物を尋ね、持参していたライフル銃とダイナマイトまで見せて、自分はいよいよ暴力団と殺すか殺されるかの対決をするつもりだと打ち明けている。しかし、大橋巡査は、それを真に受けなかったのか、本署に通報もしなかった。」(同p−199)

 鈴木氏によれば、「もともと金嬉老は、警察と特殊な関係を作っていた。」(p−204)幼い頃から繰り返し警察に「保護」され、逮捕され、服役中に恋人を警官に奪われるなどしている。「だがまた、度重なる逮捕とむごい取り扱いを通して、彼は警察の恥部や弱みを知り尽くしていたので、逆にしばしばそれを利用して、留置場でも特別待遇を与えられる事があったし、警察はそのような扱いを餌に彼を陥れ、彼の方はさらにその事実を暴露して警察を追及することもあって、そこから管理する者と管理される者の、敵でも共犯者でもある複雑に入り組んだ関係が生まれていた。」(p−204)

 鈴木氏によると、このような管理する者と管理される者の馴れ合い的な共犯関係は、金嬉老事件の公判にも付きまとう事となった。その顕著な一例が「凶器差し入れ事件」である。「刑務所では早くから、弁護団を解任して民族問題を訴えるのをやめるようにという執拗な働きかけがあったという。その一方で、彼の房だけは鍵がかけられておらず、自由に出入りできたり、無許可のものがいくらでも入手できたり、出所のわからない金が送られてきたりした事実があり、揚句の果てに、なんと包丁、鑢、よくわからぬ粉末までが差し入れられた。」(p−205)結局「一人の看守が自殺して、すべてが封印されてしまった」という。(p−206)鈴木氏はかかる事態に対して、金嬉老被告自身が毅然たる態度を取ってほしかったという当然の希望を表明しているが、警察との関係を身をもって生き抜いてきた人物のそれなりの人生観に基づく戦略であり、処世術であってみれば、それを非難することは出来ないであろう。そしてここに、生物進化の過程で見られる敵対者との共生や取り込みに似たメカニズムを見ることも出来るだろう。

 しかし、鈴木氏が金嬉老事件を小松川高校生殺害事件の李珍宇の場合と並べて記述する時、そこにおのずから氏の文学的批評眼が働かないわけには行かないのである。金嬉老が生活の必然からあみ出した処世術を持っていたとしたら、李珍宇は、文学の必然によって動かされていたと言える。李珍宇が、犯罪に手を染める直前に、小説を書いており、それでさる文学賞に応募しているという事実は、そのことを裏書している。

 鈴木氏によると、その小説は李珍宇が受けた日本における差別の現実をアレゴリカルに小説化したものであったようだ。しかもそれは、彼の犯罪を予言するような形で、その事件をそっくり予描するものになっていた。ふとした事から犯してしまう些細な盗みを執拗に追跡する人物・山田は、いたるところで主人公を待ちぶせ、悪いうわさを周囲に撒き散らす。主人公は、その人物に付きまとわれて、切羽詰った揚句、ついにその山田を殺してしまうのである。山田は、作者からあらゆる可能性を次々に奪っていくものを、作品の中で象徴していた。つまり、李珍宇にとって「山田」は、はっきりと特定できないような敵に付きまとわれ続けるような、在日という人生のアレゴリーなのだ。

 あらゆるマイナス価値を含んだものとしての「朝鮮人」という他者からのまなざしとレッテルを引き受けて生き続ける中で、李は自分の直接的な客観性の感覚を見失う。他者から貼り付けられたこのレッテルの中に、何らの具体的実質も見出す事が出来ないからである。他者の貼り付けたイメージの中に自己を見出す事が出来ず、逆に自分の感覚からは確かな手ごたえを奪い去るのだ。自己と他者との間の相互参照の自由な往来(コミュニケーション)が欠けている事こそが、差別の中を生きるということなのである。その結果、まるでリアリティの欠けた世界を生きているように感じてしまう。我々は、たえず自分の経験を、他者からの見方を経由して裏打ちし、再確認する事によってしか、リアリティを手にできないからである。そんな中で李珍宇にとって文学は、世界のリアリティを再確認し再確立するために不可欠な実験のような位置を占めるに至るのである。

 しかしそれなら、李は何故さらに犯行を犯す必要があったのか?小説表現によって、彼の復讐が完成しなかったのはなぜか? それはこの小説が社会的認知を受ける事に失敗したからではないか? 読売新聞の懸賞小説に応募したが、落選した。彼は、投稿は賞金のためだったと言っているが、それだけだったろうか? あるいは、賞金というものこそが、社会的承認という意味を持っていたのではないか? それが得られなかったのは、彼にとっては致命的だった。そこでするいかなる努力をも挫折させ、その意味を奪い取り、あらぬ嫌疑へと歪曲してしまう(朝鮮人がしたというだけで、疑いの目で見られる)在日としての経験は、どこまでも続いて抜け出られない悪夢のように、捉えどころがないままに、彼のすべての試みをひそかに挫折に導くぬるぬるした匿名の泥沼として、彼を呪縛し続けるのである。

 もちろん、ある意味では、このような個人の経験の意味とリアリティの喪失は、ほとんどの近代人に共通のものではある。共同体の中に堅固な安定性を持っていた中世社会と違って、近代人は己れの主観的意味世界がそのままでは社会に通用しない事、社会的承認を得る為には、主観的世界からの脱却・克服・再統合などを経なければならない事を、ほろ苦い断念とともに心得ているはずである。この一般社会とは、具体的には市場社会(特に世界市場)ということである。それゆえ、自分の狭い生活圏の中で慣れ親しんだ意味と、市場の評価という二重性の中で生きざるを得ない個人は、潜在的に精神の分裂をかかえながら生きざるを得ない。社会の要求する役割をそのまま演じても、仮面のよそよそしさと経験の抽象性・リアリティのなさが付きまとう。かくて近代人にとってリアリティは、芸術的奇跡によって再獲得すべき困難な目標になるのである。このような中にあって、にわかに重要なものとなるのが、近代小説と古典音楽というジャンルであった。

 それはともかく、李珍宇にとって、この小説は十分ではなかったのだ。日本という社会の恐るべき醜怪さが、山田という一人物に容易に外在化し得るものではなかったのかもしれない。とにかく、それでは徹底操作(Durcharbeiten)が十分ではなかったのだ。日本社会が李珍宇の上に残した暴力性の傷痕は、なおもカタルシスの機会を与えられず、彼の中にうずき続けたのである。さらに作品化のために幾ばくかの時間があったらと、思わずにはいられない。

 残念な事に、彼の次の作品は犯罪となった。犠牲となった罪もない二人の少女のことを考えると、このような犯罪は絶対にあってはならなかったし、なければよかったという事に議論の余地はないように思われる。それゆえ、これを作品と呼ぶことは、不謹慎のそしりを免れないのではあるまいか? 我々はここで、極めて慎重にならねばならない。

 鈴木道彦氏は李珍宇の最後の数年を三つに区分し「第一は想像の悪が彼の世界を作った時期、第二はそれが二つの犯行となった時期、そして第三は想像の挫折(現実化)を蒙った少年が、死を見つめつつ、超人的な勇気で「揺るぎのない実存者として自己を作り上げた」時期である」と書いている。(p−125)

 李珍宇の境遇にきわめて深い同情をよせた朴壽南氏との間に往復書簡が残されているが、その中で朴氏は繰り返し民族意識の自覚へと李をいざなう。その呼びかけは、確かに彼の中に民族の積極的本質への予感のようなものをもたらすが、決して彼から犯行の責任を軽減するものとはならない。李は、あらゆる勇気を奮い起こして、自己の犯罪を環境や民族差別一般に還元する事を拒否し、自らの自由意志と責任を引き受けようとするのだ。「ある行為をしなければよかった、と考えるのは至って簡単だが、それは意志のレベルでの反省に過ぎないというのだ。」(p−63)それどころか彼は「罪をおかしたのは自分の本性だ」とまで断言する。(p−63)

 これは、李が、その本性から犯罪を犯したということを意味しているのではなく、犯行を自分の本性として引き受ける覚悟を示しているのである。つまり、犯行を己れの作品として引き受けることで、李は自ら作品への意志を示したのである。犯行自体が、リアリティへの決死の試みであったように、犯罪の責任を引き受けること自体が、それを作品化する唯一の道だったのである。彼が、犯行を環境からの偶発的な結果として一般化することを超人的な勇気を持って拒否するのは、それをしも彼の悪夢の一こまにしてしまわないためである。

 悔い改める事などによっては、本当に前に進むことは出来ない。自分の行為を否認する事によって得られた前進など、夢の中の匍匐前進に過ぎないのだ。本当に一歩を踏み出そうとするなら、我々は常に過去に向って前進するしかないのだ。我々が犯してしまう愚かしい所業は、我々の自由から生まれるものではない。我々が思いがけず罪を犯してしまうか、それとも幸運にもそれを免れるかを分けるものは、しばしばほんのわずかな偶然にすぎない。しかし、為された罪に向き合うか否かは、まさに我々の意志にかかっている。

 李珍宇は、おぞましい犯罪さえも己れの内的必然に由来するものとすることによって、初めて真の前進を開始した。その真摯な姿は、まことに感動的だ。ここで初めて、彼は文学に己れの命をかけたのである。

「私はこの残された生をきちがいのように愛している!最後のそのような時に私は自分を「珍宇」と認めたのだ。(ここで、「珍宇」は原文ではハングル表記になっている)」p−128

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この記事へのコメント
田島先生、こんにちは

「夢の中の匍匐前進」という言葉にずきっとしました。
 私もそろそろ過去と向き合い始めようと思います。
Posted by ここなつ at 2007年07月06日 13:13
ここなつ様
 コメントありがたうございます。
 我々が、たまたまの偶然で大した罪も犯さずにすんでゐるのは、我々自身の功績でもなんでもないといふことを考へると、我々が李珍宇氏と違って、(我々自身が犯してきた多くの愚行をもをも含めて)将来へ向って何とか生かしうるやうな過去をもってゐるといふことは、何と幸運な事でせうか!
Posted by tajima at 2007年07月06日 23:00
李珍宇は強姦殺人の前から窃盗の常習で、この論理だと窃盗は犯罪ではない
ということになってしまう。

単に窃盗の常習者が規範意識の薄れていく中、性欲にかられて、より悪質な
犯罪に手を染めたのを無理矢理文学的装飾をほどこしただけだと思うけどな。
Posted by とおりすがり at 2016年06月16日 07:50
とおりすがり様
 あなたのやうな想像力の欠如した方は、一生ご自分の狭い枠を出ることも、人間の本質に迫るやうなこともないのでせうね! それで満足できてゐるのが不思議です。世界はあなたが想像してをられるより、もっと深く広いのです。
Posted by tajima at 2016年06月16日 12:07