2009年12月11日

反実在論

 すでに何度も論じてきたことだが、十分に理解が行き渡らないもどかしさを感じるので、もう一度徹底的に分かりやすく論じてみよう。

 箱の中に碁石が入っている時、その数は偶数であるか否かどちらかだ、と言えるだろう。あるいは「碁石の数は偶数だ」という言明は、真か偽かどちらかだと言える。それを実際に確かめることに先んじて、真か偽かが決まっている、偶数であるか否か決まっている、と考えられる。この場合、この言明の真を保証している実在論的根拠(ここでは、箱の中に実際入っている碁石)があると言えるからである。

 これに対して、これからサイコロを振って出る目の数は偶数であるかないかどちらかだ、と言えるだろうか? この場合、未来に起こる出来事としては、サイコロの目は未だ存在していないのだから、それを決定するための実在論的根拠が存在していないのだと言うべきだろうか?

 おそらくそうではない。この場合にも、サイコロの目に1,2,3,4,5,6の6通りしかないことから、これから出る目の可能性としては、たかだか6通りしかないことの物理的根拠がある。だから当然、偶数であるか(2,4,6の場合)、偶数でないか(1,3,5の場合)、いずれかに決定されているのである。つまりこの場合に限っては、未来事象に関しても実在論的態度を取るに足る実在論的根拠がある。このことは、「7の目は出ないだろう」という未来言明を考えれば、より明瞭だろう。この未来言明が真であると言えるための実在論的根拠(サイコロの自然本性)があるからである。「このサイコロで7の目が出ることは不可能だ」という様相言明も、同様に真と決定できる。
 


さて、反実在論に大きな論点が残っている領域の一つとして、様相文脈があるが、それはどのような場合であろうか? 子供に鉄棒で「逆上がり」をするという課題を与えたとき、「彼は逆上がりができる」が真または偽であると言えるだろうか? あるいは「できるかできないかどちらかだ」と言えるだろうか?

 この子供が、すでに何度も逆上がりをして見せてくれていて、その能力が実証済みである場合、あるいは今実際にして見せて実証して見せる場合、われわれは「彼は逆上がりができる」と主張する根拠がある。

 だが問題は、彼がまだ一度も逆上がりに成功していない場合だ。我々は、「彼は逆上がりができる」と主張するための根拠がない。しかし逆に、「彼は逆上がりができない」と主張することもできないだろう。なぜなら、今まで彼が繰り返しそれに失敗し続けており、未だ一度も成功していないとしても、「彼は逆上がりができない」と証明できたわけではないからである。「可能性が実証済み」と「不可能性が証明済み」との間に、「いまだいずれとも証明されていない」状態が残るからである。いつかは彼も逆上がりができるかもしれない。これが反実在論の言い分である。

 しかし、頑強な実在論者なら、次のように主張するかもしれない。「逆上がりができる」という主張の実在論的根拠は「逆上がりの能力」であり、それは有るか無いかどちらかであろう。この能力は、恐らく子供の身体の複雑な組織構成の中に体現されているはずである。それは言い表すにはあまりに複雑すぎるものであろうが(とくに運動神経の特殊な組織化を含む)、いずれにせよ有るか無いかでしかない。したがって、子供の中にこのような組織がすでに実現しているかどうか、いずれかであろう。たとえそれが、われわれの現在の科学の目でも捉えられないとしても、有るか無いかどちらかであり、したがってその能力も有るか無いかどちらかではあろう。

 すると、逆上がりができない子どもというのは実際いるのだが、それはいまだこのような能力とそれを体現する身体組織をもたない子供のことであろう。そのような子供も、練習を重ねるうちに、次第にこのような身体組織を備えるようになり、したがって能力を身につけるに至ることができるのだ…。

 これはいかにも受け入れやすい説明のように見えるが、決定的な盲点がある。というのは、ここでは能力のない段階から能力のある段階への移行が問題となっており、逆上がりをする能力のない子供でも、この移行はできる(かもしれない)と想定されているからである。この移行の可能性は、再び実在論的に理解され得るものであろうか? かくて「移行可能であるか無いかどちらかだ」と言い得るものであろうか?

 「移行可能である」と言い得るためには、その実在論的根拠として移行能力に訴えなければならないが、もし彼に移行能力があるならば、彼は直ちにその能力を発揮することによって、逆上がりの能力を手にすることができ、従って直ちに逆上がり可能にもなるはずであろう。しかしもし、当面移行能力をもたないけれども、移行可能ではあると言おうとすれば、移行能力の無い状態から有る状態への第二の移行(移行への移行)を仮定するしかない。かくて、第三第四の移行と移行能力の泥沼に迷い込まねばならず、いつまでたっても、実際に子供が達成するこの変化――逆上がりができるようになるというこの飛躍を、理解できないのである。

 問題は、この変化を、子供(と鉄棒)の性質の変化として語ろうとする限り、らちが明かないということである。なぜなら、可能性が主体の自然本性に実在論的基盤をおくものと見なす場合、この本性は当然、主体ののちの変化をも潜在させているものと見なさざるを得ず、したがって、その潜在性がなぜ今すぐに顕在化しないのかわからないからである。つまり、結果的に見ればすべてはそうなるべく必然であったことになるか、そうでなくとも、能力が有るか無いかすでに決定しており、本質的には何ら変化は存在しなかったことになるか、いずれかになってしまうのである。

 それゆえ、この変化を変化として語ろうとするなら、性質変化としてではなく、実体変化、すなわち実体の生成として語るしかないことになるのである。課題の達成とともに、達成の仕方(解法)そのものが実体として生成しており、それは、それ以前の状況においては、それが生成し得るとも語り得なかったものである。というのも、この生成の可能性は、何の生成なのか、実際にそれが生成するまでは指示することができず、したがって、その生成についても、その生成の可能性についても、語り得なかったものだからである。実際の生成によって初めて、その生成についても、その生成の可能性についても語り得るに至る。したがってまた、実際の生成によって、その生成の可能性自体もまた同時に生成するのである。


easter1916 at 22:49│Comments(8)TrackBack(0) 哲学ノート 

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この記事へのコメント

1. Posted by わど   2009年12月13日 16:41
たぶん、はじめてコメントさせていただきます。この一稿に問題意識へのサジェスチョンを感じましたので。rssリーダーでは以前からマークさせていただいてます。

>この未来言明が真であると言えるための実在論的根拠があるからである。「このサイコロで7の目が出ることは不可能だ」という様相言明も、同様

幼児的な「実在論者」の、機械的決定論者の未来像ですよね。ここで例えられている未来像とは、現在像そのもので、未来に関係していないと考えることもできそうです。ここでの未来は、単純な現在(とみなされる現在)の外延、または論理上の演繹でしかないと。ですから世界金融不況は、最先端の数理経済学の破綻とは理解されず、なにか別の予測できない外部にその原因があったのだろうとしか考えられない(笑)。
ただ、こちらとしては、こうした幼児的な「実在論」がもつ根本的な欠陥の克服手法は、アンチの意味をこめた「非実在論」になるかは、迷うところです。現実の局面が未来に移行するなら、もとの現実に、なんらかの芽や欠陥など、移行の原因が内包されていたからと後付けのように考えられます。移行前の現実を、本質的に認識できないからではと、いまのところ。ふられたサイコロが稜線でバランスよく立ったので、奇数でも偶数でもなかったなど、冗談のような可能性はだれも考慮しませんし。これでは「実在論者」の認識から、あまり離れていませんね。しかしノイズ、地震、ウイルスや宇宙からの攻撃をふくめて(笑)、現実をトータルなものとして捉えたいし、こんな愚考に基づいても、未来は現実(とみなされる現実)の単純な外延じゃないことくらい理解できそうなので。
これからのお仕事を期待しております。
2. Posted by tajima   2009年12月13日 22:03
わど様
 おっしゃるやうに、ここでの機械論的決定論者の未来像は、現在像そのものであり、何ら本来的に未来的なものを含みません。このやうな形で未来を語ったり考へたりすることもありますが、それは実在論の枠に収まるものです。しかし、本来の形で未来が語られなければならないのは、現在には存在してゐない実体が(指示し得るものとして)出現することによる変化が生じることです。新たに生まれる子供とか、これまで不可能であった定理の証明などの生成です。
 もちろん、定理が証明されたあかつきには、それへの萌芽的研究や準備であったものが、証明への不可欠の過程として捉へ返すことができるでせう。しかし、このやうな理解はあくまで事後的なものにすぎません。ちなみに、このやうな時間の飛躍(つまり無から有への飛躍)を強調する反実在論は(問題解決は創造だといふ捉へ方は)、たとへば「人間が立ち向かふのはいつも自分が解決できる課題だけである」とは必ずしも言へない場合があるといふこと。もしさういふ事が言へるとしたら、解決を実行に先んじて教示できるエリートが有り得たことでせう。
3. Posted by コクウ   2009年12月20日 21:37
 はじめまして。私は哲学の素人なりに「可能性」という観念の不思議さに惹かれ、あれこれ考えている者です。ですから今回のエッセイは非常に興味深く、ぜひ質問させていただきたいと思った次第です。
 エッセイの末尾で田島先生が仰るように、「可能性」とは「実際の生成によって、その生成の可能性自体もまた同時に生成する」といいうる(いうほかにない?)ような何かであるとすれば、そのような「可能性」を「実際の生成」と区別して、独自の概念とすることに積極的な意味は(日常的にはともかく、「哲学的」には)なくなるような気がするのですが、いかがでしょうか。それは余分な概念であるということになるのではないでしょうか。
 私自身はなかなか考えをまとめられず、あるときには「可能性という観念は実は余分でナンセンスだ」と思え、しかし他のときには「可能性という観念には、事後的に構成されるといってすませられない、何か根源的なものがある(実在に対する様相という二次的なものではなく、むしろ実在という観念に先立つような)」とも思える、その両極のあいだで揺れております。
 何かご教示をいただければ幸いです。
4. Posted by tajima   2009年12月21日 12:53
コクウさま
 コメントありがたうございます。おっしゃるやうに、わたくしの見解は可能性の役割を制限するものではありますが、それが無意味になるわけではありません。砂糖を水に溶かすことは可能だといふ事は、砂糖と水の本性から説明できます。シーザーがルビコン河を渡らないことも可能であったといふことは、おそらく当時の歴史的社会的ないし軍事的状況から推論できるでせう。これに対して、サイコロで7の目が出る可能性はサイコロの本性から有り得ません。いづれも具体的な物事や状況の本性に訴へて議論されねばなりません。しかし、物事の本性に訴へるだけでは決定できないやうな事柄が存在するのです。それが課題や問題の解決の可能性です。このやうな場合に限り、解決がその可能性もろとも生成するといふ事に大きなポイントがあるのです。ちなみに、自由といふ事を考へたとき、それを為す能力があるとすると、自由自在にに問題が解けるはずだといふ不条理なことになります。我々は、自由に自由を選ぶ事ができないといふ事が我々の限界のはずでせう。自由を具体的に論ずる為には、可能性が生成すること自身は、我々の可能性の中にはなかったと言はねばならないわけです。したがって、可能でも不可能でもなかった事が突然可能性として生成するといふ必要があるのです。
5. Posted by わど   2009年12月22日 12:03
コメント1:

おっしゃることがよく理解できていない段階で、議論を深めようとコメントするのは、愚行の一種だろうと戒めていたのですが。ところが最近、ベッド下の床に偶然にも転がっていたかのような議論の100円玉を見つけましたので、ご報告。内田ブログ『及び腰ストラテジー』(2009年12月19日)です。
  ※ http://blog.tatsuru.com/2009/12/19_1142.php
6. Posted by わど   2009年12月22日 12:04
コメント2:


――「先送り」というのはひとつのアイディアである。
と書かれていて、解決の文脈が見つからないときの賢い対処法が述べられているようです。わたしたちには問題解決の糸口が見つからない「現在」というものがあり、その場合は焦らないで(笑)、解決を先延ばしにするほうがいいとか。 たしかに「現在」そのものには、解決という喜ばしい「未来」の萌芽すら見えてこない局面(時・面?)がふくまれている、といのは、大なり小なりだれでも個人的に経験しているところです。 これを個人の認識上の欠陥にもとづいた、悪い頭に見えなかっただけだみたいな、いわば「実在」論を支持する一例と考える傾向も十分に想定できますが。しかし一方では、認識のそとにある文脈が(グジャグジャに)変化して組み変わり、やがて、アラ、不思議にも、解決の糸口が準備されたのだと見なすこともできます。 後者の場合は、「現在」を認識する方法に欠陥があったのではなく、認識にたいする偶然が本質的に(そと側に)厳存しているので、その役割をもっと積極的に評価するべきだと考える方向を生むでしょうか。偶然は、認識できないのが歯がゆいところ。ですが、これこそ田島さまのご主張、無から有が生まれる「反実在」論を支持する一例になってはいませんか? 未来が見えなかったお前の頭が悪かったんじゃなく、そのときまだ未来が生まれていなかっただけなんだよ、とか。いいわけに使っちゃいけませんけど、偏差値が低く生活に困窮してばかりいる者にとって、まるでヨハネの福音書みたいな救いの言葉でもあります(笑)。
7. Posted by tajima   2009年12月22日 18:57
わど様
 興味深い議論をありがたうございます。以下「先送り」について。
 内田さんが言はれるやうに「先送り」が一つの行動選択であることはその通りです。もっとも、以前はそのやうな主張は、行動しない言ひ訳として最適解がわからないことを挙げるやうな立場を批判する議論として語られることが多かったものです(たとへば、丸山真男『現代政治の思想と行動』p−446〜)。「先送り」でも何らかの行動でも、いづれにせよ決断で有るほかなく、さうである以上、戦略的見地からの決断であることが必要でせう。
 ではいかなる戦略的考慮が可能でせうか?ごく一般的に言って、事態の動きと自己の立場の関係がクリティカルです。つまり、戦局が大きく自分の側に有利に展開しつつあると判断できるときは、「先送り」することによってより有利にことを運ぶことができます。つきつけられた問題に直接答へないことで時間稼ぎをしたり、その間に挑戦者自体の存在根拠または論拠が喪失されることを期して待つことも賢明でせう。たとへば、南北戦争前の北部諸州は、性急に奴隷解放を主張する必要はなかった。新しく加はりつつある西部諸州は、その急速な経済発展に対応するためには、自由州になるほかなく、そのまま時間がたてばたつほど、自由州が有利になる趨勢にあったからです。彼らはただ、合衆国といふ統一体を維持できればよかったわけです。
8. Posted by tajima   2009年12月22日 19:01
(つづき)
それに対して、普通に競争してゐれば時間がたつほど劣位に立つやうに社会的に停滞していた南部同盟は、南北の格差が拡大しないうちに何らかの決断をする必要があったのです。(この点、2008年9月6日の拙ブログの記事「トクヴィル」で、オハイオとケンタッキーの対比についての下り参照)
 一般に、社会が自然に発展してゐるときは、できるだけ諸個人の創意と自由に任せることがよく、その場合、政治は「先送り」戦略が賢明でせう。それに対し、社会がもはや往時の活力を発揮できず、至る所悪い循環や空洞化や自己崩壊を起こしつつあるとき、先送り戦略は無責任の極みとなります。その場合、不確かな策であっても、大胆に決断することが正解であり、それが当初予想された結果をもたらさなくとも、意外な副産物といふ形で救ひがもたらされることもあるものです。
 Nah’ ist und schwer zu fassen der Gott. Wo aber Gefahr ist, wachst der Rettende auch!
(神は近くにあって、しかも捉へがたい。しかし、危険の大きいところ、そこには、救ひの力もまた育つ)

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