2010年02月04日

朝青龍関の引退

 朝青龍関が引退を表明した。まことに残念であり、口惜しい。
 いつから日本人は、ここまで劣化したのであろうか? いつから他人の「品格」をあげつらうような発言が日本語に登録されたのであろう? もともと己れを棚に上げて他人の「品格」を批判するようなふるまいは、あまり上品なものとは思われていなかった。「いったい何さまのつもりなのか?」
 マスコミ一体となったすさまじい反朝青龍キャンペーンは、もはや全社会的いじめである。
 「暴行事件」と言われるが、その詳細についてわれわれは何一つ知らない。たとえ訴追されたとしても、判決が下るまでは推定無罪と取り扱われねばならない。まして、不起訴どころか「容疑」さえないのである。我々にしても酒を飲んで口論くらいはするだろう。民事的係争が有ったとしても、本人たちの間で示談が成立しているのに、他人がどうして騒ぎ立てるのか?
 どこかの四流の脚本家が、どうしてあれほどまで傲慢な態度を取れるのか、いかなる「見識」をかわれて「審議委員」として無礼千万の罵詈雑言が許されるのか、角界の「常識」には計り知れないものがあるが、このような欠陥人間に対してさえ朝青龍関の対応は一貫して見事なものであった。一度も批判したり、突っぱねたり、不快そうにしたところを見せたことがない。病気になれば相手を気遣い、退任となればねぎらいの言葉を送った。これを見て恥ずかしく思わないような日本人がいるのだろうか?
 マスコミのカメラに対しては、時に不機嫌を見せたこともあったが、それこそ当然の態度だろう。その傲岸不遜と無責任をよく知っている人々ならば、マスコミのカメラに対していつもニコニコしているような人間こそ、かえって信用ならないものだということを心得ている。まともな人間なら、戸惑いと不機嫌を覚えつつも、何とか自分の感情を抑えようと不器用に努力するに違いない。それをとらえてハイエナのようなカメラが、被写体を悪い印象を与える絵に仕立てることほどたやすいことはない。
 もともと私は、朝青龍関の相撲も言動も人柄も好きだった。引退は残念だが、彼の立場に立てば、無理からぬものと思う。愚劣なマスコミと俗衆一体になったバッシングに耐えてまで、続けなければならぬいわれはないのである。
 消えかけていた大相撲に活気と生気を与えたのが、外国人力士の登場であった。「内無双」とか「大網」などという技を、朝青龍関によって知った。新風によって伝統が復活した。 
 もはや心から大相撲を楽しむことはないだろう。貴乃花親方の理事就任に何かを期待する人もいるが、私はそんな期待はてんから持たない。貴乃花親方へのインタヴューの発言を見よ。これが、何かを成し遂げようとする人の発言であろうか? 朝青龍関との違いは、自分の言葉で話す人と、他人の入れ知恵やクリシェでしか話せない人との違いである。朝青龍関は、外国語である日本語を使ってさえ、はるかに生きた日本語を使えるのである。
 こうして日本の伝統的文化の一つ一つが、私の中で消えていく。伝統は「純化」することによってはますます委縮し、枯渇してゆくものなのだ。真剣な交流がないところに生命はないからである。


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この記事へのコメント
>朝青龍関は、外国語である日本語を使ってさえ、はるかに生きた日本語を使えるのである。

私も引退会見を見て、彼の日本語力に感嘆しました。これまでの朝青龍いじめ、そして今回の引退、とても残念です。
Posted by charis at 2010年02月05日 02:27
charisさま
 コメントありがたうございます。わたくしは、この頃やたら流行りの「品格」議論に大いに違和感を覚えるものです。福沢諭吉は、後輩の馬場辰猪が米国に客死したのを悼んで追悼の言葉を述べましたが、その中で「君は天下の人才にしてその期するところもまた大なると言へども、吾々が特に君に重きを置きて忘るることあたはざる所のものは、その気風品格の高尚なるにあり」と述べました。ここで福沢が述べた「品格」とか「気品」といふ言葉について、萩原延寿は「あの精神の独立といふ概念こそ、まさに気品の中核そのものである」と記しましてゐます。つまり、福沢の「痩せ我慢の説」や「丁丑公論」との関係で考へるべき概念と捉へるわけです(『精神の共和国』p-137)。我々の祖先の伝統やことばが、今般の事件におけるほど完全に忘れられてゐる場合があるでセうか?精神の独立心のない者どもが、精神の独立心をもった(つまり品格をそなへた)横綱に向かって感じるルサンチマンの爆発をここに見ない者は、まさにあきめくらと言ふほかないのです。
Posted by tajima at 2010年02月05日 13:28
僕は「クリシェ」という語を日常的に使わないので、正確な意味も知りませんが、決まり文句といった意味に捉えていいのだとすると、朝青龍は結局広い意味での「クリシェ」を習得できなかった人と見えてしまいますが。田島先生は「クリシェ」が随分お嫌いなようですが、そもそも我々に「クリシェ」以外に喋る余地が残されているのか疑問に思わなくもありませんし、推定無罪云々とか、自分の言葉で話す、生きた日本語、なんて言い方は恥ずかしくなるほど典型的なクリシェに思えますし。って言って、僕はクリシェが嫌いではないので、これは批判でもなんでもないんですけど(笑)だから、誰かがクリシェを多用しても、それだけでダメだと思わないですし、意識的に多用してるなら、なかなかやるじゃん、って思ってしまいますね。
Posted by けん at 2010年02月05日 17:20
僕がインターネットの空間が嫌いなのは、それが、保身と嫉妬に満ちた不自由な思考で満ちているからです。(例外もたくさんありますが)イメージ操作によって生じた先入観をそのまま受け入れ、あるいは疑心暗鬼に駆られて妄想を重ねて、その結果感情のなすがままに発言している様子を掲示板(だけでなくBlogやニュースサイトの記事にも見られます)などの中に見ると、こちらも元気を失います。既存の思考や制度を超え出てしまう存在は、保身や自己正当化に汲々としている人々にとって疎ましい存在となるでしょう。このような思考の大きな一方通行の中で不自由から免れたように見える言葉を見るとはっとさせられ、元気が出ます。
Posted by くじら at 2010年02月05日 20:10
けん様
 コメント恐れ入ります。
 どんな言葉も、それ単独でクリシェになることはありません。それが使はれる文脈が、暗黙のうちに俗情との結託を前提してゐる場合、それがクリシェになり下がるのです。ですから、この「俗情との結託」といふ言葉すらも、大西巨人氏が使ったときには持ってゐた鮮明な批判的エッジを失ふ場合、クリシェにならない保証はないわけです。
 福沢諭吉は、当時すでにクリシェとして使はれることの多かった「国体」といふ言葉にさへ、生きた意味を割り当てました。つまり「他国に占領されない事が、国体を保持することの内実」としたのです(『文明論の概略』)。一般に学術用語は独自の含意をもつものですから、それを使はないと、短い表現で正確な内容を言ひ表すことが難しいでせう。その場合、クリシェといふのはあたりません。また「生きた日本語」とか「自分の言葉で話す」といふ表現も、クリシェに流れる文脈もあれば、さうでない文脈もあるのです。文脈を読むリテラシの衰退は、それ自体が大勢順応的メンタリティと脊髄反射的思考習慣の現れでしかありません。
Posted by tajima at 2010年02月05日 22:01
くじら様
 コメント恐れ入ります。
 言論の空間は、常に闘争の空間ですから、自分にとって気持ちのよい言説だけを期待することはできません。だからと言って、メディア空間を拒否してゐたら、それは敗北主義といふものでせう。インタネットもさうです。闘争のアリーナに踏み入る場合、それ相応の覚悟と責任を引き受けなければなりません。それに応じてリスクや不毛な労力もいたしかたないのではないでせうか。
 いかなる個人も、精神の頽落から自由ではありません。たとへ最初は高度な批判的精神と志を持って参加するものでも、何時か知らぬ間に堕落してゐるのに自分で気づかないこともあるわけです。そのため、つねに多くの批判に身をさらしてゐる必要があるのです。たとへまったくあたってゐないものでも、批判を受けることが有益なのは、そのためです。
Posted by tajima at 2010年02月05日 22:20
おお、クリシェにはそんな深い意味があるのですね!勉強になりました。
しかし、それをクリシェと見分けるには、まずコンテクストを読んで、それが俗情との結託を前提にしているかを調べて、ここでは少なくとも「俗情」が定義されていなくてはならないわけで、しかもそれが暗黙になされているのを見抜く、という作業が必要のようですね。貴乃花のインタビューだけから「他人の入れ知恵やクリシェでしか話せない人」って、そんなことまで読み取っちゃうんですね。隣の彼女の気持ちはおろか、自分のことすらよく解らない僕なんかには、なんだか、超能力の類にさえ思えますが。大学教授っていうのはすごいんですねえ〜。
リテラシに欠ける僕が田島先生のコメントから読み取ったのは、オレ様の発言はお前みたいな無学なものにはわかりゃしなんだよ、といったとこですけど。あ、そういうの嫌いじゃないです。事実ですしww
Posted by けん at 2010年02月05日 23:42
朝青龍関の引退は残念です。お相撲さんとしての実力は素晴らしいので非常に残念です。確かに人騒がせな事も多々ありましたが、完璧な人間などいないのですから、引退までは…と思います。ハワイでの休養まで追いかけて、そっとしておいてあげてほしいです。朝青龍関には別のところで頑張ってほしいと思います。
Posted by ゴン at 2010年02月08日 15:14
ゴンさま
 ご高覧おそれいります。
 私は「人騒がせなこと」といふことで朝青龍関が非難に値する点があるとは、いささかも思ひません。そもそも人と違ったことをしたり、言ったりすることが、批判に値するのでせうか? 故郷に帰ったとき、慈善のためにサッカー試合に参加したことが、批判されたことがありましたが、全く筋違ひの批判だと思ひます。彼は治療のために故郷に帰ってゐて、そこで治療経過は順調だった。それで親切心からサッカーの試合にヴォランティアで参加した。それに、何の落ち度があるでせう?土俵で勝利のガッツポーズをする、それがいつ大相撲で禁止されたのでせうか? ルールにも伝統にもそもそもなかったものを、後から勝手に「伝統」だの「品格」だの言い募るのは、いぢめの典型的やりくちです。彼がいぢめの対象になったのは、彼が目立って優れた人物であったからにすぎません。われわれは、マスコミ一体となった理不尽なキャンペーンに、一歩たりとも譲るべきではありません。ただの一理もない不正義が行はれたのです。
Posted by tajima at 2010年02月08日 22:54
小沢幹事長も今のところ推定無罪なので「マスコミ一体となったすさまじい反小沢キャンペーンはもはや全社会的いじめである」といえないこともないように思います。もちろん、こちらは政治家ですし「品格」が問題にされたわけでもないので、ぜんぜん違うともいえますが。いずれにせよ、田島先生は小沢問題についてはいかがお考えですか?
Posted by イタロ at 2010年02月11日 23:52
イタロさま
 ご高覧おそれいります。小沢幹事長については、私は論じるに足る事実をあまり持ちません。もちろん、一般的に政治家には、民間人とはまるで違った高度な説明責任が要求されること、小沢幹事長の説明は、到底政治家に求められる水準に達してゐないことを指摘することはできるでせう。
 しかし、一連の報道を見てゐる我々有権者の側でも、報道に惑はされずに判断する英知と責任が求められるのです。決して単純に道徳的判断を機械的に適用すればいいといふわけにはいかないのです。悪い奴に対して批判してゐればすむやうな子供っぽい態度は、政治の場では許されません。政治状況全体に対する高度に戦略的な判断を求められるのです。これこそ、マキャヴェリが「己の魂の救ひより、祖国のことを考へた人々」を讃へた時に念頭においてゐたことです。政治資金規正法がざる法である点は以前から指摘されてきましたが、それが検察に自由裁量の余地を広く残してゐる以上、検察がそれを不公正に行使してゐないか、人民は注意深く監視することが必要です。マスコミがその責任を果たしてゐないとき、我々がナイーヴでない批判力でマスコミの責任を追及する必要が出てくるのです。私の個人的意見では、我が国のマスコミはその力量においても、その責任感においても、箸にもかからないほど劣悪化してゐるといふことです。役人や検察や政治家と比べても、そのひどさは決して引けを取るものではありません。
Posted by tajima at 2010年02月12日 01:31
ありがとうございます。よくわかりました。もうひとつ、これはあまり関連性のないトピックなので、ここで伺うのは的外れかもしれませんが、ぜひとも田島先生のご意見を伺いたい問題があります。それは、現在国会で議論されている「外国人参政権」の問題です。これは(どこまで)認めるべきものでしょうか? そして、そもそもこの問題を考える上での論拠になるのは何なのでしょうか。
Posted by イタロ at 2010年02月12日 11:18
イタロさま
 コメント恐れ入ります。
 在日外国人参政権の問題について、基本的には賛成です。「課税あるところに参政権あり」といふのが基本的原則ですが、もっと政治的な戦略については、以前ここで論じたことがあります。2007年11月7日の記事、「在日朝鮮人の参政権」をご参照ください。
Posted by tajima at 2010年02月12日 13:04
朝青龍や小沢一郎の一件に限らず、特定の「有名な」人物に対して、
彼らと直接の面識もなく、かつ事実関係の詳細についてはよく知らない、知ろうともしていない人々が「道徳的」非難を集中する、
というような場面は相変わらず多いですね。

この種の議論の多くは、
(道徳)規範一般の成立根拠や個々の規範の内実に関しての省察を欠き、加えてごく常識的な価値観に無批判的に依拠している点で浅薄であるし、
己の行いについては全く省みず、大所高所に立って、攻撃しやすい相手だけを大して調べもせずに一方的に攻撃している、という点で
それ自身「自らの依拠する常識的な道徳観に照らしても」不道徳であるように思います。

また、当然のことながら、道徳的判断はあらゆる状況において、あらゆる他の判断より優先されるべき絶対的審級ではありません。
世にあふれかえる「悪人攻撃」言説はそのことも忘れているかのようです。

吉田茂は「政治家の下半身にモラルを要求するほうがおかしい。政治家としての評価はまた別の話だ」というような居直り発言をしたことがあるそうですね。
この発言をそのまま是認するわけにはいかなくとも、間違いなく一面の真理ではあるでしょう。

かつて、アメリカのスーパーボウル(ひょっとしたらプレーオフだったかも)に、女性への暴力で実刑判決を受けた選手が、収監される期限より前だということで、そのまま試合に出ていたことがありました。
私は、そのようなことがともかくも容認されているのを知り、
心情的にはあまり好きにはなれないアメリカという国のある種特有の「器量」を感じさせられた気がしました。
Posted by 断食芸人 at 2010年02月13日 04:28
ともあれ、 さまざまな場面で、
特にメディア報道のような特殊な空間に限らず私たちの身近でも、
朝青龍非難と類似した出来事が少なからず起こるのを見聞すると、
もう30を超えた私は、青臭い嘔吐感を催さざるをえません。

と同時に、そのような現象や言説が何らかの「病気」であるとするならば、
その言説を非難する側(例えば私のこの文章)も、非難された側と類似の「病気」に、少なくとも部分的には罹患しているのではないか、
という疑いは常に拭い去ることはできません。
(私は彼らのあり方について一方的な解釈に基づいた非難を現に行い、
そして別種の、ある意味では異端的な道徳的攻撃をしているのではないか・・・)

ニーチェ的な「哄笑」とは、このような水準から完全に脱却した、あるいはむしろ最初から全く無縁な者にとってのみ訪れうるもののように思われます。
Posted by 断食芸人 at 2010年02月13日 04:31
断食芸人さま
 ご高覧おそれいります。
 確かに、特定の有名人をスケープゴートにして極端に感情的な反発をするやうな風潮は、愉快なものではありません。多分この背景には、行き詰まった格差社会に住むわれわれのフラストレーションとか怨恨感情があるのでせう。1920年代のドイツでも、敗戦とインフレで資産をすり減らした中産階級の怨恨感情が渦巻いてゐて、それがナチズムの温床になったことがありました。我々が極端に道徳感情に突き動かされるときには、それに一定の留保をして、別の見方をしてみることが有益かもしれません。ことにそれが政治的意見に関係する場合には、その判断が政治的に賢明かどうかといふ考慮が不可欠となります。しばしば、善人によって大きな悪がなされ、邪悪な人間によって思ひがけぬ良き結果が到来することもあるのですから。
Posted by tajima at 2010年02月13日 21:38
ご高説を偶々知り、マスコミではこのような立場はまったく報道されませんが、意見を同じくする日本の良心がまだ残っていることに少し安心いたしました。前回の処分の重さからは、今回の「解雇か引退か」と迫ったことをやむを得ない、とする論調が目立ちますが、そもそも前回の処分が、診断書を正当と当初から認めていながら、誤解を受けた、ということで、2場所出場停止、労働基準法の基準を越える減給と異常なものでした(管轄の労働局に問い合わせたところ、横綱という身分は代替性がない、ため、法律としては労働者に当たらないために、労働基準法は適用されない、ということでしたが)。NHKの会長が「騒がれたこと自体が問題」と発言しましたが、日本の報道機関のトップがこんな発言をするようであれば、松本サリン事件のような冤罪の温床は残っていると言えます。朝日新聞はリベラルな新聞と思っていましたが、医師の診断が正しいのに、勝手に「仮病の疑い」、精神疾患という診断書が出ているのに「ムクれた」と書くなど、科学的根拠に基づかず、誹謗中傷を行っていたのは、その看板を大いに疑うことになりました。
Posted by MT at 2010年03月09日 16:57
MTさま
 ご高覧恐れ入ります。おっしゃることは、まったくわが意を得たりの思ひです。また、あれほどの扱ひを受けながら、なほかつ明るく紳士的にふるまふ朝青龍関のお人柄には感服するばかりです。
 話は別ですが、今般の冬季オリンピックの有望な出場選手で、空港で服装の着こなしが悪かったといふ驚くべき理由から、批判が集中した青年がゐました。そのひとが8位入賞は果たしたものの、着地に失敗してメダル獲得に失敗したとき、ある新聞は「○○赤っ恥」といふ見出しを掲げました。この青年の趣味を個人的にどう見るかは、それぞれの好き嫌ひがあるでせうが、二十歳そこそこの若者に対して、このやうな罵詈雑言で匿名的な誹謗を煽り立てるマスコミには、ほとほと怒りを覚えます。その際、「彼らには税金から大きな助成金が投入されてゐるのだから、それなりの態度が当然」といふやうなことが言はれました。それに対して、私は言ひたい。「税金を払ったぐらいのことで、そんなに大きな口を利く資格があるのか?金を払へば、何を言っても許されるのか?」
Posted by tajima at 2010年03月10日 23:55
コメントを頂き、有り難うございました。国母選手の件についてもまったく同感であります。スポーツ後進国(スケートの清水選手が朝日紙上で支援のなさを指摘しておりました)であり、通常大した支援をせず、五輪のときだけ、国の代表だから結果を出せ、と叩く。勿論他の国の十分な支援を受けている選手を伍していかなければならない選手の努力にはまったく思いをはせない。こんな状況が続いており、マスメディアがそれを助長している現状では、スポーツという文化を育てる土壌が日本には欠けていると言わざると得ないと思います。
 服装のあらを探して、世界で入賞できるレベルまで努力した青年に、出場辞退まで迫る、本当に異常だったと思います。またその異常を拝しただけで、団長は偉い、と褒める。ただ、その団長が、自己が会長を務める連盟が、この少なくとも2年、自国のフィギュアスケート選手に不利になるルール改定にまったく声をあげていなかったことは気づきもしない。どうも立場によって、叩く対象と、褒め上げる対象が最初から決まっている感じもします。
Posted by MT at 2010年03月11日 22:40
MTさま
 国母選手のことについて意見が一致してうれしいです。また、あの団長についても。
 わたくしは、これらの件でマスコミの果たす役割の有害性についてが、一番気になります。我が国のやうにもともと社会の同調圧力が強く、個人の自由権を尊重する伝統が希薄な所では、マスコミのやうな意見の増幅装置は、もっとも有害な作用を及ぼしがちです。そこでは、順応主義に逆らふ事が絶望的に困難になり、それ故、孤立を恐れて、人々はますます過剰に同調的にならうと競ふことになります。「空気を読む」ことを、不可欠かつ唯一の徳であるかのやうに要求する恫喝が、マスコミの力を背景にまかり通って、個人の人権を平気で蹂躙することになるのです。このやうな愚者の王国において、マスコミがその愚かさにおいても傲慢さにおいても頂点をきはめるのは見やすい道理。我々はそこに、我々自身の醜さが凝縮する姿を見ることができると思ひます。
Posted by tajima at 2010年03月12日 00:38
アメリカ在住の日本人です。田島先生と有識者のブログでの横綱朝青龍関に関するコメントに感動して私のコメントを書かせていただきました。私は大鵬の晩年くらいから過去40年ほどの相撲ファンですが、朝青龍関の相撲ほど感動を覚えたものはありませんでした。それまで私は相撲はスポーツとして楽しむだけでしたが、いわれのないバッシングがではじめたときに、会場全体がアンチ朝青龍の雰囲気の時に、たった一人自分を応援するファンのためにあげた2005年の年間84勝目の魁皇戦で、一面識もないファンに無言の勝利の視線を送る横綱を見て、はじめて相撲を見て熱いものがこみあげてきました。その後、全盛期にあっての理不尽な力士生命を奪いかねない出場停止後の復活と優勝、引退説を跳ね除けた優勝などには、ただただ感動いたしました。相手力士だけではなく、己に、バッシングを続けるマスコミなどの全てに勝利した姿は、まさに“本当に強いということはこういうことだ”と、人生の縮図をみるような思いがしました(ちなみに“鬼の形相”の貴乃花戦は、真の相撲ファンにとっては手加減せざるを得ない武蔵丸に同情を覚える一番でしかありません)。これだけの感動が得られたのは、横綱を非難し続けたマスコミ、横審、漫画家、一部のNHK解説者とアナウンサー、拳銃密輸を行った元大横綱などのおかげとも言えますが、あれだけのドラマを土俵で見せられても、まったく意見を変えないのは、1)人種差別主義者か、2)相撲をまったく見ていないか、3)人間ドラマというものをまったく理解しない人間かのどちらかと判断いたします。
Posted by 荒野の狼 at 2010年03月13日 11:34
荒野の狼さま
 おっしゃることまことにその通りだと感服いたしました。相撲に限らず、何事をなすにも、そこにその人柄を感じさせるやうな仕事ぶりを見ることが少なくなったやうな気がします。朝青龍関の相撲があれほど感動を呼ぶのも、その水際立った技のせひばかりではなく、そこに彼自身の個性が輝くのを我々は見ることができるからでもあると思ひます。実際、全身全霊をささげた仕事には、その人の人生や個性の影が何かしら現れざるを得ないものでせう。そのやうな相撲が見られなくなったのは、相撲すらもがルーティーン化されたものになり下がってゐる証拠とも言へるでせう。
 してみると、朝青龍関の相撲を見て感動する者も、それを嫌だと思ふ者も、結局同じものを見てゐるのだと言へるのではないか? つまり、真のドラマ、類型的な処理をはねつける生の現実、何かが生まれ何かが死ぬといふ本物の運命。さういふものを見たくない連中がゐるのです。全部が型どおり、わかりきったものの一事例でないと不安に思ふ腰抜が、朝青龍関の初々しくはつらつとした振る舞ひを見て、不安にとらはれるのです。無菌豚のやうに飼ひ馴らされた連中にとっては、自由な精神ほど目障りなものはないのです。
 破廉恥な漫画家のことについて言及されてゐるのを見て、わが意を得たりの思ひです。私が「四流の劇作家」と書いて、個人名を記すのを忌避するのは、個人攻撃を避けるためでも、批判をぼかすためでもありません。ただこの連中の名を記憶するのに手を貸したくないからです。彼らには、忘却以外にふさはしい扱ひはありません。
Posted by tajima at 2010年03月13日 15:02
コメントを戴き恐縮しております。今回の騒動は、ひとつには大衆に迎合しようとする元三流横綱であった現理事長に責任があり、前理事長の大横綱の北の湖ならこのようなことにはならなかったと残念です。格闘技一般に議論をひろげても、昨年の朝青龍の2度の優勝時に白鵬ととった合計4番の相撲はトップにランクされるもので、あれほど怖い白鵬を見たことはありませんでしたし、その白鵬との一戦は正に龍対鳳の対決で、それは人のレベルや“品格”などという言葉を超えたものでした。両者のまさに生きるか死ぬかの闘いは、田島先生の言われる“全身全霊をささげた”“真の人間ドラマ”で、朝青龍引退時の白鵬の涙は、あの闘いを共有したライバルを理不尽にも失ってしまった無念の気持ちと推測します。朝青龍が古武士のような高い品格の持ち主であることは、本人のインタビューを“横綱朝青龍”などで読めばわかりますし、高砂親方との強い師弟関係も親方の著書“親方はつらいよ”を読めば、容易にわかります。私は外国に長年住んでおりますので、異邦人が異国でトップに立つことの大変さは理解でき、人種差別にも負けずに相撲も言動も立派な曙関や朝青龍関には共感を覚え、勇気をもらってきました。カフカの“城”にあるような不条理な世界で、カミュの“シーシュポスの神話”のシーシュポスのように、今まで勝ち目のない戦いに敢然と立ち向かい、勝利をおさめていった大横綱を、日本というおろかな神は認めません。やりきれませんが、最強の白鵬をもってしても横綱の優勝記録の更新に歯止めをかけられないとみるや、ありもしない暴行事件を作り上げ、引退に追い込んでしまったマスコミは、永遠に朝青龍関に勝つチャンスを逃したともいえます。切る必要のない腹を、見事に切って角界を去った朝青龍関は、その引き際の美しさもまた品格に満ちた勝利者のものであると思います。
Posted by 荒野の狼 at 2010年03月15日 11:30
荒野の狼さま
 カフカの城のやうな世界とは言へ得て妙ですね。何がルールかが一部の人にしかわからないやうなところで、カフカの主人公はむなしく奮闘しますから。
 わたくしの兄も30年以上アメリカ生活をした後、いまはミュンヘンで仕事をしてをりますが、彼を見てゐるかぎりでは、日本での生活の方が彼にとってはカフカ的に見えるやうですね。
Posted by tajima at 2010年03月16日 06:14
世界のどこの地域もそうかもしれませんが、この島の人々は、自分たちと異なるものを排除する傾向が強いと思います。経済的に豊かになるにつれて、厳しい稽古に耐えようとする若者はいなくなり、相撲協会も新弟子がいなくて困った挙句に外国人力士に頼ったはずなのに、救世主であるはずの朝青龍を冷たい他者のまなざしをもって排除してしまったということでしょう。田島さんが母校や職場で逸脱として排除され続けててきたのと同じものを感じます。私も家庭や学校、職場で排除されてきたので、朝青龍の境遇に同情するとともに、強く共感します。この島の社会は、本当のことを誠実に率直に言ってしまうと、それだけで逸脱として排除されてしまいます。
Posted by いしぴょん at 2010年04月25日 16:41
いしぴょん様
 ご高覧恐れいります。わたくし自身の場合、「母校や職場で逸脱として排除されつづけてきた」かどうか、意見の分かれるところでせう。しばしば端で見てゐるひとからは、はらはら見てゐられなかったかもしれませんが、わたくし自身はそれほど不安に感じることはありませんでしたし、今もさうです。周りと意見が違ふこと、孤立することは、普通の人々が思ってゐるほど怖いことではないのです。我々の人権は憲法や様々の法律によって手厚く保護されてをり、周りの人間から嫌はれたり無視されたりしても、ほとんど何の痛痒も感じないでゐやうと思へば、ほとんど何でもありません。人々は過度に恐れることで、たやすく周りの人間や大ボスたちに操るままに動かされてしまふのではないでせうか?たとへば、組織に抵抗するための手段としては、意外の多くの(合法的な)やり方があります。ひとりでも、学校とか組織の中で、または街頭でハンドマイクを使って訴へるなどは、完全に合法的であり、人はぎょっとするかもしれませんが、自分が体裁を気にしさへしなければ、相手に相当のダメージを与へ得るものです(特に体面を大事にする組織に対しては)。実際そのやうな行動を私は何度かしてきましたが、やってみると意外にたやすいものなのです。思ひ悩むくらいなら、何でも明け透けに表明した方が愉快でせう。人前でも平気で相手を批判してゐると、自分でも気分がいいし、相手もそのうち「あいつはそのやうなやつだ」と思って慣れてくれるものです。自分が排除されてゐるなどといふことは、自分で気にしても仕方がないことだと思ひます。相手にだって、私を嫌ふ権利ぐらいはあるわけですから。ただ、朝青龍関の場合のやうにあまりひどいバッシングを見ると、ときどき偏屈な義侠心にかられることはあります。つまり、ひとびとの神経を逆なでしたくなるのです。
Posted by tajima at 2010年04月25日 23:44