2012年03月07日

安富歩氏の『原発危機と「東大話法」』(明石書店)

 初めはその題名を見ただけで、ちょっとあざとすぎるかと敬遠していたのだが、先日取り上げた『生きる技法』が思いのほか面白かったので、この本も読んでみた。

 本書は、我が国のエリートたちが駆使する特有の話法を分析して批判するものであり、とくに原発危機をめぐる彼らの論理を「東大話法」として特徴づけている。その点についての氏の論述は期待通り的確なものであるが、ここではそれとは別に、期待以上に興味深かった近世以来の日本社会についての氏の分析について、取り上げてみたい。

 安冨氏は、近世以来の日本社会を、果たすべき「役」(やく)と「立場」という観念で分析する。「役」の成立は「家」の成立と連動していると言われるから、役を果たすのは少なくとも当初は「家」であったことになろう。

 近世以後の日本社会は、「お上」または「公儀」から割り振られた「役」を果たす「立場」によって分割され、いわばそれを単位ブロックにして積み上げられたような構造をしている、とされるのである。

 問題は、役を果たす立場がいったん成立すると、その立場が固定され、客観的にはその役が不要、または無意味になっても、立場が解消されることがなく、実質的には意味のない役が、その立場に即してなおアリバイとして捏造されることになるということである。

 したがって社会の必要に合わせて、ルールや仕組みを一新したり、修正したりすることが難しいことになる。また、それらを公共的に議論することが念頭に浮かばないし、それを担当する「役」も存在しない。(「お上」は、社会の神輿に担がれるだけの飾りでしかない。だから、いったん日中戦争のようなものが動き出したら、天皇でも首相でも、それを止めることができない。)

 他方では、個々人がそれぞれの存在意義や役割をそのつど問い返すことができず、外から「立場」の「役」としてあてがわれるから、自分の頭で考えて創造的な活動をする余地がなくなってしまうし、その枠を超えてすることが、余計な越境行為と見なされてしまう。役を果たさないことは「わがまま」であり、役を超えることは「横やり」ということになるのだ。

 社会がこうして小さなブロックの「立場」に分割され、それが強制する「役」しか認められないから、個人は常に、あてがわれた役と本来の自分自身の分裂に苦しみ、滅私奉公に励む一方、立場が認める役得をごり押しする立場利己主義(組織防衛)に狂奔することになる。

 役を果たさなければ立場を失う、つまりこの社会での有用分子としての資格を失う。少なくとも、そういう幻想や恫喝が個々人を縮みあがらせているのである。

 安冨氏の議論は、以前私が提案した、特殊な「疎外」概念と関連しているように思われる。私はフェミニズムについて興味を持ったことがあり、そのとき次のように論じていた。

このさいフェミニストの経験を記述するための我々の疎外概念と、ヘーゲル・マルクス流のそれとの違いを強調しておくことが重要であろう。従来<疎外>とは、本来自己のものであったものを外化・対象化したものが、その由来を忘却させつつ、自己自身に疎遠なものとして対立し、敵対してくる事態のことを意味していた。[人間が作り出した神の観念が人間を呪縛したり、労働の産物にすぎない財貨が、資本として労働を支配したりなど。]それに対して、我々がここで指示する現象は、本来自己に疎遠であったものがあたかも自己のであるかのように自己自身に押しつけられ、自己の内面にまでわたって簒奪支配し、その下で自己を曲解させ、抑圧し分裂させ、見失わせるに至る事態のことである。『性・暴力・ネーション』(勁草書房)p−75

 私はここで、「女性の本性」とか「女性の欲望」が外から個々の女性主体に押し付けられ、その結果、主体に深刻な自己分裂を生じさせる事態を表現するために、ヘーゲル流のそれとは違う<疎外>について語ったのである。

 このような「疎外論」を適用すれば、安冨氏の主張は、立場が強制してくる役が引き起こす疎外によって、我々の人格深部に自己分裂が引き起こされる、ということを指摘していることになる。

 いずれにせよこのような「立場」や「疎外」は、公論による全体の組み直しの議論、つまりは政治的公論そのものを不可能にしていく。「立場」が所与のものとされる限り、組み直しの余地がないからである。その上は、「解決」は「なほ一層各人奮励努力せよ」という精神論になる。

 しかし、「立場」と「役」へのかかる一層の固執は、ますます全体を不可視のものとしてしまう傾向があり、努力すればするほど、それがかえってあだとなり、盲目の崩落に向かって拍車がかかるのだ。かくて、勢いのついた神輿のように、破局に向かって驀進することになる。

 安冨氏が、自身の銀行時代のバブル期の経験と、その後研究された「満州国」の実態をもとに、その論理を展開されているのもなるほどと思われる。


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この記事へのコメント
「本来自己に疎遠であったもの」
と断言する根拠が、実はないという
ことに気づいたときがスタート地点
自己ならぬ「自己」への幻想が
誤解の原点
Posted by   at 2012年03月20日 05:23
ララビアータ:安富歩氏の『原発危機と「東大話法」』(明石書店)
Posted by ゴヤールトートバッグ at 2013年04月25日 23:09