2014年09月23日

戸田山和久『哲学入門』(補遺)

「私は中学生の時に、谷村新司やさだまさしを好むような人間には絶対なるまい、と決心したもんね。なぜかは忘れたけど。」p−347
――特徴的なのは「なぜかは忘れたけど」である。独断的価値判断を下しながら、理由を示して発言に責任を取ろうとはしない。これは政治であることを自覚しない政治である。それゆえ、哲学を自称する非哲学である。

議論なしに読者と裏口から手を結ぼうとしている。末人たち(letzte Menschen)が互いに目くばせする隠微な連帯。暗黙で直接的な感性での共犯を誘い、それを無批判で是認させるだけではない。むしろ、議論を超えた一致があるかのように装って、読者を恫喝するのである。これは「判断力の普遍的一致」(カント)どころか、そのような自由な判断力を抑圧するように圧力をかけているのだ。実際には、谷村新司やさだまましの価値観や、彼らに象徴される理念や非理念などが問題なのではない。彼らがどのようなイデオロギーを体現していようと、自分で自由に判断を下すこと自体にブレーキをかけようとするのだ。それが、「絶対になるまい」という高圧的で断定的な判断である。

このような断言(理由や説得に対するシニカルな忌避)、これこそが、自分自身では自由な判断をする能力も勇気もない性格の弱い意気地なしたちに、蜜のように甘く囁きかける。もちろん、そんな連中でもいっぱしの「判断」ができる(しかもその理由を詮索されることなく)かのようにお墨付きが与えられるからである。かくて趣味判断における議論への忌避は、そのおちゃらけと同様、なかなかどうしてリベラルどころではないメンタリティを、雲霞のように招き寄せるのである。彼らが必要とするのは、ただ有無を言わせない権威だけである。素人に近づきにくい実証諸科学のこわもての諸概念がところどころ貼り付けてあれば、いっそう心強いだけ。魔法の呪文のようなもの。ただ「定評」だけは大事である。それは所詮、彼らの弱み(意気地のなさ)を覆い隠すイチジクの葉でしかないからである。私はそれを、ファシスト的心性と呼ぶ。

彼らは、自分自身の価値観をはっきりと表明するなど思いもよらない。ただ流行に目配せして、大勢の流れとして十分確認されているものだけに、理由も議論もなく身をゆだねて、その鼻の穴を膨らませるだけである。彼らは、海綿とかサンゴのように、自らを「我」と呼ぶべきか「我々」と呼ぶべきか自分でもわからないような連中なのだ。

ファシストたちを相手にする場合、理屈で圧倒するだけでは十分ではない。これは、理性の戦場であるのみならず、美学の戦場でもあるのだ。彼らは単に間違っているのではない。言いようもなく矮小なのである。


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