2014年10月06日

稲葉振一郎氏への応答

稲葉さま

貴方のコメントは、貴方ご自身のブログに掲載されたものであり、わたくしへの私信ではなかったと思ひます。それゆゑ、わたくしがそれに応答しなかったことが礼節にもとるものとは思はれません。むしろ、他人のブログに出向いて行って応答を展開するのがご当人に迷惑なのではないかと忖度して遠慮してゐただけです。(もちろん、貴方がわたくしのブログにご訪問くださり、ご批判を頂戴することは、わたくしにとって迷惑などではありません。むしろありがたいことであるのは言ふまでもありません。)ご批判が周到な理解に裏付けられたものであり、応答が実りあるものになりさうな場合は、公開の場で反批判を組み立てるのも面白いかとは思ひますが、あなたのご批判は、もともとわたくしの問題意識を理解もせず、低次元の憶測に基づいてなされてゐるだけですから、応答には値しないと思ってゐたのです。それにもかかはらず、いけしゃあしゃあといっぱしの評論でも為してゐるかのやうに思ひ上がってをられるやうなので、今回は少し詳しく反論してみようと思ひ立ちました。

 とは言っても、よく考へれば貴方を叩くだけではまったくつまらないので、できるだけわかりやすく貴方ご自身にも、貴方に似た考へをする他の方々にも、ある程度納得いただけるやうに(といふのは無理としても)、少なくとも問題意識が奈辺にあるのか、ともに探究心を刺激できるやうに、リサーチ・プログラムのやうなものを示したいと思ひます。それゆゑわたくしは、以下で貴方を「論破」しようなどとは考へないことにしませう。かういふ場合、相手のスキを鋭く突いてやり込めたり、きっちり自分の脇を固めてディフェンスをはからうとしてみても、つまらないからです。むしろ、似たやうな問題に対して、わたくしとは違ふ解決であれ、模索しようとする人々を勇気づけ、あるいはそこへと誘惑できれば良しとせねばなりません。

なほ、戸田山氏を招いて行はれた合評会で「正面対決」にならなかったのは、出席者の多くが戸田山氏の立場について極めて乏しい理解しか持ってゐなかったので、もっぱらわたくしは彼の立場の「解説」をする役を演じてゐたからです。賛同するにせよ、批判するにせよ、一応理解した上でなくては始まりませんから。

 戸田山氏はそこで、ミリカンには(わたくしの理解に反して)「内容」の理論と言へるものが実際には存在すること、それがフレーゲ・デイヴィドソン流の全体論的説明と異質な、接合不可能なものとは言へないこと、をごく図式的に説明されました。「正面対決」にならなかったのは、この戸田山氏の説明の意味が聴衆にうまく伝はらなかったので、わたくしがこの点に関するわたくしの批判を棚上げして、解説を引き受けたからです。

自由について

 自由については何度も論じてきたので、反復ははばかられるところですが、必要な限りでわたくしの立場を書いておきます。

 自由は、一人称帰属も三人称帰属も可能ですが、いづれの場合にも可謬的であり、「自由だと思ってゐたけど、さうではなかった」といふことが有り得ます。

 ただし、自由は「全てか無か?」のやうに、有るか無いかどちらかに割り切れるやうなものと考へるべきではない。それは自由を過度に抽象化するものである。カントによれば、拷問されても偽証を拒否する「自由」は有る(!)ことになりますが、たとへさうだとしても、拷問されることなく自由に発言できる人の方がより自由であることは明らかだ、とわたくしは考へます。つまり、わたくしは自由には程度がある、あるいは自由には水準があると考へます。

 結論から言へば、「決定論」といふ形而上学的立場は、この自由の水準の議論を不可能にしてしまふため、不毛であるとわたくしは考へてゐます。ただし、決定論を「論駁する」ことが可能だとも必要だとも考へません。なぜ必要とは考へないのかについては、拙著『古代ギリシアの精神』p−122〜132で詳しく論じたやうに、決定論はリサーチ・プログラムにすぎない「因果律」を、物自体に投影して無限の過程の実在であるかのやうに見なす「弁証論的仮象」にすぎないからです。

 「決定論」が以上のような意味で不毛であることは、すでに当ブログで5月9日「ソフトな決定論について」で論じてをります。特に以下の下り

しかし、より詳細に見ると、重大な点で違ってゐる。決定論は、すべてのレヴェルでの期待可能性も、所詮同じく(どの時代でも同じように)決定されてゐると見なすのであり、したがって社会的に通常の期待可能性といふ基準が変化することを認めることができないか、あるいは単に見かけ上のものと見るしかない。ところが非決定論は、そこに明らかな区別を引き、期待可能性の(つまりは自由の)拡大について、規範的議論をなす余地がある。つまり、当然解決できると見なされる問題(それに対しては、責任を問へる)と、さうとは限らない問題(それに対しては責任を問へない)の区別、また後者についても通時的に前者へと移行し得るし、また移行すべきであることを、具体的事象に即して議論できるのである。つまり、解決法が発見され、それが社会的に共有されるにつれて(法の成立など)、社会的に当然なすことが可能な、またなすべきである行動が、拡大してゆく。それをなさないのは、以前は責任を問はれなかったのに、今や責任を逃れることはできなくなる。戦争犯罪や公害犯罪など。自由には、そのさまざまな水準や程度差があるのに、決定論はそれを無視せざるを得ないのである。

以上、要するに非決定論は自由の水準や拡大について語ることを許し、それによって法実務との連関に道を開く。なぜなら、裁判による法発見によって、たとえば公害問題を解決すべき筋道が示されれば、我々には実際に公害を避けるべき可能性が開けるからであり、社会が当然と見なす期待可能性の水準が変化するからである。したがって、それ以後公害によって環境破壊することは犯罪と見なされるやうになる。


以上を踏まへたうえで、自由を問題解決の場面でとらへること、問題解決が意味の生成であること、それは可能的なものの実現ではなく、可能性そのものの生成であると考へなければならないこと、などを論じてきましたが、ここでは詳細は省きます。拙著をご覧くだされば十分です。ただ、ここではそれが「進化論」とどういふ関係にあるか、それと「スターリン主義」の問題圏といかなる関係にあるか、だけを簡単に示しておきたいと思ひます。

 進化論を人間の合理性と接合しようとする試みは、イギリスのネオ・フレーゲ主義の哲学者たちにも多く見られます。第二の自然としての習慣に、合理性を着床させようとするJohn McDowellや、合理性の基本原理から進化論の成果を取り込もうとするChristopher Peacockeなど。ミリカンや戸田山氏ほど粗雑な自然主義ではありませんが、彼らも進化論と人間の合理性を親和的なものとみる点で一致してゐます。

わたくしは、基本的にその点に不賛成なのです。つまり、合理性を自然なものと考へることでは、言語の成立にまつはる不自然さ、亀裂、不整合性などが理解できないと考へるのです。狂気、幻想、無意識など、精神分析が明らかにした多くの現象の解明がこの点とかかはってゐますが、わたくしはこれをギリシア人の根本洞察とみなし、それを哲学の起源と理解してゐます。その意味で、哲学とは弁証法的なものといふことになります。つまり言語によってすべてを覆ひ尽くすことができないこと、に対する悲劇的自覚のことだと言ってもいいでせう。「自然は隠れることを好む」とヘラクレイトスが言ったとき、彼が示さうとしてゐたのは、素朴な自然主義とは正反対に、存在と言語の亀裂についてのこの意識だったといふこと。

しかし、この点は多くの現象の解明と密接に関連してゐるので、それらのすべての理解と切り離して述べても、容易に賛同は得られないでせう。結局、最後の決着は、そのやうに考へることがどのように豊かな洞察と展望を切り開くことに寄与できるかといふことを、広範な実例とともに示してゆくことでしかないのです。私自身いくつかの実例で、わたくしの考への生産性を示してきたつもりですが(たとへば、『神学・政治論』に所収された「神聖喜劇論」における象徴界の有り方など)、スターリン主義についての見方も、その一例として参照したものです。貴方が考へてゐるほど単純な連関ではないのです。

 貴方が拙著『神学・政治論』をお読みになってゐないと思ひますので、ここで簡単に再論しておきますが、スターリン主義の同一性を、わたくしは50年代の「主体性論争」のパースペクティヴから理解してゐるのです。つまり、歴史を物質の自己展開として理解するトータルな世界観(唯物論)は、「主体性」を基本的に自然の必然性によって説明する自然主義に他なりません。ここに、「主体性」とか「自由意志」いふものを認めるか否かはともかく(私自身はそのような仮説は望み薄だと感じますが)、少なくとも問題が存在することを認めるか否かが、まさに問題なのです。問題の存在を認めない理論的立場を、わたくしは一般に「スターリン主義」と呼ぶのです。すべての自然主義や決定論や実在論が、基本的に問題の存在を認めることができないといふ点で、スターリン主義なのです。

 貴方は、わたくしが「進化論よりキリスト教の方がましだ」と述べたことにこだはってをられるやうですが、その意味は理解できてゐない。重要なことは、キリスト教の歴史が問題の存在を明らかにする形で展開してきたのに対して、問題の隠蔽のもとに統一的世界観を展開する言説をスターリン主義として記述することは、実際のスターリン主義や、それにある意味で類似した他のイデオロギーの理論的解明につながるのです。その分析が実際、一部のテロリストのイデオロギーの解明にも役立つことを、わたくしは「テロリスト・アタの告白」(『神学・政治論』所収)で示したつもりです。実際、テロリストのイデオロギーを外から批判することは、あのブッシュ・ジュニア程度の知能でも容易にできることですが、彼らの精神と内在的に対決することは(といふのも内在的でないやうな対決は、真の対決では有り得ないからですが)、それ自体、本格的な思想的冒険に他ならないからです。

このやうなことを書き連ねながらも、おそらくわたくしの言葉は、貴方のやうな方には届かないのではないか、どんな言葉も風のやうに理解されないまま飛び過ぎるのではないか、と思はずにはをれません。我が国では、真摯に他人の言葉やイデオロギーを、その真の深みにおいて理解しようとするやうな精神の粘りが、もはや姿を消してしまったと思へるからです。それでも、せっかく書き記したのですから、そのまま載せることにします。


この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/easter1916/52390304
この記事へのコメント
田島先生

早速の詳細なエントリをありがとうございます。
初歩的な疑問がいくつかございます。

まず「因果律」は実在する何事かではなく、主体の側のリサーチプログラムに過ぎない、とおっしゃいましたが、だとしてもそれはクワイン=デイヴィドソンの他者理解における「寛容の原則」同様、ほかと取り替えることができない、それこそ超越論的な前提ではないかと存じますが、いかがでしょうか。
取替え可能であるし適宜可謬主義的に取り替えねばならないのは、因果作用についての具体的な仮説のあれこれであって、因果律という枠組み自体は自然の過程はおろか、人間行為の理解においてさえ、はずすことはできないのではないでしょうか?

「因果律」を、仮にそれが放棄可能だとして、そのような意味で「リサーチプログラム」と呼んでしまうことは、「人間が自由である」「人間は合理的である」といった想定もまた「リサーチプログラム」ということになってしまわないでしょうか。
Posted by いなば at 2014年10月07日 12:40
続けて失礼いたします。

人間の合理性についてですが、これは人間の自由と不可分の何事かであると解釈してよろしいですよね。だから、自由と同様に、自然主義によってそれを基礎付けることには意味がない。そういう理解でよろしいでしょうか?
つまり人間の合理性とは、自由と同様に、個体に内在する性質ではなく、まさに「寛容の原則」においてのように、観察対象をコミュニケーションの相手として扱う際に、そこにおいて対象、というより相手に帰属される性質として理解するほかはない、ということでよろしいですね。そうであれば当然、自然主義的に――つまりは実証科学的に基づけることはできない。

ついでに言えば、「信念」は個体に帰属する何かではあっても、「知識」は――それが定義上「真」であるのなら――そのようなものではない、つまり知識は「命題的態度」だとか「心的状態」ではない。先生のスタンスからは、そのように理解されるということで、よろしいでしょうか?
Posted by いなば at 2014年10月07日 12:49
さらに続けて失礼いたします。

以上の理解が外したものではないとしたら、先生が決定論・スターリニズムを拒絶されることはまったく当然だとしても、ダーウィニズムを拒絶される理由は――不適切な誤解に基づいているのではない限り、やはり私には理解できません。

具体的な生き物としてのヒトの性質は、それが(ヒトであれヒト以外の何かであれ)人間によって、対等な人間としてヒトが扱われる限りにおいて「合理性」「自由」と理解され、その理解のモードのことが「言語」と呼ばれる、ということになるかと思います。しかしリサーチプログラムとしてのダーウィニズムそれ自体からは、何を(ヒトではなく)人間とみなしうるか、についての判断材料が与えられるのみで、判断基準そのものを与えはしません(相互解されてしまえば、それがスターリニズムです)。
ダーウィニズムからは、どの生き物がより進化しているのか、などという問いかけは出てきません。現存する生き物はすべてそれぞれに進化の頂点にいます。人間的自由や合理性の実現に寄与する性質が、進化の尺度において他の生き物が備える別の性質より高度だとか進んでいるとかいった議論に意味はありません。そういう性質を人間的自由や合理性にするのは、そういう性質を備えた生き物とコミュニケーションをとろうとする人間の姿勢です。
Posted by いなば at 2014年10月07日 13:09
長くなりましたが、これで最後にいたします。

また、ダーウィニズムが価値を表明する立場ではないことはもちろんとして、因果作用についての特定のリサーチプログラムとしてのダーウィニズムは、決定論では到底ありえません。仮に決定論を、一時点における物事の状態が、次の時点、さらにはその次の、という風に未来のすべての状態を決定している、という仮説であるとするならば。ダーウィニズムの場合、現在の状態をもたらした過去は一通りに決定されても、未来はそのようには確定されえません。その不確定性は、突然変異を考慮に入れなければ、たかだか認識論的なものであって存在論的には未来は確定している、と(第三者の観察者に徹すれば)言えるかもしれませんが、突然変異の可能性を考慮に入れれば、言えなくなると存じます。
そのような世界観は、人間論に適切に読み替えられるならば、スターリニズム的傲慢とは対極の謙虚さを与えるものではないか、というといいすぎかもしれませんが。

戸田山先生が人間的合理性や自由につき筋悪の議論を展開されている、とのご批判は興味深いのですが、先生の自然哲学にも、十分に承服できないものを感じます。
Posted by いなば at 2014年10月07日 13:18
稲葉さま
 重ねてのコメント恐縮です。ご質問にお答へします。「因果性」は「寛容の原則」ほど根本的ではありませんが、おっしゃる通り超越論的と言へるやうな理解枠組みであると思ひます。その点こそ、カントが純粋悟性概念(カテゴリー)は、主観性の超越論的構造の一部であると論じたポイントだと思ひます。
 とは言へ、実体のカテゴリーや因果性のカテゴリーは、放棄不可能かといふとさうではない。たとへばある種の実証主義のやうに実体概念を放棄してすべてをセンス・データに還元してしまふことも、ヒュームのやうに因果性のカテゴリーを放棄することも、可能ではあるからです。ただ、そのやうな場合、理論的、実践的にいかに多くのものを失ふことになるかを考慮すれば、とてもそんな気にならないだけです。
Posted by tajima at 2014年10月07日 14:00
(つづき)
合理性(及びその一部である寛容の原則)や自由は、より根本的な意味で超越論的です。といふのは、それらはそもそもこのやうな探究を進める営みそのものの前提であるからです。また、因果性や実体性のカテゴリーが、個々の因果法則や実体概念を超えて同一のものに留まるのに対して、合理性や自由はさうではない。大雑把に言へば、それらは拡大したり、縮小したりし得るので、一貫して同一に留まるわけではありません。合理性の拡大を「保存・拡大」と特徴づける人たちもゐますが、わたくしは厳密には、半順序集合のやうなものと考へた方がいいと思ひます。つまり、複数の合理性の間に大小比較ができるとしても、全ての合理性に大小順序が存在するとは限らないといふこと。
 人間の合理性も自由もまた言語も、自然を基礎とはするものの、自然によって基礎づけることはできません。一種のテユケー。
 知識(〜は…を知ってゐる)は、第一義的には個人(またその集団)の帰属される命題的態度の一つだと思ひます。このことは知識の外在説と矛盾するものではありません。
 ダーウィニズムは、わたくしは拒否するものではありません。ただその哲学的含意を重く見ないといふだけです。
 以上、言葉が足りないところがあれば、おっしゃっていただければさらに詳しくご説明します。
Posted by tajima at 2014年10月07日 14:04
またしても迅速かつご丁寧な応答をありがとうございました。自由、合理性と因果性の間のある種「水準の違い」についてのご理解、興味深く伺いました。

ここまでご丁寧ですと、疑問、質問ではなく私見を別の場所に提示する、という形の方が先生への応答としてもまた未知の読者へも適当かとは思いますので、折を見て論じさせていただきます。

悲劇性、について、銃や合理性との関連で、しかも敢えて平板な(合理主義的な)議論を試みると何がいえるか、をしばらく考えておりましたので、先生の御示唆はいい機会です。

ただ、やはりいまだ先生のダーウィニズム理解がよくわかりません。「拒否するものではなく、ただその哲学的含意を重く見ない」とおっしゃいますが、ダーウィニズム、スターリニズム、実在論を強く連関づけるここまでのご議論では、やはり強く否定的な意味で「哲学的含意を重く見ている」ように解釈できます。
実際、先生がエントリで解説しておられるようなものがダーウィニズムであるとしたら、リサーチプログラムとしても自然哲学としてもひどくおかしなもので、当然拒絶されねばならないでしょう。
本当はこの問題についてもっと伺いたいところですが、今はその折という感じが致しませんので、ペンディングとさせていただきます。あるいはこれも、先生への応答という文脈と無関係に、別の場所で論じさせていただくことになるかと思います。
Posted by いなば at 2014年10月07日 16:40
稲葉さま
 わたくしとしては、進化論を否定する必要はありません。実際、私はいろいろなところで進化論的知見を利用してゐます。たとへば次のハイデガーフォーラムのための論文。
http://heideggerforum.main.jp/ej6data/tajima.pdf
 ここでわたくしは、「言語の起源」について思弁的考察をしてをりますが、その際、進化論によって言語を説明してゐるわけではありませんが、進化論的知見を前提・利用してをります。ご参考まで
Posted by tajima at 2014年10月07日 22:21
哲学徒ではないので、わたしのこれも「一知半解」「およそ議論の筋道がろくに理解もできていないくせに、いっぱし自分も議論に参加できているつもり」の謗りを免れないのかも知れませんが、「似たやうな問題に対して、わたくしとは違ふ解決であれ、模索しようとする人々を勇気づけ、あるいはそこへと誘惑できれば」とのお言葉に甘えて、横からコメントすることを失礼します。

実在論と反実在論の立ち位置の違いはコミットメントにあると思うのです。

>問題が存在することを認めるか否か

とは、まさしくコミットメントのことであり、

>問題の存在を認めない理論的立場 (すなわち)すべての自然主義や決定論や実在論が、基本的に問題の存在を認めることができないといふ点で

それらは他律的、自動的(オートマティック)であり、つまり自律的でない、真に自由ではないと言い換えることができるかと思います。(つづく)
Posted by マクラーレン at 2014年10月08日 21:33
(つづいて)
『ニーチェの真の意味が問われるのは、このような精神の戦場(イデオロギー闘争)においてである。何にも加担せず、肘掛椅子に座って客観的認識の夢想や文化遺産の管理にふける御仁には、もとより無縁のものである。』(Heidegger-Forum vol.6 2012 死と言語(田島正樹)p.109 http://heideggerforum.main.jp/ej6data/tajima.pdf)であるとか、

『しかし他方でヴォータンは、人間(ヴェルズング)の自由に望みを託し、彼らが紡ぎだす筋にブリュンヒルデが共感し、神々の身分を棒に振ってまで加担することから、ついに神話的秩序の総体が崩壊するのである。ブリュンヒルデとは、ヴォータンの理念を真に受けて、実際のヴォータンと対決し、神々の世界から人の子としての生へと受肉する逆説的存在なのだ。英雄たちが人から神の世界へと歩み入るのと逆である。ここには、宿命に彩られた権力と資本の神話的世界が、象徴界一般の例にもれず完全では有り得ないということ、象徴界の掟に完全に縛られた神々に対して、人間にはその不完全性ゆえの自由という優越が存することが示されている。』(同p.108 脚注)(つづく)
Posted by マクラーレン at 2014年10月08日 21:35
(つづいて)
などの田島先生の過去のお言葉と合わせみれば、万物の創造主たる唯一神の意志、すなわち存在者たちの掟に背き、そこからあえてはみ出すことのできる「人間の自由」がダーウィニズムにおける「突然変異」と同値であるとは言い難く、さらには神の許しを拒否して地獄に留まるのみならず、己の生命の在り方を憎むあまりあろうことか他の生命をも巻き込んで共に滅んで行こうとする人間の有り様は、もはや「自然淘汰」の概念では捉えきれないのではないでしょうか。

この、自然そのもの、宇宙そのものの総体的崩壊現象、存在者ではなく存在の消滅は、自然主義や決定論や実在論の想定外であり、デタッチメント派の「まさか、命までは取られはせんだろう」というこの甘さ、この甘えこそ、田島先生が「ダーウィニズムの哲学的含意を重く見ない」「人間についての洞察としては、進化論より(ノアの洪水やソドムの火などの神の奇跡的介入による世界の保全ではなく、人の子イエスのコミットメントである贖罪による救世を説く)キリスト教の方が遥かに真実に近い」と言われるところかと思います。
Posted by マクラーレン at 2014年10月08日 21:39
マクラーレンさま
 わたくしの論旨を深くお汲み取りいただき、恐縮です。
 言語を使って思考するしかない我々人間は、どうしても視覚の盲点のやうなものが生じる(あれが見えればこれが見えなくなる)といふのが、ギリシア以来の弁証法的洞察の根幹であったと思ひます。私が悲劇的認識と言ふのは、ギリシア悲劇が絶えずこの点をめぐって(つまり認知と逆転をめぐって)展開してきたからです。すべての認識を一つの絵の中にそっくり収めるやうなことが不可能であるのはこのためです。
 さうであるからこそ、コミットメントが問題ともなるのでせう。ただ、「コミットメント」といふ言葉は、少し主観主義的ニュアンスが強すぎるかもしれません。問題が存在するといふ認識には確かにコミットメントが必要でせうが、さう決意するだけでいいといふわけではないからです。つまり、問題があるとしか言ひやうのない立場へと追ひ込まれるまでは、人は問題の存在に気づくことはないでせう。それゆゑ、その認識自体、状況の産物、または状況から我々が強ひられた試練でしかない、とも言へるでせう。
 反実在論は、少なくともこのやうな論争状況の可能性を視野に入れてゐるのに対して、自然主義や決定論や実在論は、その可能性を理論的に位置づけることができない点で、自由(の問題圏)を視野に入れることができないのです。
 キリスト教の歴史では、たえず繰り返しこの点が問題とされてきました。たとへば、中世キリスト教社会では、狂人や白痴には、特有の存在価値が与へられてゐました。百姓が農産物を作るために存在し、職人が工芸品を作るために存在するのに、狂人や白痴が何のために存在するのかがはっきりわからなかったからです。つまり、それらの存在は、人知を超えた神の英知を示すために存在するといふことです。象徴界の不全を示すために存在するといふこと。
Posted by tajima at 2014年10月08日 23:28