2014年10月16日

「真理の再生」(哲学会)によせて

昨年の哲学会のシンポジウム「真理の再生」を受けて、記したエセー「反実在論的真理観」(『哲学雑誌』2014所収)が印刷されて送られてきた。営業的なものではないので、ここにその全文を記載しておく。

 その道の人が一読すれば明らかのように、わたくしここでハイデガーの哲学に対して、ほぼ全面的な批判を試みている。もちろんそれは、ハイデガーの関心にとって外的な観点からなされるような不毛な「批判」ではない。かかる思想家と対決する場合には、そのような批判は何の意味も持たない。(なお、表記上累乗表現ができないため、一部不都合なところがある)

【反実在論的真理観】                 
「我々は、真っ直ぐなものによって、当の真っ直ぐなものも、曲ったものも認識するのである。」 アリストテレス『デ・アニマ』(411a5)

「真理は真理自身と虚偽との規範である。」 スピノザ『エチカ』第局定理43備考 

ビッグバン仮説で有名なジョージ・ガモフは、πの少数展開に現れる数字が、結局は等しい頻度で現れるという仮説をもっていたようである。小数点千桁、一万桁、十万桁…と計算していくと、確かにどの数字もますます の頻度に近く現れる傾向を示すようであるが、それを証明するすべは今のところない。それでも、ガモフの予想は真であるか否か決まっているはずだと思われるかもしれない。

しかし果たしてそうだろうか? 有限の数の場合、または 1/33のような循環小数の場合に、出現する数字の頻度について述べる事はたやすいし、それを述べる命題は真か偽かいずれかだと言うこともできる。しかし、無限の領域について、しかもその領域で数字の分布がどうなっているのか予想の見通しもない場合、ガモフの予想が正しいのか、それともその否定が正しいのかいずれかであると主張すること(排中律)も、それ以前に、その主張の意味を確定することも厳密にはできない――このような主張を一般に反実在論という。

もしここで、無限の少数は我々がそれを実際に展開しなくても、それを無際限に求めていく手段が、アルキメデスの方法とか、ライプニッツの数式とかとして与えられている以上、たとえば神的知性の前にはくまなく確定的なものとして実在しているはずだと考えるなら、我々がそれを認識するか否には関係なく、排中律が成立するように決まっているはずだ、という強い直感が存在するだろう。これが実在論という立場である。この立場は、無限の領域を、有限の領域のアナロジーで考え、そこに横たわる深い溝を「神的知性」というようなレトリックに訴えて埋めることができると見なす。

このいわば常識的とも言える直感に反して、排中律や二重否定律が無制限には適用できないことを、ある種の無限領域に関して主張する反実在論を擁護して、できるだけその主張の眼目と含意をわかりやすい形で提示することが、この小論の目標である 。

そのさい、通常は反実在論の本質的特徴と見なされている「構成主義」とか「観念論」とか「人間中心主義」といったイデオロギーは、(それらが厳密に言って何を意味するにせよ)必須ではないものとして、一応カッコに入れておくことにしよう。

そこでは、第一に真理観念そのものの見直しが不可欠のものとなる。むしろ、排中律や二重否定律の制限そのものが、この見直しの結果なのである 。

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さしあたり、ハイデガーの真理概念の解釈から始めよう。ハイデガーは、「真理」をギリシア語のアレーテイアの語源に遡って、「蔽われなきこと」「顕わであること」「発見されてあること」と解釈した。ハイデガーは、アレーテイアを実現する、見えるようにさせる、sehenlassenする力を、ロゴスのレゲインする(取り集める)働きに求めている。即ち、現象はある意味ではもともと何かによって蔽われているわけではなく、散在しており、そのことで他のものに取りまぎれて、気づかずに見過ごされ、見落とされているという意味で隠蔽されているのである。ロゴスは散在された現象の断片を取り集め、一つの図柄へと取りまとめることによって、それをある意味として浮き彫りにする。こうしてアレーテイア=発見が実現されるのである。

してみると、「偽であること」「偽りを語ること」と「覆い隠すこと」は同じことであろうか? 覆い隠すことは、偽を言いふらすことによってなされるわけではない。ある意味では、むしろ真であることを言いふらすことによって、隠蔽されるのである。

プトレマイオスの天動説とか、十九世紀のエーテル仮説などが、当時の物理学者から真実を隠蔽したのは、それらが偽を言いふらしていたからではない。むしろ、それらの学説が一定の真理性を保持していたからである。隠蔽性はその隠蔽する力を、真理そのものから得ているのである。

このようにアレーテイアとロゴス(言葉)・レゲイン(取り集め)との本質的連関に注目することは、真理を存在(者)の現象と見なすことである。かかる真理観を、「発見=真理観」と呼ぶことができよう。それによれば、おしなべて発見は何ものか(存在者)の発見である。実在しないものの発見など、発見では有り得ない。

しかし、以上のような真理と実在の連関の強調は、実在論を含意するものでは決してない。むしろ、「発見=真理観」は、反実在論とのみ調和するのである。この点、いくらか詳しく説明する必要があろう。通常、反実在論は構成主義的に説明されるから、真理とは、観念または諸概念からの新たな構成(たとえば証明の構成)であり、実在の発見であるというよりも、一種の発明である、と説明されることが多い。このような説明に共感するにせよ、しないにせよ、それが反実在論にとって必須のものでないばかりか、いろいろの観点から、最適な説明とも言えないことを示すことになろう。

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それを説得的に示す事例として、アリストテレスの「中庸」の徳論に言及しておくのがよいだろう。それによれば、徳は悪徳と悪徳の中間にある。たとえば、「勇気」は、「憶病」と「向こう見ず」の中間にあり、「健康」は「不健康」と「不健康」の中間である。太りすぎても不健康、やせ過ぎても不健康など。

 問題は、勇気が憶病と向こう見ずの間のどこに存在するのかということ。真ん中をどこでも指定すれば、そこに勇気が有るというわけではない。勇気は絶妙なバランスを達成したただ一点だけであり、憶病や向こう見ずよりはるかに希少であるから、中庸を射当てるのは難しい(実在の希少性)。

今、「勇気」と呼ばれる存在が発見されていない段階を考えてみよう。すると、そこでは「憶病」と「向こう見ず」には、何ら倫理的意味は存在しない。「憶病」とは安全を好む性格であり、「向こう見ず」とは冒険を好む性格である。そこには別段、倫理的意味はない。甘いもの好きと辛いもの好きのようなもの。またそこでは、安全を好むことも冒険を好むことも、幾分かづつ混じり合いながら連続的なスペクトルを形成しているだろう。憶病も向こう見ずも、連続した性格として理解される。だが、徳と悪徳にはこのような連続性はない(実在と不在の非連続性)。

そこに、いかにして「勇気」が発見されるのであろうか? 戦場にそれは発見される。重装歩兵団の戦法にとって、いかなる資質が不可欠であるかという観点から、「勇気」という徳目が発見される。ギリシア人にとって、この戦法の有した精神的意義は、いくら強調してもしすぎることはない。兵士たちがごく身近で互いに見えるところで戦うことが、その戦法にとって肝要なのだ。アリストテレスは『分析論後書』で戦闘場面に言及している。

あたかも戦のさなかにおいて、戦列に総退却が起こるとき、一人が踏みとどまると、もう一人が踏みとどまり、つづいてもう一人が踏みとどまるというようにして、最初の出発点が確保される。(同第二巻第19章)

ここでは、「勇気」のポリス的本質が鮮やかに示されている。一人の勇気の表現が他の人々に勇気を与え、それがまたあらゆる人に勇気を与える。かくて、互いに互いを見つめるポリス的連帯が、勇気の母胎となるのである。

何より肝心なのは、同僚と盾と盾を重ね合わせ、各自が持ち場を守って戦線を堅持することである。憶病風に捉われて隊列を乱すことも、あるいは向こう見ずにも隊列を離れて一人敵陣に攻め込むことも、ともに重装歩兵戦法にとっては致命的な結果を招くだろう。「勇気」は、重装歩兵団の戦法にとって、最大の戦力を引き出すような心構えとして、積極的な実質を与えられるのである。

すると、「憶病」と「向こう見ず」は、今やいずれも勇気の欠如として捉え返されるだろう。かくて、このようなバランスが有るか無いかは、一転して倫理的意味を帯びるものとなる。我々の概念空間が劇的に変容する。徳とその欠如は、一者の存在とその欠如として、一対多の関係になる。存在と不在の関係は、一対一ではなく、一対多の関係である。

存在・不在の関係は非対称となる。勇気という徳とその欠如の関係は、一対多の関係であるから、徳を否定すれば悪徳になるが、悪徳を否定して徳になる保証はない。憶病の否定は、勇気になるかもしれないが、また向こう見ずになってしまうかもしれないからである。これは二重否定律が一般には成立しないことを意味する。

このような非対称性は、言葉を変えれば、存在は不在を限定するが、不在は存在を限定することができないという非対称性と言うこともできよう。勇気と言えるポジティヴな一点を逸すれば、すべて悪徳になってしまうのであり、憶病と向こう見ずを足して二で割るような仕方では、決して勇気を規定することはできない。つまり、勇気は二つの悪徳の中間として規定されるのではなく、二つの悪徳こそが、勇気の欠如として規定されるのである。勇気が存在者(一者)として発見された後で、初めてそれの欠如が「悪徳」と規定されるわけである。

発見(アレーテイア)として真理を捉えるならば、発見されてあることと、その否定すなわち隠蔽されていることとの間に、排中的関係が有ることは明らかであるが、それは発見されてあることと偽であることとの関係とは言えない。この間には、いずれとも発見されていない場合が存在するからである。したがって、真であると発見されてあることと、偽であると発見されてあることとの間に、排中的関係は存在しない。即ち、アレーテイアとしての真理観は、一般に排中律の適用を認めない態度と調和的であることになる。

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存在者の発見によって概念の空間が変容する。それがもたらす理論的、実践的意義を理解するために、「場所」の存在について見てみるのがわかりやすい。我々の多くは、もちろん物体の存在を認めるだろうが、同様に場所をも存在者と認定しているだろう。物体を存在者と認めないような者(たとえば頑強なセンスデータ論者)が陥る苦境に比べれば、場所を認めないことがもたらす苦境はまだしも堪え易いものだが、それでもかなり多くのものを失うことに変わりはない。たとえば、獲物を追跡することはできようが、それを見失ったとき、それがどこにいるか、それがたとえば向こうの樹の下にいるか…などと考えることができない。木の下の場所と獲物がいる場所とが同じ場所である、という観念が使えないからである。場所の存在の発見は、我々の概念空間を変容し、可能的経験を拡大する。

我々は普通、「北に1キロ行った後、東に1キロ行くこと」と「東に1キロ行った後、北に1キロ行くこと」とが、ある意味で同じことであることを理解している。それはもちろん、ある意味では違うことであるが、同じ場所に行くという意味では同じことである。これを「場所の定理」と呼ぼう。この定理は、「アプリオリ総合判断」と呼ぶのがふさわしいような性格をもつだろう。場所の存在を認めることによって理論的・実践的可能性が拡大するのは明らかであるから、これを「総合的」と呼ぶことは自然である。また、たとえこの二つの経験が、まったく違った風景の経験をもたらしたとしても、そのことをもって我々はこの場所の定理が阻却されたとは見なさないだろう。むしろ、方角か距離を間違えたのではないかと見なす。つまり、この定理は経験に先んじて、その規範的構造を意味づけているのであって、その意味でアプリオリなのである。

数学の定理も一般に、このように新たな言語使用によって新たな存在や存在連関を発見し、それを我々の合理性と経験の空間に導入する点で、アプリオリ総合判断である。その場合、問題が解かれていない時点でその問題が持っていた(と思われていた)意味と、解かれてからそれが獲得した意味の間には、ずれが存在することになる。たとえば、2を2回かけるのを22(2の2乗)、2をm回かけるのを2m(2のm乗)と表記するとき、2−2(2のマイナス2乗)は何を意味するであろうか? 2を−2回かけるということには意味が与えられていない。しかし、2m×2n=2m+nであり、2m╱2n=2m−nという演算が知られると、そこから拡張して2−2(2のマイナス2乗)の意味はたやすく与えられよう。この結果、「2を−2回かける」という表現が、いわば隠喩表現として読み解かれたわけである。

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遠くに見えるテアイテトスをソクラテスと取り違えることは、テアイテトス、ソクラテスの両方を知っている場合も、知らない場合も、片方だけを知っている場合も、不可能である。あの人をソクラテスと取り違える場合も同様である。この議論の前提となっているのは、それぞれの指示句(「あの人」「テアイテトス」「ソクラテス」など)が理解されるために、それぞれの指示対象を同定する能力が必要であること、その能力はいかなる文脈においても、同様に行使できなければならないということである。ここで、文の指示の理解が同定の能力と結び付けられる、というかなりもっともらしい前提から、その不可謬という不合理な結論が帰結してしまう。

しかしこれは、前提が強すぎるためである。指示句の使用には、指示対象がいくつかの典型的文脈において同定可能であるというだけで十分である。「あの男」と「ソクラテス」では、同定能力の典型的行使場面が違うから、取り違えることは可能である。たしかに指示の理解において、前提となる真理洞察が存在し、それが欠けている場合には、指示自体が成立しないと言うことはできる(presuppositionの議論)。指示対象の同定とか、その本質理解がそれである。これは言表や命題の真理が、存在(アレー)発見(テイア)・暴露としての真理にもとづけられねばならない典型的な場合である。しかし、それは必ずしも指示の理解に限られたことではない。

これを一般化すると、文Fa、Gbが理解できるならば、Fb、Gaも同様に理解できなければならないかどうか、ということになる(これをEvansは一般性制約generality constraintと呼ぶ。The Varieties of Reference p-101)。これも同様に強すぎる制約であろう。文構成要素の意味は、そのあらゆる文脈での理解可能性を前提する必要はない。ヴィトゲンシュタインは、水占い師の例をあげている。我々は「私は感じる」も「地下十メートルに水がある」も、それぞれある文脈で理解しているにもかかわらず、「私は地下十メートルに水があると感じる」の意味をすぐに理解できるわけではない(『青色本』ちくま文庫版p−25)

このことは、文の理解において、指示同定の場面のみならず述定の場面にも、その真理洞察が意味理解に先行せねばならない場合があることを示している。我々は、あらためてその文脈におけるそれぞれの語句結合が、いかなる真理(アレーテイア)を見えしめるかを理解することを通じてはじめて、その意味を理解するに至るのである。

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たとえば、「北海道は四角形である」という隠喩は、北海道を四角形として見るある見方を見出すことによって、初めて意味を得る。しかし「北海道は三角形である」という隠喩は、どのようにして成立するだろうか? どのようにしても北海道を三角形と見る見方が思いつかない場合、それを有意味には理解できない。たとえ「北海道」も「三角形」もそれぞれの典型的文脈では理解できても、この文脈での意味を与えられることにはならない(一般性制約の制限)。その点、「北海道は三角形のようである」という直喩表現は、それが適切な発話でないことがわかっても、依然として有意味である。北海道と三角形の間に何らかの類似性がある、という(正しくない)主張として理解できるからだ。しかし、隠喩の場合、何らかの真理洞察(アレーテイア)抜きには、その理解内容をもつことができない。

スフィンクスの謎は、「人間とは、朝四本足、昼二本足、夕方三本足の存在である」という隠喩の意味を読み取るところにある。それは、人間存在の中に時間性という本質を洞察することによって、はじめて読み解かれる謎である。一般にすべての謎は、その意味理解を問題の一部として含んでいる。問題の意味がわかればそれは解けたも同様なのである。

「北海道は三角形である」という隠喩も、突然、意味が理解されることがある。それは、北海道を真横から見ることによって、大雪山系を頂点とする平べったい三角形を見出すことを思いつく場合。かくて初めて、北海道は三角形として現れる(sehenlassen)。

「全ての三角形の内角の和は二直角である」という定理は、それと同様、三角形の内角の和を、二直角と見る見方を提示されて初めて、その意味を与えられる。つまり、ひとつの頂点を通り底辺に平行な直線を引き、そこにできる二つの錯角の等しさを見て取ることによって、その見方を与えられる。つまり証明が、その見方を与えるのだ。ゴールドバハの推測「あらゆる偶数は、二つの素数の和で表わされる」の意味は、偶数を素数の和として見る見方が提案されなければ、理解するすべがないだろう。それは証明のみが与えることができるものである。即ち、証明が与えられなければ、推測は意味不明な隠喩に留まるのである。ちょうど「北海道は三角形である」のようなものだ。もちろん、「北海道は三角形であるか否か、いずれかである」という言明も、それが意味不明に留まる限りは、真とは言えない。それは「幽霊はいるかいないか、いずれかである」と言うようなものである。

坐無敕時間性

恋が発見される(現象する)場合、それは既に始まっていたものとして、すでに恋に落ちてしまっていたものとして発見される。それならそれは、いつ始まったのであろうか?一目ぼれという言葉もあるが、遭った瞬間から始まったと言えるだろうか? その時までに、我々の心の準備ができていなかったとしたら、その出会いで恋は芽生えなかったであろう。プラトンなら、それは我々の魂が地上に降りて来る以前、天空を経めぐりながら永遠の美を眺めていたときから始まっていたのだ、とも言うだろう。

アリストテレスは、「運動に始まりの時はない」(『自然学』第6巻第5章)と明確に述べている。即ち、意味が生成し、その現象の運動が完成する終局の時はあるが、始まりの時はいつとも言えず、あるとも言えないのである。いつとは言えず始まっていたものが、いよいよ発見されるのであり、遡及してその運動が過去時制で語られるのである。こうして意味が時間遡及的に与えられる。つまり、過去の時点では与えられ得なかった意味解釈が、発見以後、遡って過去の意味を構成するのである。

これは、とりわけ「問題」の意味とその解決の関係を考えるとき、重要な意味をもつ。なぜなら、「問題」が問題であるのは、その本質、その真の意味が未だ明確でないことによるのであり、その意味を解読することこそが、その問題解決の一部(あるいは全て)を構成しているからである。しかるにその意味は、解決を待ってはじめて明確な形を取る。そのとき、初めて「この問題は、本当はかくかくの意味だったのだ!」と語ることができる。つまり、この問題はそれを解く以前に持っていた表面上の意味とは違った意味において、何ものか一者を指し示していたことがあらためて分かった、という形を取っているのである。しかし、その発見は、そこに込められていた意味を暴露しているのであり、まったく新たに勝手に創り出(構成)しているのではない。

このような新たな存在の発見がもたらすものは、「恋」という言葉によって、恋という存在が我々の思考空間に導入される、という場合を見れば明らかである。それによって、ただ動悸とか火照りでしかなかったものが、遡って恋の一部であったものという意味を帯びて捉え返されるのである。意味生成の運動(現象するという運動)にとっては、それが何を現しつつある運動であったのかが、結果から遡って与えられる。それに対して、静止には、何の静止であるのか(本質)が属さない。ここにも運動と静止の非対称性が存在する。

史‥学的な含意

以上のような発見=真理観の反実在論的性格を洞察することは、法哲学において重要な含意をもつ。公害裁判においては、通常それを明確に違法と規定する実定的法規範が存在していない。たとえば、「日照権」を争う裁判が提訴されたとき、もともと高層建築が存在していなかった段階で、それを規制する実定法が存在していないのは当然である。

実際の水俣病裁判において、企業の違法性を明確に規定する実定法は存在していなかった。さまざまの公害保障の法規定は裁判を受けてしだいに整備されたものである。はじめて行政当局の司法責任を認定した熊本地裁の相良判決においては、準拠されたのは食品衛生法四条(有毒食品の禁止)である。それによって毒物を含有する疑いが有るものを規制すべきことが定められている。しかし、食品衛生法四条2項はもとの形では「有毒、または有害な物質が含まれまたは付着しているもの…」の取り締まり義務を記していたものであり、それが「有害な、もしくは有害な物質が含まれ、もしくは付着し、もしくはこれらの疑いが有るもの…」に変更されたのは、1972年の法改正においてであり、「毒物含有の危険」に対する予防原則が化学物質を含むと明確に規定されたのも、1972年の法改正からである。

それにもかかわらず相良判決は、少なくとも1957年の段階では食品衛生法四条を適用すべきであったと、遡って行政当局の違法性を認定した。裁判が違法性を認定するということは、すでにそれ以前の段階で存在していた法が発見されるということにならねばならない。即ち、実定的法以前に存在する法が、時間を遡って裁判によって発見されねばならないということである 。

このような遡及的時間性が、法の場合に最も劇的に現れるのは、戦争裁判の場合である。

通常の刑法犯罪においては、一般に、罪刑は明確に法によって定められたものでなければならないという「罪刑法定主義」という原則が存在し、特殊には、行為時点において適法であったものを事後において定められた法によって遡って処罰することを禁じる「事後法の禁止」が存在する。

ところが平野龍一によれば、「侵略戦争は条約によって禁止されており、違法である、しかしこれを処分する明文はない。しかし東京裁判では、侵略戦争を理由に処罰し、事後法の禁止に触れるという弁護側の主張は入れられなかった。」(『刑法総論機挈斐閣p−67)ニュルンベルク裁判においても「人道に対する罪」や「平和に対する罪」などの理念に基づいてナチス犯罪が裁かれたが、そこには明確な実定法的規定は存在していなかった。当時主流であった法実証主義的法哲学に基づいては、これらの戦争法廷を位置づけることが難しいのである。もしそんなことになれば、二つの戦争裁判に基礎においている戦後の安全保障体制や国際法の存立そのものが、危うくなりかねない。

もともと実証主義的立場からは、国際法を法として位置づけることが難しい。法の権威をより上位規範からの授権によって説明する理論では、根本規範そのものの権威を説明することはできないし、国家主権を超えた国際法の権威も理解できないからである。

しかし、遡及的時間性に基づけば、このような困難は霧のように晴れるのがわかる。裁判とは、さまざまの現象を取り集める意味をそこに見出そうとする試みの一つであり、とりわけ「違法性」という意味を見出すことによって、そこに前提されていた法を発見するのである。それが実定的な成文法である必要はない。そもそも、「成文法」や国会で立法されたもののみを法と見る視野狭窄こそ、法の本質を見誤るものにすぎない。法とは、主権者や権力による命令などではなく、社会的諸問題の解決の類型(範型・判例)の記憶に他ならない。法の権威は、上位規範からの授権に基づくものではなく、それ自身の問題解決力に基づくのである。即ち、その法が克服した無法状態の記憶に基づくのである。

(補注)メシア的時間性

1969年私は、小説家の三島由紀夫氏との議論で、終末論的時間について語ったことがある。そのときの議論の文脈を、今の人に理解してもらうのは難しいが、三島氏が「伝統」という形で歴史に連続する時間を考えておられたのに対して、私はそのような連続性において捉えられた「伝統」は、支配階級による「正史」の偽造の結果にすぎないと感じていた。他方、その場に居合わせた演劇人の芥正彦氏は、時間は問題ではない、特権的空間(「解放区」=劇的空間)において、瞬間と永遠はいわばスパークするように直接つながるという趣旨の主張を展開された。私は芥氏のそのような審美主義は、政治的無責任にすぎず、責任倫理の欠如に等しいと感じていた。その両者に対して、革命的共産主義者の終末論的時間を対置する衝動に迫られたのである。当時私は、共産主義者の終末論的歴史意識と、ハイデガーの先駆的決意性の時間性が基本的に同一のものであると考えていたのであるが、四十年以上たってみると、当時の私自身の誤りがよくわかる。両者は類似したものであるどころか、まったく逆向きのものだったのである。

ハイデガーの時間性では、未来からはありきたりのもの、わかりきったもの、志向的意味の範囲のものしか到来しない。というのは、『存在と時間』において、将来の次元はもっぱら現存在の実存可能性として考察されており、だからこそ先駆(先走り)して予期することができるものと見なされてしまうからである。これに対して、たとえばキルケゴールは、より深く時間の超越的性格を理解していた。予期できない、したがってそもそも可能であるとも言えなかったものが、歴史の現実の中に突然突き刺さって来ることを、「罪の到来」とか「メシアの到来」として考察しているからである。アダムの罪によって初めて、罪が可能になったのであり、イエスの出現によって初めて「メシアの到来」という預言の意味の謎が解けたのである。

意味が時間を遡及して見出され、本質が過去形で語られるということは、また時間における非対称性を導入することになる。つまり、未来の次元は過去や現在と違って、根本的に非実在なのである。だからこそ、未来が現在を超越することが可能となる。つまり、「未来を見据える」ことなどできない。思い浮かべることすらできないからである。考えることもできないものが到来する。これをメシア的時間理解と呼ぶこともできよう。

メシア的時間意識は、たとえばフランツ・カフカの『流刑地にて』に描かれた処刑機械の上で、背中にうがたれた罪の暗号を読み取らねばならない囚人たちの姿の中に、その典型を見出す。これは苦悩の中で問題を担うユダヤ民族の姿であり、我々の姿でもある。そして、ペレルマン氏の背中に刻まれていたのは、ポアンカレ予想だった!

メシア的・終末論的時間意識は、到来する未来の方に目を向けているわけではないのだ。むしろ、眼差しは過去に向けられている。そこには、意味もなく倒れていった多くの死者たちの累々たる骸が転がっている。ワルシャワの蜂起に倒れた者たち、モスクワ裁判によって汚名を着たまま死を引き受けた者たち、その名も知られることのないまま蒸気のように消されてしまったあまりにも多くの人々の死に、いかなる意味があるのか? 古代人は、ヘクトールがアキレウスの栄光を輝かせるために、ハンニバルはスピキオの栄光のために、必要だったと感じることができた。しかしアウシュヴィッツは何のために必要だったと言えるのか? そこにはいかなる栄光も存在しない。これらの死者たちの意味が、いずれ到来する終末には明らかになると信じること、それは解決さるべき問題が存在するということである。メシアがどのような意味で到来するのかは、誰にも知られていない。したがって、その問題の解決が、それ以前にその問題の意味が、いかなるものであるのか未だ知られていない。それが到来するのである。それは、繰り返し試みられながら流産した希望や敗北の意味を、反復の中で取り戻すこと、死者たちの再生を意味するだろう。

私は、ハイデガーの時間性が、問題の驚くべき解決とか、概念を変容して意味を生成する時間の遡及的構造を、まったく見損なっていること(それは彼の存在論の期待外れの貧しさに反映している!)に、当時気づかなかったのである。それでも、偽造された「伝統」から奪取されるべき真の伝統の非連続性、未来を現在の連続性と捉える「進歩」の幻想に代えて強調さるべき、到来する未来の真の超越性、また意味の到来が現在に生きられた闘争のただ中にこそ、すなわち苦悩の中で生き抜かれた問題のただ中にこそ、生起するものだという直感――これらの根本洞察においては、革命的終末論の精神は基本的に正しかったと、今も確信している。


註1)二値原理(有意味な命題は真か偽かいずれかの値をもつ)の否定を反実在論の中心とする見方もあるが、以下に述べるように、真理概念そのものの見直しを提案することになるので、その場合「二値原理」は多義的となってしまう。発見=真理観を取るなら、発見されていることとしての真理と、発見されていないこと(隠蔽)とは、排中的関係となるが、隠蔽は偽が発見されていること(その命題の反対が発見されていること)と同じではない。したがってその意味では、真と偽(が発見されていること)とは排中的ではないことになる。

註2)ここでは、わかりやすさの観点から、はじめに排中律をめぐる問題に言及しているが、意味論的探究という観点から言うならば、順序が逆なのである。初めには言語の意味の理論にとって出発点となる指示の理論(真理値をはじめとする意味論的価値の理論)が述べられねばならない。それは言語習得にとって一番初めの規範的観念としての「真理」であり、より厳密に言えば、「適切発話」という認定である。これによってすべての発話の適切発話可能条件(主張可能性条件)が知られるようになる。それをもとに、適切発話可能条件に対する意味論的貢献として、我々の意味理解が解釈されてくるのである。そのさい、「真理条件」と「主張可能条件」とを区別するならば、実際に意味論的探究にとってカギとなるのは、主張可能性条件の方であろう。真理値を確定する方法がわからない段階では、その文の発話にいかなる意味があるか、探究する手段がないからである。つまり、主張可能性条件として裏うちされない「真理条件」には、意味論的探究における価値が欠けているのである。たとえば、「幽霊が存在する」という命題を主張するための実効的手立てが与えられていないとしたら、この文は実際に幽霊が存在する場合に真となると言ったところで、その文の意味理解への手掛かりを与えたことにはならないだろう。「主張可能性条件」については、反実在論的特徴がすべてそろっている。ある命題pが真であるのは、それが主張可能な根拠に裏付けされている場合であり、それが主張可能性を欠くということは、必ずしも〜pを主張可能であるということにはならないから、「p⋁〜p」が主張可能であるとも言えない。つまりpが主張可能であることと、〜pが主張可能であることとの間には、排中的関係が成立していないのである。
 以上、意味論的観点から、反実在論的真理概念が必須のものであることがわかる。反実在論は、あらかじめ特定の形而上学から要請されたものではない。むしろあらゆる形而上学や存在論に先んじて、その基礎を据える言語の分析から要請されるのである。フレーゲやアリストテレスの洞察したように、形而上学は意味の理論と言語の分析に先導されねばならない。

註3)水俣病裁判については、戸田清「水俣病事件と食品衛生法と憲法」(『長崎大学総合環境研究』所収)に負う。http://todakiyosi.web.fc2.com/text/minamata.html参照


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