2016年09月02日

倫理的判断の真理値

以前、「Peacocke(2)倫理の法廷」2015年10月26日で述べたように、倫理学に対する私のスタンスは、ほぼアリストテレスに沿ったものである。

私の議論にお付き合いいただく人には、倫理が我々の単なる感情の表明などではなく、規範的で合理的な言語活動であることを、とりあえず認めていただくことにしよう(吟味や批判が可能な、理由づけられた発話の活動)。そうでなければ、議論に付き合うことは必要でも可能でもないからである。

もっとも議論に開かれているといっても、議論が常に決着可能だということではないし、どの倫理命題にも真偽が確定しているとか、二値原理や排中律が成り立つということでもない。これは倫理学における反実在論であるが、それは、真理値付与を一般に否定するものではない。

しばしば、すべての倫理命題に真理値がなければ、まじめな倫理的議論が不可能だと考えるような非常に素朴な議論が見られるので、この点は特に強調しておきたい。倫理命題に非認知主義を取らない(真理値を認める)ということと、倫理命題に常に二値原理は成り立つわけではないとする反実在論とは、両立するのである。

私が言いたいのは、倫理的議論の構造上、真理値が不可欠であるということだ。もちろん、真理のデフレーショニズム(すべての文脈で、真理述語付与を、当の命題の主張によって置き換えることができるという主張)も否定される。

〔真理のデフレーショニズムは、意味理論における真理(ないしは主張可能性などそれに代わる意味論的中心価値概念)の重要性を無視するものであるが、真理概念に代えて主張可能性などの概念を中心にして、意味理論が構成できるのは当たり前のことである。しかし、このような概念を中心にしても、主張可能性条件意味論は、「主張可能である」という述語の付与を、実際の主張で置き換えることはできない点で、デフレーショニズムが成り立たないことが示される。〕

今、「殺人は悪である」という倫理的原理と、「ソクラテスを殺すことは殺人だ」という事実言明から、「ソクラテスを殺すことは悪である」という倫理的判断を導きたいとする。前件の一つは価値言明であり、もう一つは事実言明であるが、一方だけが真理値を持つのでは、この推論は単純な三段論法(modus ponens)にはならない。

また、これを条件命題で表現し、「もし殺人が悪で、かつソクラテスを殺すことが殺人であるならば、ソクラテスを殺すことは悪であろう」と主張したいとき、条件節の前件は主張されているわけではなく、単に仮定されているだけである。このような場合、「前件が真であるならば」を、その主張で置き換えることはできない。

倫理的議論の中で、このような条件命題は、多用されねばならない。論敵の倫理原理には、私がにわかに同意できない(主張できない)ようなものも含まれているだろう。それを論破するために、その仮定を設けて、そこから倫理的直観に反する帰結が導かれることを示して、前提となった原理を批判する必要があるのだ。

さて以上を踏まえたうえで、まず第一に我々の倫理的判断は、おおむね(とりあえず)真だと認めることから出発せねばならない(これこそアリストテレスの戦略)。

もしそれが、ほとんどの場合偽になるなら、または真偽判定が常に不明となるほど判断にばらつきが出るものとすれば、「善」とか「悪」という言葉に一定の意味があるとは言えないことになろう。各人各様にその記号を使っているだけ、または各人がそれぞれ自分に好みを表出しているだけということになろう。

しかし他方、判断が常に一致するなら、その場合も、判断は真でしかないことになり、「真」の付与は不要となる。

実際には、多くの人の直感的判断は一致するし、真でもあるが、それでも判断に食い違うことがしばしばある。ここで、倫理の法廷が開かれる。そこでは、各人が特定の行動についてのそれぞれの倫理的判断(善・悪)の理由を表明せねばならない。

それらの理由は、いずれも原理に訴えるものとなる。「殺人はおおむね悪である」「盗みはおおむね悪である」「嘘をつくのはおおむね悪である」…。これらの原理には、みな「おおむね、とりあえず(prima facie)」がついている。倫理的判断は、例外なしに厳密に妥当するものでは決してないからだ。

これらの原理の正当化は、事例についての直感に訴えてなされねばならない。事例についての直感から原理が立てられ、その原理から事例が判断されるが、ここには悪しき循環はない。原理とは、倫理的直観を説明するものなのである。

事例a,b,c…がいずれも悪いと直感的に判断されるのはなぜか?それは、おそらくはこれらの事例が、たとえば「弱い者いじめ」に該当し、「弱い者いじめは大むね悪い」という倫理的原理の真理性に訴えて、そのそれぞれ個々の判断の真理性が説明されるからである。

a,b,cが悪いと感じられたのは、それがいずれも弱い者いじめの事例になっていて、弱い者いじめが悪いというのが真理であるからである。倫理的原理も真理値を持つから、事例の直感的判断の真理を説明できるのだ。

以上、倫理についての合理的議論と熟慮を可能ならしめるア・プリオリな要請として、真理値の必要は明らかであるが、このことは、一切の有意味な倫理命題が真偽いずれかの値を持つ(二値原理)ということでも、倫理命題に排中律が常に成立するということでもない(反実在論)。

個々の直感的判断において真偽の決着がつけにくい場合があることは、よく知られている。妻への義務を守るべきか、愛人との約束を守るべきか? 主君のために、または大義のために、親を密告することが許されるべきか?…

このような事例をめぐっても、議論が可能でなければならない。そこでも、前述のようにprima facie付きの倫理原理に訴えることによってなされる(倫理の法廷)。それぞれの判断は、その正当化根拠としてそれぞれの倫理原理に訴えることになる。

それぞれの倫理原理が正当化可能かどうかは、その事例以外の多くの関連事例に対する倫理的直観を積み重ねることによってなされる。

また、訴えられている倫理原理がともに正しくても、この事例で、どちらが優先的に適用されるべきかが、さらに争われる。どちらかを優先させた場合、似たような場合に、直観に反するような判断を下すことにならないかどうか、さらに倫理的直感同士の整合性を吟味・熟慮せねばならない。これらの複雑な考察が総動員されるのが、倫理の法廷である。

しかしその結果、決着がつかない問題がいくつも存在するだろう。これは、単に正解が存在はしているのだが、いまだそれを我々が認識できていない、とか確実ではないということではない。

思慮が足りないために、間違った判断を下してしまう場合もあるが、すべてがそういう問題ではない。アンチゴネの倫理的決断などは、そうしたものだ。彼女の行動に対して、自分なりの「正しい判断」を下して、ソフォクレスに教示してやれるかのように思い上がる小賢しい倫理学者は、そこで示されている本当の深淵を見ていないだけである。

かかる場合、個々の直感が分裂するだけでなく、それを弁証しようとする倫理原理の真偽も決着がつけられない。

これらの議論構造の総体が倫理判断を支配し、それらの諸活動(判断、理由づけ、批判、吟味、原理の探求とその批判…)を意味づけているのであり、それ以外のところから(たとえば脳生理学とか心理学…に訴えて)それらの意味を調達するすべがない以上、かかる活動における未決定は、端的に二値原理が成立しないことを示している。つまり、このような熟議の外からいかなる手立てでも、命題を主張可能にすることもできないのであり、その限りで真理値を付与できない場合があるということ。

これは、何らかの工夫が将来創り出されることによって、真偽の決着がつく可能性まで排除するものではない。たとえば、多くの事例の積み重ねが確立される場合、「日照権」という倫理的価値が実効的なものとして妥当なものとなる場合がある。

このような権利は、初めから妥当して存在していたが、いまだ知られていなかったものだった、というわけではない。実効的でない段階では、規範的妥当性をもって存在してはいなかったのである。ただ机上の空論としてあったとしても。机上の空論で人に倫理的判断を下すわけにはいかない。

ある段階まで、農奴の解放は机上の空論であったかもしれない。与えられた軍事技術と乏しい生産力のもとでは、異民族支配から臣民を保護するために、職業的な軍事的習熟が必要であり、その身分(武士身分)が必要であるかもしれない。このような社会では、農奴の保護義務と彼らの搾取が制度の一部なのであり、自立できない(保護が必要な)農奴の「解放」は机上の空論と見なされよう。

倫理的原理に反実在論を取るのは、我々の可能的経験の拡大(自由の拡大)に応じた倫理の通時的変化について、有効に議論を進めるために必要だからである。

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