2016年09月03日

社会契約とロールズ

社会契約説は、国家を理性のみによって正当化する野心的な試みである。

だが、自然状況でいかにして約束を守ることができるかに答えることは難しい。

理性と恐怖だけを頼りに議論を進めるホッブズの言うように、自然状況が誰から見ても耐え難いとしても、そこで社会契約を結ぶことがどうして可能なのであろうか? それをしも利用して、相手を出し抜こうと考えるのが本来「自然状態」なのではないか?

ルソーの場合は、少し状況が複雑である。自然状態から始めるのではなく、文明によって堕落した自然から出発するほかない。そこで、不自然なものを取り除くことが必要となる。そのために国家の暴力が必要だろう。

これがルソーのいわば裏の顔である。この点をかぎ取った自由主義者には、それゆえルソーはあまり評判が良くない。

よく読むと、ルソーは一方で人民から理性によって国家を創る道と、他方で、国家が暴力(教育)によって、それにふさわしい人民を創る道との、二つの道が用意されていることがわかる。

この点を重視すれば、ルソーにおいては、理性だけに基づいて国家を正当化する議論の持つアポリアは、答えられているということができるだろう(一種のオートポイエーシス論)。つまり、初めから人民に契約を守る力が備わっているわけではなく、国家の力によって鋼鉄のように鍛えられて、ようやくまともな人民――社会契約にふさわしい人民を生み出すことができる。

ここには一種の循環がある。前近代的な社会の中で、初めから民衆の力を全面的には信じることなく、革命を推し進める必要のあったレーニン的な発想ともいえる。ここでは国家は、教育を為すのであるから、暴力を伴った権威として現れるはずである。

権威が臣民を作り出し、臣民が権威を支える。これは、社会契約説よりも、保守主義に近づく。

ただし、合理的な国家との違いは、権威が偶然性や不合理性を取り込んでいる点である。これが政治哲学にいかなる違いをもたらすか、はなはだ興味深いところであるが、いまは置いておこう。

ロールズも、アメリカの伝統の表現たる限りで意味がある。それは、個人の素質や才能は、社会のために活用する責任があるというプロテスタント的観念である。

当初ロールズは、「無知のヴェール」という想定によって、社会契約説が白紙から法状態への移行を理性的に正当化するのと、似たロジックを使っていた。

しかし、そこでいかなる信念や知識が利用可能であるかという点で、あいまいさが付きまとうのである。

つまり、ロールズの場合も、一種の社会契約説ととられる限りにおいては、その理路は破たんしているのだが、アメリカの伝統という権威に対する正当な表現と見る限りにおいて(保守主義的にとらえ返される限りにおいて)、意味があるのだ。

たとえば、ロールズの「格差原理」はどのようにして正当化できるのであろうか? ロールズによれば、格差がある社会において、競争によってより良いものが開発され、それが社会全体の福祉向上に貢献する。それが最低水準の人々の福祉の向上に貢献する限りにおいて、無知のヴェールの下においても何人も反対できない普遍的正当性を持ちうる。

しかし、競争によって社会が発展するためには、例えば競争が、怨恨やそれに伴う破壊より、繁栄をもたらすというアメリカ社会的経験が前提とされているのである。

嫉妬や怨恨が抑止されるのは、急速な拡大をし続ける社会においては、怨恨にこだわり続けることが著しく不利を招くからにすぎない。

どんなわずかな格差さえ、家族の生死に直結するような過酷な社会、それゆえそれが激しい怨恨につながる社会では、格差の存在は容易に社会の破壊に導かれるだろう。

またあるいは、成員の厳密な平等によってのみ社会防衛に必要な軍事的団結が可能となるところ(古代スパルタなど)では、いかなる戦士階級の成員たちの間の不平等も、社会の存立そのものを危うくするだろう。

そのような危険より、新規投資のチャンスの方が圧倒的に大きい重要性を持つ社会、軍事より産業に重きが置かれる社会でこそ、「格差原理」が成立するのである。それゆえ、その原理の背景に、アメリカ的経験があることを見て取るのはたやすい。

また、業績が称賛以上に、収入によって報いられるべきだという観念――競争が経済と結びつけられることによって、技術革新などにつながる――が妥当するためには、おおよその市場経済が前提であろう。狩猟採集民にとって、技術革新は成員の共有物とされ、収入の格差につながらない。したがって、格差原理を正当化できない。

しかし、このような事態はアメリカ政治の文脈にとってはイレレヴァントである。アメリカ政治では、事実上ロールズの二原理の受け入れこそがホット・イシューなのであるから、これで政治討議の中心に介入するためには十分なのである。

誰かの利益が誰かの不利益につながるようなゼロ・サム社会では、他人の損失を目指すことが自分の利益の追求となることが多いから、結局、富の奪い合いとなる。そこでは他人を貶めても自分の利益にならない場面でも、そのような心性が習慣化しているので、いたるところ怨恨感情が渦巻くのである。

ところが、急速に拡大している社会では、怨恨にとらわれたり、他人の足を引っ張っている間に、他の第三者がチャンスを生かして波に乗るから、競争の敗北にとらわれることは、事実上次の敗北につながる。次のチャンスにいち早く舵を切ることが重要なのだ。

アメリカのような社会では、開拓者的心性が習慣化しているので、開拓が終わり、フロンティアが消え去ると、停滞に慣れるのが難しい。

アメリカ人は、ヨーロッパや我が国では普通に見られるような怨恨心理を持たない。彼らは、それを見苦しいと見下しているものだ。

そこでは、おおらかなお人よしが好まれる。わずかな損失を意に介さず、広く分け隔てなく好意を振りまくことが、開拓史の社会には適合的なのだ。それによって、より広く好意を獲得し、情報とチャンスにアクセスできるから、このような性格類型こそが成功につながるのである。

ところが、そのようなお人よしが成功をつかめぬ時代になると、激しい一般的怨恨感情が高まってくる。彼らは自分たちの外に、「お人よし」ではない純粋の悪意を想定せざるを得なくなるのである。

アメリカのお人よしは、深く考える人たちでも、じっくり熟慮するタイプでもない。そんなことをしていると、チャンスを逃してしまうだけだ。友人を厳選するわけでもない。遠くからの来客とすぐに親しくなる愛想の良さ、気前の良さ、新人歓迎の用意、――かかる人々は、それと同じタイプの人々とこそ、急速にネットワークを広げられる。違うタイプを意図的に避けるわけではないが、気難し屋は概してパスしていく。そのようなややこしい人たちと付き合うのは時間の無駄だから。

自然と彼らの同類たちのネットワークに引っかかる情報は、彼らの価値観・人生観に深く浸透し、同質化したものとなる。ビジネスの情報、健康やアメリカ的生活スタイルの情報、コミュニティの英雄たち、スポーツやゴルフ、釣り、フットボールや野球のスコア…それらが何ともshallowであることは否めない。

彼らの思い上がった自足、外界への無関心は、やがて外界に純粋悪が想定されたとき、激しい敵意となって爆発する。彼らはいつの間にか外界への通路を失ってしまっているからである。

彼らのあけっぴろげな性格そのものが、彼ら自身にそのことを気付かせない盲点にしてしまうのである。彼らは、自分たちが他人に非寛容だなどとは、夢にも思えないのからである。

この記事へのトラックバックURL

http://trackback.blogsys.jp/livedoor/easter1916/52471149