2016年10月21日

Davidsonの言語哲学

デイヴィドソンの言語哲学ついて、初期から後期に至るまで一貫して見られる盲点について論じてみることにする。
Davidsonの言語哲学

[真理条件]
デイヴィドソンは、初期の仕事で、「真理条件的意味理論」と呼ばれるものを採用した。

それは単純化していえば、(辞書や文法書などいかなる事前的知識もない「根元的解釈」状況で)発話がいかなる状況で適切とされ、いかなる状況で不適切とされたかについての十分に豊かな情報だけから、我々がその言語についての意味論的仮説を獲得することができるとする理論である。

このことは、幼児が初めて言語を習得する場面を考えれば、よく理解することができるだろう。幼児が大人のまねをして発話する任意の発話に対して、我々は真である場合は称賛を、偽である場合には制裁を科するという条件付けをするだろう。それだけをもとにして、幼児は適切発話の条件を学んでいくことができるのである。

私は最近では、幼児の言語習得を、劇のセリフ(すでに台本に書かれたセリフ)のような発話が、日常生活の中で飛び交っている中で、唯一自分こそが語るべきセリフをその中に認めて、それに幼児が飛びつくこと、として語るようにしているが、それが基本的に広義の真理条件的意味理論に合致したモデルであることは言うまでもない。両親や大人たちから与えられたセリフをその場面で言うことが適切であることを、幼児はたやすく知るからである。

実際には、発話は、発話者の意味理解と状況だけから決定されるものではない。その状況を、彼がどう見ているかという彼の考え(意見)も介入する。

たとえば、未開人が「ガヴァガイ」と発話するのは、雨が降るときそのときだけだとする。それを、「雨が降っている」という意味だと決定するためには、彼らと我々の世界観(意見)がある程度共通している必要がある。彼らの世界観では、雨が降るときには「神が泣いている」と考えるのが普通であるとすれば、「ガヴァガイ」は「神が泣いている」という意味に理解されねばならないだろう。

個々のその状況における発話者の意見と、使用される文の意味理解の両方によって動機づけられ、決定されたものとして、個々の発話は説明されねばならない。解釈者は、その文の発話がどの状況において適・不適と見なされるかの情報の総体だけから、その発話者の意見と文の意味理解の双方を、全体論的に推定していくわけである。

この全体論的説明という点がなかなか理解しにくいところであるが、それを理解するためには、意図的行為の説明との類比関係を参照するのがいい。意図的行為を心的内容から合理的に説明するものとして、さまざまな信念と欲求の組み合わせが措定される。ここで、単独の意図的行為は、それだけでは、それが実際どのような心的態度の組み合わせによるものなのか決定できない。さまざまの組み合わせが、同様にその意図的行動を合理的に説明し得るからである。しかし、十分に多くその人の行為を観察すれば、そこから彼が持つ心的内容を推定することができるであろう。

重要なのは、我々の心的内容が直接内観などによって観察されることによって与えられるわけではない、ということである。心的内容は直接観察不可能であるが、行動の合理的説明のための仮説として措定されるのである。ここで、その人(説明される人物)の合理性が前提となるのは言うまでもない。

これらは、被説明項の総体をもとに、説明項の組み合わせを推定していく点で、類比的な構造を持っている。このように、合理的説明の説明項の決定を、多くのデータから推測することを全体論的説明というのである。

このような説明が画期的であるのは明白であろう。それは心的内容を、一人称的経験から与えるのではなく、三人称的に与えられた観察データの合理的説明として措定しようとするのであり、それによって、かつていかなる観念論的哲学にとっても解決困難に思われた「他我問題」に、解決の道を開くものであった。我々は、他人の心そのものは観察できなくても、その振る舞いから、それを合理的に説明し得る仮説として、心的内容を措定することが十分に合理的なのである。

さて、適切発話条件の資料(それぞれの発話状況における発話の適否)を十分に多く集積すれば、ふつう我々は、その文の使用と意味を理解できるはずである。たとえば、「雨が降っている」の文がいかなる状況で発話すれば適切であり、いかなる状況では不適切と見なされるかの理解に達するのは、比較的容易である。

したがって、いかなる文に関しても、十分に多くの使用事例についての適否条件(真理条件)が与えられれば、それでその意味理解は十分に得られるだろうと想定したくなる。実際我々は、幼児の時そのようにして言葉を習得してきたのではないか?

通常の言語習得に関しては、これで問題はない。しかし、グッドマンの定義する「グルー」のような言葉が、このような形で習得されるはずはない。「グルー」とは、ある時点tまでは我々の「グリーン」が通常使用されるのと同じように使用されているのだが、t以後には一転「ブルー」と同様のやり方で使用されると、人工的に定義された言葉である。

tまでの使用事例から「グルー」を習得した人は、当然「エメラルドはグルーである」という使用を適切だと判断するだろうが、それは我々が「エメラルドはグリーンだ」というのと同じ意味で使っているからである。

彼は自然に、機会さえあればt以後も同様のことを言おうとするだろうが、今度は一転してそれを不適切だと咎め立てられることになる。つまり、それまでの事例からだけでは、まだ彼は「グルー」を十分に習得していなかったのである。

我々(グッドマンの読者)は「グルー」を有限の事例から習得したのではなく、人工的な定義によって、無際限に多くの事例について判断できるように習得できている、とグッドマンにおいては想定されている。それだから、事例から習得した人とは違って、我々は無際限に多くの事例について、この語の使用の適・不適について明確な規準が与えられていることになる。

ヴィトゲンシュタインが言うように、語の意味が語の使用法そのものであるとすれば、この場合、我々はそれ以上この語の意味について何も知る必要がないという意味で、十分な意味理解が与えられている、と言ってもいいのではなかろうか?


[一者、アレーテイア]
そうではない、というのが私の論点である。

t以前とt以後の使用を貫いて、「グルー」の使用を適切たらしめている共通のもの(一者)を、見て取る視座に立てるとは限らないからである。

この点をわかりやすくするために、「これはグルーだ」という文を、それが歴史上発話される場合、偶数回目に発話されれば真(適切)、奇数回目に発話されれば偽(不適切)と定義されたとしよう。これは、グッドマンに劣らず不自然な定義となろうが、それが不当だという根拠はない。

我々は、ふつうそれが何回目の発話かは知りようがないとはいえ、客観的にはその定義に基づいて、この文の真理条件は厳密に規定されているのである。文の意味を知ることが文の使用の真理条件を知ることであるならば、それ以上、この文の意味について知るべきことは何もないことになるはずである。

しかしそれでも、実際「グルー」がいかなる概念を表現しているのかについて、我々は何も理解したことにはならないであろう。なぜなら、その言葉によって浮き彫りにされるようないかなる存在も、そこにはないからである。

さらに極端な想定をしてもよい。「グルー」を、発話者が発話できる適切発話条件とは、そう言いたくなった時その時に限る、と規定する場合である。または、「グルー」が発話されたときには、聞き手は恣意的に適・不適の判断をしてよいと規定されている場合である。これらの場合も、「グルー」の真理条件が厳密に規定されているということもできようが、そこで解釈できるような一定の意味が存在しないのは明らかである。これはある意味で当然であろう。わざわざ、無意味なように、いかなる合理性もないように使用するべく規定したのであるから、それが無意味であるのは当然なのである。

まったく同様に、x+2のような関数表現によって、通常表現されるような関数と、その表現にクワス的に結び付けられる関数(xが500以下であれば、通常のx+2と同じ関数を表現するが、xが500を超えたとたん、x+2は5の値をとる、と人工的に決められている)があり得る。x+2の理解として、いずれの理解も論理的にあり得るのみならず、その間にいかなる優劣もつけがたい、というパズル――クリプキがヴィトゲンシュタインと結びつけたパズルをこのように記述することができよう。

ここでも、xが500以下の場合と、500を超える場合におけるx+2の振る舞いに何か一貫するもの、それが浮き彫りにする何か共通した一者の存在を見て取るやり方や、視座は与えられていないのである。

ちなみに、クリプキの記述では、いかにもヴィトゲンシュタイン自身が、規則その他に対する懐疑的立場に、深くコミットしていたかのように描き出されているが、私はむしろ全く別用に考えている。

ヴィトゲンシュタインは『青本』の中で、水占いが「地下10メートルのところに水を感じる」と言う場合、その発話の意味を我々は理解できると言えるだろうか?と問いかけている。この文を構成するどの構成部分の意味も、通常の意味で遜色なく理解できていたとしても、この文は、その使用文脈が明確でない以上、理解されているとは言えないのである。

この文は何を浮き彫りにしているのであろうか?地下10メートルに存在する水であろうか?それはいったいいかなるやり方で浮き彫りにされているのであろうか?水占いがいかなるやり方で「感じている」、と言えるのか、その筋道が明らかでない以上、何一つ理解できたとは言えないのである。

何らかの説明がない限り、いまだ意味が与えられてはいないのである。この文が浮き彫りにしている事態に対する視座がいかなる視座であるのかが、我々には理解できていないからである。

ヴィトゲンシュタインの狙いは、いずれにおいても、文の意味がゲームの明示的ルールとか使用法の定義などとは違って、何らかの存在洞察・見通し(アレーテイア)に支えられなければならないことを示すことであった。それを与えるのが証明とか説明である。

説明と言っても、意味の完全な定義とか規定を与えることが問題ではない。また、現象を合理化する仮説のことでもない。むしろ、存在を浮き彫りにするような手がかりや示唆が求められているのだ。存在者を浮き彫りにしたり、指示したりするためには、言語がなしうるのは、かかる手がかり程度のものにすぎない。存在者を言葉が組みつくすことなどできるわけがないからである。あらゆる指示は、一種の外在主義的な知識であるほかはない。


[外在主義]
我々は、自分の理解する内容が、すべてを理解しているとは限らない外的対象の在り方に支えられている。例えばその対象の本性の理解が十分にはなくても、指示することができるし、それに基づいて真なる内容を主張することもできる。それゆえ、理解内容が理解を超えた外在的なものに支えられていることは当然なのだ。

指示において、我々は指示の一義性を言語的手段だけで完全に確保することはできない。しかし我々は、そこに目配せとか示唆とかアンダーラインによる強調などを添えるだけで十分であることもある。我々は、存在者の指示に、ほんの少しの手がかりだけでしばしば成功するのであり、その手掛かりは、指示対象を限定するために、論理的に十分であるには程遠いものである。

それゆえ、指示したつもりになっているだけで指示に失敗することも、別のものと取り違えることもあるが、多くの場合存在者を取り出し、浮き彫りにするのに成功する、というだけで十分である。ここに何らかの懐疑論の余地があると思い込むのは、言語と実在のギャップを見ようとしないためにすぎない。実在する存在者は、懐疑論者や実在論者が考えるより、はるかに希少なのである。

双子地球を用いたパトナムの議論は、知識の外在主義と言われる立場を明確に示した。

地球上で水を指示する能力(知識)がある人が、その環境を剥奪されて双子地球に置かれたとき(そこでは、地球上で「水」と呼ばれていたHOという物質の代わりにXYZという組成を持つ全く見かけが同じ物質があるという以外、何の違いもないと想定されている)、同様に水を指示することはできない。まったく別のXYZの方を指示してしまうに違いないからである。つまり、彼自身の内部にある知識状態だけでは、的確に水を指示することはできず、外的な環境的要因に依存してその知識が発揮されることが示されている。

これは、考えてみればごく当たり前のことにすぎない。けだし知識が、行為や行為の準備の能力に他ならないとすれば、外部環境との関係が我々の知識から還元不可能なのは明らかであろう。たとえば、近代になってピアノ・フォルテが開発される前には、クレッシェンドなどをはじめとする微妙なタッチによる表現能力が存在しないであろうし(したがってそのような演奏法は知り得なかった)、自転車の乗り方や編み物の仕方が、自転車や編み棒なくして知り得ないのも明らかである。

指示という行為が、他の行為と同様、環境世界、とりわけ指示対象の存在に依存しているのは当然なのである。

我々は、自分の主張する内容に含まれる指示において、その指示対象の本質の理解が十分にはなくても、指示内容を理解することができるし、主張することもできる。つまり理解内容が、理解を超えた外在的なものに支えられているのである。

指示において、我々は指示の一義性を言語的手段だけによっては確保できない。これはクワインが「指示の不可測性」と表現した事態とも関係すると思われるが、ここではこれ以上論じない。

通常の指示は、すでに何らかの仕方で浮き彫りになっている存在者を前提にしており、指示がゼロから始めて指示体を規定するわけではない。すでに対象が前言語的に浮き彫りになっているからこそ、何らかの文脈に依存しながら、ドネランの確定記述句の指示的用法のように、その記述が指示対象によって満足されない場合でも、指示の役割を滞りなく果たすことができるのである。

言語は何らかの強調や示唆を与えることですでに露わであった存在者を際立て、それを見せしめる(sehenlassen)のに手を貸すことしかできないのである。なぜ、そのようなことを無限に豊かな世界の中で、いかにも乏しい手段しか持たない言語がなしうるのであろうか? 何故、言語が対象を完全に記述しなくても、存在者を十分な程度に明確に浮き彫りにすることができるのであろうか? 

それは、いかに世界がそれ自体複雑であろうとも、我々の関心はごく限定されているからであり、存在者の指示は、このような関心と相関的に、あるいはより正確に言えば、このような関心の交差点に相関的にしかなされ得ないからである。

たとえば、我々が視覚的経験という関心と触覚的経験という関心が交差するところに、我々は両感覚の系列の経験を合理化する同一の対象として、知覚対象を指定するだろう。逆に、一方の感覚(視覚)だけしか与えられていない経験には、そのリアリティが疑われるだろう。

こうして、それ自体としては非常に複雑であろう感覚的情報は、はっきりと意識される前に、すでにして一定の存在措定から意味理解を受けて、非常に簡略化された意味として意識されることになる。それらの多くは、我々の行動・生活関心と相関的なものであり、それから外れた情報は、いわば雑音として無視されるか抑圧されるのである。

このように、我々の生活は、言語的概念化をこうむる以前の段階ですでに、その複雑性を大幅に削減されているのである。ここから、さまざまの錯視や錯覚的経験が生まれることにもなる。与えられた情報が、生活関心に即した形に水路付けられ、加工されるためである。

我々がわずかばかりの示唆や手がかりだけで、指示対象を指示できるのは、すでに関心相対的に浮き彫りになっている存在者がごく限られているからである(存在者の希少性)。

おそらく他の動物においては、この存在者のアスペクトが劇的に変わることはないだろう。獲物だと思っていたのに違っていたという認識の間違いはあっても、間違いだと気づけば、彼らは関心を失う。

しかし我々にとっては、存在者のもろもろのアスペクトが言語的に際立てられることによって、彼らとはかなり違ったことになる。

存在者が概念的・意味的に際立てられるために、アヒル・ウサギのように一つの意味が他の意味を隠蔽するようなことが起こる。だからこそ、すでに生活関心に即して現れている習慣化され固定化された経験に対して、新たに異なる関心(それ自体も生活の関心ではあるとしても、別の文脈で関係し得る関心)を向けることによって、別の存在者、または別のアスペクトが浮き彫りになる、というようなことが生じるのだ。

隠喩とは、言葉を使って、このような関心の向け替えを促し、存在者の新しいアスペクトを際立てるものであると言えよう。それは、慣習的な言語使用からの逸脱によって、習慣化した関心を揺さぶり、新たな視座の冒険を試みるものである。

こうして、我々は隠喩を介して、アスペクトを浮き彫りにする視座を、共通する一者としての存在者を見て取る視座として、捉え返すことができる。


[隠喩]
たとえば、「北海道は四角形である」という隠喩的表現は、もちろん文字通りには真ではない。北海道はもっとずっと複雑な多角形だからである。

しかし、これが隠喩として理解される場合、そこに我々はある真理が含まれていることに気づいているはずである。宗谷岬や襟裳岬をそれぞれ一つの角とし、根室地方を大雑把にもう一つの角と見なし、残りの半島を、かなり無理やりにではあるが、やはりもう一つ別の角としてまとめ上げることによって、北海道が大雑把にではあれ、四角形状のものとして見えてくるであろう。

隠喩表現とは、文字通りの意味では真ではありえない表現を使って、またそれを知りつつ、そこに何らかの意味で真として理解することができる意味ないし見方を提案するものと考えることができる。それが聞き手にも理解できる場合には、隠喩表現は、その真理を隠喩的に表現するものとして有意味なものとなる。

しかし、このような見方をどうしても見いだせない場合、それゆえそれを何らかの意味で真理の表現とみる見方がわからない限りは、その表現は真ではないばかりか、有意味とも言えないのである。

したがって、「北海道は三角形である」は隠喩としてさえ理解不可能であろう。

この点、直喩表現はそうではない。「北海道は三角形のようである」は、十分に理解可能な意味を持ち、しかも明らかに偽として理解されよう。それは北海道と三角形の類似を主張しているが、実際には類似していないからである。それでも有意味である。

しかし「北海道は三角形である」という隠喩表現の場合は、どう見ても、北海道が三角形状に見えてくる視座が与えられないならば、この文の構成要素の意味がすべて十分に知られているとしても、文全体として無意味と言うしかない。

しかし、以前に述べたことであるが、水平線上から北海道を横に眺めれば、北海道は大雪山系を頂点とした薄ぺったい三角形状のものとして現れてくるであろう。こうすれば、一転この表現はそれが浮き彫りにする真理を与えられ、またそれを真として理解する見方を与えられ、十分に理解可能な意味を持つことになろう。隠喩の有意味性は、このようにそれが浮き彫りにする存在者の在り方に依存し、つまりは真理とそれを見出す視座に依存するのである。

同様のことが、数学的命題においても言えるだろう。数学的命題の証明は、このように見方の提案を含んでいる。「三角形の内角の和は二直角である」という命題は、その証明以前にその意味が与えられているというわけではない。「三角形の内角の和」と「二直角」を同じものとみる見方が与えられていない限りは、その意味が与えられているとは言えない。角の大きさを、たとえば分度器で測定するという操作によってしか意味づけられない人は、三角形の内角の和は、当然そのつどさまざまの値を取り得るものとしてしか見ることができていないのである。証明のみが、これらに統一した見方を与えるのである。


[隠喩的意味?]
デイヴィドソン自身は、隠喩についてどのような説明を用意しているのであろうか? デイヴィドソンは、字義通りの意味と区別される隠喩的意味があるわけではないことを示した。隠喩がほのめかすものを、別の命題でパラフレイズしたり、字義通りの意味とは違う意味を割り当てたりすることは、どうやら絶望的に困難なのだ。

隠喩とは、対象のあるアスペクトを見出すための工夫であろう。字義通りには真ではないことが明らかなことを言って、対象のアスペクトを浮き彫りにする。だがそれは、述語の意味が字義通りのものとは違っているのではなく、対象の切り取り方(対象において語り手が注目する側面)が通常とは違うのである。

しかし私としては、理解されていない隠喩は、デイヴィドソンが言う意味で字義通りの意味さえ持たず、端的に無意味であると言いたい。それは、証明が与えられていない限り、数学の命題がいまだ十分な意味が与えられないのと同様である。したがって、隠喩とは幾何学の問題のようなものだと言ってもいい。その「証明」は読者にゆだねられている。

隠喩が理解できた時、我々はDavidsonの事前理論(初めの意味理解へのとっかかりを与えるもの)から当座理論へと移行したのであろうか?たしかに、マラプロピズムのような場合は、そう言ってもいいかもしれない。マラプロピズムとは、通常の語使用とは違うにもかかわらず、話者の意図が明白で、しかも聞き手も即座にそれが理解できるような場合である。We are cremated equal.がWe are created equal.のマラプロピズムだと分かる場合のようなもの。

しかし隠喩は、実際はマラプロピズムよりも、謎々に似ている。その意味の解明は、自明であるわけではなく、聞き手に期待されているのである。その意味は比較的単純で、他の命題でおおよその意味が言い換えられることもあれば、デイヴィドソンが強調するように、他の言葉では表現が難しい場合も、また異なる複数の解釈が可能な場合もある。

たとえば、スフィンクスの有名な謎「朝四本足、昼二本足、夕方には三本足で歩く存在とは何か?」は、オイディプスがそうしたように「人間だ」と答えられる場合がある。これは「朝四本足…は人間だ」という隠喩表現に表すことができよう。あるいは、「人間とは朝四本足…の存在だ」という隠喩表現。この謎を解くポイントは、「朝四本足」「昼二本足」「夕方には三本足」の三つを貫いている一者を統一的に洞察する視点を発見することである。それが時間性(時間が世代という役割で区分されること)がその存在にとって本質的な重要性を持つということだと見抜いたオイディプスは、そこから人間の存在に焦点化することができたのである。

しかし、ヴェルナンが解釈するように、この謎はオイディプスによって半分しか解かれていなかった(ヴェルナン「『オイディプス王』の謎とスピンクスの謎」『プロメテウスとオイディプス』所収)。スフィンクスの謎は、オイディプスの解を前提にしつつも、さらに「そのように区別されるべき世代の時間秩序を、三世代を同時に一挙に兼ね備えるという形で撹乱した存在はいったい誰か?」という一層深い謎を含み持っていたのである。この謎の答えは、もちろんオイディプス自身であったのだが、彼自身は終わりになるまでそのことに気づかない。こちらの謎は「朝四本足…はオイディプスである」という隠喩表現で表されることになる。

つまりこの謎々は、異なる二つの解答を持っていたことになり、それぞれはまったく異なる洞察(あるいは意味理解)を与えている。これはよく芸人がする謎々の形式を思わせる。「〜とかけて…と解く」「そのこころは?○○」という一連の形である。ここで「その心は○○」に当たる部分が、真理洞察への見方を与える部分――数学で言えば証明、ヴィトゲンシュタインで言えば「意味の説明」に当たる。

とはいえ、通常この「その心は」の部分では、同音異義に訴えて、ダジャレのように二つの異なる(同じ音韻の)言葉が、それぞれの文脈の交差点に位置していることが多い。「まゆ墨とかけて、相撲取りの引退と解く」その心は「引き際が肝心です」のようなもの。

だがスフィンクスの謎は、単なるダジャレではない。時間性への注目から人間一般の本性へと注視される場合と、人間一般に備わった時間性の秩序を蹂躙したオイディプスに注視が向く場合とで、同じ謎が異なるアスペクトを帯びて現れ、それぞれ別の洞察をもたらすことになる。

ここで、「朝四本足、昼二本足、夕方三本足で歩く」を述語表現とし、人間に述語付けされる場合の比喩表現と、オイディプスに述語付けされる場合の比喩表現とでは、この述語の意味は違うと見なされるべきであろうか? それはデイヴィドソンが否定する道である。彼は隠喩表現においても、字義通りの意味以外は認めないからである。

それとも、デイヴィドソンと同様、比喩的意味について語ることはあきらめ、ただし、隠喩表現である限り、それを真たらしめることはあり得ない以上、理解不可能であり、無意味であるとすべきであろうか?

隠喩的意味の同一性規準が何であれ、またそんなものが存在しないとしても、同じ表現がどのような洞察に基づくものかによっては、理解可能になったり、不可能になったりすることは明らかである。「朝四本足…」という述語がオイディプスに述語付けられる場合には、それはオイディプス自身が気付いていなかった洞察に基づいて、有意味とされ得るが、例えばソクラテスと結びつけられた場合には、何ら有意味とされるような洞察をもたらし得ないがゆえに、理解不可能であり無意味であろう。

これは、アヒル・ウサギとして有名な図柄について、「アヒルである」と述語付けされたり、「ウサギである」と述語付けされたりするに応じて、指示された図柄(存在者)が異なった呈示様態で現れるようなものである。

いずれの事例においても、述語は字義通りの意味で使用されることによって、指示対象の(通常とは)異なるアスペクトを浮き彫りにするのである。

これは「北海道が四角形である(または三角形である)」の場合にも同様に言える。「四角形である」「三角形である」は、通常の字義通りの意味で使用されているのだが、北海道という指示対象は、それぞれ別様の呈示様態で呈示されているのだ。

「山笑う」という表現において、「笑う」という述語表現が字義とは違う意味で使用されていると見なす必要はなく、むしろ山という指示対象がここでは通常とは違うアスペクトで現れている、と言った方がいい。デイヴィドソンが隠喩は何か別の内容を述べたり意味するのではなく、ある効果を発揮するのだということは、その限りにおいて正しい(「隠喩の意味するもの」『真理と解釈』邦訳p−278〜)。

すると、「朝四本足…」という述語が、人間に述語付けられる場合の隠喩と、オイディプスに述語付けられる場合の隠喩とでは、述語の意味は違うわけではないが、それぞれの指示対象の呈示様態に、それぞれ違った貢献をもたらすのだ、と見なすべきだろう。「山笑う」において、「笑う」という述語付けによって、山の呈示様態が通常とは違ってくるようなものだ。

もっとも、ここでも我々のように適切発話条件が成立すると考えるか、デイヴィドソンのように成立しないと考えるかには、違いがある。我々は、隠喩表現が何らかの洞察によって浮き彫りにする事態がある限りにおいて、その発話が適切であると見なしえ、そのような視座を見出し得ない限り、適切ではないと見なしうると考えるのである。「山笑う」という隠喩表現が適切であるのは、春の芽吹きどき陽光に照らされる山を前にしたような場合である。

ここで呈示様態というのは、ほぼフレーゲのSinnにあたるものである。たとえば、2+2と3+1とは、単称名辞としては同じ対象(Bedeutung)を指示しているが、その指示する経路(Sinn)は異なっている。

それと同様、同じ北海道という存在者が、それぞれの述語(四角と三角)に結び付けられる場合、その正当化のための筋道=見方は違っているのである。つまり、両文脈で「北海道」という指示表現は同じ対象を指示しているが、それぞれの呈示様態(Sinn)は違っているのである。


[文学]
我々は文学の中に、かかる観点の模索と実験の大々的な試みを見るであろう。

文学のより原始的形態として、劇、とりわけ人形劇や仮面劇のようなものを考えてみよう。それらの劇は、リアリズムの劇に比べて、人物や行動表現がより単純で、簡略化されている。そのことで、より類型的な場面を表現しやすく、観客も現実を見るより、類型に注目しやすくなる。

その時観客は、舞台と現実との類比により気づきやすくなる。舞台上での人物と人物、出来事と出来事の関係に、現実の人物と人物の関係や出来事と出来事の関係の類似を見て取りやすくなるのだ。

このようにして文学は、現実のリアリズムから細部を捨象することによって、骨格的構造を、類比的に浮き彫りにする。それが虚構がもたらす効果である。これは、舞台上の架空の出来事を、現実世界の隠喩として受け取るということである。

我々は、現実をその関心相関的にアスペクトとして切り取り、際立てるのであるから、固定した関心を揺るがせることによって、通常とは異なるアスペクトを見さしめる視座の冒険を試みること――それこそが、文学の役割と言えるだろう。

ところがデイヴィドソンは、文学的テクストの解釈を著者の意図に基礎づけるという古臭いやり方に、危険なまでに接近しているように見える。

どのような種類の意味も究極的には意図に基づく。(「文学的言語の居所を突き止める」『真理・言語・歴史』所収 邦訳p−268)

『ユリシーズ』と『オデュッセイア』の類比に気づかない読者に対するジョイスのいら立ちに言及しながら、「著者の意図そのものより、著者の意図が読者にどのように理解されると考えるのが理に適っているか」がテクストの指示決定には重要であると、デイヴィドソンは少々妥協している(同p−282)が、いずれにせよ著者の意図への言及を不可欠と考えている点には変わりはない。

文学が、可能な観点の創造(という冒険)にかかわるものだとすれば、それははじめから意図的に目指され得るものではないだろう。

たとえば、ジュリアン・ソレルがレナール夫人の裏切りを知って突然取る行動(狙撃)は、あらかじめスタンダールが予定していたものでも、想定されたジュリアンの性格から必然的に流出したものでもないだろう。むしろ、作家の思惑を超えて、突然主人公の行動がおどり出したのであり、作家はそれを息を切らしつつ追いかけるだけなのだ。それまでは、作家が主人公をある状況へと連れていくのであるが、そこで彼が何をするか知っているわけではない。このようにして作家は、新たに生成した主人公から、何をどう描くべきかを教えられるのである。

そうであればこそ、そこで主人公が何を考えているかも、作家が我々より良く知っているわけではない。例えばシェークスピア自身が実際に何を考えていようと、ハムレットが実際にオフェーリアを愛していたのか、そうでないのかについて、複数の理解が可能である。

ガートルートのあまりにも早い心移りに傷ついたハムレットが、女性不信に陥り、その結果オフェーリアに対する愛も失ってしまった、という解釈も可能であろうが、全く違う解釈も可能である。

たとえば、ハムレットは実は先代のハムレット王の実子ではなく、愛のない結婚を強いられたガートルートがクローディアスとの間に作った不倫の子供であり、他方、オフェーリアはクローディアスとポローニアス夫人の間に生まれた不倫の子供であった、という奇想天外な解釈が存在する。そうすると、ハムレットとオフェーリアとは、異母兄弟であることになる。それを知ったハムレット王子は、オフェーリアを愛していながら、近親相姦を避けるために「尼寺へ行け」と彼女に告げる、というわけである。

これらの二つの解釈が、厳密な意味で矛盾しないのは、「山笑う」と「山は笑わない」が両立するようなものである。

デイヴィドソンのような考えでは、このような解釈の自由は否定されざるを得なくなるのである。

ガダマーが言うには、「テクストが理解されるのは、それが常に様々な仕方で理解されるときに限られる」のである。私はそれに同意すべきだとは思わない。…いったいどのようにして重要な意味を持つ相対主義が帰結し得るというのだろうか?(同p−284)

文学における自由に関しては、またしても『ドン・キホーテ続編』が参考になる。『ドン・キホーテ』が出版された後、あまりの売れ行きに、それを模倣した海賊版が次々に出てくることになった、と言われている。危機感を持ったセルバンテスは、急いで続編を出さざるを得なくなった。

問題は、セルバンテスが『続編』で偽ドン・キホーテとして、海賊版の主人公を登場させ、本物のドン・キホーテと対決させたこと。もし、著者の意図にテクストの指示が究極的に基礎づけられているのだとしたら、海賊版には何ら指示する力はないはずである。海賊版は、『ドン・キホーテ』の文脈をちゃっかり利用しているだけである。そのテクストは、セルバンテスにとっては何の意味もないはずであろう。ドン・キホーテの指示も、セルバンテスのテクストだけで自足していたはずである。

しかし、海賊版は、セルバンテスの意図を歪曲しながら利用していたのに、セルバンテス自身がその解釈を無意味だと退けるどころか、それをある意味では認め、自分のテクストに取り込んでいるのである。これは、真正のテクストについての誤った解釈も、セルバンテスは自作の世界のもとに承認したということであり、これら複雑に増殖するドン・キホーテテクストのすべてが、ドン・キホーテゆかりのもの、広義の意味でのドン・キホーテ文学群として認可されたことを意味している。

そのことは、すでにテクストの初めに『ドン・キホーテ』のテクストそのもののいかがわしさとして、書き込まれていた(アラビア人歴史家ハメーテ・ベネンヘーリの手記からの翻訳という想定)。主人公が本当は何という名であったか、テクストの本文がどこにあったかさえ巧みにぼかされ、それが持つ雑種性が承認されていたのである(そもそも「ドン・キホーテ」という命名はセルバンテスによるものではなく、キハーダともケサーダともわからない作中人物の某が、自分で名付けたものであることに注意!)。

このことは、『ドン・キホーテ』の真理性が、そんなところにないこと、それがもたらす様々な洞察にこそ存すること、この洞察は作家の意図にではなく、テクストと読者の間に起こる出来事にあることを意味している。

デイヴィドソンは、言語を基本的に意思疎通だと見なし、またその目的を、正しく意図が伝わることと見なすから、文学的テクストの含意をうまく位置付けられない。それはテクストの開かれた性格を全く評価できないのである。


[デイヴィドソンとダメット]
この二人の違いはどこにあるのであろうか?

一見すると(デイヴィドソンから見ると)ダメットは堅固な公共的言語の総体を想定しているように見える。しかしダメットも、言語の運用には、言語の知識のみならず世界についての知識も必要であることを認める限り、言語の可変性に反対するはずはない。

また一見すると(ダメットから見ると)デイヴィドソンは個々人の言語使用(個人方言)がそれぞれ別々であると考えており、言語の公共性を無視しているように見える。しかし実際には、デイヴィドソンは、会話を通じて、事前理論を当座理論へと変形し、相手に合わせて自在に調整するコミュニケーションの社会的重要性を重視しているのである。

「理論」とか「解釈」という語を、ダメットはより狭く、デイヴィドソンは広く取る傾向がある(それゆえ、デイヴィドソンはそれらを発話者についてのメタ知識としてではなく、発話者自身の実践知を含めて考える)とはいえ、それは言い回しの違いにすぎない。

虚心坦懐に見れば、両者の違いは氷解するようにも見えるのだが、依然として残るのは、哲学についての基本的見方の違いである。これははじめは目立った違いではないが、ある意味ではより根本的な違いともいえる。

デイヴィドソンは、哲学をありのままの事実の現象学的記述と見なしており、その意味では一般の科学と質的な違いはない。言語についても、それが実際どのように使われているかだけが問題とされる。

他の人が話すように話すことを学びながら、そのように話さなくてはならないという義務を感じない人を想像してみてほしい。この話し手にとって、そのように話すことに義務は介入してこない。我々がその人に、なぜ他の人と同じように話すのかと聞いたら、こう答えるだろう。「そうしなくてはならないと考えたのではなくて、ただそう話しているだけです。直立歩行する義務があると考えずに、自然とそう歩いているようにね」(「言語の社会的側面」前掲書p−187)

ところがダメットは、哲学を規範学の一つと考えており、実際に行われている言語実践であっても、それだけでそれが「許されている」ことにはならない、と言う余地があると見なす。つまり、ソクラテスのように、哲学は、実際の言語実践に批判的に介入し、その不正使用を正す規準を立てなければならないということだ。これは、カントの言葉で言えば、超越論的活動ということになる。

カントは、理性の不当な使用を批判するための規準を探求する活動を「超越論的」と呼ぶのであるが、その際、この活動自体も理性使用の一部とならざるを得ない。つまり、「超越論的」とは、その領域の一部が、その領域全体の可能性を基礎づけるような議論の構造のことである。

言語で言えば、言語の不正使用についての考察も言語でなされざるを得ないのだから、超越論的ということになる。

つまり、ダメットは哲学を超越論的活動と見ており、論理学のような批判的力をそこに期待しているのである。一般の論理学が、言語がどう使われるべきであり、どう使われるべきでないかの規準を記述するだけなのに対し、何故そう使われるべきであるのか、何故論理法則が妥当すべきなのかの根拠を与えるのは、超越論的論理学と呼ばれるとすれば、ダメットの仕事はまさに超越論的論理学ということになる。

私は、このダメットの哲学観を強く支持する。言語は、デイヴィドソンが述べているように、直立歩行のように学ばれるわけではなく、むしろ法のように学ばれるのである。

デイヴィドソンは、「語には話し手も聞き手も知らない意味が有り得る、というマイケル(ダメット)やバージやパトナムの主張に私は感銘を受けない」(同p−192)として、意味の観念よりコミュニケーションの成功(聞き手に話し手の伝えようとする内容が、そのまま話し手がそれで意味するままに伝えられるという重合した意図の理解が達成されること)の観念の方が基底的である、という見方を示している。

しかし、このようなコミュニケーションのモデルが、ソクラテスの対話において実現されていないことを見て取ることはたやすい。ソクラテスの対話者は、当初自分で理解しない主張をしていて、それがソクラテスとの対話の中で、それが矛盾を含むことを示されることによって、実際そのまま字義通りに信じていたわけではなかったことに気づかされるからである。

私はここにこそ弁証法の原型があると信じ、そののちアリストテレスによって展開されることになった弁証法的洞察の出発点になったと見ている。

もし、ソクラテス・アリストテレス的な弁証法が、ごく例外的なものではなく、言語の本質にかかわるものであるとすれば、デイヴィドソンのモデルは言語についてのモデルとしては妥当とは言えないだろう。


[論理学の妥当性]
だが、それではダメット(や超越論的規範理論を必要だと考える者たち)は、どのような形で超越論的論理学を提供できるのであろうか?

私自身は、論理学の妥当性を、できるだけ多くの発話を理解するための意味論的仮説として理解するのが良いと考えている。大雑把にその概要を記しておこう。

Conjunction(連言)の概念を持つものは、ある種の形式の推論を端的に自明なものとする規範的傾向性を持つだろう。我々の言語で「AかつB」というように翻訳可能な言語表現を使う人々が、そこからただちにその表現形式だけを理由に、AやBが何であれ、端的にAを推論すべきだと判断する傾向を持つ場合、我々は彼らがconjunctionの概念を持っていると見なしてよいだろう。このような概念所有を彼らに帰属することによって、格段に多くの彼らの言語実践が合理的に説明できるであろうから、このような意味論的仮説は善い説明を与える(複雑性を大幅に削減する説明を与える)と言える。

同様に、「誰でも、誰かを愛している」(1)という文に二通りの解釈が有り得ることが、それを主張可能にするさまざまの文集合の在り方が二通りに分かれることなどから推察できる。たとえば、一方ではそれは「誰でもが(例えば)マリアという特別に魅力的な女性を愛している」(「aがマリアを愛する」「bもマリアを愛する」…)このような場合に、(1)は主張可能である。そのように万人から愛される特別な誰かが存在しない場合は、(1)は主張可能ではない。

他方、「誰でも、その母か家族の一員くらいは愛している」、「aはa’を愛している」「bはb‘を愛している」…などが(a,b,c…すべての人について)主張可能である場合、(1)が主張可能になるという解釈もできる。その解釈によれば、誰であれ、全く愛する人がいないような、そんな人が一人でも存在する場合にのみ、(1)は主張可能でないわけである。

前者が主張可能であれば、後者が主張可能であるが、その逆は言えないという意味で、前者がより強い主張であると言えよう。このような日常言語の量化表現(「誰か」とか「すべて」some ,everyなど)が多重に出現するとき、あいまいさが出てくることが知られているが、我々の日常言語はこの区別を常に明確にできるわけではない。補助的な手段を使ってこの区別ができないわけではない(たとえば(1)の受動形を使って「誰かがすべての人に愛されている」という表現に代えれば、それは強い方の解釈しか受け付けなくなる)。

しかし、これらの多重量化表現の論理形式一般に、このような区別を明確化し得る簡単な工夫を見出せば、多重量化表現を含む推論や真理値付与に、形式的に見通しやすい表現を与えることができるはずである。フレーゲの量化表現の導入と量化表現を含む述語論理学は、そのような考慮を基礎に編み出された工夫であった。

それによって分析されることによって削減される複雑性は巨大なものであるから、我々はその図式的表現とそれによる意味論的説明を受け入れたくなるだろう。つまり、量化論理学の妥当性は、それらの推論におけるあいまいさを一掃し、それらを単純な装置の下で一挙に分析し解明できるというメリットにかんがみて、我々がその妥当性に加担しているということに基づくのだ。

ここで、意味論的説明は、単に多くの事例を説明できるという広汎性ということより、それなしには通常の我々の推論実践の不整合が、合理的に一貫したやり方では除去できないという緊急性の方が重要であろう。つまり、その説明と分類なくしては、我々の通常の合理的推論実践も怪しくなってしまう、ということを回避することがかかっているのである。

このように考えれば、論理法則も、何らかのイデア的永遠真理から天下り式に強制されるものではなく、できるだけ多くの発話を合理的に理解するための掛け金の一部であることが理解される。そして超越論的論理学も、合理性の拡大という一般的要請と合致することになる。

さて、デイヴィドソンも「理解されたいのなら、従わねばならぬ規範がある」ことは認めている。

そのようなケースにおいて規範がコミュニケーションにかかわるのは、それが共有された実践や習慣だからではなく、規範に従うことが理解をもたらすからである」(同p−191)

そうであれば、ダメットとデイヴィドソンの共通性を見出すことは難しくない。安定的な共通言語があろうとなかろうと(ダメットはそれを認める傾向が強く、デイヴィドソンは認めない傾向が強い)、何らかの規範的原理が共有され、それによって合理性が拡大される限り(このような合理性の存続と拡大を望む限り)、我々はそれを規範として尊重されねばならないということである。合理性の存続・拡大がかかっている点で、言語の習得は、直立歩行のスキルの習得とは根本的に違うのである。

もし、論理学や数学でさえ、アプリオリでありながら、合理性の拡大を許すものであるとすれば、「アプリオリ総合判断」と呼んでいいような活動に属していると言ってもいいだろう。もちろん数学の方が、この拡大をはるかに自在に行うという点で、論理学より一層「総合的」であるのは言うまでもない。(論理学はアリストテレス以来少しも進歩しなかったと見たカントは、論理学にアプリオリ総合判断は認めなかった。)
 
ちなみに、私は法学や倫理学の妥当性についても、おおよそこれと同様のアプローチをとっている(アリストテレス主義)。それについては、「Peacocke(2)倫理の法廷」2015年10月26日、「倫理的判断の真理値」2016年9月2日参照。もちろんそこで、法実証主義と真っ向から対立するが、それをもって私を「自然法論者」と見なすのは、よほど単純な人だろう。

さらに付け加えて言っておくが、これまで主張してきた見方――真理を、何らかの存在者(実在)の発見ないし現れと見なすアレーテイア真理観は、実在論を前提するものではなく、むしろ反実在論とこそ親和的であることは、これまで私が口を酸っぱくして繰り返してきたところである。また、このような反実在論が、数や図形などイデア的対象の実在に反対するものではないことも、今更言うまでもない。

反実在論が一種の観念論と見なされてきたことは、その含蓄を見積もるうえで非常に不幸なことであった。だからと言って、それが唯物論の一種などというわけではないので、要注意!

我が国の文化風土では、いたって粗野な、しかもミスリーディングな二分法で物事を割り切ってわかったつもりになる人々が多いので、ひとこと言い添えておく。このような粗野なスローガンやクリシェが哲学的思考に関係することはいささかもないのである。

Posted by easter1916 at 21:37│Comments(5)
この記事へのコメント
突然で唐突なメールをすいません。デイヴィッドソンの、「隠喩ーアスペクトー視座の冒険」を興味深く読ませて頂きました。さて、最近、デイヴィッドソンの根源的解釈についての解釈について、上野修氏の論文を読み、そこに、(視座の冒険としての)興味のある考察に接しました。たいへん不躾ですが、もし関心があれば、田島氏のご意見をきかせていただけませんか。
子供の言語との原初の遭遇において、以下の3者を結びつける考察。
 1。デイヴィッドソン「根源的解釈」
 2。ラカン グラフ (主体の生成の図式)
 3。永井均 私と世界の開闢

上野氏の論文 
1。「言語習得における原抑圧と真理」 山口大学哲学研究 1999
2。「現実指標としての私」     「<私>の哲学を哲学する」講談社 2010
3。真理・意味・主体 デイヴィッドソンの根源的解釈とラカン」 I R S ラカン研究 9・10号 2012
Posted by 寺本隆 at 2016年10月31日 11:42
寺本隆さま
 コメント恐れ入ります。また上野修さまの研究についての貴重な情報をありがたうございます。挙げていただいた論文はどれも入手が簡単ではなささうですが、機会があれば拝見したいものだと思ひます。そのうち上野さんご自身が論文集におまとめになるかもしれません。
 私自身は、70年代からラカンに興味を持ち、をりに触れて読書会などで読んできましたので、論文の表題から見る限り、上野さんの問題意識と重なるところもあるかもしれません。
 スピノザの解釈とデイヴィドソンについての理解については、上野さんとわたくしとはかなり違ふので、以前この場所で少し取り上げて批評したことがあります。2014年7月5日「上野修氏の「スピノザ『神学政治論』を読む」」です。興味があればご参照ください。コメント欄には、上野さんからの応答も含めて、上野さんとの議論がそのまま残ってゐます。
Posted by tajima at 2016年11月01日 21:41
丁寧な返信ありがとうございます。2014/7/5 上野氏の著作での、分析哲学に関する指摘は、素人の私には参考になりました。さて、先のメールでの上野氏の論文は、私の個人的な関心であるのは承知ですが、10/21 付けのデイヴィッドソンの議論でも触れられていました、心的内容に接近する重要な視点であり、こだわってる次第です。いつの日か、是非、上野氏論文についてのご意見をお聞かせください。(見回してみて、こんなことを言える場所はありません。ご容赦ください。)

なお、田島先生は、12月10日に、朝日カルチャー(新宿教室)にて講義されると知りました。上野氏の論文のコピーを持参したいと思います。ぜひお受け取りくださるようお願いします。
Posted by 寺本隆 at 2016年11月02日 14:53
寺本隆さま
 カルチャーセンター(新宿教室)においでくださるとのこと、まことにありがたうございます。わたくしの講義にご出席されるのではなくても、3時半から5時までの講義の前か後であれば、係の方にお話しくださって控室においでくだされば、お会ひできます。その後少しお時間をいただけば、必ずこの場でわたくしの意見を記してみたいと思ひます。
 お手数をおかけするのはまことに恐縮に存じますが、上野さんの論文を読めるのは大変興味深いので、是非ともよろしくお願ひ申し上げます。
Posted by tajima at 2016年11月02日 17:35
個人的な関心からのお願いに、返信ありがとうございます。当日は講義の後の頃に持参します。
Posted by 寺本隆 at 2016年11月04日 09:45