2017年11月18日

飯田隆氏の『新哲学対話』

飯田隆氏から新著『新哲学対話』(筑摩書房)をいただいた。初めの対話編「アガトン」を一読して深く感銘を受けたので、それについて論じてみたい。

飯田氏は、我が国の分析哲学を旗艦として牽引してきた本格的哲学者であり、亡き大森荘蔵先生の高弟である。その著作は、常に周到かつ精妙であり、一般より専門家の中で評判の高い玄人好みのものと言ってよい。しかし今般氏が出版した本書は、質の高さは従来のものと変わらないが、その語り口の平明さや入門的親切心もさることながら、ひときわ遊び心にあふれた滋味豊かな作品に仕上がっている。氏を身近で知る人になら、こういう遊び心が氏の持ち味の一つであることはよく知られているが、本書ではそれが大きな魅力となっている。

有名なプラトンの対話編『饗宴』を下敷きに、その後日談を対話でつづるという形式は、単にプラトンの模倣にはとどまらない文学的出来栄えを見せて瞠目させる。特に、プラトンでは、ソクラテスばかりが議論を主導し、対話相手は相槌を打つばかりのところが多いが、ふつう感じられるこのようなプラトンに対する不満を、飯田氏は解消してくれる。他の人物もそれぞれの個性を備えつつ、かなり積極的な発言で対話に貢献しているのだ。

その結果、普通のプラトン対話編以上に劇的構成が成功しているのだが、哲学的内容がそれによって薄まっているわけではない。この両立はまことに驚嘆に値する水準で成功している。おそらく、これは哲学初心者にとって最良の入門書であると同時に、本編をもとにして哲学界のシンポジウムが打てる水準のものである。


「アガトン」では、いわゆる趣味判断の普遍妥当性の問題が論じられている。その例として取り上げられているのがワインの味である。それは、非常に具体的であると同時に、いわゆる相対主義(いいワインとはいいと感じられるワインのことである)にとって、一見したところ有利な出発点を提供してくれる。

飯田氏の論述は平明であるが、注目すべき重要な洞察を含んでいる。それは趣味判断を支える友人共同体という論点である。ソクラテスの話を繋げると次のようになる。

親しい間柄の人の場合、相手の好みに自分が合わせるだけでなく、相手が自分の好みを取り入れるということを期待しないだろうか?

そういう期待が出てくるのは、友達がどんなワインを好むかを知って、自分の好みが変わるだけでなく、その逆にこちらの好みを知って、相手が好みを変えることも、よくあるからではないだろうか?

相手の好みをわかろうとすることのなかには、相手が好きなものを自分も好きになろうとすることも含まれないだろうか?

つまり、ワインの味に心を配るような人たちは、その全員が全員と知り合いであるわけではないが、さまざまな仕方で、たがいに結びついているということさ。

このような洞察が何につながるのか、まだよくわからないが、ひょっとしたらアーレントの『カント政治哲学講義』の議論に関係するかもしれない。


さて、ワインの味を趣味判断の典型例として考察するという戦略は、そのまま芸術における趣味判断に適用することができるだろうか?(p−128)

ワインは、料理と同じように、その快楽に導かれて、我々が自然のある側面に深く探り入る導きとなる。それによってますます深く自然の与える多様な味わいに我々は通暁することができるのである。

この点を、バラの品評会の場合と比べてみよう。バラというものが与える快楽(見栄えと香り)に導かれて、我々は品種改良やその育成方法の改善に励む。花をより大きく美しく咲かせる方法が工夫され、そのような品種が作り出される。もちろん一品種だけの魅力しかないわけではない。バラの多様な魅力がそれぞれの品種で開発され、それに応じてそれを鑑賞する好みも発達する。ワインの開発もそれに似て、さまざまの個性のワインがそれぞれに賞味されるだろう。ワインより、バラの方が多様かもしれないが、それでも品評会が開ける程度には、その優劣が競えるということである。

どちらにおいても、初心者であれエキスパートであれ、基本的にそれらを自然に体験できる。ある種のバラの美しさに通暁するためには、その品種を見ればいいし、ある種のワインのうまさに通じるためにはそれを飲めばよい。その体験に深浅や精粗の程度差はあれども、それぞれの対象が我々から隠されているということはあり得ない。言い換えれば、それらの体験は我々の日常的経験の自然な一コマである。

しかし、我々の自然な体験の流れを切断しなければ、それを観想できないような経験というものが存在する。たとえば、太古のラスコー人の前を疾走する動物たちの群れの怒涛の如き動き――それを彼らは感じたはずだ。我々は、ラスコー壁画を前にしたとき強くそう感じる。彼らが壁画にどのような宗教的意義を与えていようと、そんな意味は数万年の時の流れにきれいさっぱり押し流されてしまっても、彼らに感動を与えたこの動きだけは、ちっとも色あせることなく我々の眼前にしっかり存在しているではないか?

我々にしろ彼らにしろ、極めて強い印象を与えるこの動きを捉えること、観想することは難しい。眼にもとまらぬ群れの動きは、実際に眼に定着しないうちに、たちまち過ぎ去ってしまい、何が起こったのか記憶もあいまいなまま、時を置かず薄れてしまうからである。いったい何が起こったのだろう、という疑問だけを残して、我々の経験が消え果ることを、繰り返し経験したラスコー人は、ついにそれを静止した壁画に定着した。かくて動きは静止画の中に凝縮され、運動は永遠の相のもとに結晶化した。こうして初めてその経験は観想可能なものとなる。

静止画は「ありのまま」では有り得ない。「ありのまま」から動きの要素を落としている。それにもかかわらず、かえって動きを実感させる。つまり、我々は静止という虚構を媒介にして初めて、動きの実相を観想できるのである。激しい動きそのものは、決して自然のままの知覚では十分に捉えられないのだ。映画では、激しい爆発などを描く場合、たいていスローモーションを使うが、それもありのままの速度では激しさが十分に感じられないからである。

自然の実相は、自然のままでは経験できず、自然の一部を遮断したり、縮約したりして、初めて観想可能になるのだ(この点を指摘したものとして、レヴィ=ストロースの『野生の思考』の序章を挙げることができる)。これを可能にするのが、芸術作品という装置である。自然が我々の自然な経験によっては常に覆い隠されているからこそ、それを観想可能にするためには、作品による自然からの離脱、作品という迂回が必要になるのである。エミリー・ディキンソンの詩を引いておく。

This was a Poet ---It is That      
Distills amazing sense
From ordinary Meanings---
And Attar so immense

From the familiar species
That perished by the Door---
We wonder it was not Ourselves
Arrested it ---before---

 詩人とはこういうものだったのだ――それは
 ありふれた意味どもから
 驚くべき感覚を――
 また戸口のそばで枯れ果てた普通の草花から
 はかり知れぬ香水を蒸留する者――
 それ以前に――それを捉えた者が
 自分自身ではなかったことが不思議。
  
このような芸術作品の在り方は確かに自然を見出させるある種の装置――プルーストが眼科医の手術に例えた装置であるが、決して自然のままに我々をとどめておくものではなく、不自然なものへと我々を駆り立てることによってはじめて、自然の中に何かを見出させてくれるものである。その意味で、それは見方を一新する。

このように、作品がもたらす何か新しいものは、いまだ経験したことのない土地のワインのようなものであろうか? たしかにそのワインも、ワインの味わい方そのものに新しい一ページを付け加え、我々の感受性に変更をもたらす。しかし、それは新しいバラの品種を見て、バラの魅力の多様性の領域を広げるような変更にすぎず、我々自身のこれまでの経験を一新するものではないだろう。

一方、モディリアニとかルノワールの女性像は、それまで我々が知らなかった仕方で周囲の女性を見る見方を見出すという意味で、我々の見方を一新するのである。それは、ただ新しいタイプの美人を見たということではないのだ。

この「新しさ」の独自性は、ただそれが我々の感受性を変更するという点にあるのではない。もしそうなら、さらなる新しい見方が出てきたとき、流行遅れ、時代遅れのものとして古びてしまうだろう。しかし、かつて我々の見方を一新した作品は、さらに新しい感受性が生まれても、決して古びることはない。新しい感受性が生まれる時、この(古典的)作品は、全く別の新しさをもって見直されるのである。

バッハの音楽は、その生前において既に「時代遅れ」の代物になりつつあったのだが、メンデルスゾーンが新たに「発見」するまで長らく埋もれていた。しかし、メンデルスゾーンが見出したバッハ(おそらくはローマン主義的なバッハ)は、現代の我々が再評価・再再評価するバッハとは全く異質なものであったろう。その証拠に、そのようなバッハは、またたちまち時代遅れのものになってしまったからである。

つまり、古典的作品は、各時代ごとに異なる理由によって称賛され、また異なる理由で非難もされるのであるが、相変わらず、現代的論争の中心であり続けることで、常に現代的であり続ける。ここには、一旦新しかったものは、永遠に新しい(いかなる文脈においても新しい)という逆説がある。

それに対して、二番煎じや模倣によって「受け」を狙った作品は、その時代の好みに受け入れられやすいものの、たちまちに古びてしまうという特徴を持っている。同時代と対決して、そこから新しいものを創出した作品には、その時代の評価基準(「万人の同意」p−102)というものを超えたリアリティ(実在性)とアクテュアリティがあり、それこそが異なる文脈の中に、異なる側面をあらわにすることによって、常に新しさを更新する理由かもしれない。ツルゲーネフのハムレットとフロイトのハムレットはまったくの別物であるが、どちらかが間違いということはない。それらはいずれも、実在のある側面を捉えているからである。

かつてブレイク・スルーを達成した作品は、たえず後のさまざまのブレイク・スルーの範型たり得る形で、新鮮さを更新する。この点ではセルバンテスの『ドン・キホーテ』がいい例である。

それはまず、芸術的革新がいかに達成されるかのモデルを示している。我々の想像力・思考力を支配している神話的体系、夢のように言語的に構造化されている無意識――ドン・キホーテがはまり込む中世騎士物語は、かかる無意識のイデオロギーを示している。

ただし、ドン・キホーテは、それを信じているふりをしながら現実と巧みに妥協するという常識的なシニシズムを拒否し、それを真に受けることで現実と衝突する。イデオロギーを建前として受け流し、本音ではそれを嘲笑するような態度こそが、イデオロギーの幻想を支える基礎の基礎なのである。

ドン・キホーテの独自性は、イデオロギーを真剣に生き抜くことによって、その虚妄を暴露するイロニー的実存にある。こうして旧いテクストを読むことによってそれを乗り越えるテクストという範型を作り出したのだ。

この範型は、例えば恋愛小説に読みふけって破滅してゆくエンマ・ボヴァリーとか、サント=ブーヴの批判から出発したプルーストの小説などを生み出していく。そのつど、主人公や作家を取り巻くイデオロギー的桎梏は異なるが、それを乗り越えることが(主人公たちは挫折するとしても)作家自身にとっては真の冒険であり、一つの具体的歴史的出来事であったことが重要である。つまり、後から見れば、その作品の革新性がどこにあったのかを概念的に説明することはできても、それを成し遂げた出来事のリアリティは、その説明に尽きるものではないのだ。

これは、それを模倣する多くの二流作品について考えれば明らかになる。真のブレイク・スルーを達成した作品(例えば『ドン・キホーテ』)を模倣した作品は、ただちに現れた。しかしそれらの作品は、原作の中に、その時代でもてはやされた要素(つまり「大部分の人々の合意」)を形だけ真似るものであり、ブレイク・スルー自体の出来事性を欠いた抽象的パタンの適用にすぎない。それらが、時代の好みとともに速やかに時代遅れのものになったのも、そこに作家のブレイク・スルーという(パタンには還元できない)出来事としての細部が欠けているからである。

それに対して、古典的作品は、ブレイク・スルーが特定の歴史的状況に根差していたものであるにもかかわらず、否そうであればこそ、その特殊性の細部を含んでおり、時代状況が変わり、異なる桎梏、異なる課題と直面したとき、かつての出来事の、以前には注目されていなかった細部が、にわかに脚光を浴びたりするのである。

これはちょうど、我々の遺伝子DNAの中に取り込まれながら、実際には活用されていない遺伝子情報のようなものである。それらは何万年か前の疾病とその克服の痕跡が、レトロウィルスによってDNAに取り込まれて残っているようなものである。今や新たな歴史状況によって、それらの一部が活躍する場面が現れる。こうして何万年を隔てて、遺伝子の冗長な部分が新たな役割を果たすように、同時代には不要で不細工な部分(残念ながら大作家が削り残した失策の跡)と見られがちであった古典的作品のアペンディクス的部分が、にわかに預言者的意味を帯びて注目されるのだ。

ワインの例に従う限り、このように自然を発見するためにこそ迂回しなければならない自然の遮断、作品の与える文脈を超えてそのつど発揮される新しさ、趣味判断のパタンとしてはとらえきれない、作品のくみ尽しえぬ実在性、といった側面に光を当てるのは難しいように思われるのである。新しいワインの味が見いだされるとしても、同じワインの、異なる文脈における異なる新しさが見いだされるわけではないからである。

ワインの味やバラの花が自然美の一種であるとすれば、自然美の美学をそのまま芸術作品の美学へと拡張するには、無理があるということである。おそらく、ワインの事例と古典的芸術作品の事例との間に、多くの中間的事例が存在するであろう。盆栽とか庭師の仕事とか、物まね芸とか、記憶術とかファッションなど…。

いずれにせよ、これらの考察へと我々読者を刺激することは、本書の最大の哲学的美徳であると言えよう。


 




Posted by easter1916 at 02:00│Comments(7)
この記事へのコメント
田島先生

本の内容と書評、どちらもとてもおもしろかったです。知的な刺激を受けました。

いま、自分は名声と価値の異同について考えています。以下、拙見を載せます。ご高覧を賜りたいです。

あるものの名声は大変うつろいやすく、かつ、それを覆う箔か埃のような記号として見栄えを左右します。既出書の友人共同体のような、ある社会的な趣味判断を支える共同体においては、構成員同士は趣味判断に際して他律的に影響を受けやすいものです。ロココやゴシックといった様式はその評価を決定づける共同体が変わることで、めまぐるしく毀誉褒貶も変化してきました。

したがって、何が芸術か(あるいは何が文学、音楽、哲学か、etc)そうでないかという等級付けは、ある共同体の都合に沿った権威的な決定となる場合があり、価値を見出すことを阻みかねないと思います。芸術はそのときどきのパトロンや美術館といったイデオロギー装置に依拠してきた歴史をもっていますし、ヘーゲルやアドルノによって等級が下げられた自然美(ここでいうワイン含む)やサブカルチャーがアクチュアルな価値を有しないのかは、依然議論の余地があると思います(あるワインを飲んで、「ワインのイメージが変わった!」というような感想はいかがでしょうか?)。

しかし、アクチュアルな価値を見出すことこそが重要であり、そのような価値を表現し、見出しえるものこそが、古典的作品と呼ぶにふさわしいという議論には強く賛同します。そして、アクチュアルな価値を表現し、共有する一連の行為は、世評や世襲を超えて、個人が一歩を踏み出すことで、ひとりの損益、ひとつの地域、ひとつの時代を超えていくものだと思います。それこそが、たとえ断続的で隔絶的であるにせよ、伝統と呼ぶにたるものだと思います。

以上、ご投稿に沿うか心もとないのですが、つらつらと臆見を書き連ねました。ご意見を伺えれば幸いです。
Posted by 泊 at 2017年12月28日 14:26
泊さま
 コメント恐れ入ります。
 芸術のアクチュアリティは、芸術が政治と共有する点だと思ひます。その点で、飯田さんの本が友人の共同体のやうなものを、ワインの味のやうな趣味判断の基礎として要請したのは慧眼であったと思ひます。おいしいと思ったら、友人にも勧めて判断を共有したくなるものです。これを、すぐに人類一般とか人間性一般の話に広げるのは筋悪で、よくよく好みや生活感覚を知ってゐる友人共同体にしてゐるのがいいところです。人間性一般だと、すぐに人間の生物的本性の話になってしまふけど、友人といふことであれば、より濃厚な文化とか生活様式が関はってきます。友人と趣味判断を確認し合ふことを求めるのは、ひとつには、多くのものを共有してゐるにもかかはらず、少しづつ違ふ見方をしてゐるからであり、また一つには、我々は他人の判断を無視してもいいほどには、己れの判断に確信を持てないからだと思ふのです。他人の意見などによってはまったく自分の判断は揺るがないことを自慢してゐるやうなひと、また美的判断に絶対的感覚(イデアを見る感覚?)のごときが存在し、それにより近い人が目利きとか達人と呼ばれるのだと考へてゐるやうなひとがゐますが、そのやうな人は芸術のアクチュアリティにほど遠い人だと思ひます。小林秀雄の『モオツアルト』などがその典型です。
Posted by tajima at 2017年12月28日 21:36
田島先生

ご指導ありがとうございます。
早急に人間性一般に拡張するのではなく、もう少し友人共同体という関係性に注目したいと思います。

自分も小林秀雄、青山二郎、白洲正子、北大路魯山人、そして柳宗悦といった「達人的」批評家には懐疑的で、その権威的なところをなんとかほぐしたい考えです。
では、それをいかに実践するか…
まずは先生が以前アドバイスをくださったように、理論から入るのではなく、文学の森に分け入ろうと思います。
Posted by 泊 at 2017年12月29日 09:57
泊さま
 「ご指導」などとんでもございません!
 なほ、美的判断を支へる友人共同体といふ考へは、あへて評判の悪い言葉を使ふなら、「貴族主義的」なものと言へるでせう。それに対して、「誰にでもすぐ理解できる」といふ平民的感覚や「この感覚は誰にもわかってもらへない」といふルンペン的感覚は鋭く対立します。いづれにしろ、「美のイデアの達人的直観」などといふたわごとの裏には、いくらか閉鎖的なこの共同体に対する根深いルサンチマンがとぐろを巻いてゐるのに気づくのは容易です。
 ではプラトンの場合は?
 私の考へでは、彼にとってこの共同体はアテナイの市民法廷であり、パレーシアの市民たちの空間だったのです。彼はそこから疎外された時代遅れになった貴族層を代表してゐました。それは貴族主義的どころか、この意味でルサンチマン的だったのです。だから、もし彼が悲劇を書いたとしても、ろくなものは書けなかったでせう。
Posted by tajima at 2017年12月29日 17:49
田島先生

「貴族主義的」という言葉で、得心がいきました。
この場合の「貴族主義的」とは、オルテガの言う「貴族」を引き継いだ概念でしょうか?

以下の内田樹の「ニーチェとオルテガ 「貴族」と「市民」」を参考にしました。
http://blog.tatsuru.com/archives/000892.php

先生が「美のイデアの達人的直観」を問題視されているのは、貴族=市民が自発的に行う対話なり議論なり説得が欠けて、創造性とか可塑性といったものが生まれなくなり、上意下達、訓誡、命令しかなされない、閉ざされた世界に対する危機感からでしょうか?

自分は、もしある価値が正しく、美しいものであれば、それはあまねく共有されるべきだと、素朴に信じていました。そんな付会は、かえってその価値や、感動体験の厚みを平べったいものにしてしまうものなのかもしれません。

自分は価値を大衆(より肯定的に衆生と言いたい)に広めたい欲求が強く、ルサンチマンの道徳になりがちな平等性の概念との距離感が、まだ決め兼ねています。
ただ、お陰様でよりよい方向性はつかめた気がします。

Posted by 泊 at 2017年12月29日 19:36
泊さま
 「(精神的)貴族主義」といふ言葉に出会った最初は丸山眞男の『日本の思想』でした。ヘルダーリンを読むマルクスでしたっけ? ニーチェとオルテガには共通した問題意識がありますね。
 「美のイデアの達人的直観」については仰る通りです。
 芸術における批評性や政治性を重視するにつれて、丸山眞男の言葉の重要性が自分の中で増してきたような気がしてゐます。革新的民主主義が精神的貴族主義によって補完されなければならないというくだりです。ルサンチマンの病弊が政治的社会的にますます深刻になる今日、ニーチェやオルテガの時代批判が重要性を増してくるわけです。
 
Posted by tajima at 2017年12月29日 23:07
田島先生

ありがとうございます。

そうですね、日本には丸山眞男がいましたね。

ニーチェがギリシアの伝統を、オルテガがスペインの伝統を、それぞれ時代の閉塞感に抗う形で追究したように、丸山眞男もアクチュアルな問題意識をもってわが國の知的遺産を問い直していった一人だと捉えられるのであれば、自分も日本人として、丸山眞男の呻吟により私淑していきたいです。

「美のイデアの達人的直観」に対抗する戦略や、芸術における批評性・政治性はもっと考察を深めたいテーマです。芸術はときの政治や大衆の毀誉褒貶によって価値の変転が激しく、時にその価値が継承されないまま、忘れ去られます。
頂いた示唆をもとに、故人たちの学灯を手がかりに、色々考えて見ようと思います。

長々と失礼しました。
Posted by 泊 at 2017年12月30日 00:22