2019年07月27日

参議院選挙の総括

すでに多くの人が指摘していることであるが、今度の参議院選挙でのハイライトは山本太郎氏の運動であった。前回は、その異色のタレントぞろいの立候補者に注目したが、山本氏の選挙応援スタイルも異色であった。私が最も注目していた選挙区は宮城選挙区である。ここでは例によってヴェテランの世襲自民党議員に対して、野党として立憲の女性候補者石垣のり子氏が挑戦していたが、石垣氏は、公然と党中央の生ぬるい「消費税凍結」政策を批判していたのである。ここには、見かけ以上に大きな違いが現れている(政策や考え方の違いだけでなく、パースナリティの違いが大きい)。

枝野氏の「立憲」は、当初の期待を大きく裏切りつつあり、やがて跡形もなく消えていくだろう。私は枝野氏が立党したときには、大きな期待を持って見守っていたが、それは彼が小池新党から外されて、危機に陥ったところから、大きく成長することができるかもしれないと期待したためである。しかし、その後の足取りを追うと、この政治家がちっとも成長していないことが見えてくる。この人物は、相変わらず「人体に危険を及ぼす数値ではありません」の枝野であり、しょせん小さな組織をそつなくまとめていくだけの小人物に過ぎないのだ。

そんな枝野的なものに対して、石垣のり子氏は、公然と挑戦していた。山本太郎氏の触媒がなかったら、石垣氏がこれほど大胆な一歩を踏み出せたかどうかわからない。枝野氏の凍結は消費税廃止とは対極的な政策だ。それは依然として緊縮財政主義の路線の延長にある。枝野氏は結局一般の生活より、財務省の役人の中でだけ通用する通念の方を重視し続け、役人の利害を社会の利害と混同するのだ。


しかし重要なことは、石垣氏が僅差で勝利を収めたことである。ここでは勝つと負けるとでは大違いである。負ければ、石垣氏の政治生命は終わっただろう。しかし勝利したことによって、ここに大きな可能性が生まれたのだ。単に石垣氏という有望な政治家が生まれただけではない。ずっと重要なことは、石垣氏を支えた人々が自信を得たことである。党中央に反対しても、自分たちの力で勝利を手繰り寄せ、権力に手をかけることができることを彼らが実感したことは、何にもまして大きな成果である。これは我が国で初めて生まれたアメリカ型の政治運動である。グラスルーツの運動によって、政治家と一緒に運動家たち自身が成長していくのだ。

イギリス型、またはヨーロッパ型の民主主義と違って、アメリカ型では、党中央の支配権がそれほど絶対ではない。イギリス型では、強力な政策立案能力を備えた党官僚組織が党中央を支えている。緊密に考え抜かれた政策パッケージをもって対立政党に挑みかかる構図になっている。したがってここでは、政治家はプロの仕事になっている。ここ三十年程のわが国の「政治改革」の基本理念も、このイギリス型政治をわが国にも実現しようとするものであった。政党助成金の制度によって、党中央の権力は以前に比較にならないくらい強大化した。(以前では、共産党以外そのように強固な党中央集権をもっていなかったのである。共産党こそ最も典型的にプロの政治家の集団である)

それに対してアメリカでは、候補者ごとにその政策がまちまちであり、「党議拘束」もそれほど厳格ではない。候補者の政策も、選挙運動を通じて、有権者との討論会などを通じて次第に具体的な形をとっていくのが普通であり、そこに有権者や運動員は自分の意志を反映することができるのである。

現代社会において、マスコミや宣伝機関の重要性が増すにつれ、大企業や巨大組織などの関与が大きくなってくる必然性があり、その結果、個々人は政治から疎外され、政治に絶望して無関心となるか、激しい反感に刺激されてファシズム的ポピュリズムに走るか、どちらかに陥りがちとなる。

マックス・ヴェーバーは、現代社会の合理化の進展とともに、官僚制が進行すること、とりわけ政党組織にまで官僚制化が及ぶことを洞察していた。そのため、政治的自由の余地を守るためには、カリスマ的指導者とそれを育てる政治制度が必要だと考えた。ヴェ―バーは、旧来の法治国家がブルジョワジーにとって有利であることを見ていたから、それが遠からず正統性の原理としては機能しなくなることを予言した。

マックス・ヴェーバーが「法治国家」という言葉をどこでも肯定的な意味で用いず、その代わりに、合法性の概念を使っていたことは偶然ではなかった。ヴェーバーにとって、法治国家は、次の二つの点で、すなわちその階級的に規定された性格と、その根底にある自然法信仰とによって、貴重なディグニティを失ってしまっていた。(モムゼン『マックス・ヴェーバーとドイツ政治1890〜1920』p−703)

したがって、ヴェーバーは、大統領制を支持し、アメリカ型の民主主義に期待をかけたのである。アメリカにおいても、ヒラリー・クリントンに代表される(と考えられた)官僚制化に対抗しようとして、トランプというシンボルがポピュリズムによって選ばれたことは、ヴェーバーの洞察がいかに正しかったかを示している。つまりトランプ現象は、政治の官僚化に対する民衆の嫌悪の現れなのである。

しかし、単なるポピュリズムの現象とカリスマ的政治を混同してはならない。カリスマ的指導者はポピュリスティックであるが、ポピュリスト政治家がすべてカリスマを持つわけではない。カリスマは常に己れの決断の成功によって自らを証明しなければならない。

以上のことから何が言えるか? ヴェーバーが見ていた官僚制の宿命を冷静に見なければならない。その上で、官僚制が、ヴェーバーの時代より一層精緻化・強大化するばかりでなく、非合理的なものに腐敗しつつあり、ことごとく従来のものの反対物へと転化しつつあるということである。ヴェーバーが強調した近代官僚制の極端な効率性、文書管理主義、厳密権限主義…これらがいずれももはや机上の空論に成り下がっているのは周知のこと。

明確な目標、企画、計画通りの進行、ノルマ…といったものを尊ぶのは官僚制的メンタリティであるが、いったん決まった計画に基づいて人員や資源が投入され、組織が出来上がると、今やその組織を維持するために人員や資源が投入され、すでにその計画自体が不合理であることが明白となってしまっても、白紙に戻すことはほとんどできない。かくて官僚制は正義にも合理性にも効率性にも反するものになり下がるのである。そのすきに乗じて権力の中心をならず者やチンピラが支配することになる。チンピラたちの支配と官僚制とは相互補完的な関係にあるのだ。だからこそ、右翼のチンピラ・ポピュリストと官僚制度の共謀に対して、「立憲主義」とか「法治国家」の理念で対抗するだけでは十分ではないのである。

しかし、ヴェーバーの期待したカリスマ的指導はどのように具体化するのであろうか? ヒトラーのような例があるので、我々はカリスマ概念に大きな期待をすることがためらわれるのも当然である。実際、ヴェーバーは官僚制の弊害を暗く描くだけで、カリスマの具体像については明確な像を与えていないからである。

我々がカリスマ概念を現代政治に生かすために役立つのは、アメリカ政治の経験だけである。民族独立の英雄たちには、典型的なカリスマの模範的事例が多数存在するが、それらはたいてい一代限りの例外的存在であり、制度化されていない。カストロ、マンデラ、ガンディー、ホー・チミン…。彼らは歴史の特異点に生まれた英雄として、たぐいまれな資質を持った指導者であったが、それを受け継ぐ者たちはいずれも官僚制の中に飲み込まれていく。

唯一アメリカ政治だけが、カリスマ的指導者とその支持者たちを教育する政治過程を制度化することに成功しているのである。重要なことは、アメリカではカリスマがその政治教育と不可分であることである。アメリカ政治のダイナミズムは、まさにカリスマという革命的原理が、本来調和困難な制度と両立していることにある。その制度自体は、本来歴史的偶然から生み出されたものであるから、歴史的・社会的文脈が異なるところに容易に移植できるわけではない。

山本太郎氏の政治がとりわけ注目に値するのは、アメリカ型政治のカリスマ的指導者像が、わが国の政治に初めて根付いた現象としてである。

この運動が大規模な政界再編を射程に入れていることは明らかであり、その布石が山本氏の他候補、とりわけ一人区の野党候補への支援である。果たせるかな、野党の党中央ではすでにそれを警戒していた節が見られ、新潟ではれいわの支援を断っている。しかし北海道・東北での野党候補の善戦は、明らかに山本太郎氏によるところが大きい。今後もその支援を期待する候補は続出するであろう。彼らの中かられいわへの鞍替えする議員が現れてもおかしくない。すでに石垣候補のように党中央に公然と離反するものが出ているし、しかもそれが勝利を勝ち得たのだ。

もう一つ指摘すべきは、れいわの候補者の人選が、カリスマ性をそれぞれの候補者が体現している点である。彼らがほとんど「当事者」として登場したことが、そのカリスマ性の源泉である。彼らはいずれも何らかの理論や利益代表として登場していない。自らが当事者として語る限り、自分自身の言葉として、その人格において説得するカリスマ的権威があるのだ。その点で、カリスマ的指導者は、直接民主主義と意外な親和性を持つのである(この点をヴェ―バーは見損なっている)。

今般の候補者の人選の特徴は、カリスマ性を持つ多数をそろえた点である。カリスマと複数性とを調和させようとする試みなのである。カリスマ的指導原理が、常に独裁的なイニシアティヴという形を取らねばならないわけではない。カリスマにとって本質的なのは、それが人格的な原理であるということなのである。人格的原理であればこそ、複数性と両立可能なのである。実際、アメリカ革命においてもフランス革命においても、際立った個性を持つ複数のカリスマ的指導者が輩出し、共存しているではないか?

情報機器の発達やヴァーチャルリアリティの拡大が、かえってライブの重要性を拡大している現象は至る所に見られるが、今般の政治においても、それが顕著に見られた。山本氏の演説が熱狂的に聴衆を集め得たことは、明らかにその現れのひとつである。ライブの政治は、カリスマの自己呈示と一体不可分なのだ。

すでに、カリスマ的政治を過度に警戒し、そこにポピュリズムしか見ない一部の知識人たちや報道関係者たちは、自らの批評的言説が時代遅れになりつつあることに不安を感じ始めているにすぎない。支配的エリートは、れいわ革命の前に震えおののくがいい。(Mogen die herrschenden Klassen vor einer Reiwaistischen Revolution zittern!)


easter1916 at 23:31│Comments(2) 時局 

この記事へのコメント

1. Posted by nadja   2019年07月28日 04:19
田島先生

この間もお話ししましたが、やはり東北で野党統一候補は多数凱歌をあげられました(実は内心ひやひやしておりました)。れいわの躍進が政治の再生、あるいは我々の霊的再生をはかる壮大なプロジェクトの第一幕であり、そこにポピュリズムをしか見ない知識人もどきらは、多分に勇敢さがない、あるいはもともと死んだように生きているのでしょう。お行儀のよい、始終仕組まれたものになど、到底酔えるはずがない。
我々はいつか決断し、実行に移すことを求められている。なした後、それまでの自分にはもはや戻れない。別人のようだ。石垣氏の当選というのを目の当たりにすれば、それまでの彼女自身と連続しているように見えていかに違っていることか! 伸るか反るか、命がけの跳躍を彼女はなしたわけです。まさに、危険のあるところ、また救いあり。命を賭けねば命がない。これらを体現してみせたわけです。
2. Posted by tajima   2019年07月28日 05:11
nadjaさま
 コメント恐れ入ります。私たちは、候補者とともに闘ひ、共に成長するのだと思ひます。傍観して批評するだけでは始まりません。とりわけ候補者に完全性を求めるのは愚かなことでせう。政治家も我々と同じ間違ひを冒しやすい存在にすぎません。我々は過ちやすい状況において勇気を持って決断する存在を評価し、勇気づけ、支援して英雄に育てなければなりません。期待に反する場合も多いのですが、そんなことでめげてゐては政治にかかはる資格がない。我々のやうな「在家仏教徒」でも、それなりの責任がある。我々の熱狂的支援は、同時に厳しい批判と裏腹のものです。コミットして初めて、厳しい批判が可能になりまたそれこそが政治家を育てていくのです。それは既存の野党をまとめるだけのものではありません。今の「国民」や「立憲」が頭を寄せ合っても何も始まりません。彼らの中で厳しい試練と選別が必要なのです。その意味では、依然として福本イズムに一片の真理がある。それこそが必要なカリスマを生み出すのです。山本氏の決起がこれほどのインパクトを持ちえたのは、既存の勢力を前提することなく、独自のアジェンダ設定の地平を切り開いたからです。
 枝野氏が単独で立憲の旗を掲げたとき、私はその気概に共鳴して支援しましたが、どうも彼は一線を超える勇気をついに持てなかったやうです。石垣氏の勝利こそは、言はばルビコンであり、記念碑的偉業であり、市民の権力の里程標です。彼女は自らをはためく旗頭にしながら、彼女ほどには勇気がないけれど、それでも党中央には幻滅してゐる連中の生きたモデルとなるでせう。ジャンヌ・ダルクのやうな,あるひは高く掲げられた百合の花の旗のやうな存在なのです!栄光は彼女に輝く!

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