2019年08月19日

美学ノート(デュシャンの『泉』)

佐々木健一氏の『美学への招待』増補版(中公新書)を読んだので、それに触発されてあらためて美学について少し述べてみたい。

何が美学の対象であるかは、ただその語の適用の変遷を追っていくだけでは分からない。今日われわれが「芸術」と認めるものに、古代は一者とのかかわり(プロス・ヘン)を認めていなかったのである。つまり、芸術一般という 等質性を認知していなかったということだ。 

それゆえ、一旦は近代の視点に立った上で、その批評精神を引き受け、それを自分自身にも向けねばならない。美学は、その成立やその対象領域そのものが論争的な、優れて批評的な認識なのである。その意識が希薄だと、無批判的順応主義に陥るか(その場合、世に認められたもの、高い値が付くものが芸術作品だということになる)、流行モードを報告する風俗ジャーナリズムに陥ることになる。いずれにせよ、美学は、当初掲げていた規範的原理を放棄することになる。

近代においてにわかに美学が芸術一般の学的認識として成立したこと、その為に「芸術」を統一的に捉える視点が成立したことを基礎にしてこそ、その前史ならびにその解体としての芸術史が、統一的に捉えられるのである。

そのうえで、近代芸術の野心を、世界をその全体性において縮約するという市場経済に由来する夢として見る必要があろう。今日では、その夢はほぼ断念されているし、それを実現する社会的基盤もかけていることが知られているとはいえ、それでもいったん成立したこの理念に由来する批評精神はなお生きているのである。夢の虚妄を突いたり、欺瞞性を暴露したり…。したがって、芸術のジャンルは解体していくが、批評は、また芸術の批評性は残るだろう。そしてそれは政治性を含むものとなる。いや、もともと芸術は政治闘争の場であり続けているのだ。というのも我々(近代の美学的立場)から見て、ということだが。

我々は、ベンヤミンと同様、芸術を近代の見果てぬ夢の約束として、したがって裏切られ続けながらも、闘争へと再三挑戦させ続ける呼びかけとして、つまり敗北しながらも後継者を待ち続ける、かなえられなかった夢と見なす。

我々がまず芸術作品に読み取るのは、そのはかり知れなさであり、謎である。なぜなら、我々は作品の重要性は直感的に理解できるものの、それが何故重要であるか説明できないからである。もちろん、後から批評家がそれを悟性的に説明してくれることもあり、それに我々が納得することもある。

しかし、その説明は別の作品の説明にも同じように適用できるとは限らないし、その「重要性」の概念をパタン化して習得すれば、それに基づいて同じように重要性を持つ作品を自在に生産できるわけでもない。つまり、それは反復適用可能なパタン認識・技術化可能な知ではないのである。作品の価値を判断する判断力は、感性的なもの(色とか形)にせよ抽象的概念にせよ、適用基準が明確なものではないし、技術的に操作可能なものでもない。

もしわれわれが、たとえば時計のようなものの内部構造をよく調べ、その部分部分がどのように作られ、どのように組み立てられながら、それぞれどのような役割を果たしているかを知り尽くしたなら、それを部品からそっくり作り上げることもできるだろう。このような場合、我々は当面、時計についてはすっかり知るべきものは知り尽くしたと言えるに違いない。(もっとも時計の装飾部分など、時計として持っているのではない部分については、なおまだ知り尽くしてはいない部分が残っているかもしれないが。)

ところがこれに対して、芸術作品は、たとえそれが与える感動が説明されたところで、それで作品について知り尽くされたとは言えない。なぜなら、その概念の適用によって作品が製作されたとは思えないし、他の人には他の理由に基づいて感動を与えるかもしれないからである。いや、同一の人物に対しても、初めと時間を経た後では、別の側面が感動を与えるということもあり得る。

感動という心理的なものを絶対化するのは不都合であるかもしれないが、それなら重要性と言ってもよい。「重要性」も「感動」に劣らず複雑な観念だが、それを分析する余地がある点で、「感動」に訴えるよりはましであろう。たとえば、その事柄がいくつかの、あるいは多くの重要な事柄と密接な連関がある場合、その事柄が重要であると言えるかもしれない。その場合、当の事柄をより広い文脈の中に置くことによって、実り豊かな探求方針が示されるであろう。

とにかく作品の重要性は、一人の関心や一つの側面の指摘だけから示されるわけではなく、多くの人々の議論の的になったり、その作品を理解する多方面性に支えられるから、単一の説明で作品の本質を汲み尽くせないこと自体、作品から直感できるのである。

それゆえ、デュシャンの『泉』とかジョン・ケージの『四分三十三秒』のような作品は、それが芸術史上重要な批評的出来事であるとはいえ、それはほぼ単一の意味しか持たず、そのインパクトがいったん与えられてしまえば、もはやそれ自体によって、以後重要性を失うという意味で、永続した重要性を持ちえないものである。実際、『四分三十三秒』を再演することほど間抜けなことがあろうか?



Posted by easter1916 at 00:02│Comments(0)