2019年09月06日

美術館

丸山真男は「盛り合わせ音楽会」という小論で、芸術作品をそれが芸術作品であるというだけの理由から、傾向と問題意識においても様式においても価値観においても全く食い違う諸作品を、安んじて一緒くたに並べる無神経さを批判している。彼はラートブルフに言及しながら、それぞれの作品をその真の精神性において鑑賞せず、いわば等しく文化財としての価値を証明されたものとして物神化する「精神的文化の無差別的享受性」を批判する(著作集第三巻p−340)。

このような批評も、ある種の文化物神的権威主義に対しては一定の意義を持つだろうが、次のように説くに至っては、さすがに偏狭な文化保守主義という別種の権威主義ではないかという疑いをぬぐい切れないのである。

僕の論法を進めていくと何々アーベントといったふうに同一人の、もしくは同傾向の作品だけを選んだ音楽会以外は無意味だという結論にならざるを得ません。(同P―338)

この伝で行くと、メンデルスゾーンがバッハの『マタイ受難曲』を演奏したようなことはどうなるのだろうか? バッハとはまるで異質なメンデルスゾーンの音楽を同じ演奏会で演奏するのは、やはり「内面性を欠いた」「盛り合わせ音楽会」ということになるだろうか?

しかし、メンデルスゾーン自身は自らとバッハの受難曲のあいだにある明確な一貫性を感じていたのであり、自らをバッハの音楽の伝統の中に位置づけることができたのである。丸山は、ベートーヴェンとドュビッシーを同じプログラムの中に入れることが困難であるかのように論じているが、ダン・タイ・ソンの演奏会ではしばしば両者は実にうまく共存しているものだし、そこに演奏家のベートーヴェン観がにじみ出ているとさえ言うことができるだろう。ベートーヴェンのコンチェルトの連続演奏会の演奏では、そこに「ドュビッシーの響き」さえ感じられたものである。

丸山自身が思想史を演奏にたとえているように、演奏自体が批評的行為であるかぎり、諸作品の内的連関を新たに見出すことは、それ自体批評的行為なのである。ベートーヴェンを、一刀両断にドュビッシーから切り離してしまうことは、ある偏った作品観にとらわれた偏見でしかないのである。ベートーヴェンの音楽が、たとえばバルトークよりブラームスの音楽に親和的であると考える必然性はない。それはヘーゲルの哲学が、アリストテレスよりシェリングのそれに近いと考える必然性がないようなものである。

このような点で、アドルノの「ヴァレリー、プルースト、美術館」というエセーが参考になる(『プリズメン』所収)。ヴァレリーは美術館について、おおよそ丸山真男が言うような批判を展開している。美術館では、あらゆる作品があたかもその生前には互いに激しく闘争する場に存在していたことを忘れて、墓地のような静寂に包まれて存在するが、それは作品を正当に生きた活力において問題にする態度ではない。すべての作品は、そのもともとの配置から切り離されて美術館に安置された途端、死の静寂の中に存在することになるのだ。

しかし、作品が本来置かれる場とはどこなのであろうか? モーツァルトの作品は、王侯たちの昼食の背景に配され、ベラスケスの肖像画は、スペイン王宮の壁を飾ることこそふさわしい場所なのであろうか? もちろん老練なアドルノが、そんなバカげた文脈に作品を押し込めることがいいと言うはずもない。

蝋燭の灯りの下で演奏されるモーツァルトは、コスチューム・プレイに堕してしまうものだし、演奏の隔たりを脱して直接的な生の連関の中に呼び戻そうとする努力には、どうしようもない救いがたさがあるばかりか、おまけに何か社会的に後ろ向きの悪意を含んでいるようにさえ感じられる。ある人がよかれと思ってマーラーに、雰囲気を出すために演奏のさいホールを暗くさせてはと進言したとき、周囲を忘れさせないような演奏は何の役にも立たないとマーラーが答えたのは、もっともなことだった。(『プリズメン』p−266)

「コスチューム・プレイに陥ってしまうモーツァルトの演奏」は、芸術作品をその「本来の生活の場」に置こうとする時代錯誤を皮肉っているのは明らかだが、マーラーの言葉は何を象徴しているのであろうか? 作品には、その置かれるにふさわしい本来の雰囲気があるはずである、という考えを嘲笑しようとしているのであれば、モーツァルトの場合と同様の批判であると受け取ることができる。段落替えもないのであるから、そう受け取るのが自然というものであろう。

そもそも、この例はヴァレリーの立場なのか、それともプルーストの立場なのか? アドルノは両者を対比しつつ論を展開しているのだが、プルーストは美術館を享受するディレッタントの立場から一貫して芸術作品を見ている点で、そして、作品をあくまでも鑑賞者の生の一環において享受する点で、作品の絶対的な自立性を目指す製作者の観点に立つヴァレリーと対立するものとされるのである。

美術館が、生活における本来の作品の場ではないとする点では、これらの例はヴァレリーの主張を裏書きするように見える。ヴァレリーが目指す絶対的な作品の自立性を否認する点で、「コスチューム・プレイ」も「暗いホールの演奏」も、似たり寄ったりだからである。

しかし、プルーストが美術品のもともとの享受の場所が失われて久しいことを十分に理解している点で、そしてヴァレリーのようなノスタルジーにとらわれていない点で、これらの例はプルーストの立場に近いとも言うことができるのである。

アドルノによれば、作品本来の文脈は、すでにとっくの昔に失われて久しいものであることを、ヴァレリーは気付いている。彫刻と絵画についてヴァレリーは語る。

絵画と彫刻は置き去りにされた子供たちなのだ。…建築が彼らの母なのだが、その母は死んでしまった。(p−270)

してみると、建築の中におかれることこそが、作品のふさわしい位置なのであろうか? そうではない。貴族の館や宮殿の壁におかれるとしても、美術館以上にふさわしいわけではないのだ。

夕食を取りながら見つめられる傑作は、もはやあのうっとりさせる幸福感を我々に恵むことはない。(p−273)

バロック時代のターフェル・ムジークのような環境音楽こそが音楽鑑賞の理想だ、などとはとても言えないのである。つまり、「本来の場所」など実はどこにもないものなのだ。

そうであれば、あらゆる作品はすでに死物なのである。

神話にあっては英雄たちは…いつも母を亡くしていたことが思い出されねばなるまい。完全な「幸福の約束」のために、芸術作品はその養いの地から引き離され、自らの没落への道をゆくのである。(p−285)

作品を美術館に置くことは、さながら墓地に安置することに似ているのだが、かと言ってそれらの作品に復活の日が来ないわけではない。むしろすべての作品は、その「養いの地」から切り離され、復活の日を待ち望む暗号に成り代わっている。

精神の博物標本室は、芸術作品をまさに本質的に歴史の象形文字に変え、芸術作品が有していた古い内実がしぼんでいく一方で、それに新しい内実を与える。(p-286)

かくて、作品は死と再生との両義性にさらされることになる。現実の文脈から遊離することによって、かえって作品は自由な文脈を獲得するのだ。

作品を美術館に展示するのは批評である。批評によってはじめて、作品が等しく芸術作品として評価されることになる。それ以前には固定された文脈に置かれていた工芸作品が、自由な文脈を獲得する。美術館に置かれるとは、自由な文脈を獲得するということである。個々の作品は、それぞれ先行する作品の様式に挑戦しながら、自らを主張し、批評的に対峙するけれども、それでもそれらが自由に向けて挑戦したことこそが、芸術作品としての品質証明であり、美術館への入場資格なのである。


Posted by easter1916 at 04:32│Comments(0)