2019年09月16日

第三アンチノミー

先日、カント・アーベントという席で講演を行ったが、もちろんはなはだ不評であった。そのときに十分に展開できなかった論旨をいくらかわかりやすくメモしたので、以下に貼り付けておく。
カント・アーベント(第三アンチノミー)

カントによれば、悟性的思考・概念的ないし言語的思考は、不可避にアンチノミーに陥る。アンチノミーとは定立とその反定立とがいずれも成り立たない、またはいずれも成立するような事態を意味する。ヘーゲルは、それを概念的思考の至る所に出現する現象と見なしたが(『論理学』)、カントは四つのアンチノミーのみを掲げている。そのうちの二つは数学的アンチノミーと呼ばれ、無限(パスカルの二つの無限)にかかわる。もう二つは力学的アンチノミーと呼ばれ、因果性にかかわる。

カントによれば、アンチノミーの議論は、一般に制約され、条件づけられたものが、その制約者、条件へとさかのぼる形で、無限に系列をなし、ついには無制約者に行き着くか、それともどこまでも果てしなく続くか、という形をとる。ここで、無制約者というのは、その系列内の一つの項であるか、それとも系列の全体であるかである。空間の場合だと、1キロ以内はその外側の2キロ以内によって制約され…ついには無制約な空間全体に行き着くかどうか、という形をとるが、因果性の場合だと、現在の状態がその原因によって制約され…ついには無制約的な自己原因者に行き着くか、それともどこまでも系列が続くか、という対立となるだろう。

第三アンチノミーを除けば、いずれのアンチノミーに対してもカントはかなり鮮やかな解決を与えている。数学的アンチノミーに対するカントの処方箋は、「無限は物自体の性質ではない」ということであり、力学的アンチノミーに対する処方箋は、「因果性は物自体の一般法則ではなく、探究の方針(リサーチ・プログラム)である」というものである。数学的アンチノミーは、無限を物自体の性質と見なすところに発生し、力学的アンチノミーは、探究の主観的方針を自然の物自体の法則へと投影するところから発生するのである。

カントが第一アンチノミーにおいて提出する定立は、「宇宙が時間及び空間的に限界づけられている」、反定立は、「そこに限界はない」というものである。カントが実際になしている議論は、定立のためにも反定立のためにも、必ずしも十分なものとは見えないかもしれない。

たとえば、宇宙にはじまりが存在していなければ、今の宇宙に至るまで無限の時間が流れてしまったことになるが、無限というものが、このように完結して与えられることは不合理である、と言われる。

――しかるに系列の無限性とは、まさに系列が継時的な総合によっては決して完結せしめられないという点にある。であるから、経過してしまった無限の時間系列ということは不可能であり、したがって世界に初めがあるということは、世界の現実存在のための必要条件である。(『純粋理性批判』B454)

 しかるに、ストローソンも指摘するように、この系列がどこかで始まっていなければならないということを仮定するはできず、それこそ論点先取になってしまう(ストローソン『意味の限界』p−203)。

反定立の方は、「与えられた世界系列の無限性〔時間の場合〕、および世界総括の無限性〔空間の場合〕に対する証明は、その反対の場合〔限界が存在しない場合〕には、空虚な時間・同じく空虚な空間が世界の限界をなさねばならなくなる、ということに基づく」。(同B459)

つまり、世界が始まったときがあったと仮定すれば、それ以前には何も存在していなかったのであるから、この空虚な時間が世界の存在する時間を限定づけなければならなくなる。すると、空虚な時間自体には、そのうちに何も差異化するものがないのだから、いつ世界が始まったと言えるような時点が確定的には存在し得ない。

空間の場合も同様で、どこから世界が存在し始めるのかと言えるどこが存在し得ない、というのである。何とも奇妙な理屈であり、とても説得的とは言えない。

しかし、カントの実際の議論が不十分であるにしても、そこで論じられようとしている問題が空虚というわけでは決してない。空間・時間という形を借りて、無限というものの存在が問われているのである。カントの議論の不十分性は、当時の数学の状態によるところが大きいのであろうから、我々は十九世紀の数学史を省みて、無限集合をめぐる問題として再定式化することによって、カントの問題意識をより鮮明にすべきだろう。

たとえば、自然数は無限にあると言われるとしよう。「無限に大きい自然数が存在する」という命題は二通りの意味解釈が可能であり、弱い方の主張は真であるが、強い方の主張は偽である。つまり、「どんな自然数を考えても、それより大きい自然数が存在する」という意味であれば真であるが、「いかなる有限の自然数より大きな無限大の自然数が存在する」という意味であれば偽である。

これは多重量化(「すべて」と「ある」という量化表現が複数出現する文脈)をめぐるあいまいさと言われる問題の一つである。たとえば「誰でも誰かを愛しているeverybody loves somebody」には、everyとsomeが出現するので、二通りの解釈が存在する。すなわち、ひとつは弱い方の主張「誰でも一人くらいは愛してくれる人がいる」というものであり、もう一つは強い主張「少なくとも一人は、すべての人から愛されている」である。

さて、自然数列はどこまでも次々と伸ばしていくことができるが、それならば、その全体(集合)は存在していると言えるのであろうか? カントは、このような無限系列の完結した全体は存在していないと考えた。つまり、無限は物自体の性質ではなく、ただ概念の反復適用の可能性を物自体に投影しているだけだ、と考えたのである。この基本洞察は今日でも十分生かし得るものである。

数学者は通常、自然数の集合について平気で語っている。その意味では、自然数の無限系列の完結した全体を認めているように見える。しかし、ここには十九世紀以来知られるようになったいくつかの厄介な問題がある。たとえば、集合論のパラドクス。「自己自身を含む集合である」とか「自己自身を含まぬ集合である」などという述語を安易に認めてしまうと、「集合論のパラドクス」が生じる。つまり、集合の集合というものを認めれば、直ちに自己自身を含む集合が生じ、それゆえ「自己自身を含む集合である」という述語を認めざるを得なくなるのである。また、「単語百以内で定義され得ない最小の自然数である」という述語を使うと、リシャールのパラドクスと言われるアンチノミーに陥ると言われている(例えばポワンカレ『科学と方法』岩波文庫版p−200)。なぜなら、この文で表現される数は、明らかに百以下の単語で定義されているからである。

今日では、かかるパラドクスを回避する方法はいくつか知られているが、どれが決定的と衆目が一致しているわけではない。かかる中にあってヴィトゲンシュタインは、難点がないわけではないにしても、エレガンスでは格段に勝る解決案を提案した。それは、「述語」と「操作」を区別することである(この点は、野矢茂樹氏『「論理哲学論考」を読む』哲学書房の解釈による)。

ヴィトゲンシュタインは、フレーゲに倣って、述語を、対象を入力して真理値を出力する一種の関数と見なした。そして、関数である以上、数学の関数と同様、定義域と値域が確定していなくてはならない。ところが「自己自身を含む(または含まぬ)集合である」という述語や「単語百以内で定義できない最小の数である」という述語では、定義域が確定していない。そもそも「集合である」という述語は、初めは通常の集合を定義域として定義されているが、この述語を使って新たにこの集合自体が定義域に加わり、また同様に「集合の集合の集合…」などが次々に定義域に加わり、定義域を変えていくのである。同様に、「単語百字以内で…」という述語も、この述語自体を使って新たに定義できる数が加わり、定義域を変えていくだろう。

ヴィトゲンシュタインは、かかる述語もどきを、厳密な述語からは排除することによって、一見有意味な表現の中から、新たな基準によって非合法的な表現を排除した。こうして一切の意味論的パラドクスを、一挙に解決しようとしたのである。

それでは、数学的概念はどうなるのかと言えば、次々に反復適用される操作と見なされるのである。たとえば、1メートルという尺度(これをこの場合の操作の基底という)を、一回、二回…と適用する操作の反復が、数なのである。基底は、1メートルでも、大福餅でも何でもいいわけだ。基底xに加えられるn回の操作反復をΦⁿxで表示するなら、自然数列と実質同じようなものを得ることができる。ただし、この場合、自然数の完結した全体とか集合にコミットする必要はない。かくて、カント―ルの無限集合論のようなものはカットされるが、集合論のパラドクスのようなものはまぬかれるのである。

ちなみにこれは、ヴィトゲンシュタインが論理定項(例えば否定操作)を扱うのとまったく同様のやり方である。

このようなヴィトゲンシュタイン流のやり方は、無限を物自体の性質とは見ない点で、カントの見方と類似したものということができる。

しかし、このようなことでは自然数は扱えても、極限値の概念を必要とする解析学(微分・積分)は扱えるのだろうか? これがまさに、第二アンチノミーの問題である。ここでカントは、無限に分割していった果てに最小単位に到達するのか、それともしないのかを論じている。どこまでも分割することに何の不都合もないように見えるが、極限値を表記するさい「xを無限に大きくしたとき、f(x)はx₀にどこまでも接近する」などと言わねばならない。すると、「どこまでも…」の意味にあいまいさが付きまとうであろう。

ここでは、コーシーの定式によって、「任意有限」の言葉遣いによって言いかえることができる。「xを無限に大きくしたとき、f(x)はx₀にどこまでも接近する」は、次のようにパラフレーズされるのである。「0より大きな任意のεに関して、x>δのすべてのxについてf(x)をx₀のε近傍に落とし込むことができる(すなわち⎢x₀−f(x)⎢<ε)ようなあるδが存在する。」少しややこしいが、要するに、どんなにεを小さくとっても、xを十分に大きなあるδより大きく取りさえすれば、f(x)をx₀のε近傍に取り込むことが可能であるということが、f(x)がx₀に収れんするということなのである。ここで、適切なδを、与えられたεの関数で現わすことができることが肝心である。この定式化が、無限というおそらくは可能的経験を超えた概念に訴えることなく表記できていることが重要である。εはどんなに小さいとはいえ任意の有限な数でよく、それに対応して取られるδの方も、無限に大きい必要はないのである。これによって、「無限小」をめぐるいかなる難問も乗り越えることができるのである。


力学的アンチノミー
 カントが挙げる第三・第四のアンチノミーは、いずれも因果性の関係するものであり、それゆえ「力学的アンチノミー」と呼ばれる。

因果性をカントは、自然そのものの(物自体の)本性や法則ではなく、それを探究する理性の探究方針のひとつと見なした。これらの基本方針は、「カテゴリー」と呼ばれる。因果性とか実体というものは、カテゴリーの一種である。それは、対象を特徴づけるのではなく、対象を特徴づける概念を特徴づけるのだ。

たとえば、自然現象の変化を語る語り方のひとつとして、我々は感覚器官に繰り広げられる万華鏡のような印象の移り変わりと見なすのではなく、何か安定した本性を持つものの運動や変化と見なすことができる。必ずそうしなければならないというわけではないが、このような見方をするメリットは歴然としている。たとえば、雨を低気圧の接近によって説明することは、その後に起こりそうなこと、起こり得ること、天気の変化を予想することにつながるし、その予想が外れた場合も、低気圧が予想より北寄りにそれたのか、南寄りにそれたのかによって他の場所の天気の変化についても構造的に把握することができるだろう。つまり、低気圧という実体とその運動という単純な概念装置を設定するだけで、多くの場面の天気やその変化を説明するだけでなく、そのあり得る可能性をも一挙に説明可能になるのである。

我々は、実体のカテゴリーという説明図式に合うように、実際に具体的にどのような自然種を説明原理として採用すべきかについては、融通無碍に考えてよい。天気の現象を説明するための実体として、低気圧や高気圧を採用するか、それともある程度のまとまりを持って動く暖気団とか寒気団といったものを採用すべきかは、前もって決まっているわけではない。あくまでも合理的説明のための経済(より簡単な説明原理で一層複雑な、またはより多くの現象を説明できること)によって決まると考えてよい。

また、たとえば低気圧という実体が説明項のひとつとして採用されたとしても、それが永遠に存在し続けるわけではなく、その生成・消滅の説明ももちろんあり得る。ただし、この生成・消滅の説明に当たっては、別の実体が説明項になるはずである。たとえば、温められた空気の上昇によって、低気圧の発生が説明されるならば、ここでは温められた空気が新たな実体となっているようなものである。

実体のこのような融通無碍さは、実体そのものが、それ自体で説明項でも、また自然の中のある種の実在物(たとえば原子とか素粒子など)でもなく、ただ何かそのようなものを設定すべきだという探究の方針の(または現象説明の)枠組みに過ぎないことを示している。

因果性のカテゴリーにしても同様である。因果性自体は、自然の一般的本性や法則のひとつではない。食塩が水に溶ける性質を持つように、自然が因果性という性質を持っているわけではないのである。

因果律とは「結果に違いが存在するとき、原因の違いを探究せよ」といった探究方針に過ぎない。方針であるから、真とか偽であるわけではないし、実際に原因における違いが発見されなくても、その方針が撤回されるわけでもない。ただ、原因の違いがまだ見つからないだけであるかもしれないし、本当にこれといった原因がなく、根源的な偶然によって違う結果になったのかもしれない。たとえ、根源的な偶然性が存在したとしても、それが十分に例外的であるなら、この探究方針を撤回する必要はないだろう。

因果律に従って原因の探究がなされた結果、その原因における違いの本質が突き止められた場合、それが何らかの法則性とか物質の性質によって、あるいはそれらの諸要因の組み合わせによって、説明がなされるだろうが、そこでは、原因とか結果といった捉え方は消えているのが普通である。たとえば、閉鎖気体の体積を二分の一にしたとき、圧力が高まるか温度が低下しているであろう。この現象は、体積を減らすことによって圧力を高めるという因果関係で語ることもできるし、温度を低下させることによって体積を減らしたと語ることもできる。いずれにせよ、ボイル・シャールの法則 圧力×体積/温度(°K)=一定という関係が発見されれば、当初の因果関係は姿を消してしまう。それは因果性というものが、もっぱら探究の過程で働く発見学的な方針だからである。

カントの第四アンチノミーは、因果関係の系列に、一番初めの項として、自己原因的存在者が存在するのか、しないのかをめぐっている。宇宙のどんな現象も、何らかの原因によって制約され(条件づけられ)て成立しているとすれば、その為の制約条件として、先行する事象を挙げることができるだろう。この事象もまた別の原因事象によって条件づけられており、…かくて原因系列が存在するはずだ。

この系列に最初の項が存在するとすれば、それは自己原因として、他のいかなる条件(原因)も持たないであろうし、そうでなければ、この系列は、どこまでも無限に続いていくだろう。こう定式化すれば、因果関係という点を除けば、第一アンチノミーと同型のものと見なすことができる。

しかし、もし最初の出発点となる事象――物事の因果系列を開始する出来事が自由であると考えれば、(それが神の自由意志であれ、人間の自由意志であれ)このアンチノミーは、自由と決定論をめぐる第三アンチノミーと同じ問題を違う形で表現しているともいえる。

しかし、この因果系列を開始する自由そのものは、カントにおいては現象のひとつとは見なされず、いわゆる英知的なものとして因果関係の外に設定されたものであるから、その自由が何故現象の中の因果系列を開始できるのかは、依然として謎のままである。

ともあれ、カントは現象系列の始まりをなす出来事が一方では完全に物理的なものとして記述されながら、同時に英知界的な(特に道徳的な)意味を持つゆえに、自由という意味を持つと考えたのである。

このような説明は、我々を十分に納得させるものではないが、心―身関係と類比的に考えれば、必ずしも不自然なものではない。

デイヴィドソンの心―身関係論
デイヴィドソンによれば、意図的行為を因果的に引き起こす心的出来事(特定の信念や欲求といったタームで同定される心的状態)が、それぞれを実現している物理的タームで記述されることは十分可能である。

前者を規定する心理的タームは、素朴心理学が規定する規範的・文法的関係によって規定されるが、後者は経験科学的・法則的関係にしたがう。たとえば、ラーメンが食べたいと欲求し、ラーメン屋でラーメンが食えると思えば、当面特段の不都合がない限り、ラーメン屋に入ることがアプリオリに期待される(これが素朴心理学)。もしラーメンを食べるのに何ら差支えのない状態に置かれても、ラーメンを食べようとしないのであれば、彼は本当はその欲求を持っていなかったのである(さもなければ、彼は少なくともラーメンを食べるようにすべきなのである)。素朴心理学が規定する意図的行動の合理的説明は、心理タームの意味と習得を規定する文法的関係なのであり、したがって規範的構造を持つ。

しかし他方、それを実現しているであろう身体の物理的機構の記述は、素朴心理学的に規定されたのではないところで習得され意味づけられた諸概念(電気信号とか神経細胞など)を使って記述される。たとえば、電気信号などのタームはおそらく電磁気学的法則の中で、その意味を与えられているから、それが電磁誘導を引き起こさなければ、それは電気ではなかったのであるが、特定の心理的状態を実現する際に、ある電気信号が励起していることは単に経験的事実に過ぎないから、そのさいに電気信号が励起していなかったとしても、電気信号がその意味を失うことはないのである。

このように、心理的タームと物理的タームとは、その習得の場面(つまりその意味の与えられ方)が違うので、心理タームのタイプ的連関(手を挙げようという意志と手が上がることの連関など)を物理的タームの連関(あるタイプの電気信号と筋肉の収縮のタイプ的連関)が、まったく並行的に実現されている必要はないのである。

ある種の心理状態が生起するという個別的出来事(トークン)が、この個別的物理的出来事(トークン)によって実現されているとしても、それぞれのタイプ(心理のタイプと物理のタイプ)が並行している必要はない。たとえば、同じタイプの思考が脳の違う場所で行われていたり、そろばんや紙の上の文字を使って実現されても差し支えないのである。ちなみに、このような心―身関係についてのデイヴィドソン的理論は、決定論と自由の両立を説く「両立論」とも、それを否定する「非両立論」とも共存可能である。

さて、第三アンチノミーである。これは決定論と自由のアンチノミーである。

我々はすでに、因果律や因果的自然理解は、自然一般(物自体)の本性について述べるものではなく、自然理解の探究方針のひとつに過ぎないことを見てきた。(これの洞察をカントは、「コペルニクス的転回」と呼んだ)。そうであるかぎり、それは決定論を支持するものでも反駁するものでもないはずである。決定論は因果性の意味を自然一般へと投影することからくる錯覚に過ぎない。本来なら、ここでこの問題は終わるはずであった。そうではないのは、このアンチノミーがカントにおいては、決定論←→偶然の存在という本来の形になっていないからである。決定論←→自由といういびつな形になっているから、我々は積極的に自由という問題に踏み込まざるを得ないのである。実際、「両立論」は、決定論と自由の厳密な矛盾関係を否定する立場である。


「予言破りの自由」

すべてが決定されているという決定論に対する反論として、いかなる決定が予言されても、それを覆す自由があると言って反論することができる。これが「予言破りの自由」の議論である。右手を挙げるか挙げないか、いずれを予言されても、その逆をなすことができる、というのは我々の強い直観に訴えることができる。このような身体の基本的行動能力に属する行為に関しては、思うままになすことができるという直感があり、通常ならそれを否定しようとする者はいない。

このような議論は古くからあるようで、キルケゴールは古代ギリシアのディオゲネスにこのような議論があることを示唆している。

エレア派の学徒たちが運動を否定したとき、周知のように、ディオゲネスは、反対者として歩み出た。彼は本当に歩み出た。つまり、彼は一言も口をきかずに、二三度、右へ左へ行きつ戻りつしたばかりであった、それだけで十分に彼らを反駁し得たと彼は思ったのである。(『反復』冒頭)

ところが、幾重にも理論武装しているエレア派がこんなことで引き下がるはずはないし、「決定論者」をこんなことで説得できるわけでもない。

我々は、すでに自然法則や因果律に訴える彼らは、一見したほど堅固な根拠を持つわけではないことを見てきたが、今はそれを考慮に入れないでおこう。我々は、「予言破りの自由」の議論が自由の論証として十分であるとも、かといって無意味であると考えるわけでもない。ただ、ここにははしなくも露頭している状況から、自由についての二通りの理解を区別したいのである。

まず、自分の身体の基本的行動能力としての自由があるだろう。ディオゲネスが実際右へ左へ行きつ戻りつするのに何の障害もなかったかぎり、彼はこの意味で自由であった。他方、この時のディオゲネスの本来の意図は、エレア派の学徒を説得することであろうから、それに失敗している限りでは、彼には説得する自由はなかったのである。この二通りの自由は、ずいぶん違うものであるが、どちらの自由理解も劣らず重要である。
基本的な身体能力がなければ、到底生き残ることはできない。獲物をめがけて跳びかかるとき、動物はそれを捕らえようとしていると言えるだろう。彼らに、そのような意図を帰属させ得ると思えるのは、その獲物との関係で、自分の身体を適切に制御しているように見えるからである。

このような意図を帰属され得る動物は、当然、自分の身体の位置や有様についての最小限の自己知を持つだろう。さもなければ、自己の身体を適切に制御することはできないからである。かくて、これらの高等動物においては、知覚と身体位置、身体感覚などの自己知と意図が一体に結びついて、ひとつの意図的行動を構成している。ここにおいて、身体位置の自己知などは、特段の事情がない限り信頼できるものとして、知識の資格が与えられるであろう。

知覚の場合も同様である。目の前のものがそこにあると見えるとき、特段の事情がない限り、その見えるとおりに周辺環境は存在する。つまり、特段の事情がない限り、知覚はその額面通りに受け取ることができる。重要なことは、知覚と錯覚とを弁別することができる程度には、信頼できる知覚機能の正常性条件というものが存在するということである。我々の感覚情報が、たまたま環境の状態に合致することもあれば、合致しないこともある、というのでは、それを信頼することはできない。したがって知覚の正常性条件が成り立つ場合には、つまり特段の事情がない限りは、知覚に基づく判断は知識になるのである。懐疑論が見落としているのは、このような知覚の基本構造である。

ちなみに、このような能力の信頼性に依存する知識の認定は、当然、命題的知にとどまるものではない。自転車の乗り方を知っているというときの能力知にも適用される。あるいは、ミツバチが8の字ダンスをして蜜の場所を仲間に知らせているとき、彼は蜜の場所を知っていると言えるだろう。これらの能力知の方が、命題知に先んじて知の原型と考えるべきだろう。伝統的に知識が「真なる信念に何かが加わったもの」と見なされたうえで、「真なる信念にロゴス(理由付け)が加わったもの」などという答えが吟味されるようなことが多かった(プラトン『テアイテトス』)。このような探求の方向では、自転車の乗り方の知識や、ダンスをする蜜蜂の知識などは到底認定できないことになりかねない。知識を過度に知性化(ロゴス化)するのは避けねばならない。

意図に関しても同様のことが成り立つ。自分が何を意図しているかは、当の主体にとっては知識の資格を持つはずだ。それが証拠に、当の意図的行動が意図通り成功したか否かの区別が、主体にとって行動そのものに先んじて知られたものであるはずだからである。

これらに見られる信頼性は、それに基づく行動や認識を知識や能力の行使と言えるものにするが、それは、これらが絶対的に信頼できる確実性を持つということではない。あくまでも特段の事情がない限りで成立する正常性条件のようなものが存在し、それが成立しない場合は、何か特段の事情が生じている場合として、正常な場合と区別して論じることができるということである。

たとえば、意図的行為や知覚は、正常であれば、意図的行動や知覚として適用されるアプリオリな構造を持つ。知覚であれば、環境の様子をありのままに、つまり知覚が表示するがままに存在するように、額面通りに表示しているものと見なすことができるし、意図的行為であれば、その意図に向けて、身体を実効的に制御しつつあるものとして行動を捉えることができるはずだ。つまり、知覚や意図的行動がアプリオリに期待される構造を持つことは、決してたまたまのことと見なされないほど信頼のおける機構が働いているということである。それはもちろん、生物の進化の結果であろう。

我々の能力のうち、進化によって説明できる部分は(少なくとも比較的高等な動物の場合には)、自由を認定しても不自然とは言えないだろう。彼らに意図を帰属させ、彼らの欲求実現のため、目的合理的なものであるとみなしうる限り、そこに彼らの自由を見ることができる。

このような自由であれば、決定論と両立可能なものと考えても不自然ではないかもしれない。実際、そのうちで比較的原始的な行動は、ほとんど本能によって決定されているように見えるものと連続している。どこで本能が終わり、自由が始まるのか見極めることは容易ではない。猫が猫じゃらしに飛びつくとき、彼らが意図的に行動しているのか、それとも猫じゃらしにただ操られているのか、区別が難しい。

同様に我々のなす意図的行動も、意図的行動としてなしていても、生物としての何らかのメカニズムによって決定されているかもしれない。それらには、進化論によって説明可能な意味(目的合理性)があろうし、同時に機械的因果法則によって適切に説明することもできるだろう。かかる事例に注目する限りは、決定論と自由の両立可能性を説く「両立論」が成り立つことは十分にありそうなことにも見えるのである。

思えば、意味――生き残るうえで有意に有利に働く機構が何故かくも複雑な物理的メカニズムを通して実現されるに至っているかの説明こそは、進化論的説明が最も得意とするところであるが、それ以前には、伝統的にはいわゆる自然神学的説明が担ってきた領域であり、特にライプニッツの「予定調和」の教説がそのもっとも洗練された形態を示している。自然神学と進化論が、互いをライヴァル視してきたのもその為である。両者は、理論的にほぼ同形であると見ることができる。それらいずれの立場に立っても、人間や他の動物たちの自由と自然とは、神または進化によって調和していることになる。

しかるに、人間の自由がこのように自然の中の調和の一こまとして、精妙に埋め込まれるものであろうか? 人間の自由は、他の動物の「自由」をはるかに超えた何か不気味なところ、不調和なところ、己れの生存の目的合理性さえも凌駕し、破壊させかねないところがありはしないか?たとえば、悪とか、罪とか、自己破壊の願望だとか、いわゆる「狂気」だとか――そのような通常の動物から見ればなんとも不可解と見えるかもしれないような暗黒の側面が、人間実存には付きまとっていはしないか?

たとえば、キリーロフ(ドストエフスキー『悪霊』)は、自殺する瞬間、本当に自由であったのだろうか?と有意味に問うことはできるだろう。これは、キリーロフにおいて、銃の引き金を引くという基本的行動能力という以外の自由を問題にし得るということである。

かかる人間の自由に特有な問題に対しても、アウグスティヌスからキルケゴールに至るまで、すでに多くの考察が積み重ねられてきたのである。

ちょうど自然進化が与えた知覚機構を超えて、概念を駆使してなされた思考が存在するように、自然的能力を超えて広がる概念を駆使した自由の領域というものがあるのではないか? そして、概念的思考が思いがけずその道を踏み外して、無意味や不整合な信念を生み出すことがあるように、自然的能力を超えて駆使される概念的自由が、似たような踏み外しを起こすというようなことがあるのではないだろうか? かくて、言語という点においては、自然と理性の予定調和が崩れるのではないだろうか? したがって、自然の淘汰による説明によって、思考の全領域を整合的に理解することも、自由の全領域を跋渉することもできないのではないか?

デカルト的懐疑と信念の自己帰属

さて、特殊人間的な自由について論究する前に、我々の自己知や信念の自己帰属について一言述べておくべきだろう。

我々は、知覚は信頼に足る知識の源泉(のひとつ)だと述べてきたが、周知のように、その確実性をラディカルに疑うデカルトや、それに連なる人々(たとえば、知覚内容の真偽はとりあえずカッコに入れて、その意味にのみ注目するフッサール)がいるから、初めから知覚が信頼に足るとする我々の主張は、いかにも素朴なものに映るかもしれないからである。

そこで、デカルトに立ち返って、方法的懐疑の意義とコギトの「確実性」について、一応の検討をしておこう。

デカルトは「感覚は時として私を欺く」と言った(『省察』機法また、感覚に与えられたものを超えて、外界の存在について判断するところに、誤謬の可能性は生じると考えた(『省察』検法

知覚に基づいて外界のものについて何らかの内容の判断を下すとき、そこには知覚対象についての高度な理論的認識が介在しているかもしれない。たとえば、我々の視覚に現れている同じ諸対象が、触覚的にも提示され得ること、見えるものを同時に触れることもできること、右手で触れているものに左手でも触れることができること、アリストテレスが「共通感覚」と呼ぶものが存在しているという認識である。これは、異なる諸感覚を通して共通に感覚されるもののことであり、共通に感覚する能力のことではない。共通に感覚されるものには、存在や数や同一性や形などが含まれる。これらのものは、感覚的に呈示されているというよりも、感覚経験の意味を構成するものとして概念的に思考されているのである。

知覚も判断と同様、志向的内容を持つだろう。そうであれば、知覚も知覚対象の同定を含んでおり、その対象の同一性基準を与えるもの(本質概念)を暗黙のうちに含んでいるというべきではないか?

もちろん、我々の知覚は感覚与件のパッチワークからできているわけではない。だからといって、知覚内容を過度に概念化してしまうのも問題だろう。我々の知覚内容には、その対象の同一性規準がくまなく知られたものばかり登場するわけではない。慣れ親しんでその本質がよく知られたものばかりでなく、はっきりとは正体のわからないものもしばしば混じってくる。十分には概念的に理解されていないこれらの未確定物体も、その空間的位置や大きさがおおよそわかっていなければ、それを知覚しているとは言えない(特定の地層のごく一部だけが露頭している場合などはその境界例)。

つまり、知覚対象に対応する様々な適切な行動をとり得る程度に知覚対象が同定可能であり、そのかぎりは、それは知覚内容を構成し得るのである。そしてその限り、知覚内容は、その行動内容と可感的関係を持つ。たとえば、一定の距離だけ目の先にあるように見える対象をつかもうとして、適度な長さだけ手を伸ばすなど。

このように、知覚内容は、主として意図的行動との相関において、その内容が分節化されるのであり、そのさい存在論的概念を含んでいるとは限らない。含む場合もあるが、それが知覚にとって必須ではない。我々が高等動物にも、知覚を帰属させようとするのは、その為である。彼らも、自分が見ている対象が、捕らえたり食べたりする獲物と同一であることは知っているに違いない。それが対象の本質概念に基づくと知っているわけではない。

しかし、知覚内容と判断内容との間には、習慣と学習による自然な連関があり、概念を駆使しない動物たちはもとより、概念的思考を介在させる我々の場合でも、特段の事情がない限り信頼できる可感的関係が成立する。つまり、知覚内容を額面通りに受け取って、それに基づいて判断することが許される。

かくて、我々は過度に知覚を知性化することなく、それでも知識の信頼できる源泉として、認めることができるのである。

デカルトは、知覚の信頼性を否定し、コギトの信念の場へ移行する。ちょうど、フッサールが現象学的還元によって、信念の真偽をカッコに入れて、その意味へと注目したようなものである。しかし我々が注目したいのは、この場合も、意識はデカルトにとってさほど信頼の足るものではないということである。フッサールにおいては、還元された後に取り出されたノエマ的意味は明証的なものとされたが、デカルトは有名な悪霊の懐疑によって、このような意味の明証性を打ち砕いてしまう。我々が考えているとき、その真偽はともかく、意味だけは明証的である、というような保証はないのだ。

我々は思考するとき、言語に頼らざるを得ない。だが、まさにその言語の中に悪霊が紛れ込んでいないとは限らない。悪霊は、我々が適切に言語を使用して真理を捉えたと思い込むそのたびに、そう見せかけてしまうとしたら、我々が思っていると信じている内容を、我々が本当に思っているという保証はない。デカルトの悪霊の懐疑は、このように我々の思考の深部に及ぶ。

フレーゲやヴィトゲンシュタインの仕事は、言語がしばしば我々をミスリードしてしまう可能性に気づかせるものであったが、それ自体、同時代のさまざまの文化領域で言語批判と呼応していた。文明批評のカール・クラウス、ホフマンシュタールやカフカの文学、精神分析のフロイト…など。クリプキのヴィトゲンシュタイン解釈は、そのような言語懐疑主義的な側面をズームアップしたものと言えるだろう。

それらの詳細に立ち入る必要はないが、これら一連の運動が、デカルト的懐疑の従来注目されてきたのとは違う側面を復活させたということができる。つまり、従来は観念論的側面とか、現象学的側面に注目が集中してきたのであり、そのさい方法的懐疑を乗り越えるのは観念や印象であるとされたり、ノエマ的意味とされてきたのだが、今や信念内容や思考内容を構成する言語的意味そのものに懐疑が向けられる。したがって、意識の直接的所与としての観念や表象であれ、信念内容の意味であれ、直接的明証性を保証できるものとは見なし得ないのである。

ソクラテスは、無知を装って、しばしば対話の相手の信念を聞き出しつつ対話を進めていくが、結局は、相手がおのれの信念の中に矛盾があった事を認めざるを得なくなるように追い詰めていく。そのような場合、対話者は、そのままの矛盾する信念を持ち続けることはできない。矛盾が明白になった信念はもはや信念内容を持ちえないのである。そうであれば、矛盾がまだ発覚していなかった段階でも、彼らが本気にそう信じていた内容そのものを信じていたとみなすことはできない。なぜなら、気づかなくても矛盾を含む内容を信じることは不可能であるからである。

つまり、彼らは、何も信じていなかったか、少なくとも自分が信じていると信じていた内容そのものを信じてはいなかったのである。

この教訓を真剣に受け取るなら、デカルトのコギトは、それほど明証的ではないことになろう。何を信じていたにせよ、何かを信じてはいたのだと、明証的に言えるだろうか? 信念内容が案に反して、無内容であったことが判明した場合(「幽霊が存在する」など)信念態度が阻却されるだけでなく、そもそも何かを信じていたということも成立しないのではないか?

指示対象が欠けた文の解釈は、さまざまであり得るが、その指示表現が確定記述(「現代のフランス王」など)とは違って固有名である場合、その意味(Sinn)を与えることは難しい。一つの案は、そのような疑似固有名に「いわゆる」をつけて理解する方法であろう。「いわゆるホメロスは存在しない」ということであれば、確定記述の省略形と見なすことが可能である。

たとえこのような形で信念内容の意味が救われたとしても、コギト命題「われ思う…」のすべてが明証性を確保できるわけではない。「われ思う」の「われ」が、デカルトの主張するように常に明証的、というわけではないからである。

もちろん、紙の上に書かれた「われ思う、ゆえにわれあり」だけで、この「われ」が何者かを指示していると思う人はいないだろう。コギト命題が真になるためには、実際にそれが主張されていなければならない。その意味で、しばしばこのような命題は語用論的にアプリオリに真と呼ばれるのである。「私はここにいる」「私は今生きている」なども同様に、それが発話者によって真面目に主張されている限り、アプリオリに真になるであろう。しかしだからといって、そのような文は常に真であるわけではない。たとえば、語学教材の例文として書かれている場合もあるからである。

「私」がまじめな主張の中で使用されているための規準は何であろうか? それが、当人の主観的印象や確信によるとすることはできない。夢の中で荘子が蝶になって花に止まっていると考えているとしよう。そのとき彼は、「私は蝶になって、この花に止まっている」 などとまじめに考えたり主張したりしたつもりであるとしよう。このような発言をどう解釈すべきであろうか? 

デカルトによれば、私はもっぱら純粋な魂(意識)としての同一性と存在を持っており、その私がたまたま蝶としての身体をまとっていると考えているにすぎない。したがって、現実にはベッドの中にある身体をまとった魂が、蝶の身体をまとっていると誤って考えることに何の問題もないことになる。

デカルトのコギトの確実性は、思惟においてこそ成立するとされる。意志的に疑うという思考においてこそ、「私は疑っている」ということが確証されるのである。そして、このことが最高に確実なこととして確証されるのは、その疑いが最も強化された悪霊の懐疑においてなのである。

ということは、漠然と疑っているつもりになっているとき、「私は疑う」と思っていても、本当に疑っているのか、単に疑っていると思っているだけなのか、はっきりしないからである (ちなみに、「疑っていると思っているだけ」ということは少なくとも何かを思っている、何かを考えている、のではないか?と反論されるかもしれないが、そうではない。「疑っていると思っているだけ」とは、何かを考えることであるとは限らず、せいぜい何かを考えているつもり、何かを考えていると想像しているだけ、かもしれないのである。)。

たとえば、心の底では妻に頼り切っている小心者の男が、ついつい浮気に手を染めてしまった挙句、自分の良心の呵責を抑圧・転化して、かえって妻の浮気を疑うなどということが起こるかもしれない。このような場合、妻の浮気を疑うというのは意識の表面上の自己欺瞞にすぎず、本当は疑ってなどいない、というのは十分起こり得ることであろう。このように、本当に疑うということと、疑っていると信じること(疑っていると自己欺瞞的に想像すること)とは別のことなのである。

また、我々も多少は現象学をかじった初学者として、「世界の一般的定立(世界が存在していると信じること)」を意のままに停止することができると思い込むことがあるかもしれない。しかし、フッサールの言うがままに現象学的還元をしているつもりになったとしても、それで直ちに世界の存在を本当に疑っていることにはならない。何を疑うのもエポケーするのも、完全に我々の意のままになるわけではないし、懐疑の自覚が懐疑の確証ともなるわけでもないのである。

実際、デカルトはその方法的懐疑の過程において、それなりの懐疑可能根拠を引き合いに出している。それらの懐疑根拠と認識の保証根拠との間で、あたかも法廷弁証のようなやり取りが展開された挙句、ついには悪霊の懐疑が登場するのである。

この懐疑は、通常の疑わしさとは全く異なったものである。感覚を疑うのは、それが「時として私を欺く」からである。その信頼性の欠陥は、疑うための積極的な理由のひとつにはなり得るだろう。

しかし、悪霊の懐疑はそのような理由や証拠に基づく懐疑ではない。悪霊が私を欺いているという証拠は何一つ存在しないし、私の認識に何か疑わしいところがあるという理由に基づいて疑うわけではない。根拠もなく、あえて疑うという純粋に意志的で反自然的で、能動的な疑いを、悪霊という概念装置は体現しているのだ。

しかし、それはただ強く疑いたいと思念することではない。悪霊に対して明瞭な役割を振り当て、終始一貫した強い意志と自覚に基づいてのみ、単に懐疑の想像にとどまらず、本当に懐疑を遂行したと言えるのである。この懐疑の明証性は、逆説的にも、まさにこの懐疑の遂行が強力であることによっているのである。

してみると、疑うと言われる行為(疑うという態度の帰属される思考)のすべてが、本当に疑いであって、疑いの想像ではないという保証があるわけではなく、この強化された悪霊の懐疑のみが、真に確実な疑いの自己帰属を保証されたものであることがわかる。ましてや、全ての思惟(と思われた態度)が、本当に思惟であるという保証もない。単に思惟していると思い込んでいる、思惟していると想像しているだけという可能性も十分にあるからである。

そもそもデカルトにおいては、感情に任せてイメージからイメージへと思い浮かべるようなことは、思考とは見なされず、体液の運動のごときもの(精神ではなく身体に属するもの)と考えられていたのである。有名な千角形の例も、思考とイメージの峻別を問題としていた。我々は、千角形と千一角形を概念的に明確に区別して思考することができるが、それぞれのイメージを区別することはできない(『省察』第六省察)。

ここから見ても、デカルトの懐疑の根本動機が、真の思考を単なる想像から区別することにあったことがわかる。そうであれば、ただ考えると信じていたり、疑っていると思っているだけでは、思考している証しにならないことは明らかである。つまり、デカルトの根本動機に即して考えるなら、いわゆる表象や観念も、フッサールがノエマ的意味と呼ぶものも、決して直接明証な認識とは言い難いのだ。

主体の信念の意味が一般的に主体自身にとってさえ直接明らかであるとは限らず、本人が自己の信念内容を十分明晰に理解していないこともあり得ることを考えれば、デカルト的懐疑を支えている悪霊という装置さえ、我々が常に首尾一貫したものとして使用し得ているという保証はあるだろうか?

ともかくも、強力な装置を駆使して懐疑の確実な自己帰属が可能であるとしよう。その結果、思考と思考の想像の区別が鮮明となる。これは、命題的態度(信念や思考や懐疑など)の内容をその無意味さで侵食するばかりでなく、態度帰属も、また帰属主体の設定をも不確実なものとしてしまう。

思考の想像の極端な例として、夢における「思考」を取ることができよう。荘子が夢の中で蝶になって花に止まっていると思うとき、彼はもちろん知覚してはいず、知覚していると想像しているだけだ。その場合、想像している主体が存在していると言えるのか?そう想像している主体はいかなる主体であろうか? その主体を夢の中の花の中に位置づけることはできない。しかしまた、荘子が眠っているベッドの中に位置づけることもできまい。なぜなら、この主体が「ここ」思考を持つと思うとき、彼は彼自身の身体が位置付けられている環境との間で、取り交わされる情報――行動連関を作り上げていなければならないからである。ここから環境を見晴らし、そこから情報を受け取って、それに対応した行動によって環境に働きかける――そのネットワークの中心として「ここ」という観念を享受できるのである。

G.Evansは、「ここ」思考について、周到な議論を展開している。それは、情報という概念に訴える点で、従来の言語哲学を大きく超える内容を持つものである。彼は、直示詞(これ)や「ここ」に伴う意味や思考を十分に理解するためには、「これ」や「ここ」といった言葉の使用法を解明するだけでは十分とは考えない。むしろ、指示対象と主体を結ぶ情報的連関の存在に踏み込まねばならないのである。

たとえば、「ここ」は発話者のいる場所、「今」とは発話の時点を指示するといった文法だけでは十分ではない。後で見るように、発話者の存在が明確でなければ、「発話者のいる場所」も明確でない。夢の中で「ここ」と発話した場合、発話者やここは指示されているだろうか?また発話の文脈抜きに、「今」の指示が理解できるだろうか?

だが発話の文脈こそは、発話主体の在り方と相関的なのである。「ここ」にせよ「今」にせよ「私」にせよ、その発話の内容や文脈と無関係に、完結した、いわば裸の実体として存在するのではないし、また指示同定されるのでもない。

もちろん、人格として同定された指示対象としてなら、以後、人格としての本質と同一性を伴って理解されるだろう。しかし、一人称代名詞としての「私」とか「我々」の用法は、それに尽きるものではない。人格としての同定は、基本的に知覚対象の同定と同じ基盤に基づくが、発話主体としての同定は、発話内容相関的な文脈を持つ。「〜を確認した今や…」「〜を成し遂げた我々は…」などがそうである。これらの指示は、発話内容とその文脈と相関的にのみ理解できる。

かかる文脈が、想像的舞台や夢においても同様に踏襲されるのである。これらの場合、主体は必ずしも人格として同定されるわけではないが、裸の主体として同定されるわけでも、無内容な(あるいは内容超越的な)実体として指示されるわけでもなく、文脈依存的な(ある意味融通無碍な存在性格をまとって登場するのである。夢や夢幻能におけるように変身が起こるのはそのためである。

さて、エヴァンズの直示詞や「ここ」の分析で訴えられる情報概念において重要なことは、この情報のリンクが、何か単線的な一方向的な情報の流れとだけ考えられてはならないということである。情報が意味の理解にとって役立つためには、情報網の存在およびそれについての主体の理解が不可欠である。

国家の情報局が諜報員を放って情報を収集する場合、必ず複数の諜報員からの情報を照らし合わす。それによって、諜報員の報告の信ぴょう性や意味を立体的に理解しようとするのだ。特に、諜報員が敵方の二重スパイになっている可能性もあるから、単独の情報にのみ依存することは、大変危険であろう。かくて、情報は諜報員自身についての情報と込みにして初めて意味を持つ。また、個別情報は、それをもたらした諜報員自身についての情報を同時にもたらすのである。

これと同様、「ここ」思考の意味を構成するためには、対象から単線の情報信号が届くだけでは十分ではない。むしろ主体は、ここを含む周辺環境に情報網を張り巡らしていて、そのどの部分からどのような情報が到来しているか、いないかを、総合的に考慮せねばならない。これは、身体を持つような主体が、多様な情報可感性を環境に対して準備しているのでなくてはかなわないことである。つまり、純粋な意識であるデカルト的コギトには難しいことなのだ。

これを蜘蛛の巣を張り巡らす蜘蛛に例えることができるだろう。蜘蛛は、自分の巣のネットワークがどの方向からどのような信号を伝えてくるかを感じて、それを総合して、自分の巣に獲物がかかったこと、それが巣のどのあたりにかかったかなどを知ることになる。

それと同様に、我々は感知可能な情報網を、身体を取り巻く環境(これを「自己中心的空間」と呼ぶ)に張り巡らしていて、そこに知覚対象が出現するや否や、それが自分の身体という中心から見てどの方角のどのあたりに出現しているかを、位置づけることができるのである。それゆえ、真っ暗闇の中で、何も見えないところにおいても、「少し手を伸ばせば、そこにドアノブがあるはずだ」というような思考をめぐらすことができる限り、知覚対象から目下のところ何の情報が与えられていなくても、「ここ」や「そこ」の思考を享受しているとみなすことができるのである。

情報網が存在していると見なし得る限り、実際情報が不在であるということ自体が情報としての意味を持ち得るのだ。

このように情報の取り扱いができることが、「ここ」観念を所有することであるとすれば、夢見る荘子がそれをできていないことは明らかである。

「ここ」という観念を享受できないまま、「私」という観念を享受できるだろうか? 一見すると、それは容易であるように思われる。思考主体にとって、その思考の自己帰属にとって、自己の位置認識の自己帰属は、必須条件とは言えないように思えるからである。かくてデカルトは、コギトにとって身体は必須ではないとしたのである。

しかしそれは、見せかけのことである。我々は思考にとって言語(概念)能力があれば充分であると考える傾向があるが、それはすでに習得されている場合である。言語(概念)を習得するとき、時空を含む可能的経験抜きにはありえない。というのは、一定の言葉を組み合わせた文が実際にどのような場面で使用されれば真になるか(真理条件)の理解をもとにして、我々は文及びその構成要素である語彙の意味(使用法)を習得するほかないからである。

してみると、どのような状況でどの文が真とされるかの(真理条件の)理解のためには、ここでの文使用が真と見なされるということが基礎とならねばならない。かくて、概念習得のためには、ここでの言語使用の理解が不可欠であり、それゆえ、言語使用者は、環境への位置づけ抜きには、思考を享受できないのである。それゆえ、思考主体は、言語習得を必要とする限り、「ここ」観念の理解抜きには思考主体たり得ないことになる。実際、荘子の夢の内容も、もっぱら現実の経験から得られた概念やイメージをパッチワークのように使用しているに違いない。

かくて、荘子の夢の主体は、荘子であるとも蝶であるとも言えない。それは知覚しているわけではなく、知覚を想像しているだけであり、考えているわけではなく、考えていると想像しているだけなのである。そして、その想像主体自身が想像の産物(想像の結果)なのであり、コギトと同一の思考主体であるわけではない。それは、ちょうどハムレットを、没我的に演じている主体が、「私はデンマーク王子である」と発言したとしても、その「私」が何かを指示しているわけではなく、指示するふりをしているにすぎないのと同様である。この発言がハムレットの実在を証明しないように、荘子の夢は、蝶主体の存在を証明しない。しかのみならず、それは思考の存在の証明でもないし、思考主体としての〈魂〉の存在の証明でもない。

信念や思考は、その内容と無関係に、確実な自己帰属ができるわけではないこと、しかも想像においては、想像主体を措定できるわけでもないこと――このことについては、多くの実例を挙げることができよう。

夢幻能では、通常「諸国一見の僧」のような物語の進行役、あるいは読者のような者が登場し、その前に、その土地の名所・旧跡などを案内する里女のような者が現れる。これは、僧に対して、その土地にまつわる物語を聞かせるためである。あるいは僧は、物語を読み進む読者と見ることもできよう。

この物語が佳境に入るころ、里女の変身が起こる(前シテから後ジテへの変身)。物語っていた者がにわかに物語られている主人公に変身するのである。こうして、物語の枠組みが乗り越えられる。今やシテは、物語を憑依して動き始める。これは夢においてもしばしば起こることであり、想像的なものの特徴である。

サルトルは、『想像力の問題』において、揺れるブランコを想像するために、身体の一部、たとえば眼球運動を、ブランコ運動の類似物(アナロゴン)として揺らす必要があると論じている。つまり、想像的なものを立ち現わせるためには、身体を使って、一種の模倣をすることが必要なのである。

物語を演じることによって模倣することで、想像的なものがそこに立ち現れる。役者に物語が憑依するというべき現象が生じることになる。

こうして、想像においては想像する主体はあいまいなままである。それは想像しているより、想像されているものなのである。俳優は、物語の主人公に自ら想像的に同一化することによって、観客にも想像的同一化を促す。ボクシングの試合で、熱狂した観客がボクサーに一体化して、自分の体をスウェイさせたりするようなものだ。

知覚やそれと結びついた意図的行動が、身体の位置をはじめとする主体の自己知をもたらすのと対照的に、信念や思考の想像は、明確な主体の同定をもたらさない。以上の教訓は、はなはだ逆説的なものである。
我々はすでに、知覚とか意図的行動に関しては、動物とも共通するような信頼性が存在するとし、そこに知の源泉を認めることによって、知覚の過度な知性化を避けてきた。一方、信念とか思惟に関しては、言語という高度な装置によって他の動物たちとの深い溝を認めた。

ところが、その高度な知性において、知覚には保証されていた信頼性条件が、にわかに崩れるのである。信念や思考においては、知覚や意図的行動に見られた信頼性や正常性条件が存在しない。したがって、信じていると思われているものが、本当に信じているという保証はないし、思考していると信じている内容が、取りあえず特段の事情がない限り、有意味であると信頼できるわけでもないのである。つまり、我々の高度な知性の働きにおいてこそ、信頼性が崩れるのである。動物と共通する部分において信頼性や正常性条件が存立するのに、高度な知性においてそれが成立しないのはどういうわけであろうか?

それは、もっぱら言語によるのである。知覚の信頼性は、何百万年・何千万年かにわたる進化の産物であり他の動物ともある程度共通するものであるが、信念や思考が言語による限り、この言語というたかだか10万年程度の歴史しかない装置は、自然的プロセスの持つほどの信頼性を持ちえないのだ。

したがって、ライプニッツの考えるような予定調和が言語的思考には存在していない。有意味に見えるものが、特段の事情がなければ有意味というわけにはいかない。むしろ、信念が相互に矛盾を含んでいないか、概念の使用が首尾一貫しているか、絶えず批判的吟味にかけねばならない。これが古来弁証法と呼ばれた活動である。それは言語の使用を広く全体論的に吟味することである。言語使用を包括的に吟味することによって、我々は自分が実際に何を考えていたのかを自覚することができるのである。

ちなみに、このように概念と言語使用の独自性を強調し、進化論的適応によって与えられたものから峻別する態度は、悟性と感性を分離するカントに特徴的なものであり、それらの連続性を強調するライプニッツの態度と鋭い対照をなしている。

この結果、信念とか思考は、特段の事情がない限り有意味であるというような正常性条件が存在しない。それゆえ、思考していると思っているなら何かを思考しているという保証などない。コギトが明証的な確信を与えるのは、主体が思考しているという主観的確信などではなく、意志的な懐疑を経て初めてである。それも、現象学的還元のように、定立を一般的にカッコに入れるといった抽象的な操作によるのではなく、具体的な信念に基づく懐疑の具体的遂行に基づかねばならないのである。

その遂行は、ひっきょう弁証法に遂行に他ならない。個々の信念に対して、あり得る批判の理由を逐一法廷に挙げ、吟味することである。そのさい、個々の信念が他のすべての信念との全体論的考察におかれるのである。かくて、デカルト的懐疑の本質は、弁証法に帰結するのである。そのポイントを繰り返すなら、我々の言語的思考は、それが真の思考であるのか、それとも単に思考の想像にすぎないのか、直ちに区別するような基準が与えられているわけではないこと。したがって、思考しているつもりでも、何も思考していないということ、単に思考するふりをしていただけに過ぎないことを弁別することが十分にあり得ることである。

自由についても、その自然的側面と同時に、概念的側面への配慮が必要である。とりわけ後者に関して生じる特別の事情を無視しないことが重要である。そこから、「両立論」や自由の進化論的説明がもっともらしく我々をミスリードすることになるからである。

自由には、由来の異なるさまざまの問題が解きほぐしがたく絡まっていて、それを整理するのが難しい。選択、意志、責任、特権的身分、反事実的可能性…

以下我々は、「自由意志」のようなあいまいな概念が空疎であることを示すことになるが、それはいわゆる「両立論」に与することではない。むしろ自由の重要な意味は、決定論とは両立しないことを示したい。しかし、それは決定論が論駁できるからでも、自由意志の存在が立証できるからでもない。「両立論」への批判を決定論批判によらずにすることが、我々の議論の大きな特徴であることを注意していただきたい。我々が自由であるかどうか、どの程度自由であるかは、明確には決定できない。とりわけ行為の時点では、それを確実に知ることはできない。自由の判定は、有意味性の判定のようなものであり、事後的に判明するのである。

とはいえ、通常、選択の自由ということが成り立つ場面があることは否定しがたい。体の基本動作において、右手を上げるか左手を挙げるかを選択する自由があるということには、問題がないように思われる。それは、そのような行動が我々の身体能力の範囲にあるからである。インパラを狙うチーターが、インパラの逃げる方向につれて、自分の進行方向を右に左に変える能力を持つとき、彼は自由に体の方向を変えている、と言われるだろう。

我々の能力のうち、進化によって説明される部分は、少なくともそのうちの比較的高等な動物の場合には、自由を彼らに認定しても不自然とは言えない。むしろ、その逆に自由は人間だけにのみ属するものとする議論の方が、ずっと不自然に見えざるを得ない。彼らの意図を帰属させ、彼らの行動をその欲求実現のために目的合理的なものであるとみなしうる限り、そこに彼らの自由を見ることができる。

このような「自由」であれば、「決定論」と両立可能なものと考える人もいて不思議ではない。実際、そのような行動の内比較的原始的なものは、ほとんど本能によって制御され決定されたものであるように見えるものに、切れ目なく連続している。どこで本能が終わり、どこから自由が始まるのかを見極めることは容易ではない。猫が猫じゃらしに飛びつくとき、彼らが意図的行動をしているのか、それとも猫じゃらしに操られるように行動すべく、すでに遺伝子によって決定されているだけなのか、区別することは難しい。同様に、我々人間の行動でも、意図的行動としてなされていても、生物として何らかのメカニズムによって決定されているのかもしれない。それらにはおそらくは進化論によって説明できるような意味(目的合理性)が在ろうし、同時に機械的因果法則によって適切に記述することもできるに違いない。

思えば、意味――生き残るうえで有利に働くという意味で合理性を持つ意味が、何故かくも複雑な物理的機構を通して実現されるに至っているかという謎こそは、進化論的説明が最も得意とするところであるが、それ以前にはそれは伝統的な「自然神学的説明」が担ってきた領域であり、特にライプニッツの予定調和の教説がそのもっとも洗練された形態を示していたものである。自然神学と進化論が互いをライヴァル視してきたのも、その為である。

それらいずれの立場に立っても、人間や他の動物たちの自由と自然とは、進化によってかそれとも神の摂理によってか調和していることになるのである。

しかし、能力の発揮としての自由ということでは理解できない重要な事象が存在するのである。


ビュリダンのロバ
 さて、自分の能力の範囲にあるものであっても、二つの同じように魅力的な干し草の間で迷うビュリダンのロバのように、選択に迷うケースが存在する。

ビュリダンのケースが面白いのは、実際これがロボットや工学的装置でしょっちゅう起きるからである。フリーズしてしまうケース、あるいは回路が振動を起こす場合、妻と愛人の間で振動するようなケースは多い。ちょうど空気遠近法において、遠方からの風景が赤色が屈折で排除されるため青みを帯びるように、遠くからの情報はいいことを多く伝え、近くからの情報は悪いことも漏らさず伝えるということがあれば、我々は妻と愛人との間で振動を繰り返すであろう。

しかし、フリーズや振動が不決断によって最悪の結果を招くということがわかれば、ロボットの設計者はたとえばコイントスによって決めるというような回路を組み込むであろう。

しかし、実際の問題はもう少し複雑である。入学試験の問題を解くとき、およそ5つか6つの問題をどの順序で解くべきであろうか? もちろん、易しい問題から解くべきに違いない。そのため最初の問題から取り掛かるべきであろう。通常出題者は最初にはごく簡単な問題を置いて受験生の緊張を解こうとするものだからである。
しかし、それからが問題である。どの問題もそれぞれに違う難しさがあるため、自分にとってどれが最も取り組みやすいかを決める戦略を立てねばならない。とはいえ困難は、その戦略を立てるためにも、一応はすべての問題と取り組まねばならないということ、しかもそれにあまりに多くの時間をかけすぎてもならないということである。最初の問題を解いた後、直ちにサイコロに頼るのは、適切とは言えない。一応は問題に立ち向かってみて、ある程度のところで次に移るべきである。

しかしどの時点でそうすべきであろうか? 問題の困難が見極められた時点であろうか? しかし、それがどの程度見極められたかを判断するにも、十分な材料はない。つまり、サイコロを振るべきかどうかの決定にも、サイコロが必要だというわけだ。

このことは、時間に限りがある中での「決断力」を、完全にマニュアル化(合理化)してロボットの回路の中に取り込むことはできないこと、不十分情報の下での不確実性に対処するための最適解(いつコイントスに頼るべきかの決断)が存在しないことである。

時間の急迫においては、決断における適否が不確実であるだけでなく、いつ決断すべきかが不確実であり、それゆえ結果的に良い決断か否かは事後的にのみ知られるのである。このことは、与えられた状況における最適解が存在しないということではない。AIの進歩によって、将棋ソフトが発達し、ある状況における最適解が決定できるようになったとしても、相変わらず時間に追われて決断せねばならない我々には、どの時点まで時間を使って考えてよいのかの不確実な決断を余儀なくされるだろう。

我々の置かれた状況を考えるためのモデルとして、「京都観光問題」を考えてみよう。それは与えられた時間内で、京都ならびにその周辺に散らばるさまざまの名所を巡って、もっとも大きな満足を得られるルートを開発せよというものである。事前に時間をかけて調査することができる観光協会とは違って、実際に休暇を使って観光する当事者は、観光しながらルートを決めなければならない。その結果、比較的満足できた場合と、まったく満足には程遠い場合とがあるだろう。もちろん最悪のケースは、ルートの選択に時間をかけすぎて、少しも回らぬうちに日が暮れてしまう場合である。

ここで満足を判断するのは、どのような尺度によるのであろうか?果たしてそのような尺度が存在するのであろうか?もし尺度が存在すれば、それは効用計算であり、悟性による決定ということができる。

しかし、満足にはさまざまの種類がある。風景、歴史、文学、グルメ、温泉、思い出…。それぞれの満足にはそれに対する感受性を持つファカルティが違う。したがって、共約不可能な諸価値の間に調和を見出さねばならない。それらの満足を数値化して単純に加算することはできないが、総合的満足に順序(半順序)をつけることはできる。それはカントの用語によれば「判断力」である。

このような事情は、政治的判断の場合に類比的である。政治においては、複数の価値とそれぞれに特化した感受性を持つファカルティ(利益団体)の間で調和を図るようにしなければならない。自由と安全、経済と環境など。芸術作品の審美的判断も同様。

問題解決が当の問題の解決となっているかどうかには議論の余地がある場合があるが、明らかに事態がより良いと判断できる場合には、それは一応の解決と見なせるだろう。もっとも明確なのは、数学の証明の場合である。

証明が与えられるまでは、問題をそのような意味でとらえることはできなかった。たとえば、「三角形の内角の和」ということの意味は、その証明が与えられる以前には、たとえばそれぞれの角度を分度器で測定してそれらを足し合わせるなどの作業によって与えられていたかもしれない。しかし証明は、それを二直角とみる見方を与えるのであり、そうなってからは、それは新たな意味を獲得し、二直角であることはその意味によってアプリオリな真理となるであろう。証明は定理を真と見なせるような視点(見方)を与える。つまり意味(Sinnまたはmode of presentation)を与える。それによってそれまで見えていなかったようなことが見えるようになる。その意味で、可能的経験を拡大するのだ。

ヴィトゲンシュタインは、問題の前に立ち止まる我々の姿を、ハエ取りつぼの中のハエにたとえた。ハエ取りつぼは、出口がふさがっているわけではないのに、ハエにとってはその出口が盲点になって気づかれない。ハエに出口を指摘することによってはじめて、ハエ取りつぼを出ることが彼の可能的経験に加わるだろう。自然的には何の変化もないのに、実質的に可能的経験が拡大する余地があるのは、これが概念にかかわるからである。

言語は可能的経験を飛躍的に拡大するが、同時にその可能性の蝕や隈を生み出すのだ。言葉が現象を際立てる一方で、覆い隠すからこそ、可能とも不可能とも言えない(主張可能でない)領域が広がるのである。両可能性が排中的関係にないことはもちろんだ。いずれとも主張可能でない領域が中間に広がっているからである(これが可能性の反実在論)。

数学の証明は、単に定理の真理を確証することではない。それを構成する諸概念に新たな使用法、新たな連関、それゆえ新たな意味を与える点で、隠喩の意味を理解することに似ている。「三角形の内角の和が二直角である」という定理は、証明が与えられなければ、どのように見れば三角形の内角の和が二直角であるような見方が得られるかわからない限り、当面理解不可能なのではないか?

それは、理解できない謎々や隠喩表現のごときものである。「朝四本足、…の動物は?」というスフィンクスの謎は、オイディプスによる解答「人間」が与えられたところで、人間をどのように見れば「朝四本足…」と見えるのか、その観点が与えられなければ、依然として意味不明にとどまるだろう。

同様に「北海道は四角形」という隠喩は、宗谷岬や襟裳岬や根室などをそれぞれ一つの角と数えるなら、大雑把に四角形と見ることができることは容易に理解できるが、「北海道は三角形」は、同じように理解できるわけではない。どのように見立てても、北海道を自然に三角形と見る見方は容易に与えられそうもないからである。その場合、我々はこの隠喩の意味そのものが理解できない。「北海道」や「三角形」の意味(いわゆる事前理論による解釈)がいくら与えられても、それだけではこの比喩の理解には至らない。

その点で隠喩は、直喩とは全く違っている。「北海道は三角形のようである」という直喩的意味は、それに同意しない人にとっても、よく理解できる。それはつまり、「北海道の形は、おおよそ三角形に形に似ている」というものであり、この場合(北海道が三角形に似たところがない限り)偽である。直喩表現が、その真偽に先んじて意味が明確であるのと違って、隠喩表現の意味は、それが言い当てている真理から、その理解を汲み取らねばならない。それが言い当てた真理が存在しなければ、この隠喩は隠喩として成立していないのである。つまり無意味なのである。

ところがいま突然、北海道を真横から眺めれば、大雪山を頂点とする平べったい三角形と見ることができることが分かったとしよう。この観点とともに、にわかにこの隠喩表現の意味が与えられることになるだろう。つまり、隠喩はそれが何らかの真理の隠喩として、真理を見て取る観点の提示として理解されねばならないということだ。数学の証明はちょうどそれと同じことをするのである。

ギリシア人は偶然(アウトマトン)と区別される運(テュケー)を重視した。アリストテレスによれば、運は偶然の一種であるが、人間的意味に大きな影響を与えるものである。言いかえれば、テュケーとは、意味の生成をもたらす偶然のことである。それは事後的にのみ知られる。生成する意味は、事後的にそれが何の意味の生成であったのかが初めて知られる。その意味の生成がどの時点から始まるかを示す始まりの時点は存在しない。その意味が現れてしまった終末の時点のみが存在するのである。それを指してアリストテレスは、「運動に始まりの時点は存在しない」と言った。(『自然学』第6巻第5章)

問題解決と意味の発見が運によってもたらされるとすれば、自由についての我々の見方はギリシア人がテュケーに与えた意味にほぼ近いものであることになる。

しかし、ギリシア人との違いは、ギリシア人がテュケーを神的なものと見なしたのに対し、近代人はテュケーによってもたらされた意味を合理的に理解し、それを反復可能な技術にする点である。かくてそれは能力になる。能力を使って能力を拡大する、これが近代の自由概念の特徴であるスピノザはそれを「自己原因」と呼んだ(スピノザにおける「自己原因」の観念は、第四アンチノミーにおいて論じられる宇宙論的神の存在証明に登場する「第一原因」とは全く違うものである。スピノザはしばしば、このように伝統的な概念を極めて自己流に使用するので、解釈には注意が必要である。ちなみに、カント自身は「自己原因」とは言わずに、「必然的存在者」という言葉を使っている。この言葉は誤解を招くものである。なぜなら、因果系列を始める「自由意志」は決して必然的ではないからである) 。思想史的に見れば、それは世界市場を実現した資本主義の根本精神の表現であるといえよう。資本はそれ自身の運動を通じて自らを生成し増強するからである。

とはいえ、自由=能力説には、可能性実在論と共通の見逃すことのできない欠点がある。できるかできないかいずれかであるという可能性実在論を基礎づける仮説が「能力」である。「能力」の帰属の主張可能性条件は、実際望むときにそれをやって見せることであろう。難問が解けないとき、このような主張可能性条件は満たされていないという意味で、「解くことができない」または「解ける」とは言い得ないと言うことができる。

しかし、そのような場合でも、ふとしたはずみで(テュケーによって)解けることがある。これは解く能力があったという状態ではない。能力がないにもかかわらず、たまたま何かのはずみで解けたのであり、それによって以後、解く能力が備わるということはできる。しかし、この状態を実在論的に可能性が存在するか存在しないかどちらかであると言うためには、その状態で解く可能性があったと言わねばならない。解く可能性は解く能力の実在によって裏付けられねばならないとしたら、いまだ問題が解けていないこの状態をどう特徴づけるべきであろうか?

今すぐに解く「能力」は待っていないのであるが、いずれそれを手に入れる可能性は存在したのだと言いたくなる。実際、身体能力としてはすでに十分逆上がりを行うだけの体力は持っているのに、いまだに一度も逆上がりに成功していない子供の状態を、逆上がりをする能力はないが、いつかその能力を身につける潜在的可能性は存在する、と特徴づけたくなろう。このような能力を持つ状態への移行の可能性は、実在論的にはどのように裏付けられるべきか? もちろん、この移行を実現する能力として裏付けられることになるはずである。しかし、移行する能力をもし持っていたら、直ちに移行を実現して、実際に解決する能力を手に入れて、それによって直ちに解決を手に入れるはずである。それをしないのは、この移行の能力を持っていないことになる。以下同様。何段階目の移行の可能性であれ、それを実現する能力があれば、直ちに問題が解けるはずであるのに、実際には解けないということがある。それは、可能性の実在論が成立しないということを示している。そしてまた、このことは、可能性が突然テュケーによって生成することを示している。「生成することが可能であった」と言うことはできない。生成していない段階で、何が生成し得るのかも、どのような可能性が存在するのかもわからない。可能性はテュケーによって生成した、としか言いようがないのである。つまり、我々には能力を獲得するする能力はないのである。それゆえ、能力説の亀裂を、テュケーによって埋めなければならない。
 
結局、自由の存在は問題という特殊な存在者を認めるかどうかということにかかっている。問題は、解かれるべくして解かれていない限りにおいてのみ存在するからである。もし、問題が解かれることによって、概念の新たな意味が生成し、問題を解く可能性そのものが生まれ、かくて我々の可能的経験が拡大するのだとしたら、普遍的決定論はこのこととは両立しないはずである。つまり、人間的な自由が問題解決であるとしたら、このような自由とは決定論は決して両立できないのである、なぜなら、決定論に従えば、いかなる問題も解けるものと決まっているからであり、それが解けるときに解けると決まっているのであり、したがって今それを解こうとすることは無意味になるのであるから、解こうとすべき問題はその場合存在しないからである。また、初めから永遠に解くことのできないと決まっている問題は、それ自身何ら問題ではないのであるから、その場合も問題は存在し得ない。

解決困難であった問題に解決をもたらした意味深い偶然(テュケー)、それを後から省みて我々は自由と解釈するのである。このような意味生成の運動は、それが何の運動であり、何の意味の生成であるか、運動の瞬間には知られないし、もちろん意志によって制御され得るものでもないが、事後的にもたらされた意味から顧みられることによって、その何であったかが知られるのである。それゆえ、行動の瞬間には、それが自由としての意味を持つのか否かは知られず、ただ事後的にのみ自由であったものとして認定されるのである。

スピノザは、すべての問題は永遠の相の下においてはすでに解かれている、と考えるため、「問題」はその固有の存在を失い、それゆえ自由にも、それ本来の位置を与えることができなかった。

つまり、自由は時間というものを重視することなしには理解できないのである。つまり、かつては解き得なかったものが解け、今解き得ないものがいつか解けるかもしれないということ、言いかえれば今の合理性がすべてではなく、新しい見方・新しい意味へと開かれているということこそが、自由を可能にしているのだ。

このような自由観は、はなはだ心もとないものと見えるかもしれない。ただの偶然にその主要な場を譲り渡しているものと見えるかもしれない。というのも、自由であったはずの過程そのものは、我々の意志による制御を離れ、偶然の幸運にゆだねられているからである。何もかも技術化し、すべての過程を予定通りに支配したいという近代人のナルシシズムには、もとより一顧だにしないはなはだ殺風景な自由観である。しかし、それは我々が自由に(意志によって)自由であることはできないという当たり前の事実を述べているにすぎない。もし、自由意志に基づいて自由になることができるのであれば、我々は全能であったろう。我々は、テュケーに大きな位置を与えることによって、ギリシア人の英知に立ち返っているだけなのだ。

責任
責任は自由の関係で問題となることが多い。そのさい責任阻却事由が問われる刑法的事例が問題にされる。すると、「他行為可能性」が必要となる。ここで、決定論の立場とこの他行為可能性を両立させることができるかどうかが問題となる。常識的に考えれば、両立するはずがないと思われるが、頭のいい人はあるもので、これが両立可能だとする手の込んだ屁理屈が考えられている(たとえばC.Peacocke Being Known 7Freedom) 。 ( 他行為可能性(could have done otherwise)を、ピーコックは「近接世界」という概念に訴えて、両立論の立場からでも使用できるようにしようと努めている。私はこの試み自体を直接反駁しようとするのではない。ただ、それができようと否とにかかわらず、決定論を取る限り無視することになってしまう偶然と自由の重要な側面を、ピーコックも無視していると言うだけである。)

哲学だけならこれでもいいが、刑法理論となると、実際の刑事法的実践とかかわらざるを得ない。そこで問題となるのは、常習犯の扱いである。常習犯は犯行に常習性があり、規範意識に乏しく、他行為可能性がなくなっているのであれば、責任制阻却事由に当たるのではないか?このような通常の倫理的着艦に反する帰結を避けるために、苦し紛れに作られた理論が「性格形成責任論」である (団藤重光『刑法綱要』p−183〜187参照)。

常習的犯行をなし得るほどまでに責任能力を磨滅するにあたっては、そのような性格を形成した長い歴史があり、この歴史の中では少なくともその初期に、他行為可能性(別様に性格を形成する可能性)があったはずだというのだ。犯行の心理的背景を掘り下げることは、事件の詳細を理解するためには有益であるが、責任の観念そのものの理解にとっては非本質的である。

そのことを見るためには、借金を返済する責任とか、損害賠償責任といった民法的事例を問題にする方が、よりわかりやすい。債務はそれを返済する責任抜きには理解されない。債務という概念を習得することは、その構成的内容として返済責任を含むはずである。それを欠いているものは、「借金」ではなく贈与であるか盗みであろう。同様に、損害を与えることは、賠償責任とともに概念的に理解されるだろう。

このことは、「主張」の概念との関係で理解すればよい。「主張」は、その内容の真理性にコミットしていなくてはならない。「コミットする」ということがいかなることかを規定することは、いささか複雑であろう。しかし、例えばその内容が真でないことが分かった場合、その主張を撤回することはもちろん、その信念がなぜ生まれたか、どこで思い違ったのかなどの諸点を弁解することが求められるであろう。およそ、主張なる行為は、単独で成立するものではなく、それを言い立てる理由付けとか、撤回する場合の手続きとか、他のさまざまの行動とか信念と複雑なネットワークをなすものとして理解されねばならない。

借金、という行為にとって、その返済の義務を負うことは、いわばその行為の構成要件の一部をなすのである。これと同様に、犯罪は、あえて犯すならば当然社会的制裁を負うべきもの、という了解を含意しているであろう。そのさい、責任阻却事由は、行為者がそれ以外の行為を選ぶ自由があったことを意味するのではなく、その行為者に対する社会一般の期待可能性による類型弁別なのである。つまり、知らないうちに薬物を盛られていたなどという場合と、そのような特段の理由がない場合との区別を置くことができれば、それで十分なのである。

このように理解するなら、責任は定型的に果たされるべきものであり、このような責任概念であれば、両立論と整合的に理解されるだろう。もっとも、かかる責任概念でも概念と規範性を前提とする限り、他の動物に可能とは思えない。

しかし、このような定型的、客観的責任概念のみが責任ではない。意味生成を含む創造的自由を要請するような責任理解が存在する。これは、客観的・類型的・習慣的責任に対して、主体的責任とでも呼ぶべき責任概念である。たとえば、キリスト教徒にとっては、キリストの磔刑はいわばトラウマ的事件であった。その意味が我々の罪の贖罪であるという解釈は、取りあえずの破れかぶれの意味付けに過ぎなかった。この「贖罪」の意味を具体的に解読することは、個々のキリスト者の責任となったのである。それをどのように果たすべきかは明確ではなく、個々人ごとにその意味解釈は異なるであろう。

これは、カフカの『流刑地にて』における囚人の立場に類比的なものである。彼は処刑機械の上に寝かされて、その背中に針で暗号の罪の名前を穿たれる。囚人は、その背中の暗号を解読しなければならない。これは、また『ヨブ記』のヨブの立場に似ている。ヨブは神からのメッセージを受け取る。それが彼の体に降りかかった苦痛という暗号である。この暗号の意味を解読することがヨブには求められ得る。これがヨブの責任であると言えるのは、彼が神を信頼しているからである。ヨブの苦痛が神からのメッセージであり、その解読がヨブの責任であるのは、神からヨブが呼び出されたと信じているからである。

旧植民地における祖国の犯罪の贖罪は、後の世代の個人には課せられないように思われる。しかし、祖国に対するコミットメントがある市民であれば、祖国の伝統や恩恵のみならず、その罪をも引き受ける覚悟があるだろう。その「引き受け」が何を意味するかは、あらかじめ決まってはいない。むしろ、そのような責任を引き受ける個人が考えるべきことである。ここに創造的自由・主体的自由が存在し得る。そのような責任は自動的に生ずるものではなく、祖国によって呼び出されることに基づくものである。ここで「祖国」と呼ぶものは、言語・法・伝統のことである。つまり、主体を実存させている象徴界そのもののことである。

Posted by easter1916 at 14:23│Comments(0)