2019年10月06日

「俗情との結託」

ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。

科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか?

と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。

ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。

私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議である。

おそらくコメンテイター氏にとって、「煽り」ということは、それだけで非難に値するとてもひどいことなのだろう。「煽り」という言葉の意味は、扇動とか、情動に訴えて自説に有利に聴衆を導くような態度のことであろうが、私にはそれのどこが悪いのかわからない。批評的議論では、ときには理性や論理ばかりでなく、感情や(怒りや羞恥心などを含む)全ての情動を総動員すべきだと思うからだ。

この点で、少し思い当たることがある。私は批評や論争を広義のイデオロギー闘争、政治闘争の一種と見ており、そのため単に事象そのものや論点を浮き彫りにするだけでなく、時には論敵の愚かさや卑しさを浮き彫りにすることも必要だと考えてきた。このような人格批判は、いわゆる「学会」の作法とは食い違うことはわきまえているが、政治闘争として批評活動に従事する際にはそれほど頓着すべきことではない。

そのことが、政治闘争の経験がない連中から見ると異様に見えるのかもしれない。その連中はたいてい、相手を追い詰めない「ごっこ遊び」のような議論に終始するのだが、それは実は自分が追いつめられることを避ける小ずるい護身術に過ぎないのだ。そこからは奇妙なシニシズムが体臭としてにじみ出ることになる。つまり、常に「結論にはコミットしませんが、取りあえずネタとしてこんなことを言ってみただけです(なんちゃって)」といった(笑)付きの発言に終始することになるのである。

ともかく私は、学会の作法に反して、主張の誤りは単に愚かさの現われにとどまらず、何らかの実存的な邪悪さの現れであると考えるマルクス主義的な批判手法の伝統を幾分か受け継いでいるのかもしれない。もっとも私自身は、こと政治論の領域では唯物論は退けるべきだと考えているが、マルクス主義以外にも、たとえばニーチェが似たような人格批判の手法を行っている。たとえば、キリスト教の信仰は愚劣であるばかりでなく、ルサンチマンといった卑しい心性の現われであるとして、信仰者の人格のトータルな批判に及ぶのである。議論が空疎に流れ、言説が議論の身振りに過ぎなくなる今日、ニーチェの人格批判論法がエッジのきいた批評として見直されるべきではないだろうか?

それはともかく、ミルの言葉に即して私がいかなる構造を浮き彫りにしようとしていたかは、もとの小文だけで明らかであるし、おまけに小学生でも理解できるような解説まで付け足したので、いまさら何も言うことはないが、とはいえ「俗情との結託」についてはいささか解説が必要かもしれない。というのは、「反知性主義」とか「ポピュリズム」に関しては、どこかの百科事典でも見れば明らかだが、「俗情との結託」に関しては、大西巨人の議論に密着して、その批評的骨格をよくよく会得しなければ、使い勝手がいいとは言えないからである。それだけ、論争構造が複雑なのだ。

それはもちろん、単純な「悪」のラベリングではないばかりか、イデオロギー的ラベリング(たとえば「人民の敵」といった)でさえない(もっとも私のように「人民の敵」をスターリン主義者のようにではなく、イプセンの意味でのみ使う場合は少しだけ複雑であるが)。

大西巨人のもともとの批評(1952『大西巨人文選1新生』みすず書房所収)では、陋劣・低級な今日出海の作品ばかりでなく、新日本文学の野間宏が同じくその射程に入っていた。このことだけから見ても、この概念のややこしさが理解できよう。コメンテイター氏は、俗受けしそうな一般大衆の価値感情におもねるような「エリート批判」のようなことが「俗情との結託」であると考えているようだが、そうではないのだ。たとえば、ワイド・ショウなどで声高に垂れ流されている「庶民感情」(たとえば、カルロス・ゴーン氏の給料が高すぎる…とか)などのことを意味しているわけではないのだ。

大西は、今日出海の作品の中の三木清という登場人物が、手淫という手段でおのれの性欲を処理するということをせせら笑い、一人前の男が女郎屋通いもできないことを見下している点を、鋭く批判している。その文脈では、「俗情」とは、一般に建前として流通している倫理原則のことではないし、大衆の普通の倫理感情のことでもない。一般に建前上、女郎屋通いがいいこととは考えられていないし、普通の大衆も本音でもそうは考えないだろう。そのように広く流通している点に「俗情」の本質があるのではないのだ。

己れの生活の中における倫理的反省において矛盾や葛藤に悩む人物(例えば作品中の三木)をしり目に、そんなことで悩むこと自体をせせら笑う今日出海が依拠している暗黙の「常識」――それが「俗情」なのである。今が女郎屋通いに何の痛痒も感じないでいられるのは、売春婦をもともと自分と対等の人間と見ていないからであり、そんなことがまかり通るのは、今日出海が金と権力にものを言わせて、異議申し立てもできない社会的弱者(売春婦)を搾取し、踏みつけにできる立場にいるからである。ちょうど、従軍慰安婦を相手に威張りかえっている最低男たちのようなものだ。

したがって、ここで「俗情」と言われているのは、今日出海の「常識」を支えている買春男の卑猥なニヤニヤ笑いであることになる。それらは常に暗黙に行使される暴力であり、相手が泣き寝入りしてくれる限り安泰であるが、一たび抗議の声を上げるや、金切り声を挙げて、自らの所業を否認することになるシロモノである。

ここまでは比較的わかりやすい話だ。問題は、野間宏の『真空地帯』が、同じく「俗情との結託」として批判されているということだ。大西の野間への批判の中心は、軍隊が世間一般とは違った論理と倫理が通用する特別な社会と見る点である。大西は、どんな特殊な事情の下でも、あくまでも普遍的な倫理や意味理論が通用すると主張し、それをこそ闘いの原点に据える。つまり天賦人権論に似た原理主義的立場である。

大西に鋭い批評的洞察を与えるのがこの「原理主義」なのだ。氏は「民主主義的立場」を逸脱してまで人権原理主義を貫く。ここで、「俗情」は「人民の敵」の敵として立ち現れることになるのだ。革命的勢力の中においてすら、「人民の敵」であることがいかに必要なことか――そのような文脈が示されているのである。大西が立ち向かう俗情の側は、自らの原理を持っているわけではないし、それを明示できるわけでもない。ただ、そんなことをあげつらうのは野暮であるとして、ただせせら笑いニヤニヤ目配せをするだけだ。

野間の作品中の人物(木谷)は、「輸送中の軍事物品を当番兵とぐるになって盗む」(p−230)ような窃盗犯に過ぎないが、それに対し野間は「木谷の事件、罪は確かにそのすべてをこの軍隊に帰すことができる」などと素っ頓狂な擁護をしているのだ。大西の批判は、ただ軍隊の内部でも外でも窃盗は罪だというまるで当たり前のことを言うに過ぎないが、そのことが野間のような人物に対しては、ことのほか鋭い批判的エッジを持っているのである。なぜなら、過酷な政治闘争においては、ともすれば力関係にのみ目を奪われて、規範的議論がなおざりにされがちであり、それが闘争そのものを致命的に棄損してしまうからである。

大西の問題意識は「再論 俗情との結託」(1956)においてさらに詳しく展開されている。そこで氏はあくまでもレーニン流のマルクス主義的階級闘争政治観に立ちながらも、それを乗り越える論点を潜在的に展開しているので注目に値する。それは、いかなる軍事的・国家的機関といえども、政治闘争の現場である以上は、単なる力関係に還元されず、規範的議論の現場となり得るという指摘である。具体的には、結局『神聖喜劇』という巨大な作品に結実されて、大きな説得力を持つに至った主張である。これは私のような非唯物論者にとっても、十分納得のいく主張である。

件のコメンテイター氏の用語法を見れば、氏が大西の彫琢した概念使用のすべてを無視し、文芸批評の伝統をないがしろにして、ただのペダントリーとしてカッコを付けているだけであることが明らかになるのである。まことに啓発的な事例であるので、あえて一言するゆえんである。


Posted by easter1916 at 17:38│Comments(1)
この記事へのコメント
わざわざ記事にまでして頂き恐縮です。しかも長らく気がつかずに申し訳ありませんでした。
ただ、申し上げたいことは変わりません。田島先生は自分の主張を正当だと信じ、間違っているなら根拠を語れ、とおっしゃいますが、この場合、挙証責任はこちらではなくそちらにあると思うのですが?ですので単なる煽りと申し上げたのだと記憶します。まさかミルに依拠して構造を語ったことがその責任を果たされたとはおっしゃいませんよね?
Posted by けん at 2019年12月23日 19:20