2019年12月03日

ヴィトゲンシュタインの数学論

以下、すでに論じたこともある論点がいくつかあるが、繰り返しを厭わず、ヴィトゲンシュタイン解釈としてまとめてみた。

クリプキのパラドクス

 クリプキは、規則の従うことをめぐるヴィトゲンシュタインの解釈において、非常にラディカルな懐疑論を展開した。

たとえば、数学の加法計算において、いくつかの事例を通して加法を習得した人が、未だかつて計算したことのない数の演算において、突然(我々から見て)奇妙な答えを確信をもって出すとしたら、そのとき彼が加法として理解してきたもの(これをクリプキはプラス計算との違いを際立てつつクワス計算と名付ける)が、間違っているという根拠はあるだろうか? 加法の概念を習得するために使われたたかだか有限の事例をもとに、可能なすべての演算の正しいやり方を理解したと言える根拠として、我々は何か実質ある資源を有しているだろうか?

ここでクリプキが使う道具立ては、いかにも素朴すぎるから、我々は普通の数学者が加法を定義するために使う帰納的関数を使えばよいと考えるかもしれないが、それは無駄だ。

 x+1=φx……(a)
 x+φy=φ(x+y)…(b)    ここでφは次の自然数を指定する関数
この二つの式を繰り返し使えば、すべての自然数の加法を定義できる。たとえば、
2+3=2+φ2  (3の定義)
  =φ(2+2) (b)
  =φ(2+φ1) (2の定義)
  =φφ(2+1) (b)
  =φφφ2  (a)
  =φφφφ1 (2の定義)
  =φφφφφ0 (1の定義)
  =5      (5の定義)

しかし、たとえばx+1=φxが、x=5000までは我々の通常の理解に従っているとしても、xが5000を超えたとたん、x+1=0になると「理解」している人を、誤っていると主張する合理的根拠があるだろうか? x+1とは任意のxに対して、その次の数を与えることだと説明しても同じことだ。「任意のx」という概念を我々は有限の事例から学ぶしかないからである。1+1は2、2+1は3…ところが5000+1=0(!)なぜなら「〜の次」の概念の理解が(我々から見ると)突然変わってしまうかのように彼らは「理解」しているからである。ところがもちろん彼らから見れば、何ら突然変わったものはなく、まったく同じ概念として理解しているにすぎない。どうしてそんな見方ができるのか?我々には全くわからない。その手がかりすらない。

こう見ると、このパラドクスは帰納法への懐疑論に似ている。どれだけ事例を集めてみても、そこから一般命題は帰結しない。百羽のカラスがすべて黒いからとしても、すべてのカラスが黒いとは言えない。このような帰納法に対する懐疑論も大きな問題だが、クリプキのパラドクスははるかにラディカルな力を秘めている。というのは、帰納法が正当な認識方法として認められなくても、カラスが黒いという命題そのものが無意味になることはない。たかだかその真偽が帰納法では確定できないというだけだ。

しかるにクリプキの規則の懐疑が正当であったとしたら、およそあらゆる概念が無意味になりはしないか? というのは、どのような概念もたかだか有限の事例から習得される他ないものであり、しかもその理解根拠からは、思いがけない「理解」クワス理解も全く同様の論理的根拠をもって正当に与えられたものであり、優劣を論理的につけることができないのであるから、いかなる概念も、我々は正当な根拠をもって理解しているとは言えないからである。

このパラドクスは非常に単純な形をしているから、理解するのに何の困難もないが、その意義を理解するのは容易ではない。我々の言語や概念使用全般が壊滅的に崩壊するような帰結を持つように見えるが、もしそれが言語を使ってなされるとしたら奇妙なことにも思える。もしその議論がそれほど強力なものなら、概念的思考は決して無力でも無意味なものでもないであろうし、もしそれほど強力なものではないとしたら、大山鳴動して何も変わらないということもあり得る。

おそらくは、このパラドクスは我々の言語に対する牢固たる先入見によってパラドクスのように見えるが、その偏見さえ取り除けば言語のありのままの姿を見るために資するものなのであろう。そのような実質ある洞察に結びつけるためには、この議論を過度にラディカルなものとして受け取ったり、まったくトリヴィアルなものとして片づけたりしないことが必要である。

これがパラドキシカルと思えるのには、我々が正しい言語使用をする場合、すべて何らかの理由や規則に基づいており、その規則は明確に規定できるはずだなどという思い込みがあろう。しかし、我々の言語使用がすべて規則に基づいていると言えるのか?規則に従っているにしても、その規則の細目まで基底可能と言えるのか、むしろ多くの細目は暗黙のままにされねばならないものでないかどうか?

たとえばxに1を加えるという演算が、任意のxに関してその次の数を与えることであるとしても、その演算の同一性の規準を我々は普通理解しているが、クワス的な人は5000までは我々と同じに演算しているのに、5000を超えたとたんすべて0にすることとして、「すべてのxについてその次の数を与える」という概念を「理解」してしまっているのである。それを同一の概念と見るためにはどのような見方をしたらよいのかが、我々には全くわからない限りで、我々は彼と同じような生き方をしていないと言える。我々流の「同じ」の見方に立つ限りは、5000の次は5001で、その次は5002であるべきなのである。

しかし我々と同じ見方をすべきだとは言えないだろう。我々と同じ規範の体系の中に住んでいるなら、我々は実際きわめて多くの場面で同じ演算結果を出す傾向があるというだけではない。そのような結果を出すべきなのである。これが同じ規範の体系の中にすむということの意味だからである。しかし、クワスの見方に立って彼流の結果を(確信をもって)出す人々にそうすべきでないとは言えない。彼らとわれわれのあいだに共通の理由が存在しないからである。したがって我々は彼らを説得する必要はないし、可能でもない。ただ我々の数学ないし概念の実践から排除するだけである。

実際クワス的見方をする人の実践は、我々にとって全く興味深いものではないだろうから、彼らを理解しようとする動機も存在しないだろう。ここでは懐疑論的議論をもっともらしく見せるために、5000までは我々と一致し、5000を超えた場合には一律に0を出力するというように一義的にルールで決まっているかのように仮定されているが、自然数列を、サイコロを振ってその目で決めるという規則でも同様であろう。我々は、その結果できた数列に何の興味も意味も見出し得ないだろう。

我々の多くが、概念の同一性の理解において事実上(自然的事実として)それほど極端にずれることはないというのは、生理学的または進化生物学的に説明されるかもしれない自然的事実であろうが、だからといって、その理解が常に一致するわけでも、また一致しなければ概念として成立しないというわけでもないことは忘れられるべきではない。むしろ、概念の同一性の理解について、それゆえ個々の適用の正否について、部分的に不一致が存在し得ることは言語の本質に属しているのだ。それは、すべての人が同じ事例でその概念を習得したわけでも、同じ事例でもその類似性・同型性を同じアスペクトで理解しているとも限らないからである。

その意味では、クリプキの懐疑論は、自明のことに光を当てているに過ぎないとも言える。ただ、それを我々の概念使用にとって致命的と見なしてしまう点でのみ誤っているのである。我々は、有限の事例から多くの、ときには無際限な可能的事例まで外挿することができるとはいえ、それが常にできるというわけではないし、判断に迷う事例、判断に不一致が生じる事例が登場しないというわけでもない。

法的事例においては、概念使用に不一致が生じたり、新しい事例の出現によって概念使用や意味が変容することはしばしば起こることである。たとえば、「健康で文化的な生活」を保証した憲法的理念は、公害問題や日照権事案などが生じることによって、歴史的に変容してきた。「日照権」が、高層建築が存在しなかった時代には存在する余地はなかったが、それを可能にする技術的進歩によって、住人の権利として、憲法的理念を実現する一部として加えられることになる。もちろん、それを認めようとしない人々との間で、理念の適用をめぐって不一致が生じ裁判で争われた結果である。このように法的闘争や訴訟を通じて、法創造が実現するわけである。法創造を、国会の役割とだけ理解する法実証主義的見方は、法の生きた実態を無視するものである。

このように、法的事例は、概念の弁証法的対立や概念の捉え返しが最も明瞭に現れる領域であろうが、そのような不一致や概念変容とはもっとも無縁に見える数学的概念においてさえ生じることが、クリプキの懐疑論の系として自然に得られる洞察なのである。

ヴィトゲンシュタインの概念変容論(入江俊夫氏の示唆による)

 ヴィトゲンシュタインは、数学の証明は概念を変容すると主張した。

証明は我々の言語の文法を変え、我々の概念を変える。証明は新しい連関を創り、これらの連関の概念を創る。(証明はその連関がそこにあることを確立するのではない。証明がそれらを創り出すまで、それらは存在しなかったのである。(『数学の基礎』第二部31章)

「三角形の内角の和は二直角である」という命題は、証明の前と後とで派閥のことを主張しているのであろうか? 証明は、当の命題を証明することによって、それを別の命題に変えてしまうのであろうか? 一見したところ、何とも受け入れにくい主張である。

このように考えてみよう。

「三角形…」の命題は、初めはどのように意味づけられていたであろうか? たとえば、「角」は分度器による測定によって意味付けられているとしよう(直角の等分を通じて定義しても同じことである。そのようにして定義される角度が無限小数になるとしたら、それを足し合わせる計算をどのように実行すればよいのか、実効的手立てが確立しているわけではないからである)。すると、「三角形の内角の和」は、それぞれの角度を測定して足し合わせるという操作と関係づけられており、もちろんときによりさまざまの誤差をもって二直角に近い値に算出されるだろう。それ以外に、その概念を意味づける方法はないのであるから、それが二直角に等しいという断言は、正しいことも正しくないこともあり得る、経験的命題の一つとして理解されるだろう。

しかし、頂点を通って底辺に平行する補助線を引くことによってもたらされる洞察は、「三角形の内角の和」を新しいアスペクトから見ることを可能にしてくれる。いったんそのような見方に立てば、それが二直角に等しいことはアプリオリな真理であり、もしほかのやり方で産出された値が二直角に等しくなければ、それは不正確なものと見なされねばならない。

今や、証明が与えた基準に従って、測定の正確さが判定されねばならない。これは明らかにこの概念の使用基準や意味が変容したことを示している。その立場に立てば、「三角形の内角の和」の意味は、この証明によって初めて明確な意味を持つに至ったということができる。同様に、ゴールドバハの推測「すべての偶数は二つの素数の和で表現し得る」は、一見はっきりした意味を持ち、真か偽ではあろうと思われようが、必ずしも明瞭な意味を持つとは見なし得ない。どのような見方をすればそう見えるのか、その見方がわからないからである。

ヴィトゲンシュタインの透見性(Ubersichtlichkeit)

ヴィトゲンシュタインは、証明は見通し得るものでなければならないと主張している。

証明には、見通せるということが属している。私が結果を得る過程を見通せないとすれば、この数が出てくるという結果に気づいても――それはいかなる事実を確証するというのか?(『数学の基礎』邦訳p−99)

このような透見性の主張は甚だあいまいで、証明を主観的な基準に元つける筋悪の議論であるように見えるし、実際多くの人々からそのように見られてきた。(ダメット『真理という謎』p−156参照)
 それはヴィトゲンシュタイン自身が、自分の主張の眼目について十分明確ではないからである。たとえば、次のような下り

ある証明が途方もなく長くて、それを見渡すことが到底できないとしたらどうか?(同p−141)

これによると、有限の行数の証明でさえ、見通し得ないほど長いものは証明とは言えないかのように見える。そうだとすると、この基準は直観主義の規準よりずっと厳しいことになる。

普通の理解では、直観主義は、通常の論理から二値原理や排中律を除いただけのものである。したがって、たとえば「AまたはB」はAが主張可能であるか、Bが主張可能であるか少なくともいずれかの場合に主張可能であるとされ、したがって「Aまたは非A」において、「A」も「非A」もどちらも主張可能ではない場合、「Aまたは非A」は主張可能でない。一見すると、この違いは数学の推論というゲームのルールの違いのように見える。そうすると、それは平行線公理を認めるかどうかといった立場の違いに過ぎないように思えるかもしれない。

たしかに、数学を記号の変形規則に基づいたゲームに過ぎないと見なす「形式主義」のような立場は存在する。その場合には、数学的概念の意味は全くカッコに入れられることになる。その場合、実際の数学的推論を純粋に複雑なゲームとして描くことはできても、そこである公理系が興味深いものであり他の公理系が興味を引かないのはなぜか、などは全く理解できないことになろう。たとえば、ペアノの公理が何故公理として採用されるべきかわからない。算術は、実際にはものの数を数えるという基本的実践に結びついて体系化されているのである。この結びつきを持つ限り、数学は一般の言明の真偽と同じ真理値を持たねばならない。

たとえば、「東に1キロ行ってから北に1キロ行った結果」と「北に1キロ行った後、東に1キロ行った結果」とが何らかの意味で同一である、ということを定理として確立するためには、少なくとも「場所」という存在にコミットする必要がある。

この定理は、球体である地球上では正確には妥当しない。これが妥当する空間としては、方眼紙上の平面空間とか、将棋の升目のような概念的空間が、理念的なものとして設定されなければならない。こうして、理念的な空間が、自然的空間から遊離される。そうなっても、地図と実際の地形の関係のように、両者の関係を付けることができるなら、理念的空間の定理を自然的空間での行動に有効に利用できる。

ここで、「横方向右へ」とか「縦方向前へ」「1単位動く」などの基本語彙が使われることになるが、これらの概念はクリプキの懐疑論をまぬがれるだろうか?ここでもクワス的に理解されていないと言えるだろうか?

しかし、これらの概念はただのゲームのルールであるだけではなく、生きられた空間との関係を絶えず参照されることによって、興味深いものになり得るのである。そして、生きられた自然的空間における我々の行動は、必ずしも概念的に理解される必要はないから、その限りではクリプキの懐疑論が及ばない。それでも生活はその空間で行っているから、生活の利害とは結び付いている。たとえば、同じ場所へ異なるルートを通っていけるという了解は、狩場における行動などにおいて生存能力を高めるだろう。距離についても、厳密に数量化されたものではなくとも、動物もある種の生きられた理解を持つはずだ。同じ場所へ距離の異なるルートが比較できることもあろう。まっすぐに行くより、迂回していく方が距離は長い、というような直観的理解に基づいて、距離の公理のような概念的規定が、比較的興味深いものとして措定されるのではないだろうか? いずれにしても、概念の可能的理解のうち、非概念的直観に合致するものだけが、より興味深いものとして生き残るのである。前後、左右、上下など、自己中心的空間の直観的理解と並んで、同位置、同形、大小、数などについても、概念的理解に先んじた直感的理解を持つに違いない。それらは、のちに習得される概念的理解に比べれば不正確なものかもしれないが、概念的理解を支える基礎なのである。

数学的理念的・概念的空間が、自然的生活行動との関係から、興味深さを汲み取ることになっているとすれば、クリプキの懐疑論をここから回避する路が見えてくるであろう。

法的概念の場合、クリプキの懐疑論が、比較的たやすく回避できそうに見えたのは、法的事例では生活空間における連関が自明に与えられているためである。ここから、法が共同体における大多数の一致・承認とは違う実質的な意味(実際に社会問題を解決しうる力を持つこと)が生まれる。

たとえば、右側通行のルールを考えてみよう。それが道路の円滑な通行上有益であることは明らかである。そして、「右側通行」の概念をクワス的に理解する人の存在が、共同体の交通を阻害することは自明である。彼はその社会から排除されて当然であろう。

ここで興味深いのは、右側通行が左側通行より特段便利であるわけではないことだ。重要なのは、どちらかに決定されることである。ここには、法の持つ特徴のいくつかが現れている。左右の決定自体は優劣がないという意味で恣意的であるが、決定することは重要である。ここから、決定の人為性と権威とが発生するだろう。また、いったん決定したものをゆるがせにしないこと、いわば杓子定規であること(法的安定性)に一定の価値がある。しかしとりわけ重要なことは、その決定が社会的問題(通行の混雑)を実際に解決し得ることである。それは、自然的と言うよりも人為的であり、それでいて単に形式的な取り決めではなく、実質的に意味を生成し、可能性を拡大するものである。その意味で、「右側通行」にはクワス的理解を排除すべき実質があるのだ。

このことは、ニルソン・グドマンの「グルー」をめぐる、似た様な懐疑論を参照すれば、よりはっきりする。「グルー」とは、グドマンによって人為的にその使用法を規定された言葉である。ある一時点まではそれは「グリーン」と同じ振る舞いをし、それ以後では「ブルー」と同じ振る舞いをするものと見なされているのである。グドマンは、「グルー」のような概念を使用すれば、通常の帰納法が全く機能しないことを示したのである。重要なことは、このいかにも不自然な言葉は、その真理条件への貢献に関する限り、「グリーン」や「ブルー」に遜色ないくらいに明瞭に規定されていることである。

しかし我々は、色を、色言葉の習得に先んじて理解しているのではないか? サルが、メスの尻の婚姻色によって交尾に及ぶとか、果実を緑の葉で覆われた森の中で見つけるために、その色に反応しているとすれば、彼らは色の生きられた理解を持っていると言ってよい。彼らには、クワス的理解の余地がない。彼らの理解は概念の理解ではなく、真理条件の理解でもない。したがって、真理条件の与え方の食い違いによって生まれるクワス的理解の可能性から免れているのだ。もし彼らの内で、その直感的理解が、クワス的概念理解に対応するようなものであれば、そんな生き物が生き残るはずはない。

(懐疑論的解決)
クリプキの規則のパラドクスに対して、クリプキ自身はどう答えたのか見ておこう。

言語使用は、使用者がルールに従っていると思っているだけでは十分ではない。他者によって承認されたり、されなかったりし得るものでなければならない。少なくとも発話者とは別に、その是非を判断するもの(主人と呼ぼう)の存在がなければ、それはルールに従っているとは言えない。ルールに違反する可能性がないところでは、ルールに従うこともできないのである。

ルール懐疑論は、ルールに本当に従っている根拠があるのか?と挑戦する。それに対して、何らかの存在(意味とか、心とか、傾向性…)によってこたえようとすると、懐疑論の罠に落ちるだけだ。プラス理解もクワス理解も、論理的には同じように可能だと言い立てることになる。

しかし、他者がいて、クワス主義者のふるまいを見て、それはプラス理解ではないということは、単なる可能性の問題ではない。加法の具体的事例で振る舞いの違いの発覚は、彼我の間で共通理解がないことを示しているのである。

次のような条件文を主張することは、規則という我々の概念にとって本質的である。「もし、ジョーンズが「+」によって加法を意味しているならば、そのときは、彼は「68+57」と問われれば、「125」と答えるであろう…しかし、ここにおける真なる状態についてのヴィトゲンシュタインの像では、その条件文の対偶の形に、そしてその前件をなすところの、後件の正当化条件に注目するのである。対偶はこうなる、「もしジョーンズが「68+57」と問われて「125」と答えなかったとすれば、そのとき彼は「+」によって加法を意味してはいなかった…かくして、以下のようになる。我々が今問題のゲームを行い、そして人に、彼はある概念を把握している、とするとき、我々はその人の心のある特殊な「状態」を描いているのではないが、それでもある重要なことをしている。すなわち、我々はその人を共同体に受け入れるのである。ただしそれは、そのうちその人がその共同体の他の人々から外れた行動をして、その共同体から排除されない限りにおいてである。(クリプキ『ウィトゲンシュタインのパラドクス』邦訳p−184〜186)

ここで重要なことは、1)言語使用の是非を判断する他者の存在が不可欠であること、2)その判断は是非の判断であり、規範的価値主張(フォース)を持つこと(言いかえれば「是とすべきだ」「否とすべきだ」という価値的主張を含むということ)、3)この判断に理由が存在する必要はないこと(端的にそう判断し、確信するだけ)、4)このような判断者は普通複数存在し、それがおおむね事実として一致すること、である。

クリプキは、このような言語共同体の存在に訴える議論を「懐疑論的解決」と呼んでいる。それは、ヒュームによる因果性に対する懐疑論と類比的だと見なされるためである。つまり、「Aタイプのある事象がBタイプの他の事象の原因である」という因果命題に対して、もしAタイプの事象が起こってもBタイプの事象が生じなければ、それは因果命題が主張できないことの根拠となると見なされるということである。

ヒュームにおいて、因果性の存在を示す積極的根拠が示し得ない(示す必要がない)のと同様、主体が加法の概念を持つ積極的根拠を示す必要はないのである。それでも、おおむね振る舞いの一致があれば(不一致を示す証拠がない限りは)、「暫定的に」概念の共有を推定できるわけである。

クリプキは、この懐疑論的解決によって、『哲学探究』における「私的言語批判」の議論と規則のパラドクスをめぐる議論を、本質的に同型のものと見なす、という見事な解釈を提出したのである。もし規則のパラドクスを回避する決め手が、共同体による承認であれば、私的言語はその要の部分において規則に従うという言語にとって枢要な眼目を欠いているからである。

果たしてこの議論は、十分な説得力を持つだろうか? 懐疑論的解決は、適切使用条件の共同体的一致という端的な事実に支えら有れているが、それが概念の使用法の理解だけに基づく限り、そのような一致は理解しにくい偶然になってしまう。

この点は、グドマンの「グルー」について考えれば、よりはっきりする。その事例では、懐疑論的解決は役に立たない。なぜなら、もし色盲の人が我々の普通の色言葉を共同体のふるまいから習得したとしても、(信号の右端、と過熟したリンゴなどの事例によって、または電磁波のある波長によって)その真理条件ないし真理条件への貢献の仕方を習得したとしても、彼らは色概念をある重要な意味で理解していないと言えよう。つまり、概念だけを問題にしている限り、つまり概念とその真理条件への貢献だけを問題にするかぎり、その真理条件がゲームのルールのように概念だけで規定できるように一見思われるのであるが、その一致には、色の理解に本質的である直感的理解の裏付けが欠けているからである。その場合、通常の色言葉の理解は、「グルー」の理解と同様のものになってしまう。真理条件が概念的にのみ与えられているという点で、両者に差はないからである。それでは、興味深さという肝心の点で区別を立てることはできないのだ。

概念のゲームを生活空間に着床させるのは、単に「真理条件」の規定ではない。そしてまた、真理条件を純概念的に理解することも、実際にはできない。今・ここ・私などの非概念的理解なしに、言葉の使用状況の理解が与えられないのだから、そのうちの適切使用状況の理解もできないからである。

つまり、「ここ」が概念的理解に還元できるとするなら、たとえば「ここ」は「発話者のいる場所」という概念的理解であるとするなら、「ある時点までは発話者のいる場所を指すが、それ以後は北極点を指す」かもしれないという可能性(クワス的理解の可能性)を排除できないはずである。

しかし、これらの概念の実質的理解が、そのような使用条件の純概念的な理解に基づくわけではない。指標詞の理解が、エヴァンズが論じるような情報網の活用に支えられているものだとしたら、その理解はクリプキ的懐疑論が及ぶものではないのである。

「ここ」を使った発話は、「誤同定による誤りを免れている」という特性を持つだろう。「ここは自宅の屋根裏部屋だ」という判断が間違うことがあっても(例えばそこは、実際は誘拐犯人のアジトの屋根裏部屋であった)、この誤りは、「ここ」の指示において誤同定したことによるものではない。「ここ」の指示は、明確に自分の身体が触れている床の感覚などから自己中心的空間において位置づけられていて、誤りようがないはずだ。誤りは述語づけにおいて生じているのである(その指示対象が他の場所と似た性質を持っていたために述語づけを取り違えた)。ただし、この特性は、デカルトのコギト命題の確実性とは根本的に異なる出自を持つことにくれぐれも注意が肝要である。

もちろん、「これ」と指示したつもりでも、実際には指示対象が存在しない場合もある。これも、広義の誤同定と言えるかもしれない。しかしこの場合は、そもそも同定に失敗しているのだ。夢の中で「私は蝶だ」と考えている場合と同様、実際には指示同定しているわけではない。これもひっくるめて、指標詞が指示そのものに失敗しているならば、これは「誤同定による誤り」に含めるべきではあるまい。

これら指標詞理解は、エヴァンズが認めるように、指標詞の使用以前に、情報網を活用することによる前概念的理解の存在に支えられており、それを概念的理解に還元することはできない。これら、他の動物とも共有する情報網活用の能力が、あらゆる言葉と概念の習得の前提である。なぜなら、あらゆる言葉の習得は、その真理条件の理解によらねばならないが、その理解は今ここでの使用という理解を含まざるを得ないからである。

こうして、概念習得の前提として、非概念的な状況理解に着床せねばならない以上、この非概念的理解を通じて、論理的には可能である真理条件の理解の中でも、興味深い理解(おそらくは生存にとって有利な理解)だけを抽出するのに役立つものを調達できることは明らかである。

かくして、理念的に体系化される場所の理論が実際にどういうものになるかの詳細はともかくとして、さまざまの定理がアプリオリに成立するであろう。たとえば、先ほどの定理とともに、右のような升目空間において、上へ1単位幾操作と右へ1単位幾操作とだけが許されているとしたら、左下の角から右上の角に行く筋道が幾通りあるか?というような定理が成立するであろう。

これらが定理ということになれば、実際に東(右)へ1キロ言ってから北へ(上へ)1キロ言った結果と、北へ1キロ言った後東へ1キロ言った結果とが、まったく別の風景を帰結した場合に、これはその行動が時には同一にならないこともある、とは言い得ないのであり、そのような場合には、おそらく方角か距離において正確でなかった可能性がある、などと判断することになろう。つまり、これが定理として確立した以上は、それはアプリオリな命題として、以後我々の可能的経験に対して規範的な役割を果たすということである。その意味では、方角や距離の意味がこの定理によって変容しているのである。

さて、このように定理が一般の経験に対して規範的に働くには、それが真理値を持たねばならない。二つのただの記号表現「東に1キロ行った後北に1キロ行く区」と「北に1キロ行った後東に1キロ行く」を以後入れ替えることができるというルールを登録するということにはとどまり得ないのである。なぜなら、その代替は、「正確な距離」とか「正確な方角」といった概念によって作られる命題の真理値と密接に結び合っているはずだからである。実際、「場所」というものがどのようにして特定されるのかということに場所の定理がかかわらざるを得ないのであり、場所をめぐるさまざまの実践の要の位置に場所が存在する以上それは避けがたい。かくて、いかに場所そのものが理念的実在性をもつとしても、理念的ではない我々の実践とかかわりを持たざるを得ず、それらを含む通常の真理値がなければならない。したがって、この理念的存在には真理値がないというわけにはいかないのである。

仮に一歩譲って、形式主義者のように数学が一切の我々の生活から遊離した記号のゲームに過ぎないということが成立するとしても、それは数学が我々にとって関心を引かない実践になるというだけのことである。その場合、数学が意味の理論にとって重要な範型の一つであることもなくなるし、論理を、数学を使って解明することも、数学を、論理を使って解明するという方法も無効になるであろう。

実際には数学が、哲学的に極めて興味深い範型として機能し続けているのは、それが形式の同一性に注目するという点において、我々の言語使用の範型として機能しているからであり、それゆえにこそ数学を言語実践の一種として取り扱えるからである。

そうである以上、数学をゲームと見なすことは生産的ではなく、むしろ言語と同様、単なるゲームではないと見なければならない。かくて、数学においても、言語の一般的意味理論を与えるというフレーゲのプロジェクトは成立しているはずであり、それゆえ体系的意味理論にとって枢要となる中心的概念が存在せねばならないのである。それが、フレーゲにおいては真理値であったことは言うまでもない。

かくて、言語の意味は基本的に文の意味によって与えられ、文の意味は一般に(内包的と言われる間接話法の文の意味を除いて)その真理条件によって与えられる、という根本洞察が得られるのである。文の構成要素の意味はその文の真理条件に対するその構成要素の寄与であるということになる。これがフレーゲによって達成された哲学の「言語論的転回」と言われるものであることはよく知られている。

問題は、この意味論的基本概念(真理値)の実質が厳密に言ってどこにあるかということである。言語の意味を、習得という観点からわかりやすく言えば、次のようになろう。

人は誰でも、言語を他者から学ぶほかない。そのさい我々は、ある表現(文)のみが、社会的なサンクション(是認、否認という評価)の基本対象と見なすという意味で、重要であると気づくだろう。そして、その基本単位が、ある種の状況では是とされ、それ以外の状況では是とされないということによってのみ、その適切使用法が習得されるのである。言語習得において最も必要なのは、この発話の適切性条件なのである。フレーゲはこの適切発話条件を真理条件と特徴づけた。果たして、「真理条件」は適切発話条件と同じであろうか?

「幽霊が柳の下にいる」という文の真理条件はどうであろうか? 我々がこの文の意味を知っているということは、それがどのような場合に真となるか知っていると言ってよいだろうか? しかし、一見この文を理解していると思えたのに、どのようなことが満たされればこの文が実際に真であるとわかるのかがよくわからないということがないだろうか? それは、実際懸賞条件がわからないことではないだろうか。こうして、検証条件の解明が、意味の説明にとって重要であることがわかる。

同じようなことが、未証明問題の意味の理解について言える。ゴールドバハの推測(すべての偶数は二つの素数の和であらわされる)は、その意味がはっきりと理解されているように思える。明らかに我々は偶数の意味も素数の和の意味も明確に理解しているはずだからである。

ところが、4=2+2,6=3+3、8=3+5,10=3+7、12=5+7…などの意味は理解できるとしても、すべての偶数を二つの素数の和として表すことは、いまだいかなる見方をすればそのように見えるのかがわからない以上、与えられていないのではないか? そして、証明こそがそのような見方を教えるはずなのである。したがって、その証明が与えられていなければ、その段階で、この推測の意味は決して理解されたとは言えない。

これは、二等辺直角三角形(45°+45°+90°=180°)や、三辺が1と2と√3の直角三角形(30°+60°+90°=180°)などが言えるからと言って、すべての三角形の内角の和が二直角ということの意味が与えられたことにならないのと同様である。

直観主義は、このような立場から、証明が与えられない限り、二値原理や排中律が前提できないと考えた。それは、命題の意味論的中心概念が主張可能性であるとすれば、命題が証明されている(したがって主張可能である)か、その命題の否定が証明されている(主張可能である)かは、決して排中的関係にはないからである。当然、いまだに命題とその否定のいずれも証明されてはいない、ということもあり得るからである。

このような立場は、すでに述べたような数学を記号のゲームと見なすような立場とは根本的に異なり、あくまでも言語表現の一部として、一般意味理論の対象と見なすことを意味している。したがって、フレーゲ(フレーゲ自身がいわゆるプラトニストとして、古典論理の妥当性を信じていたにもかかわらず)フレーゲのプロジェクトの範囲内に収まる考えと言わねばならない。

我々は、直観主義者の通常の説明を迂回して(たとえば、構成主義的理解のようなものを迂回して)、一時期のヴィトゲンシュタインの数学の哲学の方から、同じような見方を支持することができることを示してみたい。それが、上で引用した「証明は見通せるものでなければならない」という主張である。



クリプキの例は、証明が提供する見通しが欠けている場合、いかに真理条件が確定していても、何かを理解したことにはならないことを示している。偶数列を順に展開していくことが、単一の操作として理解されていたはずなのに、突然5000以上の列になるやすべて0になる。このようなクワス的数列が偶数列のつまり「+2」の正しい操作理解だとクワス主義者は(確信をもって)主張する。これは2500番以後には0であると発話することが真であると主人が主張していること(そして、それ以前には、n番目は、我々の通常の理解と同じ2nを発話することが真である)である。したがって、可能なすべての場合に真理条件の布置が決まっている、あるいは「+2」の概念の「適切使用条件」と主人が見なすものが決まっている。

しかし、それにもかかわらず、このような真理条件(使用例)と結びついた何の理解も持ってはいない。どう見たら、これが同一の概念の適用であると見て取ることができるような見方が与えられないからである。

クワス主義に付き合うのが不毛な印象を与えるのは、この事例に「自然なもの」と見えるような見方を与えることができないことがわかっているからである。クリプキ自身、わざわざそのような例をつくっているのだから当然だ。

しかし我々は、初めから不毛な例ではなく、ある見方を与えることによって見通しが得られる事例を挙げることによって、実際の証明が見通しを与えるということを、よりクリアに浮き彫りにしたい。

それを理解するために次のような問題を考えてみよう。

ジョージ・ガモフの科学入門書『1,2,3…無限大』に載っている小話であるが、三本の棒があり、そのひとつの棒に挿すようにして穴のあいた円盤が、大きいものから順に64枚、ピラミッド状に重ねられている。今、一度にひとつづつ円盤を移動させるとして、そのさい大きな円盤の上により小さなものを載せてもいいが、小さなものの上により大きいものを載せてはならない。一度の円盤の移動に一秒づつかかるとしたら、すべての円盤を別の棒に移動し終わるまでに、どのくらいの時間がかかるか?という問題である(これは「ハノイの塔」と呼ばれる問題らしい)。

これを、三段とか四段の円盤でやってみるのはたやすい。たとえば、三段の円盤がAの棒に重ねられているとして、一番上のものをまずBの棒に移動する。次に二番目の円盤をCに移動する。さらに初めの円盤をCの上に重ねる。かくて、一番下の円盤をBに移動する。あとはCにある二つの円盤を同じようにBに移す(つまり、一番小さな円盤をAに、その次の円盤をBに、そして最後にAにあった一番小さな円盤をBに移動すれば完成である)。これで、都合全部で7回の移動で7秒かかる。

しかし、円盤の数が多くなるにつれて、どのような手順を取るのが最短であるのかがわかりにくくなってくるので、常に最短の手順を取るのは難しい。その意味で、何十段もの円盤では、どのような手順で円盤を移動するのがいいかは、とても見通せなくなってしまう。

しかし、よく考えてみると、n個の円盤を何らかの仕方で最短の道で移動させるには、とりあえずn−1個の円盤を最短のやり方で別の軸へと移動させたうえで、最底辺の残った円盤を第三の軸へと運び、さらに二番目の軸にあるn−1個の円盤を、初めと同様の手順で、この第三の軸の上に移動させることであるのはすぐに理解できる。すると、n−1個の円盤を移動させる最短の手順がおよそいかなるものであれ、それをf(n−1)とすれば、f(n)=f(n−1)+1+f(n−1)であることは明らかである。これはよく知られた漸化式である。つまりそ、その階差数列を等比数列とする数列の漸化式である。

        f(n)=1,3,7,15…
 f(n)−f(n−1)= 2、4、8…
したがって、f(n)=_(k=0)^n2k=2‸n−1 (2のn乗マイナス1)

とりわけ興味深いのは、ここで初めには最短の移動の方法が具体的にいかなるものであるかについては一切問題にせずに、漸化式を与えることができ、しかもそれをもとにして、すべての場合についての最短手法が、その一段階前の最短手法を二度繰り返すことを含む方法として具体的に決定できることである。つまり何段の問題であれ、やみくもに試みる必要はなくなるのである。したがって、運任せにしていた試みが、最短のものであったかなかったかを判定することができるようになっている。それらの過程のすべてが見通せるようになっていると言うことができるだろう。

このような見通しが与えられることによって、このゲームの概念的意味が変容し、最短性の規準が生じているのであり、つまり概念変容が生じているのである。これは、意味の生成を媒介にして、ヴィトゲンシュタインの概念変容論と証明の透見性テーゼを結びつけ、同時にクリプキのパラドクスの意義を極めて自然な形で明らかにしてくれるに違いない。

隠喩

 このことは、ちょうど隠喩の意味の理解に類比的である。

「フランスは五角形である」とか「北海道は四角形である」という隠喩は、「人間はみな狼である」のような隠喩と同様、容易に理解できる。事態をそのように見る見方がたやすく与えられるからである。

しかし「北海道は三角形である」は理解できない。どのような見方をしたらそう見えるのか、その見方が容易に与えられないからである。このような隠喩は、文面の意味(デイヴィドソンの「事前理論」)が与えられただけでは、理解できるとは言えない。それが直喩との違いである。「北海道は三角形のようである」という直喩であれば、それは「北海道は三角形に近似した形をしている」という明確な意味を持った(偽なる)命題ということができるであろう。北海道はどう見ても三角形に近似したところがないからである。

ところが、「北海道は三角形」は、字面上は明らかに偽であるため、何らかのアスペクトから真と見なし得る解釈が与えられない限り、真でないのみならず、有意味でさえない。ゴールドバハの推測も、そのような隠喩と類比的に見なせよう。他街道を真横から眺めて、大雪山を頂点とする平べったい三角形を見るような見方を示唆すれば、我々はこの隠喩を理解する補助線を得たことになろう。証明は、このような見方を提供するものなのである。

この点が、文の真理条件が与えられただけで、その文の理解が与えられるとは限らない理由だ。「北海道は三角形」と同様、ゴールドバハの推測の意味は、その見方を与えなければ理解できない。

ヴィトゲンシュタインは、また水占いの例を挙げて、彼が「私は手に、地下3フィートに水があるのを感じる」と主張したとき、この文の構成要素の意味が一応理解されていたとしても、この主張の意味を理解したとは言えないと記している(『青本』全集版邦訳p−34)。なぜなら、たとえ「地下3フィートに水がある」とか「手」とか「感じる」という言葉をそれぞれの典型的使用条件において習得しているとしても、我々はこの主張のような連関においてはその使用を習得しているとは言えないからである。同様に、我々が「偶数」とか「二つ」とか「素数の和」を習得していたとしても、「すべての偶数は二つの素数の和で表現できる」という連関においてはいまだ習得しておらず、そのように見える見方も未だ与えられていないのである。したがって、「ゴールドバハの推測」の正確な意味も、理解困難な隠喩のように、まだ我々には理解できていないのである。

こうして、ヴィトゲンシュタインの概念変容論を媒介にすれば、クリプキの懐疑論の意義が浮き彫りになってくる。我々がさまざまの資源から習得した概念は、その隅々の適用基準まで明確であるとは言い難く、不整合を含む場合もあれば(無限の概念など)、適用の不一致を含むこともある(正義の概念の場合)。また、それぞれのやり方で導入された概念同士の連関(たとえば「三角形の内角」と「二直角」)が証明を通じて連関に結ばれることもある。しかし、その証明は、すでに与えられた概念の意味から知られないうちに予定されていた結びつきではなく、それをアプリオリな連関として、それらの概念を再定義しているのである。

かくて、数学の証明は「アプリオリ総合判断」とでも呼びうるものを達成する。というのは、証明はそれにかかわる諸概念を再定義することによって、アプリオリな命題を認定することになるが、それは決して与えられた公理の意味をただ引き出し、適用しただけのもの(野矢茂樹氏が「水源地モデル」と呼ぶもの)ではないからである。つまり新たに諸概念相互の連関を創り出すことによって、かつては可能でなかったアプリオリ判断を創造し、可能的経験を拡大しているからである。

こうして、規則に従うことをめぐるクリプキのパラドクスは、概念変容論とごく自然に結びつくことによって、我々の言語の織り成す力動的な弁証法を浮き彫りにするであろう。

Posted by easter1916 at 14:00│Comments(0)