2019年12月22日

ルソーの『演劇論』

ルソーは、一般意志の不可分性・不可謬牲を想定しているが、このような想定の系として『演劇論』に現れているルソーの批判は注目に値する。それは演劇そのものについての洞察を与えるものとしては全くつまらないものではあるが、ルソー自身の偏見をあぶりだすためには非常に啓発的なのである。

ルソーは、演劇の有害性について、とくにそれが習俗や道徳性に与える悪い影響という点から批判している。それは百科全書派の文化人たちが、ジュネーヴに劇場をつくろうとした出来事をきっかけに、ルソーが書き記したものである。

論点は多岐にわたるが、ひとつは劇の内容が観客に道徳的に良い影響を与えない点、また、俳優が道徳的に堕落しやすく、また劇場へのあこがれが一般の習俗を乱すなどである。

そもそも、徳性を感化するという点からのみ演劇を論じるという点に、ルソーの関心が集中しているのも奇妙であるが、もともとそれが統治のための国民教育という点にあったのだと考えると、賛同できるかどうかはともかく、理解することはできる。

『学問芸術論』『人間不平等起源論』で、人間の文明の自然からの逸脱というテーマを打ち出したルソーにとって、この堕落の本質を問う必要があり、富や権力によって、人間の言語表現が嘘と虚栄まみれのものになってしまった、という観察があった。スタロバンスキーの言うところの「透明に対する障害」こそが、諸悪の根源とされたのである。

とすると、演劇は作り話、絵空事である点を非難されるのも当然だろう。ルソーは、ローマの劇場を見た蛮人の発言を好意的に引用している。

ローマに設けられた円形劇場と演技のすばらしさを讃えた人に向かってあの野蛮人が答えたことは、まさに自然が言わせたことなのです。その好人物は尋ねました。ローマには妻や子供はいないのか、と。この野蛮人は正しかったのです。人々は芝居を観に集まっているつもりでいるのですが、そこではみな一人ぼっちになっているのです。人々はそこへ行って、自分の友人、隣人、身内のもののことを忘れて、作り話を面白がって、死んでしまったものの不幸に涙を流したり、生きている者の犠牲において笑ったりしているのです。(『演劇論』岩波文庫版p−42)

また、劇が誇張に流れがちだといった後で、アリストテレスの『詩学』を引用して論じている。

「喜劇は実際にあるものよりも劣った者たちを模倣しようとし、悲劇は優れた人たちを模倣しようとするのである」ありもしないものを対象として取り上げ、実際にあるもの、足りないものと過度なものとの間にあるものを、無用なものだとして捨ててしまうというのは、まことに筋の通った模倣ではありませんか。しかし、模倣の真実性などどうでもいいのでしょう。幻想をもたらすことが出来さえすればいいのでしょう。民衆の好奇心をそそることだけが問題なのです。(同p−58)

しかし同じアリストテレスが、歴史との対比で、演劇は実際に起こったことではなく、起こり得ることを描くとして、一段高い地位を与えられていなかっただろうか? 表面的な事実ではなく、その底にある本質を見抜くことによって、起こり得ることを表現することができるのである。

この本質とか起こり得ることを描くのに、どうして事実ではないことを迂回する必要があるのかは興味深い問題であるが、ルソーにとって、虚構が真理により迫るという問題意識はない。

カントが審美的なものに見た「関心なき適意」という側面について、ルソーも気づいてはいる。

芝居による模倣が私たちにいっそう多くの涙を誘うのは、…情緒が純粋で私たち自身のことを心配する気持ちが混じっていないから (同p−55)

つまり、利害関係を離れて事態の諸関係の本質をより明晰に示すことができるのだ。その結果、「何事にせよ、それを芝居で演じると、それを私たちに近づけないで、私たちから遠ざける」(同p−56)

しかしこのことは、ルソーにはよいこととは感じられない。

あんなにも誇張した言葉でほめたたえられる高貴な考えやすばらしい格率もすべて、ほぼ同じようなこと〔私たちから遠いもの、無関係なもの〕になるのです。そういうものは永久に舞台の上に追いやって、美徳を、芝居での遊びごとで、公衆を楽しませるのには役立つが、それをまじめに〔実際の〕社会に移そうとするのは、気ちがい沙汰ということになる。(p−56)

しかしルソーが演劇を敵視するのは、それが絵空事を描くだけの無益なものという為だけではない。実はより本質的な敵意が、劇の表現する意味の多義性(不透明性)にある。

とくに喜劇は、一面では有徳の人を滑稽な人物とも描き出す。これは彼の美徳を否定することではない。それどころか、彼が一面で有徳でなかったら、彼は滑稽な人物ではなかったろう。このことは、ドン・キホーテを参照するだけでよい。

ルソーは、具体的な作品からモリエールの『人間嫌い』の作中人物を取り上げている。

一つは、この劇のアルセスト〔人間嫌いと特徴づけられている主人公〕は、まっすぐでまじめで尊敬すべき人、本当の正しい人である。もう一つは、作者がそれを滑稽な人物にしていること。そういうことだけで十分モリエールは許しがたい。(『演劇論』p−75)

ルソーが劇の人物造形をよく理解していないと思われるのは、次のように記すところだ。

〔アルセストの〕友人の冷静な格率とあざけりが、ことごとに相手を怒らせて、いろいろと無遠慮なことを、その場にぴったりしたことを言わせます。しかし、あの荒っぽい、厳しい性格は、場合によっては、彼を怒りっぽく、気難しい人間にしていますが、同時に、全然理屈に合わない子供じみた不機嫌や、あまりにも強い個人的な利害の念から完全に彼を遠ざけています。彼は決してそういう利害の念を持ってはならないのです。これが傍観者に過ぎないあらゆる無秩序には彼は興奮してもいいのです。それはいつも描写に新たな魅力を添えることになります。しかし、直接自分に向けられることについては、彼は冷静でなければなりません。邪悪な人間たちと闘うと宣言している彼は、そういう人間たちもまた彼と闘うことになるのを十分覚悟しているのですから、彼の率直さが招くことになる不幸を予想していなかったとすれば、それは軽率ということになるので、美徳ではありません。

〔きざな自惚れ屋のオロントのソネットを批判した〕ソネットの件があったあとで、どうしてアルセストはオロントのたちの悪いやり方を予想せずにいられるのでしょう。それを知らされた時、彼が驚くなどということがあり得るでしょうか。…彼は訴訟に敗れることを平静に受け止めるべきではないでしょうか。(同p−81〜82)

しかし、アルセストの「美徳」(厳格すぎる徳)自体、自分の不利に運ぶ訴訟経験に由来するものかもしれない。

僕はあらゆる人間を憎むのだ。ある者は不幸にして有害だから憎む。ある者は不善のともがらに阿って、いやしくも君子たるものが彼らに対して抱かねばならぬ強い憎しみを持たぬから憎む。現に僕の訴訟相手だが、それも明々白々のあの悪党に対する世間の度を越えた弱腰はどうだ。(『孤客』p−11アルセストのセリフから)

ヘシオドスが『仕事と日々』を書くきっかけになったのは、彼自身の弟を相手にした訴訟が滞りなく運ばなかったことであるとされている。それが彼をゼウスの正義への問いを誘発したのであろう。何の問題意識も持たずに日々の暮らしを続けてきた人が、理不尽な目に遭遇して、にわかに正義に目覚めることは、ごく普通のことなのだ。隣に大きなビルが建って加賀になってしまった人が、日照権という権利を掲げて闘うのは、それをあらかじめ正当な法と信じていたからではない。法と正義を求める人々は、自分の利害を超越する立場に初めから立っているわけではない。むしろ、たまたまその境遇に立ったことによって、その理不尽に気付くのである。他の人々には無視できる問題に、彼こそは直面するからである。正義は、こうした個々の生活場面に具体的グリップを持っており、それらを離れて正義を言い立てることは空しい。

結局、ルソーはアルセストが理想の有徳人であってほしいのであり、美徳のロボットであるかのように描いてほしいのだ。こうして、美徳を悪徳に対してわかりやすく際立ててほしいのである。

しかし劇作家は、有徳な人物もそれが一人の人間であるかぎり、別の文脈からは滑稽でもあり得ることを知っている。まさに滑稽さとは、つまり喜劇的なものとは、このような文脈的多義性の自覚化なのである。

いやあらゆる劇は、複数の観点が絡まり合い、誤解しあい、またそれを超えて理解しあう過程、ひとことで言えば弁証法を含んでいる。だからこそ、劇の初めには知られていなかった意味が、時間を経て劇の終わりには、主人公たちにも観客にも知られることになるのである。ルソーに欠けているのは、この弁証法なのだ。

それは、演劇を嫌悪する一方、フォークダンスは推奨されるところからもわかる。ダンスにおいては、言葉によらない情感的一体感が生まれ、それをルソーはジュネーヴの男たちの自然なフォークダンスの印象的なシーンにおいて、理想化している。(駐2)

ここには、バベルの塔以前の理想郷が見られるが、本来の政治社会ではない。ルソーは、一般意志は、市民は一切相互に議論も相談もなく、意見一致に達すると述べているが、そこにも同様の弁証法の欠如が見られる。

こう見れば、ルソーの演劇論は、思想家の手すさびから生まれたちょっとした失策、ふと漏らした出来心といったものではなく、彼の思考の中に終始付きまとった根本的欠陥を示していると見なければならない。

この点をより詳しく見るために、演劇の本質についてルソーとは違う角度で見ていく必要があるのだ。それによって、ルソー批判の拠点を確保するとともに、政治と政治的自由について、より深い洞察を得ることができるだろう。


クリフォード・オデッツ『喝采』(The Country Girl)と演劇的なるもの
この作品は、役者を主人公にするいわゆる楽屋ものの演劇で、演劇の本質そのもの演技の本質そのものを描いている。主人公フランク・エルジンは、かつて名優として名をはせたこともある才能豊かな老俳優である。彼は、演劇上での失敗や私生活での不幸(一人娘の死)から酒におぼれ、すっかり落剝している。

ボストンの劇場で演出を担当しているバーニー・ドッドは、若く野心的な才能ある演出家で、ニューヨークのブロードウェーへの進出をもくろんでいるが、主役の役者が突然降板することになり、フランクを抜擢しようとする。バーニーは若い時にフランクの劇を見て演劇を志すようになった経緯があり、誰よりもフランクの才能を買っているのだ。

興行主クックは、今やアル中で全くあてにならないフランクの抜擢に当然反対する。クックに代表される演劇の商業的成功と、バーニーが目指す芸術とのせめぎあいが重要な伏線となっている。

フランク・エルジンの妻ジョージ―は、初めフランクの主役抜擢に消極的だ。それというのも、彼がこのような大役の重圧に心理的に耐えられないのではと危ぶんでいるからである。

バーニーは、フランクのこの弱さを理解できない。それは、ひとつには彼の役者としての比類ない才能に魅せられているからであり、また一つには、フランクと一緒にブロードウェーで成功を収めるという彼自身の野心に盲目になっているためである。

ところが、妻のジョージーは、フランクの実像をよく知っている。もちろんその才能を理解しないわけではないが、それが彼自身の性格の弱さと表裏一体のものであることを知っている。フランクの役者としての才能は、彼が首尾一貫した自己主張というものを持たず、その場その場の人々の思惑に敏感に反応せざるを得ないほど、他人の影響を受けやすいことから来ているのである。自分が他人からどう見られているかに過度に敏感であるからこそ、日常生活でも他人の目に対して自分を演じ続けることになる。常に場を盛り上げ、快活にふるまい、状況に応じて、当意即妙なジョークを言い放ち、人々の関心を集め、その場の人たちを喜ばせるようなことを言わずにいられない。それでいながら、自分を信じることができず、批評家の言葉のみならず、芸術に無縁な興行主の片言隻語にまで一喜一憂することになる。ここから、その場しのぎの嘘をつき、状況に流されるという彼の性格の弱さ、というより無性格性が帰結するのである。彼の俳優としての強さは、実にこの性格的な弱さに由来しているのである。その弱さから酒に溺れ、セリフを忘れ、せっかくの役を台無しにしてしまうという悪循環に陥るのである。

ジョージ―はそのすべてを理解し、全力で支えようとするが、バーニーにはそれがわからない。バーニーに対しては、フランクは自分の弱さを隠すために、妻が精神的に弱い所があるので、自分が支えてやらなければならないと演技している。妻は、すでに何度もリストカットを繰り返し、いつまた自殺を企てるかわからない、自分がいつもそばにいて注視していなければならいのだ、と言うのである。

演出家は、舞台練習が進むにつれて発揮されてくる役者の演技に見える天分の輝きに触れることになる。それは彼の野心を刺激せずにはいないのである。フランクとなら、ブロードウェーも決して夢ではないのだ。

ちなみに、本来の演劇版と映画版とでは、フランクの酒浸りについての描き方に微妙な違いがある。映画版では、それは子供を失ったトラウマに還元され、その過去のトラウマを「乗り越える」物語に仕立てられている。そこで、原作にはないトラウマ的出来事を想起させるメロディーが与えられる。それは、この主役にビング・クロスビーを当てるという致命的な間違いを犯しているためである。このような美声の持ち主が歌手として挫折するということの不自然さを補うために、フランクを一段と小心者に描かざるを得なくなる。それらすべては酒のせいにされる。

その結果、フランクの「弱さ」は、彼自身にとって非本質的逸脱に過ぎなくなる。ところが原作版では、フランクの性格的弱さは、彼の俳優としての本質に根差すものであり、演劇上での挫折とか私生活上の悲劇といった偶然性には決して還元され得ない。ハリウッドでは、性格上に本質的欠陥を抱えた人物を描くことに対する強い抵抗があるかのようである。それゆえ、原作が持っていた演劇の本質への問いが、ハリウッド映画ではすっかり影を隠してしまうのである。

それに加えて、ジョージー役にグレイス・ケリーを当てたのも、ミスキャストといわざるを得ない。あふれる気品とあのゴージャスさでは、とてもジョージ―のくたびれ果てた中年女を描けない。そればかりか、終幕になると、肩をはだけた膨らんだスカートを身にまとい、すっかりハリウッド女優丸出しの姿になる。これでは、原作はぶち壊しだ。

さて、初舞台が近づくにつれ、フランクの精神は、緊張から破綻し始める。妻はその近づく危機を回避するためあらゆる努力をするが、その行動はバーニーから見ると、夫を支配しコントロールしようとするものであり、それというのも妻は夫の成功を妬み、夫を演劇に奪われるのを阻止するために、何とか公演を失敗させようとたくらんでいる。

そこからこの二人には、のっぴきならない対立が出現する。演出家は、俳優の本質(の一面)を見抜くからこそ、彼の別の一面が見えないのだ。バーニー・ドッドが、このような目でジョージーを見るのには、彼自身の不幸な結婚生活が背景にある。虚栄心と利己心の塊で常時嘘をついてバーニーを翻弄した前妻の姿を、ジョージーに投影しているから、ジョージーの本当の姿が見えないのである。バーニーは、不幸な先妻との結婚生活から、根深い女性不信を抱いており、その知性も品性も信用していない、ということも指摘しておく必要がある。バーニーがジョージーと偶然出会う場面で、彼はバルザックやドライザーやジェーン・オースティンなどの古典が並んでいることを目ざとく見つけ

(笑いを浮かべながら)あなたがこれらをご自分で享受しているのかなどと質問すれば失礼かもしれませんが、そんなことをすれば、あなたは私を食い殺すかもしれませんね。

などと嫌味を言い放つのだ。彼の先入見によれば、女が虚栄心から本を飾ることはあっても、読んで理解するなどということは考えられないのである。

バーニーはジョージーにボストンを去ることを要求する。ジョージーは何度も警告するがバーニーは聞く耳を持たない。その結果、フランクは精神の不安に耐えかねて酔いつぶれ、ついにリハーサルをすっぽかしてしまう。大騒ぎとなるが、前後不覚なまでに酔いつぶれているフランクはどうにもならない。興行主は公演を実現するために別の配役を探そうとするが、真実をようやく悟ったバーニーは、フランクと運命を共にする覚悟を決める。

その結果、何とかボストン公演は成功にこぎつけ、五週間後にはめでたくブロードウェーの初日を迎えることになる。この間何が起こったのか? 演劇の中では一切触れられていない。

1)演出家が土壇場でフランクと運命をともにする覚悟を見せたコミットメントこそが、フランクに自信と勇気を与えたのだということ。2)バーニーにその決断をさせたものが、ジョージ―の存在であったこと。ジョージ―の献身を見て、バーニーは彼女を唯一無二の女性として愛し始めたこと。3)ジョージ―は演出家の愛を、一方では利用し、他方では己の存在の意義と価値の認識のきっかけとしながら、フランクの成功のための共同戦線を組む友情を築いたこと。4)フランクは二人の関係に気づきつつ、この二人の友情を支えにして、自らの精神のバランスを保つことができたこと。これらのことを指摘することができる。

妻ジョージーにとって、演出家の愛は唐突なものではあるが、非常に重要な支えになっている。彼女はすべてを夫にささげながら、何一つ報われなかった人生だと感じている。彼女は夫を愛していながら、疲れ切り絶望している。夫は彼女を何一つ理解せず、ただ支えとして頼り切っているにすぎないからである。ジョージーは力を使い果たして、ただ倒れる寸前なのだ。

そんな時、突然演出家にキスされる。それは二人の対立が頂点に達し、バーニーの見方が全くの虚妄であり、ジョージ―こそが真実を見ていたことが明らかになる瞬間、ジョージーが怒りに震えながらバーニーを詰問し続ける瞬間にやってくる。バーニーにとって、ジョージーは全く見たこともない存在であったことがわかる瞬間だ。すべてをなげうって夫のためにささげ尽くすような女など、バーニーにとっては文学の中だけの存在だったのである。それがわかった途端、バーニーはジョージーへの恋に落ちる。

他方、ジョージーはそのときはじめて自分も女として認められる存在だと気づく。ここで初めて彼女の愛は承認される。彼女を支えとしながら、人形扱いしている夫には気づかれなかった彼女の真の愛にバーニーだけは気付いてくれた。ここで初めてジョージーは主体として承認されたのである。そこで彼女は力を取り戻す。その力は、もちろんフランクを支えるために費やされるだろう。演出家は、その共同作業に愛の喜びを感じるだろう。

夫が出演前の楽屋で、演出家のいる前で、妻に「もう一度チャンスをくれないか?」という場面は、演劇的である。三者とも他の二人の考えを半ば理解しながら、なおあいまいな点に賭けているのであり。観客はその論理を手に取るように理解できるからである。

女は夫にもう一度賭けようと思っている。もし、この不確実な賭けを回避するとしたら、たとえ演出家の愛を得たとしても、彼女の過去を否定することになったであろう。

演出家は、この仕事が大成功に終わるとき、これを最後に二度と女とは会えないだろう、この数週間の共同作業こそは、愛と信頼の証しであり、この成功によって、フランクへの義務を果たし、彼を再生へと導いた。それによってはじめて、妻は夫から解放され自分の人生を主体的に選ぶことができるはずだ。今や女はバーニーを選ぶことができるはずであった。

ちなみに、劇に初めの場面で、バーニーがフランクを探しに彼のホテルの一室を訪ねたとき、ジョージーは一人トランクに持ち物を詰めて旅支度をしていた。このことの意味は、当初はわからないが、後で考えてみると、彼女がそのときにはすでに夫と別れる決意を固めていたことがわかる。なぜなら、この時フランクはまだ少なくとも主役の控えとして、その劇の上演に付き従う仕事に数週間拘束されていたはずだからである。彼女の旅支度は、一人ボストンを離れる旅支度だったわけである。ところが一方、ジョージーなしでフランクが仕事を続けられない性格であることは、ジョージーには十分わかっていたはずである。それゆえ、この度は夫を決定的に破滅に追い込むものであることを重々分かったうえで、なお分かれる決意を固めていたことになる。そこまで彼女が結婚生活に絶望していたことを理解しなければならない。ところが、夫に大きなチャンスが与えられ、ひょっとしたらそれを機会に立ち直れるかもしれないという薄い希望をもって、彼女はトランクを解くのである。

しかし、もし女がこの前途有望の演出家について行くとしたら、それは演出家が愛した女であったろうか? この女を唯一無二のものたらしめたものを、女は手放すことになろう。なぜなら、ジョージーはひたすら犠牲的に夫の作品のために殉じる点でのみ、比類なき輝きを放っていたからである。

女にもそのことはわかっている。この若い男は、演劇への愛のような一途な気持ちで私を愛してくれている。それは一途なものを私自身の中に見出したからなのだ。私はそのことを当たり前のこと、つまらない田舎娘の感情としか考えていなかったけれど、彼はそれを宝石のように尊いものと認めてくれた。それがどれだけ私を生き返らせてくれたのかはかり知れない。そうでなければ、私はただのぼろくずのように、疲れ切って、使い古されていたことだろう。私は、彼が一瞬とはいえ夢見た一途な女を全うすることによって、彼の愛を永遠なものとできるのだ。私はこの頼りないフランクを支えることを、もはや無意味なことと思う必要はないのだ。この役者こそは私自身の作品だからだ。

かくて、三者にとって偶然である協力も、偶然であるそれぞれの決断も、必然のものと観客は認識できるのである。ジョージーとバーニーの協力は、果たして意志の共有であろうか? ジョージーは、フランクの再生のためにバーニーを利用したとも言えるし、バーニーは己れの野心のためにフランクを利用し、その為にジョージ―の協力が必要であった。それぞれの思惑で彼らは協力することができた。しかし、実際にはそういう部分的利害の一致に基づいて彼らが協力したのではない。

途中で大きな化学反応が起き、それぞれの目論見は全く変わっていく。ジョージーがフランクを支えようとする意志は、かつてはただフランクのためというだけで、もっぱら受動的なものに過ぎなかったが、今やフランクを支えることがジョージー自身の自己表現・自己実現という意味を帯びている。それというのも、ジョージーのその献身が、バーニーにとってかけがえのない尊い意味を持つものとして承認されているからである。バーニーにとっては、今やフランクは自分の野心実現のための単なる手段ではない。フランクによる公演の成功は、フランクが自立を達成する唯一の道であり、それゆえジョージーがフランクから自由になる唯一の道である。だから、フランクを誰かほかの俳優で取り換えのきくものではなくなっているのだ。

ここで、バーニーにおいて、公演の芸術的達成がより重要な問題なのか、それともジョージーを獲得することがより問題なのかは、あいまいにされている。おそらくバーニーは、その点を意図的にあいまいにしながら、芸術的達成と恋の目標とを無意識のうちに同一視しながら、その成就に向かって邁進するのだ。

この二人の思惑はそれぞれ大きく変質しつつも、相変わらず食い違っている。異なる背景から異なる目標を立て、それでも一致協力する――ここに、ルソーの政治にはなかったものが鮮明に浮き彫りになる。演劇的な政治、つまり弁証法的政治である。

演劇では、各人がそれぞれの背景を持つことから、異なる視点に立ち、事態について異なる関心とかかわりを持つ。それぞれ相互に統合された見方に立つとは限らないけれども、かかわりを結び、対立しつつも協力したり、妨害したりする。その過程を通して、それぞれが変化するが、一定の期間協力しても、やがて別々の道へと帰っていく。

演劇的世界観に基づけば、政治は異なる観点間の相互作用であって、その複数性は最後まで消去され得ない。また、それでいながら協力し合うこともあれば、互いに認識を高め合うことも可能である。そして、当事者では得られないかもしれない認識――それぞれの観点を超えた観客の認識が時には可能になるということである。このような観点を超える観点、統一された観点が、常に可能であるわけではないとしても、時には可能であるということが重要である。そのような経験は、まれな偶然によるものではあるにしても、我々の政治のまたは政治的自由の本質と可能性を教えてくれるものだからである。

それぞれの観点と思惑でだけ互い同士認識するだけで、それを超えた観客の観点が全く存在しなかったとしたら、相互の対立は何の認識の進展も見ないまま、ただ己れの思いや欲求を貫くだけに終わるだろう。バーニーとジョージ―のあいだに見られるような自己認識の変化や再認識など起こり得ないことになるだろう。その場合、他者は相変わらず不可解なまま、ちょうどバーニーにとっての前妻の存在のようなままになってしまう。闘争の決着は力関係にのみより、そこにはインパラとチーターの関係のようなもの以外生じない。

しかし、劇は劇的認識をもたらすのだ。当初不可解に見えていた他者の行動が、一転して合理的に見通し得る意味を帯びたものになり、己れの当初の見方そのものが打破される――それを劇的にもたらすものこそが、他者なのである。こうして劇的世界観は、他者との出会いに基づく可能的経験の拡大、見方の一新、すなわち自由をもたらすことを教える。

この自由は、本質的に出会いの偶然を含んでいるから、その帰趨をあらかじめ見通すことはできないし、理論的にその輪郭を示すことさえ難しい。しかし我々は、演劇的なものをそのひな型に据えることによって、この自由が「文脈の自由」と呼びうるものであること、つまり、言葉が一定の文脈に固定されず、当初習得された場面の文脈を離れて、新たな文脈に結びつくことによって、思いがけない意味の可能性に接続されることがあること――それによって、文脈の自由は新たな意味と経験の可能性を切り開くこと、そしてそれこそが本来の政治という我々の経験の可能性であり、政治的自由の本質であることを啓示してくれるのである。

演劇的主体と演劇的自由理解
演劇的認識は、デカルト的自己を覆すことによって、ロック型の(また他の)近代政治哲学の自由観とは対極的なものを見出すことにつながるだろう。つまり、演劇的人間は一人だけで自己確信を得ることができない。フランクは、状況の中で自分に期待されている役割になりきろうとする欲望を持つことによって、自己の首尾一貫したインテグリティを失う。その点では、もっとも演劇的人格と言えるだろう。

バ−ニーは、演劇の成功と芸術家としての大成という野心に支配された人物として登場し、自分でもそのことを確信しているので、ある意味では最も分かりやすいデカルト的(ロック的)人間である。彼は栄冠といったファルス的欲望にとらわれている。ただ問題は、その欲望を彼に吹き込んだのがフランクの名演であったこと、それゆえ、バーニーにとって、フランクは父的な理想像(いわゆる自我理想)となる範型であるのに、実物のフランクはそれに耐え得ない空虚な人物であったことだ。また、そもそも演劇というものが、ファルス的欲望の対象としては欠陥があったともいえる。なぜなら、演劇は、その虚構性の中に真理を示し、また、現実性の中に含まれた虚構性を暴露するものとして、本質的に虚構的価値しか持たないからである。それゆえ、演劇における成功ということそのものの中に、何か自己矛盾が含まれるというべきである。つまり、その成功には、何かいかがわしさ、空虚さ、見せかけといったものが付きまとうのである。

果たせるかな、バーニーの野心は、途中からジョージーへの愛へと変質する。もし、子供(男の子)の欲望が母のファルスを与えるものになることだとすれば、そして、そのファルスが栄光のような形を迂回しながら、やがてはジョージ―という第二の母への欲望に変形するとすれば、演劇への欲望とフランクの成功(を通じての自己の栄光)という欲望と、母(的なもの)への欲望とが一致するのは、必然とも言えよう。ジョージーへの欲望と芸術的達成という欲望が、バーニーの中で混然一体化していたのも当然なのである。

バーニーがおのれの真の欲望に気づくために、ジョージーとの出会いを必要としたように、ジョージー自身も、その真の欲望に気づくためにバーニーが必要であった。なぜなら、すでに記したように、ジョージーはフランクの成功を願っていたとはいえ、その欲望の中に自己自身の欲望を肯定できていたわけではなく、むしろその中で疲れ果て、自己喪失に陥っていたからである。

〔ウィスキーを手放そうとしないフランクを見送りながら〕ひとりジョージーは疲れた様子を見せる。彼女は内気そうに、しばし引きこもった風に頭を一方に向け、非常に悲しそうな、自分一人であると感じるようなそぶりをする。(The Country Girl p−49)

〔フランクが隠しているウィスキーの瓶を探しながら〕私は疲れてるの。ないないばあのような真似はやめて(p−56)

ジョージーの欲望を主体的に肯定する自己確信に変えるためには、バーニーの視点が必要だったのである。バーニーの見方を己れのものとすることで、ジョージーは初めて自己の欲望を肯定できたのだ。しかしそれは、バーニーの欲望対象(すなわち結婚)そのものを共有することではなく、バーニーによって見られた己れの在り方(つまり、フランクを自分の作品とすること)自体の意義を己れの欲望とするということ、言いかえればフランクの自由を望むことであった。

かくて、三人三様にそれぞれの欲望は一種の自己誤解によるものであり、真の自己知に至るには、劇的(弁証法的)過程が必要なのだ。(つづく)

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