2020年02月04日

性狷介

山形新聞「ことばの杜」の投稿。
「性、狷介」  (中島敦『山月記』)

以前、ある酒席でこの言葉を口にしたら、たちまち居合わせた数人の中島敦ファンが声を上げたものである。こんなとき、つくづく旧知の人に出会ったような気がするものだ。

「云々」を「デンデン」と読んだり、「未曾有」を「ミゾウユウ」と読んだりする者が幅を利かせる時代、そんなことをいちいちあげつらうのも大人げないので口をつぐんでいるが、内心不愉快である。もちろん、AIとかCEOといった英語も、パソコンとかスマフォといった省略語も願い下げである。ましてや、酒席での「イッキ」や「ニッポン、チャ、チャ、チャ」や「ワン・チーム」の大合唱には虫唾が走る。

この年になると、毎日のように不愉快なことが次々に起きるものだし、目にするもの、耳にするもののほとんどが嫌悪すべきものである。軽薄なテレビ、傲慢な政治家、オリンピック、デンツー、アイドルの小娘たち…。敬語の使い方を知らない無作法に対しても、敬意を払ってもらえないことを僻んでいると見られるのが嫌で、とがめだてしたりはしない。私が嫌なのは、馬鹿にされることではない。無教養者の存在自体なのだ。今から思えば、昔から英語とかアメリカ的なものが嫌いだった。多分、勝ち誇るものすべてを嫌悪していたからだろう。子供心に、そうしたものには、どこか品位が欠けていると思われたのである。

中島敦の小説では、主人公の李徴は、己れのかたくなで峻険な性格のために、友人を失い、自らの成長の機会を逃し、ついには孤独な虎に変身する。時代が悪いとも言えるし、本人が悪いとも言える。ただ哀れなのは、本人が一番自分の性狷介を自覚しているところ。

さて、こんなことを書いているようでは、性狷介そのもの!



Posted by easter1916 at 20:42│Comments(5)
この記事へのコメント
 高校の国語の教科書に載っていたのを覚えております。短い小説のわりに細部にわたって随分丁寧にやるものだなと感じたのですが、今にしてみれば、当時の国語教師が相当な文学好きだったのです。教科書で挙げられていない問題点まで、彼は生徒に問いかけました。牽強付会気味なところはあったでしょうが、思い返せば、テクストに向き合うということを実演してみせたのでしょう。
 そういえば、当時疑問に思ったのが、虎になるという表現でした。いかにも頑迷で孤独な精神状況をいっているような一方、巷間では、大虎が泥酔者の意で扱われています。作者も、人間の意識が消え虎のそれになることを酔うと書いており、皆と違う振る舞い方が、大衆には酔っているように見えるのだろう、そうだとすると、程々に酔ってみせねばならないのだ、と賢しげな少年を気どり頷いたものでした。
 ところで、画家のモディリアーニは酔っ払うとよく死にたいと叫んでいたそうですが、それは決まって皆の前でであるとピカソが皮肉をこめて指摘しています。観客がいなければ、我々は性狷介にも虎にもなれないのであり、李徴もそれを無意識的にわかっていたからこそ、別れ際に自らの虎の姿を友に見せたというのもあるいはあったのではないでしょうか。それは、自嘲的で破れかぶれであるのだが、どこか威厳のある誇らかな、こう言ってよければ、逆説的な酔い方であり、見る者、とりわけ青年を惹きつける。もっとも、その虎の姿の醜さは、長時間の直視に堪えず、怖ろしさと嫌悪をもよおさせ、醒めさせずにはいられない。
Posted by nadja at 2020年02月07日 20:04
 この『山月記』は、教科書から外すべきか否か度々俎上にあがるのですが、青年への酔い方を指南する恰好の作品ではないでしょうか。すなわち、観客を顧みず、自己陶酔のあげくに破滅するというような悪酔いは、我々は恥入るべきなのだという戒めと、だが同時に、そうでありながらも酔わずにはいられなかった者への、一抹の同情と懐古とをまぶした称賛とがこめられた旧時代の挽歌として残してほしいものです。
Posted by nadja at 2020年02月07日 20:05
nadjaさま、
私の印象はずいぶん違ひます。李徴には、どこにも酔ったところ、自己満足的なナルシスティックな陶酔などは見当たりません。むしろ彼は、醒めた自意識の過剰な悟性的人格のやうに思へます。さうでありながら、自分には異質な詩人にあこがれてゐるのですが、詩人の才はない。そのことも彼にはわかってゐる。彼は典型的な試験エリートです。科挙でいい成績を上げる程度の文才はあるのですが、そんなものが真の詩才でないことは彼自身よくわかってゐます。
 しかし、科挙で好成績を取った者には、スティグマのやうに、その特有の自意識が刻み付けられ、それを克服するのは容易ではない。結局、長い時間をかけて己れの天職を見つけていくこと以外、このスティグマから癒えることはありません。李徴には、その幸運に恵まれませんでした。彼には家族もゐて、その責任も放棄できませんでした。もし単純な「夢」に生きる者なら、独身の身で気ままにやる事もできたでせう。彼は明晰でない事ができなかったのです。
 それから、虎が醜いとは思へません。虎は見れば見るほど美しく、その威厳はたとへやうもありません。それは彼らの孤独と危険によって購はれた真の高貴さの現はれです。李徴がそんな姿を取り得たのは、彼にとっては救ひだったのだと思ひます。
Posted by tajima at 2020年02月08日 03:16
田島先生
 ご返信ありがとうございます。
 いえ、お言葉ですが、李徴に自己陶酔がなかったわけではないでしょう。有名な『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』の言葉が出た後にこう続きます。
「己の珠に非ざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。己は次第に世と離れ、人と遠ざかり、憤悶と慙恚とによって益々己の内なる臆病な自尊心を飼いふとらせる結果になった。」
 自分自身を壁で囲み、才能の不足を暴露され傷つくことから避けたわけです。なるほど、引き籠もり勉強し自分自身を見つめるということも必要でしょうが、他方で、他者と交わり、自分自身を開くことで真理を煌めかせるということもまた必要でしょう。真の自分の言葉というものが他者の言葉から見いだせるわけです。
 青年期の李徴にはそれがなかった。壁の中からは他者の言葉が聞こえない。虎の意識というのは、他者を認識できず自分自身に閉じている状態をも表しているのです。
 なお、これはスティグマという、自分では視認できないものとも、また、詩才の証しである(ヘッセ的な意味での)額のしるしの問題とも大いに関わってくるでしょうが、割愛いたします。(ただ、思うに、試験エリートのスティグマは背中、それも肯綮に押されているでしょう。聖痕とはまた別物です。)
Posted by nadja at 2020年02月10日 05:14
 それから、虎の高貴さと美しさというものは、一定の時間内かつ一定の距離のもとにしか見いだせません。明け方、適度に離れて鑑賞したからこそです。水面に映る虎の姿に、また他の獣を食らった直後の血に塗れた様に、李徴自身は堪え得なかったでしょう。人外・異形ものという存在の、いつかふとその醜さ(自分たちとは似ていないというところそれ自体から湧き起こってくる畏怖嫌厭を事後的に正当化させる点と呼んだほうがあるいはいいかもしれません)に気づく瞬間がある。我々には生活というものがあるからです。李徴自身も、もはや妻子と共に暮らせぬことはわかっております。昼日中雑踏の中に虎の生きるところはありません。
Posted by nadja at 2020年02月10日 05:16