2020年02月14日

「全体性」の理念

ブルジョワ社会は世界市場という形で、世界の統一をある意味で実現したのであり、そこでは、どの部分も全体を離れて価値や意味を持つことはなく、市場によって緊密に結びついた全体の中にその意味を見出す。この経験は、神秘を世界から一掃したが、同時に世界の全体が謎と化した。

つまり、商品や貨幣のいわゆる物神性の神秘によって、すべての事物を人間も含めて貨幣価値によって値踏みすることによって、それらの事物同士の生活連関を分断し、すべてのものからその内在的意味を奪う結果となった。それゆえ、ブルジョワ社会では、すべての問題が経済的な相貌をまとって現れることとなる。生産や消費は言うに及ばず、結婚、子育て、教育、介護…なども経済的に意味づけられる。たとえば、結婚は両性の「つりあい」の問題として観念され、子育てや教育は、将来の労働力への投資として観念される。医療や介護は、経費の問題として、危険や安全は保険の問題と見なされる。

ルカーチは、マルクスの『資本論』において展開した商品などの物神的性格(貨幣が購買力という神秘的な力を有するかのように、また資本が利潤を生み出す力を備えているかのように、現象すること)と、マックス・ヴェーバーの社会学における「合理化」「脱神話化」のテーマを結びつけて、人間関係すべてが商品と商品との物象的関係として現象する資本主義社会の「物象化」を論じた(『歴史と階級意識』)。

もちろん、だからと言って経済的関心だけで、これらの諸問題を理解することも解決することもできるわけではない。教育が単に将来の労働力への投資ではなく、結婚が性的サーヴィスへの対価ではないことは自明である。

しかし、近代芸術の代表である小説は、すべての経験を全体として描くことを本領としたことによって、あたかも市場の普遍性に対応した普遍性を実現するように見えた。確かに近代芸術は、世界の一切の境界を打ち消し、視野を共同体から世界の全体へと広げただけでなく、あらゆる意味や幻想をすべて合理的に理解できるように経験の全体を参照することを企てた。この過程は、市場が世界の隅々にまで拡大の手を広げ、すべてを緊密な連関に置いた経済的経験と類比的なものである。

これは、夢や理想を描くだけでなく、そのようなものを上演している舞台裏をもすべて描き尽くし、批判的に吟味するという様式――近代小説という様式に特徴的なことである。小説は、自由に他の芸術分野を批評的に吟味し、登場人物たちを捉えているオブセッションや偏見、願望や夢、信念や幻想それらすべてを説明し尽くす装置を備えている。

この点で小説は、すべての理念を知に還元するヘーゲルの哲学を体現した芸術様式と言うことができる。ヘーゲル哲学では、以前は独立した価値や権威を持っていた宗教や芸術や国家といったもの、道徳や人倫といったものを含めて、すべてそれが何故価値あるものと見なされるのか、何故人々はそれを欲望するのか、総体の知を与えることが目指されている(知に還元し得ぬ信仰の価値を信じていたキルケゴールが、それに納得できなかったのも当然である)。

このようなヘーゲル哲学が、知の全体性(絶対知)の理念を掲げたのも当然の成り行きであり、その大枠を受け継いだマルクス主義がヘーゲル的な全体性の理念をブルジョワ芸術の理念から受け継いだのは無理からぬことであった。

ルカーチのようなマルクス主義者は、階級闘争や貧困問題からマルクス主義者になったわけではなく、ブルジョワ芸術が本来持っていた全体性の理念――物神性の幻想と部分的合理性の中で引き裂かれたブルジョワ社会に全体性を回復させるという理念の要求からマルクス主義に接近した。そして、部分的合理性の追求が、全体としての無秩序と戦争の破局へと突入していったことを目撃してルカーチは、ブルジョワ芸術が掲げた理想が、資本主義的市場の廃棄とともに、一挙に実現してくれる(はずの)世界革命のユトピア的ヴィジョンに賭けることになった。それは、ブルジョワが放棄した理念をプロレタリアートが代わって担うことを期待するものであった。

古典的なブルジョワ芸術は、潜在的に全体性の理念を目指していた。たとえば、いわゆる教養小説は、共同体の絆から自由になった個人が、市場社会の冒険に乗り出し、当初の夢や幻想に敗れながら、社会との和解にこぎつけるという筋書きをたどるが、この個人の経験の中で、さながらヘーゲルの『現象学』のように、諸観念、諸信念が試練にさらされ、その限界を突破しながら、やがて世界の全体認識へと導かれる。それと同時に、主体は自己自身の等身大の自己認識に達するのであり、彼の世界認識の中にすっぽり自己の存在を位置づけることができるようになっている。これが、個と全体の和解。

このようなブルジョワ文学の理想は、古典的ソナタ形式と、とりわけ古典的ヴァイオリン協奏曲の理想に正確に対応している。他の協奏曲、たとえばピアノ協奏曲などと違って、ヴァイオリン協奏曲の独奏パートは、もともとオーケストラのトゥッティの一員に過ぎないが、次第に独立性を高めてくる。たとえば、ヴィヴァルディのコンチェルト・グロッソという様式(複数の独奏者を持つ協奏曲)の多くのヴァイオリン協奏曲は、その過程をつぶさに表現している。有名な『四季』では、「春」の部分では、いくつかの独奏者はほとんどトゥッティに埋没しているが、「冬」においてはほぼ独奏者は完全に独立しているように見える。このように、トゥッティから独奏パートが自立してくる過程は、共同体から個人が自立し、ついには一個人として世界全体に対峙するに至る近代的個人の心理的成長と対応している。バルザックの作品『ゴリオ爺さん』の末尾を飾る青年ラスティニヤックの言葉ほど象徴的なセリフはない。

さあ、これからはパリと俺との一騎打ちだ。

こうして、個人は(独奏ヴァイオリンは)ついに一人で全世界に対峙するに至る。これこそが、古典的小説と古典的ヴァイオリン協奏曲が共有するブルジョワ的理念であるといえよう。

おおよそ、教養小説はそういうブルジョワ的近代的個人の物語であり、そのような個人に対して、世界は一つの全体として現れる。したがって、このような教養小説においては、世界の全体性の理念が表現されることになるのだ。なぜなら、世界の中に生じた謎は、おしなべて世界の中で解かれ、個々の部分の意味は、全体の中で見出されねばならないからである。経験の意味の弁証法的探究が、経験の全体性を参照するというのはこの意味である。

とはいえ、教養小説は、その初期において既にブルジョワ社会の分裂の現実に直面していた。ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』で演劇を目指す主人公は、そうした現実に直面していた。ドイツでは、あくせく経済的に動く必要のない貴族であれば、個人としての人格的完成を目指すことが容易であるとしても、と前置きしつつ、主人公は続ける

市民は有用になるためには個々の能力を磨き上げなくてはならない。そして一つの道で役に立とうと思えば、他のすべてをおろそかにせねばならぬのであるから、彼の全存在には調和というものがなく、また有り得ない。(第五巻第三章p−153)
 
市場社会では、分業と合理化(部分的技術的洗練)が、市場競争の圧力の下で進展する。その結果、諸個人は労働力としては、ますます単純化・部分化した役割に格下げされ、人格的完成から遠ざかることになる。

そんな中で、主人公は己れの「資質の調和的完成」が「ただ舞台の上においてのみ見出される」と確信する。つまり、すでにこの段階で、ブルジョワ社会の課題(「現代の習俗が強く引き裂いたものを再び結びつける」deine Zauber binden wieder was die Mode streng geteilt)が、芸術にのみ期待されるのだという近代芸術の理念が自覚されているのだ。

つまり、共同体の絆から諸個人を解放し、世界の統一の理念を掲示した市場経済が、同時に新たに人々を引き裂き、また人間を生産のためのネジのようにしてしまう新たな桎梏が生じているのである。むしろそれこそが、近代芸術に固有の課題を与えているともいえる。それが、調和的全体性の表現という課題である。

しかし、社会の全体から隔絶されたユトピア的世界が、小社会(コンミュン)としてであれ、作品世界としてであれ、本当に可能なのであろうか? その場合、コンミュンも作品も、この隔絶そのものからくる傷痕を刻み付けられないだろうか?

というのも、『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』の末尾は、産業革命の前夜にすでに萌し始めた暗い影を描いており、それを作品内部で解決することは断念しているように見えるからである。主人公が、旅の途中で出会うレナルドーという人物の日記という文章があり、その中で、同時代が押し付ける問題が語られている。

「私〔ナホディーネ:かつてのレナルドーの恋人〕の心を押さえつけておりますのは、商売上の心配とは申しましても、目前のことに対してではございません。いいえ、未来にわたることなのです。目下優勢になってまいりました機械工業が、私を苦しめ、私を不安にいたすのです。それは雷雨のように、ゆっくりゆっくりとやってまいります。けれども、すでにその方向は決まっているのですから、やがてやってきて爆撃することでしょう。

この場合、二つの道が残されているだけですが、どちらも悲しい道でございますわ。自分で新しいもの〔機械設備〕をつかんで、災いを早めるか、それとも最も優れた恥ずかしからぬ人たちを一緒に連れて海の向こうにもっと良い運命を求めるために飛び出していくか…」)(筑摩世界文学大系版p−551)

結局、レナルドーもヴィルヘルムもそのほかの主要人物も、ことごとくアメリカの新天地に旅立つことで、この物語は閉じられる。このことは、作家が自分の作品世界の中でだけでも、「調和した完成」を断念していることを意味する。

しかし、現実社会がいよいよ険しく分断され、人間性が引き裂かれれば引き裂かれるほど、芸術に対するユトピア的和解への要求は高まるのであり、その結果芸術は、この要請とその達成困難性のあいだで、いよいよ行きづまらないわけにはいかない。

それが証拠に、古典的ヴァイオリン協奏曲はたちまち廃れていく運命にあった。それは、この様式が、もっとも端的に「個と全体の和解」というドラマを体現したものであろうとしていたからであり、ブルジョワ社会の成熟とともに、その不可能性がいよいよ明らかにならざるを得なかったからである。

シベリウスのヴァイオリン協奏曲など少数の例外はあるものの、古典的ヴァイオリン協奏曲は、ほぼ十九世紀のブラームスやチャイコフスキーのそれにとどまり、二十世紀にはほとんどめぼしいものはない。

注目すべきはバルトークの場合であろう。バルトークには優れたヴァイオリン協奏曲が二曲あるが、いずれも他のバルトークの曲に比べると、いくらか古風な印象を与える。たとえば『オーケストラのためのコンチェルト』と比べれば明らかだろう。そして、この協奏曲は、いわゆるコンチェルト・グロッソ様式を取っているのである。つまり、より古い様式を採用した『オーケストラのためのコンチェルト』の方が大胆に「前衛的」であるのに、古典的協奏曲の形を踏襲した二つのヴァイオリン協奏曲の方が、より古風なものになっているという逆説が成り立つのだ。

この点で、トーマス・マンの『ファウスト博士』の中に描かれた現代作曲家アドリアン・レーヴェルキューンの作風について、殊にそのヴァイオリン協奏曲について、マンが次のように記しているのが参考になるかもしれない。
 
それは、音楽的な姿勢が名演奏家、演奏会向きで一種愛想がいいために、レーヴェルキューンの仮借なく急進的で譲歩する所のない全作品の枠からすると少々外れている、という意味のものであった。(38章 岩波文庫版下p−101)

トーマス・マンが、バルトークの曲を念頭に置いてアドリアンの協奏曲について述べているのではないにしても、明らかにマンは、現代におけるヴァイオリン協奏曲の運命について、「いくらか時代遅れのもの」と見なしていたに違いない。

ともあれ、ルカーチが固執した近代芸術における全体性の理念は、現代では欺瞞的なものと見なされるようになった。それも当然であろう。近代市場原理が、マルクス主義者が考えたほど普遍性をもちえなかったからである(「プロレタリアート」の存在可能性が、ルカーチが考えたようには一様ではなかったこと、とりわけ、賃労働者とその家族労働者の「客観的可能性=階級意識」が食い違うことは近年のフェミニストが指摘したところであるし、「家事労働」が完全には市場化できないことは明白だ)。したがって、世界市場の逆転した対応物であった芸術作品も、全体性を体現する必然性はないことになる。

ルカーチの全体性には何かあいまいな所がある。それはブルジョワ社会が分業と物象化によって部分的合理性の追求によって引き裂かれてしまったという、ゲーテともシラーともヘルダリン(『ヒュペリオン』の末尾)とも共通した批判的認識に発したものであった。この点では、マルクスが『共産党宣言』の中で描いた封建制度へのノスタルジーに基づいて社会主義的(共同体的)な理想に共鳴する連中とも共通している。わが国でも、「反近代主義者」とか「共同主観主義者」などの形で、かかるノスタルジーは再三出現してきた。

もちろん、ルカーチがその一人であるなどとは言えないが、物象化した資本主義社会に対する批判の鋭さと対比して、見出されるべき「全体性」が著しく具体性に乏しいことは明白である。部分的合理性の追求が、あげくの果てに全体の非合理性と市場の無秩序を生み出し、恐慌をもたらすということがたとえ論証できたとしても、その果てに、有機的に結びついた社会の全体性は、いかにして実現できるのであろうか?

それが、巨大な官僚機構と巨大なコンピュータを備えた統制権力に基づくとしたら、それでも残らざるを得ない将来の不確実性に対して、この権力はどのようにして備えるのであろうか? その権力の暴走をコントロールすることは、いかにして可能であろうか? 権力の暴走は、市場の暴走より人間にとって耐えやすいものであろうか? これらの問題は、すでにマックス・ヴェーバーが頭を悩ましながら解決を見出さなかった問題であるが、ルカーチとその仲間たちは的確な解答はおろか、そこに真正の問題さえ見ていなかったように思われるのである。
 
〔ちなみに、このようなことになるのは、後進地域における革命の課題が、主として前近代的土地所有の克服にあったからであり、その為に強大な指導力と権力の集中が求められるからである。多くの場合、土地の私的所有権を否定した共産主義者のリーダシップのみが、土地所有関係の革命に成功したのである。このような地域では、ブルジョワ議会主義は全く機能しない。それというのも、前近代的小作制度の下では、基本的に物納が支配的であり、小作農がわずかなりとも貨幣を手にするチャンスがないので、農業経営のために投資する可能性も動機も存在しない。それゆえ、彼らには普通選挙の基礎をなす初等教育がいきわたらないのである。かくて農村部での選挙は、「えらいさん」の言いなりに軍部を支持する反動的政治勢力が圧倒的に支配することになる。植民地からの独立を達成した開発独裁権力が、いざ近代化をめざしてして農地改革に取り組むや否や、大土地所有者の影響下にある陸軍のクー・デタに阻止されるのが通例だ。農地改革なしに、真の近代化はできない。日本帝国の場合、農地改革は進駐軍の権力によってはじめて可能になったのである。強大な権力によって大土地所有者の政治勢力を一掃した後であれば、市場原理の導入は爆発的な経済発展を可能にするのである。〕

もっとも、それらの問題に関して、近代芸術家やその批評家たちに答を求めても、それはないものねだりであろう。世界の全体像を表現し尽くすことなど、どんな理論家にも芸術家にも不可能に違いない。しかし、ルカーチの「全体性」がいつの間にか世界全体の客観的認識(全知)へと硬直化し、芸術家の課題がその「反映」と観念されるや、あたかも世界の全体性の認識と表現が問題であるかのような錯覚が生じるのである。

我々は、メルロ・ポンティがルカーチの全体性を「経験の全体性」として特徴づけたこと(『弁証法の冒険』邦訳p−43)を重視してきた。それは、初期ルカーチの弁証法のもっとも実り豊かな解釈である。それを、後期ルカーチに見られるような硬直した客観的全体の認識(反映)と明確に区別しなければならない。

確かに近代小説では、プルーストがスノビスムの欲望を単に描き出すだけでなく、それを解明するようなことが行われることを確認してきた。たとえば、ルグランダン氏――主人公一家の知人のブルジョワで、娘をカンブルメール家に嫁がせることによって、かろうじて貴族社交界の片隅につながっている人物であるが、彼は幼い主人公を普段は実に親身に扱ってくれるのであるが、他方で、貴族社会の一員と一緒にいる所で主人公やその家族と遭遇すると、そっぽを向いて気付かぬふりをする。つまり、単なるブルジョワ家庭である主人公の家族を、彼の高貴な知り合いに紹介することを避けようとする。また、スノビスムに対する厳しすぎる指弾をする一方で、自分に門戸を閉ざしている上級社交界(ゲルマント家)に対するルサンチマンを持っていることがわかる。「ゲルマントの城館のご婦人を御存じですか?」と尋ねた主人公に対して、ルグランダンは思わずは反射的な反応をする。

このゲルマントという名前を耳にした途端、我が家の友人の青い目の真ん中に、目に見えない針先で突かれたような褐色の切れ目が穿たれ、それに対して瞳の残りの部分から青い波が分泌されるのが見えた。…ルグランダンはすぐに気を取り直して笑みを浮かべたが、そのまなざしは身体に矢を打ち込まれた美男の殉教者〔聖セバスチャン〕の視線と同じで、いつまでも痛々しかった。(同p−283)

これら一見取るに足らぬエピソードを書き連ねることで、結果的に、ルグランダンの行動を支配しているスノビスムの論理は克明に浮き彫りになる。そして、彼のスノビスムこそが、そのスノビスム非難の隠れた原因なのだということが解明されるのである。

これは、世界の全体を描き尽くすことなんかではもとよりない。単に、一見断片的な現象の内いくつかを取り集めることで、ひとつの意味を浮き彫りにすることである。現象は相互に連関づけられることによって、その意味を明らかにするのである。「経験の全体性」は、その意味の連関からあるまとまりを与えられているのであり、決してあらゆる経験を統括せねばならないというわけではない。むしろ、ある経験に対して、どのような経験が接続された場合に、それが意味を表現することになるかを考えれば、それは、もとの経験の文脈を与えることであるといってよいであろう。ルグランダンによる「スノビスム非難」という現象が、その見かけの意味とは逆の意味を持つことは、彼の他の行動を文脈として与えることによって、はじめて見えてくるのである。

プルーストからもう一つの例を挙げてみよう。それはヴァントゥイユという作曲家とその娘のエピソードである。初めの場面では、主人公の家族がヴァントゥイユの家を訪問する所で、彼の慎み深い性格が描かれる。

そこから見えたのは、両親の来訪を告げられたヴァントゥイユ氏が、大急ぎでピアノの上に楽譜を目に付くように置いたことである。ところが、いったん両親が入ってくると、楽譜をよけて片隅に追いやった。おそらくヴァントゥイユ氏は、自作を弾いて聴かせるのが嬉しくて会うのだと両親に思われるのではないかと恐れたのである。(『スワン家の方へ』岩波文庫版1巻p−254)

その後作曲家が亡くなった後、その娘が同性愛の「悪徳」にふける場面が描かれる。そこで女友達が彼女を訪問する所で、あらかじめ父ヴァントゥイユ氏の写真を飾っておくのである。

ところが外の道路から馬車の音が聞こえてくると、娘は慌ててその写真を手に取ってソファーに身を投げ出し、小さなテーブルをそばに引き寄せて写真を置いた。その昔、ヴァントゥイユ氏が私の両親に弾いて聴かせようと楽譜をそばに置いた仕草とそっくりである。(同p−346)

以後、作家は克明にヴァントゥイユの娘の「悪徳」の中に、父ヴァントゥイユの慎み深い美徳が、また極端に繊細な気遣いが、姿を変えて現れるのを描いていく。

ここでも、小説が世界の客観的全体を描き尽くすなどが問題ではなく、ただ、ヴァントゥイユの父娘の、世代を超えて受け継がれている文化的・精神的資質を描くために、二つの文脈を接続しているだけなのである。これによって、一方も他方も、もともと持っていた表層的意味を越えて(例えば、社会道徳的善悪を越えて)、共通する人間の性格的・精神的襞が、印象深く浮き彫りになるのである。

つまり、「経験の全体性」とは、決して経験のすべてを描くことではなく、時と所を隔てて、文脈が結び付き、単独では気づかれなかった意味を解き明かすことなのである。近代小説が描き出す全体性とは、全体というよりも文脈の結びつきなのだ。

Posted by easter1916 at 02:36│Comments(0)