2020年02月24日

『パラサイトー半地下の家族』

ポン・ジュノ監督の話題作を見た。監督の強い希望であるから、少しでも筋に関係したことを書くことができないので、ごく一般的な感想だけを述べておく。

事前の噂によると格差社会を描くとされていたが、ここに描かれているのは階級闘争ではない。むしろ、ヒューマンな共感的和解をユーモラスに描いている。それは、北朝鮮放送のパロディの場面にもよく示されている。その意味で、この作品には救いといたわりと笑いのテイストが含まれている。とりわけ、貧者の富裕者へのいたわりと憐憫が美しい。

富裕層家族が倫理的基礎(伝統、信仰、家族、民族といった保守的基盤)を欠き、構造において実に脆いものであることが、このパク夫人の心理的不安定という形でくっきりと示されている。おそらく彼女は、高学歴IT成金の夫パク社長のtrophy wifeであり、内面にコンプレクスとおびえをかかえている。それが、彼女の会話の中に時々さしはさまる英語と、真贋の疑わしい現代アート作品の趣味に現れている。このような所が、クレヴァーな下層貧民に付け込まれるスキを与えるのだ。このあたりの芸が実に細かい! これらの事実が、おおむね下層貧民の目線からユーモラスないたわりをもって描写されるのである。

これは、韓国社会のゆとりと成熟のしるしであろう。世界のいたるところで、ナルシスティックな幼児化ばかりが幅を利かせる今日、このような人間的成熟を教えられるのは、大きな喜びである。

アカデミー賞はこのたびの授与で、なんとか自身の名誉を守ることができた。さもなければ、すっかり面目を失うところであったろう?


Posted by easter1916 at 03:59│Comments(11)
この記事へのコメント
パラサイト私も見ました。が、私は田島先生とは違う印象を持ちました。和解やいたわりなどという生やさしい言葉では表せないものがあそこには描かれていたように思えます。
貧者から富者へのいたわりと言われたのは、主人公一家の父親の言動を指してのことかと思いますが、それもそれほどポジティブなものとは思えません。あれは彼の情緒的性格の表れで、無力な感傷に過ぎないように思います。実際、彼がそのような「思いやり」で行動したことなどほとんどない、あっても手遅れになってからのことではないでしょうか?
ただ重要なこととして、2つの家庭の違いが彼らの人格的(知的、道徳的、…)優劣によるものではないということが言えます。富裕な家庭の人々に、際立った美点なんて何一つ描かれていません。(しかし逆に、貧しい一家の人々にも際立った美質がないということが、この作品をルサンチマンから遠ざけているとも思います。)私はこの作品はやはり格差を描いた作品だと思うのですが、それは貧者と富者の間にある理不尽なまでの差が何の正当化根拠も持っていないことをまざまざと描いていると見ているからです。
まとまりのないことを言いましたが、このような作品を生み出した韓国の文化を尊敬するということに異存はありません。
Posted by ジリ at 2020年02月24日 22:01
ジリさま
 コメント恐れ入ります。
 もちろんわたくしも貧富の差に(たとへばロールズが与へるやうな)正義の理があるなどとは少しも思ひません。
 でも、第一印象から言へば、以前の韓国映画にあった若々しい激しい怒りや苦悩といったものよりも、幸福の予兆とかほのかな希望といったものを強く感じました。もちろんわたくしは、以前の激しい韓国映画の一途な情熱を心から愛してをりますが、今回の作品は、それを頭一つ凌駕した真のユマニスムの高みに達してゐると感じました。その点を少々加筆しました。
 チョ・ヨジョンさんが演じる美しいパク・ヨンギョ夫人は、自分がパク社長に愛されてゐることが感じられないのでせう。パク社長自身、自分が彼女を愛してゐるなどとは考へたこともなかったのです。ここにこの家族の脆弱性があるのです。それに引きかへ、ソン・ガンホさん演じるキム・デテク(父)には、誰が聴くともわからぬ言葉、少なくともモールス信号といふ表現手段が与へられてゐる。ここには、未来につながる遺言のやうな言葉があります。倒れて地に埋められた死者たちの遺言。それが希望です。
 先日、ソン・ガンホさんがインタヴューに答へて、「若い頃には私自身半地下に住んでゐました。もっとも今では、丘の上の豪邸の方が身近ですが」と言ってらっしゃいました。さらに付け加へて、「半地下にゐるときも、それを負け犬と考へたことはない。常に若い情熱と希望がそこにはあった」と言ってゐます。この作品に対するわたくしの印象と完全に一致する精神が、ここにはあります。
Posted by tajima at 2020年02月25日 04:49
私は普段映画を見ることがなく不見識ではあるのですが、やはり印象が違うというように感じます。
おそらく先生とは違う考えなのだと思いますが、私は最後に出てくる未来像が現実のものとは思っていません。まず、その未来の前提が不可能だろうと思っていますし(今までだって同じものを強く求めて得られなかったはず)、何より地下から現れるものがあれほど美しい姿をしているとは思えないのです。きっと思わず鼻を覆いたくなるような悪臭を伴って現れるはずだろう、と。叶わない未来があまりに美しいからこそ、むしろ私は絶望を強く感じます。モールス信号も作中における前例のように、届いても何の実効性も持たないのだろうと思っています。
ただ、金持ち一家に愛が欠けている一方、貧しい一家には家族愛があるということは思っています。父親がパク社長の沈黙の意味を理解しないことにもそれが表れていると思います。その点では、貧しい彼ら(一家だけでなく)も何ひとつ持っていないわけではないのであり、決してかわいそうな人々というわけではありません。「負け犬」なんかではなく人間です。ただ、それなのに、彼らは「人間」としての尊重を受けられないのであり、それがお金を持っていないということに究極的に基づいている、そのことがずっと繰り返し作中で反復して描かれ続けていると思っています。そしてそれが、私がこの映画が格差を描いた作品だと思う理由です。
Posted by ジリ at 2020年02月26日 22:50
ジリさま
 「実効性」ばかりを重んじるのはいかがなものでせうか? 倒れていった多くの死者たちの声など、現実には何の実行性もないことは言ふまでもありません。希望とは未来像ではありません。未来像などどこにもない。その意味で、絶望的であるところにこそ、希望が存在するのです。ラザロの復活のやうな希望が。
Posted by tajima at 2020年02月26日 23:48
先生の言う「希望」を勘違いしていたことが分かりました。確かに死者と仰っていましたね。見落としておりました。
先生の希望についての考えは伺ったことがありますので、未来像が希望ではないということは理解できます。むしろ期待と呼ぶべきものでしょうね。そうした意味では、物語が絶望的に終わるからこそ、この絶望の物語を見た我々には希望が存在すると言えるかもしれません。ただ、先生がこの映画に見出した希望とこれが同じものであるかは自信がありませんが。
また、もし実効性第一主義のように取られていたのだとしたら、それは心外です。私も死者は生者と同じくらい(場合によってはそれ以上に)重要な存在だと思っていますし、死者において実効性などということが何の意味もなさないということも認めます。ただ、私はあくまで生者の視点で物語を見ていたので、「助けて」という生者のメッセージに対して実際に助けがあるかどうかは1番重要なことだと思っています。それが切実なものであればあるほどそうです。それは譲れません。ただもちろん、実際には助けがなかったからといって、そのメッセージが無意味なものになるとは思っていません。それでも重大な意味が欠けているという気にはさせられますが。
Posted by ジリ at 2020年02月27日 23:37
ジリさま
 もとよりわたくしは、キム・デテクを、光州事件の犠牲者のアレゴリーのやうなものと見てをります。このやうな悲劇が、そのまま怒りや敵意の形をとるのではなく、ユーモアの形をとってゐる点に、かの国の精神的・倫理的成熟を見たと思ったのです。迫りくる暴虐の嵐を前に、窮地に立った光州の市民に対して、実際に助けがあったでせうか?実際に我々が声を上げさへしたでせうか? だからこそ、今なほ死者たちの声が、モールス信号のとぎれとぎれの音となって、ときおり響くのではないでせうか? あるいは、性奴隷とされた少女たちの声なのか?
Posted by tajima at 2020年02月28日 05:39
 遅ればせながら自分もきょう「パラサイト」を観ました。
 世の偉大な作品群と同じく、この映画のことを語り尽くすことなどとてもできません。
 とりわけ、G.F.ハンデルの「ロデリンダ」のアリア"Mio Cara Bene"がもっとも効果的なところで引用されているということに、いたく感服しています。
 ポン監督がオマージュをささげていたように、シチリア系アメリカ人のマーティン・スコセッシ監督への応答だと、ひとまず指摘できます。
 しかし、「ロデリンダ」のストーリー、アリアの歌詞、そして映画のあの場面で引用されたことを思い返すとき、そのゆたかなハイブリディティと、先生のおっしゃるユーモアに、まったく圧倒されました。
 本作は第72回のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞しましたが、前回は是枝裕和監督の「万引き家族」でした。
 彼我の差は歴然としています。もちろん、是枝監督の作品も重要であることにかわりはありません。しかし、是枝監督は「カトリーヌ・ドヌーヴこそが本物の女優であり、日本の俳優は彼女らの足元にも及ばないのだ」と口をすべらせたことが、伝わっています。また、かれが助成金をもらいつつ「公権力と距離を保つ」と発言したことが、適切に伝わっていない事態は、拙劣だったようにおもいます。ポン監督のスコセッシやクエンティン・タランティーノ(#Metoo運動で立場をあやうくしている監督です)への讃美が満場の拍手で歓迎されたこととは、千里の径庭があります。
 作中、主人公の父がもらしたような、「無計画の極意」とでも決め込みたいところですが、まさにラストシーンで、主人公自身が計画しなおすことでしか父を半地下から救い出せないように、自分も闘争に身を投ずる決心がつきました。
 アリアの和訳は下記のURLを参照しました。
 https://w.atwiki.jp/oper/pages/2580.html#34b
Posted by 泊 at 2020年03月02日 20:26
泊さま
 わたくしの知らないさまざまの知識をお教へいただきありがたうございます。わたくしは、あまり映画に詳しくないので、作品を映画史の中に的確に位置づけることができませんが、おそらく作品中に私の気づかないやうなさまざまのオマージュやレファランスなどがあるのでせう。さういふものに気づけば、作品がさらにいっそう興味深いものになるに違ひありません。
 セレブリティの集まるアカデミーの授賞式と格差社会を描いたこの作品の対比に当惑する人もゐるかもしれませんが、芸術作品にはこのやうな逆説がつきものです。ちょうど、オペラ座でアウト・カーストの女性を描いた『カルメン』を鑑賞するやうなものでせう。それから、Handelはのaはウムラウト付きですね。晩年はイギリス人になりましたから、Handelでもいいかもしれませんが。ひょっとしたら英国ではヘンデルではなくハンデルと呼ばれてるのですか?ヘンデルのオペラは典型的なバロックオペラですね。どれも荒唐無稽ですが、美しい。
Posted by tajima at 2020年03月02日 21:50
 作中、妹のギジョンがインターフォンの前で兄と自分の設定を歌にのせて確認していますが、あれは「独島は我が領土」というプロパガンダソングの替え歌のようです。下記、ウィキペディアの映画の記事からの引用です。
  
 「文大統領との昼食会で、文大統領があの歌は誰がメロディーや歌を決めたのですか、と質問し、このジェシカソングについては、2020年2月20日に行われた文在寅大統領主催の昼食会の場で取り上げられたことで、日本でも報じられるようになった。記者団の前で文大統領が「ジェシカソングは、そのメロディーや歌詞は誰が決めたのですか?」と尋ね、ジェシカ役のパク・ソダムが「監督が」と伝えると、ポン・ジュノ監督は「日本の観客もそれを歌うそうです」と発言して一同を爆笑させた。FNN.jpプライムオンラインは「日本の観客を嘲笑もしくは揶揄していると取られかねない」と批判的に報じた。また、文春オンラインもこの昼食会でのやり取りについて「日本側の不快感を招いた」と批判的に報じている[60]。」

 上記のエピソードを知り、やはりポン監督のユーモアは類まれで、韓国の弱点(反日がポピュリズムであること)も知悉していると舌を巻きました。そして、日本の芸術界、すくなくとも文芸春秋なる芸術界の保守層は、このユーモアをユーモアで返せていないことが残念でなりません。

・通称「ジェシカ・ソング」の場面
 https://www.youtube.com/watch?v=2qxp6SBBI3c

・「パラサイト」のウィキペディアの記事
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%A9%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88_%E5%8D%8A%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E3%81%AE%E5%AE%B6%E6%97%8F
Posted by 泊 at 2020年03月03日 21:05
 ハンデルの表記の件、ややこしくてすみません。Handelを英語の発音でハンデルと表記しているのは、かれがイギリスに帰化した歴史を尊重しているからです。ちょうど、ウィトゲンシュタインを「ヴィ...」ではなく「ウィ...」と呼ぶようこだわるのなら、Handel氏にも適用されるべきとおもったまでです。
 ヴォルフ・フォン・ニーベルシュッツというドイツの作家はヘンデル(かれはドイツ語で呼んでいるので)を「今日のヘンデル」というエッセイでヘンデルをこうたたえています。

 「われわれはヘンデルが考えもしなかった時代の隔たりを認めるより仕方がないのである。ギリシャ・ローマはいわゆる華美と誇張を趣味とするバロックの時代よりも上演しやすく、われわれにとっては内的に近い関係にあるばかりでなく、極端に要約されたヴィンケルマンの「高貴な単純と静かな偉大」という言葉の助けをかりれば精神的に到達可能の距離になったのである。尤も、ローマも華美と誇張を知っていたと同じように、バロックも高貴と偉大を知っていた。事実ヘンデルの音楽はどれも堅実である。ヘンデルの音楽は音楽の精神から演奏されねばならず、宗教的には北ドイツのプロテスタント精神によって、哲学的にはライプニッツとデカルトによって、芸術性においてはイタリアによってはぐくまれ、崇高な厳粛にみなぎっている。後世のわれわれがヘンデルの音楽を創造しつつ正当に評価できるとすれば、それは芸術の事柄において以外にないのである。」(『バロックとロココ』に収録された竹内章の訳)。
Posted by 泊 at 2020年03月03日 21:11
泊さま
 ジェシカソングのこと、まったく知りませんでした。いいことをお聞き出来てありがたうございます。とても愉快なお話ですね!
 ヘンデルのお話、了解です。ただし、ヘンデルの音楽を「どれも堅実である」といふのは、にはかに同意できません。確かにヘンデルは、典型的なバロックの作曲家であり、我が国の「バロック」についての思ひ込みにはずいぶん偏りがあると思ひます。わたくしの印象では、バッハはバロックでもクラシックでもありません。私は一時期、ヘンデルのバロックオペラを立て続けに見る機会があり、バロックについての見方を一新したことがあるのです。私の感想ではヘンデルは良くも悪くも外連味の塊です。聴衆を驚かせることが好きで、はったりや壮大な誇張が多く、飽きさせず、ちょうど猿之助の歌舞伎のやうなものです。それは彼の宗教曲にも共通してゐます。「メサイア」など彼のバロックオペラの精神で書かれてゐるといへるでせう。彼は、美食家である以外にもロッシーニによく似た器用な天才である、といふのが私の率直な印象です。いづれにせよ、「パラサイト」には、バッハではなくヘンデルの音楽の方が似合ひであることは間違ひありません。
Posted by tajima at 2020年03月04日 00:28