2020年06月04日

クリプキの規則についての懐疑論

飯田隆氏の新著『分析哲学これからとこれまで』(勁草書房)で、クリプキパズルに対する氏の解決について読む機会を得た。他にもそれぞれに興味深い考察を含んでいるが、ここではクリプキパズルに関する考察についてのみ、思いつくことを述べておきたい。


氏の考えでは、クリプキパズルを「意味」を「意図」によって裏打ちすることによって克服することができるとするものである。(クリプキのパズルについては、2019年12月3日のエントリー「ヴィトゲンシュタインの数学論」参照)

しかし、意味を意図の場に移したところで、意図の同定のために有限事例に頼らねばならないのなら、何の役にも立たないように思われるかもしれない。なぜこのことによって、解決が見えてくると想定されているのであろうか?

それは、意味の理解には現れてきそうな誤解の余地が、意図には存在しないと思われるからである。なぜなら、自分が何かを意図しているならば、自分が何を意図しているかを知っているという強い直感が働くからである。たとえば、自分が「+」によって何を意味しようと意図しているかを、「2+3=5」,「4+1=5」…などの事例において、自分がどう答えようと意図しているかを反省することよって知ろうとすることがあり得るだろうか? もしそうなら、「+」の意味(付けの意図)は一種の心理実験によって知られるという事になろう。しかし意図的行為を為すにあたって、それを為した後でなければ何を為そうと意図していたか知られないというのでは、意図的行為が成立しない。意図的行為は、その実行に先んじて、その意図を知っているのでなければならないからである。その意味では、意図はアンスコムが主張するように、経験によらずに知られるのである。

もちろん、意図はそのまま実現されるとは限らない。しかし、実現するかしないか単なる偶然であるようでは、意図的行為ではない。意図されたように実行されることがあらかじめ期待される程度に、我々の遂行能力に一定の信頼がおけることが必須である。

このような能力への信頼性は、知覚の場合と類比的である。我々が知覚の能力を持っていると言えるのは、知覚経験においても、その表示内容(志向的内容)が、実際の周囲の環境のありさまを的確に捉えること、言いかえれば(特段の事情がない限り)知覚内容をその額面通りに受け取ることができるように、つまりその経験内容が世界をいわば「反映」しているという事に、一定の信頼がおけるという事である。このような信頼可能な能力こそが、知覚という経験を我々の知識の源泉の一つにするものであるとするなら、それと同様のことが意図的行為についても言えるだろう。つまり、我々にある意図的行為の能力があるかぎり、その意図が何を目指しているかは、当人にとって自己知を形成するはずである。

さて、このように意図の自己知が、意図的行為という経験類型を認める以上は認めざるを得ないことであるなら、クリプキのパラドクスを意図の自己知に基づいて免れる道が開けそうにも見える。おそらく、飯田氏の戦略はこの筋をゆくものであろう。

しかし、そもそもクリプキのパズルは、意味を言語の有限適用事例だけでは正確に同定することができない、という点に議論の核心を持つものであった。もし、意図の内容が同様に言語で表現されねばならないとしたら、どうして意図の内容についての知識だけは、かかるヒューム的懐疑を免れるのか?

たとえば「+」の意味を意図によって裏付ける際、一般的意図が個々の事例的意図の無限の事例を含意していると想定できるのだろうか? 「無限の事例についての心構え」のようなことが無理であろうという直感に基づけば、「+」の概念の理解は、無限に多くの適用事例の理解を含むと考える必要はないように思える。しかし飯田氏は、概念の理解には、これまで考慮したことのない事例についても決定されたものとして含まれていると考えておられるようである。この点はやや曖昧であるが。

言葉を使うとき、その意味は言葉の使用者の意図と独立に意味を持つわけではない。…つまりある適用条件を持つことを意図している。この意図は、タイプとしての言葉を対象とする一般的なものである。(p−249)

タイプとしての概念に対する意図であるかぎり、すべての適用事例をあらかじめ含意しているというのは、独断的ではないだろうか? どうして、概念の適用事例について解釈の違いが生じないと言えるのであろうか? 

もちろん、飯田氏は複数の人間のあいだに生じ得る解釈の複数性を問題にしているわけではない。しかし、単一の人間であっても、いまだ適用を考慮したことのない事例について、すでに決定していて、それを自分では心得ているはずだ、と言えるであろうか? むしろ、有限事例をもとに学ばれた概念にも、差し当たっては考慮されていない適用の複数の可能性が存在し、それがその後にわかる場合があるのではないだろうか? たとえば、「2−3」とか「2の−1乗」とか「2の2分の1乗」とか、当初にその概念が導入されたときには、そのような適用事例が考えられていなかったものではないだろうか? 

これは概念の変容の例であるという事もできようが、この変容の前後で全く別の概念になったというわけではないだろう。そもそも概念は、適用事例の拡張を通じて変容するものであると見なすべきであろう。

もちろん、クリプキが挙げたようなクワス概念のようなものを、可能な解釈の一つと見なすことは難しい。したがって、どんなに考慮されなかった可能性があるとしても、クワス解釈を自然に取るような「クワス主義者」は実際には存在しないだろう。懐疑論として想定されている以上、当然である。だが、我々はクリプキパズルを、単に解消すべき懐疑論とは考えない。むしろ、概念や意味についての我々の先入見を見直すきっかけにすべき考察と考えたいのである。

いずれにせよ、意図内容の理解があるとき、そのあらゆる適用事例についても決定されているものとして含意されていると見なす必要はないように思われる。

唯一問題になるのは、意図である以上、経験によらずに自己知を帰属できなければならないという要請である。もし、我々のように概念理解があらかじめ決定されていない場合が存在することを承認し、したがって意図の内容においても、当人の気づかない事例において、自己知を帰属できない場合があることを承認せざるを得ないとすると、自分が意図していながらその意図内容を知らないということがあり得ることになってしまう。つまり、意図の内容の知識の自己帰属は、常に承認できるとはかぎらないという事である。我々のとる立場はこれである。

これは、ソクラテスの対話術において典型的に見られるように、自分としては意味しているつもりであったとしても、つまり意味していることを意図していたとしても、その内容が矛盾を含んでいることが発覚してみれば、それを意図していたわけではなかったと認めざるを得ないということである。自己の信念の意味について、自己自身に絶対的権威があるわけではないことになる。ソクラテス的対話においてそのようなことが起こると、主体はもはや自分が信じていたままに、そして自分が意図していた意味のままに、信じ続けるようなことはできない。これこそがソクラテスの弁証法(対話術)であった。

そこで初めて、信念の真の意味についての問いが真剣に問われることになる。それは、信念主体の特権や権威が成り立たない場合があるからである。我々は、自分自身の信念内容を構成する諸概念の意味を、他の多くの信念態度を総合的(全体論的に)に考察して初めて、自分が一体何を信じていたのかを突き止めることができるようになるのである。我々は、実際には信じてもいないことを信じていると思い込んでいる場合もあれば、気づかずに真理を口走ってしまっていることもある。言語的概念が問題になるところでは、一人称の権威などあてにできないのである。

我々は、ある種の意図的行動においては、その意図内容についての自己知が成立ことは認めたい。たとえば、右手を挙げるといった意図的行動であれば、その行動において意図の自己知は明確である。右手を挙げようとしたのに左足が蹴り出されたりすれば、それは我々の正常な意図的行動能力が毀損されていることを意味するであろう。我々の意図的行動能力が成立するのは、特段の事情がない限り意図通りに行動が実現されることがアプリオリに期待できる程度に信頼性(正常性)という条件が存在する場合である。実際に期待されたとおりに意図が実現されなかったとしても、それが期待できる程度に正常性条件が成立していることが重要である。それが期待できるのは、身体的機構によって適切に制御が働いていると見なせるからである。銃で的を狙うような意図的行動では、銃の構え方によって銃口の向きが、巧拙の差はあれ、適切に制御されている。

このような制御としての意図的行動には、概念的内容が必ずしも必要ではない。草原でチータがインパラを捉えようとして追跡するような行動は、明らかに意図的行動と見なせようが、彼らが概念内容を操作しているわけではない。もちろん彼ら自身、言語も概念も所有しないが、第三者が彼らの巧みに制御された行動を意図的なものと認定することには何の問題もない。インパラの動きに合わせて右に左に体を切り替えて、追跡しなければならない。そのとき我々第三者が、チータの動きの目的合理性と、それを支えている制御機構を認定できるだけである。チータにおけるそのような意図の自己知(その中には自分の身体の位置などの自己知も含まれる)は、そのような制御機構の必須部分をなすはずだ。なぜなら、かかる非概念的自己知は、実際には制御に活用される情報そのものだからである。そのような意図的行動においては、意図の自己知の帰属はたやすい。

このことは概念や意味の「私秘性」などとは何の関係もないので、特に注意が必要である。チータの意図がチータ本人でなくてはわからないわけではないのだ。そもそも、ここでは概念が何の役も果たしていないのである。したがって、かかる場合の意図帰属は、もっぱら工学的な問題なのであり、心理的契機があるとしても、それは目指す対象と主体の身体の空間的関係についての情報的感受性としてだけである。「心」の果たす固有の役割など何もない。その証拠に、工学者がロボットを設計する際に、考慮するのは情報の伝達回路だけであり、ロボットの「心」ではないからである。

このような高等動物なら当然に帰属できるような意図(並びに意図内容の非概念的自己知)は、非概念的な知識として、クリプキの懐疑論を免れている。なぜなら、その懐疑論が対象とするのは、概念の適用事例における非決定性(多様な解釈)であるからであり、非概念的な情報の活用の行動能力の場合には、それが進化論的プロセスによって説明できる遺伝子構造であれ、それとも模倣と練習によって習得された技術であれ、クリプキの懐疑論に抵触するものはないからである。




easter1916 at 00:04│Comments(2) 哲学ノート 

この記事へのコメント

1. Posted by 御坊哲   2020年07月14日 11:50
 私は、7月11日の朝日カルチャーセンターにおいて、先生の講義を受けたものです。いつも真摯な態度で講義していただいてありがとうございます。先日の講義のおかげで、クリプキのパラドックスの理解がより進んだと自分では思っております。
 ただ一点、気になったのは先生がリシャールのパラドックスとして挙げた「100文字以下では表現できない最小の数」というのは、ベリーのパラドックスとするべきではなかったでしょうか。私もかつてそれをリシャールのパラドックスとして覚えていたことがあります。多分、昔間違えて紹介されたのが広まってしまったのだと思われます。
 
2. Posted by tajima   2020年07月14日 14:39
御坊哲さま
 コメントたまはり、また朝日カルチャーの講義においでくださり、ありがたうございます。
 お教へくださったやうに、例のパラドクスはリシャールの発見によるものではないかもしれませんでした。ポワンカレの『科学と方法』(岩波文庫)のp−200によると、リシャールの名前を挙げた後、「ラッセル氏はさらにもう一つかなり面白い二律背反を引いてゐる」と述べてゐました。それで間違へてしまったやうです。貴重なご指摘恐れ入ります。
 また、当日混乱して説明が不明瞭になってしまったところを、ここで近々もう一度論じてみるつもりです。よろしく。

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