2020年06月30日

意図的行動の自己知――「自由意志」の起源

本来の(自然的な)意図的行動能力は、人間以外の動物にも備わったものであり、もともと概念的内容を含んでいる必要はない。それは、動物の知覚が、概念的内容を含んでいない(少なくとも、その概念的自己知を含んでいない)のと同様である。

しかるに、意図的行動が意図的である以上、それがいかなるものであるべきかの自己知(少なくともその成否の区別の知)は含まれていなくてはならず、それは動物にも帰属可能なはずである。つまり、それは第三者(我々から)概念的に説明可能な内容を備えているが、当事者がそのような概念的自己知を持ってはいないかもしれないものである。

さて、このように中間的な位置を占める意図的行動は、我々人間において、その概念的内容が概念的に分節化されて表現されることによって、概念特有の構文論的分節化を獲得する。それによって、我々の行動は理由の空間に位置づけられる。それは、一方でその行動の正当化・理由付けの可能性と、他方でその行動のコミットメント(その行動をなした以上は、それによって続いてせねばならなくなる行動責任)のネットワークに置かれるという事である。たとえば、何かを約束したとしたら…、どうしてそんなことをしてしまったのかという問いにさらされ、その答えの用意がなければならず、また、約束した以上は果たされねばならなくなる責任が生じる。

いわゆるフォーク・サイコロジー(意図的行動を、欲求と信念の組み合わせによって、目的合理的な説明を与えること)の規範的な枠組みの中に置かれるものとして心的状態が分節化されるのは、ここにおいてである。

動物の場合にも、このようなフォーク・サイコロジー的分節化は可能であろう。動物に意図や欲求などを帰属できるという事は、このような分節化がある程度可能であることを示している。しかし、彼らにおいては、この分節化は構文論的と言えるまで判明な形を取ることは決してない。構文論的構造とは、たとえば組み合わされる欲求や信念の各要素が文脈を離れて判明に区別され、いかなる文脈においても各構成要素の同一性が確保されるという事である。

たとえば、肉食獣において、ある獲物が自分の食欲を満たすという事実的信念(認識)と、食欲という欲求内容との間は判明に区別されているとは言い難い。獲物は欲求を満たすべきものという相を帯びて現れており、その現れが対象の欲求中立的事実要素として、純粋に事実的内容として信念内容になることもなければ、欲求の方もただの欲求的要素として純化されることもないだろう。主人の足音を聴き分ける飼い犬が、その認識と行動意欲(主人に駆け寄るなど)とに、彼の行動を分節化しているとは言い難い。

このようなことは通常の我々の意図的行動においてもほぼ同様である。日常生活は、感情的陰影を通じてそれらの分節化が不十分に混ざり合っているに違いない。むしろ、概念的分節化の方が事実を過度に合理的に簡略化しているのである。

動物の行動についても、ある場合には内容を伴った意図を帰属可能だとはいえ、彼らがそれを理由の空間に位置づけるという事はありそうもない。それは反事実的可能性の理解を伴わねばならないが、彼らの「思考」は、いかに精密になろうとも、現実の環境を大きく超えることはないからである。動物に内容を持つ意図を帰属することはできるが、その自己知を帰属することはできない。なぜなら、内容の自己知のためには、それを理由の空間に位置づけることが不可欠だからである。動物の意図は、現実の行動の制御にかかわる部分のみ自己知を伴う。たとえば身体や環境の位置など。それに対して、たとえば「あのチータはインパラを捉えようとしている」という意図帰属は、チータ自身が彼の獲物をインパラとして捉えていることを含意しない。

思考的内容を持つ意図の一人称的自己知が、(アンスコムの言うように)経験によらないで、また(セラーズが言うように)非推論的に獲得される知識であるとしても、それは言語の習得と行動の能力の習慣的獲得を前提にしたうえでのことである。したがってそれは、意図を帰属するフォーク・サイコロジー的な概念的解釈を一人称(私)の心的内容に適用した結果であって、その逆ではない。つまり、一人称的に確保された意味理解を他者の心的状態へと類推適用するわけではないのだ。

したがって、内容を持つ心的状態の自己知に関する限り、初めから直接直観に与えられるわけではなく、すでに言語と公共的な理由の空間の秩序に服さねばならず、ここに独我論の余地はない。他者の心に対する独我論的な懐疑論が好んで例に引くのは、痛みの経験などである(そのような例では、あたかも痛みの自己知が与えられているのが一人称的であるのに、それが三人称的に現れることは決してない、と議論される)。しかし痛みのような感覚は、そもそも志向的内容を欠くものであることに注意すべきである。

そのような経験も、クオリア(感覚質)は持つだろうと言われるかもしれない。しかし、クオリアの同一性のためには、経験対象の同一性に依拠しなければならない(たとえば、音程の感覚質の同定のために音叉が必要となるようなもの)。また、クオリア経験の類似性は、クオリアという対象の同一性ではなく、経験全体の類似性であること、したがってクオリア的同一性を保つ感覚対象(質そのもの)を、感覚環境という文脈から独立して捉えることができないこと、それゆえ、感覚経験を記述し、そのために感覚環境に言及する中で、公共的な要素を含まざるを得ないこと(たとえば、歯痛と火傷の傷の区別などを区別するために、身体部位や傷の原因などに言及せざるを得ない)を考慮すれば、感覚が独我論を支える要素とはなり得ないことがわかる。痛みは志向的対象や内容を持たない経験なのだ。
 
さて、他者の行動の意図的内容帰属から、我々自身の意図内容の概念的自己帰属が獲得される。こうして概念を使って自己の意図の知を自己帰属したうえで、さらに自らの行動の分節化を推し進め、それを基本単位にしつつその高度な構成を組み立てることもできる。概念を組み立てるように、我々の基礎的行動を組み立てるのである。こうしてダンスやピアノ演奏などの複雑な身体的運動の技術が習得可能になり、それが習慣的能力の手持ちの道具となる。そうなると、その意図がセラーズの言うような「非推論的自己知」となることもできるだろう。やがて、それらの高度な構成もまとめて一つの意図的行動となり、意図的行動の範囲を拡大する。

これらのありふれた観察から言えることは、我々の意図的行動能力の拡大が、習慣化によって可能であるという事である。このことは、我々の自由が能力の発揮であるという考えを強化することにつながる。意志の自由という観念が、ここから自然に出てくる。なぜなら、一方で意志は、ごく限られた基礎的行動能力において、必要となる選択(状況への適応)――例えば自転車に乗るとき、体重が右に傾けばハンドルを右に切る…などといった適切な行動選択を含んでいるが、他方で、より複雑な行動を習慣化して行動能力へ組み込んでいくことによって、基礎的行動能力の領域を次々に拡大することができると考えられるからである。

ここから、「自由意志」の無制約性・自己原因性の錯覚が生じることになる。この錯覚は、能力を使って能力を拡大するという近代特有の固定観念に伴って生じがちである。この固定観念は常にはっきりと意識されているわけではないが、資本を使って資本を増殖する資本主義的生産活動に基づいて社会の共通の欲望になっていると言ってもよい。

もっとも実際には、資本の増殖にしても、単に資本がその自然本性のままに増殖しているわけではない。資本はイノヴェイティヴな領域に投資されて初めて利潤を生み出せるのであり、イノヴェイティヴな領域は技術革新や鉱脈発見など偶然的な幸運によるのである。

能力の拡大が、それ自体能力の本性であるかのような錯覚が生まれるのは、成長技術の進歩が、そのモデルにあるからであろう。能力は成長とともに発現し、技術の向上につれて進歩すると観念される。

成長は遺伝的本性の発言として連続的で自然な顕在化と見なされ、他方技術は、概念的な構成や組み合わせによって自然本性をはるかに超えて高度化していく。この両者が重ねられることによって、無際限に進化する能力といった(錯誤的)観念が容易に生まれるのだ。

また、習慣として反復可能となった技術は、いつでも行使可能な能力の一部として、さながら新たな語彙として登録される。その行使も不行使も選択可能なものであり、またそれらを構成する概念的諸部分もまた選択可能なものである。それは、言語というストックがいつでも使用可能なものとして習得され、適切な条件の下で選択可能なものとなっているようなものである。

このように、我々の技術化された能力は、それ自体選択可能なものという性格を帯びることになる。かくて、能力の発揮としての行為は、選択されたものという性格を獲得し、それを選択する「自由意志」を想定させることになる。

このような想定も、個々の行為に対して目的合理的な観点から、その適切性を吟味し得る議論の場を設定するという点では、無害であり、有益でもあろう。選択可能な行為のうち、実行された行為が目的に対して適合的であったかを吟味できるのも、自由意志によって他の行為の選択も可能であったはずだから、というわけだ。

しかしながら、目標自体が「自由意志」で選択し得るかのような幻想を与える点では危険である。我々は、選択肢がすでに明確である習慣的技術を自由に行使するようには、目標を自由に設定できるわけではない。

「能力が能力を拡大する」という自己原因性を自由意志に与えてしまうという誘惑は、世界に無制約的存在者・超越的存在者(ヌーメノン)を導入するという結果につながる。カントが第四アンチノミーで、行為の因果的連鎖を初動する自己原因的存在(これをカントは「必然的存在者」と呼ぶ)に言及しているのは、この典型である。この存在者は、自らは因果の結果ではないのに、因果の連鎖を引き起こす力を与えられている。

カントは、近代科学が悟性の能動性に支えられ、説明概念を新たに次々と生み出すことことを通じて新たな説明と理解をもたらすことを十分に承知していた。カントのカテゴリーは、かかる概念構成の基本的形式を表現するものであった。

しかし、かかる概念と概念的理解の創出そのものは、因果性に基づいて理解できるものではない。つまり、我々が直面する諸問題を理解し、解決すること自体は、因果的に決定されているわけではない。ところがカントは、あたかもそれ自体悟性の能力であるかのように見なしてしまう。そして、それに準じて、ルーティーンワークの行動を始動する能力と区別して、世界の中に新たな意味をもたらすような創発的行動を始動する能力をも、実践的理性に与えてしまう。

もっとも、この因果に基づかない行動の初発の起動については、カント自身不安に感じていた兆候がある。それを、道徳的秩序の中に押し込もうとしているからである。彼はそれがあくまでも偶然のものではなく、意志に基づくものと見なそうとする。それも気ままなものではなく、信条Gesinnungとして採用された原理(格率)に則ったものでなければならない。すると残るのは、この原理が、道徳律に適う事のみを動機として採用されたものかどうかという事だけだ。

カントには、試行とか冒険は存在しない。善かれと思ってやったことが災いを招いたり、何気なく為したことが大いなる果実をもたらすという偶然や帰結主義的考慮が排除されているのである。

しかし、その道徳律が習慣的惰性(カントが「受動的」パトローギッシュと呼んだもの)を完全に免れた合理的普遍化可能性をもたねばならないとすれば、その制約は極めて形式的なものとならざるを得ない。それが初発の行動の起動の理由をあらかじめ与えることなど到底不可能であろう。我々の新規の行動のよしあしは、その帰結を見て判断するほかないのだ。

そもそも行為の善悪の規準を、普遍化可能性といった純粋に形式的な制約からひねり出すことは不可能であり、一般に概念の生成や可能的経験の拡大を、帰結主義と遡及的時間性抜きに考察ことには無理がある。それは必ず何らかの環境的要因への言及を含まざるを得ない。ある習慣的行動特性が生存に適合的か否か、またいかなる意味で適合的かは、その時点の環境に依存するからである。たとえば、中空の骨格は、恐竜時代には、その巨大化と効率的な呼吸に役立ったが、酸素密度が高まった後の環境では、(鳥類の)飛行に役立つようになるようなものである。

カントにおける偶然に対するかかる敵意は、本当のところは自由に対する恐怖からくるものであり、悪に対する恐怖のあまり、一種のパリサイ人的律法主義に陥るのだ(悪に対する恐怖が、それ自体悪であるにもかかわらず)。パリサイびとは、律法を厳格に遵守することを至上目的にするあまり、たとえば安息日に人を癒すことさえ罪と見なす。本来安息日は人々に癒しと安らぎを与えるために制定された律法であるが、人々から癒しと安らぎを奪うために使われてしまうのだ。福音書のイエスは、このような律法の倒錯と闘った。

パリサイびとがかかる些末主義と律法の無意味化に陥るのは、厳格主義を強いることにある種の余剰快楽を得るからである。このような密かなる自己満足を、ニーチェはルサンチマンと呼んだのである。それは、実質的な利をもたらそうとするものではない。むしろ、禁欲主義に立てこもって、自分からあらゆる受動的パトローギッシュな喜びを遠ざけることによって、観念的に他者に対する優位に立ち復讐しようとする暗い情念である。これは、パトローギッシュなものを含まない点でカントの道徳律に酷似しており、まさに「悪魔的なもの」に接近する。

つまり、義務ゆえにのみなされる道徳や善行は、たちまちルサンチマンに転落し、逸脱や冒険に対する激しい敵意の現われでしかないことを暴露する。なぜなら、実質的意味を奪われた厳格道徳は、ただそれによって人を罰するだけの拷問道具になるからであり、その本質において悪魔的なものに転化するからである。

カントは、人間の精神の自由の中に根源悪を見た。それは決して悪そのものを目指す悪魔的な意志ではない。しかし、悪が倫理的意義を持つ以上、それはパトローギッシュな自然の中に存在するものであってはならない。つまり意志的なもの・自由そのものに根を持たねばならない。それによって、悪は神の責任ではなく我々の責任になる。

しかし、意志がなぜ悪への傾向性をもつのか?悪への傾向性とは、意志が自らの格率を選択するとき、常に第一に道徳律から決定しない弱さからくるとされる。それは悪を選択する悪魔的意志ではなく、善(道徳律)への徹底的な集中を欠く弱さに過ぎない。しかし、このカントの理路自体の中に、その密かなルサンチマンの形で悪魔的なものが忍び込んでいるのである。




easter1916 at 23:21│Comments(2) 哲学ノート 

この記事へのコメント

1. Posted by ばいなり   2020年07月03日 14:12
失礼します。
これって、人間には自由意志があるかないかといったリベットの実験とか出てくる話とはちがって、カッコつきの「自由意志」なるものがなんで想定されたのか、その有用性と害悪、のような話でしょうか?それは田島先生が反実在論者であるということと関係していますか?
2. Posted by tajima   2020年07月03日 21:17
ばいなりさま
 コメント恐れ入ります。仰るやうに、「自由意志」なる錯覚が、いかにして生じるかを論じてをります。私は、問題を解決する点に真の自由を見るべきであり、それは幾何学の証明のやうに事後的にのみ自由と認定されるのだと従来から論じてきました。そしてその立場では、問題の解決が可能か否かどちらかであるといふ排中律が成立せず、その限りで反実在論が不可避になります。今般の議論でもその基本は同じですが、「自由意志」に次の点で妥協してをります。つまり、動物と共通するやうな基本的運動能力の行使には自由意志によると言ってもいい場合があるといふこと。ただしそれは、意図的行為の目的設定を含まない限りだといふことです。

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