2025年10月17日

Weber問題

 佐藤俊樹氏の『社会学の新地平―ウェーバーからルーマンへ』(岩波新書)を読んでみた。なかなか読み応えのある名著である。
 ウェーバーは、資本主義の成立にあたってプロテスタンティズムの禁欲倫理が重要な役割を果たしたという仮説を立てたが、佐藤氏によるとその主張には、いまだ重要なミッシングリンクが残っている。なぜなら、プロテスタンティズムの倫理によって、神の選択と個人の決断と言う二本立ての決断によって、(自分が選ばれていることを確証するために、己れを勤勉へと駆り立てる決断をすることによって)勤勉が励起されたとしても、それが合理的社会化につながる必然性はないからである。その個人的勤勉が、もっぱら個人的成功をもたらすだけで、社会の合理的組織化に向かうとは限らない。シャイロックやスクルージの場合がそうである。
 佐藤氏は、合理的社会化にもプロテスタンティズムが貢献したと、ヴェーバー自身が考えていたとして、『プロ倫』から引用している。

 社会組織の点でカルヴィニズムが明らかに卓越していたという事実と、右のように現世に張り巡らされたこの上もなくかたい束縛から内面的に個人を解き放とうとする傾向が、どのように結びつき得たかは、さしあたって一つの謎に見える…しかし、それは奇異に見えたとしても、まさしくカルヴィニズムの信仰による個人の内面的孤立化の圧力の下で、キリスト教の「隣人愛」が帯びざるを得なかった独自の色調から、生まれたものなのである。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫邦訳下p−35)

「隣人愛」に訴えるヴェーバーの議論は、全く説得力を欠いている。というのも、神による選びが人間にはわからないし、人間の努力にも一切無関係であるということから来るプロテスタントの極端な個人主義は、「隣人」に対する無関心を帰結するほかないからである。実際ここに付された原注では、「すべて純粋に感情的な――だから合理的な性質を持たない――人間的な対人関係は、…容易に被造物物神化ではないかと疑われる」と記されている。このような環境では、諸個人の間に合理的(予知可能な)関係を取り結ぶことも協労も困難である。
 ところがヴェーバーは、かかるむき出しの利己主義者たちの社会を想定するのではなく、規則や契約によって合理的計算が立つ社会、とりわけ自由な意思決定に基づく合理的協労が成り立つ社会を念頭に置いているのだ。特に法人組織のように、その内部において空間的・時間的に自由に決断し協労し、対外的には法人として連帯責任を取る組織を考える。これこそが資本主義を支える近代的組織だというのである。ここで合理的と言うのは、業務と人格を分離することであり、それによって業務の定型化、脱人化、文書化などが促進される。


 結局、このような合理的社会化のためには、プロテスタントによる禁欲倫理に加えて、もう一つ別の要因が必須である。それを提供するのが「法人」の観念である。それは「商事会社」の研究という形で、ヴェーバーの経歴の中では、宗教倫理への関心より先に存在していたものであるという(p−116,122,129参照)。歴史的にはフィレンツェに発するものらしい。
 また、『プロ倫』のモデルケースとなったカール・ダーフィット・ヴェーバー(マックス・ヴェーバーの父方の伯父)のヴェーバー&商会(麻織物の問屋商会)の経営にも見られるものである。なぜなら、カール・D ・ヴェーバーの経営上の新機軸は、より高級な麻織物生産に特化するために技量に優れた取り手を選抜する一方で、市場の要求を精査し、それに合わせるように織り手に細かい要求を課すなど、生産者に対する統制と要求を強化するものであったからである。そのため、生産と消費をつなぐ中間管理職の自主的で柔軟な判断を組織するものであった。
 このような中間管理者は、単に上司の命令を伝達するような単純な統制組織の歯車ではなく、ある程度自由に決断を任され、現場に即応できるものでなければならない。これこそがヴェーバーが見ていた近代的組織の特徴であった。
 ここで、イスラム承認の場合を参照することが有益である。佐藤氏は、黒田美代子氏(『商人たちの共和国』)のつぎのような一節を引用している。

(イスラム経済の)個人という単位の単位制が尊重され、それからの逸脱が厳密に禁止されている状況の下では、商業形態を横断する人を中心とした多角的な経営は、活動の最大化のほぼ唯一の道なのである。…利潤の増殖という点では…優秀な協力者との協業により資本を増大させ、利潤を上げては投資の量を増やすということも可能である。しかし私的企業のひとを超えた法人化が難しいス−ク経済の場合には、拡大する企業運営のための中心的センターを構築することは、なかなか難しく、特定の限界を持つ。そもそもイスラーム的発想、その世界観には、経済的虚構、〈虚無〉そのものである法人という概念は存在しないのである。(同p−127)

おそらくは、「法人」並びにそれを取り巻く関心は、イスラム社会では物神崇拝の一種とみなされるのであろう。
 実際、私が資本主義的組織への関心を持つきっかけとなったのが、イスラム圏の経済に興味をもって調べていた時、イスラム圏では「大商人の家系は続いてもせいぜい3代か4代である」という文章に出会ったからであった(加藤博『イスラム世界論』p−119)。加藤氏は続けて次のように書いている。

前近代のイスラム世界では、高度に分業化された経済を背景に、当時の人々には多くの投資、雇用機会が開かれており、何代にもわたって親の後を継ぎ、承認を続けることは必要なかったし、好まれもしなかった(同p−120)

つまりは、イスラム社会は、ある意味では過度に経済合理的だったということなのだろう。純経済合理的に考えるなら、親の後を継ぐ必要など何もない。その時々の市場に合わせて、もっとも収益の上がる所に投資すればいいだけであり、家業などいつ廃業にしてもいいのである。このような態度だと、技術を集積したり、長い時間をかけて改善したりするというインセンティヴは働かない。それでは、産業革命という飛躍は難しい。
 カール・ダーフィト・ヴェーバーは彼の父カール・アウグスト・ヴェーバーの家業を立て直した。つまり、マックスの祖父の麻織物業が、イングランドの機械織の技術に太刀打ちできなくなったとき、新機軸を打ち出さねばならなかったのである。
 イスラム社会だと、そんな苦労をする必要はなかったであろう。自分の家業が立ち行かなくなれば、さっさと別の業種へと移ればよいのだ。カール・ダーフィトの態度には、家業への深いコミットメントという、純経済的には非合理的な動機が存在する。
 佐藤氏は、このようなコミットメントの起源が工業に求められるというヴェーバーの考えを紹介している(同p−130)。長い時間と大きなリスクを伴う技術革新のためには、自分個人の利益を超えた家業へのコミットメントが不可欠であろうし、今の失敗が将来の利得として回収されるためには、時間を超えた分業・協労の意識が必要であろう。
 また、それらの全体が何らかの集団的価値に貢献しているという信頼は、単に利益とリスクが時間的に分散しているというだけでなく(なぜなら、それだけなら異種領域への分散投資で十分であろうから)、当の業種(家業)が担う何らかの実質的社会貢献の意識が必要であろう。
 実際、いわゆるヴィジョナリー・カンパニーにおいては、社の理念が創業の精神として掲げられていることが多く、そうでない場合でも、社の「伝説」として共有されているものである。例えば「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむるべき自由闊達にして愉快な職場」を謳い「日本再建・文化向上に寄与する」目的を掲げたソニーの場合。
 かかる(経済合理性を超えた)非合理的理念へのコミットメントが、家業への専心を通じて、社員の創意・工夫を引き出し、長期にわたる技術革新への投資を可能にするのであり、またその意識が多岐にわたる意思決定にもかかわらず(しかもその多くに失敗や見込み違いがあっても)、組織を統合し、分裂より多様性の利益をもたらすのである。
 本田技研の創業者本田宗一郎は、自らの成功体験から、空冷エンジンに固執していたが、水冷エンジンへのシフトを主張する部下(河島喜好、久米是志ら)による強い「進言」を受け入れて自ら第一線から身を引いたと言われている。これほど劇的なものでなくても、首脳部の決定に反して、どこかの部局や地方工場などで代替的技術プロジェクトがひそかに押し進められる(そして、それがある程度成功の見込みが立った時、首脳部にあげられる)といった企業ドラマは、至る所で目撃されるだろう。これこそが、佐藤氏が描き出す「意志決定の分業・協労」の日本企業における姿と言えるだろう。
 極めて激しい技術革新競争の環境下にさらされた企業は、大きな冒険をおかさざるを得ず、同時にそのリスク・ヘッジをせねばならない。当然、社の全体を巻き込んだ派閥抗争・人事抗争につながるが、それが破局につながらないのは(勿論、裏切りによって外部のM&Aに屈する場合や「外資」への技術流出に終わる場合もある)、組織への非合理的コミットメントがあるからである。これらの諸例のうち有名なものはよく知られており、いわゆる企業小説にも描かれている。
 わが国で「家業」は個人の私的所有物とは見なされず、人格から独立した業務として半ば公共性を帯びたものと見なされた(法人)のは、もともと業務が土地とともに下賜された地位であったからである。それは家業単位で与えられたから(知行)、血統が絶たれたら養子をとっても「お家」を維持し、一族の食い扶持をつなぐ必要があった。こうして家業の非人格的性格が強まった。これが予見可能性や計算可能性など、合理性という性格を獲得しやすくさせ、のちの産業革命には有利な土壌を形成したのである。

 さて顧みて今日、資本主義創生期にあったかかる家業への献身といった文化は、もはや廃れつつあるように見える。合理的組織への非合理的コミットメントのエートスは、プロテスタントの倫理よりは長続きしたものの、今日のグローバル大企業の技術の実態には程遠いものになっているのではないか? イーロン・マスクのような経営者は、「家業」に固執することなく、M&Aを繰り返して肥大化し、トランプのような野心家は、もともと家業(不動産投機)の「技術」(?)などに頼ることなく、やくざまがいの恐喝によって、のし上がってきた。圧倒的な技術独占さえ打ち立てれば、技術開発に頼ることなく巨大な利得が期待できるからである。
 このように家業にこだわらず社会の全分野にわたって支配を及ぼし、やがては政治権力をも手にしてゆく企業の帝国化は、ずっと小規模ながら我が国の地方都市には時々見られるものである。そこでは、例えば地方新聞から始まり、地方局テレビ事業や交通網、スーパーなど小売業など広範囲の事業を統合して巨大コンツェルンを形成する。そしてやがては県知事や県警本部長にまで影響力を及ぼす。大方は地方の名門高校閥の中から、ほぼすべての企業幹部を採用し、地方名望家層を形成するのである(都心の名門大学より地方の名門高校閥が強力なのは、中央に出たエリートは故郷に戻ってこないのに対し、高校閥は地方で容易に利益独占・利益融通のネットワークを形成できるからである)。
 いずれにしろ、家業への専心によって支えられた組織の合理性につながるエートスは影を潜め、市場の合理性に代わって弱肉強食のジャングルの掟が支配しつつあるのではないか?つまりは、あらゆる組織から暗黙の組織理念による規範的拘束が失われ、職業自体から来る倫理的関心が消え去ったのである(とりわけ深刻なのは、中央銀行、連邦最高裁判所、大学などにおける権威の崩壊である)★我が国においても、安倍・菅政権において似たようなメルトダウンが、内閣法制局や学術会議の扱いをめぐって起こっている。
 市場が市場価値以外の一切の規範をメルトダウンさせていく中にあって、社会の骨格と言うより軟骨のように、市場を含む秩序を支えるためには、もはや「家業」や「法人」への忠誠によるのとは違った公共的理念を見出す必要があるのではないか?それも社会の実態とはかけ離れた理念としてではなく、社会の中で活動しつつある関心の結節点としてである。   
 例えば、職人とか芸能の分野では、ただ売り上げだけが問題ではなかった。芸それ自体の価値や伝統といったものがある。いわゆる職人気質といったものだ。それは客の評価(売上)と不可分ではあるが、客の評価だけがすべてではない。
 当座の客の評価とは別の、より長期の観点からの評価というものがある。それは伝統的価値評価を前提としているが、そのままではやがて陳腐化してしまう。かつては我々の思考と感性、即ち経験の可能性を広げるのに役立ったものであったのだが、やがてそれを縛るものになってしまう。それを突破(ブレイクスルー)するものが不可欠となるのである。それが丸ごと新奇なものとして到来することはあり得ない。そのようなものは、新奇なものとしてすらとらえられないからである。
 ブレイクスルーは複数の家業や伝統の交差から生じる。恋(もののあはれ)の心情表現を展開した和歌の伝統に、中国の歴史における権力闘争の骨格を与えた『源氏物語』(両者を結び付け得たのは、定子の栄光と没落の悲劇が身近なところにあったからである)、グレゴリアン聖歌の神聖な伝統に、市民の俗謡表現をヴァリエーションとして添えたフランドル楽派のポリフォニー(そこで神聖な音楽は、反復されるバッソ・オスティナートを担当した)、はたまた町人たちの閉じた社交の座興であった連歌に、業平の『東下り』や西行の旅日記の伝統を取り入れた芭蕉の俳諧(ここでは、江戸時代においてかつてない規模で全国に広がる算術や儒学などの学問や謡曲や囲碁などの諸芸のネットワーク、また伊勢参りなどの空前のツーリズムの流行が背景にある)…など。
 これらはいずれも、偶然の出会いに基づく新しいものの始まりであり、予期を超えたものであるから、プロテスタンティズムの倫理とか法人の組織原理のような反復可能・模倣可能な類型ではありえない。むしろ、そのつど新たに生まれる自由の創発であり、事後的にのみ自由と認定できるものであり、事前に適用可能な技術的パタンではない。カントでいえば、悟性に属さず、判断力の領域に属するもの。
 これらが今後、資本主義的活動の範囲内において繰り返されるものなのか、それともその枠を超えて新たな未踏の文明へと我々を導くものとなるのか、あらかじめ予断できるものではない。


easter1916 at 22:41│Comments(0) 哲学ノート 

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