2019年10月06日

「俗情との結託」

ミルの言葉についての小論についてコメントをいただいた。

科学者や法律家や政治家や、そんなエリート集団は公害汚染を「撒き散らし」「なんの責任もないとのたまい」「卑しく」「阿呆で」「飲めや歌え」と「浮かれ騒ぎ」「がっぽり稼ぐ」輩だと単に煽っているのではありませんか?

と仰るのであるが、もちろん私は一部でそのような趣旨の主張を確かにしているのである。そしてそれを正当な主張だと信じているのである。ただし、それをそのような事態が生じているわが国の社会制度的背景について、その構造的問題をミルに託して浮き彫りにしつつ論じていたのである。

ところが、「構造を浮き彫りにする」ことが行われているとは読み得ず、ただ「煽り」しかないと言う。

私の主張が間違っているのなら、その根拠を語ればいいだけの話だと私は書いた。コメンテイター氏は、それは一切書かず、「煽りだ」と書いただけで何か批判した気でいる。何とも不思議である。

おそらくコメンテイター氏にとって、「煽り」ということは、それだけで非難に値するとてもひどいことなのだろう。「煽り」という言葉の意味は、扇動とか、情動に訴えて自説に有利に聴衆を導くような態度のことであろうが、私にはそれのどこが悪いのかわからない。批評的議論では、ときには理性や論理ばかりでなく、感情や(怒りや羞恥心などを含む)全ての情動を総動員すべきだと思うからだ。

この点で、少し思い当たることがある。私は批評や論争を広義のイデオロギー闘争、政治闘争の一種と見ており、そのため単に事象そのものや論点を浮き彫りにするだけでなく、時には論敵の愚かさや卑しさを浮き彫りにすることも必要だと考えてきた。このような人格批判は、いわゆる「学会」の作法とは食い違うことはわきまえているが、政治闘争として批評活動に従事する際にはそれほど頓着すべきことではない。

そのことが、政治闘争の経験がない連中から見ると異様に見えるのかもしれない。その連中はたいてい、相手を追い詰めない「ごっこ遊び」のような議論に終始するのだが、それは実は自分が追いつめられることを避ける小ずるい護身術に過ぎないのだ。そこからは奇妙なシニシズムが体臭としてにじみ出ることになる。つまり、常に「結論にはコミットしませんが、取りあえずネタとしてこんなことを言ってみただけです(なんちゃって)」といった(笑)付きの発言に終始することになるのである。

ともかく私は、学会の作法に反して、主張の誤りは単に愚かさの現われにとどまらず、何らかの実存的な邪悪さの現れであると考えるマルクス主義的な批判手法の伝統を幾分か受け継いでいるのかもしれない。もっとも私自身は、こと政治論の領域では唯物論は退けるべきだと考えているが、マルクス主義以外にも、たとえばニーチェが似たような人格批判の手法を行っている。たとえば、キリスト教の信仰は愚劣であるばかりでなく、ルサンチマンといった卑しい心性の現われであるとして、信仰者の人格のトータルな批判に及ぶのである。議論が空疎に流れ、言説が議論の身振りに過ぎなくなる今日、ニーチェの人格批判論法がエッジのきいた批評として見直されるべきではないだろうか?

それはともかく、ミルの言葉に即して私がいかなる構造を浮き彫りにしようとしていたかは、もとの小文だけで明らかであるし、おまけに小学生でも理解できるような解説まで付け足したので、いまさら何も言うことはないが、とはいえ「俗情との結託」についてはいささか解説が必要かもしれない。というのは、「反知性主義」とか「ポピュリズム」に関しては、どこかの百科事典でも見れば明らかだが、「俗情との結託」に関しては、大西巨人の議論に密着して、その批評的骨格をよくよく会得しなければ、使い勝手がいいとは言えないからである。それだけ、論争構造が複雑なのだ。

それはもちろん、単純な「悪」のラベリングではないばかりか、イデオロギー的ラベリング(たとえば「人民の敵」といった)でさえない(もっとも私のように「人民の敵」をスターリン主義者のようにではなく、イプセンの意味でのみ使う場合は少しだけ複雑であるが)。

大西巨人のもともとの批評(1952『大西巨人文選1新生』みすず書房所収)では、陋劣・低級な今日出海の作品ばかりでなく、新日本文学の野間宏が同じくその射程に入っていた。このことだけから見ても、この概念のややこしさが理解できよう。コメンテイター氏は、俗受けしそうな一般大衆の価値感情におもねるような「エリート批判」のようなことが「俗情との結託」であると考えているようだが、そうではないのだ。たとえば、ワイド・ショウなどで声高に垂れ流されている「庶民感情」(たとえば、カルロス・ゴーン氏の給料が高すぎる…とか)などのことを意味しているわけではないのだ。

大西は、今日出海の作品の中の三木清という登場人物が、手淫という手段でおのれの性欲を処理するということをせせら笑い、一人前の男が女郎屋通いもできないことを見下している点を、鋭く批判している。その文脈では、「俗情」とは、一般に建前として流通している倫理原則のことではないし、大衆の普通の倫理感情のことでもない。一般に建前上、女郎屋通いがいいこととは考えられていないし、普通の大衆も本音でもそうは考えないだろう。そのように広く流通している点に「俗情」の本質があるのではないのだ。

己れの生活の中における倫理的反省において矛盾や葛藤に悩む人物(例えば作品中の三木)をしり目に、そんなことで悩むこと自体をせせら笑う今日出海が依拠している暗黙の「常識」――それが「俗情」なのである。今が女郎屋通いに何の痛痒も感じないでいられるのは、売春婦をもともと自分と対等の人間と見ていないからであり、そんなことがまかり通るのは、今日出海が金と権力にものを言わせて、異議申し立てもできない社会的弱者(売春婦)を搾取し、踏みつけにできる立場にいるからである。ちょうど、従軍慰安婦を相手に威張りかえっている最低男たちのようなものだ。

したがって、ここで「俗情」と言われているのは、今日出海の「常識」を支えている買春男の卑猥なニヤニヤ笑いであることになる。それらは常に暗黙に行使される暴力であり、相手が泣き寝入りしてくれる限り安泰であるが、一たび抗議の声を上げるや、金切り声を挙げて、自らの所業を否認することになるシロモノである。

ここまでは比較的わかりやすい話だ。問題は、野間宏の『真空地帯』が、同じく「俗情との結託」として批判されているということだ。大西の野間への批判の中心は、軍隊が世間一般とは違った論理と倫理が通用する特別な社会と見る点である。大西は、どんな特殊な事情の下でも、あくまでも普遍的な倫理や意味理論が通用すると主張し、それをこそ闘いの原点に据える。つまり天賦人権論に似た原理主義的立場である。

大西に鋭い批評的洞察を与えるのがこの「原理主義」なのだ。氏は「民主主義的立場」を逸脱してまで人権原理主義を貫く。ここで、「俗情」は「人民の敵」の敵として立ち現れることになるのだ。革命的勢力の中においてすら、「人民の敵」であることがいかに必要なことか――そのような文脈が示されているのである。大西が立ち向かう俗情の側は、自らの原理を持っているわけではないし、それを明示できるわけでもない。ただ、そんなことをあげつらうのは野暮であるとして、ただせせら笑いニヤニヤ目配せをするだけだ。

野間の作品中の人物(木谷)は、「輸送中の軍事物品を当番兵とぐるになって盗む」(p−230)ような窃盗犯に過ぎないが、それに対し野間は「木谷の事件、罪は確かにそのすべてをこの軍隊に帰すことができる」などと素っ頓狂な擁護をしているのだ。大西の批判は、ただ軍隊の内部でも外でも窃盗は罪だというまるで当たり前のことを言うに過ぎないが、そのことが野間のような人物に対しては、ことのほか鋭い批判的エッジを持っているのである。なぜなら、過酷な政治闘争においては、ともすれば力関係にのみ目を奪われて、規範的議論がなおざりにされがちであり、それが闘争そのものを致命的に棄損してしまうからである。

大西の問題意識は「再論 俗情との結託」(1956)においてさらに詳しく展開されている。そこで氏はあくまでもレーニン流のマルクス主義的階級闘争政治観に立ちながらも、それを乗り越える論点を潜在的に展開しているので注目に値する。それは、いかなる軍事的・国家的機関といえども、政治闘争の現場である以上は、単なる力関係に還元されず、規範的議論の現場となり得るという指摘である。具体的には、結局『神聖喜劇』という巨大な作品に結実されて、大きな説得力を持つに至った主張である。これは私のような非唯物論者にとっても、十分納得のいく主張である。

件のコメンテイター氏の用語法を見れば、氏が大西の彫琢した概念使用のすべてを無視し、文芸批評の伝統をないがしろにして、ただのペダントリーとしてカッコを付けているだけであることが明らかになるのである。まことに啓発的な事例であるので、あえて一言するゆえんである。
  

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2018年11月02日

カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』

人は自分の生活、自分の感性が本当に自分のものなのか、いぶかることがあろう。自分の考えが誰かからの借り物にすぎず、自分のちょっとした仕草やクセさえ、テレビや映画の真似事であるのに、それを忘れていることがある。たいがいの我々の欲望は他人の欲望の模倣であり、ほとんどの思考の断片やその表現は、他人の言葉の模倣から始まっているのであるから、それも当然なのだ。カズオ・イシグロのこの作品は、そんな誰でもが時には感じる不安に焦点を当てている。(十代の主人公たちが集団生活をしている)「コテージ」での生活について、次のように記している。
 
…コテージの先輩カップルについて気付いたことがあります。…それは、先輩の行動の多くがテレビからの物真似だったということです。(早川文庫版 以下同様p-185)

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2018年10月23日

『ハムレット』について

何の奇跡も神秘も存在しない近代世界において、芸術作品はその世界が隠蔽している不条理や亀裂を暴露する役割をおう。それはありのままの世界の写実ではありえない。ありのままの写実では、真実の隠蔽に加担することにしかならないからである。ありのままに流れる日常に何の違和感もなく従う人々とは別に、それを当たり前とは見ない見方、芸術の見方はどのようにして生まれるのであろうか?

例えばセルバンテスは、10年間にわたる流浪によって、同時代のスペインから無理やり引きはがされることによって、世の中と違和によって隔てられた主人公という主題を得ることができた。浦島太郎のような経験をしたセルバンテスは、騎士物語の理想主義によって現実不適応を起こすドン・キホーテを造形したのである。
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2018年09月22日

『1987、ある闘いの真実』

チャン・ジョナン監督の映画をシネマート新宿で見た。期待通り、重厚な作品である。何度かの革命を経験した韓国の映画は、このようなテーマを描けば世界随一かもしれない。革命を実際に同時代の出来事としてごく身近に経験した人々が、まだ社会の中枢で活躍しているから、自分たちの歴史の細部に至るまでリアリティがつまっているのだ。(彼らのことを、1960年代生まれ、1980年代に闘争を経験して1990年代に30台の連中という意味で、386世代と言うらしい)

結局は全斗煥大統領を倒した革命は、ソウル大学生の拷問虐殺に対する人民の怒りに発していた。

今回の映画で、特に印象的だったのは二点。まず第一に、革命が進展する節々で、本来ならば体制を支える中心にある人々、検察官とか、公安部長とか、刑務所の保安係長とか、看守といった人々の中に、独裁者の闇を暴くのに大きな役割を果たす人々がいるということである。検視を担当する医者とか、刑事法の手続きにこだわる検事とか、カトリック教会とか仏教寺院のような宗教結社も、それぞれの持ち場持ち場で専門的権威を盾に抵抗の拠点となっている。もちろん、報道も例外ではない。ただ、報道は権力から最も目を付けられやすく、したがって易々とその面目を失ってしまうのだが、同時にいったん火が付くと、最も激しく燃えて革命を呼び寄せる力にもなるのである。映画の中では、はじめ沈滞した退嬰的雰囲気に包まれていた報道部に、革命が波及し始めるありさまがリアルに描かれていた。

いずれにしろ、このことは革命が決して(単一の価値理念という意味での)何らかのイデオロギーの問題ではなく、正義と真実の問題であることを鮮やかに示している。つまり、非常に異なった価値理念を持つ人々が、真実の暴露を要求し、正義を求めるとき、革命が俎上に載せられるのである。それに対して、権力を私物化する連中は、ますます無法な暴力や暴力組織に頼らざるを得なくなる。その結果、法秩序の担い手自身の中に、大きな亀裂が走り始めるのだ。

もう一つ印象に残ったのは、拷問やリンチといった汚れ仕事を担う悪役でさえ、単なる矮小な人物ではないこと。治安本部の中でも特に「対共」と呼ばれる反共治安機関のパク所長(キム・ユンソク)は、ナチの突撃隊のような無法者たちを束ねる悪逆非道な人物ではあるが、決して私利私欲で動く矮小な人間ではなく、極めて明確な使命感に突き動かされる信念の愛国者である。脱北者でもあるこの人物を深く掘り下げて描いたことで、この作品は一段と高い品格を帯びることになった。

観客の中には、顧みてわが国の現状を嘆く声が当然上がるであろうが、これが本物の市民革命の経験を経た国と、それを経ないで形ばかりの張りぼて「民主主義」で満足している政治的後進国の違いである。
  
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2018年02月26日

正岡子規の歌論

先日プラトンについて書いたおり、子規の歌論について批判的に書いたが、その点についていくらか補足しておく。  続きを読む
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2018年01月05日

『君の名は』

新海誠監督の『君の名は』を初めて見る機会があった。美しい作品であるが、その細部は早くもぼやけて、まるで夢のようにすでに忘却に沈みつつある。そして、このことこそが、私の知る限りこの作品の本質なのである。(以下、ただ一回の視聴によるため、ネタバレのみならず、記憶に不正確なところ、意図的な誤解や歪曲さえも含むが、あしからず。)
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2017年03月24日

カルテット

いよいよ至福の『カルテット』の時間が終わってしまった。これを提供してくれた演技者をはじめとするすべての人に感謝申し上げたい。この低視聴率ドラマを打ち切らなかったTBS関係者には、いずれ必ずや神の祝福があるであろう!

このドラマがおよそ反時代的な挑戦であったことは、特に注意されるべきである。テレビの視聴率をはじめあらゆる常識に反して、我々の「期待」を裏切り続けてきたのである。

大賀ホールに集まった聴衆は、第一曲が終わるとすぐぞろぞろ帰宅を始める。その後も退出する者が後を絶たない。視聴率が低迷を続けても、誰か聴く者に届けさえすれば意に介さないと言わんばかりのふてぶてしい態度には、思わず喝采を叫んでしまった。そうだ、空き缶を放り投げる連中は放り投げるがいい!いつも少数者だけが、ほんのちょっとした符丁で理解し合うのだ。

我々は初め、スズメか真紀かどちらかが悪いのではないかと疑う。しかしそんな期待が裏切られ、むしろ姑の猜疑心こそが悪の根源かもしれないと関心を移動する。やがてそんな通俗的な悪役が存在しないことに気づく。

しかし、アリスという悪役がいる。視聴者は、この「悪女」に対する制裁を密かに期待している。普通のドラマなら、当然アリスはひどいしっぺ返しを受けるはずだ。

しかし、それらのすべてを裏切って、大賀ホールにさっそうと現れるアリスは、イケメン金持ち外人にエスコートされている! そしてのたまうのだ「人生ちょろかった!」

完璧と言うしかない!この至福!この幸福感!それは演劇の祝祭である。ここではアリスは、普段と違って、眼も笑っていた。そうだ、君には笑う資格がある!

しかし、それにしても巻夫婦の夫婦愛はどうなるのか? どちらにもそれぞれの立場があり、それぞれの思いやりがあるのだから、普通のドラマの常識なら、当然和解が来なければならないところだ。しかし彼らはお互いに深く理解し合ったまま、さっぱりと別れてゆく。私はブラウン管に向かって、思わず「よし!異議なし!」と叫んでいた。

夫婦が分かれたのなら、次の関心は恋愛の行方だ。この四人のうちだれか二人だけでも、結婚にこぎつけるのだろうか? もしそうだとすれば、一番有望なのは真紀と司だろう。当然視聴者の関心はそこに注がれる。

しかし我々よりそれに注意している者がいる。それはスズメちゃんだ。それは彼女こそ報われない一途さで、この二人を深く愛しているからである。この無償の愛は画面を一段と美しく彩っている。満島ひかりが演じるスズメが美しいのではない。その愛が無上に美しいのだ。これに心打たれないやつは、悪魔に食われて死ぬがいい。

彼女だけが、シューベルトの『死と乙女』(わざわざ鉛筆で日本語の表題が記入された楽譜)の秘密を探り当てる。真紀がその曲を選んだのは、「あふれ出たから」である。これは既にそれ以前の回で「あふれ出たものは真実」と言われていたのを下敷きにしている。つまり、「死と乙女」には「司と(早)乙女」が隠されていた。真紀は、自分への司の片思いに、自分から司へのあふれる愛によって答えているのである。

しかし、重要なのはそのことではない それを「誰にも言わないで」と秘すことによって、彼女は司との愛よりも、ずっと重大なものとして四人の友情を選択しているということである。

真紀にはわかっているのだ。もし司との愛を受け入れたとして、カルテットの他のメンバーの祝福を受けながら結婚したところで、そこに広がるのは、たかだか元の夫との間にあったようなすれ違いの人生であり、そのためにカルテットのユトピアを犠牲にする価値はないということを。

かくて、この作品は、我々の関心を引き付けるすべてが、結局虚妄の幻影にすぎないことを次々に暴露した挙句、カルテットの中にこそ、あるいはドーナツという不思議な欠陥存在の中にこそ、およそ社会的にも経済的にも、芸術的にも無意味な煙の如き希望が存するということを暗示するのである。司は、愛する人とは永遠に結ばれず、愛していない人と彼女が結婚する前日に酔った勢いでセックスしている。それは当然かなりみじめな索漠としたリアリティで描かれるが、司が彼女の結婚式のカルテットで奏でる祈りは真実である。

たった一つ難癖をつけるとすれば、『死と乙女』の第一楽章ではなく第二楽章を使ってほしかった! もともとこの第二楽章の主題が『死と乙女』からの借用であるし、次々に主題を各パートごとに変奏する変奏曲という形式こそ、このドラマにふさわしかったはずだからである。
  
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2017年02月19日

『カルテット』

TBSのテレビで『カルテット』というドラマ(坂元裕二脚本)を見た。連続もので、断片的に見ているだけなので、たしかなことが言えるわけではないが、見どころがあるものなので、以下論じてみたい。(ネタバレあり)
 
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2017年01月15日

『走れメロス』と『坊っちゃん』における友情

先日、京都の高等研というところに呼ばれて、このテーマで話をした。以前、ここで何度か論じたことがある話題であるが、当日の話はまくらが長くなりすぎて、やや尻切れトンボになったきらいがあるので、もう一度ここで論じておく。もっとも、結論部分は以前に「革命的法創造の理論」として何度か論じたことがあるので、省略する。  続きを読む
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2016年12月14日

太宰治『斜陽』を読む

このたび必要に迫られて太宰治の『斜陽』を読んでみた。それについて考える所を記しておく。
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2016年08月03日

アスリートのメディア戦略 

女子レスリングの吉田沙保里選手が「スポーツ紙記者に間で評判を落としている。荒稼ぎ体質に変わり、取材するなら三万円とギャラを要求するようになった」からだという。http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160730-00511064-shincho-spo

吉田選手の態度に「荒稼ぎ体質」しか見ないのは、いかにも安物のスポーツ紙記者らしい「見識」であるが、もちろん問題はそんなところにはない。

以前ここで記したことがあるが(2008年12月15日「反抗的な弟子」参照)、吉田氏のような一流アスリートにとって、メディア対応は極めて難しく、扱いにくい問題となるのが常である。

今は問題を単純化するために、スポーツ・メディアに限定して話を進めよう。1990年ミラノにおける対西ドイツ戦で、ユーゴスラヴィア・チームを率いたイビツァ・オシム氏は、チームが1−4で敗れた後、記者会見で語った、「記者諸君が使え使えとうるさいタレント選手3人を一緒に使うとどうなるかを君たちに見せつけるためにわざと負けたのだ」(木村元彦『オシムの言葉』集英社p−63)。

アスリートが闘うためには、いかに巧みに(自国の)記者とも闘わねばならないかを、鮮やかに示す例がここにある。重要なことは、単純にメディアを敵に回していいわけではないということだ。適度に挑戦的な言葉で刺激し、適度におだてながら、メディアの裏をかく高度に政治的な戦略が必要なのだ。中田英寿、本田圭佑、吉田敦也、有森裕子…などという超一流アスリート諸氏は、たいてい半ば本能的に、このようなメディア戦略を駆使しているものである。

しかし、誰でもがイビツァ・オシム氏ほど巧みに、メディアを操ることができるわけではない。

水泳の千葉すず選手が、水着の自由選択権を求めて、またオリンピック選考基準をめぐって、日本水連といかに立派に闘ったかは、よく知られている。しかし、彼女に対して当時のメディアがいかに残酷であったかは、ほとんど忘れられている。これほど、日本のメディアの厚かましい無恥無能ぶりを示した歴史的事例は、少ないのではなかろうか?

千葉氏の闘いは、スポーツ界における正義の実現にとっては十分に有意義なものではあったが、彼女自身の栄光を目指すためには、必ずしも賢明なものではなかった。

その点では、吉田沙保里選手の戦略も、賢明なものとは言えない。厚かましいメディアに距離を置くのはいいとしても、取材フィーを要求するのは戦略として筋悪である。

取材を拒否する権利は誰にもあるが、記者は普通そのような態度に慣れていない。

彼らは、メディアに露出すること自体が取材対象にとっても「利益」になると固く信じていて、長い間には、それが自分の功績であるかのように、自分が相手にもたらし得る恩恵であるかのようにうぬぼれることが多い。よほどの意識を持たない限り、記者がそのような心得違いを免れるのは難しい。

だからこそ、それを拒否するようないかなる態度も、記者たちに根深い反感を刺激せずにはおかないのだ。

アスリートが気を付けなければならないのはここである。メディアに乗せられて我を忘れたりすると、致命的なしっぺ返しを覚悟せねばならないのはもちろんだが、かといってメディアを敵に回していいことは何もない。

アスリートは、このような軋轢を最小限にやり過ごす術を身につけなければならない。正面突破を試みるのは、エネルギーを無駄づかいして、肝心の勝負にとって障害となりかねないからである。

相撲取りによくあるように、馬鹿なふりをする、または日本語が苦手な(語彙が極端に乏しい)ふりをする(何を訊かれても「そうですねえ」「頑張ります」しか言わない)、のもうまい手かもしれない。

要するに、マスコミの餌食にならずに生き残るためには、単なる反発や敵意とは違う賢明な悪意を備えなければならないということだ。うまくすれば、それによっていつかはリスペクトを(あるいは付き合いづらい人間という評判を)勝ち取ることも不可能ではない。

自由であるためには善意だけで十分だと考えるのは、間抜けなお人よしだけである。

  
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2015年12月25日

下町ロケット

TBS系テレビで放映されたドラマを見たので、それについて少し思う所を書いてみたい。原作を読んだわけではないし、テレビも一部しか見ていないので、細部の精確さには自信はない。見なかった方のために簡単に要約してみる。第一話は、ロケットの部品バルブを中小企業が担当する話。第二話は、心臓欠陥のある子どものための人工弁を開発する話だ。例によって、大企業や金融機関を相手に、中小企業が高い技術を持ちながら、苦戦を強いられる話である。

全体として、善玉と悪玉がはっきりしすぎているとか、単純なファミリー・ストーリーに落とし込み過ぎているとか批判すべき点もあるだろう(実際この時代、家族や「家族愛」だけが無傷でいられるはずもないのである)。だが、このドラマで面白いのは、味方にも敵方にも、それぞれ異分子や「スパイ」が存在することをリアルに描いているところである。そのため、各部署で演じられる権力闘争が、複雑に入り込んだものとなるのである。

池井戸潤氏の作品は、半沢直樹シリーズにおいても、金融をはじめとする権力抗争がリアルに描かれてはいた。しかし、今回のドラマで新鮮なのは、技術の社会性(公共性)が問題となっている点、したがって権力抗争が公共的価値をめぐって闘われる点である。その意味では、このドラマは政治闘争の性格を帯びてくるのだ。
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2015年12月01日

小林秀雄のドストエフスキー論(つづき)

小林秀雄と山城むつみ氏がともに重視しているのが、セミョーノフ練兵場におけるドストエフスキー自身の疑似死刑体験である。小林氏はドストエフスキーに成り代わってそのことを書き記している。

私のような経験をしてきたものの眼には、〔死に臨んだ〕「ある一点」から逆に歩いたことのある男の眼には、不幸なことだが、人生には荒唐無稽なことしか起こってはいないのだ。 (小林秀雄「「白痴」について供廝陝檻横娃粥

山城氏は同じ個所について次のように記している。

ある日、突然の赦免によって「ある一点」から「生」に向かって歩くことを命じられ、歩き始めたその逆方向の「生」から振り返ってみたとすれば、どうか。…「ある一点」は、小林に「死」ではなく、もはや逆向きに、したがって「荒唐無稽」なものとしてであるが、「生」を強いるようになったということだ。(山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』197)
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2015年11月30日

小林秀雄の『ドストエフスキー論』

出版社からドストエフスキーについて何か書けと言われて、『白痴』について論じてみた。原稿は例によってもうとうに出来上がっているのだが、予定の枚数をはるかに越えているので、このまま許可されるかどうかはわからない。

そこで暇に任せて、他の論者がどのようなことを言ってきたかが気になってきたので、いくつか読んでみることにした。江川卓氏の『謎解き「白痴」』と山城むつみ氏の『ドストエフスキー』はすでに読んでいて、拙論でも言及して大いに参考にしているが、山城氏には他に『小林秀雄とその戦争の時』がある。それも読んでみた。

山城氏の論考は、氏の他の諸作品と同様、深い洞察もあり、緻密で本格的なものであるが、いくつか違和感もある。難解な表現や晦渋な論理が、一読して読み取れない所もあり、今一つよく理解できたという自信が持てない。

そこで、さらに氏が依拠している小林秀雄にあたって見ることにした。小林秀雄には、「白痴について機廖崘鮹圓砲弔い騰供廚箸いο盛佑あるのだが、不覚にも私は目を通したことが今までなかったのである。

山城氏の作品と比べると、こちらは随分と分かりやすい。あらも目立つし、ナイーヴなくらいである。

たとえば、ニーチェについて、ずいぶんと見当違いなことが堂々と断言されている。

ニーチェには「権力の意志」というもう一つの「神」を発明する必要があったから、「神は死んだ」のである…(新潮社版全作品19巻p−210)

あまり裏付けのない主張でも、思い付きとはったりで断言するのが小林秀雄の悪い癖であることがよく現れているところ。

「権力への意志」は一つの神であるか?単一の価値理念でさえあるか? むしろ、それは彼の解釈光学のツールの一つであり、フロイトにおける「無意識」のような観念に近いものではなかろうか?それは診断や治療の操作と不可分なものなのである。ニーチェの良き読者であれば、せめても「もう一つの神」と言うより「神々」と書くべきであったろう。

もちろん、小林秀雄自身に周到なニーチェ論があるのなら、彼独自の視点から言及しても、それは許されるだろう。その場合には、たとえその解釈に異論があったとしても、それを徹底的に吟味して批判することが実り豊かな結果をもたらし得るだろう。しかしこの場合、そこに透けて見えるのは、ごく浅い先入見で当たりを付けている小林秀雄の軽はずみな手さばきの、ちょっとした手術ミスの跡である。これを批判してみても不毛なばかりだ。

旧約のテクストについても同様である。

アブラハムが、モリヤの山で、しようとした行為に、日常の人間的な意味を付することはできないし、キリストの山上の垂訓を、人間社会に応用する道はない。社会を追われて「死人の家」に暮らすドストエフスキーの眼には、聖書の中に現れる変人奇人どもには、教会というものはなく、彼らが暮らすには曠野がふさわしいということが、どんなにはっきりと感じられたことだろう。(同p−200)

ドストエフスキーであれ、聖書であれ、キルケゴールが言うように、我々は理解するにあたって同時代人より不利な立場にあるというわけではない。もちろん有利ということもない。

〔ドストエフスキーとニーチェ〕二人の見たキリストには千八百年の歴史の重みなどが捨てられて、直に見られているという点でおそらく大変よく似たものがあった。(p−210)

「時を超えて直に見る」と言いながら、アブラハムの行為に日常の人間的意味を付することができないのなら、それによって我々の日常の意味を理解することもできない道理であろう。「山上の垂訓を人間社会に応用する」のは、ドストエフスキーを含むすべてのキリスト者の立場である。もしそれが不可能と考えるのなら、それは山上の垂訓が無意味だというに等しい。

聖書の奇人変人たちも、ドストエフスキーの奇人変人たちも、我々の日常と同じ隣人たちであり、それゆえ彼らにも、我々と同様の「教会」が存在する。自明の事である。それこそが「直に見る」ということではないか?

もちろん小林秀雄がみずから時を超えて直に見たものがあれば、それを書けばいい。アブラハムは誰なのか、モリヤの山はどこなのか…を。ただ「曠野がふさわしい」などと思わせぶりなことを書くべきではなかったのだ。

一見些細なことから書き始めたが、小林秀雄の『白痴』論については、私が見る限り内容上もっと重大な欠陥が存在する。以下、それについて書いてみたい。(つづく)
  
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2015年10月22日

東村アキコ氏の『かくかくしかじか』(集英社)について

この作品における東村氏のすばらしい達成については、原作にあたっていただくほかはない。ここではただ、それがなぜ成功しているのか?それにもかかわらず、どのような問題をはらんでいるかという点に限って論じておきたい。(以下ネタバレあり)
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2015年06月05日

「ラ・トラヴィアータ」の新解釈

先月(5月19日)の新国立劇場のヴェルディの新演出(演出・衣装デザインはヴァンサン・ブザール)について、思う所を書いておく。
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2015年05月15日

三島由紀夫『絹と明察』

いただいたコメントがきっかけで、『絹と明察』を読んでみた。

今回読んでみて、三島由紀夫の精神構造について気づくことがあったので、記しておきたい。
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2015年04月06日

チェーホフ『三人姉妹』

『三人姉妹』を見た。

どうして、ああセリフを怒鳴るのか? 何とも大げさな身振り。よりにもよってチェーホフのセリフだ。

中年、初老をむかえ、希望も覇気もないチェーホフの人たち。現代の若者たちのように騒ぎまはり、わめき立てるだろうか? 酔っ払いのばか騒ぎの中にさえ、さんにたまったほこりのように、疲労が降り積もっているはずだ。

女たちのセリフ回しに、時間から生まれる残酷な変化が感じられない。若い女にとって、数年の年月はこの上なく貴重だ。それが空しく流れていく。その焦り、悔しさ、そしてやがて訪れる諦観。これらは一本調子の声で語られてはならない。初めの場面のイリーナと、結末でのイリーナとでは、同じような初々しさがあってはならない。花は散りかけている。同じく美しくはあっても、違う美しさ。

美しく、才能と演技力に定評のある女優をそろへながら、この演出(ケラリーノ・サンドロヴィッチ)は一体何なのか?
  
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2014年09月27日

一知半解

最近こういうものを目にした。

稲葉振一郎 @shinichiroinaba
田島正樹先生は戸田山和久先生にきちんと反論できていないようだが、結局これに尽きるんじゃないかと自分では思う。 / “田島正樹先生からお礼状をずいぶん前にいただいたけれど - インタラクティヴ読書ノート別館の別館” http://htn.to/BtPwVW
Twitter9/22 19:12:50


不思議なことに、およそ議論の筋道がろくに理解もできていないくせに、いっぱし自分も議論に参加できているつもりのおめでたい御仁である。

私が「ファシスト的心性」と呼ぶのは、こんな連中のことである(戸田山氏自身がそうだというのではないので、一応念のため)。
  
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2014年07月05日

上野修氏の「スピノザ『神学政治論』を読む」

上野氏のスピノザと私のスピノザ理解とは、同じ思想家について論じたとは思えないくらい、ほとんどすべての点で根本的に違っているので、そのすべての論点について逐一検討するのは不毛だろう。

ただここでは、哲学教育上見過ごしにできない用語上の注意を与えておきたい。それは氏が、現代哲学でキータームとして使われている二つの概念「真理条件」と「主張可能性条件」という言葉を何度も使っているにもかかわらず、それは通常の意味とはまったく違う意味であるから、初学者は特に注意が必要だということである。他の学問でなら、(「質量」とか、「酸化」とか、「所有権」などという言葉について)自分勝手に意味づけて使うなどということはめったに許されてはいないだろう。そのようなことが哲学ではしばしば許されているらしい。実際スピノザ自身が、しばしばそのようなことをしている。

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2014年06月27日

W杯日本代表の惨敗

今般のワールドカップの行方や日本代表の惨敗について、多くの人が語っているし、今後も長く語り続けられるだろう。私自身としては、今回の大会について比較的関心が持てなかったこともあり、逐一の試合について見ていないので、あまり言うべきことがない。

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2014年05月29日

ド・マン「パスカルの説得のアレゴリー」

ついでに、フレーゲを無視したことによって、ド・マンがいかなる闇を踏み迷うことになるか、彼のパスカル論に少しだけふれておこう。
 
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2014年05月25日

ド・マンの「脱構築」

私自身「脱構築」とは何かよく知っているわけではないが、ド・マンは「脱構築の批評家」と呼ばれる(らしい)。私がよく親しんできた哲学的テクスト(パスカル、カント、ヘーゲル…)について、ド・マンも取り上げて批評しているので興味をひかれて、『美学イデオロギー』(平凡社文庫)をひもといてみた。取りあえずその最初の論考「メタファーの認識論」について論じてみる。
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2014年03月12日

大西巨人『神聖喜劇』

大西巨人氏が亡くなった。『神聖喜劇』は戦後日本文学が生み出した巨峰である。氏の偉業を悼み、以前『理想』誌に書き、その後拙著『神学・政治論』(勁草書房)所収の私の神聖喜劇論を掲載しておく。  続きを読む
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2014年02月13日

日曜日には鼠を殺せ

友人の I 氏から、フレッド・ジンネマン監督、グレゴリー・ペック主演の映画『日曜日にはネズミを殺せ』(1964)を勧められたので見た。それについて思いついた点を記しておく(以下ネタばれ)。

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2014年01月12日

小学生と対戦した香川選手

新春のテレビで、たくさんの小学生を相手に、日本代表の香川、清武両選手がゴールを決められるか、という番組を見た。初めは十人、二十人相手に香川選手がやすやすと決める。途中からは清武選手が加わって、五十人もの小学生と対決する。加えてゴールキーパー五人である! 両選手は、さすがに苦労はするものの、ともかくゴールを決めていた。

私が感心したのは、両選手が巧みなドリブルやフェイントによって子どもたちを翻弄した点ではない。二人にゴールを決められてしまった子供たちも、それぞれサッカー選手であるから、悔しそうにもう一度対決させてくれと求めるが、再挑戦したらその結果がどうなっていたか、我々の目から見てもわからないと思われる。

しかし香川選手は「勝負は一回だけ」と言って決して再挑戦を許さなかった。一見すると大人げない態度と言えないこともない。子供たち相手に、そこまで本気になってどうするのだ、と思う向きもあろう。

だが、この点にこそ超一流のプロ選手の真骨頂があるのだ。小学生を相手にしても、決して手を抜かず勝負にこだわる。それが「勝負は一回だけ」という声に現れている。子供たちは意外に思ったに違いない。実際、子供たちは遊びの感覚なのに、プロの方が遊びどころではないのである。ここでこそ子供たちは、普段身近にいるどの大人たちとも違うものと出会ったのだ。世の中には、遊びではないことがあるということ。いまどき、ほとんどの大人たちが、率先して「なんちゃって」などと「遊び心」をもてはやし、すべてを「遊び感覚」にして、お茶を濁そうとしているではないか!

ここで、彼らの真剣さが彼らのプレイの中に示されたということは、皮肉でも何でもない。むしろ、職業とか実業はすべて絵空事の中に呑み込まれる趨勢にあり、かろうじて残るものは、プレイの中の真剣さだけということなのだろう。ちょうど、劇の中にしか真の現実が表現されないようなものである。

しかしともかく、妥協を許さず真剣に対決するということで初めて、子供たちは自分たちが途方もなく敬意をもって遇されたのだ、ということに気づいたはずである。子供たちに示される「やさしさ」は、たいてい彼らを愚弄するものでしかない。テレビの中でも外でも、すべてが蜂蜜に浸されたように「やさしく」柔弱になり下がっていくときに、香川選手のかたくなな厳しさにすがすがしいものを見た。
  
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2013年10月01日

坂口安吾『堕落論』

山形新聞(9月28日)のコラム「ことばの杜へ」に、投稿した。 

「日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生した。」    坂口安吾「堕落論」

「堕落論」と聞けば、戦後無頼派、デカダンの類と誤解されかねないが、坂口安吾(1906〜1955)の論旨は、いたって健全な良識を語って揺るがない。時流に乗ってさっそく看板を書き変えたペンキも乾かぬ内に、またぞろ旗をふってひと儲けを狙う連中に対して、安吾の舌鋒は鋭い。要するに、生活する人間の基本を見据えて、中身のないお題目や道徳的たわごとの空疎さを、暴き出してしまうのだ。

別のエセー(「青春論」)では、宮本武蔵の剣法を、「試合に先立って常に細心の用意をしている」が「いよいよ試合に臨むと、更に計算をはみ出したところに最後の活を求めている」と実践的な即興性を強調する。「五輪書」に見られるような、もったいぶった人生論など歯牙にもかけず、生き死を決する現場の人間の真実に目を注ぐ。安吾の言う「淪落」とか「堕落」とは、道徳的決まり文句や世間体から自由な、臨機の即興のことなのだ。

笛や太鼓で戦争を囃し立てたあげく、我が国は根元から路を誤った。安吾自身が認めているように、戦争の中にも、夢や陶酔や美さえもなかったわけではないが、そこには何より真実が欠けていた。端的に言えば、嘘と欺瞞で満ちていた。戦後の焼け跡においてはじめて、生活の実相を見つめるリアリズムがよみがえったのだ。

宴のあとの如き廃墟の瓦礫の中から立ち上がった人々に、安吾の醒めた批評精神はさわやかな勇気を与えたものである。お偉方たちの賢しらな御託宣や建前を信用してはならず、各人の生存の真実に思考の基礎をおかねばならないのだ。東京五輪を巡る、昨今の醜悪・愚劣この上ない狂騒に対しても、それは幾ばくかの鎮静効果をもたらし得るかもしれない。




  
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2013年09月26日

三木谷社長の暴論

英語教育に対する改革の提言はしばしば行われてきたが、それらが長い目で見て成果を上げたという話は聞いたことがない。教育論議一般に言えることであるが、現場を無視した政治的暴論であるか、ナルシシズムの吐露の域を出ていないものであるから当然であろう。

楽天の三木谷氏によれば、現在の英語教育は「文法と翻訳に特化している、会話力、表現力といった非常に重要なものが軽視されている。会話力や表現力を伸ばすためには、予算を増やして、英語を母語とする教師の数を増やさねばなりません」と言うのだ。
http://blogos.com/outline/70538/

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2013年09月19日

バルトーク『青髭公の城』

友人に誘われて、久しぶりにバルトークの『青髭』を聴いた。井上道義指揮、東京フィルハーモニー、(於東京芸術劇場)。青髭公:コヴァーチ・イシュトヴァーン、ユーディット:メラース・アンドレア

歌手は素晴らしい出来で、演奏には満足したが、パンフレットに書かれた井上道義氏の解説にはいささか疑問がある。男女の感じ方のすれ違いがこのドラマの主題だ、と言うのだ。ベラ・バラージュの台本には、血塗られた武器とか拷問室とか、血糊のついた財宝の扉がある。それなのに、ユーディットは、何故青髭公の館に踏み入ろうとするのか?

これを、単なるサド・マゾ的ドラマと見ることはできない。何より、初めからバルトークの音楽は、エロティシズムを感じさせない重苦しいものだ。その点、同じく「死」を歌うにしても、ヴァーグナーとは違うのである。

青髭公自身、「救済」を求めている。彼は女たちを苦しめているとしても、そこに享楽を味わっているのではない。その点では、確かにヴァーグナーの『オランダ人』に似ているところもある。女性が犠牲を恐れず、解放に手を貸そうとするのは、ゼンタを思わせるが、他方、人間(ヴェルズング族)の自由に賭けて、神々の宿命と対決する点では、『ニーベルングの指輪』のブリュンヒルデを思わせるところもある。

しかし、ユーディットは、男が女の「無償の愛」によって救われる、という男たちの身勝手な幻想に応えるものではなく、明らかにもっと激しく自律的な意志を生きている。彼女は、アンチゴネから、ジャンヌ・ダルク、ローザ・ルクセンブルクに連なる系譜の上にある。

おそらく主題は、「愛による救済」にしても、歴史の救済なのだ。歴史上繰り返された解放への試みは、ことごとく無残な敗北に終わった。それらが、血塗られた財宝の山や、拷問台と処刑場の死屍累々たる姿である。反乱分子は正史の壁に塗りこめられ、その名前さえ記されていない。

それゆえ、解放は現在の人民を救済するばかりでない。過去の敗北や死者たちの意味も、今の闘いにかかっているのだ。だからこそユーディットは、過去の扉をすべて開けよと敢然と迫る。

ユーディットの試みも結局失敗して、彼女自身も犠牲者の列に加わるが、それでもいずれはすべてを救済するがやって来るだろう。バルトークの音楽は、暗闇の中にメシア的救済への待望を暗示している。
  
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2013年08月06日

ギッシング『ヘンリ・ライクロフトの私記』

イギリス的なものを代表するものと言ったら何だろうか? ゴルフ場の原風景ともなっている荒涼とした田園風景、人々が何の懸念もなく貶すことのできるあの味けない食事、それらさえ、ギッシングの筆にかかれば、何とも懐かしいゆかしいものに変わる。

しかし、特に注意を引くのは、イギリス中産階級の持つ確信に満ちた良識である。彼らは平凡に流れることを恐れない。わざとらしい新奇なもの、独創をてらった病的な個性を目指したり、「天才的な」例外を無理に装うようなことは決してない。むしろ、凡庸な一般人に共有された信念の中にこそ、最も信頼すべき基盤を見出さねばならないという確信がある。

ヘンリ・ライクロフトに、このようなイギリス的良識を見ることができる。この精神は、自分を見失う危険の大きいところにおいてさえ、ある種の公正さ・正義の感覚を失わない。このような公正さにしがみつく努力は、それがはっきりと描かれていないだけに、返って感動的である。

辛酸をなめてもそれに打ちのめされないで賢明になってゆける人々をうらやましく思う。こういう人々はそう珍しくはないらしい。私は何も、人生のいろんな場面に臨んで利害得失を冷ややかに打算する連中のことを言っているのでもなければ、想像力が乏しくて昔から踏みならされた安全な道から一歩も踏み出せずに汲々としているような、のそのそとした愚物のことをいっているのでもない。私が言っているのは、聡明でおおらかな心の持ち主で、いつも常識によって導かれているように見える人々、着実に人生の段階から段階へと進んで行くが、いつも正しいこと、分別あることを行い、気まぐれに陥ることなく、いつの間にか他人の尊敬をかちえ、自らはほとんど他人の援助を必要とせず、むしろ他人にしばしば援助を与え、しかもあらゆる場合を通じて善良で用心深く幸福になれる人々、私が言っているのはこういう人々なのである。こういう人々を見ると、まったくうらやましくならざるを得ないのだ。(p−163)

彼は、辛酸をなめても公正であろうと必死なのである。しかも、それを市民としての当然の義務と心得、自分にいささかも陶酔する所がない。つまり、しみったれたナルシシズムの影がないのだ。

私は今まで歩んできた路をふり返ってみる。が、何とつまらない人生行路だったことか。私は声を立てて笑いたくなる。が辛うじて微笑するのみである。(p−210)

この公正さのセンスを通じて、彼の教養は、社交性や政治性を排除しないものとなっている。そこが、ドイツ人の教養と違うところだ。

非社交的なイギリス人、とよく言われる。だが、あらゆる階層の中で、…共同の利益に関する目的のために、かくも多種多様な、力強い、誠意あふれる協力を示し得る国民が世界中ほかにあり得るであろうか?非社交的とはもってのほかの話だ!その証拠には、イギリス中どこでも好きな所に行くがよい。研究かスポーツか、あるいは地方的、全国的な福祉のために何らかの会に属していない人、余暇を利用して社会人として全力を尽くして働いていない人は、まず見つけられ得ないだろう。(p−124)

ここには、トクヴィルがアメリカ社会の中に見たのと同じ、結社への情熱がある。

社交性とは誰とでもゆき当たりばったり自由に話をすることではない。それは生まれつきの慇懃や愛想の良さからのみ生まれるものではない。むしろ、ぎごちない、ほとんど粗暴とも見える物腰とも、ゆうに両立し得るものなのである。(p−125)

かくて、「非社交的な社交性」とでも言うべき特異な人格類型が現れる。それは、逆説的にも、「非民主的な」性格を形成するのが常である。善悪・美醜の判断において、他人におもねらず、衆になびかない気骨がなければ、あのイギリス人特有の政治的センスが鍛えられるはずもない。この点、『ライクロフトの私記』は、一見似たところのある『アミエルの日記』とか『ケーベル博士随想録』などとは、まったく違っている。

ヘンリ・ライクロフトは、自らの貧困の中にあってさえ、「私という人間はあらゆる点において本能的に非民主的なのだ」(p−57)と告白する。彼にとって最もおぞましいもの、あらゆる本能をもって反抗せざるを得ないものは、神聖な文学や芸術の領域、「書物の聖域」が、低級な市場の競争によって値踏みされ、くだらない私闘を繰り広げることである。

どんな形にしろ生きるための苦闘というものは嫌なものではあるが、文学の競争場裡における泥まみれの生活ほど卑しくもまた醜いものはないのだ。(p−63)

「一千語いくらという原稿料」(p−64)での稼ぎに生きてきたライクロフトにとって、出版や著述や雑誌の業界のあさましさは、まるでバルザックの『幻滅』に描かれた姿そのままに映っていた。

書くと言っても、頭の中に、心の中に、どうしても書かないではおれない何ものかがあるからというのでなく、ただペン一本が諸君のあやつり得る唯一の武器であり、パン代を稼ぐ唯一の手段であるからにすぎない。年ごとに諸君の数は増えてゆく。諸君は押し合い、つかみあい、悪口を言いあいつつ、出版者や編集者の門前に殺到する。奇怪とも痛ましいとも言いようのない、何と悲惨な光景であることか!(p−63)

市場や評判との闘いに敗れ果て、疲れ果て、世にすねてルサンチマンに凝り固まらないでいることは難しい。たとえば、世を呪う千年王国的終末論とか、貧民による独裁を説く共産主義的ユートピアとか、はたまた極端な禁欲を説くヒンドゥー的菜食主義とか…。

ところが、イギリス的良識の守護天使に守られたライクロフトは、このような形で道を踏み外すことは決してない。これらの観念に、彼の理智がいくらかの正当性を認知する場合でも、彼の心情は、それらの中に不誠実の影を嗅ぎつけてしまうのだ。もし彼の判断や懸念が、まったくの思いすごしであったとしても、ここに示された心情はまことに美しいと言わざるを得ない。これが何の意志的努力もなく垂れ流された好みや心情の吐露などと考えては、何も見ないものであろう。

聡明さは問題ではないなどと言うほど、私は浅はかな人間ではない。愚者は退屈であるとともに有害であるからだ。しかし、私の知る限り、もっとも立派な人たちは理智でなく心情によって愚行から救われた人たちなのだ。(p−58)

立派な心情は、理智が迷い込むけもの道をたくみに避けて導く。だからこそ、意図しない心情の一致は、理由や価値観の共有以上に、我々を喜ばすものだ。長い孤独な旅路の果てに、年来の友に出会ったように感じる。実際には異なる人生を歩み、まったく違った価値観に生きてきたにもかかわらず、伝えられた以上のことが魂の深みに響きあう。

プラトンは、魂が我々に宿る以前に見てきたものがあると考えたが、生まれる前にともに見てきた風景があったかのように、そして、未だ思い出してはいないものの、いつか共に思い出すべき思い出を共有しているかのように、我々は出会うことができるのだろうか?

文章の一節を朗読したくなるとき、誰か側にいてそれを聞いてくれたらどんなに楽しいだろうと思うことがときどきある。全く、切実にそう思うのだが、さて、しかし、琴線の触れあうような理解をどんな場合にも期待できる人間が、果たして一人でもこの世にあるであろうか? いや、およそのところでいい、鑑賞の点で私とほぼ意見の一致する人があるであろうか? 理解力のこのような一致は実に稀有なことだと思う。全生涯を通じて我々はそれに憧れている。(p−71)

  
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2013年07月26日

青春の終焉(2)

長々と枕を述べたが、私の批評を書いておこう。

三浦氏は、青春や青年を、近代的なものとして浮き彫りにする一方、教養、資本主義、男性中心主義、生産規律(清教徒的禁欲)、人間中心主義、ヨーロッパ的近代などとも同一視、ないし共振的なものとして描こうとしている。こうなると、その射程が広すぎて、返って氏の目指すところがぼやけてしまっている感、なきにしもあらずである。

青春の観念が、近代化との関係で特に注目されるものとして、時代の中でのし上がってきたというのは、おそらくその通りであろう。これは、身分や土地や共同体の縛りが緩まり、若年労働力を都市に集中させる資本主義的近代の力動性と、その波に洗われる若者の心性の変化が、社会的にも注目されてくるからである。家の家業をそのまま継ぐだけならば、青年という時期にとりわけ注目する必要も感じられないだろう。もちろんその場合も、結婚適齢期とか、家督の相続といった節目は意識されねばならないが、それは近代に登場する青年観念とは無縁の世代意識である。

つまり、青春とは、家族の保護から離れて、市場社会へと曝されねばならない若者の不安や寄る辺なさや自由や冒険と、密接不可分の観念だということである。だからこそそれは、成長とも、個人主義とも、教育(ビルドゥング)とも深く関係しているのだ。またそれゆえ、彼らが社会的に安定した地位と常識を身につけると、もはや青年とは見なされなくなるのである。労働力として市場の評価を得ることができるか否かが、その主体にとって重要な関心となる限り、女性の社会的進出がまれだった時代には、女性はたとえ適齢期であっても、青年の範疇には含まれなかったわけである。

このように見てしまうと、三浦氏の広大な見晴らしが、ごく月並みなものになってしまいかねない。男女格差が狭まったことを除けば、「青春」は未だ存在するはずであろう。資本主義的近代や市場社会はちっとも終焉していないからである。すると、60年代をもって青春観念が一挙に失墜したという三浦氏の見立ては、成り立たないはずである。ところが、60年代で何かが終わったという実感は存在している。氏の炯眼は、その時代的実感を、極めて広い視野の中に据えた点なのである。しかしそれとともに、氏は無理筋の議論をいくつか抱え込むことになってしまったのではないか?

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2013年07月22日

三浦雅士氏の『青春の終焉』

以前からこの本があるのは知っていたが、なかなか読む気がしないまま放っていた。読む前から、表題を見ただけで何が書いてありそうかわかるように思えたからである。しかし、案に相違して読み応えのある本である。読むうちに身にこたえるというか、痛いところを突かれるというか、こったツボを押されているようで、小気味よく爽快なくらい。

というのも、氏の分類では、私などまさに老残の身にもかかわらず、青年の客気、青臭い青春の感傷未だ抜けきらずに、さながら1968年の夢幻の中をさまよっているようなものだからである。

本を出すたびに、今度こそベストセラーを狙おうと、おくびにも出さないが密かに野心を燃やすのだが、いつも売れない本ばかり書いてしまう。これはいったいなぜか? 決して本のクオリティのせいではあるまいと悩むのだが、売れないのに読者に向かって怒るのもはしたないと思って、悔しい思いを押し殺してきた。

しかしこのたび、やっとわかった。

「青年」の流行――既に文化文政の馬琴に始まり、自由民権の闘士を経て、漱石、蘇峰をはじめ小林秀雄に至るまで巻き込んできた一つの流れが、1960年代を以て決定的に終わっていたのだ。迂闊にも私は、それに気づかずに時代遅れのものばかり書いてきたわけである。丁度、ドン・キホーテが騎士物語で頭をやられたようなもの、いやむしろセルバンテス自身がそうだったのだ。戦争と幽閉の十年間の流浪を経て、スペインに帰ってきたときは、彼は故郷に錦を飾る英雄のつもりだったのである。それが、時代の空気にすっかり乗り遅れたものであったのに、セルバンテスは気づかなかったのである。何度も虚しい試みをくり返したあげく、うら侘しい投獄生活の中から生み出されたのが彼のドン・キホーテだった。それゆえ、そこにはセルバンテスの晩年の苦い覚醒が刻まれている。

私はといえば、二十年ほど新聞もテレビもない隠遁生活をしていた間に、世の中はバブルや不況の波が寄せたり引いたりしていた(らしい)。その間に「青年」は姿を消し、学生は若くして老成した。一方それとは別に、もはや引きこもりでもオタクでもない、荒ぶる神々のような若衆が出現した。陽気なファシストとでも呼べる連中である。

かねがね私は、哲学を、もともと青年風のものだと説いてきた。ギリシア人自体が、この青年期を重んじ、そこに人生の理想をおいていたのである。その点で、老年期に人生のもっとも豊かな実りを確信していたローマ人とは、まったく違う人生観にギリシア人は生きていたのである。哲学にも、そのようなギリシア人特有の好みがまとわりついている。そう私は言ってきた。

しかし、そのようなたわごとは、私の妄想にすぎず、私自身の自己正当化でなければ、せいぜいのところ私のドン・キホーテにすぎなかったのかも知れない。

かつて青春とは覚醒(であるはず)であり、闘いであり、葛藤であり、世の中に眠り込む前の、つかのまの世界との新鮮な出会いであった。それは成長というより飛躍であり、飛び越えることの困難な危険な深淵であり、安全を賭金として差し出して初めて参加が許される、めくるめく冒険であった。そうあるはずであった。そうあるべきであった。しかし、いかなる深淵も、飛び越えてみればいたって狭隘な小さな溝にすぎず、そのたびに、どれも滑稽かつ矮小な風車の如きものであることがわかるのであった。

おそらくは、人生の「挫折」や「転向」などが必要であったのかも知れない。このような大きな屈託を抱えて初めて、青年を脱することができ、遙か遠くに郷愁の青春について語ることもできたのかも知れない。思えば私の人生には、青春特有のそのような劇的なことは何一つ起こっていない。考えを変えたことは何度もあるが、「弾圧」を恐れての「転向」ではない。ただ考えが少し進歩しただけである。順風満帆の人生とも言えないが、いたって平凡なものに属している。

ひょっとしたら何かが起こってはいたのに、本人が気付かないだけかもしれない。本人が気付かないうちに、私は大きな挫折を経験していたのだろうか? たとえそうだとしても、それでは「近代的自我のドラマ」にはならない。老人によって回顧される美化された青春の文学は、数え切れないほどだ。私にそのような時期が訪れなかったのは、ひょっとしてまだ「青春」が続いているからだろうか?

驚くべきことに、小林秀雄は還暦を迎える頃になっても、「せめて、これを機会に、自分の青春は完全に失われたぐらいの事は、とくと合点したいものだと思う。ところが、このいかにも判然とした、現実的な感覚が、ともすれば、私から逃げるのである」と書いているのである(p−59)。三浦氏は、小林秀雄が滑稽なまでに青春の観念にとらわれていることを浮き彫りにしている。実際、普通の伝統的社会においては、老醜をさらしながら若い娘に言い寄ろうとするような者の滑稽さを、笑いものにするのが常である。アルレッキーノの演劇やシャリヴァリなどはたいていそれだ。

私はこれといって「挫折」も「転向」も経験しなかったものだから、「成熟」の機会を逃してきたのかも知れない。多分「挫折」を経験するためには、青春特有の繊細な感受性が必要なのである。してみると、私のように鈍い者にとっては、成熟以前に、青春そのものが存在しなかったことになる。

三浦氏にとって、青春は享楽的な18世紀的消費生活ではなく、まじめくさった清教徒的禁欲の生産中心の生活規範を基礎としていた。19世紀の工場労働者に押しつけられた軍隊的規律は、既に諸家から指摘されてきた所だが、それを基盤として初めて、一望の下に世界を視野に置く、近代のモノローグ的主観性(デカルト的コギト)が成立するわけである。もちろん三浦氏は、バフチン流のポリフォニー的主観性やカーニヴァル的間主観性を重視して、「近代的自我」の神話を解体しようとするのだ。

たとえば、太宰治の文体の中に、文語と口語が混淆し、多声化する様を確認し、それを落語の成立にまで遡ろうとする。太宰の醸し出す滑稽味は、この多声性から来るという。たとえば次のような引用がある。

 私は、実はこの物語、自身お金に困って、泥棒を致した時の体験を、まことしやかに告白しようつもりでいた。それは確かに写実的にて、興深い一篇の物語になったであろう。私のフィクションには念が入りすぎて、いつでも人は、それは余程の人でも、あるいは? などと疑い、私自身でさえ、あるいは? などと不安になってくるくらいであって、そんなことから、私は今までにも、近親の信用をめちゃめちゃにして来ている。(p−178) 

また次のような引用がある。

[訪問者が]二人連れで私のところにやって来ると、一人はもっぱら華やかに愚問を連発して私にからかわれても恐悦の態で、そうして私の答弁は上の空で聞き流し、ただひたすら一座を気まずくしないように努力して、それからもう一人は、少し暗いところで座って黙って私の言葉に耳を澄ましている。愚問を連発するとは言っても、その人が愚かしい人だから…というわけではない。…その一座の犠牲になるのを覚悟して無様な愚問を連発し、恐悦がったりして見せているのである。尊い犠牲心の発露なのである。(p−167) 

「なるほど」と言うしかない。説得力がある。名人の語り芸を思わせるところだ。

私などは、自身の生来まじめな近代的主観性のためか、授業中でも笑いを取るのが苦手である。陰で笑われているのかも知れないが、授業中には学生は滅多に笑わない。私がおもしろいことを言わない、というのではないと思う。だが、「今のは重要、試験に出るよ」と言うように、「今、ボク、おもしろいこと言ったよ」と言うのもナンだから、黙っている。それだから学生は、笑ってもいい所なのか、わからないのである。

笑わせるのは不得意であるが、逆に、「歌う」のは得意である。だが、授業で私がする過ちは、主としてあまりにしばしば歌い上げるということであろう。多分、まれにそれが起これば、学生たちも感動したことであろう。そのとき、薄暗い禁欲的学窓に、ほのかに金色の西日の影が照り映えたことであろう。ところが私はといえば、しょっちゅう歌い上げてしまうので、学生たちは「またか」といった風情で、かえって飽き飽きしているのである。

時々、歌い上げながら、密かに学生たちの様子を観察するのであるが、少しも感動する様子がないのは不思議である。むしろ、私自身が自分の言葉に感動して、思わず涙を見せてしまわないかと心配になるくらいだ。(つづく)

  
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2013年06月05日

ナブッコ

久しぶりに『ナブッコ』を聴きに行った。ヴェルディ初期のこの作品は、1998年ダニエル・オーレンの指揮で、サントリー・ホールでの演奏会形式での演奏に接して以来、私のもっとも愛するオペラの一つとなっている。

この曲のように、合唱に重要性がおかれ、しかも合唱の人々の演技があまり要求されない作品では、新国立の舞台は好演となることが多い。今回も、素晴らしい合唱の迫力に圧倒されながら始まった。しかし、どうも演出(グラハム・ヴィック)には疑問を感じたので、それについて記しておきたい。

しばしばなされるように、時代背景を現代にとるのは別段いいとも悪いとも言えないとして、ナブッコ(ネブカドネザル)のアッシリア軍を、何かのテロリスト・グループと設定するのはいかがなものか? 単なるテロ・グループが、どうやってエルサレム全体、あるいはイスラエル全域を制圧するのか?
 
一見したところ、今回の舞台はデパートの一角とされており、ナブッコの一味は、せいぜいデパートの建物を占領しているようにしか見えない。そういう設定にするにしても、ナブッコが王であることはどうするのか? 仮にも大帝国の王である。二人の王女(アビガイッレとフェネーナ)の扱いはどうなるのか?

どうしても、ナブッコは、帝国の大軍を率いて、エルサレムに入城するのでなくてはならない。全土を制圧するのであるから、もちろん正規軍でなければならない。アッシリアの侵略軍が、イデオロギー的パルチザンではなく、王の正規軍だからこそ、王の回心だけで、一転してユダヤ人を解放することもできるわけである。

演出家グラハム・ヴィックは、背景を現代化するために、ユダヤ人たちを、デパートで高級品を買いあさる現代の消費者に仕立てている。その贅沢な消費生活が神の怒りを買い、テロリストに襲撃されるというわけだ。

何とも安っぽく安直な発想というしかない。彼自身、そのような消費生活を享受しながら、それにとっての脅威としては、テロリストぐらいしか思いつかないのであろう。

テロリスト・グループは、動物の仮面をつけ、髪を五色に染めたり、ジーンズや迷彩服といった服装から、せいぜいコンビニ強盗がお似合いの下町の未成年ギャングのようでもあり、またお揃いで無いさまざまな武器を手にする所から、アル・カイーダの戦闘員のようでもあり、あるいは一人がつけていたガイ・フォークスの仮面から見れば、アサンジ氏で有名なアノニマスなどの反システム運動活動家のようでもある。

おそらく、演出家にとっては、これら三者は、ほぼ同類のものと意識されているに違いない。これらまったくイデオロギーも活動様式も違う者たちを同類のものと見なしてしまうという点にこそ、ヴィック氏のものの見方、あるいは見えなさのあり方、さらに言えば想像力の極端な貧しさが示されているのだ。言い換えれば知性の欠如と言ってもよい。「不逞のやから」はみな同じに見えてしまう保守的なボケ老人の見方である。

消費生活の欲望にまみれた「罪深い」人々は、テロリストに襲われ、心を入れ替えることを迫られる。すると、第三幕の初めで、彼らは高級ブティックをうろついていた服装のままでひざまづき、あの「ゆけ、思いよ、金色の翼に乗って」を歌うはめになる。あの心を締め付けられ、胸が張り裂けそうな魂の叫びを、彼らが歌う時、我々はどう感じればいいのだろう? 「滑稽な茶番はやめてくれ!」と叫びたくなったのは、私だけだろうか? ユダヤ民族と他のすべての故郷を追われた人々、イタリア人と他のすべての祖国の自由のために戦う人々に対するたちの悪い冒瀆ではないか?

以上のことからの必然とも言えるが、ナブッコの罪と罰、そこからの懺悔とよみがえりの、内面のドラマは描かれようもない。

ヴェルディの作品では、極悪非道の暴君でさえ、豊かな内面のドラマを抱えていることが多い。ドン・カルロの父王の場合がそうだ。息子の恋人を奪って妃にした王は、真の愛と友情に飢えており、孤独をかみしめながら歌うアリアは、決して民衆の共感を得ることはないが、我々聴衆の共感を呼ぶ。

ナブッコの苦悩も同様だ。この人物が心底悪人で無いことがわかる。しかし、帝国を率いる大物として描かれず、ただのチンピラかテロリストの頭目でしかなければ、神に成り代わろうとする野心も持てなければ、そのために神を恐れ、一転、懺悔しようとすることも有り得ない。

会場で配られていたヴィック氏の「プロダクション・ノート」の抜粋によれば、彼は東京公演にあたり、「唯一神の観念を日本でどう捉えるべきか」という点で悩んだそうである。日本人にとって、この旧約の偉大な観念が理解可能なのであろうか? 

ところが、実際に彼が見出した解決は、神の代わりに自然の力で代置するという、何とも安直なものでしかなかった。

「神が自らの力を示そうとするとき、自然現象を使って意志を示す。ですので、本プロダクションでは、全能の力すなわち自然の力と見なすことに決めました。自然の力を蔑ろにし、無視し、自然から背を向けたとき、我々人間は危険な状況というものを呼び込んでしまう」というのだ。何とも安易なエコロジーの思想ではないか?

氏は、日本人には唯一神の観念が理解できるのか気遣ってくれているが、果たして、旧約の神を彼自身が理解できているのかどうか、こころもとない。というのは、旧約の神も新約の神も、決して自然の力によって代替できるようなものではないからである。

合唱も独唱者も熱演であっただけ、この荒唐無稽な演出が残念である。

ただし、「黄金の翼に乗って」の合唱のところは、音楽的にも満足のいくものとは言えなかった。妙なテンポ・ルバートを利かせてうんと甘ったるく歌われていたが、そんなローマンティックな音楽でいいのだろうか? 心を歌うとなると、ローマンティックしかないとでも思いこんでいるのだろうか? もっと厳しく、もっと清潔に、もっと決然と歌われるべきではないのか?

ダニエル・オーレンは、15年前に、極端なppで歌い出したものである。心の中のつぶやきのように祈りのようにそれが鳴り出したとき、我々聴衆は、それを歌っているのが舞台の上ではなく自分自身の心ではないかといぶかったものである。そしてそれが、ついにはffの魂の叫びへと燃え上がったものであった。そこには、美しく歌おうとか、美しく聴かせようなどという配慮は消えていた。ただ祈りの叫びのみが有った。
  
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2013年05月03日

小玉ユキ氏の『坂道のアポロン』

本作品は、読みやすく、読後にさわやかな印象を残す名作であり、アニメ化もされるほどよく知られたものだから、あらためて批評するまでもないとも思われるが、最近これについて友人と話をしたら、愛読者の間でさえ、重要な点が共通認識になっていないことがわかったので、気になる点を述べておくことにする。

いま手元にテクストがないので、記憶をもとに書くことになるので、思い違いがあるかもしれないことをあらかじめお断りしておきたい。(以下、ネタばれあり)

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2013年04月19日

偉大さ

永井均氏の近刊『哲学の密かな闘い』を手にとって時々拾い読みして見る。いろんな機会に発表された小文を編集したものである。氏の文章の魅力は、体系的な論じ方をするより、このような小品の形を取るとき、一層鮮やかに現れるように思われる。箴言風の断言や、鮮やかな言い切りのスタイルが、もともと達人風の氏の哲学にふさわしい風味を与えるからかもしれない。

氏の哲学ファンの人にとってはなじみの話題も多く、まただからと言って、氏の哲学に共感しない人々をこの本が一挙に靡かせ得るものでもあるまいが、その名人的な語り口は、この世界(学者世界)には特に希少な存在として、常に珍重されるべきものと思われる。

ここでは、ニヒリズムとニーチェについての氏の考えと私の考えの違いについて、少し気づいたことを記しておくことにする。

私自身は、「ニヒリズム」という言葉で理解するのが適切な事態が有るとは思えず、せいぜい文飾として、「彼は結局ニヒリズムが欠如している」とか「彼は、最近ニヒリズムの味をまぶすことによって、いい味を出せるようになった」とか、軽口をたたく程度の言葉としてしか使うことはない。歴史哲学としても文学批評としても、厳密な使用に耐えるようなまともな概念とは見なしていない。したがって、それに関わるニーチェの判断にも、さほどの重要性をおいてはこなかった。

もちろん、まったく無意味だというのではない。だが、どうやら永井氏の理解とは少し違うようだ。氏が問題とする文脈で「ニヒリズム」とは、「それを信じて生きるべき究極の価値のようなものは存在しないという考え方や生き方」(p−87)である。私自身、この定義の意味がよく理解できたとは言えない。「究極の価値」という表現の意味がよくわからないのである。

他のものに還元できないような価値、つまり他の価値に依存する手段的価値ではなく、それ自体が価値であるものがそれだというのなら、もちろんそのような価値は無数に存在するだろう。人によっては、朝の散歩が、あるいは夕方の散歩がそのようなものであろうし、愛犬との戯れの楽しみや、友人との語らいや、好きな曲の練習(発表しようという意図など持たずにする練習)がそれだと言うだろう。いや、そのようなもので人生は満ち満ちていると言うだろう。手段的な価値しか持たないものの方が、よほど少ないだろう。

しかし、この定義で言及された「究極の価値」が、そのようなものではないだろうことは想像がつく。ひょっとしたら、それはさまざまの価値を価値づけている根拠的な価値なのかもしれない。そのようなものが存在すると考える人がどれくらいいるかはともかく、すべての価値はただ一つの価値、たとえば快楽を目標としていて、それを実現する限りにおいて初めて価値と言える、という主張も一応は理解できるものである。

しかし、それが価値のたった一つの源泉であると想定するのは、バカバカしいくらい非常識であろう。すべてが快楽という一元的価値によって測定され、それに還元されると考えることは、すべてが道徳によって価値づけられるなどと考えるのと同じくらい馬鹿げている。ベートーヴェンの作品とシューベルトの作品の与えるものは、同じ快楽という尺度で計れるものであろうか? 子育ての面白さと数学の面白さは、快楽という価値に還元できるものだろうか? いや、同じ面白さでさえあるだろうか? 子育てにも数学にも固有の、他に還元不可能な面白さが有ると言うことは、ニヒリストの言い分なのであろうか、それともニヒリストではない者の言い分なのであろうか? 私はもちろん、他に還元不可能な究極的価値が、無数に存在していると信じている。

このさい、「知っている」というより、「信じている」という方がよい。なぜなら、ここが肝心なのだが、私はその価値の全貌を知り尽くしてはいないからである。子育ても、数学も、ベートーヴェンもシューベルトも、知り尽くすどころではない。ほとんど知ってはいない。ただ、奥深く存在するものを、畏敬の心をもってはるか遠くから信じているだけである。それゆえ、「世界のすべての価値」を睥睨して語るような語り口には、違和感をもたざるを得ない。

実際私は、偉大さというものが存在すると信じている。逆に矮小さというものがあまりにも数多あることも知っている。また面白さが存在することを知っているし、つまらないものが、その千倍も存在することも知っている。あるいはまた、「豊かさ」と言えるものが、たとえばベートーヴェンのある作品の中には、ふんだんにあると思う。

これらの価値判断は、見せかけのまやかしなのであろうか? 本当は「偉大なもの」など何もないのであろうか? 「高貴なもの」など存在せず、それらは階級闘争の文化的粉飾にすぎないのであろうか?

私は、そのようなうがった見方こそ、ルサンチマンの現れであると考えている。むしろ、偉大なものを前にしたら畏敬の念に打たれ、高貴な精神の前にはこうべを垂れ、面白いものには子供のように目を輝かすことこそ、真の教養と言うべきだろう。なぜなら、実際の子供はこのようではないからである。数学の問題に目を輝かすためには、十分に数学を理解せねばならず、モーツァルトを面白いと思うためには、深く音楽を理解せねばならない。18歳のモーツァルトが書いた曲を、子供たちがたやすく理解できるはずがない。彼我の間には、絶対に越えられない壁がそびえており、これがどのくらい高いかを理解することさえ、一生かかっても難しいほどである。

世界には、価値がないどころではない。我々に知られていない、未だ輝かざるあまたの星々が存在するに違いない。それを見出すためには、精神や感覚の訓育(Bildung)が必要であるばかりではなく、ある種の戦略的パースペクティヴが不可欠なのである。ニーチェの真価は、このような戦略的パースペクティヴの開発にあった、というのが私の考えであり、キリスト教やプラトンに対する批判も、その戦略の一部として理解されねばならない。

偉大な存在が、普遍的な偉大さの理念(イデア)を分有しているはずだ、などという見方こそが、つまり、価値あるものは、おしなべて普遍的価値理念の分有によって価値が有るという見方こそが、世界を平板でつまらないものに変えてしまうのであり、結局はニヒリズムの根拠なのだ。「ニヒリズム」とは、実際に世界に価値がないという事を主張するものではなく、このような見方の背景をなすルサンチマンの戦略のことなのである。

このように見て来ると、永井氏の議論は、奇妙にニーチェの論敵の議論に似てくることがわかる。たとえば、「世の中で価値あるとされているすべてを無と見る視点に立つこと、立てること、ただそれだけが哲学の意義なのである」(p−102)と言われる。ここから、[ニーチェは]「人生が無意味だと落胆するでもなく…いわばその無意味さこそが意味そのものであることを示した」(p−98)とされる。

このロジックは、私にはよくわからない所があるとはいえ、それが奇妙なまでにルサンチマンのやり口に似ていることに気づかないわけにはいかない。私は、そもそもこのように一挙に世の中のすべてを断罪するような手並みや、悪から善をひねり出す一発逆転のような手品に、ルサンチマンの心性を嗅ぎ取ってしまう。何か絶対的な視点(哲学の視点?)、「しょせん、すべては小さなこと」(p−98)と見ることのできる視点こそが、ニーチェがキリスト教の中に見抜いていたルサンチマン的心性そのものではないのか? そして、そのようなパースペクティヴからは、世界のすべてが「しょせん小さなこと」に見えてくるのであり、「偉大なもの、高貴なものなど本当は有りはしない」という末人たちのつぶやきが漏れてくるのである。

実際「一発逆転の発想」は、ルサンチマンの特徴と言ってよい。なぜなら、価値あるものを見出すためには、細部を見落とさない眼力と、ニュアンスを聴き落とさない耳を、少しづつ鍛えねばならず、これらのたゆまぬ努力を離れて、真の教養はあり得ないからである。

したがって、ニーチェの尻馬に乗って、キリスト教批判を軽々しく口にするようなことは、まともな育ちの人間がすべきことではないだろう。まず、己れにその資格が有るのかを厳しく問い詰めるべきである。ちなみに、この「資格」という考え方こそ、ニーチェ特有の戦略的パースペクティヴを端的に示すものだ。どんなことでも万人に等しく許されているわけではないのだ。このことを理解できない人は、ニーチェを読んでも何一つ理解できないに違いない。
  
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2012年11月24日

永井均氏の『子供のための哲学対話』(解説)

このさい、3年前に永井氏の本の文庫化にあたり仰せつかった「解説」も披露しておこうと思う。永井氏の本文(講談社文庫)が対話編の形をとっているので、わたくしの解説も対話編で書くことにしたものである。永井氏のこの本は、わかりやすい文章で書かれた魅力的なもので、氏の他の本と並んで、またそれ以上に人気を博したものである。わずか400円。  続きを読む
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2012年11月23日

野矢茂樹氏の『心と他者』(解説)

野矢茂樹氏の『心と他者』が、このたび中公文庫から文庫化されて出た。そのための「解説」を仰せつかったので、その部分をここで紹介しておこう。興味を持った方は、是非とも文庫をご購読いただきたい。わずか900円で、良質な知的愉悦を満喫できるはずである。  続きを読む
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2012年08月08日

孫崎享『戦後史の正体』

本書は、戦後の日本外交を、対米従属派と自主独立派の抗争という視点から捉えたものである。我々がふつう信じ込んでいるより(あるいは信じ込まされてきたより)、米国の占領政策がいかに我が国の深部にまで及んでいるか、また独立後もいかに長く規定し続けているかを、克明に証明するものとなっている。

 しかし、そのような粗筋や結論的主張を紹介するだけでは、この本の魅力は伝えられないだろう。むしろ、外交を実際に担う個々人の行動がどのような結果と結びつくかという細部を描くことによって、外交のケース・スタディーとして多くの教訓に満ちたものになっていることが、本書の特徴なのだ。

 たとえば、つい先年(2010)ウィキリークスによって暴露された米国外交文書の中で明らかになった、2008年駐日イラン大使と駐日イラク大使の会談のエピソード(p−104)。それは、イラク大使から駐日米国大使館を通じて、国務省に報告されていたものである。

 その会見において、イラン大使は「米国がイランを攻撃しないことは誰でも知っている」と発言したという。それに対して、そんな結論を出してしまうと、取り返しのつかない失敗を犯す危険があると、イラク大使はたしなめたということだ。

「イラク大使が二度の対米戦争から貴重な事実を学んでいる」のに対して、「イラン大使は物事がよくわかっていないように見える」

 しかし、そうではないのだ! 

イランの政権中枢が原子力開発を推し進めようとしているとき、米国の恫喝に同調して「米国の軍事攻撃があるかもしれない」という弱気な報告を打電することは、大使の解任につながりかねない。そこで、イラン大使は、イラク大使にそう言わせて、それを本国に報告するという形を取って、祖国の安全に貢献しようとしているのである。

 あるいは岸信介氏が1957年首相として訪米し、アイゼンハワー大統領を表敬訪問したくだり。「アイクは、午後用事がなければゴルフをやろうと言い出した。ダレスはゴルフをやらない」(p−192)

 孫崎氏は「この裸の付き合いは重要な意味を持つ」とする。「頭脳明晰な弁護士でもあるダレスは、つねに日米交渉の主導権を握っていた。…けれども岸がアイクとゴルフをして二人だけの時間をもったおかげで、ダレスは二人の関係がどれくらい親密なものかよくわからなくなり、岸に対して厳しく切り込めなくなった。」(p−193)

 我々は外交を、国力を背景にした将棋の如きものと考えがちだ。強国を相手に交渉するのは、飛車、角、金銀を落として将棋を指すようなものだと。

 しかし、相対的弱者にも、何がしか打つ手の有ることがわかる。イラン大使は、米国の軍事力とイラン本国の冒険主義のはざまに立って、まったく無力なように見えるが、イラク大使の反論を巧みに引き出すことによって、祖国の安全に寄与しようとしている。

 岸首相は、宿題を忘れた小学生が担任の先生の前に歩み出るように、アイクの前に現れるが、それでも懐に飛び込んだ小鳥のように、アイクの信頼を得ることによって、ダレスとの交渉を有利に進めるのである。そんなことが可能なのも、圧倒的に強大な相手(米国)も、決して一枚岩ではないからである。アイクとダレスとの間にさえ、ある種の疑心暗鬼が存在しているのだ。

 これらの人の肩に、どれだけ多くの人々の人生・生命がかかっているかを思えば、おのずから粛然とせざるを得ないものがある。

 岸氏の評価については、私は孫崎氏の考えには一部同調できない所があるが(その点については以前、拙著『魂の美と幸い』「教育について」でふれたことがある)、それでも会ってわずかばかりの時間で、アイクから人間的信頼を引き出すことができた岸氏の力量には、舌を巻かざるを得ない。
  
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2012年08月06日

不倫と掟

 最近のテレビ・ドラマで、気になる筋書きがあった。ひょんなことで不倫を犯した女が、夫にそれを告白して家を追いだされ、子供との接近も拒否される、というのである。ジャンクのような細部の説明は省略するが、大きな違和感があるので、そこに含まれる掟をめぐる問題を分析しておきたい。

 まず、不倫を犯すこと自体は、まあいいとしよう。人間はおおよそそのようなことをしがちなものだから、それをどうこう言ってみても仕方ない。しかし、不倫を犯した者がそれを告白することは、彼女が、自身を「誠実な人間」と思いたいという愚かしいナルシシズムに屈してしまったことを意味している。取りあえず、家族、とりわけ子供を守るという家族へのコミットメントよりも、己れの取るに足りないナルシシズムを重視したということだ。(子どもを母親に会わせない男も、もとよりどうかと思われるが。)

 ここで、クリプキによって取り上げられた「ヴィトゲンシュタインのパラドクス」についての議論を、補助線として引いてみよう。それによれば、規則に従うことと、規則に従っていると思ひ込むこととの間に区別が引けない場合には、そもそも規則が成立しているとは言えないということである。

 この前提を置くならば、家族の掟がきわめて特殊な規則であることが浮き彫りになる。恋人関係においては、当人たちが裏切れば愛がなくなったものと見なされ、関係は直ちに解消される。愛は、当人たちが有ると思えば有り、無いと思えば無いのであるから、有ると思っていることと実際有ることの間に区別が引けないことになる。そこには愛しか繋ぎ止めるものがなく、掟は存在していないと見てよいだろう。

 これに対して夫婦関係は、愛によって支えられるのはもちろんであるが、それだけではなく、掟によっても支えられている。当人たちが、それへとコミットすることが結婚である。すると、掟が存在することと、存在すると思うこととのあいだには、区別がなければならないことになる。それは、たんに愛の関係ではなく、愛によって掟にコミットするものである。それによって愛は、掟という支えを得る。しかし、この掟自身は、愛によるしか支えをもたない。それが家族の掟の特殊性。

 もちろん家族は実定法によって保護を与えられているということもできる。しかしそれは、あくまでも家族の存在を前提にしたもので、それに付随的に財産権とか、相続権とかに対する国家的保護が与えられているにすぎない。家族の存続自身に国家が直接介入することはできないのだ。せいぜい不倫を犯せば離婚において不利な扱いを受けるといった形で、実定法は間接的に家族の保護をなし得るにすぎない。

 すると、この掟は当人たちが存続していると思えば有り、存続していないと思うや、もはや存在していないという意味で、まともな規則の体をなさないものではないのか?

 一般の掟においては、客観的事態と規範とが別のものであることが前提である。事実がどうあれ、規範は第三者(たとえば裁判官)の判断の中に現前している。だから掟の侵犯が為されても、それだけで掟そのものが揺らぐことはない。ところが、不倫においては、その事実の承認は、ただちに規範を無視するものと解釈されることにならざるを得ない。そしてその無視は、直ちに掟そのものの存続を危うくする。当事者の意志以外に、規範の支えとなるものがないからである。

 それゆえにこそ、不倫を告白してしまうことは「私はそんな掟など蹂躙してもかまわない、その程度にしか家族にコミットしていないし、その時々の都合で行動するだけだ」という恐るべきメタ・メッセージを帯びざるを得ないのである。愛と信頼にのみ支えられる掟は、その信頼が揺らげば粉々になってしまう。

 しかしだからといって、恋愛の場合のように、そこにそもそもいかなる掟も存在していないということにはならない。それはなぜか?

不倫を犯した者が、あくまでも白を切ることが可能であるからだ。掟にとって破壊的なのは、あくまでも正直な告白であり、その意志なのであり、不倫の事実ではない。当人が否認し続ける場合、規範と事実の区別は、当人の内的葛藤の中に存続し得るものとなる。それによって当人は、家族に対するコミットメントを引き受けるわけだ。

その場合当然、その配偶者は、その否認を承認せねばならない。それは、彼自身のコミットメントから当然の責任なのである。

 モンテーニュによれば、古代ローマの貴族たちは、帰宅する時わざと大きな足音を立ててゆっくりと玄関を入ってきたという。ひょっとして妻が愛人を引き入れている場合、十分逃げる余裕を与えるためであった。彼らは、自分のナルシシズムと倫理的責任を混同するような幼稚な連中ではなかったのである。

 今回のテレビ・ドラマでは、不倫を侵すのは女性の方ということになっているが、男性の方であっても同様である。それが女性の現実を描いているとも思われない。(脚本は、中園ミホという女性らしいが、ダメな脚本がダメなのは、書き手のジェンダーとは関係ない。)

 これは女性の実像であるどころか、むしろ愚かな男性聴取者の願望の投影なのである。まず幼稚な男性聴取者は、女が「正直」「誠実」であってほしい。その上で、ひざまづいて許しを請い求めてほしいのである。「罪深い妻」に対して、全面的権力と絶対的な倫理的優位性を得たいのである。実際はこのような愚かしい欲望こそ、まったくもって非倫理的なものである。このテレビ・ドラマは、男性聴取者のナルシスティックな欲望に媚びて、幻想を垂れ流しているにすぎない。

 向田邦子のテレビ・ドラマでは、このような男の欺瞞的幻想が無批判に垂れ流されることはけっしてなかった。男たちの弱さや愚かしさが、時としてほほえましくユーモラスに肯定されるかに見える所においてすら、その空虚さはしっかり見据えられていたものだ。それというのも、「世間の掟」(それがいかに欺瞞的なものを含んでいたにせよ)が、常にドラマの根底にあって、諸個人に内面的反省を迫っており、登場人物はその倫理的緊張の中に生きていたからである。

 向田ドラマと比較してみるとき、この数十年の間で我が国のモラル・バックボーンがいかに脆く崩壊してしまったか、我々の社会の倫理的劣化がどこまで昂進したか浮き彫りになるのである。
  
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2012年03月02日

安冨歩氏の『生きる技法』(青灯社)

 人生論の類で、読むに堪えるものは少ない。それは、人生を論じるとき、己の人生について何がしか語らざるを得ず、それゆえ人は人生論を語る態度の中で、意識的にせよ無意識にせよ、自己正当化や自己美化を織り込むことになりがちだからである。

 そうでなくても実際にためになる提言をおこなうことは難しい。個々の人生には無視することのできない多様性があり、すべての人にとって役立つ知見などないからである。

 しかし、多くの人が足をすくわれる同じような罠があるかもしれない。しかしそのような罠は、それを指摘されただけで克服することが難しいものでもあるだろう。

 本書の独自な成功は、この罠の的確な指摘のみならず、極めて実践的な提言を含む点である。

 本書の中心的メッセージは強力で明確で根本的であるが、一見する所、当たり前の真理と見えなくもない。「人は多くの人に支えられて初めて自立できる」「少数の人に依存することこそ従属することだ」「そのために不可欠なものは、信頼できる友人たちの存在である」「自由と自信とは成長の中にある」「成長のためには、自己嫌悪を振り棄てる必要がある」…

 しかし、安富氏がこれらの当たり前の真理に込めた洞察には、鋭いエッジが利いているのだ。

 友人の必要に反対する人はいないだろうが、氏は「誰とでも仲良くしてはならない」という系を付け加える(p−42)。さらに「嫌だと感じる人と友達のフリをしてはいけない」(p−50)とも言う。これらの苦みのきいた洞察にこそ、本書の真価がある。ここには、その洞察におけるまことの勇気が光っている。

 ただし、私としては、本書の真理の重要性を認めたうえで、付け加えたいこともある。
 「嫌だと感じる」自分の感性に、心の狭さとか、偏見とか、仲間意識などが忍び込まない保証はないということだ。

 我々は、単に違うというだけで嫌悪してしまうような愚を、是非とも避けなければならない。それゆえ、「『仲間』と『友人』を混同してはならない」というテーゼを付け加えたい。

 我々は友人とだけ付き合うわけではない。大きな事業を興すためには、多くの仲間が必要である。しかも「仲間」は、当該の事業ごとに違ったチームを組むに必要な違った仲間でなければならない。それがすべて友人であれば言うことないが、友人としか事業ができないとすれば、やれることはごくわずかに限られてしまう。

 友人ではない仲間たちと、契約とか共通利益などの部分的信頼によって、我々はさまざまのことを成し遂げ得るようになるのだ。

 もちろん仲間が信頼を通じて「友人」に昇格することがあってもよいし、それは望ましいことだろう。しかし、仲間は自動的に友人だとか、友人なら当然仲間でもなければならないなどと考えたら、大きな間違いだろう。
  
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2012年02月23日

平川克美氏の『俺に似たひと』


 平川克美氏の『俺に似たひと』(医学書院)を読む。平川氏の実父の晩年2年弱を介護した記録である。

 文章はてらいもけれんもなく、感傷を排して淡々とつづられていく。さながら清澄なせせらぎのように静かに流れていくリズムは、生の時間そのもの、あるいは海底に響く耳には聞こえないクジラの唱のようだといってもよい。

 介護や看護の経験のない人にとっては、いつか経験するための覚悟のようなものを教えてくれるが、決して暗くはならない。むしろ苦労や哀しみの中にも、一条の慰めや尊厳の光がすべてをほのかに包んでいる。

 これに似た経験を持つ者にとっては、何度か胸を締め付けられることだろう。著者が記したことの背後に、記されなかった何倍かの事実があることを直感するからであり、自分の乏しい経験と照らし合わせても、著者の誠意と文章の真実を直ちに実感できるからである。

「そういうことかと、俺は思った。一年半の間、介護を続けてきて、いちばん俺が必要なときに、俺はいなかったということか。
 最も会いたいときには会えず、最も必要なことはついに語られないのが、ひとの世の常なのかもしれない。思い通りになる世の中などは、どこにも存在していない。始まりの合図も終わりを知らせるエンドマークも出ない。いつも唐突に始まり、宙吊りの状態で突然終止符が打たれる。人生は映画のようでもないし、ましてや何度も繰り返すことのできるゲームのようでもない。」(p−208)

 ここには何の独創も、新機軸もない。誰でもが知っている当たり前の真実があるばかりだ。
 
 しかし、このような言葉を自分の経験の真実として語ることのできる一人の人間の存在に、胸を打たれる。
   
 Ecce homo!(この人を見よ)
  
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2012年02月18日

プラトンの『メノン』

メノン
 プラトンの『メノン』の新訳が、渡辺邦夫さんの翻訳で、光文社文庫から出た。
 
 一読したところ、とても素晴らしい訳業だと感じた。光文社文庫は、古典の新訳を次々に出すというたいへん意欲的な試みをしている。渡辺氏の訳は、非常に自然な日本語でわかりやすいばかりではない。ごく最近の国際的な学術的研究成果を踏まえた本格的なものでもある(らしい)。私自身、古典学の最近の動向を知らないので、これは訳者あとがきからの知識である。
 
 加えて、本文と同じくらい浩瀚な解説がついている。この訳業の大きな特徴はこの点であろう。

 このような高い水準の翻訳が一級の古典に新たに加えられたことを、読者の一人として喜ぶとともに、渡辺氏の学者的良心と出版社の炯眼を賞賛したい。
 
 ただここでは、氏の解説を読んで感じた私自身の違和感や批判的考察を中心に記しておきたい。もちろん、このような違和を感じさせてくれるということ自体が、私自身にとってまことに啓発的であるし、有り難いものであることは言うまでもない。
 
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2011年09月28日

関曠野氏の新著

関曠野氏の最新著『福島以後―エネルギー・通貨・主権』(青土社)を読んだ。関氏と言えば、数々の独創的な思想史的著作や政治哲学的論考で既によく知られている。本編でも氏の主張は、期待を裏切らない氏独自の洞察で満ちたものだ。
 時事的発言も重要だが、何といっても注目すべきなのは、氏の思想史家としての大胆な見通しや解釈の見直しである。たとえば、家族の法がローマ教会のイデオロギー闘争の結果であったこと、そこで確立した両性の自由で平等な契約という観念が、後のロックの社会契約説の基礎を与えていること(ただしロックは、それを首尾一貫した形で展開したわけではない)。あるいは、天皇制と皇室についての見方においても、氏は深い思想史的教養に基づく独自な見解を示している。明治維新を、公的法理を欠いた権力の私的略奪として解釈する一方、近代天皇制がそもそものはじめから欠いていた理念的正統性に、人民の統合という内実を初めて与えたのが、明仁今上天皇と美智子皇后であるとする。しかもそれは、我が国の文化的伝統の延長上にあり、かつそれを生かすものであるとされる。それは、本居宣長から三島由紀夫にまで受け継がれている文化的天皇制論の一種と言えるかもしれない。
 これらの主張は、極めて興味深く多方面の考察を動員して主張されるものであるから、にわかに納得できない人がいても当然であろうが、関氏の他の仕事同様、我々の観念の盲点を突くような洞察を含んでいて、無視できない説得力をもっている。
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2011年08月14日

畏れを知らぬ人々

常々尊敬している文芸批評家、山城むつみさんが書いているので手に取ってみたのだが、発売中の『群像』で、石原吉郎の「ペシミストの勇気」について2・3人の批評家や小説家で対談している。私は既に拙著『神学・政治論』でこの問題を取り上げたし、そのなかで山城さん自身の、いつになく浅い解釈を批判しもしたので、ここで繰り返すことはしない。

 ただ気になったのは、この対談で、ある小説家が鹿野武一の無期限断食を「ハンガーストライキ」と捉えたうえで、「ハンガーストライキは、他人の共感を得て動かすという、極めてヒューマニスティックな行動でしょう。…それをうまく使っているんですよ。嫌らしい。」と決めつけている点である。さらに、石原氏の記述は、「本当に自分がそういう風にふるまいたかった、あるいはそうありたかった、あるべきだったということの捏造にだんだん近くなってきた」とし、「鹿野みたいな人が、こういうときだけ「ハンガーストライキするよ」といったとしたら、さらに奥行きが出るというか、鹿野がもっと豊かになって面白いというか、フィクションとしてよりいいものになるかもしれない。」とさえ言うのである。ここで「嫌らしい」とか「捏造」とか「さらに奥行きが出る」「よりいいもの」という表現は、文字どおりこの小説家ご本人のものである事に注意!

 こういうものを目にしていつも感じるあの感覚が、鬱勃として酸っぱい胃液のように湧き上がるのを私は感じた。「畏れを知らない!

 おおかたこの人は、永井均さんの「ニーチェ論」か何かを少し齧ったことがあって、自分でもいっぱししゃれたことが言えそうだと錯覚してしまったのかもしれない。しかし恐るべきは、この程度の人間理解しかないのに、この問題について自分に論じる資格があると思い込むその厚かましさである。「末人たちの楽園」と言うしかない。
  
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2011年08月02日

トロッコ問題

最近、サンデル教授の影響であろうか、倫理的難問が一見具体的な例題として問われることが多い。その典型例が、トロッコ問題と言われるもので、たとえば暴走するトロッコがあって、切り替え線で二つの線路に分かれているとする。一方に行けば多くの人を犠牲にするが、他方に行けば犠牲は一人で済む。その場に居合わせた者は、トロッコをどちらに導けばいいか?と問われるのである。この場合は、かけがえのない人命が功利主義的考慮に対象にされてよいかが問われているわけであり、我々はその問題状況をこの事例で明確に理解できるわけである。

 しかし、果たして倫理問題がこのような形で本当に理解できるものであろうか? 事例の説明が、判断できるにはあまりにも粗雑ではないだろうか?その場に居合わせた人がどのような立場の人間か問題にしなくてもよいのか?それぞれの線路の先にいて犠牲になる可能性のある人がそれぞれどのような人なのか、自分の家族や友人がいるのかなどは問題にならないのか?また、判断する本人が、どのような履歴をもつ人がんなのかは問題ではないのか?

 もちろん、問題は正義であり、それゆえいかなる個別性も問題から捨象されねばならないのだ、と言われるかもしれない。しかし、そのような「負荷なき自己」を前提すること自体が、すでに論点先取のはずである。だがもし、負荷ある具体的自己を登場させようとするなら、それは例題で述べられるような単純なものではないだろう。情況にしても、このような類型的記述に尽きるものではありえない。我々は、極めて多様なディテールを含む情況の中で判断するのであり、判断主体も自分がどのような人間であるかを抜きに判断できるわけでもないはずである。誰でも、実際の倫理的判断においては、このような主客両面における細部を織り込んだ状況において決断せねばならないのであり、しかも決断のための時間には大きな制約があるのが常である。それらの細部いかんによっては、当然判断の結果が異なり得るはずである。つまり、サンデル教授ばりの問題設定は、全く疑似問題にすぎないのである。そこでどんな回答を為そうと、現実の決断には何の関係も及ぼし得ない。

 ところが、一見するとそうは見えない。いかにもそこで倫理問題が問われているかのように例題は設定される。そのことが果たすイデオロギー的効果とは何か? それは、実際の決断に先んじて、判断の規準(たとえば「正義の規準」とか「道徳律」)が与えられるかの様な幻想をふりまくことである。つまり、現実における決断の不安から個人を免除し、あたかも本物の決断など必要ないかの如く事態を偽造することである。そして実際の決断を、倫理学の練習問題に変える。これは倫理的思考の責任を解除し、思考の見せかけに置き換えることにすぎない。

 複雑な事情を解きほぐし、類型的事例として取り扱う訓練が、法学部の学生にとって必要なディシプリンであるのは当然だが、倫理問題のすべてがその手の問題であると見なすのは倫理的音痴だけである。あえて言えば、そのような訓練はしばしば倫理的音痴を生み出しがちである。自らの状況を、ひとごとのように処理することこそ、このディシプリンの眼目だからである。素面な意識を育てるにはそれも有益だが、自ら実存的に引き受けるしかないものがあることを忘れるなら、それは倫理的に無意味というしかない。倫理は、究極は決断であり、それはリスクを伴うものであるのに、そのリスクを回避することを求めることである。したがって実際には、トロッコ問題は倫理的思考を育てるより、倫理的思考を麻痺させるように働くのである。

 それに代わって倫理的思考を育てるものがあるとすれば、それは文学である。文学においては、決して類型化に収まりきらぬ状況が描かれる。我々はラスコリニコフやスタヴローギンについて読みながら倫理的思考を育む。それは、我々のいかなる実生活とも異なるが、かえってそのことによって実生活における倫理的意識を活性化するのである。もちろんそこで、我々は単純な選択肢を与えられるわけではない。ラスコリニコフのように老婆を殺害すべきかどうか、などが問題ではない。そんなことは問われるまでもないからである。要するに文学は、決して教訓を与えるのでもなければ、単純な倫理原則を教えるものでもない。そもそもそんな原則など、実際には何の役にも立たないことを教えるのである。

 トロッコ問題は倫理でも文学でもない。それは法学演習である。
  
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2011年05月30日

丸山真男の「福沢諭吉論」

ゼミで丸山真男の「福沢諭吉の哲学」を取り上げたついでに、梅本克己の「マルクス主義と近代政治学―丸山真男の立場を中心として―」と、鎌田哲哉氏の「丸山真男論」を久しぶりに読み返してみた。以前に読んだときには読み飛ばしていた所もあり、あらためて深い感銘を受けたが、いまでは以前より両論に対する私自身の批判点もはっきりしてきたので、その点についてノートしておきたい。ついでに述べれば、梅本論文は、丸山自身が唯一「見当違いがない」(『戦後日本の革新思想』p−394)と認めたものであり、鎌田論文は1998年「群像新人文学賞」の受賞作品である。(この作品を選出した当時の『群像』の見識と、何より鎌田氏を応募させる気にさせることができた柄谷氏をはじめとする選考委員の面々は、栄誉に値すると思う。)
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2011年05月24日

共有されるべき学問的伝統―吉本隆明と柄谷行人

現代日本で指導的な役割を演じてきた二人に関する本(合田正人『吉本隆明と柄谷行人』)を読みかけていたが、少々引っかかるところがあるので特記しておきたい。

 両氏の思想史的意義について論じるのは別の機会に譲りたいが、私が引っかかりを感じたのは、意味や言語の理論に関わる部分についてである。ソシュールやフッサールの意味の理論に比べて、フレーゲに始まる「言語論的転回」をどう捉えるにせよ、その基本が共有されないと、非常に瑣末なところで議論が右往左往してしまう。たとえば、デリダとサールの間で何か論争がおこなわれたことがあるが、デリダの標的になったのがフレーゲに始まる言語哲学の本流ではなく、オースティンの語用論的研究のさらに末端に位置するサールであったことはそのひとつである。彼らの論点の細部がどのようであったとしても、フォースの理論にはセンス(Sinn)の理論が先んじなければならないことは、フレーゲの基本構想に含まれていた。

 ひょっとしたら、デリダはその考えそのものにも反対なのかもしれない。しかしそうなら、フレーゲに代わって、規範性と言語使用への反映(manifestation)を含むような代替的意味理論のプログラムを示すべきであろう。発話(言語使用)の真理性とか適切性というものを中心とするような広義のフレーゲ的理論に代わって、どのような体系的理論が可能であろうか? デリダがその見取り図のようなものさえも、示唆したり提案しているとは思えない。

 意味の理論において真理概念(または適切な発話可能性概念)が中心的役割を果たすという洞察に比べれば、フッサールの「志向性」をめぐる理論装置さえ、いかに素朴に見えてしまうことか! この点をしっかりと踏まえることが共通の議論の土俵とならない限り、意味をめぐる実りのある論争は難しい。

 たとえば、柄谷氏は「ある語が固有名であるか否かは、個体に対する我々の態度いかんによっている」(『言葉と悲劇』p−394)とか「固有名は、たんに個体に対する命名ではない。それは『個体』をどう見るかに関わっている」(『探究』p−29)と言っているようであるが(同書p−123からの引用)、このような言い方はいかにも素朴に聞こえてしまう。なぜなら、これは言語分析に導かれて存在論的洞察が得られるのであって、その逆ではないという、アリストテレスと共通するフレーゲの洞察によって、明確に批判された立場のように聞こえるからである。

 我々は個体に対する態度(存在論的決定)から、特定の表現が固有名であるか否かを決定するのではなく、我々の言語実践の形(たとえば推論可能性の形)から、特定の表現が固有名(むしろ単称名辞)に分類すべきか否かが決定されるべきなのである。たとえば、「ブルータスはシーザーを殺した」において「ブルータス」や「シーザー」が固有名であるのは、この文から「誰かがシーザーを殺した」とか「ブルータスは誰かを殺した」を推論できることなどと無関係ではない。これだけで固有名の条件が尽くせるかどうかはともかく、いずれにせよ、それらが固有名であることを、実際のブルータスやシーザーの存在性格を観察することから得ようとするのは本末転倒なのだ。

 また、同書p−139には吉本氏の『言語にとって美とは何か』から次のような記述が引用されている。

たとえば「花」とか「物」とか「風景」とかいう言葉を使うとき、これらの言葉は指示表出のヨコ糸が多く、自己表出のタテ糸は少ない織物だ。別の言い方をすると何かを指すことが一番大事な言葉である感覚と強く結び付いている。…まったくこれと逆に、いわゆる「てにをは」つまり助詞をとりあげてみると、これらは指示表出性は極めて微弱だが、自己表出性はなかなかのものだと考えられる。(同7~8ページ) 

 ここで「指示表出」とか「自己表出」ということが厳密に言って何のことであるかはよく理解できなくても(正直に言えば私には理解できない)、ここで言葉の意味が、何のためらいもなくではなく単語レヴェルで問題とされているのは明らかである。これでは、フレーゲの文脈原理(ことばの意味は文におけるその意味への貢献である)とかヴィトゲンシュタインの「意味とはその使用である」という洞察が生かされようがない。

 つまり論を支える骨格となる戦略地図が欠けているために、全体がイメージからイメージをたどる連想ゲームのようになってしまうのである。

 今私が言いたいのは、これらの両氏に重要な洞察がないということでも、論者の合田氏やデリダに語るに足る論点が欠けているということでもない。ただせっかくの洞察も、フレーゲに始まるいわゆる「言語論的転回」の大筋さえも無視してしまうことで、これらを位置付ける戦略的地図を欠いているということなのである。そのため、さまざまの論争や提案に登場する面白そうな観念や思いつきのほとんどが、五里霧中に放置されたままということになってしまう。
  
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2010年12月29日

大澤真幸・宮台真司両氏の「正義論」

 大澤真幸・宮台真司両氏による『「正義」について論じます』を興味深く読んだ。共感するところも多く、啓発される点もたくさんある読みごたえのある一冊に仕上がっている。さすがに当代の社会学を代表する俊秀だけあると敬服する次第。

 ただ、いくらか気にかかる疑問点が残ったので、それについてメモしておこう。

 宮台氏は「ミメーシス」(感染的模倣)という概念を練り直して、現代に生かそうとしている。なかなか興味深い試みと言えよう。「心底すごい人思える人に出会い、思わず「この人のようになりたい」と感じる「感染」によって、はじめて理屈でなく気持ちが動く」(p−80)というものである。

 宮台氏のミメーシスは、「父親のようになりたい」という模倣(象徴的同一化)と「兄弟のようになりたい」という模倣(想像的同一化)とのいずれに近いのであろうか? 後者は、双対的ライヴァル関係、相互模倣関係からのっぴきならぬ敵対的関係の袋小路に陥り、前者は、通常のエディプス的欲望にすぎないようにも思われる。

 また、宮台氏が言うように、プラトンが文字文明の普及と「朗唱と舞踏」の衰退(p−52)に関係しているとしても、プラトンは文字にもパロールにも敵対的であったように見える。つまり、文字メディアに対する懐疑から、パロールをよしとするものではない。むしろ、演説のようなパロールへの懐疑から出発している。もちろん文字メディアを礼賛するのでもない。

 またプラトンが敵視したホメロス自身、舞踏的なミメーシスからは、はるかに遠いように思われる。たとえば、万葉集に出てくる「みこも刈る信濃の真弓…」の応答歌(巻2,96〜100)のような朗唱文学が多数で歌われる舞踏的合唱曲であったのとは違い、ホメロスは、多数の聴衆が静かに傾聴する中で享受されたに違いない。そこに、写実性・映像性が顕著になる理由がある。ギリシアに舞踏的合唱曲があったとしても(悲劇のもとになるようなもの)、ホメロスはそうではない。むしろ、ニーチェの言葉でいえば「アポロン的なもの」である。ホメロスとプラトンの対立という主題は、文字メディアと朗唱メディアの対立や移行というだけでは割り切れない。

 他方、大澤氏は、サマリアびとによる被害者のミメーシスについて語るが、どうもわかりにくい(p−98)。それは、もともと宮台氏のミメーシス概念が卓越性(アレテ―)を模倣するものであるのに、大澤氏のミメーシスでは方向が逆転しているというだけではない。サマリアびとは何ら被害者の模倣をしているわけではないからである。彼はただ被害者の介抱をするだけだ。ここで、どこにミメーシスが成立しているのだろうか?

 おそらく大澤氏は、サマリアびとの〈同情〉という心理を考えているのであろう。即ち、被害者の気持ちに自ら同情することで、その気持ちを模倣すると言うわけだ。何ともセンチメンタルな話に落ちたものである。どうして、サマリアびとが被害者に同情していると決めつけるのであろうか? 健康な者が病人を助けるのは当たり前であり、そこに同情が必要なわけではない。たとえば、子供が他の子供に対して遊びやゲームを教える場合、彼は知らない子どもに同情しているのだろうか? たんに、遊び仲間を増やそうとしているだけかもしれないし、自分の優越を誇示したいのかもしれない。

 思わずこのような勘繰りをしてしまうのも、「利己」とか「利他」というあまりにもナイーヴで無意味な言葉が、所かまわず連発されているからである。

 ともあれ、これらは比較的瑣末な瑕瑾でしかないことは言い添えておく。
  
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2010年04月12日

『セヴィリアの理髪師』の新演出

 久しぶりに、オペラの新演出について書こう。有名なロッシーニの『セヴィリアの理髪師』。パリ・バスティーユ、指揮はブルーノ・カンパネッラ、演出はコリーヌ・セロー。パリに旅行したおりに行くことになったのである。  続きを読む
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2010年03月11日

東京裁判再論

 先日、京都日文研の研究会の懇親会の席上、東京裁判をめぐって議論になった。私は以前、日暮吉延氏の『東京裁判』(講談社現代新書)の書評をしたことがある。それについては、ララビアータ2008年2月23日の記事参照。

 戦争裁判に対しては、「平和に対する罪」や「人道に対する罪」による訴追が、「事後法」(「犯罪」の後にそれを処罰する法を作って、さかのぼって適用すること)の禁止の原則・罪刑法定主義に反する、と言われることがある。これについては、拙論「革命的法創造論」(『神学・政治論』所収)で論じたので蒸し返すことはしないが、宴席で私が展開した論理を簡単に記しておく。
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