中岡俊哉著『水子供養で救われた』
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今回取り上げるのは、中岡俊哉著『水子供養で救われた』(二見書房)。初版は1987年、手元の本はその初版。内容としては、水子による霊障と、供養の仕方、水子供養をしてくれるお寺の紹介など。先生はこの本の前に『水子霊の秘密』を刊行されていて、当時かなり話題になったようで、その続編ということになります。
水子霊の問題については、ASIOS代表さんによるこちらの記事が参考になります。ASIOSの検証というと通常は理系なのですが、この記事は水子供養の歴史をたどっており、いわば文系。水子霊の霊障という発想は古くからのものでもなんでもなく、1970年代に入ってから唱えられるようになったとのことで、それが一部の寺院にとっては大きなビジネスチャンスになったとかなんとか。
『水子霊の秘密』は1980年の刊行のようなので、先生が火付け役というわけではないんでしょうけど。デリケートな問題ではありますが、評者は水子も水じゃない子も縁がないので、フラットに見ていけるかと思います。
水子霊の問題については、ASIOS代表さんによるこちらの記事が参考になります。ASIOSの検証というと通常は理系なのですが、この記事は水子供養の歴史をたどっており、いわば文系。水子霊の霊障という発想は古くからのものでもなんでもなく、1970年代に入ってから唱えられるようになったとのことで、それが一部の寺院にとっては大きなビジネスチャンスになったとかなんとか。
『水子霊の秘密』は1980年の刊行のようなので、先生が火付け役というわけではないんでしょうけど。デリケートな問題ではありますが、評者は水子も水じゃない子も縁がないので、フラットに見ていけるかと思います。
それでは本文を見ていきましょう。最初は、家に次々と不幸が起こった、水子霊の仕業だと判明した、供養したら救われた、とかいった話が続きます。要は霊障編ですね。
最初の記事の産婦人科医夫婦は、1386回の中絶手術を手がけただけでなく、自分たちも中絶をしたことがあった。すると、息子や娘が難病にかかったりトラブルを起こすように。
ある日、他の患者の付き添いをしていた老婆に「奥さん、失礼だけど、あんたにゃたくさんの水子さんがついているねえ、障りを受けるよ」と言われてしまう。そこで先生のもとに相談に、というわけです。
これまで仕事上のもプライベートのも水子は一切供養してこなかったという話を聞いて先生は、次のような反応。
最初の記事の産婦人科医夫婦は、1386回の中絶手術を手がけただけでなく、自分たちも中絶をしたことがあった。すると、息子や娘が難病にかかったりトラブルを起こすように。
ある日、他の患者の付き添いをしていた老婆に「奥さん、失礼だけど、あんたにゃたくさんの水子さんがついているねえ、障りを受けるよ」と言われてしまう。そこで先生のもとに相談に、というわけです。
これまで仕事上のもプライベートのも水子は一切供養してこなかったという話を聞いて先生は、次のような反応。
「それだけの人殺しをしていて、よくまあ平気ですねえ、子供がおかしくなってあたりまえでしょうね」中々過激なことを言うものですが、ともかくこの夫婦は水子供養したら家庭の問題も改善されたそう。
私の悪いクセが出てしまった。
これに続くのが、お寺の跡取り娘が妊娠して中絶してしまうという話。
実家のお寺では、「宗派の教義からして、水子霊を認めることはできなかった」。
「うちの宗派の教義からしたら、水子霊はないということなんです。ご本尊にお祈りすることによって、すべてが浄化され、成仏されるという教えなんです」
先に貼ったページによれば、水子供養というものを始めたのは17~18世紀に活動した浄土宗の祐天上人だそうですが、供養自体を認めていない宗派も多いんでしょうね。
ともかくこの跡取り娘は苦悩の末に尼僧となり、教義に反しながらも水子供養を続けているそう。この話はよく見ると、霊障のような記述はありません。
実家のお寺では、「宗派の教義からして、水子霊を認めることはできなかった」。
「うちの宗派の教義からしたら、水子霊はないということなんです。ご本尊にお祈りすることによって、すべてが浄化され、成仏されるという教えなんです」
先に貼ったページによれば、水子供養というものを始めたのは17~18世紀に活動した浄土宗の祐天上人だそうですが、供養自体を認めていない宗派も多いんでしょうね。
ともかくこの跡取り娘は苦悩の末に尼僧となり、教義に反しながらも水子供養を続けているそう。この話はよく見ると、霊障のような記述はありません。
次の話は霊障ネタ。ある日、父親の本棚にある辞書の間から、娘がこんな手紙を発見してきた。
「俺は弘子が好きだ。妻も子も捨てたっていい。(中略)弘子は女としては最高だ。俺の知っている八人の女のうちで、弘子にまさるやつはいない。(中略)弘子を抱いていると、俺は生きている幸せを痛感する。生きていてよかった!(中略)弘子を俺のものにするためならば、俺はなんでもしてやる(後略)」
かいつまんでの引用となりましたが、原文ではこの手紙は長く、1ページ近いものとなっています。手紙とはいうものの誰かに読ませるために書いたのではなさそうで、自分の想いを綴ったものといったところでしょうか。それにしても頭の悪い文章だなあ。中岡先生は何を思って手紙の全文を引用したのでしょう。
この娘は勉強のために父親の本棚から辞書を拝借しようとして、こんな悲劇に見舞われたんでしょうか。父親もシュバイツァーの伝記だとか、誰も手に取らないような本に挟んでおけばよかったのに。
ともかく手紙を読んで母親は激昂。家庭不和に。やがてその娘も、男のもとに外泊するように……。これも水子の霊障であり、供養したら平和が戻った、というわけです。
「俺は弘子が好きだ。妻も子も捨てたっていい。(中略)弘子は女としては最高だ。俺の知っている八人の女のうちで、弘子にまさるやつはいない。(中略)弘子を抱いていると、俺は生きている幸せを痛感する。生きていてよかった!(中略)弘子を俺のものにするためならば、俺はなんでもしてやる(後略)」
かいつまんでの引用となりましたが、原文ではこの手紙は長く、1ページ近いものとなっています。手紙とはいうものの誰かに読ませるために書いたのではなさそうで、自分の想いを綴ったものといったところでしょうか。それにしても頭の悪い文章だなあ。中岡先生は何を思って手紙の全文を引用したのでしょう。
この娘は勉強のために父親の本棚から辞書を拝借しようとして、こんな悲劇に見舞われたんでしょうか。父親もシュバイツァーの伝記だとか、誰も手に取らないような本に挟んでおけばよかったのに。
ともかく手紙を読んで母親は激昂。家庭不和に。やがてその娘も、男のもとに外泊するように……。これも水子の霊障であり、供養したら平和が戻った、というわけです。
19歳同士のカップルができてしまい、結婚して産もうとしたところ、親の許しを得られず中絶させられるといった話も。
「チエさんは、自分の部屋に駆けこむと、大声をあげて泣いた。昭和五十八年九月十七日、東京でのことである」
当時は19歳はまだ未成年で、未成年者の結婚には親の同意が必要でした。それはともかく中岡先生のこういう本で日時を正確に記されると、なんか創作くさい気がしてくるんですけど。
「チエさんは、病院のベッドにのせられても、必死になって中絶を拒みつづけた。だが、最後まで拒みつづけることはできなかった」
こういった手術って、患者が抵抗しながらでもできるものなんでしょうか。医院の側としても、帰ってくれと言いたくなるでしょうし。このあたりの記述は先生のスプラッタ趣味が垣間見えるような気がしないでもないところ。
ともかくこの2人も寺をたびたび訪れて水子供養したところ、2人とも大学に合格、やがて親に結婚を許してもらえたのだそう。許してもらって喜ぶのではなく、成人したのならそんな親とは縁を切った方がいい気もしますが。
「チエさんは、自分の部屋に駆けこむと、大声をあげて泣いた。昭和五十八年九月十七日、東京でのことである」
当時は19歳はまだ未成年で、未成年者の結婚には親の同意が必要でした。それはともかく中岡先生のこういう本で日時を正確に記されると、なんか創作くさい気がしてくるんですけど。
「チエさんは、病院のベッドにのせられても、必死になって中絶を拒みつづけた。だが、最後まで拒みつづけることはできなかった」
こういった手術って、患者が抵抗しながらでもできるものなんでしょうか。医院の側としても、帰ってくれと言いたくなるでしょうし。このあたりの記述は先生のスプラッタ趣味が垣間見えるような気がしないでもないところ。
ともかくこの2人も寺をたびたび訪れて水子供養したところ、2人とも大学に合格、やがて親に結婚を許してもらえたのだそう。許してもらって喜ぶのではなく、成人したのならそんな親とは縁を切った方がいい気もしますが。
第3章は、水子供養を行なっている寺の紹介。境内の様子や供養の方法、料金などを載せています。
評者の近くだと府中市の慈恵院が大きく取り上げられているのですが、この寺、現在はほぼペット供養専門のお寺みたいになっているようで……。機を見るに敏なお寺といったところでしょうか。
評者の近くだと府中市の慈恵院が大きく取り上げられているのですが、この寺、現在はほぼペット供養専門のお寺みたいになっているようで……。機を見るに敏なお寺といったところでしょうか。
大阪の来迎寺の住職は次のように語っております。
「うちへ来られる方のほとんどが、どこかで見てもらったら水子のたたりがあるといわれた人たちです。私は、それをまったく否定するんです。たたりは絶対にないのだと」
中岡先生の主張を真っ向から否定するようなことを。
「うちへ来られる方のほとんどが、どこかで見てもらったら水子のたたりがあるといわれた人たちです。私は、それをまったく否定するんです。たたりは絶対にないのだと」
中岡先生の主張を真っ向から否定するようなことを。
秩父市の光明寺の住職もまた、法話では次のように述べているそう。
「霊障などはない。自分の良心のとがめが潜在意識に沈潜しており、それが障害として出てくるのだ。霊能者にはその潜在意識が投影して語られる。潜在意識の薫陶しかない」
実に合理的な解釈ですねえ。霊能者もコールドリーディングしているだけということになります。こんなしっかりした見解を中岡先生の本で見ることになるとは。
このご住職、「マスコミは、祈祷仏教的坊主どもの先棒をかつぐ必要はない。水子供養で稼ぐ坊主どもは、いちばん先に地獄行きである」と述べていたりも。実に素晴らしい。このご住職は立派な方ですね。
「霊障などはない。自分の良心のとがめが潜在意識に沈潜しており、それが障害として出てくるのだ。霊能者にはその潜在意識が投影して語られる。潜在意識の薫陶しかない」
実に合理的な解釈ですねえ。霊能者もコールドリーディングしているだけということになります。こんなしっかりした見解を中岡先生の本で見ることになるとは。
このご住職、「マスコミは、祈祷仏教的坊主どもの先棒をかつぐ必要はない。水子供養で稼ぐ坊主どもは、いちばん先に地獄行きである」と述べていたりも。実に素晴らしい。このご住職は立派な方ですね。
この本、色々な寺にインタビューしたりしているだけあって、霊障を否定する寺も多い一方、もちろん肯定する寺の声も載っております。
霊障があると明言はせずとも、四百数十万の不渡り手形をつかまされたが、水子供養をしたら380万円帰ってきた、というケース(京都市・西福寺のエピソード)などは、水子霊が不渡り手形をつかませたと解釈できます。そうでないなら、水子を作っても供養さえすれば逆に加護が得られるといった、それはそれで悪用されかねない問題になってきますし。
費用についても、この西福寺などは、「どこやらの寺では、四万円などという話も聞いています。うちは、そんなにいりません。千円か二千円あれば……」と語っています。
前述した光明寺の住職も水供養で稼ぐ坊主は地獄行きなどと述べていましたが、一方では「お地蔵さまを建てる場合は二体で三万円と七万円の二種類」などというところも載っていたり(評者が何度かお参りしたところだ)、そうしたお寺同士の考え方の違いというのも面白いところです。
霊障があると明言はせずとも、四百数十万の不渡り手形をつかまされたが、水子供養をしたら380万円帰ってきた、というケース(京都市・西福寺のエピソード)などは、水子霊が不渡り手形をつかませたと解釈できます。そうでないなら、水子を作っても供養さえすれば逆に加護が得られるといった、それはそれで悪用されかねない問題になってきますし。
費用についても、この西福寺などは、「どこやらの寺では、四万円などという話も聞いています。うちは、そんなにいりません。千円か二千円あれば……」と語っています。
前述した光明寺の住職も水供養で稼ぐ坊主は地獄行きなどと述べていましたが、一方では「お地蔵さまを建てる場合は二体で三万円と七万円の二種類」などというところも載っていたり(評者が何度かお参りしたところだ)、そうしたお寺同士の考え方の違いというのも面白いところです。
また中岡先生、責任を女性だけに押し付けるのではなく、「いとも簡単に水子をつくらせているのは男性の側に原因があると私は考えている。ごく一部の人たちを除いては、女性が自ら水子をつくることを望んではいないはずだ」と、男性の責任を指摘するのも忘れてはおりません。
なお巻末には、切り取って組み立てる地蔵護符が付いております。
なお巻末には、切り取って組み立てる地蔵護符が付いております。























