江部遊観のブログ

リーラーの宇宙は第三章の脱稿をもって、その概要を表すことができたと考えています。世界を説明するのに「イエス・ノー・リーラー」による三重構造を基層にしました。それは一万年のながきにわたって戦争のなかった縄文時代のイデアを再構築する試みであり、それを現代に重ね合わせることによって、ひとがより豊かな精神性を獲得できるのではないかとの思いです。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/

言語 其の三

だまし絵_m[1]ぼくは言語学などの本を読んでいるだけで、専門的に勉強したわけではないが、「言語は~人間が話すことは本能であって、創造的な統計学習や文化の産物として生まれたものではない。」というような難解なチョムスキー理論とは別の視点で言語を考えている。言語について考えているのにチョムスキーやソシュールの理論に言及しないのは、そのような視点にはないからだ。
 
 狼や犬に育てられた子どもの例が本やネットにある。
その子どもたちは発見された際に全く言葉を解さないだけではなく、その後も言語習得が難しかったようだ。それはどう考えればいいのだろうか?脳科学が言語中枢と名付けた領野に生得的な言語ソフトがあったとしても、それは極めて原始的かつ単純なものだからだろう。普遍文法なる高度なソフトがあったとしたら狼少年が狼社会からヒト社会へ移って暫くしたら言葉を話せるようになるはずだ。
 生まれたときから眼の機能障害のために全盲であった人に、その機能障害を取り除く手術を行っても茫洋とした光の渦の中にいるようで、ものの輪郭さえ捉えられない、という事例がある。しかし、以前は目が見えていた人の場合は、手術によって見えるようになるということである。つまり視覚野は徐々に形成されるもので、このような手術例は視覚ソフトが脳になければ見えないということだ。乳児が言語を獲得するのに数年かかるし、狼少年も直ぐに言葉を覚えることができないことからして、言語野のソフトも視覚野のソフト同様、徐々に形成されていくのだろう。脳という同じ内臓だから、見たり、食べたり、歩いたりの様々な機能獲得も同様なプロセスを踏んでいくとしてもおかしくない。
素人が何を言うか、と叱られそうだが、言語野も視覚野に似ていて、殆どは後天的に作られるソフトのような気がしてならない。言語がヒトの生得的なソフトであるならば、狼少年のように言語環境になかった人でも、言語環境にさらされれば言語を習得できるようになるはずだし、誕生から言葉にさらされているのに幼児がなかなか言葉を解さないのは初めから文法を持っていないからだろう。視覚能力でさえ後天的に作られるソフトなのだから、言語能力をそう考えても不思議ではないと思う。

 チョムスキー派が言う「生得的」とは、ヒトには手足がある、という程度のことでことさら特別な意味合いではないかもしれない。指があっても誰もが短期間でピアノを弾いたり、足があってもいきなり自転車に乗れるわけではない。脳はたくさんの情報を統計的、統合的にインプットされてはじめてそうしたことが出来るようになるのだと思う。脳には構造的にそうしたソフトが生得的に存在するだろうが、それは空っぽの箱のようなもので高度な中身が初めから詰まっているわけではないかもしれない。言語もヒトの手足のようなもので、社会的な動物として、数百万年の間に言語ソフトが出来てきたのだろう。ただし母語にさらされることによって生得的に持っている言語ソフトが母語にフォーマットされ、やがて話せるようになるのだと思う。
初めから普遍文法を持っているならば、乳児から幼児にかけての言語獲得はもっとスムーズなはずだ。子どもは大人に自分の意思が伝わらずに駄々をこねたり、泣き叫んだり、勘違いしたりすることが多い。ぼくは二人の子どもと二人の孫を見てきたが、文法も語順も試行錯誤で徐々に獲得していったように感じた。チョムスキー派の生成文法における中心的な概念である高度な普遍文法まではじめから揃っているとはとても思えない。 
 
 言語研究についてズブの素人だから言いたい放題だが、チョムスキー派の論理は精密でがっしりした研究だが、どこかルドルフ・シュタイナーが語る人間論(Study of Man)や、ユングのオカルティックな部分の論調に似ているように思える。それだったら、先述した無意識、阿頼耶識、五次元、暗黙智、形態形成場のような向こうのフィールドにあるクラウドからのダウンロードだと考えた方が納得がいく。ただし、その情報のアップ・ダウンロードは非エネルギー的だから、1000年前に電波の検知が出来なかったように、現在の機械では検知できない。
とにかく言語野もニューロンの塊という物質的なものなのだから、手足を司る脳神経と同じようなレベルと考えたほうが、より言語に迫れるだろう。
言語と脳の関係の本を読むと、言語を司る場所が言語野というセットになっているのではなく、言語使用の際、大脳皮質から小脳まで幅広く発火するそうだ。だから、ここにある、こういうものだと特定できるものでもなさそうだ。ヒトは脳を総合的に使って言語を扱うのだから、初めから生得的にあると考えるのは無理かもしれない。失語症などの研究例を見ても同様に、ヒトの言語使用は脳のあらゆる場所と関連があるらしい。
 
 また動物は人間語を解せないなど、ヒトが他の動物に勝ち誇ったような言語研究の態度は、子どものケンカみたいでバカらしい。他の動物はヒトではないから、ヒト以外の動物がヒトの言語を解せないのは当然だ。動物にヒトの言語を教える研究なんて、ヒマ人がやればいい。動物は人間の意志や気持ちをダイレクトになんとなく理解してくれるのであって、人間語を理解しているわけではない。まだ人類が明らかにできない部分だが、ヒトと動物の意志の疎通は明らかに言語的ではなく、機械では測れないテレパシーのような情報伝達だ。そうしたことは動物を家族同様に可愛がる人は経験的に知っている。
確かに脳の言語野という場所にはニューロンの塊があるのだろうが、それがソフトとして機能するようになるには、統計的、統合的な外界からの刺激が必要であり、外からの情報のダウンロード無しには、完成しないのではないかと思う。言語野は生誕直後は空っぽに近いのだろう。(外という意味は自我の外の物質世界と向こうのフィールドのことである。もし言語に関して生得的な普遍文法があるならば、リーラーでは向こうのフィールドにあるクラウドにあると理解する。)
だからといって、認知言語学や心理言語学が正しいとは思えないが、チョムスキー理論の「生得的」という用語は「空っぽの」という但し書きが必要だと思う。物理的にはチョムスキー理論はコンピュータ用語で言うと「ヒトはフォーマットされていない言語野を生得的に持っている」ということになるのではないだろうか。

 凡庸なぼくの感想にすぎないが、つまり、普遍文法などのかなりの完成度があるヒト言語が生得的であるならば、そのソフトには現在我々が使っている嘘、虚偽的文法も含んでいるということになる。なぜなら我々は始終嘘をつくし、社会も虚偽的だからだ。つまり平たく言えば、ヒトはもともと嘘つきとして生まれてくる、ということになる。
しかし、文化環境、個人的環境において、人は全く嘘をつかなくなるということは「其の2」で述べた。生得的であるならば、これは後天的、ここは先天的という分析が可能だと思うがどうだろうか。

 ボスの研究を害さないようにとか、自分の思い込みを恣意的に訴えたい学者には論文よりファンタジー小説のほうが似合う。また、巫女さん占いのような本を書く軽薄な心理学者に言語研究などしないでもらいたいものだ。

何もしない・・・

ビッグバンどんな革命でも、どんな改革でも一握りの輩だけが快適に暮らせる、という非民主主義な社会は変えられない。現代の国家システム、経済システムは邪な人々が構築したものだから、このシステムのまま革命や改革を行っても何も変わらない。
大衆迎合の似非論文、マスコミの記事は別として、少しはまともな歴史、宗教、政治、経済の本を読み、思索する者なら、虚偽的言語、国家、貨幣経済制度、宗教組織の仕組みは邪悪な人々が構築したことが分かる。違うと言挙げされても、簡単に反論出来るほど明瞭だ。
この邪な仕組みをそのままにして、革命や改革を行って国民から無慈悲な収奪をし、国民を殺す権力者を倒したとしても、次にその権力、財力を握った者がその座にすわるだけのことだ。神の国、仏の国というような、お偉い宗教家様が衆愚を相手にする話でも、同じく衆愚は騙されるだけ。また我々大衆にとって共産主義は理論的に素晴らしいが、それがどのようなものか、どのくらい邪悪なものかは、誰の目にも明らかだ。国民を弾圧して権力者とその取り巻きだけがいい思いをする世襲制の社会主義国家?どこが社会主義なのだろう?共産主義、社会主義国家内で権力の座に着く邪悪な人々は粛清という殺人、拷問で権力を維持する。一度も労働したことのない者が、共産党や労働党のトップだなんて、火星人でもビックリだ。
 民主主義を標榜する国家については繰り返すことになるので述べないが、これも共産主義者同様の前期ホモ・サピエンスが支配する国家体制である。そうした人々が21世紀には大統領、総理大臣、書記長、元首などの国家のトップを占めるようになり、愚かな人々が彼らを支持している。彼らはハーバード大、モスクワ大、東大を出ていても、教養も品も無い無能で無慈悲な人々だから、人類は大変な苦境に陥っている。おそらく彼らは人類を自滅への道へと誘うだろう。
人類が知性を回復するには途方も無い時間がかかる。その前に我々は消滅するだろう。現在の地球上の全ての動植物種はいずれ絶滅する。ヒトにとって良し悪しなど関係なくそれが事実だ。ペシミズムでもなんでもない。当たり前のことだ。


だから、諦めよう!
我々大衆は何を言っても、何をしても、この邪悪な人々を追い出す事は出来ない。せっかく追い出したとしても、追い出した者がまた邪悪なことをするようになるだけ。諦めよう!革命も改革も歴史上何百回もあったが、その結果は入れ代わった王とその取り巻きがいい思いをするだけだった。国民が幸福になる戦争、革命などあったためしが無い。
そんな無駄な行動を起こすのはやめよう!何もしないほうがいい。逮捕されたり、拷問されたり、殺されるだけだ。
良い子でいよう。きちんと税金を収めて、政府に反抗することなく、物議をかもすことなく、静かにしていよう。
論議や話し合いは構わないが、思索したり、読書したり、祈ったりするのは一人きりの時だけにしよう。聖書にはイエスが教会や人前でこれ見よがしに祈るのはやめよう!と書いてある。(マタイ福音書6章)
イエスが言う「一人で祈りなさい」には大きな力があるかもしれない。説明は出来ないが、いずれ、その力を知ることが出来るようになるかもしれない。ただその力は非エネルギー的なものだから、顕現するのはいつのことか分からない。いや、そもそも顕現などしないだろう。
他者と論議する際には、増上慢になったり、侮蔑したり、侮ってはいけないが、情熱を持って語ろう。他者の嫌がることをしないでおこう。他者を慮ろう。自己防衛は致し方ないが、自分から他者を攻撃しないでおこう~社会倫理に関してはそうした最低限を守るだけでいい。
「思う、祈る」~それだけでいい。
何もしてはならない。反体制を叫び、デモに参加しても何の意味も無い。そのデモは逆の勢力が仕掛けたものかもしれないし、多くそのバックグラウンドの真実を見て驚くことも多い。デモの主催者が信頼出来ないことを、知る人も多いと思う。

 大元は向こうのフィールドにあるクラウドだ。だから、そのクラウドに直接働きかけなくては、何も変わらない。「一人で思う、祈る」は向こうのフィールドに働きかける方法の一つだ。
では、向こうのフィールドにあるクラウドとは何か?
ご理解しかねると思うが、ここではそれをリーラー的フィールドにあるとしか言えない。近現代の物質的唯物論思潮とは対極にある不思議なフィールドだ。五次元空間を想定する超ヒモ理論や仏教の阿頼耶識、シェルドレイクの形態形成場、ユングの無意識、ウィルスから脊椎動物まで全ての動植物に備わっているポランニーの暗黙知などの概念がその一部を表していると思う。
しかし、これらの概念はあるとも言えるし、無いとも言える。なぜなら、現段階の言語や数学、科学で表しにくいからだ。光の二重スリット実験のように、光とは波と粒子の二つの性質を持っています、リトマス試験紙の色が変わりました・・・などと明確な証明は出来ない。向こうのフィールドにあるクラウドとのアップ・ダウンロードは非エネルギー的に行われるから、どのような装置も検知出来ない。千年前の人が電波を検知できないように、あったとしても無いも同然である。
唯物論的手法は役に立たないだけでなく、そうした思考も一切役に立たない。
つまりそういう意味で、リーラー的向こうのフィールドは存在する。こちらのフィールドからは、それを間接的に垣間見ることしか出来ない。
しかし実際は、ヒトの対象の把握に関しては、直接、間接の区別はない。全てが間接的である。前回ふれた六識についても一見直接的に見えるが、知覚も情報が脳に至ってヒトが把握するまでには驚くほどの紆余曲折がある。先に視覚について述べたが、光が水晶体から網膜に至り、電気的パルスに変換されて神経線維を伝わり、さらに神経線維の受容体ではある特定の分子の流れに変換されながら、脳の視覚野に入る。視覚野は四層あり情報は順次流れ、さらに他の領野に送られる。人は何段階もの情報処理を経て、やっと光を認識する。直接的な知覚などどこにもない。全てが間接的なのだ。そもそも自分と世界との関係は全て間接的だ。向こうのフィールドを知るのに間接的にしか分からないとしても、唯物論者、還元主義者のように、科学で証明できないから無いとは結論しない。

何もしない。思索と祈りだけ。
しかしそれには実行力がある。でも即効力はない。そのクラウドに働き掛けても何も生じない。何も起きない。何も変わらない。だから唯物論、還元主義者には説明しようがない。
向こうのフィールドにそうしたクラウドがある、としか言えない。
それ故に虚偽的言語、貨幣経済制度、宗教と死の概念を根本から変えることが出来る。
「いつ?」
それは分からない。
「本当に変わるの?」
それも分からない。
説明しようがない。でも確実に変わる。唐突だが、それは死への態度と関係があると考えられる。なぜ死なのか?
覚醒とは眠った後訪れるもので、眠っているときヒトの身体はほとんど弛緩しているし、心も夢を追っかけるくらいにすぎない。コンピュータは再起動すると、まず画面が真っ黒になって何も反応しなくなるが、その後、再起動以前よりも元気になる。
死をそのようなことに似ていると理解するのも面白いと思う。
つまり古風な表現だが、死後の世界はあるかもしれない、という態度を持って生きていこう、ということである。死後の世界は証明もできなければ追試も出来ないものだから、あるだろう、という態度だけでいい。
臨死体験は死の体験ではない。当たり前だが、臨死体験の経験者はそうした経験をしただけである。臨死体験をしても、本当に戻れない世界へ行くのはその後だ。ペンフィールドのヒトの脳への電極刺激実験以来、臨死体験は脳の側頭葉てんかんだと言う説もある。

 革命や改革は何百回もあったが、相変わらず邪な人々のやりたい放題の人の世だ。
向こうのフィールドがあるのではないだろうか?という態度を持って一人で思索し、一人で祈る・・・全ては非エネルギー的だから物理的には何も起きない、何も変化しない、何も生じない・・・。

(向こうのフィールドは現在の宗教組織の集金のための屁理屈とは遠く離れている。
妄想による思い込みという信仰~それ故、このブログで同じことをしつこく書いているが・・・、仏滅後八百年くらい経ってからインドで編纂されたサンスクリット語やパーリ語仏典の写本をもとに、その数百年後に中国人が中国語に翻訳したその題名や釈尊以外のブッダの名前を中国語風に繰り返し唱えるのが仏教であるわけがない。
日本語訛りの中国語風に仏典の題名の南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏と唱えるのが仏教であるわけがない。だが、この列島ではそんなバカなことが仏教である、とまかり通っている。
「古事記!古事記!古事記!」「源氏物語!源氏物語!源氏物語!」とその本の題名を何回唱えると、古事記や源氏物語の内容が分かるのだろう?)

言語 其の二

125-CA562[1]現代の文化環境において使われる現代の言語使用法は不確かで信頼できない。子どもたちまで大人たちの使う虚偽、欺瞞、いい加減、自分勝手な言語使用の真似をし、深刻なイジメまで生み出すに至っている。ヒトが作り出すほとんどの問題はこの言語使用法にある。言語使用法は文化環境によるものだ。言語はヒトが構築した文化の一つだが、文化環境によってその使用法が変遷する。
ここでいう文化環境とは、歴史的、政治的な側面だけではなく、個々の人生の各場面なども含まれる。
人間的に打ち解けて美しく、軋轢のない環境にあってヒトは虚偽的、欺瞞的言語使用はしない。実直で素直で正直な言語を使用するものだ。ソシュールやウィトゲンシュタインが分析するように、言語が言葉としての機能を持つようになる。親しい人に無いものをある、あるものを無い、などと嘘を言う必要もない。
例えば~打ち解けていて、暖かく、お互い何も隠す必要のない環境では、職場などではとても言えない感想でさえ、率直に言えるものだ。例えばハゲ、デブなどの侮蔑的表現を妻や恋人や子どもに言われても冗談めかしに受け答え出来る。「ははは、努力してるけどね。この歳だとこれでちょうどいいんだよ!」などと真実を率直に言われても平気だ。
ところが平社員がお偉いさんにこのような真実を率直に言ったらどうだろうか?
言語使用法、言語使用の文化的側面とはこのようなものであると考えてもらえばいい。関係が良ければ良いほど、美しければ美しいほど、暖かい関係であればあるほど、言語は正直に率直に機能するものだ。
現代は虚偽的、欺瞞的言語の使用が当たり前という悲惨な言語文化環境である。政治、宗教、産業・・・この当事者は不正直を当然だと心得ている・・・正直にやってはならないという社会だから、戦争、暴力、差別、貧困、詐欺、強奪、収奪を好んで行う輩が支配する社会となっている。それらの根源は嘘、虚偽、欺瞞に満ち満ちているヒトの言語使用方法だ。
現代には政治家、役人、マスコミ、宗教屋、芸術屋、弁護士、会社経営者、教師、学者など本来、人々の模範となるべき職業の人たちの中にまともな人がほとんどいなくなった。ぼく個人にしてもまだそうした人にお会いしたことがない。
若く瑞々しい好奇心を塞ぎ、思索はもちろんのこと、その思索を促す読書もせず無味乾燥な受験勉強だけが得意の無能な若者が優秀とされる呆れた時代だ。その無能さ故に、ところてん式に大学を出ると言語をいい加減に扱い、直ぐに欺瞞、虚偽、いい加減、無思慮に染まり、結果的に社会を貶める。そうした無能な人間が権力を持ち、偉いさんになるとどれほどアホで残酷な言動、行動を取るか、我々は嫌と言うほど思い知らされている。それでも我々アホな大衆は気が付かない。彼らの言うなりだ。

言語は文化環境に左右される。美しく愛に満ちた人々の間では、虚偽、欺瞞、見栄が必要ないから言語を虚偽、欺瞞、見栄には使わない。つまり、文化環境によっては言語が正しく機能するという可能性があるが、「ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈」などと言い出すヨーロッパ大好き日本人哲学者様が力説するヨタ話は火星人を喜ばせるだけで役に立たない駄弁だ。

 問題は言語にあるのではなく、言語の使用方法と文化にある!そこから言語について考えるべきである。
言語はヒトの使用する素晴らしいツールの一つだが、現今の文化ではうまく機能していない。しかし言語に罪はない。我々がホモ・サピエンスになれずに前期ホモ・サピエンスにとどまってしまっているからである。
つまり、言語を正しく機能させるには、現在の文化環境が嘘、偽りのオンパレードであることを自覚することから始めねばならない。
事実だけ、分かる範囲だけに限って使えば、社会にとってこれほど素晴らしいツールはない。嘘や事実ではないこと、妄想には使わない~それだけのことだ。
「それが出来れば~~、そんなことできっこない!」と多くの人々は考えるだろう。それは自分に対しても他者に対しても疑心暗鬼を払拭出来ないためだが、打ち解けていて、暖かく、お互い何も隠す必要のない環境ではヒトは言語を正直、率直に使えるのである。
ところが社会は嘘、偽りがベースになっている。「正直者がバカを見る」文化だ。清くなければならないはずの宗教者でさえ、嘘、偽りの文化にどっぷり浸かっている。
つまりここでの結論は「ヒトの言語は文化環境と使用方法によって変わる」ということである。

六識で受け取った対象を言語化して、それをさらに言語で理解するという間接的な情報把握ではなく、六識による直接的な把握を優先させればいい。
事実だけにおいてのみ使う習慣を得ることである。

(ただしここでは直接的なこととは?事実とは?について考えることはほぼ無限に煩瑣になることから、対象、現象を言語化するというところまでとしたい。例えば人が形や色を認識する場合、光が眼球の水晶体を通過して網膜を刺激し、その情報が脳の四層ある視覚野に順次入って間脳などにある他の領野とリンクして情動が生じ・・・、刺激となる可視光線とは?、光とは?・・・などとは続けない。意味を拡散させ捕まえどころがなくなってしまう議論はしない。)

言語 其の一

hasu-22m[1]現在の文化環境のもとに使用される言語は欠陥品である。

 意味している音声や記号がネコを表し、意味されているものがネコであっても、ニワトリを前にしてネコという表現を使われれば、シニフィアンやシニフィエという高級な考察もひとたまりもなく崩壊する。ニワトリを指してネコというシニフィエは成り立たない。ニワトリはネコではなく、ニワトリを意味するニワトリという記号、音声を使わねば、本来言語は成り立たない。
つまり、全ての人類に嘘も虚偽も見栄もないならば、ヒトの言語に関するソシュールのような感想も当たっていなくもない。しかしまずその前にヒトの言語使用がどのようなものかを考察しなくてはならない。
言語はもともと概要しか表せないものだが、嘘をつかれたり、真意を隠されたり、難解な言い回しをされたら概要どころか全く違う意味になってしまう。
言語は黒を指して白とも言えるし、無いことをある、とも言える。ネコをニワトリとも言える。
ところが言語でない絵や写真ならばそうしたことは少ない。ネコの写真をニワトリと間違えることは無く、雷の音と川のせせらぎの音を間違えることもない。花の香りとドブ川の匂いを間違えることもない。醤油とマヨネーズの味も間違えない。トゲと柔らかい毛布も間違えない。爽快感と恐怖を混同することもない。五感には、間違い、勘違いが少ない。さらに五感によって促される物質的な感情・・・ドーパミンやアドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニン、オキシトシンなどの脳内分泌物質によっで引き起こされる恐怖感や心地良さ、親和感、興奮などの基本的な情動も直接的であり、言語化されるまでは、間違い、勘違いが少ない。仏教では一般的な五感と表層の意識を含めてこの六種を眼耳鼻舌身意の六識としている。
我々は本来極めて率直で正直に情報を受け取っている。しかしその六識から得た情報が言語化されると情報はぼやけたり、事実とは違う概念になってしまうことがある。
本人でさえ、言語的な解釈によって、六識によって得た情報を違う概念に置き換えてしまうことがある。
現代のヒトの言語は初めに率直に受け取った情報の意味を反転させたり、撹乱させたりする機能を持つ。だから詭弁を弄する政治家や聖職者、無慈悲な権力者やそうした人々に追従する人々は、言語による嘘、隠蔽、虚偽技術を巧みに扱うのである。

 また、言語は嘘、偽りだけでなく、とぼけたり、無視したり、曲解することによって他者を攻撃したり、優位に立つことも可能だ。自分は同情してもらいたいが他者には同情しない、自分は尊重して欲しいが他者は尊重しないなど、つまり、社会的動物としての高度な人間性に欠けた人々ほど言語技術に長けることになる。そうした人々が多数を占めているのが我々の社会である。しかもそうした自分の生き方が偽りであることに気付くことなく、それを無自覚に行う場合がほとんどだ。ホモ・サピエンス(知性的)ではなくホモ・サピエンスの前に「前期」を付けた「前期ホモ・サピエンス」と定義できよう。前期ホモ・サピエンスの人々は相手が自分より弱いと認識すると、途端に背徳性をさらに発揮するという気味の悪さもある。
精神病ではない自利のためだけの嘘、二枚舌は本来は社会的動物としての知的で高度なヒト社会を否定するから、現在のヒトの社会はいつも行き詰まっている。さらに前期ホモ・サピエンス族は、経済を独占し、暴力手段を手に入れ、権力によって、清く慈愛に満ちたヒトとして進化したホモ・サピエンスの駆逐に余念が無い。そのために彼らは戦争や貧困を意図的に作り出している。
 
 現代のヒトの言語の使用法は勘違い、間違いが多いだけでなく、意図的にそれらを誘発することができることから、物事をきちんと表すに適したツールとは言えない。世界を把握するのにこうした性格を持つ言語は適していない。
このような性格を持つ言語による人間社会が自分勝手な無自覚な悪人たちに牛耳られているのも当然である。自分に都合の良いように偽りを真実とし、真実を偽りとする。前期ホモ・サピエンス族には誠に都合の良いツールだ。優しく慈愛に満ち、他者を慮る高度なホモ・サピエンスが自分勝手な前期ホモ・サピエンス族に制圧されている現状は言語の使用法によるところが大きいと考える。

  この不完全極まりない言語で現象の真実を表すのはとても難しい。言語による哲学的宗教的真理探究は甚だ難しい。千年前の中国人が古代インド語のパーリ語やサンスクリット語の仏典を中国語に翻訳した際の中国語の題名を日本語読みして何度も繰り返し唱えると悟れる、などと吹聴する。この列島ではそれを仏教という、そんなバカな話はない。二千五百年前のインド・ネパール地方におられたお釈迦様がご自分の滅後から千年たって中国語に翻訳された仏典の題名を中国語風な読み方で繰り返し繰り返し唱えよ、なんておっしゃるわけがない。仏像もインド・ネパール人風なら分かるが、日本の寺院に鎮座する仏像は多く薄眼を開けた太り気味の中国人風だがこれも不思議でならない。当たり前だが、お釈迦様は中国人ではなく、古代のインド・ネパールのシャーキャー族出身だ。
 キリスト教についてももちろん同様にイエス様が、2000~4000年ほど前にコーカサス地方から移動して、当時の先住民であるケルト系やペルシャ系の人々を追い出した現在のヨーロッパ系であるわけがない。二千年前の中東の砂漠地方におられた黒髪、黒い眼、浅黒い肌の方だった。パウロが構築し、リヨンのエイレナイオスが構築したヨーロッパ・キリスト教はイエス像を、中国人が仏像を中国人風に作ったのと同じ感覚で、ヨーロッパ風の顔にしただけのことだ。
またお釈迦様には仏教という概念がなかったようだ。釈尊滅後百年後に書かれた紳士録パーリ語典籍イシバーシーヤムには仏教の教祖はシャーリプトラと書いてあるそうだ。イエス様も、もちろん今風のヨーロッパ・キリスト教など作っていない。パウロの手紙にはあるが、四福音書にはヨーロッパのことなど何一つ書いてない。当時のヨーロッパはローマ帝国であり、ユダの地をシリアの属国にしてイエス様のユダヤ民族から収奪していた。また現在は王侯貴族や富裕な人々の太鼓持ちをしているヨーロッパ・キリスト教だが、当時のナザレやガリラヤに暮らしておられたイエス様の伝記である聖書には漁師、取税人、売春婦、奴隷、肉体労働者がほとんどだ。だからイエス様がゼーロタイやシカリ党だったのではないか、などという説さえあるほどだ。

つまり宗教が、原義とはかけ離れた宗教エンタメとなってしまったのも、前期ホモ・サピエンス族の言語使用法によるものだと思う。

無門関~私的解釈

仙厓「無門関」テキスト(魚返善雄 訳・「禅問答四八章」学生社)


『無門(決まった入り口が無い)と言えば、世界中の人が入れるし、入り口があるとなれば、先生の立場はない。だいいち、よけいな評などこじつけるのが、帽子の上にまた帽子みたいだし、わしにほめろとむりにたのんでも、枯れ竹をしぼるものだよ。こうした手引きがあれば、わしがふりだすまでもない。ふり出して、ひとしずくでも世間にはだすな・・・・いかな名馬でも追いつけはせぬ。』


禅における「無」は実は「有」のことだと考えられるだろう。
入り口が無い、ということは、すべてのどこでもが入り口である、ということにもなる。われわれ凡人が理解しやすいように、逆説的に万有を「無」と表現している。
ある!と言ったって見えないし、無い!と言ってしまえば元も子もなくなってしまうから「無」としたのだろう。まったくもってリーラー的表現としか言いようがない。

『一 趙州と犬

 狗子仏性  莫言這無  春風瀝々  東壁葫蘆

趙州様に、ひら坊主がたずねた。
「犬にも仏の性質がありますかね?」
趙州が言う。
「無じゃ!」

無門が言う、
「全身をもって疑い、無の意味を知れ。よるひるひきしめて、虚無にも陥らず、有無にもかかわるな」
歌に、
「犬」も仏も、これこのとおり。
有無を言うたら、ほろびるいのち。』


ここでは、犬に仏性があるか否かという質問に、趙州は、
「無じゃ!」
と答え、無門は、
「有無にもかかわるな。有無を言うたら、ほろびるいのち」
などとわけの分からないことを言っている。
一体何が言いたいのだろう。やはり無門関の坊さんたちほどになれば、頭の中は形而上にぶっ飛んでいるのか。
つまり、結構イッちゃっているのか。それとも座禅のやりすぎと、運動不足で血の巡りが悪くなっているのか。さらに、

『いつも張り切って「無 」というものを持て、油断がなければお灯明のようにパッとつくのだ。』

などとも言っている。ますますわけが分からない。

 どんな高邁な論理でも、これが正しい、これは正しくない、などと言い出せば、もうそれはきりがなく、双方けんかでカタをつけるしかなくなってしまう。
近代哲学の創始者デカルトは全存在というか、全てを疑ってみて(方法的懐疑)、その結果、思考の主体としての「吾」の存在は疑うことができないという結論に達し、「吾思う、故に吾有り」を存在論の出発点としたが、禅の立場は大分趣が違う。
「ある・ない、なんて言ったってしようがないだろう。あるもんはあるんだ、え、あんた、鼻っ柱に一発見舞われたら、自分が存在するってすぐに分かるだろ」
禅はある意味では構造主義の先駆けをなしていた。
鼻っ柱を殴られて、自分の存在を確認できるということは、殴る側の拳と、殴られる側の鼻っ柱の関係と、痛みや感情、神経系の関係において成立するもので、殴る側と殴られる側という事象の構造において、自分が存在するというふうに考えている。
自分一人でボーッと考えていて確認できる自分なんていうのは、それこそ存在論のマスターベーションだ。
「マスターベーションやっているんだったら・・・ええっ、そんなに暇だったら、そこらへんの掃除でもしておけ!」
ということになる。

 だが、禅の存在論は、いざ言葉で説明しようとすると、これは難解で怪奇に思える。説明できないので、不立文字なんて言って逃げ回ることもある。
でも、無門はしっかりと言う。

『犬も仏も、これこのとおり。
有無を言うたら、ほろびるいのち。』


ここでは、「無い」ということは「有る」ということである。
この世は「有る・在る」だけでできている。ジョッキーになみなみ注がれたビールがなくなったのは、誰かの胃袋に移動しただけだし、財布のお金がなくなったのは、何か買ってそのお金がその店のレジに移動しただけだ。
この世では、ものが本当になくななったりはしない。変化だって厳密にはない。鉄釘が錆びてぼろぼろに変化しても、それFe(鉄の原子)にO(酸素)がくっついた現象のことで、原子的な移動にすぎない。何もなくならないし、何も増えない。

 おそらく、存在の原料は無だが・・・それをそっくりひっくり返したのがこの世界なんだから、この世は全て有で構成されていることになる。
だから無、なのにパッと点く。ありもしないものはパッとなんか点かない。
万象、「有」という前提に立ってこそ、「無」という概念が生きる。
だから、有るとか無いとかではなく、有無を越えたところの「あるがまま」ということになる。

有るとか無いとか言い出せば、もうそれはケンカの種となってしまう。リーラー的見解である。

 「犬に仏性がある」といえば、「無い」という人とケンカになる。「有無」にかかわると、人間に競争と暴力のシステムがはたらいて、「有無を言うたらほろびるいのち」ということになる。
趙州の「無じゃ!」の意味は、この場合「有りじゃ!」となる。では「有」なのに、なぜ「無」と言ったのだろう。
「無い」を「有る」、いや「有る」を「無い」と表現したにすぎない。そもそも回答はどちらでもよかった。手前味噌だが・・・リーラー的発想だ。

いつも張り切って「無」というものを持て、油断がなければお灯明のようにパッと点くのだ。

だから「無」がもてる。 「無い」ものを持て、なんて無門は言っていない。「無」はそもそも「有る」のだから・・・。
この世界の存在は、常に他の存在に依拠している。相手がなくては何ものも存在し得ない。

 無門関は本来、「有る・在る」の当たり前の論理のもとに構成されているようだ。奇異をてらうことなく、難解を気取ることもない。言ってみれば、「なあーんだ、そうか!」という極めてリーラー的な見解を指し示していると言えよう。

『祈る』ために「言語、貨幣経済制度、宗教、死」を考える~前書き

言語の写真

 現代人類がいわゆる知的存在であるホモ・サピエンスになれず、その前段階の「前ホモ・サピエンス」~戦争、差別、殺人、略奪、強姦やりたい放題の極めて醜い類人猿~のままでいるのは、「言語、貨幣経済制度、宗教、死」、大きくこの四点の勘違い、間違い、思い込みによるものだと考えてみた。
現在は民主主義、共産主義、宗教主義を問わず、政治家・権力者は自分と自分の取り巻きだけの狭い了見で国民を弾圧し、独裁を行い、殺したり、心理的・肉体的に拷問したりして虚言と不義を政治の道具としている。経営者もまた嘘、欺瞞、奪略、殺人にまで及ぶ経営戦略を行い、宗教者が殺人、収奪を行なったりする。
憂慮しても仕方が無いが・・・実際に日本の銀行があの残酷極まるクラスター爆弾を製造している会社に投資し、防衛関係のトップが武器製造会社に天下りして高給をむさぼっている。ある国では聖職者が華美な生活を批判されるのを恐れ、高級車に乗らないようにとお触れがあったそうだが、わが国の宗教者も既成、新興を問わず外国高級車を乗り回している。
そして我々一般大衆も虚言と不義を道具にしている権力者の使うマネーを上納するだけの課役負担民という役に甘んじている。
つまり、この四点をきちんと再考すれば、我々「前ホモ・サピエンス」は真のホモ・サピエンスに少しは近づくことが出来る可能性があるのではないか・・・そう考える次第である。
ただし、革命を起こそう!デモをやろう!既成組織を潰そう!・・・などと大上段に構えるつもりは毛頭ない。そんなこと何百回やっても悲惨な結末に至るだけだ。王様を倒しても、その王様を倒した勢力がまた王様になるだけだ。そんな暴力は一切行わないことだ。一切の行動を起こしてはならない。何もしない。物理的な行動は一切起こさない。
ただ考えるだけ、思うだけ・・・議論したり話し合ったりするのは構わないが、複数で行動してはならない。一人以上で祈るのもだめだ。より良い世界を構築したい、幸福になりたい、大自然や神々の世界に精神を遊ばせたい、と祈るのは一人だけの時と場所に限る。
二人集まったらそれは複数であり群衆であり組織だ。祈りは一人だけでするものだ。
もちろん「一人で祈りなさい」と強制するのもだめだ。
知識を得たり、話し合ったりすることはヒトの社会生活だが、祈りは社会生活とは異質なものだ。一緒のカテゴリーにしてはならない。祈りとは、間違い、勘違い、思い込みがないように知識や体験によって清濁を理解し、おおらかさと寛容を保ち、精神や頭脳をフル回転させ、一人で行う清い行いだ。「祈った!」などと公言するものでもない。毎日するものでもない。気が向いたときにそのタイミングが合ったときにするものだ。


 次回からはまず言語についてリーラー的に考えてみたいが、ウィトゲンシュタインやソシュールなどの難解・煩雑なおしゃべりではなく、事実と当たり前の視点から言語を考えてみるつもりである。もとよりぼくはドイツ語もフランス語も読めない。だから日本語や英語に翻訳されたヨーロッパ哲学者の本などから引用するつもりもさらさらない。ただし、浅学ながら感想は述べることはある。言語に対するアプローチは西洋のそれとはスタンスが違うと理解していただきたい。
それから「貨幣経済制度」「宗教」「死」と進んでいきたい。

これらのことは「リーラーの宇宙」にてまとめていくつもりである。

人類の衣類

hainこの写真の背景の地面は雪である。
 5000年前のヨーロッパ・アルプス高山で発見されたトルコ・中東系の凍結ミイラに関しては防寒に動物の皮や植物製の衣類を身につけていた。(注1)しかし一般に太古の衣類の考古学的発掘物はあまり例がない。この列島縄文時代においても草などを編んだ編布(あんぎん)による籠やポシェット様のものは見るが、衣類に相当するものはそう多く見つかっていない。常に衣類をつけていたならばもっと見つかっていいはずだ。
 現代は性器は隠さねばならないというヨーロッパ文化の侵略によるヨーロッパ・キリスト教の強制による着衣もあって、地球上の人類のほとんどは衣類を身につけているが、太古の考古学的発掘例に衣類は少ない。もっと多く発見されるはずだと、ずっと不思議に思っていた。この列島においても縄文草創期や縄文晩期の気候は現代と比べるとかなり寒かったはずだ。雪も結構降っていた。当時の栽培植物に麻があったし、編布の技術があったはずだからたくさんの衣類が見つかっても不思議ではない。寒さ対策はどうしていたのだろう?なぜ衣類がもっとたくさん見つからないのだろう?
 太古の人々は冬に寒くなる地方の人々でもさほど衣類を着ていなかったとしか考えられない。寒冷地方に比べればまだまだ暖かい21世紀の東京の冬でも衣類無しには外を歩けない。
 だが、アン・チャップマン著・大川豪司・訳・新評論社の「ハイン」の写真を見て驚いた。内容は南米フエゴ諸島先住民の祭などを現地調査したものだ。フエゴ諸島は南極に近く、冬はマイナス20度になることもある寒冷地である。しかし極寒の冬には動物の毛皮をまとうなどするが、雪が積もっているような季節でも全裸で生活していた。
人類は体毛がほとんど無いにもかかわらず、本当は相当寒さに強いのではないだろうか、と思わせた。
だから、この列島の縄文時代にも衣類と思われる発掘品が少ないのだろうか。

(注1) http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/8810415.html

ツールとしての宗教

0b60369cc207884389f15e0ae42dbead[1] このブログでは「宗教」と「宗教組織」について多く書いているが、先の「なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するのか?」で・・・

「宗教」は貨幣や道具や思想、哲学にはない人間の中で最も汚れのないカテゴリーでないと機能しない。近現代のマネー大好き、尊敬されるの大好き、権力大好き、威張るの大好きの薄汚れた聖職者には荷が重い。
「宗教」は人間の構築した文化の中で、最も美しく気高く、清くなくてはならない。科学、芸術、政治、経済は暴力と権力、財力、見栄、嘘、欺瞞がはびこってしまった。宗教が鬱陶しい糞まみれになっては人類に未来はない。そう危惧している。

・・・という理由だからだ。また・・・・

 「宗教は人類にとって向こうのフィールドとの関連と動物にもともと組み込まれている共感、親和力のソフトを引き出すものであり、それは見えない「こと、もの」に対しての真摯な態度が含まれる。
宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤である。」

と宗教を定義してみたが、もちろん同感して欲しいとは露ほども考えていない。もとより宗教は、話し合ったり、論議したりするのはかまわないが、祈りや宗教的概念の把握は個人的な行為・思索であると考えるぼくだけの論理だ。祈りは純粋個人的なものだと考えている。
「二人で祈りましょう!」・・・二人といえどもこれは組織宗教である。宗教は一人で行うものだ。マタイ福音書第5章に「一人で祈りなさい」とあるように、また歎異抄に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞 一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と あるように、またこのブログで「一遍上人」を考えた際に次のように書いたように~「一遍聖絵の詞書きでは一遍も「一期かぎりぞ」と組織を否定している。時宗という教団は一遍の思想を否定して組織化を図ってしまったが、それは勘違い、間違いである。
 
 宗教組織のイデオロギーには宗教の清さ、気高さ、向こうのフィールドという観点はまったく皆無だ。神だ、仏だ、あの世だとへらへらとしゃべるだけだ。ご存知ないだろうが、現代の仏教の修行は坊主として出世するためのものであり、悟りや無私などとは無縁だ。受験勉強に酷似している。勉強して目的の大学に入ってしまった後は単位を取るだけの勉強しかせず、ほとんど本を読むこともなく、スマホとマンガで四年間を送ってトコロテン式に押し出されて就職してアホ面の社会人となる。出世しても加減乗除しか使えないから、小学生並みの「多い・少ない」しか判断できない。現代の坊主の修行はその受験勉強と同じなのである。単位を取ってしまえば、もう仏教とは縁が切れて、経営と人付き合いと人事とマネーと遊びに明け暮れるだけだ。高僧と呼ばれる人たちの生活をご存知だろうか?びっくりすると思う!アホでない僧もいるにはいるが、まず人を見下す下品な人物が多い。お釈迦様、イエス様はびっくりすること間違い無しだ。

 しかし、宗教に携わる人々が、本当に気高く、清く、向こうのフィールドに真摯な態度を持ったとしたら、人類は平和、温和、自由を得られることとなる。なぜなら、現代の人類が清く、気高い精神的良き持ち物を手にすることになるからだ。他者を不幸にすることで自らの安寧を求めるようになったのは、人類が清く、気高い規範を持っていないことによる。そして宗教さえも、自利のために利用されている。

人類が清さ、美しさ、気高さをもった精神を手に入れるそのツールが「宗教」である。

ヨーロッパ哲学好き~~~

cat01191本屋で思わず失笑してしまった。
~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~と副題のある本である。 ~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~・・・だから何のなの?と思う。おふざけの、無駄飯食いの無駄な本だ。 
ヨーロッパキリスト教と言語によって世界を解釈しようとするヨーロッパ人哲学者と呼ばれる人の個人的感想をまぜこぜにして、母語が日本語のクリスチャンではない日本人が、なんでこんな論議をするのか?そういう話が哲学?哲学という用語は「智を愛する」という意味のギリシャ語からきているそうだが、現在の日本語の「哲学」の意味はヨーロッパ人の認識論を日本人が日本語に翻訳して、カント・ヘーゲル~~~、ウィトゲンシュタイン~~~、デリダ~~~、ソシュール~~~・・・などと叫ぶことのようだ。それはギリシャ語の原義とは全然違うだろう!そんな人は居酒屋で焼酎呑みながら、ウィトゲンシュタイン、ライプニッツとぶつぶつつぶやくか、無人島へ行ってデリダー!!!!とか叫んでればいい!
例えばドイツ語や当時のオランダ語やラテン語を勉強して、スピノザをよく研究した学者には、ヨーロッパ唯物論を誘発したことが分かるそうだが、それが何だというのだろう?唯物論は共産主義を生み出し、結局スターリンやポルポトや毛沢東や金正恩という共産党怪物を出現させていることになる・・・そのへんはどうなのだろう?
西洋哲学は世界を解釈する認識論的個人的感想にすぎないように思えてしかたがない。どちらかというと、謙虚さを欠いた言語による芸人という感じだ。旅芸人やお笑い芸人と同様、何か新しいことを言ってしつこい論議で耳目を集める言語芸人・・・。
 さて、ライプニッツは17世紀の人でちょうどJ.S.バッハと同時代の人で、ウィトゲンシュタインはほぼ20世紀の人だ。ぼくは日本語翻訳された著書を数冊読んだことしかないが、でも、いくらなんでも、ライプニッツ哲学をウィトゲンシュタイン的に解釈すると何か良いことがあるとは思えない。紙の無駄だ。バッハの楽譜は極東のこの日本においても楽しめるし、音楽芸術を堪能させてくれるが、ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン解釈・・・については、ヨーロッパキリスト教に汚染されていない四季折々の豊かさのあるこの日本ではただのヨタ話だ。ヨーロッパで宗教といえば、ナザレやガリラヤから遠く離れた中東よりずっと緯度の高い寒い地方の王制と貧窮のヨーロッパキリスト教のことだ。ヨーロッパキリスト教はご存知のようにナザレのイエスとは程遠い。福音書は北アフリカから中東のギリシャ語圏の今で言うエジプト人やシリア人、トルコ人が書いたものだと研究者は考えている。
~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~・・・ドイツ人でもないのに・・・こんなおバカな本書くくらいなら、学者様なんかやめて、きちんと会社に勤めて社会に貢献したほうがいいと思う。
ヨーロッパ礼賛のこんな本を書いている日本人学者は本当に多い。

ぼくはヨーロッパの哲学者についての本を書く優秀な人のように、ヨーロッパの言語を何ヶ国語も勉強してないし、ヨーロッパ哲学については日本語訳で垣間見ることしかできないが、近現代ヨーロッパ哲学者はそれぞれ違う主張を、口から出任せにしているにすぎないように思う。百家争鳴・・・何の役にも立たないと思う。ライプニッツ哲学をウィトゲンシュタインで解釈とは・・・焼き魚をケチャップとマヨネーズ、どちらで食べると美味しいのか?というような難問に見える。

「イエスという男」田川建三 著~読みづらい本だった~

荒野のキリストこれは浅学なぼくの一書評にすぎないものであることをまずはお断りしておきたい。

 「イエスという男・田川建三 著・作品社」

田川建三先生は、ナザレやガリラヤはもちろんヨーロッパからも遠く離れた歴史も風土もまったく違う極東にある母語が日本語である日本人のキリスト教福音書研究家である。また、先生は同業研究者の実名をあげてあげつらうお茶目なところがある。
ヒーヒー言って、嫌々ながら働く庶民と違って、食うには困らない学者様のご身分だから仕方ないのかもしれないが、イエス様を含む、イエス様周辺の肉体労働者に気色悪く同情したりする。

 キンシャサで現地の人の苦労を垣間見て同情したり、木箱で机を作って~などと自慢げに語るが、おれは学者だ!という驕った態度はそのままだ。これじゃあ、「イエスという男」なんていう本を書いても、イエス様に嫌われるだけだ。そんな態度では先生がおっしゃっている「マタイやルカなどの福音書家の勘違いした挿入句は~」などとは批判できないはず。それなのに、真顔でできちゃう人でもある。
ご立派なのは分かるが~少し言いたいのだが~少し斜めっているから、似非インテリたちには受けるだろうが、自分では垣間見ただけにすぎない庶民の馬鹿さ、いい加減さ、醜さ、無能、哀れさ、貧しさを熟知しているかのように振る舞うのはやめた方がいい。
どちらかと言うと、物議をかもすようでいて、危ない橋は渡らないという中沢新一、梅原猛、大江健三郎的なスタンスのお人のようだ。
 
 彼の言抜けの極め付けはこの本の238頁12行目から~イェレミアスがパレスチナの肉体労働者を侮蔑していると散々非難した後に・・・
「みずからの肉体を消耗して明日の食いぶちのために働いたことのない者の無知のせいだろうか。それは本当に自分で経験しなければわからないことなのか。しかし、植民地支配の何たるかを知っていれば、たとえ自分では経験しなくても、かなりな程度まで理解できることではないのか。」と酔っ払いのようなふわふわした態度でイェレミアスの非難を続けていることだ。でもね、あのね、田川先生、あなたもイェレミアスと同じだよ、と言いたくなる。「植民地支配の何たるかを知っていれば~かなりな程度まで理解できることではないのか。」
バカじゃないの、知っていることを威張るのもいいが、他人を口汚く罵る人間に現地の人の苦しみ、悲しさなど分かるわけないだろう!
とにかく田川先生、他者に同情できる徳人のようだが、そこまで言うなら、数年間、食に事欠きながら肉体労働をしてみたらどうだろう。
博識のように見えるが、変人を気取ったりするのは、いかにもおぼっちゃまらしい。その態度は見え透いている。大組織であるキリスト教会攻撃はあまりしないのに、荒井先生、八木先生、土井先生、プルトマン先生などの個人攻撃は得意。先生の同情する肉体労働者の中でこれだけ他人を攻撃したら半端じゃないほど殴られることは確実だ。自分の説だけ正しいと、のたまわりたいお人のようだが、自分に似た考えを持つ同業者に対して、剽窃だ、盗用だと罵るのもどうかと思う。
このおぼっちゃんは、一度も殴られたことも、痛い目にあったこともないと思う。ある学校で教員をクビになったそうだが、路頭に迷う経歴をお持ちならば、まだ分かるが、その後も本人の言う学者様を続けられたわけだから、食うに困らないぼんぼんなのだろう。よほど甘やかされて育ったんだろうと思わせる。
イエス観については賛同できる部分もあるが、悪ガキのような頭の弱さには閉口する。この先生は勉強して知識はあるようだが、如何せん人として頭が弱い。
こんなに同業者を揶揄、愚弄しなければイエス研究はやれないのだろうか?繰り返すが、先生は今からでも、先生が上から目線で同情する肉体労働を少ししてみたら如何だろう。イエス様は田川先生のような学者様ではなく、大工の子で文盲の肉体労働者だ。そうすればイエス研究をしながら、同業者に罵詈雑言を浴びせかけることがどういうことか少しは分かると思う。

 ぼくは欧米の聖書学者の本は日本語訳でしか読めないが、福音書における後世の削除、挿入を語るときは、例えば10世紀以前の古写本にあるものが、11世紀以降の古写本には見られなくなるといういうようなことから、これは11世紀以降の削除であろうと、古文献資料をもとにして推測するのが常のようだが、田川先生はそうした手順を踏んでいるのだろうか。あるいは欧米のそうした学者の成果だと記さないまま、ご自分が直接その写本を調べたかのように、福音書の語句挿入、削除を論じてしまうのか。荒井献先生を233頁4行目で「アンチョコの焼き直し業者」とこき下ろすのも結構だが、まずご自分がどこの図書館の何世紀の何語のどの福音書写本を調べて判断したのかをきちんと明記するべきである。もし、それをしているなら写本の番号くらいは記せるだろう。していないということは、腹いせか逆恨みの揶揄、愚弄にすぎないと思われることを承知しなければならないと思う。もしかして「アンチョコの焼き直し業者」とはご自分のこと?
 それに・・・393頁の11行目に「もしもこれがQ資料の示しているように~」とあるのは何のことだろう?誰も見たことのない故にQ資料と呼ばれているのだが、不思議なことに田川先生はご覧になられているようだ。日本書紀の言い回しに「一書に曰く~」が多く出てくるが、Q資料はその日本書紀の「一書」のように、本当に散逸してしまったか、あるいはどこかに隠されているか、あるいは無いのにあると思わせるためか、の三点だろうが、いずれにせよ、福音書のQ資料と日本書紀の「一書」は永遠に日の目を見ることはないだろう。
でも、田川先生は「もしも~」はついているけれど、「Q資料の示しているように~」などと書いている。この本にはこのような曖昧、いい加減な記述が山ほどあることから、「イエスという男」は、「史的福音書研究」ではなく、キザに斜めって頭の軽いインテリさんたちにモテようとしたお文学の域を出ていない。
また、不思議なことに、この本で田川先生は福音書作者や同業者には罵詈雑言だが、高級外車に乗る現代の富裕な神父や牧師などの非難は余りしない。考えてみれば、マタイもマルコもルカも2000年前の人で死人に口無しだ。現代キリスト教のいい加減さを福音書研究上でけなすが、そんなにキリスト教が嫌いなら、現代のキリスト教会の組織にある高位の神父や牧師を批判すればいいと思う。梅原猛先生が「歎異抄・講談社学術文庫」で、ご宗派にとって都合の悪い文書である歎異抄を明治時代まで隠し続けた浄土真宗組織を一切批判しないのによく似ている。
そのやり方、生き方は狡くてみっともない。まずその酔っ払い口調をやめたほうがいい。それでも斜めってキリスト教研究をやりたいのなら、福音書ではなく、黙示録がお似合いだ。新約聖書の訳・注でヨハネの黙示録もおやりになられているが、ユダヤの黙示録文学はうわ言のような、ラリって書いたようなジャンルだから田川先生にはぴったりだ。しかし先生のご著作を何冊も読む気はもうない。
 アラム語やコプト語に詳しいと豪語される田川先生は、荒井献先生のナグハマディ文書翻訳(岩波書店)もお気に召していないだろうから、是非、田川先生による本格的な日本語訳をお願いしたいものだ。

宗教の定義として、さらに付け加えるべき重要なこと

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 宗教を考える、というと、キリスト教国で構築された宗教観がこの日本でも当たり前のようになっている。日本のお偉い学者様たちはそうした欧米の社会的宗教観の受け売りに終始している。マックス・ウェーバー、バッハオーフェン、レヴィ・ストロース、などとしたり顔でうわ言を言うだけだ。欧米人が宗教という概念を語っていても、結局キリスト教を語っているにすぎない。日本語訳で読んでもそれが伝わってくる。
はい、ドイツ留学しました、キリスト教神学の博士号を取りましたと、ヨーロッパオタクの大衆芸能的美術ギャラリーに通う人々のようなおハイソさだ。宗教の神秘的なことや、大工であっただろう労働者イエスや、スッタニパータで「おいそこの坊主!」などと火の祭祀中のバラモンに蔑まれたお釈迦様を、中産階級のボンボンや中国禅をネタにアメリカで有名になるような学者様に宗教が理解できるはずがない。彼らは政治・権力・経済や階層という宗教組織の社会的現象だけを見て宗教を語る。
 キリスト教成立史の本を読めば分かるようにイエス様はご自分が殺された拷問具を首からぶらざげよ、ド派手な教会を立てよ、などとは一言も言っていない。福音書は四人の作者が書いたものだ。(福音書研究家は共観福音書のネタ本をQ資料として、意味不明のどうでもよいような議論を重ねている。) 
「心の貧しきものは幸いである」マタイ伝5-3、「貧しきものは幸いである」ルカ伝6-20、・・・「心の~」があるか無しでは大違いであるのに、これに明確な答えなど用意もできない「貧しき」学者様が多い。マタイはアレキサンドリア周辺のギリシャ語圏の富裕な人々へのためにこれを書いたために、貧乏人優先ではなく富裕層のために「心の~」と挿入したのだろう。(田川先生は文献上からそれを突き止めておられる)イエス様は底辺の民衆のために殺されたのに、日本のキリスト教会の駐車場にも高級外車が並んでいるのである。
実際、イエス様の周辺にはヨーロッパキリスト教史にあるように、王侯貴族、官僚、祭司、金持ちなどの裕福な人々はなく、ほとんどが漁師、羊飼い、徴税人、売春婦だ。使徒たちもローマと傀儡政権がイエス様に詰め寄ると平気で逃げ出した衆愚だ。
当時のユダヤ教祭司は私兵を擁した軍閥であり、宗教に関しては口先だけの支配層だった。
日本の宗教学者様もイエス様を含む周辺の人々の苦労など知りもしないし、知ろうともしない口先だけの甘ちゃん。イエス様のことを知りたかったら、費用のかかる外国留学で博士号を取ったりするよりは、聖書にあるように明日の食事の心配をしなければならない貧乏を二、三年してみるほうがいいと思う。
その博識と教示には敬意を表したいが、高名な聖書研究家の田川健三先生も、ヨーロッパなどの外国に留学して博士号を取ったり、外国で教鞭をとったことを自慢するよりも、少しでもそういう経験をなさった方が貧乏人の息子であったイエス研究に役立つのではないかと思う。
また「宗教学者」を自称するヨーロッパかぶれの人たちには、宗教組織の資料を見たり、翻訳したりして並べ替えたり、整理したりするだけの稚拙な仕事ぶりにに憐憫の情さえ覚える。そんな退屈で詰まらない仕事をするくらいなら、一般会社に勤めて、頑張って、悩んで、苦しんで、「宗教」というものを考えた方がいい。

 
 宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤だ。超次元を表すのに、あの世、天国、地獄、来世などの用語が使われているが、リーラーでは「向こうのフィールド」という用語を使っている。
 
 この列島は現在でもそうだが、新宗教のような妄信的な人々は少ない。ザビエル書簡集で、彼が一家の主人と奥さんと子どもがそれぞれ違う宗派の宗教を信じているのを相当不思議に思っていたように、この列島ではかなり前から妄信的一神教に汚されていない。15000年前から卓越した平和的文化・宗教の縄文時代を擁する民俗なのだから、この列島の土壌は本来、宗教について客観的な思索をすることが可能なはずだ。なのに、一神教に洗脳された欧米の学者の受け売りをしている貧しい宗教学の現状は悲惨だ。

 西ヨーロッパ人は人類史上では後発組のためか、(前回のアイスマンのことやケルト人のことなど)産業革命を起こすと鉄砲や大砲などの近代的武器や道具による残虐な暴力でアフリカ、アジア、アメリカの人々を虫けらのように殺し、収奪する人間として恥知らずな民族だった。その貧相な驕りは今でもナチズムや白人主義に見られる。イギリスやフランスの商船は、鎖につないだままアフリカからアメリカまで運ぶ生存率1~2割という奴隷貿易を続けた。狂人の為す行為だ。利潤のためにアフリカ、アジア、アメリカの人々から収奪し、反抗する者を虫ケラのように殺してきた。彼らのイデオロギーはユダヤ人のパウロがエジプトのギリシャ語圏のアレキサンドリア周辺で構築したキリスト教をさらに階層的、権力的にヨーロッパ風に改竄したものだ。例えば領民は領主の信仰に従う、という近代以前のドイツでは、領主がルター派から敬虔派になると領民も信仰を変えざるを得なかった。その極端な例は、王様がカトリックからプロテスタントに宗旨変えして、それを国民に押し付けたイギリスの例がある。

 西ヨーロッパ人は、古層にまで至るアフリカやアジアの文化を階層的、差別的、権力的キリスト教イデオロギーによって破壊して、あたかも自分たちこそが上なのだと思い込みたくて、勘違いして叫び、アフリカやアジアの人々を侮蔑してきた。
キリスト教に限らず、イデオロギーを信奉する宗教組織は政治・経済などの分野であり、宗教という概念とは相容れない。
そうした残酷で軽薄な人々が宗教の定義を語る・・・なんのことはない、彼らは「宗教」を語っているつもりでも、中東で興り、その後階層的ヨーロッパ社会で独自に構築されたキリスト教を語っているにすぎない。階層的、権力的キリスト教の呪縛から逃れられない。アニミズム、トーテミズム、シャーマニズム・・・一神教だ、多神教だ、構造主義から見れば~、哲学的には~などとまことしやかに語るが、まるでバカバカしい分類作業だ。
それを拝読、拝聴して剽窃、盗作、勘違いしているこの国の宗教学者様はもっと愚かだと思う。


宗教は人類にとって向こうのフィールドとの関連と動物にもともと組み込まれている共感、親和力のソフトを引き出すものであり、それは見えない「こと、もの」に対しての真摯な態度が含まれる。
宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤である。


とリーラーでは定義する。


「なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するか」末尾の(注)

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

体内微生物

微生物先月は何となく本屋で手にした微生物についての本を読んだらとても興味深かったので、続けて何冊か読んでみた。また、それらの本に刺激されて、ナショナルジオグラフィックの体内微生物の番組を録画して見た。

 それによると人間の身体の8~9割は微生物であり、微生物が人間に寄生しているというより、人間の生命行為の実態はその逆である考えるべきだ、との主客転倒が正しいという考え方もあるということに驚きを感じた。
一つの細胞は平均10個の微生物と協調して存在しているらしいが、興味深いことだ。特に腸には分かっているだけで2500種の微生物があるらしい。
最近は精神病と腸内微生物の研究も進んでいる。例えばウツ病を発症するセロトニン欠乏において、腸内微生物との直接的な関連が指摘されている。それはセロトニンを生産する微生物が小腸内にあり、それが血液によって脳内に運ばれて健全な精神を維持するというシステムになっていることから、セロトニンだけを考えた場合は、心や精神、魂という問題よりも、ウツ病は小腸のセロトニンを生産する微生物の問題である、ということも言えるそうである。

 そう言えば、現代の医学は体内の9割を占める微生物統御をほとんど無視した対処的、部分的医療に限られている。
現代医学は対処的、部分的医療に特化してしまっているために、医者が治ると自信を持って判断して高度、高額な医療を施しても、なかなか治らない場合があるのは当然のことだろうと、考えさせられた。
 ぼくは医学のことなどまるで分からない一般大衆だが、これからの先端医療は微生物のことも考えるようになるのだろう、と考えるとなんだか不思議な気がする。アランナ・コリンさんの説得力のある「あなたの体は9割が細菌・河出書房・矢野真千子訳」が面白かった。中西貴之先生の「へんな細菌、すごい細菌」は驚くべき細菌利用について書いてあった。


なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するのか?

般若0405-2 類人猿からヒトへの進化過程や動物行動学、人類学、考古学などの    本を読み続け、他国の巨石文明やこの列島の遺跡、博物館をぼくのできる範囲で見学してきた。その結果、もともとヒトが作る社会組織には慈愛、共感、同情などが優先されていた可能性が高いと考えるようになった。もちろん10000年前の現在のケニア・トゥルカナ湖付近での集団虐殺や、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷の氷河で見つかった約5300年前の男性のミイラ・アイスマン(注)の致死の原因がヒト同士の暴力によっていたことなど、人類が同胞の殺戮をしていた考古学的証拠はある。しかし、10000年以前のヒト同士の殺戮の発掘事例の少なさと、民族、民俗学事例から我々ヒトの本質は本来平和であったことが類推される。ましてやこの列島の縄文時代にヒト同士の確実な殺戮の証拠はいまだに無い。
 現代の我々ヒトも集団で殺し合いを演ずる理由のそのほとんどが政治、経済、イデオロギー、宗教が介在した場合に限る。実際、怨嗟など個人的な理由で人殺しをするヒトはマレである。しかもほとんどのヒトが怨嗟などを抱いても人殺しはしないものだ。ましてや自発的に徒党を組んでみんなで殺し合いをすることなど皆無だ。
 我々ヒトはどこかでボタンを掛け違え、暴力、権力、財力などというものを生じさせてしまったのだ。ジンメルやマックスウェーバーなど読まなくとも、「信用創造」という用語一つを見ても、貨幣の意味はもともと幻想であることは誰の目にも明らかだろう。嘘、虚構、収奪・・・心の醜い人々ほど富むのはそのためである。国家は王政であろうと民主主義であろうと、我々民衆は課役を負担する民であり、使う側ではない。その階層化によって政治は成り立っている。我々大衆は「課役負担民」と定義されている。

 人類は科学や芸術や国家や文化、宗教組織を構築したが、その中で最も古く人間臭いものが宗教組織である。当たり前のことだが、ヒト以外の動物は南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経、アーメンなどという唱え言などどうでもよく、完全に確実に無視し、一顧だにしない。
宗教組織は人間の作ったものだからである。この宇宙において普遍性も何もない誠に人間臭いものだ。
しかし、組織宗教ではなく、本来の「宗教」という概念は向こうのフィールドや彼岸の存在を確信する態度を持ち、清く、美しく、気高く、慈愛に満ちた平和的概念の元にあるべきものだ。また「原始宗教」というカテゴリーの研究などは「宗教」が社会構造をギスギスさせないためにあるという高度な側面を持っていると論じているが、その通りだろう。
 つまり「宗教」は貨幣や道具や思想、哲学にはない人間の中で最も汚れのないカテゴリーでないと機能しない。近現代のマネー大好き、尊敬されるの大好き、権力大好き、威張るの大好きの薄汚れた聖職者には荷が重い。
「宗教」は人間の構築した文化の中で、最も美しく気高く、清くなくてはならない。科学、芸術、政治、経済は暴力と権力、財力、見栄、嘘、欺瞞がはびこってしまった。宗教が鬱陶しい糞まみれになっては人類に未来はない。そう危惧している。
 宗教が人類の最後の砦!
 宗教本来の清く美しい姿を取り戻せば・・・ぼくはそう考えるマイノリティーである。
ここで考えるように、もし宗教が人類を高める可能性があるならば、事は簡単である。真っ当な宗教を取り戻すことだ。人類には現在美しく、気高い規範が一つもない。  無慈悲な計算可能性をもった貨幣が人類を貶め、さらに清いはずの宗教が政治・経済とつるんで穢れてしまった。

 前回のブログに書いたが・・・宗教組織のやることと言ったら、我々が愚かな大衆であることをいいことにして、1000年前に中国人が儒教的に翻訳した仏典のその表題を唱えるといいことがあるかもしれない、などという馬鹿げた洗脳を続けてきた。
 何かを念じて、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などと唱えることは、心理的プラシーボ効果はあるだろうが、仏典にはそんなことは書いていないし、2500年前にインド・ネパール地方に居られたお釈迦様が、1000年後に中国語に翻訳された仏典の表題を唱えることが仏教である、などと言うだろうか?
こんなことは、子どもでも分かるはずなのに、我々愚かな大衆はそれに気付かない。

 例えば、原題とは違う変な日本語翻訳のバッハの「平均律クラビーア曲集」の題名を日本語で何度も唱えると、上手く弾けるようになるだろうか?
 上手く弾けるようになるには、日本語の表紙の題名を眺めているだけではなく、楽譜を開いて初めから終わりまでよく目を通して練習しなければ上手くならない。
 こんなこと当たり前のことだ!
 仏典の中身を読まずに、題名だけ唱えてその仏典が分かるだろうか?
 いい加減な嘘、欺瞞でも大衆は信じるさ~愚かな大衆に夢を持たせてやって何が悪い~文句を言われる筋合いはない~と開き直って仏教組織は大衆を衆愚に貶めてせっせと集金に励む。
釈尊寂滅から2500年もたっている。もう21世紀だ。いい加減なこんなバカバカしいことを信じるのは、もうやめよう。信仰?・・・それは愚かな我々大衆に対する洗脳!
 あなた方がこんなウソ、欺瞞ばかりだから、我々大衆の政治家、学者、芸術家もあなた方と同じように嘘、欺瞞の世界を構築している。
 とにかく、宗教は美しく清くなくてはならない。威張り腐ったアホに清濁併せ呑むもんだとか、ヘラヘラ言わせるのはもうやめよう!宗教は人類の文化の最古で最も人間臭いものだ。これが糞まみれになっているから、人類に救いがない。
 宗教は最後の砦だ。
 敵味方が同じ神に祈る、なんて!こんなバカことをしているのが我々人類の組織宗教なのだ。
 宗教とは誠に誠に個人的な、ピュアな、霊的なものだ。

参考 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/search?q=%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

仏典や聖書を読んでいて・・・


img_176309_14549532_0[1]ユダヤ・キリスト・回教(セム語族の一神教というくくり)は、中東の砂漠地帯で毎日寝起きし、見る動物といえば家畜ばかり、砂漠には木も草も生えない、山々に降り注ぐ雨、豊かな自然風景など見たことがない民族が構築した宗教である。熱帯地方やわが国のような湿潤地帯の神観念とは違う。
イエス様はご自分が殺された拷問具である十字架を信者が首にぶら下げるのを喜ぶだろうか?現在ならば電気椅子や絞首刑具を首にぶら下げるようなものだ。実際、十字架がキリスト教のマークになったのは4~5世紀だ。それ以前はご存知のように魚のマークだった。
「問いかけるイエス・荒井献著・日本放送出版協会」には、山上の説教について浅学なぼくには気が付かなかったことがたくさん書いてあった。例えば・・・
マタイ福音書「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」
ルカ福音書  「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」・・・
なるほど「心の貧しい人々」は必ずしも貧乏ではないが、「心が~」と断ってなければ、「貧しい人々」は貧乏と解釈するべきである。また、「天の国」と「神の国」は用語が違う。マタイ派とルカ派の違いだが、このように三つの共観福音書はかなり違う。詳細は荒井先生のご著作をお読みいただきたいが、この三本の福音書において使徒の名前もバラバラ、並行箇所もバラバラ、マタイ福音書にはイエスはマリアの処女懐妊だから父親の血筋とは関係がないのに父親の系図が延々と書いてある。それなのに教会はイエス様のこの三本の伝記を勘違いしたまま信じるように壇上から庶民に説教している。大衆を衆愚としてバカにしている。

 
 お釈迦様はインドの暑い国で生まれ育ち、そのお顔は現在のインド、ネパール人に似ていただろうが、日本の寺の仏像は薄目を開けた太り気味の中国人風がほとんどだ。こんなバカなことはない!お釈迦様は中国人ではない!そもそもお釈迦様が、気の触れた独裁者のように「俺の像を置いて、みんなに拝ませろ!」なんて言うわけがない。何を根拠にお釈迦様を揶揄するこんな風習を作ったのか!こんな恥ずべきことができる仏教僧という浅ましい輩の行き先は確実に浄土ではないだろう。大宗教組織の宗教者は、お釈迦様寂滅1000年後にパーリ語やサンスクリット語から中国語に翻訳されたものを完全なお釈迦様の言葉だと勘違いしている。なぜ原典であるパーリ語やサンスクリット語の優秀な研究者の翻訳、著作を読まないのだろう?

太り気味の薄目を開けた中国人風の像を民衆に拝ませるのが仏教なのだろうか?

高級外車好き、酒好きで葬式と墓地営業、観光営業にあくせくする僧に仏教を語る資格はあるだろうか?
南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・と中国語のお釈迦様や、お釈迦様寂滅後800年も経ってから編纂されたインド経典の中国語翻訳の経典の題名を唱えると何かいいことがあると民衆に信じ込ませるのが仏教なのだろうか?

「リーラー」という思想

ナグハマネィ写本 例えば、言語学の本をいろいろ読んでいると~「言語を扱えるのはヒトだけである」と、言語が使えることで他の動物に勝ち誇ったような表現をみることがある。
「サルや類人猿にヒトの言語をカードや手話で教えても~、言語的思考は育まれない~」などというような文脈で使われる。当たり前のことだ。サルも類人猿も人間ではない。日常生活も思考構造も、これまでの進化の過程でも、発声の肉体的構造もヒトとは違う。言語を持たない類人猿やサルはヒトよりも劣っている~と言いたいがための、我々ヒトも動物なのに、他の動物を見下すだけのアホな言い回しに見える。サルや類人猿がヒトの言語を理解できない、などという当たり前の、こんな研究が馬鹿げていることに気が付かないアホな学者。ヒトとしてこれは悲しい、というよりもう痛い、としか言いようがない。言語学だけではなく、このプログで書いてきたように学者というカテゴリーの人たちはそんなアホが多く見受けられる。なんで頭の弱い人が学者を目指すのだろう?不思議でならない。学問は豊かな想像力、創造力、才能を必要とする。時流に乗るのが得意だとか、清濁併せ呑むとか、出世とかを考えるようなサラリーマンの輩は人々をリードする学問をやってはならない。ああだ、こうだのもっともらしい屁理屈と、きちんとした論理の違いはぼくのような浅学の者にも分かる。通暁などしていないにもかかわらず、何ヶ国語もの資料や本を参考文献としてあげたり、剽窃、盗作まがいのものでお茶を濁すだけなら、どこかの会社に勤めて一生懸命に汗を流した方がいいと思う。(例えばロシア語やドイツ語の資料や参考の場合、日本語か英語の翻訳本を読んでその当該原題をロシア語やドイツ語で表記したりする。アホな研究については下記でも書いた。)
 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/1582115.html
 
 また、一般に、ぼくの経験からしても想像力、創造力のある者は、無味乾燥な受験勉強は得意ではない。知的水準の高い者は別だが~受験勉強が得意であることはすなわち人間性が軽い者である。学問を好きとか、好奇心旺盛ではなく、一流大学卒とか、そういものを欲しがる見栄っ張りは軽い人間である。そういう軽い者が人類をリードしているから、いつまでたっても人間世界のいい加減と嘘が主流の下品な文化がよくならない。興味のない科目をいくつもたて続けに覚えるのは確かに忍耐がいるが、優秀な者以外、それを覚えていたり、その知識を使うことはマレである。だから、ほとんどの政治家、大企業の経営者、宗教組織権力者はこの世界を「多い、少ない」だけでしか世界を見ない。

話は戻るが、類人猿やサルはヒトではないのだから、ヒトの言語の理解や扱いが出来ないのは当たり前のことだ!こんなことにお金を使うのはもったいない。
 それは平和の祭典と言われているオリンピックが政治家と土建屋と、見栄っ張りが国家のお金を掠めとるだけになっているように、こんなことにお金を使うのはやめて欲しいものだ。何兆円もかかる平和の祭典?そのお金を紛争地帯や貧しい人たちに使ったらどうだろう。どちらが平和に貢献する手段だろう?オリンピックは平和の祭典ではない。政治家、土建屋、取り巻きたちが国家のお金を掠めとるため、ああだ、こうだと、ヘラヘラと平和の祭典だと言い抜けているだけ。
 だけど勘違いしないで欲しい。ぼくはスポーツに対して、これっぽっちも非難していない。ぼくが非難しているのは、平和の祭典などとはとても言えないオリンピックを非難している。繰り返すが、オリンピックのために使う莫大なお金を紛争地帯や貧しい人たちに~。


  これまでこのブログでもずっと考えてきたが、頭の弱い自分勝手なアホたちが牛耳る暴力、権力、財力優先という貧しい文化を構築した人類第一の責任は、「宗教組織」と「宗教権力」、「宗教者」にある。人間の世界で最も、聖なる、美しい、清く整っていなければならない「宗教」が、嘘とマネー、戦争、権力、政治の糞まみれだからである。「宗教」には救いがあるが、「宗教組織」と「宗教権力」「宗教者」は神仏と清らかな人間性を否定する諸悪の根源だ。少なくともこの三つがまともになれば、人類はもう少しマシになれるだろう、ぼくはそう考える。そういう意味でリーラーという思想の構築をずっとやってきた。

「信仰」ではなく、「知る」

466ca5d7[1]「信仰」ではなく、「知る」という態度が肝要だ。対象についてほとんど知らなくても人は信ずることが出来る。これは我々衆愚の衆愚たる所以だ!
ヒトラーは偉大だ!ドイツ国民を良くしてくれる!天皇陛下に忠誠を尽くすことは国家と国民のためだ!
ご存知のように、ドイツも日本も第二次大戦でたくさんの国民が殺され、怪我をし、家族、恋人、友人を失い、財産を失い、重大なトラウマを抱える、という結果となった。
戦争に勝つと、王族や政治家とその取り巻き、武器商人だけが幸福になり、戦勝国であろうとも国民が幸福になることは絶対にない。戦勝国の国民が大いに幸せになったことなどあるだろうか?負けた国民はさらに恐ろしい不幸が待ち受けている。

 大多数の人々が信じていたことは間違っていた。原子爆弾を投下され、町々は灰燼に帰したくさんの人々が傷付き殺された。神国日本と信じていたのに~。教会はイエス様のその名のもとに殺しを続けてきた。ぐだぐだ言うのは結構だが、軍隊や銀行まで持つ組織宗教はイエス様とは関係ないだろう。イエス様の教えとマフィアのマネーロンダリングまでするバチカン銀行とは何の関係があるのだろうか?それでも醜い宗教権力者たちを疑いもせず信仰を捨てない人々は衆愚と見下げられても仕方がない。
とにかく信ずることが大事だと洗脳されている。
キリスト教徒はカトリックとプロテスタントで決着のつかない血みどろの戦いをしてきた。16世紀のユグノー戦争では、フランソワ・デヴォアの絵を見れば分かるように無慈悲で気味の悪いIS同様の凄惨な殺し合いをしてきた。
双方同じキリスト教なのに、これほどの憎悪が生まれる。
もし、彼らがきちんと聖書を読む宗教者ならこんな地獄図を演出することはなかっただろう。イエス様がユグノー戦争を見たら、どうお思いになるだろうか?
お互いに信仰を拠り所として、殺しあった。女、子どもの首を刎ね、腹を切り裂くようなことをしてきた。
信仰は精神の病である。
悪魔と結託した宗教組織が、大衆に何も考えさせずに、精神を盲目にさせるーそれが信仰という洗脳である。
もし、聖書を本気で読む者ならこんな残虐なことが出来るはずがない。信仰とは自らの所属する聖典や聖者の言葉さえ簡単に反故にしてボスに従う。これは宗教組織における殺人、略奪だけのことではなく、日常折々のことでも、結果的にイエス様を裏切り、罵倒する生活をさせている。
  宗教組織においての信ずることは、イエス様の言う信仰とは全く異質である。
もし信仰が人類に有益なものなら、同じ信仰を持つ者同士で殺し合いをすることはないはずだ。信仰は人類の幸福を促さない。

 
 信仰とはイデオロギー的な洗脳であるゆえ人類にとって有害である。信仰は宗教組織と権力を持つ者、その取り巻きだけに有益であり、一般信者は衆愚とさせられる。
「知る」ことと「信仰」は全く異質であるにもかかわらず、宗教組織はこれを同意とする。
キリスト教信者はきちんと聖書を読み、仏教徒はきちんと経典を読むべきである。そうすれば、我々は衆愚ではなくなり、我々にきちんとした宗教観が生まれる。
「信仰」ではなく、お釈迦様やイエスを「知る」べきである。

 宗教者は我々愚かな人民に組織に都合の良い箇所だけを提示し、組織に都合の良いように解釈して、衆愚から収奪して肥え太るという性質がある。

イースター島

イースター島人類の暴力性を喧伝する論調は多いが、下記のような研究や論調も意外と多いことからリーラーという思想を構築し始めた。
ここで平和的人類基層について本や資料など様々なところからぼくが集めた人類の平和的性向を少しずつご紹介していきたい。


イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説   
島内の争いがもとで衰退したとする従来説に異論

ナショジナル ジオグラフィック 2/25  2016 から


 ラパヌイ(イースター島の現地名)のモアイほど、世界的に有名な遺跡は数少ないだろう。また、その石像を作り上げたポリネシア人たちの悲しい結末ほど、人類の未来への警鐘となる話も少ないだろう。
 1722年にヨーロッパ人が初めてこの島へやってくる前のこと、島の人々は不思議な巨石像を次々と作り、そのおかげで島中の森林が伐採され、資源は急速に枯渇し、残された乏しい資源をめぐって島民の間に争いが起こり、やがて完全な社会崩壊、経済崩壊へつながったのだと言われてきた。(参考記事:「謎に満ちたモアイ」)
 しかし今、島のいたるところで発見されているごくありふれた遺物が、その通説を覆そうとしている。
1877年当時、島に住むラパヌイの末裔はわずか110人だった。ヨーロッパの民族学者たちが、イースター島の社会を崩壊させた武力闘争に関する口承を収集し始めたのがこの頃だった。島のいたるところで出土した数千個もの石器は、武器として使われたと考えられた。黒曜石で作られた石器は、小さく細長い三角形をしており、柄がつけられた。
 元ナショナル ジオグラフィック協会付きエクスプローラーのジャレド・ダイアモンド氏は、2005年に出版した著書『文明崩壊』で、マタアと呼ばれるこれらの石器を「頻発する内乱」の遺物として紹介した。米国の国防脅威削減局の刊行物でも、「石器時代の武器発達」の一例として挙げられている。
 ところが、新たに発表された研究報告により、マタアには実は殺傷能力はなかったとする証拠が示された。しかも最近では、後世に語られるようになった武力闘争も実際にあったのかどうか、ラパヌイ研究者の間で対立する意見が出始めている。島民たちは確かに森林伐採と環境破壊の影響に苦しめられたものの、文明崩壊まで至ったのは、外部の人間との接触があってから、彼らの持ち込んだ疫病と奴隷制のためであったという。

 論文の著者は、殺傷能力がないマタアを作ったのは、孤立した島社会に暮らす人々があえてそうしたのだと指摘する。彼らは、狭い島の中で互いに殺し合いをすれば、いつか全員が死んでしまうということに、早くから気付いていたのである。(参考記事:「石器時代の大規模な「武器工場」を発掘」)

AIを考えていたら・・・

02[1]AIは人間を超えるか?人口知能の将来!
AIと恋に落ちるか?

 最近AI関係のネタで 刺激的な言葉が飛び交うようになってきた。
だがほとんどの記事はこうしたことを論じる際に必要な大前提の欠落に気が付かないようだ。バカバカしい論議だと思う。
人間とは何か?
これを定義しないことには、AIが人間の何をどう超えたのか?分からない。
AIはそもそも人間ではなく、電気が流れることによって動く機械だ。
姿形や反応が似せたとしても、そもそも道具にすぎない。何も食べないし、飲まない。動物のように、体内に微生物が密集しているわけでもないし、灰白質の脳によって体が制御されているわけでもない。DNA、RNAによる生体複製もしない。

AIがプロ棋士に勝った。
AIが人間の計算能力の数兆倍の演算速度を持つようになった。
AI搭載機械が熟練労働者10人分の仕事を素晴らしい速度でこなせるようになった。
AIが瞬時に膨大なデータベースを検索して類推機能を持つようになった。
AIの人口皮膚を動かして、笑顔や悲しみの顔を作れるようになった。
こうした一部のことを取り上げて「人間」と比べる?
グラビアの美女に恋をするような、ディスプレー上のバーチャル世界と現実世界を混同するような、取り留めのないことを針小棒大に取り上げて、ヨタ話をしているにすぎないと思う。

 抵抗器や集積回路、ハードディスク、ケーブルに電気を流し、0と1の二進法の電気信号で動くコンピューターは、人間のようにオキシトシンやノルアドレナリンやセロトニンを分泌して感情表現をする人間とは似ても似つかないものだ。さらに人間についてその分泌を促す原因については何も分かっていない。セロトニンが分泌したから気分が落ち着いた?それは結果の分析で、なぜセロトニンが分泌されたのか、ということについて科学は何も知らない。仮説さえないのに、AIが人間を超える?
人間とは何か?・・・このことについて、哲学、宗教、科学、政治、経済学、生物学は真剣に考えようとしない。統合された仮説すらない!コンピューターには脳も血管も腎臓も心臓もない。無機質で出来ている。
さてAI搭載ロボットは家族や恋人を持っているのだろうか?帰宅して団欒を楽しむのだろうか?

 人間は・・・神が作った?コアセルベートのようなものから進化した?宇宙からアミノ酸が地球に飛んできてそれがもととなってウィルスや単細胞生物が生まれ・・・そして人間に進化した?人間をたんぱく質の塊だと考えるのならば、それは正解かもしれないが、実際はそんな数十億年前のことはどうでもいい。どうせ分かりはしない。
それよりも、現世人類である我々人間とは何か?これについて考えるのが先だろう。
人間は道徳や芸術、整った社会組織を持つ高度な存在?虐殺や略奪は闘争本能による?アーリア人が偉い。世界の中心は中国。白人が偉い。信奉する自分の宗教組織が人間の規範を示している。環境破壊はどうでもいい、儲かればいい!・・・こんな愚かなことを信じる人々が存在していると、人類の消滅は自然的消滅より早くなるだろう!それはそれで仕方がないが~。

現世人類の全てはアフリカ出身だ。

ホモ・サピエンスは10万年~20万年前にアフリカから出た。それを証明する化石人類学や遺伝子人類学、考古学が間違っているとは思えない。このような科学を否定する人々でもテレビも見るし、スマホも使う。自分に都合の悪いものは否定して、都合の良いものだけを肯定するという人々が人類を牛耳っている人間世界だ。
かつて求心力は宗教にあったが、21世紀の現世人類の一番の求心力はマネーだ。
100億円の財産が200億円になるとどう幸福になるのだろう?

我々現生人類は自分の快不快だけしか感じないバカが、権力と財力を握れる世界を構築してしまった哀れな類人猿だ。

とにかく人間とは?を真剣に考えないと我々は愚かな人々によって将来を閉ざされ、ホモ・サピエンスになってから10~20万年という短い期間だけ存在した類人猿ということで終焉を迎えるだろう。

存在物である以上終焉は免れないが、せめて一度くらいは人間の尊厳を現してからにしたいものだ。もちろんそれはこのブログでのぼくの個人的見解であり、賛同を得ようとは思わない。もちろん行動を起こすつもりもない。現世人類はどうせ哀れなまま消滅するに決まっている。
涅槃寂静・・・いい言葉だと思う・・・それでいいと思う。
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/5932201.html

宗教組織について~

バベルの塔-ブリューゲル[1] 神は食事もしないし、排泄もしない。現金を欲しがったり、宮殿のような豪邸に住みたいわけでもない。
でも教会、寺社は莫大なマネーを集めている。数千年に渡って殺人、略奪、収奪を犯してきた。セム語族のユダヤ教、キリスト教、イスラム教だけでなく、わが国でも大寺が僧兵を擁していた。刀を千振り集めようと次々と人殺しをした武蔵坊弁慶という僧形の殺人鬼もいたようだ。大神社に所属していた神人(じにん)の一部は私兵である。とにかく宗教組織は教義をイデオロギーにして盛んに人々を弾圧し殺していた。現代同様キリスト教の聖書に出てくる司祭たちが私兵を擁して、イデオロギーと暴力で人々を苦しめていたと同様な構図である。
こんなに恐ろしく、醜く、暴力的な宗教組織を、洗脳された愚かな人びとは神だ仏だ信仰だなどといって、宗教者の言いなりになって崇め祭る。物理的肉体を持つ現世はほんのひと時にすぎない。早く気付かないと、死んだ後、宗教で生計を立てる悪魔の手先である宗教者と同じフィールドへ行ってしまう。
言っても無駄だと思うが、宗教者も洗脳を受けた信者も、「後悔先に立たず!」にならないように、お祈り申し上げます。

 まともな魂、精神を持つ者なら、宗教組織(宗教ではなくそれを標榜したその組織)が如何に悪辣な存在なのか直ぐに分かるはずである。
何度もこのブログに書いてきたが、宗教組織は悪辣そのもののである。反仏教、反キリストである。東大寺が自分の教えの延長にあることを知ったら釈尊は恥じ入るだろう。
バチカンが自分の教えの延長にあることを知ったらイエスは恥じ入るだろう。
イエスも釈尊も奴隷や殺人、集金、差別を容認していたのだろうか?優しそうな宗教者の実際はイエスや釈尊を裏切る悪魔以外の何者でもない。マネーと権力はどうやって手に入れているのか?華美な建物の中で人びとを騙し、贅沢な生活をするのをやめたほうがいい。
あなたたちの洗脳によって、信仰を持つ愚かな人びとは死後に後悔することになる。
宗教で生計を立てたり、裕福になることは悪魔の手先になることだ。直ぐにその商売をやめたほうがいい。あなたが死ぬ前に気付かないと、あなたの魂だけでなく、騙している愚かな人びとの魂も死後、大変後悔することになる。
向こうのフィールドは宗教組織のプロパガンダとは全く違う世界であることは、誰しも心の奥底では知っているのだから。


 次の引用はマタイ福音書の26章のユダの接吻の場面で宗教的にいろいろ潤色してあるが、イエスと一緒にいた者の一人が大祭司から遣わされた者の耳を切り落とす場面である。

『彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕(しもべ)に切りかかって、その片耳を切り落した。』

 日本語では「イエスと一緒にいた者のひとり」が大祭司の僕(奴隷?)の耳を切り落とした、という翻訳で、奴隷の耳を切り落としたのはイエスに近しい者ではないように訳されている。そこで当該単語についてギリシャ語原文が分からないのでネットで検索するとギリシャ語では英語のmetaの意味のようだ。英語ではone of Jesus 'conpanions とある。companionの意味は「ある行動を共にし親密な関係にある仲間、友、連れ立っている人」だからこれは弟子である可能性が高い。そのイエスの弟子が常に剣を帯びていなければ、このように咄嗟に人を切れないであろう。
シリアの属州にされてしまって国とも認められなかった祖国を残酷で強大なローマから解放しようとしていたイエス教団なら、武装しているのは当然のことだと思う。シカリ党、ゼーロタイ(熱心党)、ヨハネ教団、イエス教団(キリスト教はパウロが作った?)・・・ユダヤの司祭や貴族がローマ権力者に侍って民衆を苦しめていた当時は民族解放戦線が乱立していたと、欧米の歴史的福音書研究家はそのように解釈している人も多い。

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