江部遊観のブログ

リーラーの宇宙は第三章の脱稿をもって、その概要を表すことができたと考えています。世界を説明するのに「イエス・ノー・リーラー」による三重構造を基層にしました。それは一万年のながきにわたって戦争のなかった縄文時代のイデアを再構築する試みであり、それを現代に重ね合わせることによって、ひとがより豊かな精神性を獲得できるのではないかとの思いです。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/

AIと生命  

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AIは言語と数字、数式によって動く

 
 言語と数字、数式は意味の外観、概観しか表せない。構造的には意味のはるか下位にある僅かでしかない情報である。
喩えて言えば、wavとmp3の情報量は格段に違うが聴こえ方に著しい違いはない。しかし耳の鋭い人には直ぐ分かる。wavからmp3にすることはできるが、その逆ができない不可逆性も、意味と言語、数字、数式の関係に似ている。ただし深く無限にまで情報量を持つ意味と、概観しか表せない言語や数字、数式には超えられない天文学的な情報量の差がある。
 二個のリンゴと、二台の車も数字だと2になるが、驚くことにこの抽象的な概念である数字は、2+2という数式を導ける。これはリンゴと車だけでなく、リンゴと惑星にも適用できる摩訶不思議、極めて抽象的なものだ。二個のリンゴと二個の惑星という捉え方には何の意味もない。(ヒトだけが解す芸術は別)
数字、数式は意味の外観だけしか表せないために、多くのことを解決できない。非線形問題解決にしても、加えた情報以外のことは反映しない。例えば施工期間を推測する場合、投入する労働力を何人と入れても、実際には病気やけが、やる気のあるなしなど膨大な情報を考慮しなければ、線形問題解決を多少複雑化したにすぎず、見かけは曲線になりなんだか当たりそうに見えるだけだ。
 また言語は人それぞれが違う解釈をしていることから、抽象的にならざるを得ない。例えばリンゴ農家とスーパーに買い物に行く主婦とはリンゴのイメージが違うし、リンゴが好きな人と嫌いな人でも違う。AIにリンゴと入力する場合、姿形、味、品種、生育に関する地域情報などの標高、気温、降雨量日照時間、また嫌いな人と好きな人の感覚、リンゴを食べる動物、ジュースにした場合、ケーキにのせる場合などほぼ無限に入力しないことにはリンゴを正しくAIに認識させることはできない。
しかし、不思議なことにヒトはそれらの無限にも思える情報をなんとなく意識している。隣のおばさんが青リンゴが好きだと理解する場合、酸味や甘みの配分、また青リンゴが高地でしかできないこと、おばさんの出身地や生活環境、現在の体調など膨大な情報を瞬時に重ねることができる。人と同じ判断をAIにやらせるには、その膨大な情報を入力し続けなければならない。人と同様の判断を求めようとすると、一つの単語に対して人と同じだけAIに入力しなくてはならない。これは実際には不可能だ。例えば世の中にはリンゴを食べる猫も存在するが、AIにその情報が入力されていなければ、「リンゴを食べる猫」という命題は拒否される。もちろん隣のおばさんの嗜好などについてAIは考慮しない。隣のおばさんが青リンゴを好きだと知っている場合、人はリンゴとおばさんをリンクさせる。形だけのような単純な情報だけで、リンゴを解釈してはいない。複雑多岐に渡る情報を一挙に検索して、リンゴという単語を認識するのが人である。AIとは次元の違うほどの大量の情報量と解釈だ。
 故にスカスカの情報のみで動く現段階のAIが人を超えることなどできない。また、「人を超える」という命題に関して、まず人とは何かについての解釈がなければ、人と比べることすらできない。まずこれを考えることが先だろう。

 現今の言語論や意味論、論理学、数学が真理と程遠い論議を重ねても解釈に近づけないのは、AIのようなスカスカな抽象的世界にあるためだ。世界は一個のリンゴが無限にも迫る膨大な情報を持っているように、数式が表すようなスカスカではなく、もっともっと濃密なものだ。
 意味は言語や数式では表せない膨大な情報のことだが、言語は単語と文法、数学は数字と数式で外観を撫でるだけのことしかできない。
数字の2が何を表しているのかを意味として捉えないと、それが二匹のネコなのか、二本のタイヤなのか分からないように、抽象的なスカスカな情報になってしまう。そしてそのスカスカの情報をこねくり回して複雑にして、ああでもない、こうでもないと論議している人たちが大勢いる。

 
 生命は非エネルギー的情報を把握する

 
 前回の繰り返しだが、創発や自己組織化という用語がある。これが科学なのかと驚く。おそらく預言の類いだろう。神さまを持ち出すかのように、創発、自己組織化が自然に起こるなどという論理をのたまう。これは神や預言の世界である。これが最新の複雑系の考え方の一つだと思うとがっかりする。
同様に生物学には群知能という用語がある。ある情報を個体としてではなく、群として捉えるという生物の情報取得のことである。例えばアリなどの社会的生物の集団行動を説明する場合によく使われる用語だ。各々の個体がその情報にふれていなくてもあたかも全ての個体がその情報を把握しているかのような団体行動をとる場合のことだ。
植物においてもこのような現象が指摘されている。例えばある一本の木が害虫被害にあった場合、周囲の他の木が一斉にその害虫の嫌いな物質を葉や幹から分泌して事前防御することがあるそうだ。これも群知能と言っていいだろう。
しかし、複雑系の自己組織化という用語などと同様、その仕組みについては皆目分かっていない。ただそういう現象が起こる、というだけのことで、目新しい発見でも実証可能な理論もない。
 そうした現象が実際に確実に起きるにもかかわらずそれを説明できない理由を考える必要がある。
存在や現象が起こるには何らかのエネルギーが必要だが、こうした場合は高低差や熱、電波といった物理的エネルギーは見つからない。
非エネルギー的な力を考えなくてはならない。にもかかわらず、物理学や数学では弱い力と強い力などの核力や重力などの4種の力で全てを説明しようとしている。
古典的唯物論からの視点だけで世界を見る術しか持たず、ほとんどの存在や現象を説明できないままだ。
数学的抽象論をそのまま物理現象にあてはめる愚が存在や現象をきちんと見ることを妨げている。たしかに非エネルギー的な要素は最新の検知器によっても検知不可能だが、現象は実在しているのだから、何かがあるはずである。
現代科学が非エネルギーの解明に至るまでは、まだ相当な歳月が必要なのだろう。もしかするとミクロの世界の根源粒子のさらに下部にある何かにその解明の鍵があるかもしれない。なぜなら、ビッグバン説はこの宇宙が無と等しい大きさのものから展開しているということだからである。エネルギー論から見れば、無という非エネルギー的展開が先で、後にそれがエネルギー的展開となった。その大元の非エネルギーに思索が及べば、科学は別の道をたどることになるかもしれない。

 故にAIはエネルギー的であり、スカスカの情報を元にして動くことから、生命体には永遠に近づけない。生命体は非エネルギーに対しても感知可能であり、意味的に生きることによって永遠性を有している。
データを与えるだけで自らアルゴリズムを作り、パターンを認識する機械学習であろうとも、青りんごが好きなおばさんに対する愛情がわくだろうか?
機械学習は初めに入力するデータによって様々なパターン認識が現れるが、それは言語的、数学的認識であり、ヒトのようにセロトニンやドーパミン、オキシトシンなどの作用とは違う。結果的にヒトとAIの判断が似ていようと、それは言語的、数学的なのである。
 例えば小腸のクロム親和細胞でセロトニンが生成され、腸壁を通って血管に入り、脳内に運ばれて情動が起きるというのとは異質だ。ヒトの気持ちが落ち着くということは、人間関係の改善や気分の良いことが起きる、良きアドバイスを受けるなどの他に、腸内の細胞や微生物の働きが大きく関係している。暴飲暴食やストレスによってセロトニン生成が少なくなると、結果的に胃痛や下痢などの症状も出る。電車内の突然の腹痛、仕事中のイライラ、夫婦喧嘩・・・自律神経や副交感神経の乱れ・・・ヒトの判断はほぼ無限の事因によって起きる。機械は機械故に限定的な要因の判断しかできない。もし機械が生命体のように無数の要因にアクセスするとしたら、そのCPUは動きっぱなしになり、判断を下すことができないだろう。計算途中で判断できるアルゴリズムを作ったとしても、どのタイミングで判断を下すかということを計算しなくてはならない。生命体の判断を参考にするにしても、そもそもが数学的計算であることから、分子の受容体の形と数とは異質なものだ。
しかし、不思議なことに生命体は無数の要因を勘案しながらパターンを認識し、適度に正しいと思われる判断をし、適度に誤りを為す。生命体と同様の適度な失敗、誤り、試行錯誤についての計算もまた大変だと思う。「こんなこと言わなければよかった」などという判断を機械にはできるのだろうか?・・・それが生命体なのである。(笑)
また同じ情報でも人によって様々である。一つの情報でも十人様の情報となる。
 情報と意味はカテゴリーが違う。AIは情報によって動くが、生命体は意味によって動く。
例えば「食べられるもの」ということは、情報なのか意味なのか?ということだ。
情報はメモリーや紙に記すことができるが、意味は存在の凡てとリンクしているために、どんなに大容量のメモリーにも表すことができない。全ての存在は宇宙開闢以来の情報を持っている。それが意味である。情報は意味を任意で切り取った部分を指すゆえ、始源にまで遡ることができないだけでなく、意味を必要としないカテゴリーにある。
一個のリンゴからは個数、青い、赤い・・・酸っぱい、甘い・・・土地柄などの言語、数式情報だけでなく人それぞれの情動を反映する。一つの存在、事象、現象はずべての生命体の数だけある。また「青いリンゴ」という命題は、人の数だけの解釈がある。それが意味である。情報のように、言語や数式で表せる情報と違って、意味は時空のほぼ無限を使わねば書き切れない。
繰り返すが、情報とは言語と数式によって意味の一部を切り取ったものにすぎない。先に譬えとしてwavとmp3について書いたが、意味と情報との量の差は物差しすら想像できないほどだ。
 情報はエネルギー的だが、意味は全宇宙と関わることから、宇宙の全ての力を必要とする。意味がエネルギー的ならば全宇宙の始源からのエネルギーを食うことになる。もちろんそれでは一つの事象、現象、存在だけで宇宙は崩壊してしまう。
 ではなぜ宇宙に無限の意味が存在でき得るかというと、非エネルギーだからである。

非エネルギーについての哲学的思索は次の機会に譲ろう。

言語はヒト固有のツールである

117言語はヒト固有のツールである
 
 言語がLogos、言霊などという高尚なものではないことは論じてきた。コウモリが超音波を使うように、ミツバチが情報伝達にダンスを使うように、動物が鋭い臭覚を持っているように、言語はヒト固有のツールである。発声による単なるツールにすぎない。行動主義も新行動主義も単純な唯物論に基づいているが、言語に関しては生得的を唱えるチョムスキー派より説得力があると思う。なんとなくそれが起きるという神がかりみたいな複雑系の用語である「創発」や「自己組織化」によく似た「言語は生得的」「普遍文法」のような証明のできない預言者風のチョムスキー派よりはまだ説得力がある。
言語が生得的なら、生まれてからまともな会話ができるようになるまで、なぜ5年も10年もかかるのだろうか?また言語環境にないオオカミ少年の類いが、少しくらいは話せてもいいだろう。
 猿やチンパンジーの脳にはヒトの言語野に相当する44.45番目の領野がないからどうのこうのという子どもみたいな理屈を言う脳科学者もいるが、学者をやめたほうがいい。サルとヒトは近いとはいえ別種であり、まったく違う生活をしている。イヌがヒトより優れた臭覚を持っているように、ヒト固有の言語をヒト以外の生物が持っていないのは当たり前のことだ。それぞれの種の進化過程は違う。サルが進化すると人間のようになると信じているのだろうか?ヒト以外のサルが進化すると、言語の様なものを持つようになるだろうということは進化論でもなんでもない妄想である。サルが言語を理解しないのは当たり前だ。サルがこれから数十万年の後にヒトの様な言語を持つという証拠があるのならば一考に価するが、それは妄想だ。サルは人間ではない。

 
言語が意味の翻訳であることを知る
 
 このことは翻訳について考えてみるとさらによく分かるだろう。
石という漢字による文字を英語のstone に訳す場合、石という漢字をアルファベットに移してもisi となるだけで、英国人にはなんのことやら分からない。翻訳の際は、日本語の石の意味を考えることから始める。いろいろな色があり、固くて重く、地表のどこにでもある平凡な物質を石と言っている。では英国人は同様な条件を持っている物質をなんと呼んでいるのだろうか?と。そしてこの条件を満たす英語の言葉を探す。固くて、重いという条件だけでは鉄かもしれない。さらにいろいろな色があり地表のどこでも見られるということも条件を考えると、石と同様な意味を持つ英語の言葉はstoneだと気付きiron ではなくstoneと訳す。
この過程は「石という日本語:石の意味→石の意味を持つ英単語→意味の合致→英語のstone」ということになる。
つまり我々はまず意味を思う。脳の言語機能がそれを瞬時に母国語に変換させる。
言葉を受け取る側はその逆の過程を行う。「意味→言語→意味→言語・・・」これを脳が瞬間的に行っている。ヒトの行動についての脳の動きと行動のタイムラグは「意味と言語」の翻訳時間かもしれない。
 
 意味と言語を一緒くたにして、小難しい用語を使う「意味論」は、形而上学的遊びにすぎない。意味と言語はカテゴリーが違う。人間の脳は意味を瞬時に言語翻訳してしまうから、凡庸な人々は意味と言語を同じカテゴリーだと錯覚してしまうのだろうが、言語は発声や文字による意味の概要しか表せないために、意味の間接的な情報伝達ツールにすぎない。意味は自然法にあり、言語は人間法のものだ。(人間法はここでの造語)
 意味とは本来無限にまでさかのぼれるぎっしりと詰まった情報である。石一つとってみても、その成り立ちから、そこにある理由、成分、時空においての位置など無限の情報を持っている。「石」という言葉は、固い、重い、灰色などの断片的な情報しか表していないだけでなく、人それぞれによって違った意味を持っている。「石」には無限の情報が込められているが、「石」という言葉はヒトのニッチと関係においての情報だけが抽出され、石本来の無限の情報を表しているわけでもない。さらに同じ「石」を見ても、採石業者と素人では違う情報を見る。また時空の関係から「石」に関して、同一の感想と持つことはない。ひとそれぞれの感想がある。「石」でケガをした人と、「石」で彫刻をする人は「石」に対してかなり違う感想を持つだろう。
 動物が食べ物を食する際に、これは肉、これは野菜などと言語化しているわけではない。食べられるもの、食べられないもの、という意味を把握して食している。ヒト言語はヒト特有の情報処理に使うツールだ。当たり前だがヒト言語を使用しない全ての動植物は情報処理を意味によって行っている。意味と言語は違うカテゴリーのものである。ヒトだけが意味を言語化することによって情報処理を行う。言語は意味の概要しか表せない。
意味は自然法にあるカテゴリーで、言語は人間法にあるカテゴリーである。
 だから、このヒト固有の言語ツールによって哲学的真理的条件などと、難解な用語を使って曖昧、不明瞭な言語学を展開する人々はそんな似非学問で収入を得ないで、どこかの会社に勤めてきちんと働くことをお勧めする。少し考えてみれば分かるだろうに、言語が真理を表せるなどというバカらしい思いつきは、あまり頭の良い人がすることではない。

言語 其の4

般若心経 言語が意味している音声や記号(文字)がネコを表し、意味されているものがネコであっても、ニワトリを前にしてネコという言語表現を使われてしまえば、シニフィアンやシニフィエという高級な考察もひとたまりもなく崩壊してしまう。当たり前だが、ニワトリを指してネコというシニフィエは成り立たない。ニワトリはネコではなく、ニワトリを意味するニワトリという記号、音声を使わねば、そもそも言語は成り立たない。
つまり、全ての人類に嘘も虚偽も見栄もないならば、人間の言語に関するソシュールのような感想も当たっていなくもない。しかし当たり前のことだが、そのような感想よりも、まずその前に人間の言語使用がどのようなものかを考察しなくてはならないだろう。
嘘をつかれたり、難解な言い回しをされたら、言語の限界などと考えなくとも初めから限界があることになる。(「言語の限界」という用語はウィトゲンシュタインの用法とは違う。)
 言語は黒を指して白とも言えるし、無いことをある、とも言える。ネコをニワトリとも言えるもので、情報伝達や思惟に関して信用できない。言語が信用できないヒトのツールであることは「言語5」でもう少し掘り下げるが、ここでは「初めに言葉ありき」は思い込みあり、言葉はヒトの思惟活動にあって二次的なものと考える。
またlogos という言語に対する高尚な見解は、誰も嘘をつかない、誰もいい加減、曖昧なことを言わないという無菌室のような環境だけでしか機能しない概念である。言語を考えるにあたって、われわれが構築してきた文化環境にあって言語は実にいい加減、曖昧な情報伝達ツールである、と認識することが肝要である。
 しかし言語でない情報伝達ならばそうしたことはあまりない。ネコの写真をニワトリと間違えることはなく、また雷の音と川のせせらぎの音を間違えることもない。花の香りと、ドブ川の匂いを間違えることもない。醤油とマヨネーズの味も間違えない。だが言語はドブ川を清流だとも、醤油をマヨネーズだとも言えるし、独裁国家や恐怖政治国家を民主主義国家だとも言える。自利を利他とも言える。不正直極まりない情報伝達ツールだ。
また物質的な感情、つまりドーパミンやアドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニン、オキシトシンなどの脳内分泌物質によって引き起こされる恐怖感や心地良さ、親和感、興奮などの基本的な情動は直接的であり、言語のような間違い、勘違いが少ない。仏教ではこの六種を眼耳鼻舌身意の六識としている。

 我々は初めに情報を受け取った際は、極めて率直で正直に現象を受け取っている。だが言語はその六識を強引に捻じ曲げる。本人でさえ、言語的な解釈によって、本来得た感受を違う概念に置き換えてしまうことも多々ある。
言語は人が初めに率直に受け取った情報の意味を反転させたり、撹乱させたりする機能を持つ。だから詭弁を弄する政治家や聖職者、無慈悲で吝嗇で富裕な人々にとっては便利なツールだ。またそうした人々に追従するだけの哀れな我々大衆も、下品な人ほど言語によるしみったれた嘘、虚偽技術は巧みだ。

  また、言語は嘘、偽りだけでなく、とぼけたり、無視したり、曲解することによって他者を攻撃したり、優位に立つことが可能だ。自分は同情してもらいたいが他者には同情しない、自分は尊重して欲しいが他者は尊重しないなど、つまり、社会的動物としての高度な人間性に欠けた人々ほど言語技術に長けている。そうした人々が多数を占めているのが我々の社会である。しかもあろうことか、そうした人々は自分の醜い生き方が偽善、背徳であることに気付くことなく、それを無自覚に行う。
そうした低級な人々をここでは前期ホモ・サピエンスと呼ぶ。前期ホモ・サピエンスの人々は相手が自分より弱いと判断すると、背徳性をさらに発揮するという気味の悪さがある。
そうした因子を持つ精神病の人は別として、病ではない自利のためだけの嘘、二枚舌は本来は社会的動物として成り立つはずがない。だから現在のヒトの社会はいつも行き詰まっている。現代はゴリ押し的虚偽がまかり通る前期ホモ・サピエンスが主導する社会である。われわれは「知的」という意味を持つホモ・サピエンスに進化できるのだろうか?前期ホモ・サピエンスのままヒト種の絶滅は近いだろう。絶滅に向かって加速するわれわれヒト種は言語について、言語の用法について深く考察しなければならない。

 ヒトの言語の使用法は勘違い、間違いが多いだけでなく、意図的にそれらを誘発させることができることから、物事をきちんと表すに適したツールとは言えない。世界を把握するのにこうした性格を持つ現在の状況下にある言語は適していない。
人間社会が自分勝手な無自覚な悪人たちに牛耳られているのも当然のことである。自分に都合の良いように偽りを真実とし、真実を偽りとする。前期ホモ・サピエンスの人々には誠に都合の良いツールである。優しく慈愛に満ち、他者を慮る高度なホモ・サピエンスが自分勝手な低ホモ・サピエンスに制圧されている現状は、言語の使用法によるところが大きい。
 言語に対して、Logos的解釈もソシュールもウィトゲンシュタインもチョムスキーも結構だが、そんな分析よりもヒトの使う言語に対してもっと真摯に向き合うべきだ。例えば「原理・パラメーターのアプローチの特筆すべき点は、それが文法のフォーマットと獲得を切り離したこと・・・」・・・こんなごちゃごちゃした小難しく見える分析をする暇があるなら、言語について少しは真摯な態度を取ってほしいものだ。小難しいヨタ話ばかりする言語にロゴス的妄想を抱いている言語学者に一つ提案がある。歩いている暴力的な大男の前に立って「バカヤロウ!そこをどけ!」と言ってみたらいい。言語がどのようなものであるか直ぐに理解できると思う。文法のフォーマットと獲得を切り離したこの言語理論の~などという感想は吹き飛ぶだろう。もちろん、感想が吹き飛ぶ前に、鼻血が吹き飛ぶのは致し方無い・・・。

 この不完全極まりない言語で現象の真実を表すことはとても難しい。ましてや言語による哲学的、宗教的、真理探究は確実に無理だ。どういうことかと言うと・・・千年前の中国人が古代インド語のパーリ語やサンスクリット語の仏典を中国語に翻訳したその仏典の中国語題名を、何度も繰り返して唱えると良いことがあるという日本仏教。この列島ではそれを仏教だと言ってはばからない。そんなバカな話はない。今のインド・ネパール地方に二千五百年前におられたお釈迦様が、日本人にご自分の寂滅千年後に中国語に翻訳された仏典の題名を中国語風な読み方で繰り返し繰り返し唱えよ、なんておっしゃっていたわけがない。
 もしサンスクリット語やパーリ語文献に中国語に翻訳された仏典の題名を繰り返し唱えよ、とあれば別だが、あるわけないだろう。大乗(大きな乗り物)と豪語する仏教セクトが奉じる仏典に見られる常套句である「如是我聞」(我かくのごとく聞けり)も大きな疑問だ。その文献がパーリ語でもサンスクリット語でも、何しろ大乗仏教の興隆は西暦紀元200年を過ぎてからだ。一体誰に聞いたのだろう?釈尊寂滅から700年、800年経っている。釈尊から聞いたのだとしたら、一体どうやって聞いたのだろう?当時のインドには大乗仏典の作者はたくさんおられた。その全ての作者に亡くなって800年経った釈尊が語りかけたのだろうか?そのように人間世界に介入してくる釈尊なら、例えばこの列島の真宗派大軍閥が織田信長軍と戦闘した石山合戦などは知らぬ存ぜぬ、だったのか?
また、ここでイエス様の当時のユダヤ教の祭司たちがユダヤ人民から搾取するローマ軍と結託するような軍閥であったことを書いたが、ドイツの福音派教会もナチス協力に勤しんでいた。日本の仏教、キリスト教の名だたる宗教組織が第二次世界大戦後、懺悔文や反省文を発表したのはなぜだろう?ミャンマーでは仏教徒たちがロヒンギャ殺戮を行っている。難解で、高尚な理論を持つ大乗仏教派も歴史をたどってみれば、死臭の漂う反釈尊の団体である。
「如是我聞」など、気味の悪い聖職者が大衆を騙す手口の一つだろう。どの宗派でもいい、「釈尊が大乗仏典を書く作者たちにどうやって話したのか?」を答えて欲しいものだ。

 また仏像についても、インド・ネパール人風なら分かるが、日本の寺院に鎮座する仏像は多く薄眼を開けた太り気味の中国人風だ。これが不思議でならない。お釈迦様は中国人ではなく、インド・ネパール人だ。顔つきはまったく違うはずだし、お釈迦様が自分の像を寺院に飾って拝め!なんて言うわけがない。
キリスト教についてももちろん同様に中東に生まれたイエス様が青い目の金髪であるわけがない。つまり仏教のこのお経が正しい、いやスンニー派が正しい、ヘーゲルがいい、ラカンがいい~百家争鳴のおしゃべりにすぎない。ほとんどが酔っ払いの戯言によく似ている。無門関曰く「帽子の上にまた帽子~」という駄弁だ。

 私ごとだが、ぼくはドイツ語やフランス語に堪能ではないので、日本語に翻訳されたものしか読めないが、それでも彼ら駄弁を労する人々の書いたものにそうした傾向を強く感じる。だが、悲しいことに我が国の哲学者様はヨーロッパの哲学言語芸人の書いたものを翻訳して、日本語でウダウダ言いながら、カントだヘーゲルだ、デリダだ!と叫ぶことが哲学だと考えているようだ。哲学の原義はギリシャ語の「智を愛する」という意味からきているそうだから、ヨーロッパの哲学の受け売りをすることが哲学ではないだろう。このような我が国の哲学者の資質は悲しいほどに貧しい。ヨーロッパ人の誰かの言葉を引用して、それはこれこれこういう意味だなどと日本語でおしゃべりするのが哲学だと勘違いしている。そういう人々は哲学者ではなく言語芸人である。言語を弄して人々を楽しませる芸人だ。ヨーロッパの誰かの本を読んで自分の感想を述べるだけでは、読書感想文にすぎない。そうした人々は破廉恥にも自分の読書感想文を哲学だと豪語する。そういう人々は、上から目線でヘラヘラ喋っていないで、どこかの会社に勤めて額に汗して社会に貢献したほうがいい。この日本でデリダ~~!ウィトゲンシュタイン~!ヘーゲル~~!とヨーロッパ人の名前を叫ぶ哲学者の肩書きを持つ人々が全ていなくなっても誰も困らない。

 このように宗教団体は確実に恐ろしく、これまでの哲学も貧相だ。その最大の理由の一つがヒトの使う言語にある。
言語はこれこれしかじかです、と小難しい分析をする。分析も結構だが、ヒトの使う言語がどのようなものであるかをきちんと把握しないで屁理屈を並べるのはもうやめよう。
まずヒトの使う言語の性質や資質を把握しよう!
とにかく言語は白を黒と言えるし、ネコをニワトリと言える不完全なものである。言語においての表現は嘘も真実もごちゃ混ぜ。そもそも現代の文化環境における言語において真実を表すことなど不可能である。
我々大衆は権力と暴力と財力と言語的情報操作能力を持つ悪人たちの前にひとたまりもない。我々大衆は権力者の言っていることが嘘であろうとなんであろうと、考えもせずにハイハイと從ってしまう悲しくバカな課役負担民だ。課役されて徴収された税金がどう使われようと、自分たちがどうされようとハイハイと従うだけ。政治家や軍人の言うことをハイハイと真に受けて、戦争に賛成するバカな大衆も山ほどいる。ここで何度も書いているが、戦争に勝った国民が幸福になった例など一つもない。さらに敗戦ならば地獄である。
戦争を支持する人々は爆弾が炸裂して、自分や自分の家族の顔や身体に5ミリほどの金属破片が何十もピシピシと刺さったりするのも平気なのだろうか?~~爆弾とははそういうものだ。ぼくは戦争経験がないが、一つ上の世代からそういう話をたくさん聞いてきた。シベリアに抑留された叔父の悲惨で残酷な筆舌に尽くしがたい話などを書くつもりはないが、戦争は本当に恐ろしい。戦争に勝って幸福になれるのは、政治家と軍人などのお偉いさんとその取り巻きと武器商人だけ。戦勝国の国民が幸福になった話など聞いたことがないし、あり得ないことだ。
国家の財政を負担するのは我々課役負担民だが、その税金を使うのは言語を悪辣に操る一握りの悪辣な人々である。
この社会構造もやはり言語だ。現代の文化環境において使われる現代言語は不確かで信頼できるものではない。
 
 では「言語に代わるもの」はあるだろうか?そう問われても、残念ながら現在のヒトに言語のようなツールに代わるものは存在しない。
しかし、文化環境によっては言語が正しく機能する可能性はある、と言えるかもしれない。
それはまず現在の言語が嘘、偽りを積極的に容認する文化環境にあると認識することだ。言語文化は他の動物にない高度なツールだとか、動物はヒト言語をしゃべれないとか、ヒトは偉い!みたいなアホな思い上がりを戒めることから始めよう。
つまり、言語を正しく機能させるには、現在の文化環境が嘘、偽りのオンパレードであることを自覚することだ。
 この自覚は革命もデモも政治的行動も必要ない。一人だけでもできる。自覚するだけで良い。ヒトは六識において一番初めの感受は言語処理されていないのだから、出来ないわけがない。おそらく練習すれば以外と簡単に習得できるものだと思う。
事実だけ、分かる範囲だけに限って使えば、言語は社会にとって素晴らしいツールとなる。事実ではないこと、妄想には使わない~ただそれだけのことだ。
「それが出来れば~~、そんなことできっこない!」と多くの人々は考えるだろう。それは自分に対しても他者に対しても疑心暗鬼を払拭出来ないためだ。つまり、現代文化は嘘、偽りがベースになっている。「正直者がバカを見る」文化だ。清くなければならないはずの宗教者でさえ、嘘、偽りの文化をせっせと構築してきた~そう認識することだ。
 五感・六識で受け取った対象、事象を言語化して理解することが間接的情報把握だと認識し、事実だけにおいてのみ言語使用習慣を持つことである。
「人類がそんな習慣を持ったら、宗教施設には閑古鳥が鳴く」
「人類がそんな習慣を持ったら、儲からなくなる」
「人類がそんな習慣を持ったら、権力の維持が不可能になり、威張れなくなる」
「人類がそんな習慣を持ったら、自分のアホさがばれてしまう」
「人類がそんな習慣を持ったら、嘘、偽り、いい加減さがばれてしまう」・・・現実にはこうした感想を持つ悪辣、傲慢な人々は少ないと思う。ほんの一握りのワル達が構築した言語環境が人々を貶め、苦しめているのだ。
ほとんどの人は善良なのだ・・・これがリーラー的言語解釈である。

縄文時代の書籍の感想文

 「移動と流通の縄文社会史」阿部芳郎 編 雄山閣
「縄文時代の社会複雑化と儀礼祭祀」  谷口康浩  同成社など~。写真は小牧野遺跡
 
 青森三内丸山遺跡など 082この二冊には優秀な論文が収録されており、縄文時代を理解するうえで大変参考になった。ただ考古学、歴史学一般に言えることだが、現代用語による古代・太古の人々の思想、宗教、社会の説明、解釈の限界を感じる。「宗教」「流通」といった概念は数千年前と近現代では相当違うだけでなく、そもそもそうした概念があったとは思えない。例えば黒曜石が産地から遠く離れた遺跡で発見される社会現象を「流通」と表現するのはどうかと思う。
 近現代語の「流通」という用語を使用すると、あたかも縄文時代に株式会社があったような説明になってしまう。縄文時代に課長も部長もないだろう。
 また階層化が進んでいただろうことを表すのに「統率する首長」みたいな嘘寒い文学的用語を使うのもどうかと思う。縄文時代に権力をもって人々を統率する首長がいたのかどうかについては考古学的資料では全く分からないはずだ。また墓や墓の場所、家の大小、副葬品を見て近現代用語の「階層化」という用語を使う軽々しさもいただけない。一般に翡翠などに威信財という用語を用いるが、縄文遺跡発掘資料館などで購入した発掘図面を細かく見ていくと、翡翠が大きな土抗墓だけから見つかっているのではなく、小さな墓に見つかる例もある。弥生時代以降のように、権力を表す威信財という用語を使うのはどうかと思う。考古学論文が週刊○○と同じような大衆迎合路線を敷きたいのならともかく、近現代を反映させるような恣意的な態度は慎み、科学的な態度でやって欲しいものだ。

 また構造主義やマルクス史観などで縄文時代を解釈することには唖然としてしまう。欧米の歴史や宗教研究者が使用する用語をカタカナで示して、説明・解釈に使用することにも疑問を感じる。レヴィストロースもマルクスもこの列島の縄文時代に関しては全くの無知である。欧米人の使用する「宗教」(religion,religea)の概念と縄文時代の「宗教」が別物であることを考慮せずに彼らの宗教学、歴史学の概念で説明してしまうのはどうかと思う。シャーマニズム、トーテミズム、神、一神教、多神教などの用語の扱いは特に注意が必要である。ヨーロッパ・キリスト教のイエス・キリストは見ようによってはシャーマンだし、マリア信仰や聖人信仰に関しては多神教とも言える。欧米人はヨーロッパ・キリスト教を洗練された宗教であると考え、世界各地の宗教を自分たちの視点から遅れた宗教と分類したがる。ユグノー戦争はどんな戦争だったのだろう?現フランス語やドイツ語の成立は14世紀頃である。それ以前にはフランス語やドイツ語の文献は存在しない。現代ヨーロッパ人がコーカサス地方を出た時期からも3800年しか経ってない。フランス人はもとはケルト・フランク人であり、その前はローマ人で、その前はガリア人と呼ばれていた。そのずっと前に今のフランス地方に住んでいたのは古代人骨のDNA分析からトルコ・中東系の人々だった。フランス人の彼らが固有の歴史を歩み出してから600年しか経っていない。その間、宗教も土着多神教や北方民族の影響を受けたり、ローマ神話を信奉したり目まぐるしく変わる中、中東のキリスト教とヨーロッパ在地の多神教が習合して、現在のようなヨーロッパ・キリスト教が構築された。そのことについてはフレイザーの金枝編に詳しいが、多くの福音書研究家も指摘しているところだ。
 そうしたヨーロッパの人々が19、20世紀に構築した思潮に縄文時代を重ね合わせることで縄文時代の何が分かるというのだろう。
 万葉集や風土記、日本書紀、古事記・・・そして太古の縄文時代・・・この列島には気の遠くなるような歴史がある。現代的ではあるが普遍的でもない歴史の浅いヨーロッパ思潮で縄文時代を解釈し続ければ、我々は縄文時代の多くを失うだろう。
 同様な意味から、縄文時代の流通や社会、宗教を翻訳語のカタカナ用語やこの国の現代用語でする説明・解釈は真の縄文時代を失うことにつながるだろう。例えば「流通」という用語だが、こうした漢語タイプの用語も縄文時代にはふさわしくない。黒曜石が各地の遺跡で発見されることを「流通」という用語で説明するが、本当に「流通」だったのだろうか?物流という用語の方がふさわしいように思える。黒曜石が原産地以外で多く発見されることは「物流」ではあるが、商業的意味合いを含む「流通」ではないだろう。言葉を階層的にとらえるならば、「流通」は「物流」に含まれる商流や金流など「物流」の多くの意味の一つだ。現代では商業的ニュアンスの強い「流通」という用語で黒曜石や翡翠、アスファルト、磨製石斧について語るのは、縄文時代に近現代物流の意義を重ね合わせてしまう恐れがある。利益、贈与、政治、権力、階層・・・だいたい縄文時代にこうした用語があったはずがない。違う概念だった可能性の方が大きいだろう。それを突き止めるのが考古学者の仕事だ。欧米の19世紀以降の人類学者や社会学者と呼ばれる人々が書いた「贈与論」や「政治学」にあてはめて縄文時代を解釈できると本気で考えているのだったらお寒い話だ。
 用語について無頓着では学問とは言えない。欧米からのカタカナ用語で縄文時代を語る考古学者たちは外資系の会社に勤める方がいいと思う。
 さらに考古学者はなんのための道具か判断できないものを発掘すると「宗教儀礼に・・・」などと説明するのが通例となっているが、これも開いた口が塞がらない。5千年、1万年前の縄文時代の「宗教」と、集金主体の形骸化した組織宗教である仏教やキリスト教という宗教を一括りにはできない。「宗教」という用語を使用するならば、それなりの配慮や但し書きが必要だろう。

 以上、縄文時代の考究にあたっては現代用語や漢語、欧米の翻訳カタカナ語などの用語について再考、熟慮すべきであると感じている。頭の弱いミーハー的マスコミのような、「統率する首長」みたいなステレオタイプで有名になりたいのなら、考古学者などやめて、あまり責任のない発行部数が稼げる読み捨て歴史小説でも書いたらいいと思う。

 土埃や泥と何年も何年も格闘している現地の研究者や発掘現場で働く人々のその情熱は素晴らしいものがある。ただ縄文時代を読み解くのに、恣意的、文学的な方向は戒めてもらいたいだけである。名前は忘れたが、あるシンポジウムでステレオタイプでものを言う高名な縄文学者が現地の研究員に、あまりに的はずれなことを言ってたしなめられていたのを見たことがある。

言語 其の三

だまし絵_m[1]ぼくは言語学などの本を読んでいるだけで、専門的に勉強したわけではないが、「言語は~人間が話すことは本能であって、創造的な統計学習や文化の産物として生まれたものではない。」というような難解なチョムスキー理論とは別の視点で言語を考えている。言語について考えているのにチョムスキーやソシュールの理論に言及しないのは、そのような視点にはないからだ。
 
 狼や犬に育てられた子どもの例が本やネットにある。
その子どもたちは発見された際に全く言葉を解さないだけではなく、その後も言語習得が難しかったようだ。それはどう考えればいいのだろうか?脳科学が言語中枢と名付けた領野に生得的な言語ソフトがあったとしても、それは極めて原始的かつ単純なものだからだろう。普遍文法なる高度なソフトがあったとしたら狼少年が狼社会からヒト社会へ移って暫くしたら言葉を話せるようになるはずだ。
 生まれたときから眼の機能障害のために全盲であった人に、その機能障害を取り除く手術を行っても茫洋とした光の渦の中にいるようで、ものの輪郭さえ捉えられない、という事例がある。しかし、以前は目が見えていた人の場合は、手術によって見えるようになるということである。つまり視覚野は徐々に形成されるもので、このような手術例は視覚ソフトが脳になければ見えないということだ。乳児が言語を獲得するのに数年かかるし、狼少年も直ぐに言葉を覚えることができないことからして、言語野のソフトも視覚野のソフト同様、徐々に形成されていくのだろう。脳という同じ内臓だから、見たり、食べたり、歩いたりの様々な機能獲得も同様なプロセスを踏んでいくとしてもおかしくない。
素人が何を言うか、と叱られそうだが、言語野も視覚野に似ていて、殆どは後天的に作られるソフトのような気がしてならない。言語がヒトの生得的なソフトであるならば、狼少年のように言語環境になかった人でも、言語環境にさらされれば言語を習得できるようになるはずだし、誕生から言葉にさらされているのに幼児がなかなか言葉を解さないのは初めから文法を持っていないからだろう。視覚能力でさえ後天的に作られるソフトなのだから、言語能力をそう考えても不思議ではないと思う。

 チョムスキー派が言う「生得的」とは、ヒトには手足がある、という程度のことでことさら特別な意味合いではないかもしれない。指があっても誰もが短期間でピアノを弾いたり、足があってもいきなり自転車に乗れるわけではない。脳はたくさんの情報を統計的、統合的にインプットされてはじめてそうしたことが出来るようになるのだと思う。脳には構造的にそうしたソフトが生得的に存在するだろうが、それは空っぽの箱のようなもので高度な中身が初めから詰まっているわけではないかもしれない。言語もヒトの手足のようなもので、社会的な動物として、数百万年の間に言語ソフトが出来てきたのだろう。ただし母語にさらされることによって生得的に持っている言語ソフトが母語にフォーマットされ、やがて話せるようになるのだと思う。
初めから普遍文法を持っているならば、乳児から幼児にかけての言語獲得はもっとスムーズなはずだ。子どもは大人に自分の意思が伝わらずに駄々をこねたり、泣き叫んだり、勘違いしたりすることが多い。ぼくは二人の子どもと二人の孫を見てきたが、文法も語順も試行錯誤で徐々に獲得していったように感じた。チョムスキー派の生成文法における中心的な概念である高度な普遍文法まではじめから揃っているとはとても思えない。 
 
 言語研究についてズブの素人だから言いたい放題だが、チョムスキー派の論理は精密でがっしりした研究だが、どこかルドルフ・シュタイナーが語る人間論(Study of Man)や、ユングのオカルティックな部分の論調に似ているように思える。それだったら、先述した無意識、阿頼耶識、五次元、暗黙智、形態形成場のような向こうのフィールドにあるクラウドからのダウンロードだと考えた方が納得がいく。ただし、その情報のアップ・ダウンロードは非エネルギー的だから、1000年前に電波の検知が出来なかったように、現在の機械では検知できない。
とにかく言語野もニューロンの塊という物質的なものなのだから、手足を司る脳神経と同じようなレベルと考えたほうが、より言語に迫れるだろう。
言語と脳の関係の本を読むと、言語を司る場所が言語野というセットになっているのではなく、言語使用の際、大脳皮質から小脳まで幅広く発火するそうだ。だから、ここにある、こういうものだと特定できるものでもなさそうだ。ヒトは脳を総合的に使って言語を扱うのだから、初めから生得的にあると考えるのは無理かもしれない。失語症などの研究例を見ても同様に、ヒトの言語使用は脳のあらゆる場所と関連があるらしい。
 
 また動物は人間語を解せないなど、ヒトが他の動物に勝ち誇ったような言語研究の態度は、子どものケンカみたいでバカらしい。他の動物はヒトではないから、ヒト以外の動物がヒトの言語を解せないのは当然だ。動物にヒトの言語を教える研究なんて、ヒマ人がやればいい。動物は人間の意志や気持ちをダイレクトになんとなく理解してくれるのであって、人間語を理解しているわけではない。まだ人類が明らかにできない部分だが、ヒトと動物の意志の疎通は明らかに言語的ではなく、機械では測れないテレパシーのような情報伝達だ。そうしたことは動物を家族同様に可愛がる人は経験的に知っている。
確かに脳の言語野という場所にはニューロンの塊があるのだろうが、それがソフトとして機能するようになるには、統計的、統合的な外界からの刺激が必要であり、外からの情報のダウンロード無しには、完成しないのではないかと思う。言語野は生誕直後は空っぽに近いのだろう。(外という意味は自我の外の物質世界と向こうのフィールドのことである。もし言語に関して生得的な普遍文法があるならば、リーラーでは向こうのフィールドにあるクラウドにあると理解する。)
だからといって、認知言語学や心理言語学が正しいとは思えないが、チョムスキー理論の「生得的」という用語は「空っぽの」という但し書きが必要だと思う。物理的にはチョムスキー理論はコンピュータ用語で言うと「ヒトはフォーマットされていない言語野を生得的に持っている」ということになるのではないだろうか。

 凡庸なぼくの感想にすぎないが、つまり、普遍文法などのかなりの完成度があるヒト言語が生得的であるならば、そのソフトには現在我々が使っている嘘、虚偽的文法も含んでいるということになる。なぜなら我々は始終嘘をつくし、社会も虚偽的だからだ。つまり平たく言えば、ヒトはもともと嘘つきとして生まれてくる、ということになる。
しかし、文化環境、個人的環境において、人は全く嘘をつかなくなるということは「其の2」で述べた。生得的であるならば、これは後天的、ここは先天的という分析が可能だと思うがどうだろうか。

 ボスの研究を害さないようにとか、自分の思い込みを恣意的に訴えたい学者には論文よりファンタジー小説のほうが似合う。また、巫女さん占いのような本を書く軽薄な心理学者に言語研究などしないでもらいたいものだ。

何もしない・・・

ビッグバンどんな革命でも、どんな改革でも一握りの輩だけが快適に暮らせる、という非民主主義な社会は変えられない。現代の国家システム、経済システムは邪な人々が構築したものだから、このシステムのまま革命や改革を行っても何も変わらない。
大衆迎合の似非論文、マスコミの記事は別として、少しはまともな歴史、宗教、政治、経済の本を読み、思索する者なら、虚偽的言語、国家、貨幣経済制度、宗教組織の仕組みは邪悪な人々が構築したことが分かる。違うと言挙げされても、簡単に反論出来るほど明瞭だ。
この邪な仕組みをそのままにして、革命や改革を行って国民から無慈悲な収奪をし、国民を殺す権力者を倒したとしても、次にその権力、財力を握った者がその座にすわるだけのことだ。神の国、仏の国というような、お偉い宗教家様が衆愚を相手にする話でも、同じく衆愚は騙されるだけ。また我々大衆にとって共産主義は理論的に素晴らしいが、それがどのようなものか、どのくらい邪悪なものかは、誰の目にも明らかだ。国民を弾圧して権力者とその取り巻きだけがいい思いをする世襲制の社会主義国家?どこが社会主義なのだろう?共産主義、社会主義国家内で権力の座に着く邪悪な人々は粛清という殺人、拷問で権力を維持する。一度も労働したことのない者が、共産党や労働党のトップだなんて、火星人でもビックリだ。
 民主主義を標榜する国家については繰り返すことになるので述べないが、これも共産主義者同様の前期ホモ・サピエンスが支配する国家体制である。そうした人々が21世紀には大統領、総理大臣、書記長、元首などの国家のトップを占めるようになり、愚かな人々が彼らを支持している。彼らはハーバード大、モスクワ大、東大を出ていても、教養も品も無い無能で無慈悲な人々だから、人類は大変な苦境に陥っている。おそらく彼らは人類を自滅への道へと誘うだろう。
人類が知性を回復するには途方も無い時間がかかる。その前に我々は消滅するだろう。現在の地球上の全ての動植物種はいずれ絶滅する。ヒトにとって良し悪しなど関係なくそれが事実だ。ペシミズムでもなんでもない。当たり前のことだ。


だから、諦めよう!
我々大衆は何を言っても、何をしても、この邪悪な人々を追い出す事は出来ない。せっかく追い出したとしても、追い出した者がまた邪悪なことをするようになるだけ。諦めよう!革命も改革も歴史上何百回もあったが、その結果は入れ代わった王とその取り巻きがいい思いをするだけだった。国民が幸福になる戦争、革命などあったためしが無い。
そんな無駄な行動を起こすのはやめよう!何もしないほうがいい。逮捕されたり、拷問されたり、殺されるだけだ。
良い子でいよう。きちんと税金を収めて、政府に反抗することなく、物議をかもすことなく、静かにしていよう。
論議や話し合いは構わないが、思索したり、読書したり、祈ったりするのは一人きりの時だけにしよう。聖書にはイエスが教会や人前でこれ見よがしに祈るのはやめよう!と書いてある。(マタイ福音書6章)
イエスが言う「一人で祈りなさい」には大きな力があるかもしれない。説明は出来ないが、いずれ、その力を知ることが出来るようになるかもしれない。ただその力は非エネルギー的なものだから、顕現するのはいつのことか分からない。いや、そもそも顕現などしないだろう。
他者と論議する際には、増上慢になったり、侮蔑したり、侮ってはいけないが、情熱を持って語ろう。他者の嫌がることをしないでおこう。他者を慮ろう。自己防衛は致し方ないが、自分から他者を攻撃しないでおこう~社会倫理に関してはそうした最低限を守るだけでいい。
「思う、祈る」~それだけでいい。
何もしてはならない。反体制を叫び、デモに参加しても何の意味も無い。そのデモは逆の勢力が仕掛けたものかもしれないし、多くそのバックグラウンドの真実を見て驚くことも多い。デモの主催者が信頼出来ないことを、知る人も多いと思う。

 大元は向こうのフィールドにあるクラウドだ。だから、そのクラウドに直接働きかけなくては、何も変わらない。「一人で思う、祈る」は向こうのフィールドに働きかける方法の一つだ。
では、向こうのフィールドにあるクラウドとは何か?
ご理解しかねると思うが、ここではそれをリーラー的フィールドにあるとしか言えない。近現代の物質的唯物論思潮とは対極にある不思議なフィールドだ。五次元空間を想定する超ヒモ理論や仏教の阿頼耶識、シェルドレイクの形態形成場、ユングの無意識、ウィルスから脊椎動物まで全ての動植物に備わっているポランニーの暗黙知などの概念がその一部を表していると思う。
しかし、これらの概念はあるとも言えるし、無いとも言える。なぜなら、現段階の言語や数学、科学で表しにくいからだ。光の二重スリット実験のように、光とは波と粒子の二つの性質を持っています、リトマス試験紙の色が変わりました・・・などと明確な証明は出来ない。向こうのフィールドにあるクラウドとのアップ・ダウンロードは非エネルギー的に行われるから、どのような装置も検知出来ない。千年前の人が電波を検知できないように、あったとしても無いも同然である。
唯物論的手法は役に立たないだけでなく、そうした思考も一切役に立たない。
つまりそういう意味で、リーラー的向こうのフィールドは存在する。こちらのフィールドからは、それを間接的に垣間見ることしか出来ない。
しかし実際は、ヒトの対象の把握に関しては、直接、間接の区別はない。全てが間接的である。前回ふれた六識についても一見直接的に見えるが、知覚も情報が脳に至ってヒトが把握するまでには驚くほどの紆余曲折がある。先に視覚について述べたが、光が水晶体から網膜に至り、電気的パルスに変換されて神経線維を伝わり、さらに神経線維の受容体ではある特定の分子の流れに変換されながら、脳の視覚野に入る。視覚野は四層あり情報は順次流れ、さらに他の領野に送られる。人は何段階もの情報処理を経て、やっと光を認識する。直接的な知覚などどこにもない。全てが間接的なのだ。そもそも自分と世界との関係は全て間接的だ。向こうのフィールドを知るのに間接的にしか分からないとしても、唯物論者、還元主義者のように、科学で証明できないから無いとは結論しない。

何もしない。思索と祈りだけ。
しかしそれには実行力がある。でも即効力はない。そのクラウドに働き掛けても何も生じない。何も起きない。何も変わらない。だから唯物論、還元主義者には説明しようがない。
向こうのフィールドにそうしたクラウドがある、としか言えない。
それ故に虚偽的言語、貨幣経済制度、宗教と死の概念を根本から変えることが出来る。
「いつ?」
それは分からない。
「本当に変わるの?」
それも分からない。
説明しようがない。でも確実に変わる。唐突だが、それは死への態度と関係があると考えられる。なぜ死なのか?
覚醒とは眠った後訪れるもので、眠っているときヒトの身体はほとんど弛緩しているし、心も夢を追っかけるくらいにすぎない。コンピュータは再起動すると、まず画面が真っ黒になって何も反応しなくなるが、その後、再起動以前よりも元気になる。
死をそのようなことに似ていると理解するのも面白いと思う。
つまり古風な表現だが、死後の世界はあるかもしれない、という態度を持って生きていこう、ということである。死後の世界は証明もできなければ追試も出来ないものだから、あるだろう、という態度だけでいい。
臨死体験は死の体験ではない。当たり前だが、臨死体験の経験者はそうした経験をしただけである。臨死体験をしても、本当に戻れない世界へ行くのはその後だ。ペンフィールドのヒトの脳への電極刺激実験以来、臨死体験は脳の側頭葉てんかんだと言う説もある。

 革命や改革は何百回もあったが、相変わらず邪な人々のやりたい放題の人の世だ。
向こうのフィールドがあるのではないだろうか?という態度を持って一人で思索し、一人で祈る・・・全ては非エネルギー的だから物理的には何も起きない、何も変化しない、何も生じない・・・。

(向こうのフィールドは現在の宗教組織の集金のための屁理屈とは遠く離れている。
妄想による思い込みという信仰~それ故、このブログで同じことをしつこく書いているが・・・、仏滅後八百年くらい経ってからインドで編纂されたサンスクリット語やパーリ語仏典の写本をもとに、その数百年後に中国人が中国語に翻訳したその題名や釈尊以外のブッダの名前を中国語風に繰り返し唱えるのが仏教であるわけがない。
日本語訛りの中国語風に仏典の題名の南無妙法蓮華経とか南無阿弥陀仏と唱えるのが仏教であるわけがない。だが、この列島ではそんなバカなことが仏教である、とまかり通っている。
「古事記!古事記!古事記!」「源氏物語!源氏物語!源氏物語!」とその本の題名を何回唱えると、古事記や源氏物語の内容が分かるのだろう?)

言語 其の二

125-CA562[1]現代の文化環境において使われる現代の言語使用法は不確かで信頼できない。子どもたちまで大人たちの使う虚偽、欺瞞、いい加減、自分勝手な言語使用の真似をし、深刻なイジメまで生み出すに至っている。ヒトが作り出すほとんどの問題はこの言語使用法にある。言語使用法は文化環境によるものだ。言語はヒトが構築した文化の一つだが、文化環境によってその使用法が変遷する。
ここでいう文化環境とは、歴史的、政治的な側面だけではなく、個々の人生の各場面なども含まれる。
人間的に打ち解けて美しく、軋轢のない環境にあってヒトは虚偽的、欺瞞的言語使用はしない。実直で素直で正直な言語を使用するものだ。ソシュールやウィトゲンシュタインが分析するように、言語が言葉としての機能を持つようになる。親しい人に無いものをある、あるものを無い、などと嘘を言う必要もない。
例えば~打ち解けていて、暖かく、お互い何も隠す必要のない環境では、職場などではとても言えない感想でさえ、率直に言えるものだ。例えばハゲ、デブなどの侮蔑的表現を妻や恋人や子どもに言われても冗談めかしに受け答え出来る。「ははは、努力してるけどね。この歳だとこれでちょうどいいんだよ!」などと真実を率直に言われても平気だ。
ところが平社員がお偉いさんにこのような真実を率直に言ったらどうだろうか?
言語使用法、言語使用の文化的側面とはこのようなものであると考えてもらえばいい。関係が良ければ良いほど、美しければ美しいほど、暖かい関係であればあるほど、言語は正直に率直に機能するものだ。
現代は虚偽的、欺瞞的言語の使用が当たり前という悲惨な言語文化環境である。政治、宗教、産業・・・この当事者は不正直を当然だと心得ている・・・正直にやってはならないという社会だから、戦争、暴力、差別、貧困、詐欺、強奪、収奪を好んで行う輩が支配する社会となっている。それらの根源は嘘、虚偽、欺瞞に満ち満ちているヒトの言語使用方法だ。
現代には政治家、役人、マスコミ、宗教屋、芸術屋、弁護士、会社経営者、教師、学者など本来、人々の模範となるべき職業の人たちの中にまともな人がほとんどいなくなった。ぼく個人にしてもまだそうした人にお会いしたことがない。
若く瑞々しい好奇心を塞ぎ、思索はもちろんのこと、その思索を促す読書もせず無味乾燥な受験勉強だけが得意の無能な若者が優秀とされる呆れた時代だ。その無能さ故に、ところてん式に大学を出ると言語をいい加減に扱い、直ぐに欺瞞、虚偽、いい加減、無思慮に染まり、結果的に社会を貶める。そうした無能な人間が権力を持ち、偉いさんになるとどれほどアホで残酷な言動、行動を取るか、我々は嫌と言うほど思い知らされている。それでも我々アホな大衆は気が付かない。彼らの言うなりだ。

言語は文化環境に左右される。美しく愛に満ちた人々の間では、虚偽、欺瞞、見栄が必要ないから言語を虚偽、欺瞞、見栄には使わない。つまり、文化環境によっては言語が正しく機能するという可能性があるが、「ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈」などと言い出すヨーロッパ大好き日本人哲学者様が力説するヨタ話は火星人を喜ばせるだけで役に立たない駄弁だ。

 問題は言語にあるのではなく、言語の使用方法と文化にある!そこから言語について考えるべきである。
言語はヒトの使用する素晴らしいツールの一つだが、現今の文化ではうまく機能していない。しかし言語に罪はない。我々がホモ・サピエンスになれずに前期ホモ・サピエンスにとどまってしまっているからである。
つまり、言語を正しく機能させるには、現在の文化環境が嘘、偽りのオンパレードであることを自覚することから始めねばならない。
事実だけ、分かる範囲だけに限って使えば、社会にとってこれほど素晴らしいツールはない。嘘や事実ではないこと、妄想には使わない~それだけのことだ。
「それが出来れば~~、そんなことできっこない!」と多くの人々は考えるだろう。それは自分に対しても他者に対しても疑心暗鬼を払拭出来ないためだが、打ち解けていて、暖かく、お互い何も隠す必要のない環境ではヒトは言語を正直、率直に使えるのである。
ところが社会は嘘、偽りがベースになっている。「正直者がバカを見る」文化だ。清くなければならないはずの宗教者でさえ、嘘、偽りの文化にどっぷり浸かっている。
つまりここでの結論は「ヒトの言語は文化環境と使用方法によって変わる」ということである。

六識で受け取った対象を言語化して、それをさらに言語で理解するという間接的な情報把握ではなく、六識による直接的な把握を優先させればいい。
事実だけにおいてのみ使う習慣を得ることである。

(ただしここでは直接的なこととは?事実とは?について考えることはほぼ無限に煩瑣になることから、対象、現象を言語化するというところまでとしたい。例えば人が形や色を認識する場合、光が眼球の水晶体を通過して網膜を刺激し、その情報が脳の四層ある視覚野に順次入って間脳などにある他の領野とリンクして情動が生じ・・・、刺激となる可視光線とは?、光とは?・・・などとは続けない。意味を拡散させ捕まえどころがなくなってしまう議論はしない。)

言語 其の一

hasu-22m[1]現在の文化環境のもとに使用される言語は欠陥品である。

 意味している音声や記号がネコを表し、意味されているものがネコであっても、ニワトリを前にしてネコという表現を使われれば、シニフィアンやシニフィエという高級な考察もひとたまりもなく崩壊する。ニワトリを指してネコというシニフィエは成り立たない。ニワトリはネコではなく、ニワトリを意味するニワトリという記号、音声を使わねば、本来言語は成り立たない。
つまり、全ての人類に嘘も虚偽も見栄もないならば、ヒトの言語に関するソシュールのような感想も当たっていなくもない。しかしまずその前にヒトの言語使用がどのようなものかを考察しなくてはならない。
言語はもともと概要しか表せないものだが、嘘をつかれたり、真意を隠されたり、難解な言い回しをされたら概要どころか全く違う意味になってしまう。
言語は黒を指して白とも言えるし、無いことをある、とも言える。ネコをニワトリとも言える。
ところが言語でない絵や写真ならばそうしたことは少ない。ネコの写真をニワトリと間違えることは無く、雷の音と川のせせらぎの音を間違えることもない。花の香りとドブ川の匂いを間違えることもない。醤油とマヨネーズの味も間違えない。トゲと柔らかい毛布も間違えない。爽快感と恐怖を混同することもない。五感には、間違い、勘違いが少ない。さらに五感によって促される物質的な感情・・・ドーパミンやアドレナリン、ノルアドレナリン、セロトニン、オキシトシンなどの脳内分泌物質によっで引き起こされる恐怖感や心地良さ、親和感、興奮などの基本的な情動も直接的であり、言語化されるまでは、間違い、勘違いが少ない。仏教では一般的な五感と表層の意識を含めてこの六種を眼耳鼻舌身意の六識としている。
我々は本来極めて率直で正直に情報を受け取っている。しかしその六識から得た情報が言語化されると情報はぼやけたり、事実とは違う概念になってしまうことがある。
本人でさえ、言語的な解釈によって、六識によって得た情報を違う概念に置き換えてしまうことがある。
現代のヒトの言語は初めに率直に受け取った情報の意味を反転させたり、撹乱させたりする機能を持つ。だから詭弁を弄する政治家や聖職者、無慈悲な権力者やそうした人々に追従する人々は、言語による嘘、隠蔽、虚偽技術を巧みに扱うのである。

 また、言語は嘘、偽りだけでなく、とぼけたり、無視したり、曲解することによって他者を攻撃したり、優位に立つことも可能だ。自分は同情してもらいたいが他者には同情しない、自分は尊重して欲しいが他者は尊重しないなど、つまり、社会的動物としての高度な人間性に欠けた人々ほど言語技術に長けることになる。そうした人々が多数を占めているのが我々の社会である。しかもそうした自分の生き方が偽りであることに気付くことなく、それを無自覚に行う場合がほとんどだ。ホモ・サピエンス(知性的)ではなくホモ・サピエンスの前に「前期」を付けた「前期ホモ・サピエンス」と定義できよう。前期ホモ・サピエンスの人々は相手が自分より弱いと認識すると、途端に背徳性をさらに発揮するという気味の悪さもある。
精神病ではない自利のためだけの嘘、二枚舌は本来は社会的動物としての知的で高度なヒト社会を否定するから、現在のヒトの社会はいつも行き詰まっている。さらに前期ホモ・サピエンス族は、経済を独占し、暴力手段を手に入れ、権力によって、清く慈愛に満ちたヒトとして進化したホモ・サピエンスの駆逐に余念が無い。そのために彼らは戦争や貧困を意図的に作り出している。
 
 現代のヒトの言語の使用法は勘違い、間違いが多いだけでなく、意図的にそれらを誘発することができることから、物事をきちんと表すに適したツールとは言えない。世界を把握するのにこうした性格を持つ言語は適していない。
このような性格を持つ言語による人間社会が自分勝手な無自覚な悪人たちに牛耳られているのも当然である。自分に都合の良いように偽りを真実とし、真実を偽りとする。前期ホモ・サピエンス族には誠に都合の良いツールだ。優しく慈愛に満ち、他者を慮る高度なホモ・サピエンスが自分勝手な前期ホモ・サピエンス族に制圧されている現状は言語の使用法によるところが大きいと考える。

  この不完全極まりない言語で現象の真実を表すのはとても難しい。言語による哲学的宗教的真理探究は甚だ難しい。千年前の中国人が古代インド語のパーリ語やサンスクリット語の仏典を中国語に翻訳した際の中国語の題名を日本語読みして何度も繰り返し唱えると悟れる、などと吹聴する。この列島ではそれを仏教という、そんなバカな話はない。二千五百年前のインド・ネパール地方におられたお釈迦様がご自分の滅後から千年たって中国語に翻訳された仏典の題名を中国語風な読み方で繰り返し繰り返し唱えよ、なんておっしゃるわけがない。仏像もインド・ネパール人風なら分かるが、日本の寺院に鎮座する仏像は多く薄眼を開けた太り気味の中国人風だがこれも不思議でならない。当たり前だが、お釈迦様は中国人ではなく、古代のインド・ネパールのシャーキャー族出身だ。
 キリスト教についてももちろん同様にイエス様が、2000~4000年ほど前にコーカサス地方から移動して、当時の先住民であるケルト系やペルシャ系の人々を追い出した現在のヨーロッパ系であるわけがない。二千年前の中東の砂漠地方におられた黒髪、黒い眼、浅黒い肌の方だった。パウロが構築し、リヨンのエイレナイオスが構築したヨーロッパ・キリスト教はイエス像を、中国人が仏像を中国人風に作ったのと同じ感覚で、ヨーロッパ風の顔にしただけのことだ。
またお釈迦様には仏教という概念がなかったようだ。釈尊滅後百年後に書かれた紳士録パーリ語典籍イシバーシーヤムには仏教の教祖はシャーリプトラと書いてあるそうだ。イエス様も、もちろん今風のヨーロッパ・キリスト教など作っていない。パウロの手紙にはあるが、四福音書にはヨーロッパのことなど何一つ書いてない。当時のヨーロッパはローマ帝国であり、ユダの地をシリアの属国にしてイエス様のユダヤ民族から収奪していた。また現在は王侯貴族や富裕な人々の太鼓持ちをしているヨーロッパ・キリスト教だが、当時のナザレやガリラヤに暮らしておられたイエス様の伝記である聖書には漁師、取税人、売春婦、奴隷、肉体労働者がほとんどだ。だからイエス様がゼーロタイやシカリ党だったのではないか、などという説さえあるほどだ。

つまり宗教が、原義とはかけ離れた宗教エンタメとなってしまったのも、前期ホモ・サピエンス族の言語使用法によるものだと思う。

無門関~私的解釈

仙厓「無門関」テキスト(魚返善雄 訳・「禅問答四八章」学生社)


『無門(決まった入り口が無い)と言えば、世界中の人が入れるし、入り口があるとなれば、先生の立場はない。だいいち、よけいな評などこじつけるのが、帽子の上にまた帽子みたいだし、わしにほめろとむりにたのんでも、枯れ竹をしぼるものだよ。こうした手引きがあれば、わしがふりだすまでもない。ふり出して、ひとしずくでも世間にはだすな・・・・いかな名馬でも追いつけはせぬ。』


禅における「無」は実は「有」のことだと考えられるだろう。
入り口が無い、ということは、すべてのどこでもが入り口である、ということにもなる。われわれ凡人が理解しやすいように、逆説的に万有を「無」と表現している。
ある!と言ったって見えないし、無い!と言ってしまえば元も子もなくなってしまうから「無」としたのだろう。まったくもってリーラー的表現としか言いようがない。

『一 趙州と犬

 狗子仏性  莫言這無  春風瀝々  東壁葫蘆

趙州様に、ひら坊主がたずねた。
「犬にも仏の性質がありますかね?」
趙州が言う。
「無じゃ!」

無門が言う、
「全身をもって疑い、無の意味を知れ。よるひるひきしめて、虚無にも陥らず、有無にもかかわるな」
歌に、
「犬」も仏も、これこのとおり。
有無を言うたら、ほろびるいのち。』


ここでは、犬に仏性があるか否かという質問に、趙州は、
「無じゃ!」
と答え、無門は、
「有無にもかかわるな。有無を言うたら、ほろびるいのち」
などとわけの分からないことを言っている。
一体何が言いたいのだろう。やはり無門関の坊さんたちほどになれば、頭の中は形而上にぶっ飛んでいるのか。
つまり、結構イッちゃっているのか。それとも座禅のやりすぎと、運動不足で血の巡りが悪くなっているのか。さらに、

『いつも張り切って「無 」というものを持て、油断がなければお灯明のようにパッとつくのだ。』

などとも言っている。ますますわけが分からない。

 どんな高邁な論理でも、これが正しい、これは正しくない、などと言い出せば、もうそれはきりがなく、双方けんかでカタをつけるしかなくなってしまう。
近代哲学の創始者デカルトは全存在というか、全てを疑ってみて(方法的懐疑)、その結果、思考の主体としての「吾」の存在は疑うことができないという結論に達し、「吾思う、故に吾有り」を存在論の出発点としたが、禅の立場は大分趣が違う。
「ある・ない、なんて言ったってしようがないだろう。あるもんはあるんだ、え、あんた、鼻っ柱に一発見舞われたら、自分が存在するってすぐに分かるだろ」
禅はある意味では構造主義の先駆けをなしていた。
鼻っ柱を殴られて、自分の存在を確認できるということは、殴る側の拳と、殴られる側の鼻っ柱の関係と、痛みや感情、神経系の関係において成立するもので、殴る側と殴られる側という事象の構造において、自分が存在するというふうに考えている。
自分一人でボーッと考えていて確認できる自分なんていうのは、それこそ存在論のマスターベーションだ。
「マスターベーションやっているんだったら・・・ええっ、そんなに暇だったら、そこらへんの掃除でもしておけ!」
ということになる。

 だが、禅の存在論は、いざ言葉で説明しようとすると、これは難解で怪奇に思える。説明できないので、不立文字なんて言って逃げ回ることもある。
でも、無門はしっかりと言う。

『犬も仏も、これこのとおり。
有無を言うたら、ほろびるいのち。』


ここでは、「無い」ということは「有る」ということである。
この世は「有る・在る」だけでできている。ジョッキーになみなみ注がれたビールがなくなったのは、誰かの胃袋に移動しただけだし、財布のお金がなくなったのは、何か買ってそのお金がその店のレジに移動しただけだ。
この世では、ものが本当になくななったりはしない。変化だって厳密にはない。鉄釘が錆びてぼろぼろに変化しても、それFe(鉄の原子)にO(酸素)がくっついた現象のことで、原子的な移動にすぎない。何もなくならないし、何も増えない。

 おそらく、存在の原料は無だが・・・それをそっくりひっくり返したのがこの世界なんだから、この世は全て有で構成されていることになる。
だから無、なのにパッと点く。ありもしないものはパッとなんか点かない。
万象、「有」という前提に立ってこそ、「無」という概念が生きる。
だから、有るとか無いとかではなく、有無を越えたところの「あるがまま」ということになる。

有るとか無いとか言い出せば、もうそれはケンカの種となってしまう。リーラー的見解である。

 「犬に仏性がある」といえば、「無い」という人とケンカになる。「有無」にかかわると、人間に競争と暴力のシステムがはたらいて、「有無を言うたらほろびるいのち」ということになる。
趙州の「無じゃ!」の意味は、この場合「有りじゃ!」となる。では「有」なのに、なぜ「無」と言ったのだろう。
「無い」を「有る」、いや「有る」を「無い」と表現したにすぎない。そもそも回答はどちらでもよかった。手前味噌だが・・・リーラー的発想だ。

いつも張り切って「無」というものを持て、油断がなければお灯明のようにパッと点くのだ。

だから「無」がもてる。 「無い」ものを持て、なんて無門は言っていない。「無」はそもそも「有る」のだから・・・。
この世界の存在は、常に他の存在に依拠している。相手がなくては何ものも存在し得ない。

 無門関は本来、「有る・在る」の当たり前の論理のもとに構成されているようだ。奇異をてらうことなく、難解を気取ることもない。言ってみれば、「なあーんだ、そうか!」という極めてリーラー的な見解を指し示していると言えよう。

『祈る』ために「言語、貨幣経済制度、宗教、死」を考える~前書き

言語の写真

 現代人類がいわゆる知的存在であるホモ・サピエンスになれず、その前段階の「前ホモ・サピエンス」~戦争、差別、殺人、略奪、強姦やりたい放題の極めて醜い類人猿~のままでいるのは、「言語、貨幣経済制度、宗教、死」、大きくこの四点の勘違い、間違い、思い込みによるものだと考えてみた。
現在は民主主義、共産主義、宗教主義を問わず、政治家・権力者は自分と自分の取り巻きだけの狭い了見で国民を弾圧し、独裁を行い、殺したり、心理的・肉体的に拷問したりして虚言と不義を政治の道具としている。経営者もまた嘘、欺瞞、奪略、殺人にまで及ぶ経営戦略を行い、宗教者が殺人、収奪を行なったりする。
憂慮しても仕方が無いが・・・実際に日本の銀行があの残酷極まるクラスター爆弾を製造している会社に投資し、防衛関係のトップが武器製造会社に天下りして高給をむさぼっている。ある国では聖職者が華美な生活を批判されるのを恐れ、高級車に乗らないようにとお触れがあったそうだが、わが国の宗教者も既成、新興を問わず外国高級車を乗り回している。
そして我々一般大衆も虚言と不義を道具にしている権力者の使うマネーを上納するだけの課役負担民という役に甘んじている。
つまり、この四点をきちんと再考すれば、我々「前ホモ・サピエンス」は真のホモ・サピエンスに少しは近づくことが出来る可能性があるのではないか・・・そう考える次第である。
ただし、革命を起こそう!デモをやろう!既成組織を潰そう!・・・などと大上段に構えるつもりは毛頭ない。そんなこと何百回やっても悲惨な結末に至るだけだ。王様を倒しても、その王様を倒した勢力がまた王様になるだけだ。そんな暴力は一切行わないことだ。一切の行動を起こしてはならない。何もしない。物理的な行動は一切起こさない。
ただ考えるだけ、思うだけ・・・議論したり話し合ったりするのは構わないが、複数で行動してはならない。一人以上で祈るのもだめだ。より良い世界を構築したい、幸福になりたい、大自然や神々の世界に精神を遊ばせたい、と祈るのは一人だけの時と場所に限る。
二人集まったらそれは複数であり群衆であり組織だ。祈りは一人だけでするものだ。
もちろん「一人で祈りなさい」と強制するのもだめだ。
知識を得たり、話し合ったりすることはヒトの社会生活だが、祈りは社会生活とは異質なものだ。一緒のカテゴリーにしてはならない。祈りとは、間違い、勘違い、思い込みがないように知識や体験によって清濁を理解し、おおらかさと寛容を保ち、精神や頭脳をフル回転させ、一人で行う清い行いだ。「祈った!」などと公言するものでもない。毎日するものでもない。気が向いたときにそのタイミングが合ったときにするものだ。


 次回からはまず言語についてリーラー的に考えてみたいが、ウィトゲンシュタインやソシュールなどの難解・煩雑なおしゃべりではなく、事実と当たり前の視点から言語を考えてみるつもりである。もとよりぼくはドイツ語もフランス語も読めない。だから日本語や英語に翻訳されたヨーロッパ哲学者の本などから引用するつもりもさらさらない。ただし、浅学ながら感想は述べることはある。言語に対するアプローチは西洋のそれとはスタンスが違うと理解していただきたい。
それから「貨幣経済制度」「宗教」「死」と進んでいきたい。

これらのことは「リーラーの宇宙」にてまとめていくつもりである。

人類の衣類

hainこの写真の背景の地面は雪である。
 5000年前のヨーロッパ・アルプス高山で発見されたトルコ・中東系の凍結ミイラに関しては防寒に動物の皮や植物製の衣類を身につけていた。(注1)しかし一般に太古の衣類の考古学的発掘物はあまり例がない。この列島縄文時代においても草などを編んだ編布(あんぎん)による籠やポシェット様のものは見るが、衣類に相当するものはそう多く見つかっていない。常に衣類をつけていたならばもっと見つかっていいはずだ。
 現代は性器は隠さねばならないというヨーロッパ文化の侵略によるヨーロッパ・キリスト教の強制による着衣もあって、地球上の人類のほとんどは衣類を身につけているが、太古の考古学的発掘例に衣類は少ない。もっと多く発見されるはずだと、ずっと不思議に思っていた。この列島においても縄文草創期や縄文晩期の気候は現代と比べるとかなり寒かったはずだ。雪も結構降っていた。当時の栽培植物に麻があったし、編布の技術があったはずだからたくさんの衣類が見つかっても不思議ではない。寒さ対策はどうしていたのだろう?なぜ衣類がもっとたくさん見つからないのだろう?
 太古の人々は冬に寒くなる地方の人々でもさほど衣類を着ていなかったとしか考えられない。寒冷地方に比べればまだまだ暖かい21世紀の東京の冬でも衣類無しには外を歩けない。
 だが、アン・チャップマン著・大川豪司・訳・新評論社の「ハイン」の写真を見て驚いた。内容は南米フエゴ諸島先住民の祭などを現地調査したものだ。フエゴ諸島は南極に近く、冬はマイナス20度になることもある寒冷地である。しかし極寒の冬には動物の毛皮をまとうなどするが、雪が積もっているような季節でも全裸で生活していた。
人類は体毛がほとんど無いにもかかわらず、本当は相当寒さに強いのではないだろうか、と思わせた。
だから、この列島の縄文時代にも衣類と思われる発掘品が少ないのだろうか。

(注1) http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/8810415.html

ツールとしての宗教

0b60369cc207884389f15e0ae42dbead[1] このブログでは「宗教」と「宗教組織」について多く書いているが、先の「なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するのか?」で・・・

「宗教」は貨幣や道具や思想、哲学にはない人間の中で最も汚れのないカテゴリーでないと機能しない。近現代のマネー大好き、尊敬されるの大好き、権力大好き、威張るの大好きの薄汚れた聖職者には荷が重い。
「宗教」は人間の構築した文化の中で、最も美しく気高く、清くなくてはならない。科学、芸術、政治、経済は暴力と権力、財力、見栄、嘘、欺瞞がはびこってしまった。宗教が鬱陶しい糞まみれになっては人類に未来はない。そう危惧している。

・・・という理由だからだ。また・・・・

 「宗教は人類にとって向こうのフィールドとの関連と動物にもともと組み込まれている共感、親和力のソフトを引き出すものであり、それは見えない「こと、もの」に対しての真摯な態度が含まれる。
宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤である。」

と宗教を定義してみたが、もちろん同感して欲しいとは露ほども考えていない。もとより宗教は、話し合ったり、論議したりするのはかまわないが、祈りや宗教的概念の把握は個人的な行為・思索であると考えるぼくだけの論理だ。祈りは純粋個人的なものだと考えている。
「二人で祈りましょう!」・・・二人といえどもこれは組織宗教である。宗教は一人で行うものだ。マタイ福音書第5章に「一人で祈りなさい」とあるように、また歎異抄に「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞 一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」と あるように、またこのブログで「一遍上人」を考えた際に次のように書いたように~「一遍聖絵の詞書きでは一遍も「一期かぎりぞ」と組織を否定している。時宗という教団は一遍の思想を否定して組織化を図ってしまったが、それは勘違い、間違いである。
 
 宗教組織のイデオロギーには宗教の清さ、気高さ、向こうのフィールドという観点はまったく皆無だ。神だ、仏だ、あの世だとへらへらとしゃべるだけだ。ご存知ないだろうが、現代の仏教の修行は坊主として出世するためのものであり、悟りや無私などとは無縁だ。受験勉強に酷似している。勉強して目的の大学に入ってしまった後は単位を取るだけの勉強しかせず、ほとんど本を読むこともなく、スマホとマンガで四年間を送ってトコロテン式に押し出されて就職してアホ面の社会人となる。出世しても加減乗除しか使えないから、小学生並みの「多い・少ない」しか判断できない。現代の坊主の修行はその受験勉強と同じなのである。単位を取ってしまえば、もう仏教とは縁が切れて、経営と人付き合いと人事とマネーと遊びに明け暮れるだけだ。高僧と呼ばれる人たちの生活をご存知だろうか?びっくりすると思う!アホでない僧もいるにはいるが、まず人を見下す下品な人物が多い。お釈迦様、イエス様はびっくりすること間違い無しだ。

 しかし、宗教に携わる人々が、本当に気高く、清く、向こうのフィールドに真摯な態度を持ったとしたら、人類は平和、温和、自由を得られることとなる。なぜなら、現代の人類が清く、気高い精神的良き持ち物を手にすることになるからだ。他者を不幸にすることで自らの安寧を求めるようになったのは、人類が清く、気高い規範を持っていないことによる。そして宗教さえも、自利のために利用されている。

人類が清さ、美しさ、気高さをもった精神を手に入れるそのツールが「宗教」である。

ヨーロッパ哲学好き~~~

cat01191本屋で思わず失笑してしまった。
~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~と副題のある本である。 ~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~・・・だから何のなの?と思う。おふざけの、無駄飯食いの無駄な本だ。 
ヨーロッパキリスト教と言語によって世界を解釈しようとするヨーロッパ人哲学者と呼ばれる人の個人的感想をまぜこぜにして、母語が日本語のクリスチャンではない日本人が、なんでこんな論議をするのか?そういう話が哲学?哲学という用語は「智を愛する」という意味のギリシャ語からきているそうだが、現在の日本語の「哲学」の意味はヨーロッパ人の認識論を日本人が日本語に翻訳して、カント・ヘーゲル~~~、ウィトゲンシュタイン~~~、デリダ~~~、ソシュール~~~・・・などと叫ぶことのようだ。それはギリシャ語の原義とは全然違うだろう!そんな人は居酒屋で焼酎呑みながら、ウィトゲンシュタイン、ライプニッツとぶつぶつつぶやくか、無人島へ行ってデリダー!!!!とか叫んでればいい!
例えばドイツ語や当時のオランダ語やラテン語を勉強して、スピノザをよく研究した学者には、ヨーロッパ唯物論を誘発したことが分かるそうだが、それが何だというのだろう?唯物論は共産主義を生み出し、結局スターリンやポルポトや毛沢東や金正恩という共産党怪物を出現させていることになる・・・そのへんはどうなのだろう?
西洋哲学は世界を解釈する認識論的個人的感想にすぎないように思えてしかたがない。どちらかというと、謙虚さを欠いた言語による芸人という感じだ。旅芸人やお笑い芸人と同様、何か新しいことを言ってしつこい論議で耳目を集める言語芸人・・・。
 さて、ライプニッツは17世紀の人でちょうどJ.S.バッハと同時代の人で、ウィトゲンシュタインはほぼ20世紀の人だ。ぼくは日本語翻訳された著書を数冊読んだことしかないが、でも、いくらなんでも、ライプニッツ哲学をウィトゲンシュタイン的に解釈すると何か良いことがあるとは思えない。紙の無駄だ。バッハの楽譜は極東のこの日本においても楽しめるし、音楽芸術を堪能させてくれるが、ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン解釈・・・については、ヨーロッパキリスト教に汚染されていない四季折々の豊かさのあるこの日本ではただのヨタ話だ。ヨーロッパで宗教といえば、ナザレやガリラヤから遠く離れた中東よりずっと緯度の高い寒い地方の王制と貧窮のヨーロッパキリスト教のことだ。ヨーロッパキリスト教はご存知のようにナザレのイエスとは程遠い。福音書は北アフリカから中東のギリシャ語圏の今で言うエジプト人やシリア人、トルコ人が書いたものだと研究者は考えている。
~ライプニッツ哲学のウィトゲンシュタイン的解釈~・・・ドイツ人でもないのに・・・こんなおバカな本書くくらいなら、学者様なんかやめて、きちんと会社に勤めて社会に貢献したほうがいいと思う。
ヨーロッパ礼賛のこんな本を書いている日本人学者は本当に多い。

ぼくはヨーロッパの哲学者についての本を書く優秀な人のように、ヨーロッパの言語を何ヶ国語も勉強してないし、ヨーロッパ哲学については日本語訳で垣間見ることしかできないが、近現代ヨーロッパ哲学者はそれぞれ違う主張を、口から出任せにしているにすぎないように思う。百家争鳴・・・何の役にも立たないと思う。ライプニッツ哲学をウィトゲンシュタインで解釈とは・・・焼き魚をケチャップとマヨネーズ、どちらで食べると美味しいのか?というような難問に見える。

「イエスという男」田川建三 著~読みづらい本だった~

荒野のキリストこれは浅学なぼくの一書評にすぎないものであることをまずはお断りしておきたい。

 「イエスという男・田川建三 著・作品社」

田川建三先生は、ナザレやガリラヤはもちろんヨーロッパからも遠く離れた歴史も風土もまったく違う極東にある母語が日本語である日本人のキリスト教福音書研究家である。また、先生は同業研究者の実名をあげてあげつらうお茶目なところがある。
ヒーヒー言って、嫌々ながら働く庶民と違って、食うには困らない学者様のご身分だから仕方ないのかもしれないが、イエス様を含む、イエス様周辺の肉体労働者に気色悪く同情したりする。

 キンシャサで現地の人の苦労を垣間見て同情したり、木箱で机を作って~などと自慢げに語るが、おれは学者だ!という驕った態度はそのままだ。これじゃあ、「イエスという男」なんていう本を書いても、イエス様に嫌われるだけだ。そんな態度では先生がおっしゃっている「マタイやルカなどの福音書家の勘違いした挿入句は~」などとは批判できないはず。それなのに、真顔でできちゃう人でもある。
ご立派なのは分かるが~少し言いたいのだが~少し斜めっているから、似非インテリたちには受けるだろうが、自分では垣間見ただけにすぎない庶民の馬鹿さ、いい加減さ、醜さ、無能、哀れさ、貧しさを熟知しているかのように振る舞うのはやめた方がいい。
どちらかと言うと、物議をかもすようでいて、危ない橋は渡らないという中沢新一、梅原猛、大江健三郎的なスタンスのお人のようだ。
 
 彼の言抜けの極め付けはこの本の238頁12行目から~イェレミアスがパレスチナの肉体労働者を侮蔑していると散々非難した後に・・・
「みずからの肉体を消耗して明日の食いぶちのために働いたことのない者の無知のせいだろうか。それは本当に自分で経験しなければわからないことなのか。しかし、植民地支配の何たるかを知っていれば、たとえ自分では経験しなくても、かなりな程度まで理解できることではないのか。」と酔っ払いのようなふわふわした態度でイェレミアスの非難を続けていることだ。でもね、あのね、田川先生、あなたもイェレミアスと同じだよ、と言いたくなる。「植民地支配の何たるかを知っていれば~かなりな程度まで理解できることではないのか。」
バカじゃないの、知っていることを威張るのもいいが、他人を口汚く罵る人間に現地の人の苦しみ、悲しさなど分かるわけないだろう!
とにかく田川先生、他者に同情できる徳人のようだが、そこまで言うなら、数年間、食に事欠きながら肉体労働をしてみたらどうだろう。
博識のように見えるが、変人を気取ったりするのは、いかにもおぼっちゃまらしい。その態度は見え透いている。大組織であるキリスト教会攻撃はあまりしないのに、荒井先生、八木先生、土井先生、プルトマン先生などの個人攻撃は得意。先生の同情する肉体労働者の中でこれだけ他人を攻撃したら半端じゃないほど殴られることは確実だ。自分の説だけ正しいと、のたまわりたいお人のようだが、自分に似た考えを持つ同業者に対して、剽窃だ、盗用だと罵るのもどうかと思う。
このおぼっちゃんは、一度も殴られたことも、痛い目にあったこともないと思う。ある学校で教員をクビになったそうだが、路頭に迷う経歴をお持ちならば、まだ分かるが、その後も本人の言う学者様を続けられたわけだから、食うに困らないぼんぼんなのだろう。よほど甘やかされて育ったんだろうと思わせる。
イエス観については賛同できる部分もあるが、悪ガキのような頭の弱さには閉口する。この先生は勉強して知識はあるようだが、如何せん人として頭が弱い。
こんなに同業者を揶揄、愚弄しなければイエス研究はやれないのだろうか?繰り返すが、先生は今からでも、先生が上から目線で同情する肉体労働を少ししてみたら如何だろう。イエス様は田川先生のような学者様ではなく、大工の子で文盲の肉体労働者だ。そうすればイエス研究をしながら、同業者に罵詈雑言を浴びせかけることがどういうことか少しは分かると思う。

 ぼくは欧米の聖書学者の本は日本語訳でしか読めないが、福音書における後世の削除、挿入を語るときは、例えば10世紀以前の古写本にあるものが、11世紀以降の古写本には見られなくなるといういうようなことから、これは11世紀以降の削除であろうと、古文献資料をもとにして推測するのが常のようだが、田川先生はそうした手順を踏んでいるのだろうか。あるいは欧米のそうした学者の成果だと記さないまま、ご自分が直接その写本を調べたかのように、福音書の語句挿入、削除を論じてしまうのか。荒井献先生を233頁4行目で「アンチョコの焼き直し業者」とこき下ろすのも結構だが、まずご自分がどこの図書館の何世紀の何語のどの福音書写本を調べて判断したのかをきちんと明記するべきである。もし、それをしているなら写本の番号くらいは記せるだろう。していないということは、腹いせか逆恨みの揶揄、愚弄にすぎないと思われることを承知しなければならないと思う。もしかして「アンチョコの焼き直し業者」とはご自分のこと?
 それに・・・393頁の11行目に「もしもこれがQ資料の示しているように~」とあるのは何のことだろう?誰も見たことのない故にQ資料と呼ばれているのだが、不思議なことに田川先生はご覧になられているようだ。日本書紀の言い回しに「一書に曰く~」が多く出てくるが、Q資料はその日本書紀の「一書」のように、本当に散逸してしまったか、あるいはどこかに隠されているか、あるいは無いのにあると思わせるためか、の三点だろうが、いずれにせよ、福音書のQ資料と日本書紀の「一書」は永遠に日の目を見ることはないだろう。
でも、田川先生は「もしも~」はついているけれど、「Q資料の示しているように~」などと書いている。この本にはこのような曖昧、いい加減な記述が山ほどあることから、「イエスという男」は、「史的福音書研究」ではなく、キザに斜めって頭の軽いインテリさんたちにモテようとしたお文学の域を出ていない。
また、不思議なことに、この本で田川先生は福音書作者や同業者には罵詈雑言だが、高級外車に乗る現代の富裕な神父や牧師などの非難は余りしない。考えてみれば、マタイもマルコもルカも2000年前の人で死人に口無しだ。現代キリスト教のいい加減さを福音書研究上でけなすが、そんなにキリスト教が嫌いなら、現代のキリスト教会の組織にある高位の神父や牧師を批判すればいいと思う。梅原猛先生が「歎異抄・講談社学術文庫」で、ご宗派にとって都合の悪い文書である歎異抄を明治時代まで隠し続けた浄土真宗組織を一切批判しないのによく似ている。
そのやり方、生き方は狡くてみっともない。まずその酔っ払い口調をやめたほうがいい。それでも斜めってキリスト教研究をやりたいのなら、福音書ではなく、黙示録がお似合いだ。新約聖書の訳・注でヨハネの黙示録もおやりになられているが、ユダヤの黙示録文学はうわ言のような、ラリって書いたようなジャンルだから田川先生にはぴったりだ。しかし先生のご著作を何冊も読む気はもうない。
 アラム語やコプト語に詳しいと豪語される田川先生は、荒井献先生のナグハマディ文書翻訳(岩波書店)もお気に召していないだろうから、是非、田川先生による本格的な日本語訳をお願いしたいものだ。

宗教の定義として、さらに付け加えるべき重要なこと

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 宗教を考える、というと、キリスト教国で構築された宗教観がこの日本でも当たり前のようになっている。日本のお偉い学者様たちはそうした欧米の社会的宗教観の受け売りに終始している。マックス・ウェーバー、バッハオーフェン、レヴィ・ストロース、などとしたり顔でうわ言を言うだけだ。欧米人が宗教という概念を語っていても、結局キリスト教を語っているにすぎない。日本語訳で読んでもそれが伝わってくる。
はい、ドイツ留学しました、キリスト教神学の博士号を取りましたと、ヨーロッパオタクの大衆芸能的美術ギャラリーに通う人々のようなおハイソさだ。宗教の神秘的なことや、大工であっただろう労働者イエスや、スッタニパータで「おいそこの坊主!」などと火の祭祀中のバラモンに蔑まれたお釈迦様を、中産階級のボンボンや中国禅をネタにアメリカで有名になるような学者様に宗教が理解できるはずがない。彼らは政治・権力・経済や階層という宗教組織の社会的現象だけを見て宗教を語る。
 キリスト教成立史の本を読めば分かるようにイエス様はご自分が殺された拷問具を首からぶらざげよ、ド派手な教会を立てよ、などとは一言も言っていない。福音書は四人の作者が書いたものだ。(福音書研究家は共観福音書のネタ本をQ資料として、意味不明のどうでもよいような議論を重ねている。) 
「心の貧しきものは幸いである」マタイ伝5-3、「貧しきものは幸いである」ルカ伝6-20、・・・「心の~」があるか無しでは大違いであるのに、これに明確な答えなど用意もできない「貧しき」学者様が多い。マタイはアレキサンドリア周辺のギリシャ語圏の富裕な人々へのためにこれを書いたために、貧乏人優先ではなく富裕層のために「心の~」と挿入したのだろう。(田川先生は文献上からそれを突き止めておられる)イエス様は底辺の民衆のために殺されたのに、日本のキリスト教会の駐車場にも高級外車が並んでいるのである。
実際、イエス様の周辺にはヨーロッパキリスト教史にあるように、王侯貴族、官僚、祭司、金持ちなどの裕福な人々はなく、ほとんどが漁師、羊飼い、徴税人、売春婦だ。使徒たちもローマと傀儡政権がイエス様に詰め寄ると平気で逃げ出した衆愚だ。
当時のユダヤ教祭司は私兵を擁した軍閥であり、宗教に関しては口先だけの支配層だった。
日本の宗教学者様もイエス様を含む周辺の人々の苦労など知りもしないし、知ろうともしない口先だけの甘ちゃん。イエス様のことを知りたかったら、費用のかかる外国留学で博士号を取ったりするよりは、聖書にあるように明日の食事の心配をしなければならない貧乏を二、三年してみるほうがいいと思う。
その博識と教示には敬意を表したいが、高名な聖書研究家の田川健三先生も、ヨーロッパなどの外国に留学して博士号を取ったり、外国で教鞭をとったことを自慢するよりも、少しでもそういう経験をなさった方が貧乏人の息子であったイエス研究に役立つのではないかと思う。
また「宗教学者」を自称するヨーロッパかぶれの人たちには、宗教組織の資料を見たり、翻訳したりして並べ替えたり、整理したりするだけの稚拙な仕事ぶりにに憐憫の情さえ覚える。そんな退屈で詰まらない仕事をするくらいなら、一般会社に勤めて、頑張って、悩んで、苦しんで、「宗教」というものを考えた方がいい。

 
 宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤だ。超次元を表すのに、あの世、天国、地獄、来世などの用語が使われているが、リーラーでは「向こうのフィールド」という用語を使っている。
 
 この列島は現在でもそうだが、新宗教のような妄信的な人々は少ない。ザビエル書簡集で、彼が一家の主人と奥さんと子どもがそれぞれ違う宗派の宗教を信じているのを相当不思議に思っていたように、この列島ではかなり前から妄信的一神教に汚されていない。15000年前から卓越した平和的文化・宗教の縄文時代を擁する民俗なのだから、この列島の土壌は本来、宗教について客観的な思索をすることが可能なはずだ。なのに、一神教に洗脳された欧米の学者の受け売りをしている貧しい宗教学の現状は悲惨だ。

 西ヨーロッパ人は人類史上では後発組のためか、(前回のアイスマンのことやケルト人のことなど)産業革命を起こすと鉄砲や大砲などの近代的武器や道具による残虐な暴力でアフリカ、アジア、アメリカの人々を虫けらのように殺し、収奪する人間として恥知らずな民族だった。その貧相な驕りは今でもナチズムや白人主義に見られる。イギリスやフランスの商船は、鎖につないだままアフリカからアメリカまで運ぶ生存率1~2割という奴隷貿易を続けた。狂人の為す行為だ。利潤のためにアフリカ、アジア、アメリカの人々から収奪し、反抗する者を虫ケラのように殺してきた。彼らのイデオロギーはユダヤ人のパウロがエジプトのギリシャ語圏のアレキサンドリア周辺で構築したキリスト教をさらに階層的、権力的にヨーロッパ風に改竄したものだ。例えば領民は領主の信仰に従う、という近代以前のドイツでは、領主がルター派から敬虔派になると領民も信仰を変えざるを得なかった。その極端な例は、王様がカトリックからプロテスタントに宗旨変えして、それを国民に押し付けたイギリスの例がある。

 西ヨーロッパ人は、古層にまで至るアフリカやアジアの文化を階層的、差別的、権力的キリスト教イデオロギーによって破壊して、あたかも自分たちこそが上なのだと思い込みたくて、勘違いして叫び、アフリカやアジアの人々を侮蔑してきた。
キリスト教に限らず、イデオロギーを信奉する宗教組織は政治・経済などの分野であり、宗教という概念とは相容れない。
そうした残酷で軽薄な人々が宗教の定義を語る・・・なんのことはない、彼らは「宗教」を語っているつもりでも、中東で興り、その後階層的ヨーロッパ社会で独自に構築されたキリスト教を語っているにすぎない。階層的、権力的キリスト教の呪縛から逃れられない。アニミズム、トーテミズム、シャーマニズム・・・一神教だ、多神教だ、構造主義から見れば~、哲学的には~などとまことしやかに語るが、まるでバカバカしい分類作業だ。
それを拝読、拝聴して剽窃、盗作、勘違いしているこの国の宗教学者様はもっと愚かだと思う。


宗教は人類にとって向こうのフィールドとの関連と動物にもともと組み込まれている共感、親和力のソフトを引き出すものであり、それは見えない「こと、もの」に対しての真摯な態度が含まれる。
宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤である。


とリーラーでは定義する。


「なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するか」末尾の(注)

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

体内微生物

微生物先月は何となく本屋で手にした微生物についての本を読んだらとても興味深かったので、続けて何冊か読んでみた。また、それらの本に刺激されて、ナショナルジオグラフィックの体内微生物の番組を録画して見た。

 それによると人間の身体の8~9割は微生物であり、微生物が人間に寄生しているというより、人間の生命行為の実態はその逆である考えるべきだ、との主客転倒が正しいという考え方もあるということに驚きを感じた。
一つの細胞は平均10個の微生物と協調して存在しているらしいが、興味深いことだ。特に腸には分かっているだけで2500種の微生物があるらしい。
最近は精神病と腸内微生物の研究も進んでいる。例えばウツ病を発症するセロトニン欠乏において、腸内微生物との直接的な関連が指摘されている。それはセロトニンを生産する微生物が小腸内にあり、それが血液によって脳内に運ばれて健全な精神を維持するというシステムになっていることから、セロトニンだけを考えた場合は、心や精神、魂という問題よりも、ウツ病は小腸のセロトニンを生産する微生物の問題である、ということも言えるそうである。

 そう言えば、現代の医学は体内の9割を占める微生物統御をほとんど無視した対処的、部分的医療に限られている。
現代医学は対処的、部分的医療に特化してしまっているために、医者が治ると自信を持って判断して高度、高額な医療を施しても、なかなか治らない場合があるのは当然のことだろうと、考えさせられた。
 ぼくは医学のことなどまるで分からない一般大衆だが、これからの先端医療は微生物のことも考えるようになるのだろう、と考えるとなんだか不思議な気がする。アランナ・コリンさんの説得力のある「あなたの体は9割が細菌・河出書房・矢野真千子訳」が面白かった。中西貴之先生の「へんな細菌、すごい細菌」は驚くべき細菌利用について書いてあった。


なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するのか?

般若0405-2 類人猿からヒトへの進化過程や動物行動学、人類学、考古学などの    本を読み続け、他国の巨石文明やこの列島の遺跡、博物館をぼくのできる範囲で見学してきた。その結果、もともとヒトが作る社会組織には慈愛、共感、同情などが優先されていた可能性が高いと考えるようになった。もちろん10000年前の現在のケニア・トゥルカナ湖付近での集団虐殺や、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷の氷河で見つかった約5300年前の男性のミイラ・アイスマン(注)の致死の原因がヒト同士の暴力によっていたことなど、人類が同胞の殺戮をしていた考古学的証拠はある。しかし、10000年以前のヒト同士の殺戮の発掘事例の少なさと、民族、民俗学事例から我々ヒトの本質は本来平和であったことが類推される。ましてやこの列島の縄文時代にヒト同士の確実な殺戮の証拠はいまだに無い。
 現代の我々ヒトも集団で殺し合いを演ずる理由のそのほとんどが政治、経済、イデオロギー、宗教が介在した場合に限る。実際、怨嗟など個人的な理由で人殺しをするヒトはマレである。しかもほとんどのヒトが怨嗟などを抱いても人殺しはしないものだ。ましてや自発的に徒党を組んでみんなで殺し合いをすることなど皆無だ。
 我々ヒトはどこかでボタンを掛け違え、暴力、権力、財力などというものを生じさせてしまったのだ。ジンメルやマックスウェーバーなど読まなくとも、「信用創造」という用語一つを見ても、貨幣の意味はもともと幻想であることは誰の目にも明らかだろう。嘘、虚構、収奪・・・心の醜い人々ほど富むのはそのためである。国家は王政であろうと民主主義であろうと、我々民衆は課役を負担する民であり、使う側ではない。その階層化によって政治は成り立っている。我々大衆は「課役負担民」と定義されている。

 人類は科学や芸術や国家や文化、宗教組織を構築したが、その中で最も古く人間臭いものが宗教組織である。当たり前のことだが、ヒト以外の動物は南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経、アーメンなどという唱え言などどうでもよく、完全に確実に無視し、一顧だにしない。
宗教組織は人間の作ったものだからである。この宇宙において普遍性も何もない誠に人間臭いものだ。
しかし、組織宗教ではなく、本来の「宗教」という概念は向こうのフィールドや彼岸の存在を確信する態度を持ち、清く、美しく、気高く、慈愛に満ちた平和的概念の元にあるべきものだ。また「原始宗教」というカテゴリーの研究などは「宗教」が社会構造をギスギスさせないためにあるという高度な側面を持っていると論じているが、その通りだろう。
 つまり「宗教」は貨幣や道具や思想、哲学にはない人間の中で最も汚れのないカテゴリーでないと機能しない。近現代のマネー大好き、尊敬されるの大好き、権力大好き、威張るの大好きの薄汚れた聖職者には荷が重い。
「宗教」は人間の構築した文化の中で、最も美しく気高く、清くなくてはならない。科学、芸術、政治、経済は暴力と権力、財力、見栄、嘘、欺瞞がはびこってしまった。宗教が鬱陶しい糞まみれになっては人類に未来はない。そう危惧している。
 宗教が人類の最後の砦!
 宗教本来の清く美しい姿を取り戻せば・・・ぼくはそう考えるマイノリティーである。
ここで考えるように、もし宗教が人類を高める可能性があるならば、事は簡単である。真っ当な宗教を取り戻すことだ。人類には現在美しく、気高い規範が一つもない。  無慈悲な計算可能性をもった貨幣が人類を貶め、さらに清いはずの宗教が政治・経済とつるんで穢れてしまった。

 前回のブログに書いたが・・・宗教組織のやることと言ったら、我々が愚かな大衆であることをいいことにして、1000年前に中国人が儒教的に翻訳した仏典のその表題を唱えるといいことがあるかもしれない、などという馬鹿げた洗脳を続けてきた。
 何かを念じて、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などと唱えることは、心理的プラシーボ効果はあるだろうが、仏典にはそんなことは書いていないし、2500年前にインド・ネパール地方に居られたお釈迦様が、1000年後に中国語に翻訳された仏典の表題を唱えることが仏教である、などと言うだろうか?
こんなことは、子どもでも分かるはずなのに、我々愚かな大衆はそれに気付かない。

 例えば、原題とは違う変な日本語翻訳のバッハの「平均律クラビーア曲集」の題名を日本語で何度も唱えると、上手く弾けるようになるだろうか?
 上手く弾けるようになるには、日本語の表紙の題名を眺めているだけではなく、楽譜を開いて初めから終わりまでよく目を通して練習しなければ上手くならない。
 こんなこと当たり前のことだ!
 仏典の中身を読まずに、題名だけ唱えてその仏典が分かるだろうか?
 いい加減な嘘、欺瞞でも大衆は信じるさ~愚かな大衆に夢を持たせてやって何が悪い~文句を言われる筋合いはない~と開き直って仏教組織は大衆を衆愚に貶めてせっせと集金に励む。
釈尊寂滅から2500年もたっている。もう21世紀だ。いい加減なこんなバカバカしいことを信じるのは、もうやめよう。信仰?・・・それは愚かな我々大衆に対する洗脳!
 あなた方がこんなウソ、欺瞞ばかりだから、我々大衆の政治家、学者、芸術家もあなた方と同じように嘘、欺瞞の世界を構築している。
 とにかく、宗教は美しく清くなくてはならない。威張り腐ったアホに清濁併せ呑むもんだとか、ヘラヘラ言わせるのはもうやめよう!宗教は人類の文化の最古で最も人間臭いものだ。これが糞まみれになっているから、人類に救いがない。
 宗教は最後の砦だ。
 敵味方が同じ神に祈る、なんて!こんなバカことをしているのが我々人類の組織宗教なのだ。
 宗教とは誠に誠に個人的な、ピュアな、霊的なものだ。

参考 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/search?q=%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

仏典や聖書を読んでいて・・・


img_176309_14549532_0[1]ユダヤ・キリスト・回教(セム語族の一神教というくくり)は、中東の砂漠地帯で毎日寝起きし、見る動物といえば家畜ばかり、砂漠には木も草も生えない、山々に降り注ぐ雨、豊かな自然風景など見たことがない民族が構築した宗教である。熱帯地方やわが国のような湿潤地帯の神観念とは違う。
イエス様はご自分が殺された拷問具である十字架を信者が首にぶら下げるのを喜ぶだろうか?現在ならば電気椅子や絞首刑具を首にぶら下げるようなものだ。実際、十字架がキリスト教のマークになったのは4~5世紀だ。それ以前はご存知のように魚のマークだった。
「問いかけるイエス・荒井献著・日本放送出版協会」には、山上の説教について浅学なぼくには気が付かなかったことがたくさん書いてあった。例えば・・・
マタイ福音書「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」
ルカ福音書  「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」・・・
なるほど「心の貧しい人々」は必ずしも貧乏ではないが、「心が~」と断ってなければ、「貧しい人々」は貧乏と解釈するべきである。また、「天の国」と「神の国」は用語が違う。マタイ派とルカ派の違いだが、このように三つの共観福音書はかなり違う。詳細は荒井先生のご著作をお読みいただきたいが、この三本の福音書において使徒の名前もバラバラ、並行箇所もバラバラ、マタイ福音書にはイエスはマリアの処女懐妊だから父親の血筋とは関係がないのに父親の系図が延々と書いてある。それなのに教会はイエス様のこの三本の伝記を勘違いしたまま信じるように壇上から庶民に説教している。大衆を衆愚としてバカにしている。

 
 お釈迦様はインドの暑い国で生まれ育ち、そのお顔は現在のインド、ネパール人に似ていただろうが、日本の寺の仏像は薄目を開けた太り気味の中国人風がほとんどだ。こんなバカなことはない!お釈迦様は中国人ではない!そもそもお釈迦様が、気の触れた独裁者のように「俺の像を置いて、みんなに拝ませろ!」なんて言うわけがない。何を根拠にお釈迦様を揶揄するこんな風習を作ったのか!こんな恥ずべきことができる仏教僧という浅ましい輩の行き先は確実に浄土ではないだろう。大宗教組織の宗教者は、お釈迦様寂滅1000年後にパーリ語やサンスクリット語から中国語に翻訳されたものを完全なお釈迦様の言葉だと勘違いしている。なぜ原典であるパーリ語やサンスクリット語の優秀な研究者の翻訳、著作を読まないのだろう?

太り気味の薄目を開けた中国人風の像を民衆に拝ませるのが仏教なのだろうか?

高級外車好き、酒好きで葬式と墓地営業、観光営業にあくせくする僧に仏教を語る資格はあるだろうか?
南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・と中国語のお釈迦様や、お釈迦様寂滅後800年も経ってから編纂されたインド経典の中国語翻訳の経典の題名を唱えると何かいいことがあると民衆に信じ込ませるのが仏教なのだろうか?

「リーラー」という思想

ナグハマネィ写本 例えば、言語学の本をいろいろ読んでいると~「言語を扱えるのはヒトだけである」と、言語が使えることで他の動物に勝ち誇ったような表現をみることがある。
「サルや類人猿にヒトの言語をカードや手話で教えても~、言語的思考は育まれない~」などというような文脈で使われる。当たり前のことだ。サルも類人猿も人間ではない。日常生活も思考構造も、これまでの進化の過程でも、発声の肉体的構造もヒトとは違う。言語を持たない類人猿やサルはヒトよりも劣っている~と言いたいがための、我々ヒトも動物なのに、他の動物を見下すだけのアホな言い回しに見える。サルや類人猿がヒトの言語を理解できない、などという当たり前の、こんな研究が馬鹿げていることに気が付かないアホな学者。ヒトとしてこれは悲しい、というよりもう痛い、としか言いようがない。言語学だけではなく、このプログで書いてきたように学者というカテゴリーの人たちはそんなアホが多く見受けられる。なんで頭の弱い人が学者を目指すのだろう?不思議でならない。学問は豊かな想像力、創造力、才能を必要とする。時流に乗るのが得意だとか、清濁併せ呑むとか、出世とかを考えるようなサラリーマンの輩は人々をリードする学問をやってはならない。ああだ、こうだのもっともらしい屁理屈と、きちんとした論理の違いはぼくのような浅学の者にも分かる。通暁などしていないにもかかわらず、何ヶ国語もの資料や本を参考文献としてあげたり、剽窃、盗作まがいのものでお茶を濁すだけなら、どこかの会社に勤めて一生懸命に汗を流した方がいいと思う。(例えばロシア語やドイツ語の資料や参考の場合、日本語か英語の翻訳本を読んでその当該原題をロシア語やドイツ語で表記したりする。アホな研究については下記でも書いた。)
 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/1582115.html
 
 また、一般に、ぼくの経験からしても想像力、創造力のある者は、無味乾燥な受験勉強は得意ではない。知的水準の高い者は別だが~受験勉強が得意であることはすなわち人間性が軽い者である。学問を好きとか、好奇心旺盛ではなく、一流大学卒とか、そういものを欲しがる見栄っ張りは軽い人間である。そういう軽い者が人類をリードしているから、いつまでたっても人間世界のいい加減と嘘が主流の下品な文化がよくならない。興味のない科目をいくつもたて続けに覚えるのは確かに忍耐がいるが、優秀な者以外、それを覚えていたり、その知識を使うことはマレである。だから、ほとんどの政治家、大企業の経営者、宗教組織権力者はこの世界を「多い、少ない」だけでしか世界を見ない。

話は戻るが、類人猿やサルはヒトではないのだから、ヒトの言語の理解や扱いが出来ないのは当たり前のことだ!こんなことにお金を使うのはもったいない。
 それは平和の祭典と言われているオリンピックが政治家と土建屋と、見栄っ張りが国家のお金を掠めとるだけになっているように、こんなことにお金を使うのはやめて欲しいものだ。何兆円もかかる平和の祭典?そのお金を紛争地帯や貧しい人たちに使ったらどうだろう。どちらが平和に貢献する手段だろう?オリンピックは平和の祭典ではない。政治家、土建屋、取り巻きたちが国家のお金を掠めとるため、ああだ、こうだと、ヘラヘラと平和の祭典だと言い抜けているだけ。
 だけど勘違いしないで欲しい。ぼくはスポーツに対して、これっぽっちも非難していない。ぼくが非難しているのは、平和の祭典などとはとても言えないオリンピックを非難している。繰り返すが、オリンピックのために使う莫大なお金を紛争地帯や貧しい人たちに~。


  これまでこのブログでもずっと考えてきたが、頭の弱い自分勝手なアホたちが牛耳る暴力、権力、財力優先という貧しい文化を構築した人類第一の責任は、「宗教組織」と「宗教権力」、「宗教者」にある。人間の世界で最も、聖なる、美しい、清く整っていなければならない「宗教」が、嘘とマネー、戦争、権力、政治の糞まみれだからである。「宗教」には救いがあるが、「宗教組織」と「宗教権力」「宗教者」は神仏と清らかな人間性を否定する諸悪の根源だ。少なくともこの三つがまともになれば、人類はもう少しマシになれるだろう、ぼくはそう考える。そういう意味でリーラーという思想の構築をずっとやってきた。

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