江部遊観のブログ

リーラーの宇宙は第三章の脱稿をもって、その概要を表すことができたと考えています。世界を説明するのに「イエス・ノー・リーラー」による三重構造を基層にしました。それは一万年のながきにわたって戦争のなかった縄文時代のイデアを再構築する試みであり、それを現代に重ね合わせることによって、ひとがより豊かな精神性を獲得できるのではないかとの思いです。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/

コモンチンパンジー的世界のヒト課役負担民から高度なクロマニヨン人への進化、分岐。

PB140421大衆の我々は、働くとお上に強制的にお金を取られる課役負担民だ。産まれた時から税金を納める責務を負わされている。存在するだけで、つまり生きていくために不可欠な食べ物や日常品、家を買うことなどに理由をつけられてとにかくお金を収奪される。税金には、課税主体が国である「国税」と、地方公共団体である「地方税」がある。国税には、所得税、法人税、相続税、贈与税、消費税、酒税、たばこ税、自動車重量税などがあり、地方税には、個人住民税、固定資産税、自動車税などがある。
とにかく取り立ては気味悪いほどに徹底している。
 
 またお金の流れの特質は、物理的法則とは逆に、少ない方から多い方へ流れるシステムになっており、我々貧乏人から富裕な者に流れるようになっている。
気圧は高い方から低い方へ流れ、水は高い方から低い方へ流れる。ところがお金は少ない方から多い方へ流れる。自然力学とは逆だ。それを低クロマニヨン人は暴力、財力、権力、社会組織、社会機構によって、自由主義、共産主義、民主主義だのと嘘の手練手管で、お金を自然法則に逆らって逆流させている。


 さて、その収奪したお金を自由に使うのが為政者である。
我々はそういう世界に住んでいる。
自民党が分裂して民主党が政権を取ったときに騒がれた際の記事を読んだにすぎないので数字に関してはアバウトだが、国家その他が我々から集めたお金は一年間に約400兆円に昇るらしい。ところが道路や学校や公務員の給与など、我々大衆が分かるように実際に発表される一般会計の分は約90兆円にすぎない。約200〜300兆円は特別会計と呼ばれ、その使途は為政者に委ねられているとのことだ。
 とにかく我々課役負担民は働いだ分の半分ほどを国家に払わねばならない監獄にいる。
課役負担民は生きているかぎり自分の稼いだ約半分をお上に脅し取られている。
存在するだけで税金を負担する義務を負わされている。民主主義という訳のわからない巧妙な隠れ蓑で、その使い道は選挙によって我々大衆にあるかのようにされているが、とんでもない嘘だ。ポピュリズムが大手を振る選挙によって選ばれた元都知事のI氏やM氏が都税で私腹を肥やしていた醜さの報道をみれば一目瞭然だ。ほとんどの政治家も役人も大同小異だろう。
とにかく我々課役負担民は切ない。選挙で誰を選んでも我々は憐れなままだ。

 だが、近い将来に 暴力、財力、権力が優先される我々低クロマニヨン人の世界は、暴力、財力、権力が優先されるチンパンジー的行動から脱却する時期が来るだろう。チンパンジーからボノボが進化、分岐したように、我々も低クロマニヨン人から高度なクロマニヨン人になる時期が来るのは確かだ。それは来年?100年後〜10000年後?
残念だが直ぐには来ないが、進化、分岐以外の方法ならば少しは早くなるかもしれない。

 それは縄文時代人が可能にした高度な精神文化、精神文明というツールを使う方法である。それならば、100年後には?10000年後には?
やはり少し時間がかかるかな。
ただ誤解して欲しくない。みんなで党等を組んで革命やろう!ではない。
これはマタイ福音書五章にあるように・・・
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。.あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」
つまり一人で高度な精神文化を模索することだ。・・・一人で!ということである。「共に祈りましょう」などと、二人で祈ればそれはもう組織化というこれまでの悪臭漂ううわべだけの醜いクソ宗教と変わらないことになる。
クリスチャンは聖書にそう書いてあるのに、イエスの言葉をバカにしてわざわざ徒党を組んで教会へ行き、うるさくて仰々しい嘘寒い祈りをささげ続けている。もちろんイエスは二千年前に・・・「彼らはその報いを受けてしまっている。」と断罪している。


 話を戻そう・・・やっとのことでウルム氷河期を越えた我々クロマニヨン人も低脳のままならば、次の温暖化や次の氷河期の前に消滅する可能性が高い。
また、もし人類がこのチンパンジー的体質から進化、分岐できたなら宇宙の高度な生命体がコンタクトして来る可能性もあると思うが、現今の人類を見たらとてもじゃないけど付き合ってなどくれないだろう。
我々低クロマニヨン人は・・・平凡で小さな太陽系の中だけで、井の中の蛙として滑稽で野蛮、バカ、自分勝手な自滅の道を歩むだけだろう。
まずは一人で祈りたいものだ。

 ネアンデルタール人は数十万年で姿を消した。次の我々クロマニヨン人は既に二十万年以上使っている。
そんなに時は残されていない!

最近思うこと・・・

宇宙人類学、生物学、社会学、芸術~まあどの分野でもいいが、ほとんどの学者はチンパンジーの次に分岐してきた我々自身を知的生命体だの、類人猿より高度だのと、いう思い込みから出発している。

本当に高度なのだろうか?本当に知的生命体なんだろうか?
知的の意味は~、
賢い?利口?他の動物と比べて身体全体に比べて脳が重い?大脳皮質が厚い?二本足で歩く?コンピューターなどの道具を作れるから?複雑な言語を操れるから?その複雑な言語で嘘、欺瞞、自分勝手をゴリ押し出来るから?仲間同士殺し合いを頻繁にできるから?権力、暴力、財力による抑圧と支配の社会的仕組みを作れるから?ヒエラルキーを構築出来るから?哲学や宗教、芸術などの文化を構築出来るから?
我々は自身をホモサピエンスと名付けるほど自惚れている。
人間の言語で言う、賢い、知的なとはどういう意味なんだろう?
他の動物より優れている?
優れている部分とは例えばなんなのだろうか?
芸術を愛したり、数学を理解出来るから?
コンピューターを作れるから?
それは本当に知的なことなんだろうか?

 この前のブログに書いたが、我々大衆を含む低クロマニヨン人は自分勝手な哺乳類チンパンジーにすぎないのではないだろうか?植民地支配は残酷な強盗だし、カトリックがプロテスタントの首を刎ねることは無慈悲だ。ISを非難など出来ないほどにヨーロッパのキリスト教は腐敗、堕落、暴力の限りを尽くしてきた。

 人類学や動物学は人類を最上位に置くが、それはつい最近チンパンジーから分岐した動物だということだけで、偉くもないし、賢くもないんじゃないだろうか?進化における後発組にすぎない。賢い動物が、仲間を殺したり、仲間から搾取したりするだろうか?現今の我々ヒトは明らかにサピエンス的ではない。どちらかというと、道具ばかり作る残酷で滑稽、無能な生命体だ。
進化の系統樹を縦にすれば、なるほど人類は最上位かもしれないが、横にすれば単なる後発組にすぎない。世界地図を南北逆にして見ると世界が少し違ったように見えるが、それと同じだ。

進化論や人類学や文化関係の本を読むと、ヒトを生命体の最上位に位置づけるところから始まるが、そういう自分勝手なわがままなこ子どもみたいな論拠はやめるべきだ。最上位ではなく、単に一番遅く出現した種にすぎない。
何をもって最上位とするのか?
言語が複雑だと偉いのだろうか?例えば我々が作る都市とは、全ての動植物を無慈悲に殺し尽くして構築するのが通例だ。都市はヒト意外の生命体を認めない。
環境を破壊し、ヒト同士殺し合ったり、仲間から搾取する存在は優れた生物なのだろうか?
道具を果てしなく作り続けるホモ・ハビリスだが、優れた生物のすることなのだろうか?
環境を破壊し続けるのは優れた生物のすることなのだろうか?

偉くもなければ、最上位でもない。もちろん優れた生物でもない。
残念だが、暴力的でバカな生物だ。
 
 政府と役人とマスコミがタバコを吸うのはとてもダメというキャンペーンを始めたが、お酒と車は問題無しみたいだ。
タバコの弊害についてはかなり喧伝されているが、禁酒法が施行された当時のアメリカのように、もし政府がお酒を禁止する風潮になったら、タバコ以上にすごいキャンペーンになるだろう。実際に~胃腸に悪い、精神疾患につながる、アルコール依存症、酒酔い運転による悲劇、酒による暴力と悲劇~とにかくお酒の功罪については圧倒的に功より罪が多い。タバコの場合、タバコを吸って殺人を犯すこともないし、お酒のように酒乱になって家族に暴力を加えることもない。精神疾患を患うこともない。
我が国のマスコミは政府の尻馬に乗ることが好きな嘘寒く気味悪い連中だから、お酒が禁止傾向になったら、手の平を返したようにお酒を非難するものと思う。
お酒がどれだけ悪いものかという大キャンペーンをはじめるはずだ。きっとすごいと思う。それはタバコの比ではないだろう。
 
 ぼくも車を運転するけど、車の運転を恥じなくては、と常々思う。今は必要な時だけレンタカーを借りたりしているが、つくづく自分は自分勝手な考えを持つ低脳なクロマニヨン人だと思う。
車一台生産するのにどれだけの環境を破壊するのだろう?生産に伴う破壊、排気ガスによる破壊と温暖化、
タバコを何万本吸っても、車一台分の環境破壊にはならない。
締め切った部屋に車を置いてエンジンをかけると汚染物質が大量に排出され30分でヒトは死ぬ。
同様に締め切った部屋でタバコを何本吸うと人は死ぬだろうか?
道を歩きながらタバコを吸う人を人は咎めるが、車を運転する人は咎められない。きちんとした世界観を持つ賢い人間なら、咎めるべきは車を運転する人の方だ。車を生産するだけで膨大な環境破壊には繋がるが、廃棄もこれまた大変なことだ。車は空きカン何個分の鉄でできているのだろう?プラスチックは?最近は大きな電池も搭載しているからその電池の捨て場所にも苦労するはずだ。

さて、人間は酒もタバコもやめて、車も乗らずに生きるべきなのだろうか?
人類自身と環境に優しい文化など、我々暴力、財力、権力が好きな低脳なクロマニヨン人には無理なのだろうか?


地球人が火星に住む~
火星人から見たら、地球に住む哺乳類ヒト科は恐ろしく自分勝手で侵略的な生物に映るだろう。何しろ自分たちが火星へ行くのを当然だと考え、あたかも火星を自分のもののように考える。
火星は明らかに哺乳類ヒト科のものではない。また、当たり前だがこの宇宙空間に存在するヒトが住めそうな惑星もヒトのものではない。自らの地球環境を破壊するだけでは飽き足らず、他の生命体が住む惑星もいずれは破壊しに行くのだろう。
これは宇宙的にどうなんだろうか?
人類の日常茶飯事である侵略、破壊、収奪、暴力は、宇宙の生命体共通の心理なのだろうか?

 他の星の生命体が地球に住みたい、と言って、大挙して押し寄せて来たらどうしたらいいだろう?
我々は彼らを拒否して追い出すか殺すかするだろう。
地球を奪い、人類を押しやる~そういう侵略者を殺すことは善だ。だが、我々が他の星に侵略してそこの住民を殺すのも善だ?~ということである。
いずれにせよ、自分のやることは全て善だと考える低脳なクロマニヨン人だということだろう。

低クロマニヨン人が構築した現代文明批判

600 コモンチンパンジーからボノボチンパンジーが分岐したように、現在の人類に対してもDNA進化の壮大な試みが行われている。
 その魁となるヒントは、完新世というつい最近の縄文時代にある。

 多彩な文化、多彩なハプログループが近接すると、複雑系でいう自己組織化が起きて組織は良し悪しは別としてもっとも安定的な形態に落ち着くようになる。

 ヒトは魚であった頃のヒレが手足となり、陸上での二足歩行へとつながった。視覚器官はもっとも効率よく情報をつかめる頭部に位置し、手は道具を作るような繊細な動きが出来るように発達し、ヒトという種としての形態が安定してきた。
また、DNAの配列を変える何万年、何十万年の時を必要とする進化よりも、安定化のために微生物を腸内に取り入れ、ホルモンや代謝関係のために、それらを積極的に保持するようになってもきた。最先端の医学は精神疾患でさえ、その根拠を小腸に求めるほどである。例えばセロトニンは主に小腸の微生物によって作られ、腸膜のすき間から血管に送られて脳に至る過程が明らかになっている。セロトニン欠乏による精神疾患治療は直接セロトニンを投与するよりも腸内のセロトニン生産を司る微生物を増やすことによって軽減されるとの研究まであるほどだ。
しかし残念ながら、腸内微生物は他の微生物やウィルス同様ヒトの感染の対象になるから、それらの危険な微生物を生物兵器として研究している反人間的な黒い自滅的な人々も存在する。欧米風に言えば、反キリストの醜悪なルシファーとなる。
 だが、DNA進化は突然変異を起因とした恒常的な変化だ。それは固有の種を構築するので、今の所、遺伝子組み換え技術による浅ましく黒い生物兵器研究者も手が出せないだろう。進化は数万年かかるが、遺伝子組み換えは数万年を必要としない。
遺伝子組み換えは進化、退化などの進歩主義進化とも考えられるが、おそらく違うだろう。進化とは環境適応のために結果的に数万年を必要とするもので、フラスコやシャーレの中で一時的に為されるものとは根本的に違う。遺伝子組み換えは変化にすぎず、進化論の中で議論する範疇のものではない。ただの変化である。進化は数万年かかるがゆえに進化なのである。遺伝子組み換えされた生物の数万年先のことなど誰も知るわけがない。


 この列島では縄文時代に異種のハプログルーブ間の混交、文化の融合という凄まじい自己組織化が働いた。その結果、人類史上未曾有な平和的社会組織が成立したのだろう。
 我々人類の前方には低クロマニヨン人の権力構造が行き着くところの破綻ではなく、崎谷、大場先生が見た縄文時代のようにヒトの美しい文化が見えている。
我々人類の未来は明るい!
権力、暴力、財力という悪魔と手を組んだ低クロマニヨン人が威張り腐る醜い閉塞的な文化はいずれなくなるだろう。現代までの文化はとてもじゃないがホモ・サピエンス(知性的な、賢いヒト)のものとは言えない。ボノボやコモンチンパンジーと共に位置する第三のチンパンジーの、浅ましくみっともない文化にしか見えない。我々は第三のチンパンジーである。

しかし、世界の人々には多様性を残しながらも自己組織化が働いている。真のホモ・サピエンス(賢い人)の文化の構築は今、まさに動き出しているはずだ!

どういことかと言うと~。
崎谷満先生は「DNAでたどる日本人10万年の旅・昭和堂」で縄文人を優しいがゆえに弱者、敗者となり、長江や東北アジアのホームランドを追われてこの列島にたどり着いた人々と解釈しているが、これは大場磐雄先生の縄文時代は暴力、権力とは無縁の明るく楽しい文化があったであろうという叙述に符合する。崎谷先生は最先端の分子生物学者で、故大場磐雄先生は拙著「イエス・ノー・リーラー」でふれた第二次大戦後の食うや食わずの時代に黙々と嬉々として縄文時代の遺跡を発掘していた考古学者だ。このお二人に時代的学問的に接点はないが、この列島にあった愛すべき平和な縄文時代人を美しい人々であったと結論している。

 縄文時代の文化は殺人、暴力を行使しないタイプの人々が構築した高度なものであるという認識である。
暴力的なコモンチンパンジーから温和なボノボチンパンジーへ進化分岐した事実から、殺人、暴力を行使しないタイプの文化を持つ人びとが低クロマニヨン人から進化分岐して高度なクロマニヨン人である縄文時代人となったという認識だと思う。
 その後もし弥生人タイプの人びとに攻撃、駆逐、同化されずに数万年経たならば、コモンチンパンジーから枝分かれしたボノボチンパンジーのように、現生人類とは違う種に進化した可能性があったと思う。しかし残念ながら、DNAを書き換えて現代のヒトと違う種を確立するにはあと数万年足りなかった。
現代人がネアンデルタール人の系譜にあるように、この列島に生きる我々の身体と頭、心、無意識の中には脈々と縄文時代人の血が流れており、高度なクロマニヨン人として進化する因子が残されているはずだ。殺人、暴力、権力が蔓延してきたこの列島以外の世界から見ると、まことに稀有なことと思うが、新しい文化思想はこの列島から生み出されるだろう。
ボノボが絶滅の危機に瀕しているが、縄文時代人の高度なクロマニヨン人への進化の道も、昨今の卑しい文化が絶滅の危機に追い込み、このまま低クロマニヨン人の文明の中でヒトは近い将来絶滅するかもしれないが、もしそうであったとしてもそれはそれで仕方がない。この宇宙も根源粒子も存在物のゆえ、いずれなくなり無に帰すのだから、仕方がない。生命にはアポトーシスという死をもって生を促す法則もある。
しかしこの列島に暮らす我々には、進化した縄文時代人の血が流れていることからいずれは高度なクロマニヨン人となることは可能だと信じたい。~信じたい、という文学的曖昧な表現で恐縮だが、昨今は欧米、中東、中華思想などの殺人、暴力、嘘、排他性、欺瞞の中にある文化に積極的に飲み込まれる日本人も多いので信じたい、という表現になった。だが少数ではあるが、この列島には意識的、、無意識的を問わず縄文時代の文化を支持する人々が存在する。いずれにせよ、即物的な現代文化に嫌気がさしている人々は多い。

 
 低クロマニヨン人が権力を握る今日だが、ボノボのように平和的非暴力の自己組織化が働いて徹底的に平和的に進化した高度なクロマニヨン人の文化はすぐそこまで来ていると思う。
例えは変だが・・・世界で使われている何百兆円という軍事費を平和目的で使えば如何なる戦争も解決できるはずだ。
一億五千万円のトマホークをとめどもなく発射させるよりは、連続して百万円の札束をばらまけば平和は構築されるだろう。(笑)単純計算だが、トマホーク100基だと150億円だから・・・百万円を15000人に届けることができる。現代戦争は数兆円かかるから、その全額を戦争回避に使えばどうだろうか。とにかく戦争は政治家の臭いイデオロギーを満足させることと、その政治家を骨抜きにしている軍需産業の利益が増えることだけの悲惨でつまらない低クロマニヨン人のみすぼらしいコモンチンパンジー的活動だ。戦争に勝った国民が幸福になったなどということは聞いたことがないし、戦争は国が勝っても我々一般に、その恩恵はない。死者と負傷者、耐え切れないトラウマが残るだけだ。
また平和の祭典という東京オリンピックなどの費用三兆円を使えば、どんな戦争も終わるだろうし、貧困もなくなり最貧国もコカインの製造などしなくなるだろう。オリンピックは政治家の見栄と蓄財、土建屋の利益のためにある。オリンピックをやると世界がどのように平和になるのかその仕組みがどうも理解できないのはぼくだけだろうか?それよりもその三兆円を難民対策にあてた方がよほど平和の祭典に相応しいと思う。とにかく現代文化は訳の分からない少数者の利益だけのためにあるようだ。烏合の衆と化した我々大衆は政治家と役人とマスコミの言うことを疑わずに・・・はいはい~。これがホモサピエンスの構築した文化なのだろうか?

 さて、あてずっぽうの単純計算だが~
全世界の年間軍事費300~500兆円とは~世界60億人の一人ひとりに約10万円ずつという計算になる。
この世界の政治、経済とは一体なんのための、誰のためのものだろうか?
このようにバカらしく滑稽で、悲惨でいい加減~低クロマニヨン人が構築した現代文明とはこのようなものだ。

縄文時代の物流は驚きだ!(3) 

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    長野県産の黒曜石製の矢じりは、前期から中期になると、三内丸山だけでなくかなり広範囲の分布になる。100㎞以上離れた関東から青森県を越えて北海道の縄文時代遺跡でも見つかる。
徒歩と丸木舟だけの運搬手段や一方的な方向性を考えると、利益や利便性を伴う意味のある用語の「交易」という用語にあてはまるとは思えない。「交易」という用語ではくくれない動機を感じさせる。
それは何か?遠くまでこれを運ぶ動機は?
前回考察した理由~暴力がタブーになっていたこと、土器製作者が主に女であったこと、土偶の全てが女を象ったもの、巨大な墓が存在しないことなどと関係があるのではないだろうか?
強力な権力者が存在したならば、その墓は巨大化したはずだが、どこの縄文時代遺跡でも、大きな墓といっても一般の墓と比べてせいぜい2倍から3倍の大きさに過ぎない。副葬品についても、ヒスイや宝貝や腕輪などが出るが、ステレオタイプの学者やマスコミが好んで使うような「統率する首長」みたいな用語によって扱うのはどうかと思う。縄文時代の副葬品に関しては、古墳の彩色壁画や銅鏡のような目を見張るような豪華な~ということもない。またストーンサークルの内側にある数少ない墓も巨大ではない。ましてやストーン・サークルが一人のための墓などいうことは縄文時代遺跡には皆無である。
 さらに「性的な祭式」が行われていた可能性があること(「縄文のメドゥーサ」土器図像と神話文脈・田中基 著・現代書館)~などについても考察する必要があるだろう。

 便利な道具の交換でもない、食料などとの交換も遠方すぎるために理にかなわない。しかも発掘事例だけからだと産地、製作地から他地域へ~という一方通行だ。
このことについては貝塚に大量に捨てられた貝も、製塩土器についても同様に不思議だ。
当時の小さなバンド(小さな集団)が必要とする量をはるかに凌ぐ大量の塩作りや、当地の縄文人だけでは食べきれないほどの煮貝、乾貝や燻製貝の生産の理由は?その動機は?

 縄文時代の物流の動機は一体なんだったのだろう。
考古学や形質人類学、文化人類学、民俗学は近現代と余りにも様相が異なる縄文時代の物流を近現代の用語で説明しようとする。文字資料のない遠い祖先のことで、誰しも多くを語れないが、分析、類推、推測、研究の必要があると思う。しなければならないと思う。何しろ世界に類例のない平和思想だ。奇妙な団体の薄気味悪いおしゃべりは論外であるが、縄文時代の物流を考えることによって、品の無い浅ましい現代文明にカンフル剤のような画期的な平和思想をもたらすことが出来るかもしれない。
その時、我々は低クロマニヨン人から高度なクロマニヨン人へと変貌を遂げられるだろう。
とにかく暴力、権力、快楽、優越感、マネーの尻だけを追い、人々と環境を虐げる低クロマニヨン人の権力者のもとでは、我々人類は高度なクロマニヨン人になる前に絶滅してしまう。

 しかし、絶滅したとしても、それはそれで仕方が無い。遠く人類の祖先のアウストラロピテクス・アファレンシス系の猿人も、最近のネアンデルタール人も皆滅んだ。我々クロマニヨン人もその後を追うだけにすぎない。それが自然なのかもしれないが、少なくとも現代から数千、数万年後には少しはマシなクロマニヨン人になれるかもしれない、という密かな希望を抱きたい。
高度なクロマニヨン人になれば、つまりお釈迦様、イエス様のような高度なクロマニヨン人、つまりホモ・サピエンス(賢い人類の意)に近づくことが出来るかもしれない。
でも近所の大きなキリスト教会の駐車場には高級外車が何台も止まっているし、大きな寺の住職はどういうわけかジャガーが好きみたいだ。
聖書に登場する人びとは漁師、大工、売春婦、取税人など権力者から虐げられている人々が多いが、現代はイエス様が嫌う思い上がった品の無い階層の人々の方が教会から好意を持たれるようだ。仏教寺院も大口の献金をしてくれる低クロマニヨン人が大好きだ。


低クロマニヨン人から高度なクロマニヨン人への道は、まず宗教を考えることから始めるべきかもしれない。


縄文時代の物流は驚きだ!(2)

青森三内丸山遺跡など 082 黒曜石にかぎらず、縄文時代の物流概念は欧米での歴史定義や、またわが国でもその受け売り的論調や近現代で使われる用語には収まらない異質なものだと思う。そもそも縄文時代の専門家たちの間でも解釈は定まっていない。
近現代の考え方や、これまでの歴史学や宗教学、また欧米の思潮である構造主義やマルクス主義の史的唯物論などを縄文時代に無理にあてはめた勘違いや間違いに危険性を感じることもある。
幅広く歴史関係の本を読み漁ると・・・構造主義ならまだしも、カント的だのヘーゲル弁証法的解釈だなどと失笑を誘う論調に出くわすこともある。低脳で無慈悲な独裁者に頭の中を押さえつけられるのを好むマゾ的空想的共産主義者の趣向を持つ者でなければ、食わせ物の「史的唯物論」など見向きもしないはずだ。大体、マルクス・エンゲルスがアフリカやアジアに行ったり、世界の歴史文献に眼を通したり、泥や土ぼこりで真っ黒になって発掘作業をして闘争の痕跡を丹念に考証しただろうか。
 マルクス・エンゲルス著「共産党宣言」第一章ブルジョワとプロレタリアの冒頭に「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」(大内兵衛・向坂逸郎訳・岩波文庫)とあるが、全編を通して読んでもこれは科学的社会学や哲学ではなく、文学と言ったほうがよい。マルクスのこの冒頭の歴史的見解は近現代だけのことに着目しているのだろうが、16世紀のカトリックとプロテスタントの間の陰惨な・・・カトリック軍が片っ端から女、子どもかまわずプロテスタントの首を刎ねて回ったユグノー戦争・・・これも支配者と被支配者という構図の階級闘争ということになるが、どうだろう・・・占い師の言葉のように、そう言われてみればそうなのかな?と思わせる、なんとなく当てはまる程度だ。この冒頭の歴史観は社会科学ではなく文学である。これは確かに名著だが「共産党宣言」の概念は政治思想というよりは文学である。共産主義は独裁者を容認する。その独裁者は国民を虐げたり、殺したりする。自由を標榜する資本主義的自由主義も権力者が国民を虐げ、マスコミ操作や御用学者を利用するなどして神と自然を冒涜することを隠すが、共産主義ほどひどくない。
「共産党宣言」は社会科学や政治学、思想ではなく文学的名著だ。

 浅学を省みず、大思想家の史的唯物論を非難したが、アフリカや欧米の他の歴史学論理で縄文時代を語るのには相応しくないと思う所以である。10000年間殺人、戦争がほとんど見られない縄文時代は世界史に類例を見ないものである。

 
 さて縄文時代の物流について戻ろう。
円筒下層a式土器時代は今から約7000年前の縄文時代前期前半だが、その頃に蛇紋岩による石斧の受注生産をしていた可能性があるらしい。青森県近辺の縄文土器の専門研究家がその発掘事例から推測している。しかもこの研究会に出席している専門家たちもこれといって異議を唱えていない。
少し長くなるが、下記の引用は~北の縄文「円筒式土器文化の世界」北の縄文研究会の報告書172頁から、青森県教育庁の斉藤岳先生の発表である。

『斉藤   ~中略~さて交易品としては、私は最近、北海道から東北地方に磨製石斧がたくさん入って来ていると考えています。・・・同じく円筒下層a式の函館空港第4地点では擦切具が一つの竪穴建物跡から39点も出たりと擦切技法で磨製石斧を多数作っています。函館空港の遺跡では早期の中野A・B遺跡の時にも蛇紋岩と言われている石材の磨製石斧を多数作っていますが、そういう石材は少なくとも青森にはないので、青森の人の顔が見える函館の人は、青森の人の好みに応じて磨製石斧を作る歴史があったと思っています。
173頁~
~中略~それから磨製石斧では北海道深川市の納内3遺跡というところで莫大な量の石斧の未製品や失敗作が出ています。納内3遺跡では、製品が1159点、未製品が5723点出ています。周辺には他にも磨製石斧を製作した遺跡があるんです。』


 三内丸山の磨製石斧が北海道産の北海道製作であることから、石斧は山や川を越え、津軽海峡を越えて来た。7000年前に定期的、安定的に津軽海峡を行き来してことに間違いはない。
縄文時代、北海道深川市の人は三内丸山の人々についてよく知っていた。そういうことだ。
長野県産の黒曜石については、同様な事例の確証はないが、あるいは深川市の人と三内丸山の人とのような関係があったかもしれない。何しろ、三内丸山遺跡の黒曜石の矢じりの30パーセントが長野県霧が峰、和田峠産のもで、しかもほとんど全部が完成品なのである。三内丸山の人が深川市や長野県霧が峰、和田峠まで原石を採りに行って、三内丸山で加工した形跡はほとんどない。三内丸山発掘の原石の黒曜石は1パーセントにも満たない。用途から考えれば、矢じりは必ずしも美しいガラス質の黒曜石である必要はないし、石斧も磨くと美しい模様が出る蛇紋岩である必要もない。

その理由だが・・・。
土偶の全てが女性を象ったものであること、土器製作が女性に委ねられていたであろうこと、暴力、殺人、戦争がなかったことなどを加味して考えねばならないと思う。しかしだからと言って、男が女に頭を抑えつけられていたわけでもない。石棒は明らかにファリシズムだし、大型住居や三内丸山の六本柱の建設は男だっただろう。また夥しい数の石を使用するストーンサークルも男たちの仕事だっただろう。
何しろこの列島の縄文時代は世界に類例を見ない貴重で不思議な平和文化だったのだ。

縄文時代の物流について、これからもこのブログで深く考えていくつもりだ。


Jahna 禅、瞑想、meditation

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Jahna 禅、瞑想、meditation
これらは全部意味が違う。
インドのパーリ語、中国語、英語、日本語の違いだけでなく、意味はかなり違う。いろいろ渉猟していると似ているだけで中身は相当に違うと感じる。禅は禅那というパーリ語からの音訳語もあるが現在は禅という中国語が主流である。
中国では無門関や十牛図に代表される意味合いが強い。しかし、達磨の面壁九年を描いた絵は悲しいかな、みっともないものだ。面壁九年という凄まじい苦行をしたはずなのに肥満している。苦行しているのに肥満?そういえば布袋も肥満体である。20世紀以前に世界で肥満を維持できたのは上流階級だけであり、庶民は常に飢えに襲われ続け、痩せ衰えていた。だから東西の美女はみな一様に肥満体だ。痩せた肢体が美女になったのは人類史からみるとほんのつい最近のこと。
達磨は肥満体である。
釈尊の苦行五年後を描いたガンダーラ仏が肋骨が浮き出るほど痩せ衰えているのとは対照的である。
中国禅は、釈尊の透徹した超人的Jahnaとは全く趣きの違う日本の奈良仏教のような 中国上流文化の思潮と言えるかもしれない。(聖武天皇が東大寺に奴隷を寄進して安寧を祈ったことは以前このブログに書いた。)http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/6629202.html
禅に関する本を読んでいるとその煩瑣・難解に苦しむがそれは形而上学的な絵空事のように思う。禅僧で本当に悟った人など古今存在したのかな?それに禅僧は組織仏教の中で「おれは偉い」と顔に書いてあるような人が多い。
結跏趺坐して押し黙って座っているとなぜ悟りがやってくるのか?ここには申し訳ないので個人名は控えるが、米国に行って禅思想を説いた人とか、ある寺の偉い坊さんとか・・・彼らは悟ったのだろうか?有名になって思い上がったりしてないだろうか?
釈尊滅後500年以上経った頃の大乗仏教と呼ばれるジャンルの思想家や哲学者、作家は釈尊の継承者なのだろうか?どんなに大きな船でも、誰も乗船できないのでは意味がない。
意訳、誤訳満載の漢訳仏典は釈尊を正しく伝えているものだろうか?例えば大乗仏典の「如是我聞」とは何なのか?釈尊が入滅して数百年後に「我かくのごとき聞けり・・・」と書いた人は釈尊からどうやって聞いたのだろうか?新興宗教のボスたちのように霊的に聞いたのだろうか、それともタイムとラベルでもしたのだろうか?まさか空耳や思い込みではあるまいが・・・「如是我聞」とは不思議な話だ。

http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/7821813.html
我々凡人がそのあたりの寺へ行って、お金を払って観光みたいな禅をしたり、禅の難解な本を呼んでも何も得られないことは確かだ。

ではJahnaとは何か?・・・。古代におられた釈尊の真意を汲み取ろうとする信頼できる学者の本を読み、そしてこどものような心で思索し自分なりに世界と自分を解釈することかもしれない。
「法(dharma)によれ・・・」・・・。

縄文時代の物流は驚きだ!(1)

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 縄文時代の物流は驚きだ!
例えば三内丸山遺跡出土の黒曜石製の鏃の30パーセントが長野県霧ヶ峰、和田峠産出の黒曜石である。その多くは完成品としてもたらされている。黒曜石原石の発掘例は1パーセントにも満たない。人が黒曜石を求めて、三内丸山から和田峠へ行ったのか、和田峠の人が黒曜石を携えて三内丸山へ行ったのか、または双方に往き来があったのか。
縄文時代中期の長野県の加曽利式や勝坂式土器が三内丸山で発掘されたなら、通婚を含めた集団移動も考えられるが、それはないようだ。
 「交易」とは利益、利便性の概念を伴う用語だが、縄文時代の物流に関してこの用語の使用は正しいだろうか?こうした物流を「贈与」という概念で捉える研究者がいるが、こちらの用語の方が当時の物流の動機に近いように感じる。長野県産の黒曜石で製作した矢じりがざくざく発掘されているが、まさか三内丸山の縄文人が黒曜石を「交易」で得るために途中一旦新潟に寄ってヒスイを手に入れ、それを黒曜石と交換する、そんな北前船のような利鞘を稼ぐことをやっていたわけでもあるまい。

  黒曜石産地の霧ヶ峰や和田峠の縄文時代当時の黒曜石産地へ行ってみると、地表に小さな粒くらいの黒曜石がきらきらしている。和田峠では傾斜地のがけ崩れ跡でこぶし大の黒曜石を拾えるほどだ。
黒曜石鉱脈の範囲はそんなに長く大きいわけでもないから露天掘りでは大変だっただろうと思う。霧が峰の黒曜石発掘遺跡は浅く大きな丸い穴がいくつもあった。
黒曜石は矢じりやナイフをつくるには最適の素材だし、黒いガラス質の石だからとてもきれいだ。石器の材料には頁岩、サヌカイト、チャートなど他にもたくさんあるが、縄文人が黒曜石に夢中になるのは当然だと思う。しかも黒曜石産地は限られているために、産地から離れている地において、黒曜石は非常に価値の高いものだった。

 縄文時代の村には柵も塀も濠もなかった・・・殺人もなかった・・・対人殺戮用兵器も出土していない・・・世界に類例を見ない高度な平和的文化・社会を構築していた可能性がある。そもそも縄文文化・社会は世界の他地域には類例がない。だから、この列島の縄文時代の遠距離における物流の解釈は他文化と同様の概念と違うと考えることができると思う。
「交易」「交換」「沈黙交易」などさまざまな議論があるが、もしかすると我々現代人には想像もつかない物流概念があった可能性がある。
では一体それは何か?
拙著「イエス・ノー・リーラー」*でふれたリーラー的概念に近いものだったのではないだろうか?

*「イエス・ノー・リーラー」については加筆して年内にkibdle にアップする予定があります。

諦めよう!

454諦めよう!(1)

 
 自分を支配者だと思い上がっている醜い輩はたくさんいるが、彼らは勝手にそう思っているだけだ。政治経済を動かせるから、支配者層?
人々の生殺与奪を握っているから支配者層?

 人類は、道具をたくさん作る毛の生えていないサルである。石器からコンピュータ〜全て道具。我々が持つ道具は彼らから見ればおそろしく原始的なものだ。火星まででさえ早くて数ヶ月。太陽から最も近い恒星のアルファ・ケンタウリに現在最速技術のロケットで行こうとしても7万年かかる。光速から比べれば亀より遅い。
ネアンデルタール人と同時期に存在した我々クロマニヨン人は約20万年にアフリカに出現した。7万年と言えば、我々クロマニヨンがアフリカを出た頃だ。7万年という時間は我々の祖先の出アフリカから現代までの時間である。宇宙旅行は光年単位の旅だから話にもならない。それほどに現代のロケット技術は原始的だ。
遺伝子レベルでも類人猿と1.6パーセントしか変わらない。我々の社会・文化もイヌ同士、サル同士のように、クロマニヨン同士でいがみ合う構造だ。

現代人の文化、文明を卑下するわけではないが、もし人類があと数万年続いたとしたら、どのような科学技術を有しているだろうか?と考えてみると面白い。妙な言い回しになるが、例えば現代人はI.Q100が平均的だが、I.Qが数百、数千レベルになるとどうだろう?そうした知的な我々クロマニヨンが作る文化、社会はどのようなものだろう?

 高度な存在が所有するものは暴力的、経済的、政治的、貨幣的権力やものや道具を超えたところにある。

我々大衆同様、思い上がって支配者だと勘違いしている毛の生えていないサルは大衆を殺したり、騙したり、搾取したり、病気にしたりしているが、それはそれでいい。低レベルのクロマニヨンだから致し方ない。殺され、搾取され騙される大衆の自業自得である。諦めよう。
 もうしばらく待つしかないだろう。
1,000年?10,000年?
いやもう少しかかるだろう。だからそれまでは騙され、殺され、拷問され、搾取されても大衆は文句も言えない。
我々も支配者同様、類人猿ヒト科でモノと道具を作っているだけだ。思想、哲学〜ヒト科の独りよがりのものに過ぎない。社会構造はアリやハチ、チンパンジーとそんなに変わらない。少し複雑なだけである。
 
 釈尊の出身地インド、ネパールでは、児童婚や差別があり、強姦事件など当たり前の地である。
イエスの出身地ではイスラエルとパレスチナなど周辺国と果てしない殺し合いが続いている。マホメットの出身地では首狩り族のような残虐なISISが跳梁跋扈している。
人類の誕生地アフリカでは民族紛争が後を絶たない。
水は高い所から低い所へ流れるが、貨幣は低い所から高い所へ流れる仕組みになっており、人類の資産は、品のない無慈悲な5パーセントのサル山のボスたちが抱え込んでしまって、貧しい人々を苦しめている。

 革命だ!改革だ!
そういう輩も権力を握ると豹変する。人類はしばらくは強欲、自分勝手、自画自賛の低レベルの輩にいいようにされるだけだと思う。

宗教は嘘、欺瞞の手練手管で大衆から集金するだけの組織と化し、政治家の資質はそもそもやくざと同質だ。加減乗除だけの多い少ないだけで判断する頭の弱い経営者、自分と同一種の人類を殺す練習を欠かさない軍隊〜〜、

我々はもうしばらくそういう世界に閉じ込められ続けるだろうが、数万年か数十万年の未来には少しは知性が伴った世界が構築できるかもしれない。でも100年、1000年ではとてもじゃないけど無理!
みなさん諦めよう!


諦めよう!(2) 「会社」で楽しく働こう!


 みんなで集まって祈ろう!みんなで集まって闘おう!

こんなこといくらやったって、類人猿との遺伝子が1.6パーセント違うだけの人類の我々が高度になれるわけがない。現在は低レベルクロマニヨンだ。高レベルクロマニヨンに進化するまで10万年以上かかる。
組織宗教はどうしようもなく腐敗堕落しているし、政治家や煽動家もおいしいことを言うのは権力を握るまでの方便だ。大衆から集金したお金を私利私欲、いい加減に湯水のように使うだけ。
 
 レーニンが国商のシフから莫大なお金を借り社会主義国を作ったが、あの国の人々は幸せだろうか?・・・・お金がかかったり、人々がたくさん死んだり、病気になったり、拷問されたりする革命や改革よりも、そんなことを考えたりしないで良い会社に勤めて楽しい人生を送る方がずっと素晴らしい人生かもしれない。

 革命・改革なんて考えずに・・・殺人・破壊の道具を作る軍需産業や政治家とズブズブ関係の会社や国家の税金の無駄遣いをする人類と環境を貶める会社は否定するが、社会と環境に貢献して、人にその日その日の食事や安らぎを与えてくれるいわゆる「会社」について考えてみよう。人は働いてその日の糧を得る。だから「会社」という組織が上手く機能すれば、もしかすると少しは楽しい社会の構築が出来るのではないか。ただし、サンジカリズムや社会主義、また、ヨーロッパ哲学者のシモーヌベイユの思想に感動しているわけでもない。それらとは少し離れた意味で「会社」という形態を考えてみよう、ということだ。
この列島の中世は寺社が積極的に経済活動を行なっていたことから、明治期にcompany の訳語に寺社や神社の社を使った。会と社と分けてみると明治時代になぜこの訳語にしたかよく理解出来る。

ここからは飛躍するもしれないが〜
縄文時代の人々は日々の糧を社会によって得ていた。組織という用語ではなく、みんなで〜みたいな感じだったと思う。もし、権力者がいて組織化されていたら権力者の墓は巨大化していったはずだが、弥生時代以降と比べると、大きいといっても一般の墓と比べてそう大差はない。組織の長とか階層化された組織のボスのそれではなく、慎ましやかに少し大きい墓はみんなの尊敬を集めていた人〜〜例えば尊敬すべき人格、シャーマン、勇敢な人の墓であったと思う。
最近の考古学者は縄文時代の家や墓の大小について、また副葬品の有無などを発掘すると直ぐに短絡して「階層化」とか「統率する首長」とか言いだすが、それは的外れだと思う。ボスや有名学者のいる考古学界のサラリーマン的悲哀からの妄想に過ぎない。
何しろ縄文時代の遺跡には柵も塀も濠もない。弥生時代のような倭国大乱みたいなことがあったなら別だが、縄文時代の戦争遺跡は皆無だ。殺人と思われる人骨もない。戦争を意識していたなら集落の周りには必ず防御策を施すか、闘いやすいような高地性集落となる。

 縄文時代の遺跡は不思議だ。三内丸山の円筒式土器部族の隣には大木式土器部族があったのだが、それぞれの部族の土器が入り混じって発掘されたりする。もちろん、円筒式部族が大木式を制圧して入り込んだというものではない。平和的な混在なのである。住むのはこっちでもあっちでもいい!物理的、精神的抑圧がなかったと推測される。素晴らしい自由だ!
そのような闘争、競争のない自由が10,000年間続いたのが縄文時代だ。
 「会社」の話に戻るが、例えば栗の木の植林、世話、収穫〜例えばこうしたことをみんなでしていたのだと思う。

 現代の場合、一般大衆は経営者であろうと労働者であろうと、課役負担民であり、それを使うのは国家と役人、という図式だが、縄文時代の場合は国家、役人と我々課役負担民に相当する区別はなかった。共に働き、共に食べたのだと思う。繰り返すが、社会主義国家も共産主義国家も資本主義国家も我々大衆は課役負担民であることから、縄文時代は共産主義のようなイデオロギーとは全く関係がない。共産主義者は平等だったかな?という太古の社会組織を「原始共産制」などという用語を使うが、やめてほしいものだ。太古の社会に独裁主義の共産主義者がいたわけがない。
フーリエやオーエン、マルクス、エンゲルス、レーニン、スターリン、毛沢東などの共産主義、社会主義というのは、単なる絵空事、独裁隠しに過ぎない。中東に発生したキリスト教のバイブルのパウロの手紙を読んでその女性蔑視に驚くように(下記に一部抜粋)、共産主義、社会主義のボスはこの国の共産党を含めて権力を握るとずっとボスの座に居座るのにも驚く。にもかかわらず、共産主義やキリスト教の信者たちは知ろうとしないのか、見ない振りをしているのか不可解だ。


 「会社」と「社会」〜なんだひっくり返しただけ。
その通り!健全であるかぎり、日々の糧を得ることは生物として可も不可もない。当然のことであり、喜びである。
ガゼルがライオンに狩られるのは暴力ではない。敢えて言えば、ガゼルにとってライオンに狩られるのは自然災害だろう。
暴力とはヒトという動物の同一種内で自分が利益を得るために行われる気味の悪い奇妙な悪魔的排他行為である。
自然界の食物連鎖における弱肉強食という概念とは全く違う。これを勘違いする頭の弱い社会学者や動物行動学者には閉口している。
さて、「会社」と「社会」だが、つまりcompany ではない社会的「会社」。
会はみんなで自主的に集ること。社はその様態を指すと考えれば「会社」はそれほど悪くない。個人的利益、法人利益なんて分けて醜く考えないで、日々の糧を得る社会活動としての日本語の「会社」が縄文時代にはあったのではないか、という見解である。ストーンサークルの中心から少しはずれた内側や少し大きめの土坑に葬られている人は、「実力者」とか「統率する首長」みたいな威張り腐った王様ではなかったと思う。会社にとって素晴らしいアイデアに閃いた人を尊敬して一般より少し大きな墓にした~そんな感じだと思う。
暴力的権力を持つ王や独裁者、権力者ならば縄文時代だってその墓はもっと巨大化していたはずだ。巨大な六本柱を立てられるほどの技術を持っていたのに巨大な墓がないのはそうしたことだ。

 でも、グローバル化された今日、そんな時代は人類にはもう訪れない。
やはり諦めよう!


ただし、ヒントはある。
それは死生観である。死生観は宗教だ幽霊だ、亡霊だ、神様だ、あの世だ、天国だ地獄だ、イエス様だ、お釈迦さまだ、などという宗教商売人の謳い文句ではなく、人類の基層に流れる死生観、宗教観のことである。このことに関してはこのブログでも再三触れているが、拙著「イエス、リーラー、リーラー2」で詳述してみたい。


(注)
「婦人は、静かに、全く従順に学ぶべきです。婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません。むしろ静かにしているべきです。なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが作られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました。しかし婦人は、信仰と愛と清さを保ち続け、貞淑であるならば、子と産むことによって救われます。」(新約聖書テモテへの手紙・二章11節)
「婦人たちは教会では黙っていなさい。婦人たちには語ることが許されていません。律法も言っているように、婦人たちは従う者でありなさい。・・・婦人にとって教会の中で発言するのは、恥ずべきことです。」(コリントの信徒への手紙1の14章~)

三内丸山で縄文時代を考える

8 031


このブログで縄文時代に戦争がなかったことを再三検証してきたが、これは世界に類例を見ない、世界に誇れる、人類にとって偉大なことである。拙著「イエス・ノー・リーラー」で詳述したが、縄文人の骨を尺骨骨折などの有無など詳細を極める人骨研究からも、当時は(一万年間!)暴力がタブーになっていた可能性が大きい。(タブーについては「縄文時代の死生観参照)
 三内丸山遺跡は5000年前の縄文中期頃、常時500人前後の人々が1000年以上暮らしていたと推定されているが、ここには柵も塀も濠もない。これは明らかに戦争、戦闘を意識していた構造ではない。例えば弥生時代の吉野ヶ里遺跡は環濠集落だし、他の弥生時代の高地性集落も侵入する敵の侵入を想定した構造になっている。
 新石器時代に入ってから近代までの世界の他地域では、これだけたくさんの人々が共に住んでいた場所は多く、塀や柵、濠を巡らせていた。この記事の前にフランスの発掘例を引用したように、そうした構造になくても暴力、戦争は日常であったようだ。
しかし、この列島の縄文集落跡を見ると、全て柵も塀も濠もない。平和な一万年が続いたことは疑いがない!これはコンラート・ローレンツの動物行動学やレヴィストロースなどのヨーロッパの構造主義では解明できない!考古学研究の丹羽先生の「埋甕集団の構成と婚姻システム」では縄文時代を家父長制度や女性の婚入、という趣旨の論文があるが、これは日本人のヨーロッパ的構造主義者の憶測にすぎない。ヨーロッパ構造主義に合致する竪穴式住居の構造とその発掘資料からの論議は牽強付会だ。例えば竪穴式住居の発掘から丹羽先生とは全く違う田中基先生のような論述もある。仏教研究の中村元先生が「カント的だの、弁証法的だのと仏教を論じること」を戒めておられるように、この列島の縄文時代は欧米の哲学、歴史学的手法で読み解くことは無理である。全く違う視点が必要だ!
そうでなければ10000年ものながきに渡って暴力・戦争のない人類史を構築した我が列島を理解することはできないだろう。また土偶は殆ど全てが女性だし、土器の作り手も女性であったと推測されている。アイヌ民族の住居観のように、縄文家屋は女性の身体を彷彿とさせる構造だし、炉の切り方など古事記の火の神を連想させる。対極の石棒については諏訪地方の神長官守屋氏に伝わる「御石神」(ミシャグチ)を連想させるものだ。縄文時代はこの列島を含む世界各地域の歴史時代のように女性を蔑む思想ではなかっただろう。
 柵も塀も濠もない平和な10000年を築いた世界史に類例を見ない未曾有のこの列島について我々日本人は大きな誇りを持つべきである。私は右思想でも左思想でもないが、そういう意味合いにおいてこの列島、この国を愛してやまない。
「愛国心」という言葉はこの国では、威張るのが好きな頭の弱い右よりの年寄りがよく使うが、私は違う意味から「愛国者」である。
 
 「全く違う視点が必要だ!」とは、余談になるが、人類にとって農耕が始まると伝染病や王権や宗教者からの収奪によって、平均寿命が農耕発生以前よりも短くなっていることを考えるのに人口学等の本だけでなく・・・例えば「あなたの体は9割が細菌・アランナ・コリン著・矢野真千子訳・河出書房新社」「第三のチンパンジー・ジャレド・ダイアモンド著、秋山勝訳・草思社」「人体・ダニエル・E・リーバーマン著・塩原通緒訳・早川書房」などの興味深い研究・統計を知ることである。)

縄文時代の死生観

8 030 縄文時代の死生観は現在と相当違うようだ。文字の無い、あるいは文字を必要としなかった時代だから考古学的資料だけに頼らざるを得ないが、その発掘資料を細かくみていると本当に驚かされる。
例えば埋甕だが、死亡した幼児あるいは産後の胎盤等を竪穴式住居の入り口下に埋めるものだが、死者を踏みつける行為だから現代人には違和感を覚える風習である。だが縄文時代の発掘資料をみると当時はかなり一般的だった。(山梨県、長野県の遺跡発掘図面などをご覧になった方も多いと思う。)
 また三内丸山遺跡の発掘図面を見ると集落を巡る太い道の両側にずらりと大人の墓が並んでいる。その土坑墓には多少の大小があるが、後代の古墳のように一般人の墓よりも特別巨大なものはない。
しかし、墓の大小や埋葬状態、副葬品から、他地域の民族例や自分のフィールドワークで出会った事例に似ているからと、「縄文時代にも階層があった」と短絡したり、魏志倭人伝の「生口」(奴隷、人家畜)の例をひいて「奴隷は縄文時代からあったのだ」などとのたまう高名な学者も多いが、それは間違いだろう。自薦、他薦の教授選考をなんとかかいくぐってきたサラリーマン学者の悲哀が連想されると言うものだ。
おそらく縄文時代は・・・現代はもちろんその後の歴史時代とも全く異質な思考が基になっていたと見るべきだと思う。(断っておくがここでは古事記神話に縄文時代の反映があったか、なかったか、などという論議ではない)
 
 各時代、各地域にはタブーという社会規制がある。タブーとはやろうと思えば簡単にできるが、実際にタブーを破ろうとしてもできない言動や行動を指す。例えばあなたが銀座や新宿を全裸で歩いてみればタブーについて簡単に納得できる。あなたを見る人は驚き、騒ぐ。そして国家権力まで介入してきて強力にそれを規制しようとする。あなたが全裸で銀座を歩いたからといって株が暴落したり、何人もの人が血を流して倒れるわけでもない。ああだこうだと・・・あなたの全裸を気にする人がいなければ何の問題も起きない。
公衆の面前で全裸になってはいけない・・・これがタブーである。
つまり縄文時代は亡骸を埋めた場所を踏みつける行為はタブーではなかった。現代はそれがタブーとなっている・・・そうした観点から縄文時代の死生観を考えてみたいと思う。


 さて、三内丸山遺跡の2007年3月青森県教育委員会・埋蔵文化財調査報告書№434集の150頁から165頁の報告書と図面、359頁の写真をよく見てみよう。
墓の大きさをABCDの4種に、断面形を5種に分けてその組み合わせをAⅡ、CⅤなどと分類して詳細な説明と発掘図面がある。
当時の三内丸山縄文人は墓の上に家を平気で建てていた。こうした例はこの三内丸山でも数多く報告されている。例えば大型土坑墓に関しては第49号、51号、61号・・・。
竪穴式住居の下に土坑墓が発見される・・・そういう事例である。埋甕と同様に死者を踏みつけている。

 日常頻繁に使う大通りの両脇にずらりと墓が並び、各家々の入り口には子供の亡骸が埋められ、その住居も墓の上に建てられている。それが三内丸山遺跡である。
近現代とは明らかに死生観が違う。
 
 その縄文時代は太古から戦争・暴力をタブーと考えられてきたように思う。約6000体ほど発見されている縄文人骨からは殺人がなかったと結論付けられている。他時代、他地域の考古学、民俗学からも類例を見ない平和社会であったように思う。その平和的温和な社会構築は、近現代とは全く異質な死生観にあったと考えたい。
中東のエリコでは9000年前の周囲を壁で巡らしたり、殺された人骨が発見されたり、遺跡にも戦争の形跡が歴然である。下記の最近の発掘記事のように人類の殆どは太古、古代から暴力的であった。
宗教祭祀者や王権は口では死者を敬うと唱えながら、弱者に対して殺人、強姦、暴力を振るってきた。
ところが死者を踏みつけるなど、縄文時代の人々は逆だった!
世界に類例を見ることのできない平和で非暴力の世界が縄文時代にあったとしたら、その根拠は死生観に求められるだろうと思う。
 ・・・こうしたことをリーラー研究所では考えていくつもりである。
下記のような考古学記事は世界で枚挙に暇が無い・・・そして現代も・・・!

6000年前の集団虐殺か、10人の人骨発掘 仏チーム
2016/06/08 14:01(パリ/フランス)
【6月8日 AFP】仏研究所の考古学者らは7日、フランス部のアルザス(Alsace)地方 で、6000年前に集団で虐殺されたとみられる人々の人骨を発見したことを明らかにした。虐殺は「勇猛な儀式主義の戦士たち」の手によって実行された可能性が高いという。
 仏国立予防考古学研究所のチームは記者団に対し、仏東部ストラスブール郊外にある、穀物や他の食物を保存するために使われていた古代の「サイロ」300個のうちの1つで、10人の人骨が発見されたと述べた。
 新石器時代のこれらの人々は、足、手、頭などに多数の傷を負い、無残な殺され方をしたことが見受けられる。
 死体が積み重ねられていたことは、彼らが集団で殺害された後、サイロに投げ込まれたことを示唆しているという。
 INRAPの新石器時代の専門家、フィリップ・ルフラン氏は「彼らは非常に残忍な方法で処刑されており、石おのとみられるもので激しく殴打されていた」と話す。
 見つかったのは、成人5人と若者1人の計6体の人骨。また別人のものである腕の骨も4本もあった。
 ルフラン氏によると、これらの腕は、2012年にドイツ・ベルクハイム近隣の墓地遺跡で発見された腕と同様に「戦利品」だった可能性が高いという。
 こうした腕の切断は「勇猛な儀式主義の戦士たち」の社会の存在を示すものだ。また、サイロが防御壁の内側に格納されていたことは、当時「物騒な時代、不安定な時期」だったことを示唆するとルフラン氏は指摘した。
 人骨の遺伝子検査により、虐殺に関するさらに詳細な情報が明らかになることが期待されるが、ルフラン氏によると、現在の仏パリ周辺の地域から来た新興グループと、地元グループとの間で激しい衝突が起きたとする説もあるという。
「パリ盆地地域から来た新興グループによる奇襲攻撃は、攻撃者側の失敗に終わり、当時のアルザス人のグループが彼らを虐殺した」(ルフラン氏)
 だが結局、最後に笑ったのは「パリ」から来た新興グループだったようだ。
 紀元前4200年頃に地元グループが新興グループに取って代わられたのは、葬儀、陶器、集落などの様式がその時期に一変したことで証明されている。(c)AFP

言語による事実・真実・叙述・無数の中心

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人は客観的事実を知ることができない

ここで扱う真実は「手に持っていたボールを離したらボールは地面に向かって落下した」という物理的、論理的なものではなく、事実に対する人間の心理上の真実について考えるものである。

あなたはある日、友人の家を訪れ、彼の書斎で話した。
この日常的なことについて思索をめぐらせてみることにしよう。
書斎のドアを入ると左手に書棚が並び、右手に窓があった。彼は椅子をあなたにすすめ、彼は机の椅子に座った。
あなたは彼の後ろに窓を見ており、彼はあなたの後ろに書棚を見る格好だ。同じ部屋にいながら、お互いに逆の方向である自分の視点から見ている。同じ空間を共有していたのだが、その視点は逆で印象は相当に違う。
もちろん話した内容もについても・・・彼が話しているとき、あなたはあなたの耳で聞き、あなたの目で見ている。逆にあなたが話しているとき、彼は彼の耳で聞き彼の目で見ている。書斎でのあなたと彼の会話は、双方の個人的な別々な解釈によって構成され、あなたと彼の二種類の印象があることになり、共通の印象はあまり存在しない。
会話に使用する一つひとつの単語においても、お互い微妙に違う解釈をしている。例えば会話の中で「ムシ」という単語が出てきたとしよう。あなたはムシが好きだが、彼はムシが嫌いだった。あなたが会話の中でムシという単語を普通に使ったが、彼は話の腰を折りたくないため、適当に頷いた。しかし彼はムシという言葉は聞きたくなかったという思いだった。
 彼は先週恋人との別れ話で悲嘆に暮れていたが、あなたはそのことを知らないだけでなく、あなたは現在の恋人とうまくいっている。「恋人」という単語も双方まるで違った解釈をしていたが、お互い会話はそのまま進んだ。
このように考えると、会話はお互い自分中心の主観的な視点のものだった。ある意味では違う時間・空間の中にいたようだ。そして会話の内容も、共通の事実ではなくそれぞれ別々の違った記憶となってしまわれていった。
屁理屈のような表現で申し訳ないが・・・・事実は一つではなく、あなたと彼の二種類の個人的解釈による事実が生じていた。「同じ部屋で話しをしていた」という統合的客観的事実は実際にはない。視点も違うし、会話の内容もそれぞれ自分の解釈によるものだ。
客観的と呼ぶべき事実は、あなたが彼の書斎で会話をしたという叙述的記憶の中だけでしか構成され得ない。実際は客観的な視点など存在しない。
どういうことかというと、あなたが日記に「今日は彼の書斎で彼と会話した」と書くことはできるが、実際には客観的ではない各々二人の主観的事実しかなかった。
 
 では彼がその日、あなたと会ったことを否定した場合はどうであろう。
彼が嘘をついているのか、あるいは自分の思い違いなのか、それはあなたにしか分からない。もし分かったと思っても、それが遠い過去となった場合は記憶もあやふやになり、それが事実だったかどうかを確かめる術はない。日記には訪問を客観的に書いたが、はたして事実はそうでなかったかもしれない。叙述的記憶の中でしか客観的事実を構成できない、とはそういう意味合いだ。ということは存在しない客観的事実を書き留めていたことになる。
事実と呼べるものとはいえ、それは自分にとって常に主観的なものでしかあり得ない。
あなたがその時の会話を思い浮かべるとき、彼は窓の前におり、あなたは彼から見て書棚の前にいた。もちろんあなたと彼の中間の視点など存在しないから、その事実はあなたと彼の違う視点による二つの記憶となる。共有した時間・空間が同じであるにもかかわらず、お互いの自分中心の記憶しか存在しない。
足して2で割ったような客観的事実というようなものは存在しない。存在するのは主観的事実であるお互いの記憶だけだ。
だからこの事実が真実であったかどうかを検証するには、他者の証言や写真、動画などの物的証拠に頼らざるを得ない。しかし訪問の証拠がなくなってしまえば、この事実が真実であるとする根拠はお互いの主観的記憶だけになる。記憶の構造や記憶がしまわれる脳の部位の発火現象なども違うだろう。それは違う二人の人格が主張する二通りのものだ。事実に齟齬が生じることは当然である。
では、二人の会話をビデオで撮ったものは客観的事実となるだろうか?
しかし、前述したように、それをあなたが見た瞬間に、もうそれはあなたの主観的な映像となってしまう。当事者ではない人が見た場合も、見た人が主観的な解釈をしてしまうので、やはり見た瞬間に客観的でなくなってしまう。テレビやユーチューブの偽映像の例は山ほどあるので、もしかするとこの映像は創作したものかもしれない、という判断の可能性もある。
客観的とは主観的の反対の意味で、個々の思いや解釈が入らないことを言う。
となると、このビデオを撮った後、誰かが見た瞬間にそれは見た人の主観的な解釈が入ってしまい客観的な映像といえなくなってしまう。
となると、客観的な映像とは誰も見ない映像のこととなる。
誰も見ることのない映像?
誰も見ない映像を客観的な映像と言えるのだろうか?その映像が存在していないと同じことになる。まるで「シュレディガーの猫」の喩えのようだ。
誰も見ない客観的映像によって客観的事実を証明することはできない。これは一体どういうことか!
書斎での会話は二つの主観的視点によるものだから、客観的事実ではない。
遠い過去となった場合、あなたの訪問が確かかどうかも分からない。確かに分かることはあなたと彼の「視点が違う」ということだけだ。
つまり事実が真実か否かについては分からない。「視点が違う」ということは真実だが、「視点が違う」という真実は「訪問の事実」が真実か否かについては意味をなさない。真実は存在するのだが、客観的なものではない?
つまり事実に関するわれわれ人間にとっての「真実」は実在しない可能性がある。真実と言われる「こと・もの」を事実と照らし合わせてみても、事実そのものが何通りもあるのだから、その真実も事実に対していく通りもあることになる。
われわれ人間の世界では、すべての事実は主観的なものとなる。事実を真実と呼ぶことに躊躇せざるを得ない。
主観的であるということは世界の中心を自分に置くことだ。
当然だが、すべての人間は自分を中心にして世界を観る術しかない。なぜなら、目や耳や手足は自分のものであって、他者のものではない。視点は人間の数だけある。


 この主観的な視点はすべての生物に当てはまるといっていいだろう。すべての生物の視点は個々が中心となっている。つまり視点は無数に存在する。
無数の個々がそれぞれ解釈・判断する世界が無数にある。
あたかもこの世界に中心が無数にあるかのようだ。
「客観的」と文章に書くと、誰もがそれは「主観的」ではないと解釈するから、あたかも「客観的」が存在するかのように錯覚する。そうしたことが叙述的解釈・判断のことだが、叙述すると、ないものでもあるように錯覚してしまう。「神」と紙に書いてみると、「神」についての説明がなくても、神が存在するような錯覚を誘発する。そして紙に書いた「神」という文字を見た者は自分の経験や知識によっての解釈によって神を理解することになる。さきほど前述したビデオの件のように、「神」という客観的存在は誰かが考えたり、思ったりした瞬間に主観的なものとなってしまう。AさんとBさんが似た境遇にあろうとも、経験や思考、そしてセンサーである目や耳などは個々のものだから、「神」の解釈はかなりずれるはずだ。
叙述はすべてにわたってそういう性格のもので、どのようにも解釈・判断できるものだ。言語による叙述は事実や真実を正確に表すには不向きな意思伝達方法手段と言える。だから裁判の勝ち負けなどは一般にうまく言い抜けた方が勝つようだし、憲法や法律などもたくさんの解釈がまかり通ることになる。個々人の数だけの理解と判断が生じてしまう。

では叙述とはどういうことか?これは会話で使う話し言葉を記号によって表現したものと大差はないように見えるが、その性格はずいぶんと違う。叙述は粘土板や竹、木、紙、ワープロソフトに記号で記されたものであり、話し言葉のように話す後から消えてしまはない。われわれが2000年前の書物を読むことができるように、時間的制約を受けない。叙述は過去から現在、また現在から未来方向に存在することができるが、話し言葉は現在だけだ。しかも、人間の記憶は積み重なる経験や感情の働きによってどんどん変容してしまう性質を持っていることから、「こと・もの」を正確に記憶することはできない。
叙述とは何か?これはわれわれ人間が世界を判断・解釈・理解するために編み出した魔法のようなものだ。なぜ魔法のようであるか?もし客観的な叙述があったとしても、厳密に言えば「誰も読まないかぎり」という枠の中だけにしか事実や客観性が存在しない。そして、叙述は開示されると一つひとつの言葉が、それを読む者の数だけの意味を持つようになり、無数の解釈・理解を生み出してゆく。叙述は同じものなのになのに無数の判断・解釈が生じる。それゆえに魔法的と言える。祈り言葉やマントラや呪文でなくとも、叙述や言葉は既に魔法的だ。

 このように考えてみると、欧米の叙述的現代哲学はあくまでも叙述上の考察であり、そこには客観性も事実も、事実の真実もない架空の考察の一つだと言うことができるかもしれない。ウィトゲンシュタインが論理哲学論考で考察しているように、「言語の限界が思考の限界である・・・」・・・と。
「存在、無」と叙述すると、あたかも存在や無があるように思えるが、事実はどうであろう。言葉に言葉を重ねる叙述的な不毛な解釈と、叙述的な真実が山ほど湧いて出てくる。こうした哲学は叙述を離れると何の価値もなくなってしまう。この世界では「無」を絶対無や空と表現したからといって、それがある証拠を見つけることはできない。子どものような表現で申し訳ないが、「無」はないのだからあるわけがない。叙述的に存在と対比させた「無」はあくまでも単なる概念にすぎない。叙述の上だけの表現だ。世界は「ある」だけでできている。
叙述は叙述であるが故に事実や真実を浮かび上がらせることができない性格のものとも言える。
「こころ」を辞書で引いてみると「精神」と説明し、「精神」を引いてみると「こころ」と説明するように、説明しにくい「言葉」を辞書は説明ではなく置き換えでお茶を濁すことがある。現代哲学はそれによく似ている。

言葉に言葉を重ねて事実や真実を探求しても、それは砂上の楼閣にすぎない。それが真実だ。
叙述上にも話し言葉上にも、真実も事実も客観性もないことが真実と言える。事実は真実とはなり得ない。一般に客観的事実を真実に近いものと考えるが、実際には客観性や真実は画餅であり、事実は主観的なものしか存在し得ない。主観的な事実から客観的な真実が見出せるだろうか、ということである。

「今日は彼の書斎で彼と会話した」ということにおいて、事実についての真実ではなく、自分と彼の視点が違うことが真実として現れた。真実は事実とはあらぬ方向に現れる性質を持っている。
すると・・・・事実の真実は存在することができないはずなのに、真実を声高に唱えるということは、陥穽を弄する不誠実な態度だということになる。

ここまで「事実の真実」が人間の判断・解釈には存在できないと考察してきたが、これは事実の現象という部分だけを捉えたことによる。現象とは人にとってどう見えるか、どう現れているかという外面的な現れを指す言葉で、本質については問題とされない用語である。現象の対義語が本質であり、現象は現れの本質的な背景の意味を含まないからだ。実際は人間の個々の判断・解釈が無数にあろうともこの世界に発現する事実の真実はただ一つしかない。真実とは何か?言語を使用する哲学的思弁ではそれに迫ることはできないだろう。

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拙著「イエス・ノー・リーラー」から~向こうのフィールドについて

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星がただの光の点ならば、誰もそこへ行こうなどと考えないだろう。しかし地球のように岩石があり、歩いたりできる所であることを知れば好奇心が湧き、そこが一体どんな所で何があるのか?と行ってみたい気持ちになる。そして人類は現実的にロケットや通信技術を整えてきた。
同様にこちらの物質的フィールドとリンクしている次元の違う向こうのフィールドがあったとしても、それが宗教の言う天国だ地獄だなとどという茫洋とした死後の世界しかないなら、調べてみようとも思わないし、直ぐに行ってみたいとも思わない。(笑)
でも星がただの光の点などではないことをわれわれが理解したように、向こうのフィールドがこちらの宇宙とリンクしている広大な何かであると考えてみたならば、そこへ行ける行けないは別として・・・調べてみたいという好奇心が湧くだろう。
 つまりリーラーで言う向こうのフィールドとは、シェルドレイクの形態形成場、仏教の阿頼耶識やユングの提唱する広大な無意識の世界、暗黙知の領域、またこちらの根源粒子が五次元に振動するヒモのような存在に由来するという超弦論、生物進化、脳の働き、複雑系科学の言う創発や自己組織化、ビッグバン、神秘主義者や宗教が主張するような世界や不可思議な現象も含む・・・そうした通常われわれが検知できない世界のことである。

 地球や人類が全宇宙から見たらほんの微細なものであるように、人間が考えるあの世や死後の世界みたいな世界があったとしても、それは向こうのフィールドのほんの一部にすぎないだろう。
リーラーで言う向こうのフィールドとは宗教の言うおどろおどろしい死後の世界に限ったフィールドのことではない。
しかしこちらの世界とリンクしている広大な領域と推測される向こうのフィールドがあったとしても、コペルニクスやガリレオから500年、ニュートンから300年ほどの現代科学には荷が重いだろう。でも5000年後、10000万年後の科学には期待を寄せることができると思う。(数千年後の人類の科学は一体どんなだろう?と考えてみるのも面白い)
現代唯物論科学が究極の真実を語れると信じることは、1000年以上前の奈良時代の人が21世紀に来て新しい情報を得ようとするようなものだ。おそらく彼はコンピューターのハードディスクやCDやメモリースティックを探すことはせず、自分のいた世界で使っていた木簡や紙に書いた文書を探すと思う。
 同様に科学的に高度に発達した未来の人類は今現在われわれが使っている情報媒体を使ってはいないことは確かだと思う。(だがSETIは高度に発達した宇宙の知的生命体の情報通信もわれわれが21世紀に使っている電波を使っていると信じて電波望遠鏡で探索しているが、21世紀で木簡や竹簡を探す奈良時代の人と変わらないものと思う。)
だからリーラーで言う向こうのフィールドとは、唯物論に基づいた現代科学が否定するタイプのものでもなく、宗教の言うあの世みたいな芒洋としたものでもない。




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渦と生命体

あの世についての考察(序)
生命に魂というものがあり、死ぬとそれがあの世に行くと昔から連綿と伝えられている。
現代人でも近しい人の死に直面したり何か不思議なことに遭遇したときなど、もしかするとあの世はあるかもしれないと薄々思うこともある。が、しばらくすると仕事や生活に追われて、そんなことを思ったことさえ忘れてしまう。
科学万能だと信じられている現代に「あの世はあります」などと言おうものなら「そんな非科学的なことなど言ってないで・・・とくかく金がなきゃ世間は渡っていけないよ」などと言われるのが関の山である。
しかし、あの世があるとしても、チンドン屋のような派手な衣装の既成、新興の宗教組織に所属して生計を立てている優しそうな嘘寒いパフォーマンスをするしゃべるだけの何も責任を取らない宗教屋さんが言う世界や、壊れている人か酔っ払いが書いたような宗教書に書いてあるような場所でもないと思う。荒野のイエス・キリストや路傍で説法していた釈尊も派手な衣装など着ていなかったし、もし現代の宗教家の言うことが正しいなら、あの世の形態はそれこそ宗教組織の数と同じだけあることになる。そんなバカなことはない。中東で構築されたキリスト教の宗教家とインドで構築された仏教の宗教家の言うあの世のどちらが正しいかというようなことも滑稽で不毛だ。どちらかに真実があるという可能性よりも、どちらにも真実はない可能性の方が高い。それでも信じるという人には恐縮だが、理不尽な信仰は洗脳のような精神病理学の範疇だと考えざるを得ない。
リーラーではこの世界とリンクしているあの世のような世界はあるだろうと考えるが、そうした世界を「向こうのフィールド」と呼ぶ。ただし人間にとってあの世の世界があるとしても、それは「向こうのフィールド」のほんの一部でしかないはずだ。「向こうのフィールド」は質量やエネルギーが存在するように見えるこちらの全存在(時空や物質的根拠だけでなく、人間の思惟や感情までをも含む)の根拠であり、こちらはその反映、投影の可能性が高いだろう。現代物理学は素人のぼくには難解で理解できないが、五次元空間にあるヒモのような存在の振動がこちらの世界に投影されて物質となるという超弦論という考え方には興味を覚える。
もちろん死んだ人の魂が行くという人間的感情を含む悲喜こもごもの極めて人間臭い「あの世」の証明は科学や数学ではできるわけがないが、「向こうのフィールド」なら、超次元という考え方でその存在を認めているようだ。

1 エネルギー散逸構造
渦は水の位置エネルギーによって生じる現象であり、水が流れることによって形態を留めているように見える現象にすぎず、実体のあるものではない。渦は水に依拠しているが水ではない。水の位置エネルギーが散逸して出来る構造である。
渦は物質ではなく現象だ。水が作る渦という形態を調べるのに、渦は水によって出来る形態だが水そのものではないから、水をビーカーにとって水を詳細に調べても何も分からない。複雑系科学思想に散逸構造主義生物学というジャンルがある。これは生物をタンパク質などの物質的な塊と考えずに、渦同様エネルギーの移動による現象・構造という観点から見るものだ。(プリゴジン)

 生物の形態は水の運動が渦の形態を維持するのによく似ている。生物はたんぱく質の塊ではなく、渦同様、生物の身体も物質のエネルギーが散逸することによって生じる形態、構造であり、実体はない。生命体の中に外界から物質が取り込まれ、やがて排出される。細胞レベルでは骨などでさえ、新たに取り込まれた物質によって絶えず入れ替わっている。さらに原子、分子レベルでみれば生物を構成している物質はそれこそ一瞬一瞬に入れ替わっている。まるで流れる水に出来る渦のように凄まじい流れだ。散逸構造主義生物学者がそこまで考えているかどうかは知らないが、そういうことだと思う。
何も、神秘主義や生気論など持ち出さなくても、生命の形態は実体が無いことから、物質そのものではないことがよく理解できる考え方だ。
水に出来る渦のように、物質の移動による構造の形態形成である。生命体の構造、身体は物質が絶え間なく移動することによって維持される。生命体の身体の中を物質が移動しなくなると、それが死である。物質が通り過ぎることによって生じる現象が生命体の生命であるということだ。
渦が水そのものでないように、生命体も物質そものではなく、物質の移動によって形成される形態だということになる。物質やエネルギーの移動によって形成されるのだから、形態というより実体の無い構造的現象にすぎないだろう。
(~続きは次回更新します。)
                                       


私生活のこと

この度、私生活に激変がありました。ためにブログの更新を怠りました。健康等に関してはまったく問題はございません。ご心配をおかけいたしております。

ある程度落ち着いたので、また更新していくつもりです。

多摩川源流探索

多摩川の衛星写真001 











武州多摩川

















 以前多摩川の源流を探しに鶏冠山付近を歩き回ったことがある。奥多摩湖をしばらく行くと、その川幅はひょいとまたげるほどになるが、無数の沢が合流しているということも分かる。では、源流はその標高が一番高い所なのだろうと探索してみたら、鶏冠山(標高1700メートル)頂上付近の、辺りに熊の新しい足跡が点々とある大きな石の下からぽこっ、ぽこっときれいな水が湧いているのを見つけた。最も上流のそれ以上の標高だと湧き水がない。さらに水源を辿ろうとするならば、それはもう空だ、ということになる。その甘露なる湧き水をすすりながら、空を見上げて感激した。大河の多摩川源流・・・最後には空を見上げるしかなくなってしまった。
熊と出くわさないうちにと、急ぎ山を下った。

 ぼくはサンスクリット語を少しかじったくらいで、パーリ語もその他プラークリット語もコプト語もアラム語もヘブライ語もギリシャ語も・・・・もちろんできない。だが、この列島には優れた学者がたくさんいる。それらを全て理解する人はいないだろうが、そうした人たちがそれぞれ精査し、研究した結果の翻訳した本は山ほどある。またわが国には仏教では中村元先生、キリスト教では荒井献先生などテレビや人気雑誌で活躍しないが偉大な学者がおられる。そういう意味から、この列島に住んでいて大宗教の概観を知るには環境がいい。両刃の剣だがインターネットという便利な道具もある。http://dss.collections.imj.org.il/ など dead sea scrolls ,nag hammadi などと検索すると山ほど出てくる。
わが国の仏教学関係も、諸外国のキリスト教研究者のように上のような、パーリ語やサンスクリット語文献を検索できるサイトを作って欲しいものだ。

 そうした中で宗教組織の批評をやってきたが、ぼくの勘違い、思い込みの部分もあるだろうが、そう的外れでもないと考えている。
イエスとは?釈尊とは?といろいろ資料を漁っているうちに、このブログに書いてきたようにイエス・キリストも仏陀・釈尊も当時はほとんど無名であったこと、また流布されている仏教、キリスト教神話はかつては、ずいぶんと違った趣きであったことにも気付いた。(岩波文庫にはパーリ語、サンスクリット語からの日本語への直接翻訳と漢訳仏典が対照してある本が出版されている。お釈迦様が当時どのようなスタンスにあられたのか、千年、二千年前のサンスクリット語やパーリ語の写本を読めなくても概要を知ることが出来る。キリスト教に関しても死海写本やナグハマディ文書が既に出版公開されている。死海文書など最古の写本と現在宗教組織が大量に印刷配布している内容を見比べるのも面白い。例えば最近の日本語訳では「出エジプト記」二〇章五節)の訳語について次のブログに書いた。http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/5654470.html
釈尊もキリストもヴェーダの宗教やヘブライ教の中にあった。しかもそれらのさらなる根源はというと、別の何かだったようだと学者は言う。さらにその根源を求めるとどうなるだろう。先住民の民族宗教や伝播した宗教、伝道された宗教・・・それこそ無数のものから、大河としてのキリスト教や仏教が構成されてきた。
さらにその根源はというと、多摩川の源流探索のように結局は空を見上げて、ああ、そうか!と深い感激を持つことになるのだろう。
無、空・・・ヤコブ・ベーメの言う、「底無し」・・・・・。
物質も分子、原子、電子、クオーク・・・そして最後は異次元の超ひもみたいに、ほとんど空を見上げて嘆息をつくほかなくなってしまう。

「真理が無い」のではなく、「無いが真理」ということになる。まったくこの世は面白いことだ。全ては輪郭が亡羊としており、その亡羊としたものの根拠もなくなってしまう。

楽に生き生きと楽しく人生を送る術

桔梗 生きる、ということは死者を見送ることだ。自分が死んでしまえばもう誰も見送ることはない。永遠の命などあったら一体どれだけの悲しみを経験しなければならないか。星霜を重ねるたびに他者の死に出くわすことが多くなる。どこかちょうどいいところで死んでしまえば、そうした悲しみ悔やみから逃げられる。そうは思うが自分は生きている。
誰の死でもどの道シリキレトンボだ。
人生などどこかに区切れがあるわけでもない。何かを成し遂げたり、大失敗を犯したりしてもそれはたいした区切りではない。今度はそれに手をつける・・・区切りなどない・・・連綿と続くだけ。
死も悲しみ、後悔、苦しみ・・・死にゆく本人も残される者にも死はシリキレトンボ。死とはそういうものだ。

 自分の死についての考察は不可避だが、他者の死も見据えていかねばならない。ああすればよかった!こうしてやればよかった!ああすべきではなかった!・・・キリが無い。
死について考えることは自分にも他者にも大いに利益がある。常に自分と他者の死を考えることは、この世を生き生きと楽しくすることだ。
死について常に考えることができるようになれば、この世はもう少し住みやすくなると思う。
ぼくのブログは向こうのフィールド、宗教、哲学、死、芸術、神秘的なこと、生気論ばかりだという印象を持たれるかもしれないが、それはそういう意味だ。死を考えることが我々バカな烏合の衆が少しでも楽に生き生きと楽しく人生を送る術だと確信しているからだ。

続 Attitude(態度)2 

imagesCAUH2MYM此岸(こちら)から彼岸(あちら)を見ると、そこが死の世界を含むことから暗く沈鬱なイメージがある。
 死後の世界、幽世(かくりよ)、黄泉の国、どれも暗いイメージだ。我々は、自分は行くことはないだろうと高をくくっているが、地獄のイメージは最悪だ。天国や浄土のイメージもあるが、自分がそこへ行けるだろうと錯覚しているアホや狂人は別として、万が一そこに行けると思ったとしても、それでも我々は生にしがみつく。天国や浄土でさえ、よほど洗脳された錯覚的信仰にないかぎり、こちらよりも良いとは思えない。出来ることなら、天国に行くよりもずっとこちらにいたい~我々は悲嘆に暮れない限りそう思う。
 こちらから見て向こうは常に暗く沈鬱に見える。何せ向こうは死の世界。死んだらお終い、死後の世界、幽霊になって彷徨う、親しい人たちとの別離、全てが終わってただの無になる、何をとっても向こうのフィールドへの想いは暗く沈鬱だ。
我々は物質世界に縛られている限り、出来れば死にたくないし、ずっとずっと生きていたい~生にしがみつかざるを得ない。そういう心境だ。

 そこで、次元の異なる彼岸と此岸について次のような青空と魚の喩えを考えてみた。
水の中に住む魚にとって、美しい青空は恐怖だ。何故なら、水から出て空へ向かって飛び出すと窒息して死んでしまう。
物質世界にいる我々は水の中に住む魚と同じ。物質世界から出ることは死を意味する。とてもじゃないが青空を美しいなどと考えることは出来ない。青空に飛び出ることは窒息して干からびてしまう恐ろしいことだから。
でも、もし魚が水の中から出て、美しい青空を美しいと認識できるようになれば、魚は美しい青空に対して、窒息して干からびてしまう恐ろしい場所だとは思わなくなる。大空高く飛翔するこも出来るようになるかもしれない。
そのコツは向こうのフィールドに対して、生きている時に、向こうのフィールドはある、という態度を取ることにあるかもしれない。このブログ「Attitude」に書いたように、科学的に証明しようとか、百家争鳴の哲学、宗教などの思索ではなく、ある!という単純明解な、理由などない堂々とした態度のことだ。思索も検証も要らない。ただ、「ある」という態度だけである。どの道、科学や哲学、宗教などでは入り口の門の前にたどり着くことすら不可能だ。

 物質世界に生きている我々には向こうのフィールドがこの世よりもマシなんだか、酷い所なんだか知る由もないが、少なくとも恐れを抱くほどの所ではないかもしれない。もちろん宗教で生計を立てている宗教屋さんが豪華な寺院で喚いているような場所でもないと思う。
また、コペンルニクスから500年しか経っていない西洋的科学に回答を求めるのも滑稽だ。一部の優秀な学者は別として、物質の研究で世界を究明できると豪語し、それを押し付け、新しい発見があるとこれまで言っていたことが誤りだったと平然といい抜けるから信用できない。そういう偏狭な学問だから信用出来ない。数千年後の人類の科学が、21世紀の科学の正誤についてどういう感想を持つか?そう考えると、21世紀の現代科学に期待など寄せられない。
 
 向こうのフィールドなんてあるわけがない、あったとしても~でも、これを書いているぼくにも、読んでいるあなたにも確実に死はやって来る。それでも死について考えることを拒否出来るだろうか。自分は死ぬ~これほど確実できちんとした論理はない。生きている間に少しは向こうのフィールドのことを考えて、こちらの生にフィードバックさせれば、我々の短い人生にとって少しは含蓄が深まると思う。すると戦争や環境破壊がどのようなものかについても、きちんとした結論が出るはずだ。
向こうのフィールドを否定する21世紀の唯物論科学者、宗教商売人がペラペラ語るあの世~そういう態度もそれでその人の人生だから何も言う気持ちはないが、どの道、向こうのフィールドは言語や数式で表すことは出来ないことだけは確かだ。物質的でない世界だから、それは無理というもの。物質世界だって、数式は現象を近似値しか表せない。言語は白を指して黒と言えるし、その逆もオーケーだ。言語がきちんとしたものならば、白を黒とは言えないはずだ。だから、リーラーは「ある」あるいは、「無い」などと言語的に叫ばない。

 ただ、向こうのフィールドが「ある!」という態度を取るだけだ。態度は言語でも数式でもない。態度は結果的に言語や数式的に現されるが、言語や数式に先行する。
だから、あるか無いについては一切論じない。態度である。言葉でも行動でもない。態度である。これがイエス・ノーの他の第三のリーラーの立場である。(リーラーについては拙著、リーラーの宇宙を参照いただければ幸いです。)
錯覚や洗脳に似た信仰からは、向こうのフィールドは見えないし、当然的外れだ。巷に出回っている宗教屋さんの書いた無数のセールス・パンフレットに真実はない。
 精緻な検証をする優秀な学者は、写本などの研究から宗教教典が他の宗教からの盗作とは言わないにしても剽窃を指摘している。ましてや翻訳されたものに関しては、誤訳、意訳を多々指摘している。
 信者と言われる烏合の衆は、宗教組織御用達の学者が編集・編纂した教典だけしか読まないから、その学者の間違いや思い込みをそのまま真実だと考える。多くの場合、経験からも宗教組織御用達の学者は概して優秀ではなかった。


 だから、リーラーでは、「ある!」という態度を問題にする。有る無しを論ずることをしない、ただの態度である。右の隣は左である。真ん中を作ったり、後からああだこうだと弁明しない。「ある」だけの論理だ。
この「態度」が世界を読み解く鍵になると思う。態度である。向こうのフィールドがある・・・という思索ではない。「ある!」という態度である。

Attitude 2015 3/15
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/6397946.html

シンクレティズム syncretism

Godaigoシンクレティズム   syncretism(相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること、あるいはさまざまな学派・流派の実践・慣習を混合することである。例えば日本の神仏習合)

現在存在している殆どの宗教は過去のいろいろな宗教のごった煮である。鍋に放り込まれるものは様々で、洋を問わず仏教風、キリスト教風、神道風、神秘主義風、オカルト風なんでもござれだ。
キリスト教成立史、仏教成立史など紐解かなくとも、ウキペディア(概要を知る程度にすぎないが・・・)を開けただけで、先行する宗教が複数であることがよく分かる。
混交、習合の結果が現代の仏教であり、キリスト教である。例えば、このブログでふれてきたように、黙示録はヨハネ黙示録だけではなくユダヤ教からの借り物ジャンルである。ユダヤ・キリスト教教研究者は黙示録文学というジャンルを設定している。このブログでも触れたがエジプトのナグハマディで発見された数多くの文書はすでに日本語にも翻訳されている。ヨハネによる福音書の作者と黙示録の作者が違うことも、聖書学によって常識だ。
70人約と呼ばれる現代にまで伝わる新約聖書のプロトタイプがギリシャ語で書かれたこととヨーロッパのギリシャとはほとんど関係がない。カイロから約300kmのナイル川のほとりにアレクサンドリアがあり、当時そこはギリシャ語文化圏であり、住民はギリシャ語を話していた。福音書でもイエス・キリストはエジプトに縁が深いし、アウグスチヌスもエジプト人だ。(ウィキペディアにはアウグスチヌスが元マニ教徒であることが省かれている)新約聖書がギリシャ語で書かれたのはエジプトのギリシャ語文化圏で育まれたためである。その際に中東のユダヤ教、マニ教が混交し、さらにヨーロッパに至り、そこでギリシャのオルフェウス教、ミトラス教、古代ケルト教などと混交していった。ただしオルフェウス教の輪廻転生神話やユダヤ教やケルト教の動物犠牲の祭儀は反映されなかった。
スッタニパータやダンマーパダなどの最初期の仏典も日本語に翻訳されているが、そこには現代日本仏教と著しくかけ離れた仏教の姿がある。釈尊は旧宗の改革者としてのイエスと同じく旧宗からの脱皮を求めており、そこには仏教はなくヴェーダ宗教の改革者としての姿だ。イシバーシヤムという当時の紳士録に釈尊(sakyamuni Gautama siddhartha)の名はなく、代わりに仏教の開祖としてシャーリプトラが記入されているそうだが、(原始仏教の世界・中村元監修・東京書籍)頷けるものだ。例えばわが国の仏教は神仏習合という言葉があるように、天皇の住む宮中には江戸時代までお黒戸という仏壇があった。(天皇が江戸幕府の城に住むようになってからの存在については知らないが~)歴代の密教風の衣装をまとった天皇たちを見れば習合は一目瞭然である。天皇たちは仏教に心をおきながら、神道風の儀式を行っていた。


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