江部遊観のブログ

リーラーの宇宙は第三章の脱稿をもって、その概要を表すことができたと考えています。世界を説明するのに「イエス・ノー・リーラー」による三重構造を基層にしました。それは一万年のながきにわたって戦争のなかった縄文時代のイデアを再構築する試みであり、それを現代に重ね合わせることによって、ひとがより豊かな精神性を獲得できるのではないかとの思いです。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/

三内丸山で縄文時代を考える

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このブログで縄文時代に戦争がなかったことを再三検証してきたが、これは世界に類例を見ない、世界に誇れる、人類にとって偉大なことである。拙著「イエス・ノー・リーラー」で詳述したが、縄文人の骨を尺骨骨折などの有無など詳細を極める人骨研究からも、当時は(一万年間!)暴力がタブーになっていた可能性が大きい。(タブーについては「縄文時代の死生観参照)
 三内丸山遺跡は5000年前の縄文中期頃、常時500人前後の人々が1000年以上暮らしていたと推定されているが、ここには柵も塀も濠もない。これは明らかに戦争、戦闘を意識していた構造ではない。例えば弥生時代の吉野ヶ里遺跡は環濠集落だし、他の弥生時代の高地性集落も侵入する敵の侵入を想定した構造になっている。
 新石器時代に入ってから近代までの世界の他地域では、これだけたくさんの人々が共に住んでいた場所は多く、塀や柵、濠を巡らせていた。この記事の前にフランスの発掘例を引用したように、そうした構造になくても暴力、戦争は日常であったようだ。
しかし、この列島の縄文集落跡を見ると、全て柵も塀も濠もない。平和な一万年が続いたことは疑いがない!これはコンラート・ローレンツの動物行動学やレヴィストロースなどのヨーロッパの構造主義では解明できない!考古学研究の丹羽先生の「埋甕集団の構成と婚姻システム」では縄文時代を家父長制度や女性の婚入、という趣旨の論文があるが、これは日本人のヨーロッパ的構造主義者の憶測にすぎない。ヨーロッパ構造主義に合致する竪穴式住居の構造とその発掘資料からの論議は牽強付会だ。例えば竪穴式住居の発掘から丹羽先生とは全く違う田中基先生のような論述もある。仏教研究の中村元先生が「カント的だの、弁証法的だのと仏教を論じること」を戒めておられるように、この列島の縄文時代は欧米の哲学、歴史学的手法で読み解くことは無理である。全く違う視点が必要だ!
そうでなければ10000年ものながきに渡って暴力・戦争のない人類史を構築した我が列島を理解することはできないだろう。また土偶は殆ど全てが女性だし、土器の作り手も女性であったと推測されている。アイヌ民族の住居観のように、縄文家屋は女性の身体を彷彿とさせる構造だし、炉の切り方など古事記の火の神を連想させる。対極の石棒については諏訪地方の神長官守屋氏に伝わる「御石神」(ミシャグチ)を連想させるものだ。縄文時代はこの列島を含む世界各地域の歴史時代のように女性を蔑む思想ではなかっただろう。
 柵も塀も濠もない平和な10000年を築いた世界史に類例を見ない未曾有のこの列島について我々日本人は大きな誇りを持つべきである。私は右思想でも左思想でもないが、そういう意味合いにおいてこの列島、この国を愛してやまない。
「愛国心」という言葉はこの国では、威張るのが好きな頭の弱い右よりの年寄りがよく使うが、私は違う意味から「愛国者」である。
 
 「全く違う視点が必要だ!」とは、余談になるが、人類にとって農耕が始まると伝染病や王権や宗教者からの収奪によって、平均寿命が農耕発生以前よりも短くなっていることを考えるのに人口学等の本だけでなく・・・例えば「あなたの体は9割が細菌・アランナ・コリン著・矢野真千子訳・河出書房新社」「第三のチンパンジー・ジャレド・ダイアモンド著、秋山勝訳・草思社」「人体・ダニエル・E・リーバーマン著・塩原通緒訳・早川書房」などの興味深い研究・統計を知ることである。)

縄文時代の死生観

8 030 縄文時代の死生観は現在と相当違うようだ。文字の無い、あるいは文字を必要としなかった時代だから考古学的資料だけに頼らざるを得ないが、その発掘資料を細かくみていると本当に驚かされる。
例えば埋甕だが、死亡した幼児あるいは産後の胎盤等を竪穴式住居の入り口下に埋めるものだが、死者を踏みつける行為だから現代人には違和感を覚える風習である。だが縄文時代の発掘資料をみると当時はかなり一般的だった。(山梨県、長野県の遺跡発掘図面などをご覧になった方も多いと思う。)
 また三内丸山遺跡の発掘図面を見ると集落を巡る太い道の両側にずらりと大人の墓が並んでいる。その土坑墓には多少の大小があるが、後代の古墳のように一般人の墓よりも特別巨大なものはない。
しかし、墓の大小や埋葬状態、副葬品から、他地域の民族例や自分のフィールドワークで出会った事例に似ているからと、「縄文時代にも階層があった」と短絡したり、魏志倭人伝の「生口」(奴隷、人家畜)の例をひいて「奴隷は縄文時代からあったのだ」などとのたまう高名な学者も多いが、それは間違いだろう。自薦、他薦の教授選考をなんとかかいくぐってきたサラリーマン学者の悲哀が連想されると言うものだ。
おそらく縄文時代は・・・現代はもちろんその後の歴史時代とも全く異質な思考が基になっていたと見るべきだと思う。(断っておくがここでは古事記神話に縄文時代の反映があったか、なかったか、などという論議ではない)
 
 各時代、各地域にはタブーという社会規制がある。タブーとはやろうと思えば簡単にできるが、実際にタブーを破ろうとしてもできない言動や行動を指す。例えばあなたが銀座や新宿を全裸で歩いてみればタブーについて簡単に納得できる。あなたを見る人は驚き、騒ぐ。そして国家権力まで介入してきて強力にそれを規制しようとする。あなたが全裸で銀座を歩いたからといって株が暴落したり、何人もの人が血を流して倒れるわけでもない。ああだこうだと・・・あなたの全裸を気にする人がいなければ何の問題も起きない。
公衆の面前で全裸になってはいけない・・・これがタブーである。
つまり縄文時代は亡骸を埋めた場所を踏みつける行為はタブーではなかった。現代はそれがタブーとなっている・・・そうした観点から縄文時代の死生観を考えてみたいと思う。


 さて、三内丸山遺跡の2007年3月青森県教育委員会・埋蔵文化財調査報告書№434集の150頁から165頁の報告書と図面、359頁の写真をよく見てみよう。
墓の大きさをABCDの4種に、断面形を5種に分けてその組み合わせをAⅡ、CⅤなどと分類して詳細な説明と発掘図面がある。
当時の三内丸山縄文人は墓の上に家を平気で建てていた。こうした例はこの三内丸山でも数多く報告されている。例えば大型土坑墓に関しては第49号、51号、61号・・・。
竪穴式住居の下に土坑墓が発見される・・・そういう事例である。埋甕と同様に死者を踏みつけている。

 日常頻繁に使う大通りの両脇にずらりと墓が並び、各家々の入り口には子供の亡骸が埋められ、その住居も墓の上に建てられている。それが三内丸山遺跡である。
近現代とは明らかに死生観が違う。
 
 その縄文時代は太古から戦争・暴力をタブーと考えられてきたように思う。約6000体ほど発見されている縄文人骨からは殺人がなかったと結論付けられている。他時代、他地域の考古学、民俗学からも類例を見ない平和社会であったように思う。その平和的温和な社会構築は、近現代とは全く異質な死生観にあったと考えたい。
中東のエリコでは9000年前の周囲を壁で巡らしたり、殺された人骨が発見されたり、遺跡にも戦争の形跡が歴然である。下記の最近の発掘記事のように人類の殆どは太古、古代から暴力的であった。
宗教祭祀者や王権は口では死者を敬うと唱えながら、弱者に対して殺人、強姦、暴力を振るってきた。
ところが死者を踏みつけるなど、縄文時代の人々は逆だった!
世界に類例を見ることのできない平和で非暴力の世界が縄文時代にあったとしたら、その根拠は死生観に求められるだろうと思う。
 ・・・こうしたことをリーラー研究所では考えていくつもりである。
下記のような考古学記事は世界で枚挙に暇が無い・・・そして現代も・・・!

6000年前の集団虐殺か、10人の人骨発掘 仏チーム
2016/06/08 14:01(パリ/フランス)
【6月8日 AFP】仏研究所の考古学者らは7日、フランス部のアルザス(Alsace)地方 で、6000年前に集団で虐殺されたとみられる人々の人骨を発見したことを明らかにした。虐殺は「勇猛な儀式主義の戦士たち」の手によって実行された可能性が高いという。
 仏国立予防考古学研究所のチームは記者団に対し、仏東部ストラスブール郊外にある、穀物や他の食物を保存するために使われていた古代の「サイロ」300個のうちの1つで、10人の人骨が発見されたと述べた。
 新石器時代のこれらの人々は、足、手、頭などに多数の傷を負い、無残な殺され方をしたことが見受けられる。
 死体が積み重ねられていたことは、彼らが集団で殺害された後、サイロに投げ込まれたことを示唆しているという。
 INRAPの新石器時代の専門家、フィリップ・ルフラン氏は「彼らは非常に残忍な方法で処刑されており、石おのとみられるもので激しく殴打されていた」と話す。
 見つかったのは、成人5人と若者1人の計6体の人骨。また別人のものである腕の骨も4本もあった。
 ルフラン氏によると、これらの腕は、2012年にドイツ・ベルクハイム近隣の墓地遺跡で発見された腕と同様に「戦利品」だった可能性が高いという。
 こうした腕の切断は「勇猛な儀式主義の戦士たち」の社会の存在を示すものだ。また、サイロが防御壁の内側に格納されていたことは、当時「物騒な時代、不安定な時期」だったことを示唆するとルフラン氏は指摘した。
 人骨の遺伝子検査により、虐殺に関するさらに詳細な情報が明らかになることが期待されるが、ルフラン氏によると、現在の仏パリ周辺の地域から来た新興グループと、地元グループとの間で激しい衝突が起きたとする説もあるという。
「パリ盆地地域から来た新興グループによる奇襲攻撃は、攻撃者側の失敗に終わり、当時のアルザス人のグループが彼らを虐殺した」(ルフラン氏)
 だが結局、最後に笑ったのは「パリ」から来た新興グループだったようだ。
 紀元前4200年頃に地元グループが新興グループに取って代わられたのは、葬儀、陶器、集落などの様式がその時期に一変したことで証明されている。(c)AFP

言語による事実・真実・叙述・無数の中心

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人は客観的事実を知ることができない

ここで扱う真実は「手に持っていたボールを離したらボールは地面に向かって落下した」という物理的、論理的なものではなく、事実に対する人間の心理上の真実について考えるものである。

あなたはある日、友人の家を訪れ、彼の書斎で話した。
この日常的なことについて思索をめぐらせてみることにしよう。
書斎のドアを入ると左手に書棚が並び、右手に窓があった。彼は椅子をあなたにすすめ、彼は机の椅子に座った。
あなたは彼の後ろに窓を見ており、彼はあなたの後ろに書棚を見る格好だ。同じ部屋にいながら、お互いに逆の方向である自分の視点から見ている。同じ空間を共有していたのだが、その視点は逆で印象は相当に違う。
もちろん話した内容もについても・・・彼が話しているとき、あなたはあなたの耳で聞き、あなたの目で見ている。逆にあなたが話しているとき、彼は彼の耳で聞き彼の目で見ている。書斎でのあなたと彼の会話は、双方の個人的な別々な解釈によって構成され、あなたと彼の二種類の印象があることになり、共通の印象はあまり存在しない。
会話に使用する一つひとつの単語においても、お互い微妙に違う解釈をしている。例えば会話の中で「ムシ」という単語が出てきたとしよう。あなたはムシが好きだが、彼はムシが嫌いだった。あなたが会話の中でムシという単語を普通に使ったが、彼は話の腰を折りたくないため、適当に頷いた。しかし彼はムシという言葉は聞きたくなかったという思いだった。
 彼は先週恋人との別れ話で悲嘆に暮れていたが、あなたはそのことを知らないだけでなく、あなたは現在の恋人とうまくいっている。「恋人」という単語も双方まるで違った解釈をしていたが、お互い会話はそのまま進んだ。
このように考えると、会話はお互い自分中心の主観的な視点のものだった。ある意味では違う時間・空間の中にいたようだ。そして会話の内容も、共通の事実ではなくそれぞれ別々の違った記憶となってしまわれていった。
屁理屈のような表現で申し訳ないが・・・・事実は一つではなく、あなたと彼の二種類の個人的解釈による事実が生じていた。「同じ部屋で話しをしていた」という統合的客観的事実は実際にはない。視点も違うし、会話の内容もそれぞれ自分の解釈によるものだ。
客観的と呼ぶべき事実は、あなたが彼の書斎で会話をしたという叙述的記憶の中だけでしか構成され得ない。実際は客観的な視点など存在しない。
どういうことかというと、あなたが日記に「今日は彼の書斎で彼と会話した」と書くことはできるが、実際には客観的ではない各々二人の主観的事実しかなかった。
 
 では彼がその日、あなたと会ったことを否定した場合はどうであろう。
彼が嘘をついているのか、あるいは自分の思い違いなのか、それはあなたにしか分からない。もし分かったと思っても、それが遠い過去となった場合は記憶もあやふやになり、それが事実だったかどうかを確かめる術はない。日記には訪問を客観的に書いたが、はたして事実はそうでなかったかもしれない。叙述的記憶の中でしか客観的事実を構成できない、とはそういう意味合いだ。ということは存在しない客観的事実を書き留めていたことになる。
事実と呼べるものとはいえ、それは自分にとって常に主観的なものでしかあり得ない。
あなたがその時の会話を思い浮かべるとき、彼は窓の前におり、あなたは彼から見て書棚の前にいた。もちろんあなたと彼の中間の視点など存在しないから、その事実はあなたと彼の違う視点による二つの記憶となる。共有した時間・空間が同じであるにもかかわらず、お互いの自分中心の記憶しか存在しない。
足して2で割ったような客観的事実というようなものは存在しない。存在するのは主観的事実であるお互いの記憶だけだ。
だからこの事実が真実であったかどうかを検証するには、他者の証言や写真、動画などの物的証拠に頼らざるを得ない。しかし訪問の証拠がなくなってしまえば、この事実が真実であるとする根拠はお互いの主観的記憶だけになる。記憶の構造や記憶がしまわれる脳の部位の発火現象なども違うだろう。それは違う二人の人格が主張する二通りのものだ。事実に齟齬が生じることは当然である。
では、二人の会話をビデオで撮ったものは客観的事実となるだろうか?
しかし、前述したように、それをあなたが見た瞬間に、もうそれはあなたの主観的な映像となってしまう。当事者ではない人が見た場合も、見た人が主観的な解釈をしてしまうので、やはり見た瞬間に客観的でなくなってしまう。テレビやユーチューブの偽映像の例は山ほどあるので、もしかするとこの映像は創作したものかもしれない、という判断の可能性もある。
客観的とは主観的の反対の意味で、個々の思いや解釈が入らないことを言う。
となると、このビデオを撮った後、誰かが見た瞬間にそれは見た人の主観的な解釈が入ってしまい客観的な映像といえなくなってしまう。
となると、客観的な映像とは誰も見ない映像のこととなる。
誰も見ることのない映像?
誰も見ない映像を客観的な映像と言えるのだろうか?その映像が存在していないと同じことになる。まるで「シュレディガーの猫」の喩えのようだ。
誰も見ない客観的映像によって客観的事実を証明することはできない。これは一体どういうことか!
書斎での会話は二つの主観的視点によるものだから、客観的事実ではない。
遠い過去となった場合、あなたの訪問が確かかどうかも分からない。確かに分かることはあなたと彼の「視点が違う」ということだけだ。
つまり事実が真実か否かについては分からない。「視点が違う」ということは真実だが、「視点が違う」という真実は「訪問の事実」が真実か否かについては意味をなさない。真実は存在するのだが、客観的なものではない?
つまり事実に関するわれわれ人間にとっての「真実」は実在しない可能性がある。真実と言われる「こと・もの」を事実と照らし合わせてみても、事実そのものが何通りもあるのだから、その真実も事実に対していく通りもあることになる。
われわれ人間の世界では、すべての事実は主観的なものとなる。事実を真実と呼ぶことに躊躇せざるを得ない。
主観的であるということは世界の中心を自分に置くことだ。
当然だが、すべての人間は自分を中心にして世界を観る術しかない。なぜなら、目や耳や手足は自分のものであって、他者のものではない。視点は人間の数だけある。


 この主観的な視点はすべての生物に当てはまるといっていいだろう。すべての生物の視点は個々が中心となっている。つまり視点は無数に存在する。
無数の個々がそれぞれ解釈・判断する世界が無数にある。
あたかもこの世界に中心が無数にあるかのようだ。
「客観的」と文章に書くと、誰もがそれは「主観的」ではないと解釈するから、あたかも「客観的」が存在するかのように錯覚する。そうしたことが叙述的解釈・判断のことだが、叙述すると、ないものでもあるように錯覚してしまう。「神」と紙に書いてみると、「神」についての説明がなくても、神が存在するような錯覚を誘発する。そして紙に書いた「神」という文字を見た者は自分の経験や知識によっての解釈によって神を理解することになる。さきほど前述したビデオの件のように、「神」という客観的存在は誰かが考えたり、思ったりした瞬間に主観的なものとなってしまう。AさんとBさんが似た境遇にあろうとも、経験や思考、そしてセンサーである目や耳などは個々のものだから、「神」の解釈はかなりずれるはずだ。
叙述はすべてにわたってそういう性格のもので、どのようにも解釈・判断できるものだ。言語による叙述は事実や真実を正確に表すには不向きな意思伝達方法手段と言える。だから裁判の勝ち負けなどは一般にうまく言い抜けた方が勝つようだし、憲法や法律などもたくさんの解釈がまかり通ることになる。個々人の数だけの理解と判断が生じてしまう。

では叙述とはどういうことか?これは会話で使う話し言葉を記号によって表現したものと大差はないように見えるが、その性格はずいぶんと違う。叙述は粘土板や竹、木、紙、ワープロソフトに記号で記されたものであり、話し言葉のように話す後から消えてしまはない。われわれが2000年前の書物を読むことができるように、時間的制約を受けない。叙述は過去から現在、また現在から未来方向に存在することができるが、話し言葉は現在だけだ。しかも、人間の記憶は積み重なる経験や感情の働きによってどんどん変容してしまう性質を持っていることから、「こと・もの」を正確に記憶することはできない。
叙述とは何か?これはわれわれ人間が世界を判断・解釈・理解するために編み出した魔法のようなものだ。なぜ魔法のようであるか?もし客観的な叙述があったとしても、厳密に言えば「誰も読まないかぎり」という枠の中だけにしか事実や客観性が存在しない。そして、叙述は開示されると一つひとつの言葉が、それを読む者の数だけの意味を持つようになり、無数の解釈・理解を生み出してゆく。叙述は同じものなのになのに無数の判断・解釈が生じる。それゆえに魔法的と言える。祈り言葉やマントラや呪文でなくとも、叙述や言葉は既に魔法的だ。

 このように考えてみると、欧米の叙述的現代哲学はあくまでも叙述上の考察であり、そこには客観性も事実も、事実の真実もない架空の考察の一つだと言うことができるかもしれない。ウィトゲンシュタインが論理哲学論考で考察しているように、「言語の限界が思考の限界である・・・」・・・と。
「存在、無」と叙述すると、あたかも存在や無があるように思えるが、事実はどうであろう。言葉に言葉を重ねる叙述的な不毛な解釈と、叙述的な真実が山ほど湧いて出てくる。こうした哲学は叙述を離れると何の価値もなくなってしまう。この世界では「無」を絶対無や空と表現したからといって、それがある証拠を見つけることはできない。子どものような表現で申し訳ないが、「無」はないのだからあるわけがない。叙述的に存在と対比させた「無」はあくまでも単なる概念にすぎない。叙述の上だけの表現だ。世界は「ある」だけでできている。
叙述は叙述であるが故に事実や真実を浮かび上がらせることができない性格のものとも言える。
「こころ」を辞書で引いてみると「精神」と説明し、「精神」を引いてみると「こころ」と説明するように、説明しにくい「言葉」を辞書は説明ではなく置き換えでお茶を濁すことがある。現代哲学はそれによく似ている。

言葉に言葉を重ねて事実や真実を探求しても、それは砂上の楼閣にすぎない。それが真実だ。
叙述上にも話し言葉上にも、真実も事実も客観性もないことが真実と言える。事実は真実とはなり得ない。一般に客観的事実を真実に近いものと考えるが、実際には客観性や真実は画餅であり、事実は主観的なものしか存在し得ない。主観的な事実から客観的な真実が見出せるだろうか、ということである。

「今日は彼の書斎で彼と会話した」ということにおいて、事実についての真実ではなく、自分と彼の視点が違うことが真実として現れた。真実は事実とはあらぬ方向に現れる性質を持っている。
すると・・・・事実の真実は存在することができないはずなのに、真実を声高に唱えるということは、陥穽を弄する不誠実な態度だということになる。

ここまで「事実の真実」が人間の判断・解釈には存在できないと考察してきたが、これは事実の現象という部分だけを捉えたことによる。現象とは人にとってどう見えるか、どう現れているかという外面的な現れを指す言葉で、本質については問題とされない用語である。現象の対義語が本質であり、現象は現れの本質的な背景の意味を含まないからだ。実際は人間の個々の判断・解釈が無数にあろうともこの世界に発現する事実の真実はただ一つしかない。真実とは何か?言語を使用する哲学的思弁ではそれに迫ることはできないだろう。

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現在、kindleにアップ予定の小説、リーラー思想、楽譜など用意しています。よろしくお願いします。

拙著「イエス・ノー・リーラー」から~向こうのフィールドについて

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星がただの光の点ならば、誰もそこへ行こうなどと考えないだろう。しかし地球のように岩石があり、歩いたりできる所であることを知れば好奇心が湧き、そこが一体どんな所で何があるのか?と行ってみたい気持ちになる。そして人類は現実的にロケットや通信技術を整えてきた。
同様にこちらの物質的フィールドとリンクしている次元の違う向こうのフィールドがあったとしても、それが宗教の言う天国だ地獄だなとどという茫洋とした死後の世界しかないなら、調べてみようとも思わないし、直ぐに行ってみたいとも思わない。(笑)
でも星がただの光の点などではないことをわれわれが理解したように、向こうのフィールドがこちらの宇宙とリンクしている広大な何かであると考えてみたならば、そこへ行ける行けないは別として・・・調べてみたいという好奇心が湧くだろう。
 つまりリーラーで言う向こうのフィールドとは、シェルドレイクの形態形成場、仏教の阿頼耶識やユングの提唱する広大な無意識の世界、暗黙知の領域、またこちらの根源粒子が五次元に振動するヒモのような存在に由来するという超弦論、生物進化、脳の働き、複雑系科学の言う創発や自己組織化、ビッグバン、神秘主義者や宗教が主張するような世界や不可思議な現象も含む・・・そうした通常われわれが検知できない世界のことである。

 地球や人類が全宇宙から見たらほんの微細なものであるように、人間が考えるあの世や死後の世界みたいな世界があったとしても、それは向こうのフィールドのほんの一部にすぎないだろう。
リーラーで言う向こうのフィールドとは宗教の言うおどろおどろしい死後の世界に限ったフィールドのことではない。
しかしこちらの世界とリンクしている広大な領域と推測される向こうのフィールドがあったとしても、コペルニクスやガリレオから500年、ニュートンから300年ほどの現代科学には荷が重いだろう。でも5000年後、10000万年後の科学には期待を寄せることができると思う。(数千年後の人類の科学は一体どんなだろう?と考えてみるのも面白い)
現代唯物論科学が究極の真実を語れると信じることは、1000年以上前の奈良時代の人が21世紀に来て新しい情報を得ようとするようなものだ。おそらく彼はコンピューターのハードディスクやCDやメモリースティックを探すことはせず、自分のいた世界で使っていた木簡や紙に書いた文書を探すと思う。
 同様に科学的に高度に発達した未来の人類は今現在われわれが使っている情報媒体を使ってはいないことは確かだと思う。(だがSETIは高度に発達した宇宙の知的生命体の情報通信もわれわれが21世紀に使っている電波を使っていると信じて電波望遠鏡で探索しているが、21世紀で木簡や竹簡を探す奈良時代の人と変わらないものと思う。)
だからリーラーで言う向こうのフィールドとは、唯物論に基づいた現代科学が否定するタイプのものでもなく、宗教の言うあの世みたいな芒洋としたものでもない。




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渦と生命体

あの世についての考察(序)
生命に魂というものがあり、死ぬとそれがあの世に行くと昔から連綿と伝えられている。
現代人でも近しい人の死に直面したり何か不思議なことに遭遇したときなど、もしかするとあの世はあるかもしれないと薄々思うこともある。が、しばらくすると仕事や生活に追われて、そんなことを思ったことさえ忘れてしまう。
科学万能だと信じられている現代に「あの世はあります」などと言おうものなら「そんな非科学的なことなど言ってないで・・・とくかく金がなきゃ世間は渡っていけないよ」などと言われるのが関の山である。
しかし、あの世があるとしても、チンドン屋のような派手な衣装の既成、新興の宗教組織に所属して生計を立てている優しそうな嘘寒いパフォーマンスをするしゃべるだけの何も責任を取らない宗教屋さんが言う世界や、壊れている人か酔っ払いが書いたような宗教書に書いてあるような場所でもないと思う。荒野のイエス・キリストや路傍で説法していた釈尊も派手な衣装など着ていなかったし、もし現代の宗教家の言うことが正しいなら、あの世の形態はそれこそ宗教組織の数と同じだけあることになる。そんなバカなことはない。中東で構築されたキリスト教の宗教家とインドで構築された仏教の宗教家の言うあの世のどちらが正しいかというようなことも滑稽で不毛だ。どちらかに真実があるという可能性よりも、どちらにも真実はない可能性の方が高い。それでも信じるという人には恐縮だが、理不尽な信仰は洗脳のような精神病理学の範疇だと考えざるを得ない。
リーラーではこの世界とリンクしているあの世のような世界はあるだろうと考えるが、そうした世界を「向こうのフィールド」と呼ぶ。ただし人間にとってあの世の世界があるとしても、それは「向こうのフィールド」のほんの一部でしかないはずだ。「向こうのフィールド」は質量やエネルギーが存在するように見えるこちらの全存在(時空や物質的根拠だけでなく、人間の思惟や感情までをも含む)の根拠であり、こちらはその反映、投影の可能性が高いだろう。現代物理学は素人のぼくには難解で理解できないが、五次元空間にあるヒモのような存在の振動がこちらの世界に投影されて物質となるという超弦論という考え方には興味を覚える。
もちろん死んだ人の魂が行くという人間的感情を含む悲喜こもごもの極めて人間臭い「あの世」の証明は科学や数学ではできるわけがないが、「向こうのフィールド」なら、超次元という考え方でその存在を認めているようだ。

1 エネルギー散逸構造
渦は水の位置エネルギーによって生じる現象であり、水が流れることによって形態を留めているように見える現象にすぎず、実体のあるものではない。渦は水に依拠しているが水ではない。水の位置エネルギーが散逸して出来る構造である。
渦は物質ではなく現象だ。水が作る渦という形態を調べるのに、渦は水によって出来る形態だが水そのものではないから、水をビーカーにとって水を詳細に調べても何も分からない。複雑系科学思想に散逸構造主義生物学というジャンルがある。これは生物をタンパク質などの物質的な塊と考えずに、渦同様エネルギーの移動による現象・構造という観点から見るものだ。(プリゴジン)

 生物の形態は水の運動が渦の形態を維持するのによく似ている。生物はたんぱく質の塊ではなく、渦同様、生物の身体も物質のエネルギーが散逸することによって生じる形態、構造であり、実体はない。生命体の中に外界から物質が取り込まれ、やがて排出される。細胞レベルでは骨などでさえ、新たに取り込まれた物質によって絶えず入れ替わっている。さらに原子、分子レベルでみれば生物を構成している物質はそれこそ一瞬一瞬に入れ替わっている。まるで流れる水に出来る渦のように凄まじい流れだ。散逸構造主義生物学者がそこまで考えているかどうかは知らないが、そういうことだと思う。
何も、神秘主義や生気論など持ち出さなくても、生命の形態は実体が無いことから、物質そのものではないことがよく理解できる考え方だ。
水に出来る渦のように、物質の移動による構造の形態形成である。生命体の構造、身体は物質が絶え間なく移動することによって維持される。生命体の身体の中を物質が移動しなくなると、それが死である。物質が通り過ぎることによって生じる現象が生命体の生命であるということだ。
渦が水そのものでないように、生命体も物質そものではなく、物質の移動によって形成される形態だということになる。物質やエネルギーの移動によって形成されるのだから、形態というより実体の無い構造的現象にすぎないだろう。
(~続きは次回更新します。)
                                       


私生活のこと

この度、私生活に激変がありました。ためにブログの更新を怠りました。健康等に関してはまったく問題はございません。ご心配をおかけいたしております。

ある程度落ち着いたので、また更新していくつもりです。

多摩川源流探索

多摩川の衛星写真001 











武州多摩川

















 以前多摩川の源流を探しに鶏冠山付近を歩き回ったことがある。奥多摩湖をしばらく行くと、その川幅はひょいとまたげるほどになるが、無数の沢が合流しているということも分かる。では、源流はその標高が一番高い所なのだろうと探索してみたら、鶏冠山(標高1700メートル)頂上付近の、辺りに熊の新しい足跡が点々とある大きな石の下からぽこっ、ぽこっときれいな水が湧いているのを見つけた。最も上流のそれ以上の標高だと湧き水がない。さらに水源を辿ろうとするならば、それはもう空だ、ということになる。その甘露なる湧き水をすすりながら、空を見上げて感激した。大河の多摩川源流・・・最後には空を見上げるしかなくなってしまった。
熊と出くわさないうちにと、急ぎ山を下った。

 ぼくはサンスクリット語を少しかじったくらいで、パーリ語もその他プラークリット語もコプト語もアラム語もヘブライ語もギリシャ語も・・・・もちろんできない。だが、この列島には優れた学者がたくさんいる。それらを全て理解する人はいないだろうが、そうした人たちがそれぞれ精査し、研究した結果の翻訳した本は山ほどある。またわが国には仏教では中村元先生、キリスト教では荒井献先生などテレビや人気雑誌で活躍しないが偉大な学者がおられる。そういう意味から、この列島に住んでいて大宗教の概観を知るには環境がいい。両刃の剣だがインターネットという便利な道具もある。http://dss.collections.imj.org.il/ など dead sea scrolls ,nag hammadi などと検索すると山ほど出てくる。
わが国の仏教学関係も、諸外国のキリスト教研究者のように上のような、パーリ語やサンスクリット語文献を検索できるサイトを作って欲しいものだ。

 そうした中で宗教組織の批評をやってきたが、ぼくの勘違い、思い込みの部分もあるだろうが、そう的外れでもないと考えている。
イエスとは?釈尊とは?といろいろ資料を漁っているうちに、このブログに書いてきたようにイエス・キリストも仏陀・釈尊も当時はほとんど無名であったこと、また流布されている仏教、キリスト教神話はかつては、ずいぶんと違った趣きであったことにも気付いた。(岩波文庫にはパーリ語、サンスクリット語からの日本語への直接翻訳と漢訳仏典が対照してある本が出版されている。お釈迦様が当時どのようなスタンスにあられたのか、千年、二千年前のサンスクリット語やパーリ語の写本を読めなくても概要を知ることが出来る。キリスト教に関しても死海写本やナグハマディ文書が既に出版公開されている。死海文書など最古の写本と現在宗教組織が大量に印刷配布している内容を見比べるのも面白い。例えば最近の日本語訳では「出エジプト記」二〇章五節)の訳語について次のブログに書いた。http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/5654470.html
釈尊もキリストもヴェーダの宗教やヘブライ教の中にあった。しかもそれらのさらなる根源はというと、別の何かだったようだと学者は言う。さらにその根源を求めるとどうなるだろう。先住民の民族宗教や伝播した宗教、伝道された宗教・・・それこそ無数のものから、大河としてのキリスト教や仏教が構成されてきた。
さらにその根源はというと、多摩川の源流探索のように結局は空を見上げて、ああ、そうか!と深い感激を持つことになるのだろう。
無、空・・・ヤコブ・ベーメの言う、「底無し」・・・・・。
物質も分子、原子、電子、クオーク・・・そして最後は異次元の超ひもみたいに、ほとんど空を見上げて嘆息をつくほかなくなってしまう。

「真理が無い」のではなく、「無いが真理」ということになる。まったくこの世は面白いことだ。全ては輪郭が亡羊としており、その亡羊としたものの根拠もなくなってしまう。

楽に生き生きと楽しく人生を送る術

桔梗 生きる、ということは死者を見送ることだ。自分が死んでしまえばもう誰も見送ることはない。永遠の命などあったら一体どれだけの悲しみを経験しなければならないか。星霜を重ねるたびに他者の死に出くわすことが多くなる。どこかちょうどいいところで死んでしまえば、そうした悲しみ悔やみから逃げられる。そうは思うが自分は生きている。
誰の死でもどの道シリキレトンボだ。
人生などどこかに区切れがあるわけでもない。何かを成し遂げたり、大失敗を犯したりしてもそれはたいした区切りではない。今度はそれに手をつける・・・区切りなどない・・・連綿と続くだけ。
死も悲しみ、後悔、苦しみ・・・死にゆく本人も残される者にも死はシリキレトンボ。死とはそういうものだ。

 自分の死についての考察は不可避だが、他者の死も見据えていかねばならない。ああすればよかった!こうしてやればよかった!ああすべきではなかった!・・・キリが無い。
死について考えることは自分にも他者にも大いに利益がある。常に自分と他者の死を考えることは、この世を生き生きと楽しくすることだ。
死について常に考えることができるようになれば、この世はもう少し住みやすくなると思う。
ぼくのブログは向こうのフィールド、宗教、哲学、死、芸術、神秘的なこと、生気論ばかりだという印象を持たれるかもしれないが、それはそういう意味だ。死を考えることが我々バカな烏合の衆が少しでも楽に生き生きと楽しく人生を送る術だと確信しているからだ。

続 Attitude(態度)2 

imagesCAUH2MYM此岸(こちら)から彼岸(あちら)を見ると、そこが死の世界を含むことから暗く沈鬱なイメージがある。
 死後の世界、幽世(かくりよ)、黄泉の国、どれも暗いイメージだ。我々は、自分は行くことはないだろうと高をくくっているが、地獄のイメージは最悪だ。天国や浄土のイメージもあるが、自分がそこへ行けるだろうと錯覚しているアホや狂人は別として、万が一そこに行けると思ったとしても、それでも我々は生にしがみつく。天国や浄土でさえ、よほど洗脳された錯覚的信仰にないかぎり、こちらよりも良いとは思えない。出来ることなら、天国に行くよりもずっとこちらにいたい~我々は悲嘆に暮れない限りそう思う。
 こちらから見て向こうは常に暗く沈鬱に見える。何せ向こうは死の世界。死んだらお終い、死後の世界、幽霊になって彷徨う、親しい人たちとの別離、全てが終わってただの無になる、何をとっても向こうのフィールドへの想いは暗く沈鬱だ。
我々は物質世界に縛られている限り、出来れば死にたくないし、ずっとずっと生きていたい~生にしがみつかざるを得ない。そういう心境だ。

 そこで、次元の異なる彼岸と此岸について次のような青空と魚の喩えを考えてみた。
水の中に住む魚にとって、美しい青空は恐怖だ。何故なら、水から出て空へ向かって飛び出すと窒息して死んでしまう。
物質世界にいる我々は水の中に住む魚と同じ。物質世界から出ることは死を意味する。とてもじゃないが青空を美しいなどと考えることは出来ない。青空に飛び出ることは窒息して干からびてしまう恐ろしいことだから。
でも、もし魚が水の中から出て、美しい青空を美しいと認識できるようになれば、魚は美しい青空に対して、窒息して干からびてしまう恐ろしい場所だとは思わなくなる。大空高く飛翔するこも出来るようになるかもしれない。
そのコツは向こうのフィールドに対して、生きている時に、向こうのフィールドはある、という態度を取ることにあるかもしれない。このブログ「Attitude」に書いたように、科学的に証明しようとか、百家争鳴の哲学、宗教などの思索ではなく、ある!という単純明解な、理由などない堂々とした態度のことだ。思索も検証も要らない。ただ、「ある」という態度だけである。どの道、科学や哲学、宗教などでは入り口の門の前にたどり着くことすら不可能だ。

 物質世界に生きている我々には向こうのフィールドがこの世よりもマシなんだか、酷い所なんだか知る由もないが、少なくとも恐れを抱くほどの所ではないかもしれない。もちろん宗教で生計を立てている宗教屋さんが豪華な寺院で喚いているような場所でもないと思う。
また、コペンルニクスから500年しか経っていない西洋的科学に回答を求めるのも滑稽だ。一部の優秀な学者は別として、物質の研究で世界を究明できると豪語し、それを押し付け、新しい発見があるとこれまで言っていたことが誤りだったと平然といい抜けるから信用できない。そういう偏狭な学問だから信用出来ない。数千年後の人類の科学が、21世紀の科学の正誤についてどういう感想を持つか?そう考えると、21世紀の現代科学に期待など寄せられない。
 
 向こうのフィールドなんてあるわけがない、あったとしても~でも、これを書いているぼくにも、読んでいるあなたにも確実に死はやって来る。それでも死について考えることを拒否出来るだろうか。自分は死ぬ~これほど確実できちんとした論理はない。生きている間に少しは向こうのフィールドのことを考えて、こちらの生にフィードバックさせれば、我々の短い人生にとって少しは含蓄が深まると思う。すると戦争や環境破壊がどのようなものかについても、きちんとした結論が出るはずだ。
向こうのフィールドを否定する21世紀の唯物論科学者、宗教商売人がペラペラ語るあの世~そういう態度もそれでその人の人生だから何も言う気持ちはないが、どの道、向こうのフィールドは言語や数式で表すことは出来ないことだけは確かだ。物質的でない世界だから、それは無理というもの。物質世界だって、数式は現象を近似値しか表せない。言語は白を指して黒と言えるし、その逆もオーケーだ。言語がきちんとしたものならば、白を黒とは言えないはずだ。だから、リーラーは「ある」あるいは、「無い」などと言語的に叫ばない。

 ただ、向こうのフィールドが「ある!」という態度を取るだけだ。態度は言語でも数式でもない。態度は結果的に言語や数式的に現されるが、言語や数式に先行する。
だから、あるか無いについては一切論じない。態度である。言葉でも行動でもない。態度である。これがイエス・ノーの他の第三のリーラーの立場である。(リーラーについては拙著、リーラーの宇宙を参照いただければ幸いです。)
錯覚や洗脳に似た信仰からは、向こうのフィールドは見えないし、当然的外れだ。巷に出回っている宗教屋さんの書いた無数のセールス・パンフレットに真実はない。
 精緻な検証をする優秀な学者は、写本などの研究から宗教教典が他の宗教からの盗作とは言わないにしても剽窃を指摘している。ましてや翻訳されたものに関しては、誤訳、意訳を多々指摘している。
 信者と言われる烏合の衆は、宗教組織御用達の学者が編集・編纂した教典だけしか読まないから、その学者の間違いや思い込みをそのまま真実だと考える。多くの場合、経験からも宗教組織御用達の学者は概して優秀ではなかった。


 だから、リーラーでは、「ある!」という態度を問題にする。有る無しを論ずることをしない、ただの態度である。右の隣は左である。真ん中を作ったり、後からああだこうだと弁明しない。「ある」だけの論理だ。
この「態度」が世界を読み解く鍵になると思う。態度である。向こうのフィールドがある・・・という思索ではない。「ある!」という態度である。

Attitude 2015 3/15
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/6397946.html

シンクレティズム syncretism

Godaigoシンクレティズム   syncretism(相異なる信仰や一見相矛盾する信仰を結合・混合すること、あるいはさまざまな学派・流派の実践・慣習を混合することである。例えば日本の神仏習合)

現在存在している殆どの宗教は過去のいろいろな宗教のごった煮である。鍋に放り込まれるものは様々で、洋を問わず仏教風、キリスト教風、神道風、神秘主義風、オカルト風なんでもござれだ。
キリスト教成立史、仏教成立史など紐解かなくとも、ウキペディア(概要を知る程度にすぎないが・・・)を開けただけで、先行する宗教が複数であることがよく分かる。
混交、習合の結果が現代の仏教であり、キリスト教である。例えば、このブログでふれてきたように、黙示録はヨハネ黙示録だけではなくユダヤ教からの借り物ジャンルである。ユダヤ・キリスト教教研究者は黙示録文学というジャンルを設定している。このブログでも触れたがエジプトのナグハマディで発見された数多くの文書はすでに日本語にも翻訳されている。ヨハネによる福音書の作者と黙示録の作者が違うことも、聖書学によって常識だ。
70人約と呼ばれる現代にまで伝わる新約聖書のプロトタイプがギリシャ語で書かれたこととヨーロッパのギリシャとはほとんど関係がない。カイロから約300kmのナイル川のほとりにアレクサンドリアがあり、当時そこはギリシャ語文化圏であり、住民はギリシャ語を話していた。福音書でもイエス・キリストはエジプトに縁が深いし、アウグスチヌスもエジプト人だ。(ウィキペディアにはアウグスチヌスが元マニ教徒であることが省かれている)新約聖書がギリシャ語で書かれたのはエジプトのギリシャ語文化圏で育まれたためである。その際に中東のユダヤ教、マニ教が混交し、さらにヨーロッパに至り、そこでギリシャのオルフェウス教、ミトラス教、古代ケルト教などと混交していった。ただしオルフェウス教の輪廻転生神話やユダヤ教やケルト教の動物犠牲の祭儀は反映されなかった。
スッタニパータやダンマーパダなどの最初期の仏典も日本語に翻訳されているが、そこには現代日本仏教と著しくかけ離れた仏教の姿がある。釈尊は旧宗の改革者としてのイエスと同じく旧宗からの脱皮を求めており、そこには仏教はなくヴェーダ宗教の改革者としての姿だ。イシバーシヤムという当時の紳士録に釈尊(sakyamuni Gautama siddhartha)の名はなく、代わりに仏教の開祖としてシャーリプトラが記入されているそうだが、(原始仏教の世界・中村元監修・東京書籍)頷けるものだ。例えばわが国の仏教は神仏習合という言葉があるように、天皇の住む宮中には江戸時代までお黒戸という仏壇があった。(天皇が江戸幕府の城に住むようになってからの存在については知らないが~)歴代の密教風の衣装をまとった天皇たちを見れば習合は一目瞭然である。天皇たちは仏教に心をおきながら、神道風の儀式を行っていた。


Welcome to Lila.

拙著「リーラーの宇宙」をKindleにアップする準備をしています。

Q   リーラーってなんですか?
A よおく聞いてくれた。これは理論であり、哲学であり、思想である・・・なんて言ったら面倒くさいかな?
Q うーん、ま、せっかく来たのだから軽く説明していただければ・・・、その程度でお願いします。
A ふむ、それでは・・・リーラーは古代インド語で遊戯の意味で・・・仏教では遊戯を「ゆげ」と読ませる。遊び、戯れ、宇宙開闢のビッグバンの出発のその原因。
Q ビッグバンの原因・・・この宇宙の?ずいぶん大胆な発言ですね。
A オーバーな表現、・・そう言いたいのだろう。
Q 率直に言わせていただくと・・・はい、そうです。
A ははは、大丈夫、私は壊れてはいない。ただしビックバンの原因は科学では推し量れない・・・では、なんだろう。そこで、ここでは神様も関係してくる。
Q えっ、神様って、宗教ですか?ぼくを巧妙に誘導して、変なもの売りつけるつもりじゃないでしょうねえ。
A いいや大丈夫。大安心。宗教と言ってもここは縄文宗教!人類共通の美しい太古の自然イデー。いい加減、怠け者、朝寝坊、心配性、臆病が人類太古からの深い哲学的であると判断する。
Q いい加減、怠け者が、深い哲学的判断?
A それこそ人類普遍の法則!仲間を売ったり陥れたりするギラギラした出世意識や、異常にマネーに執着する人以外は、それこそ歌ったり踊ったりの生活のほうがいいはずじゃないかな。
Q うーん、たしかにお金はいっぱいあった方がいいけど、異常に執着するというのは、なんかおしゃれじゃない気もするけど・・・でも、ある程度のお金がないと・・・、つまり働かないと食っていけないし・・・。
A でもな、サラリーマン生活って結構つらいよな。人格はどちらかというと低く、管理才能は無い、勉強もしないただのオヤジにペエペエして、気に入られるようにするなんて、大変なことじゃ。気に入られないと給料も上がらないし、出世もできない。
Q うーん、でも、いい加減や怠け者が深い哲学的判断にあるとか、縄文宗教とか、なんだかうさんくさいですねえ。
A うさんくさい?じゃあ「あの世」の証明もやっているって言ったら?
Q いやあ、もうついて行けませんね・・・気がついたら何か高いもの買わされてマインド・コントロールされちゃったりして・・・・。
A はははは・・・
Q はははは・・・ですか!
A リーラーじゃ。「イエス・ノー・リーラー」
Q 「イエス・ノー・リーラー」?
A それでは、リーラーの意味合いから説明していこう。つまらなく感じたら、とりあえず一章と二章を読み飛ばして三章から読み始めてもいい。


生物の対象に対する意味化

スズメバチ イラスト1[1]生物が環境、対象を意味化するプロセスについて脳の情報処理だけで説明するには無理があると思う。(リーラーで言う意味化とは、生物にとって対象が自分や自分たちにとってどのようようなものであるか、どのような利益、不利益があるのか、関わるべきものなのか、無視すべきものなのか~などの判断に基づく精神作用のことである。~拙著イエス、ノー、リーラーから)失敗・成功、善し悪しは別として生物は対象を常に意味化している。

 例えば動物と比べると、昆虫はその脳や神経系が圧倒的に貧弱であるにもかかわらず複雑な巣を作ったり、複雑な行動を取ることが出来る。動物行動学の本を読むと、そのような例は驚くほど多彩だ。
蜂たちの蜂の巣作りは設計図もないし、現場監督もいない。しかも蜂たちにとって初めての仕事であるにもかかわらず出来上がりは六角形による寸分の狂いもない申し分のない完成度だ。30センチの高さの巣は蜂の体長1センチとすると約30倍だ。人間の身長を1メートル70センチとするならばその30倍は、51メートルの高さに匹敵する。
どうやって作っているのだろうか?
本能だ!などという訳の分からない用語をヒステリックに叫ぶ頭の弱い先生ならともかく、これは驚き以外の何物でもない!
蜂の巣建設に参加する蜂たちは、トランシーバーを使って連絡をとりながら作業しているわけでもない。生まれて初めての経験だから、蜂の巣建設の記憶があるはずもない。皆それぞれ勝手に作業しているのにもかかわらずきちんと完成するのだから、何者かの命令を受けているようにも見える。また昨日までの作業過程もしっかりと覚えていて、その確認をしていなければ翌日の作業を始めることが出来ないが、彼らは中断した作業を、的確に把握していて次の作業を始めることが出来る。これは蜂の記憶力のゆえなのだろうか?
蜂たちが全体の作業工程を俯瞰的に見ているとも思えない。
人が身長の30倍の高さの建築物を作れるようになったのは数千年前、早くとも一万年を遡ることは出来ない。しかし、蜂は何十万年も前から巣の建設をしている。
巣を作るということを意味化していることは間違いないだろうから、巣をつくる利便性や自分と自分たちの未来が前提となることになる。このことは現代科学は蜂の脳の部分で為されているとしか考えざるを得ないだろう。

 蜂の脳に蜂の巣建設がプログラミングされているとしたら、どういう経緯からだろう?蜂はそのほかにも無数の複雑な行動を取ることから、蜂の脳細胞は容量、能力がかなり優れていると考えざるを得ないが~。
ここにカイコガの脳について引用すると、「脳は前大脳、中大脳、後大脳から構成される。脳内には、神経が集まり神経情報を処理する集合体(神経叢)がある。代表的な神経叢は、前大脳の視葉、キノコ体、前大脳側部、中心体、そして中大脳の触角葉である。脳の下部には食道下神経節がつながる。スケールは0.5mm。」
蜂もこのカイコガと大差ない脳神経だと思うが、0.5ミリのスケールの脳で生存に必要な複雑なことをやってのけるのは不思議この上もない。
ぼくは人間だから、人間的に考えると、蜂が巣を作る行動は少なくとも、将来巣が完成したときの青写真と未来志向がなくては出来ないように思える。だが蜂たちが未来を意味化していると考えるとなると、そのエンジンはどのようなもので、どこにあるのだろう?脳神経アルゴリズムエンジンだけではとうてい不十分のように思える。
出来ていない巣を考えることが出来るとしたら、蜂は未来を意味化しているとも言える。すると時間の流れも意識しているのだろうか?

とにかく、貧弱な脳しか持たない蜂の巣建設は蜂の物理的脳神経だけでは解明不能だろう。現代の科学の方向とは異質の理論でなくては~と考えてみるのも面白い。
それでは唯物論的科学ではない理論とは何か?となるが・・・阿頼耶識や無意識、形体形成場、暗黙知そしてリーラーのダウンロード理論の数学的処理が可能になることによってその道筋が見えてくると思う。

リーラーでは、生物のこのような不思議な行為、行動をダウンロード理論によって説明するものだが、この理論を実践的解釈可能なものとして把握してみたい。しかし、唯物論全盛の現代人類にあっては、この理解を得るにはあと何百年か待つ必要があるかもしれない。


研究者の仏典研究と宗教組織の語る宗教イデオロギー

hagetaka古代の言語に通暁し、古文献や古写本の研究に生涯をかけて研究して来た優秀な学者が語る宗教教典についてと、信者が通う宗教組織で嘘寒い優しい顔をしている聖職者が語る教典についてどちらがより正しい見解にあるだろうか?
どちらがよりプロトタイプに近いだろうか?
例えば優れた漢訳仏典研究者は、八世紀の写本と九世紀の写本を比較検討したり、翻訳の際の誤訳や意訳を指摘したり、また逐語訳と逐文訳の差違の明確な指摘が出来るし、また翻訳当時の歴史的背景などの勘案、その時代周辺の古文献、古文書との比較対象できる経験と知識、技術を持っている。
つまり、そうした精緻な研究成果よりも、釈尊滅後一千年もたった中国で当時の中国人が中国思想に基づいて意訳した漢訳仏典を盲目的に信頼するのはどうかな?ということである。一千年前とはこの日本では律令制が崩壊した後期平安時代だ。どちらがより真実に近いかは一目瞭然だろう。上から目線の宗教者に洗脳された烏合の衆に成り下がってしまった信者には耳が痛いと思うが、釈尊に帰依するつもりが少しでもあるならば、選択は一つしかない。それでも組織ありき、と考えるならば自ら死後の行く先を決めることになる。それは、浅ましく醜い宗教者の責任でもあるが、大半の責任は釈尊の御慈悲を曲解してしまった自分自身にある。
 優れた研究者は市井のぼくらが仕事をするように毎日研究、勉強しているから何カ国も出来るし、専門以外のことにも精通しているが、多くの研究者はあまり研究、読書、思索しないで、学内派閥に心をとられたり、たいしたことのない研究をさも立派であるかのように振る舞うだけである。時として人前で上から目線で同じことを繰り返してペラペラしゃべるだけ。権力と組織に従順で真理とはほど遠い所にいる日常を繰り返している輩は、宗教組織とズブズブになる御用学者と呼ばれる。そういう研究者の書いたものを知識の無いわれわれは読まないほうがいいと思う。もちろんへらへらした研究者と有能な研究者の違いはわれわれ凡人も烏合の衆にならないかぎり、自分の仏教に対する真摯な気持ちがあれば、意外とすぐに分かるものではある・・・。たが、残念なことに、ここで例えばとは書けない。何故なら、素人が見ても駄目な研究者の論述をここにあげれば、怒りや反目を買うことになる。ぼくは意気地無しだから、宗教組織のそうした体質が怖くて書けない。もちろんきちんとした論争ならしてもいいが、組織を相手にするのはゴメンだ。真の宗教者は別として、ほとんどの宗教組織は、それが組織であるかぎり暴力的だ。庶民に対して暴力的であるということは、釈尊、イエス、マホメットを裏切っていることになるのに、宗教教義は組織イデオロギーと成り下がって暴力的だから、とても怖い。

聖職者や御用学者の語る宗教は、支配イデオロギーであり、宗教的に清らかで神々しいものとは異質なものだろう。

人類の攻撃性、起源はどこに? 山極・京大総長に聞く


Neanderthal_Man_2457005b2015年1月13日のあるデジタル新聞から
京都大学の山極(やまぎわ)寿一総長は10月31日夜、京都市内で開かれた第44回京都市教育研究集会(同実行委員会主催)で「ゴリラに学ぶ平和への道」と題して講演しました。ゴリラ研究の第一人者として知られる山極氏は10月に新総長に就任したばかり。約340人の参加者を前に、ゴリラの動画も交えながら、戦争しない社会へむけて熱弁を振るいました。山極氏は、「戦争は人類に不可欠な平和の解決の手段となってきた」という議論も、「戦争は人間の本性である」という学説も、「真っ赤なウソ」だと指摘。長い人類史の中で武器を使い戦争したのは、きわめて最近のことであり、戦争をしないことこそ人間の本性なのだから「戦争はやめられる」と力説しました。ニホンザルが優劣を決めるのに対して、ヒト科の仲間であるゴリラは勝ち負けを決めないことを、観察に基づいて紹介。ゴリラが暴力的で残忍だというのは、まったくの誤解だとのべました。そして、人類の歴史でいつ戦争につながる暴力性があらわれたのかを分析し、コミュニケーションの変化にもふれ、「どうすればいいのかは、みなさんへの宿題」と講演を結びました。同教育研究集会のテーマは「子どもたちに平和を、学校に憲法の息づく教育を」。同日の全体会では、沖縄への修学旅行で学んだ平和の大切さを学年劇にした中学校の実践例も報告されました。 


2015年1月19日のあるデジタル新聞から

 チンパンジーのオスは、ほかの哺乳類には見られない強い攻撃性がみられる。彼らと共通の祖先を持つ人間も長い間、戦争や殺戮(さつりく)を繰り返してき た。攻撃性の起源はどこにあるのか。ゴリラ研究の第一人者で、霊長類研究を通じて人間性について考察してきた山極寿一・京都大総長に聞いた。
 チンパンジーのオスの攻撃性は適応的(生まれつき)だけれど、ボノボにはみられない。非常に近縁なチンパンジーとボノボの間で、それだけ違いがあると言うことは、そういった攻撃性はわりと短期間のうちに適応的になるということを示しているかもしれない。
 人間においても、いま世界中でいろんな民族間や地域集団間で内紛が絶えなかったり、戦争が起こったりしますね。これは、ずっと昔から人間が持っている本性なのかというと、そうではありません。
  第2次世界大戦後に一時、そういうことを言いだした人がいます。レイモンド・ダートという南アフリカでアウストラロピテクス・アフリカヌスという古い人間 の化石を発見した人です。彼は、1920年代にその化石を発見した後、アウストラロピテクス・アフリカヌスの骨をいくつも発見してきた。あるとき、その頭 骨に同じようなくぼみがあるのを見つけ、人間同士が争った跡だと結論づけた。
 くぼみを付けたのは、人間が動物の大腿(だいたい)骨を使って殴った跡だというわけですね。その結果、200万年ぐらい前から、人間はすでに道具で動物を狩猟し、なおかつ狩猟具を使って人間同士が争う社会を作っていたと推測されたわけです。
  その典型が「2001年宇宙の旅」という映画の冒頭です。毛だらけの猿人の前に、宇宙から来たと思われる直方体の物体が現れる。それに霊感を受けたかのよ うに、猿人たちはその辺にころがっている動物の大腿骨で狩猟することを思いつく。狩猟は大成功。そして、水場をめぐって他の集団と争ったときに、その大腿 骨を戦いにも使いだす。
 人間は、戦争により、武器により、社会の秩序を守ってきた――。それは人間の原罪であり、本性であるというのが、その主要なテーマなわけです。
 ダートの説はその後、否定されました。なおかつ、そのころの人類は、狩猟する側でなくて、狩猟される側であることがわかってきました。つまり、肉食獣から追い詰められて食べられる獲物だったわけです。
 でも、あまりにその説の衝撃が強く、いまだに人々はそれを信じています。人間は狩猟によって進化し、狩猟の道具を戦いに使うことで、戦争に明け暮れるような社会を作ったという観念ですね。政治家も利用しています。
  しかし、事実は違います。人間はチンパンジーとの共通祖先から分かれ、500万~700万年は独自の進化の道を歩んできました。でも、道具が発見されるの は260万年前からです。しかも、武器ではなかった。石を打ち欠いて、そのかけらの鋭利な部分で動物の死体から肉をはがしたり、骨を割って骨髄を取り出し たりするのが、恐らくその石器の使用目的だったわけです。
 道具が狩猟に使われるようになったのは、わずか50万年ほど前です。最初は殺傷力の弱い、槍(やり)のようなものです。大規模な狩猟が始まるのは、現代人になってからで、20万年前をさかのぼらないわけですね。
  狩猟能力が、武器によってあっという間に進化したのは確かでしょう。でも、人間同士が戦いを起こすには、さらに時間が必要でした。人間が武器を使って集団 で戦い合った証拠は、せいぜい1万年ほど前でしか見つかっていません。これは人類が狩猟から、自ら食料を生産し、それを貯蔵して食べるという時代、定住し て自分たちの土地を持つという時代になってからです。
  なぜ集団間の戦争に至る能力が、人間に高まったのか。大前提は、共感という能力ではないかと思っています。人間の家族は、共感によって作られています。ま た、家族は単独ではあり得ず、複数が集まって共同体を作ります。それはどんな狩猟採集民でもそうです。複数の家族が集まり、共同体を作ることが、生きるた めに欠かせないわけです。
 しかし、ゴリラもチンパンジーも、どちらかなんですね。ゴリラは一夫多妻の家族的な集団を作って、共同体がない。チンパンジーは複数のオスとメスが含まれる数十頭の集団がある。でも、その中に家族はありません。
 なぜなら、家族と共同体は相反する原理でできています。家族は、親は自分の子どもが誰よりも可愛く、子どもは親が誰よりも大切というのが原則。依怙贔屓(えこひいき)が当たり前の集団なんですね。だから何かあげても、お返しを期待しないでいい。
 しかし、共同体は互酬性が当たり前です。何かあげればお返しが来るし、何かしてもらえばお返ししなければならないと思う。そういう心でつながっているわけです。それは同じような共感ですが、原理が違う。人間はうまく両立させながら、生きてきたのです。
 なぜ、そんな変な集団を作ったのか。ゴリラかチンパンジーのような集団でよかったのではないか。ここが問題で、実はそれではやっていけない事態が起こりました。人間が熱帯雨林を出て、樹木のない土地へと足を伸ばしたからです。
 熱帯雨林は年中緑があって、豊富な食料がある。樹木の上なら地上の大型肉食獣から逃れて安全な場所で休める。
 でも、熱帯雨林を離れると、食料はまばらに分散し、乾期になるとなかなか得られない。だから、遠くまで足を運ばないと必要な食料が得られないわけです。また、地上の大型肉食獣にも狙われる。
 食料と安全性という点から非常に不利です。だから、食料を集めるためには、能力が近い小さな集団で動かなければならなかっただろうし、安全という面では、大きな集団のたくさんの目で警戒しなければならなかったでしょう。
 この二つの相反する課題を乗り越えるために、人間は結論から言えば、家族と、複数の家族が集まる共同体を作らざるを得なかったわけです。しかも、これは基本的には子育ての集団でもあります。
  恐らく、サバンナに出てきた人間は肉食獣に子どもを狙われ、たくさんの子どもを失った。そのため、子どもを増やさなければならず、授乳期や出産間隔を短く して、多産になったわけです。なおかつ、人間の赤ちゃんはなかなか成長しませんから、お母さん1人では育てられなくなった。複数の家族が集って、育児集団 を作らなければならなかったわけです。
  そうすると、いろんな分担をするようになる。食料をとりに行くもの、集団を守るもの、育児をするもの、居住条件を整えるもの、というように。そうしなが ら、自分の子どもに対して与えていた共感能力を、子ども以外の大人や他集団にも向けながら、生活力を高めていったはずです。複数の家族を含む共同体ができ あがる時点で、人間は相当に高い共感能力を備えていたはずです。
  こうした高い共感能力に加え、さらにいくつかの契機が重なったと僕は思います。具体的に言えば、一つは言葉。言葉は、時間と空間を越える能力を持っていま す。自分が体験していないことを誰かに伝え、それを自分のことのように思い込むことができる。比喩もできる。そういうことによって、想像力が生まれ、それ までとは比べものにならないぐらい高められた。
 次に定住生活。それまでは狩猟採集で移動生活を送ってきたわけです。移動するため、持ち物が限られ、自分の所有物にしてしまうと、持って歩かなくてはならなくなる。だから、ほかの人たちとの共有が当たり前になる。
  また、獲物を追って移動するわけですから、集団の大きさや密度が限られてくる。集団同士、個人同士の出会う頻度が少なく、所有物が個人に帰されるものでな ければ争いはあまり起きません。しかも、争いが起きたら離れ合ってしまえばいい。実際、現代の狩猟採集民はそういう解決の仕方をしています。
 しかし、あるときから定住生活が始まった。土地に投資し、そこで食料を蓄え、環境が悪くなった時期を耐えることの方が、移動生活より有利な時代がたぶんやってきたんだと思います。
  1万数千年前ごろから、だんだんと多くの人が定住するようになりました。そうすると、農耕は水場の権利や肥沃(ひよく)な土地が大切ですから、そういった ものをめぐり、集団が住む土地の間に境界がひかれるようになる。こうした境界などが、争いのきっかけになったと思います。
 なおかつ重要なのが、集団の規模を保つために、死者にそのルーツを求め、死者を仲間に加え始めたことです。現代の狩猟採集民は墓を作りません。墓は、祖先によってこの土地は守られているという考え、その土地の権利を自分たちで主張する標識にもなります。
 人と人との結束を強めるためにも、祖先は必要です。ほとんど会ったことがなくても、祖先が同じだということで家族のように付き合える。祖先という目印をもとに、互いに助け合い、敵に立ち向かうという精神が育まれるわけです。
 共感能力は本来、人間の協力を高め、一つの行動に向かわせるために利用されてきました。それが、言葉、定住生活、死者によって爆発的に高められ、共同体を脅かす敵に対し、一斉に向けられるようになったと僕は思っています。
 しかし、自然界にもう人間の敵はいなくなってしまった。つまり、人間は自分たちの生活を拡大するために、今度は人間自身を敵にしてしまった。
  それは人間の進化の中では、極めて最近のできごとだと思います。いったん身についた共感能力は、なかなか衰えません。僕はいうなれば、アレルギーみたいな ものだと思っている。病原体の刺激に反応するはずの免疫力が、本来の刺激がなくなってきたときに別のものに向かい、爆発を起こす――。それが、いま我々が 直面している事態なのではないか、と。(阿部彰芳)


朝日新聞デジタルから~

マザーテレサ『 1月27日、後藤健二さんの解放を願って、仏教、イスラム教、キリスト教の宗教者ら約80人が東京・永田町の首相官邸前で祈りを捧げた。(中略)
○○寺の僧侶○△さん(62)は訴える。「武力では、平和をつくることはできない」』

 以上は朝日新聞デジタルからの引用だが、この宗教者たちは何を勘違いしているのだろう?言葉尻を捉えて揶揄するわけではないが~「武力では、平和をつくることはできない」~子どもでも分かる当たり前のことだ。敢えて高名な宗教者が言うことだろうか。一体何を言いたいのだろう?武力を憎むなら一流企業にランクされている兵器産業の会社の前でデモるべきだ。彼らは何か変だ!首相官邸の前、マスコミの前で、したり顔で群れてパフォーマンスすることが、平和につながると思っているようだ。
他にもペラペラ言っているのだろうが、記事を読む限り、どうせ宗教者特有の責任をとらなくてもすむ空虚な言挙げばかりだろう。
まさか、「宗教が平和をつくることができる」などと本気には思ってはいないだろうが、それにしても、奇妙な人びとだ。宗教が平和をつくれるものならば~宗教組織は星の数ほどもあり、何千年も存在し続けているのだから、世界は少しは平和になっているはずだ。もとより世界が平和になったら彼らの居場所がなくなる。だから宗教組織は戦争があった方が自分たちの存在価値をアピールできる・・・本気で戦争反対などと思っていないかもしれない。
世界の三大宗教・・・仏教~釈尊の出身地インドではいまだに奴隷が多くいるし、カースト(ヴァルナ)の最下層の人々は毎日地獄の日々を送っている。テレビや雑誌で持参金の少なかった嫁の顔に硫酸をかけたり、レイプ被害が多いと聞き知る。キリスト教~イエス・キリストの出身地ではパレスチナとイスラエルが反目し、日常的に人々が傷つき殺されている。回教~マホメットの出身地ではISISが跳梁跋扈している・・・イエス、釈尊、マホメットが故郷の現代21世紀の有様を見たら、驚き嘆き苦しむだろう。

 宗教者と呼ばれる偽善者が人びとに対して責任を取ることなど古今一度もない。ペラペラと優しくしゃべるだけで、全てを神仏に丸投げにするだけ。自らは何の責任も取らない!
「病気は神が治す。金は医者が取る」(病気は神が治す、医者は包帯を巻くだけ)という格言があるが、「宗教者は金は取るが、責任は神仏に丸投げする」~仮に彼らが善人であるならば、バランスシートを公開するだろうが、そんな宗教組織は皆無だ。収入のほんの一部を慈善に使って、偉そうな態度を取るだけ。おそらく彼らの為す慈善的行為は集金した額の1パーセントにも及ばないだろう。もし、何割も使っているならば、誇らしいことであり、宗教組織の幹部や会計担当、スポークスマンは必ずや公開するはずである。

「武力では、平和をつくることはできない」などと群れて嘘臭いパフォーマンスなどするヒマがあったら、バランスシートを公開して、宗教の偉大さと高潔さを人びとに伝えるべきである。現代宗教者が自らの安寧のために旧来の悪弊の中に居続けたいのは重々理解出来るが、それは悪魔の、鬼の手下であることを自ら認めていることだ。
あなた方の仕事は我々凡庸な庶民に釋尊やイエスの真の教えを伝えることだ。
宗教者は経典をバイブルをきちんと読んだほうがいい。あなた方の今の生き様が正しいか、それとも悪魔に加担する商売なのか、直ぐに理解できるはずだ。
すると高価なコスチュームに身を包んで高級車を乗り回すのが釈尊、イエス、マホメットの意に叶ったことかどうか理解できると思う。

・・・マザーテレサが法王から高級車をプレゼントされて、それを直ぐに売ってその資金で病院を作ったという逸話を読んだことがあるが・・・。

歴史とは流動的な先入観に基づくものである。

興福寺歴史を知るには考古学的な物証と文献以外に無い。専門の研究者ではない一般我々は、木簡や竹簡を読んだり、裏張りの紙に書かれた読みにくい崩し字を読んだり、土器などの直接資料の編年を熟知するような優れた研究者の解釈を仰ぐほかはない。
しかしながら、例え優秀な研究者であっても、歴史は物証や文献に新しい発見があったり、資料の読み違いが判明したり、科学的裏付けが明確になった場合などは考証、解釈が変わる。
歴史とは流動的な先入観に基づくものであると知るべきだろう。
歴史は過去の人間の行動、言動、喜怒哀楽、善悪を言語によって叙述されるものだが、真実そのものを知ることは出来ない。真実に近づくことしか出来ない。
嘘、出まかせを言う人間を信用するのは滑稽の極みだが、虚偽の資料からもそれが虚偽であることを知ってはじめて、気付くことは多い。酔っぱらいが話すことを真実かどうかと考察するようなもどかしさがある。酔っぱらいの多くは、やれ美味しい酒だ料理だ、素敵な店だと、繁華街に群れることを好むが、酔っぱらいの彼ら彼女らに真実がないように、虚偽の資料にも真実は無い。にもかかわらず、酔っぱらいの嘘、大言壮語と虚偽の資料は良く似ている。
我々凡人は昨日のことでさえ、よく覚えていないことからも、過去の歴史を知ることは本当に難しい。
当然のことだが、歴史を題材にしたドラマや映画、小説は優れた研究者の解釈よりも、一般的通説を元にしたものが多いように思われる。一般的通説は詳細な研究の前にあっては逆の印象さえ受けることもある。
疑問を感じたならば直ぐに自分で調べるという態度が必要である。そうでないと、東大寺素晴らしい!みたいなこの前に書いた件の某役人のように、結果的に釈尊と仏教を貶める浮ついたインテリ的解釈にはまることになる。

慈悲に過ギタ「忍 性」松尾剛次 著 ミネルヴァ書房

忍性

























忍性(1217~1303)は、時代的に親鸞、日蓮と重なる鎌倉時代の律僧である。
日蓮と祈雨の験力比べをしたことでも有名だ。日蓮が流罪から戻ると日蓮の信者がこぞって忍性門下になってしまったのを日蓮がパフォーマンスで挽回しようという信者獲得競争が背景らしい。
しかし忍性はハンセン病患者に自ら薬を擦り込んだり、背負ったりし、釈尊の慈悲を実践した偉大な僧である。その生き様は現代にあって高名な日蓮、親鸞よりも壮絶だ。

 さてこの本の45頁から当時の東大寺の件を引用しよう。
「嘉暦3年、(西暦1328年)10月6日に東大寺内で開かれた会議では、奈良の新在家にあった非人温室(非人専用の風呂)の移転問題が議論され、非人温室があるだけで『その穢気がなお、憚りがある』として、般若寺の以北に移すことを決議している。東大寺の官僧たちが、非人を穢れた存在として忌避し、非人温室が近傍にあることすら拒否していたことは明らかであろう。」

このブログで先に聖武天皇が東大寺に奴卑(奴隷)を寄付して自らの安寧を願ったことをhttp://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/6629202.html でご紹介したが・・・。
当時の(現代も?)東大寺は官僧があでやかな法衣を身につけ、輿や牛車に乗り(現代では高級車)、権力に媚びへつらい、仏教とは程遠い卑しく、浅ましい人々による運営であった寺であることを松尾剛次先生も資料から東大寺の性格を批判している。
ところが巷では東大寺は古今仏教の立派な寺であるとされている。先日も某国立関係の役人が主催する声明を聴きに行った際に「声明はここ東大寺で初めて行われた」と誇らしく説明していたように、東大寺が仏教の担い手であるかのように勘違いしていた。舞台に上がってのそのサラリーマン役人の説明は高名、有名を喜ぶ烏合の衆を喜ばせるだけのパフォーマンスであった。

真実よりも上辺、世間体、権力依存を優先させる仏教の一般解釈は著しく釈尊を貶めるものだ。仏教をきちんと研究する研究者の本はあまり売れず、件の役人の卑屈で浮ついた解説のような体裁の本はよく売れる。


13世紀インドの聖トマス・ベケット


聖トマス                              












このブログでびっくり仰天「栄光の仏陀」・・・三世紀のイランに仏教が伝わっていたことに驚いたと書いたが、またまたびっくりすることに出会った。http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/1020658.html
先日J.S.バッハの「マタイ受難曲」をオペラシィに聴きにいったので、「ガイリンガー著バッハ・白水社」と「川端純四郎著・JSバッハ・日本キリスト教団出版局」の二冊を図書館で借りた。
その「川端純四郎著・JSバッハ・日本キリスト教団出版局」の158頁に次のような解説があった。

「聖トマス教会カントールがライプチヒ市全体の教会音楽に責任を持つことになったわけです。教会と学校の名前である聖トマスについては、1220年に有名な吟遊詩人であるハインリヒ・フォン・モルゲンが十字軍従軍の帰途にインドにまで行って、聖トマスの遺骨と称する物をライプチヒに持ち帰ったことに由来すると考えられます。・・・実は聖トマスと言っても12使徒の一人疑うトマスではなく、カンタベリーの殉教者聖トマス・ベッケットだったという説があります。教皇への忠誠を守るため・・・・」

この部分の「ハインリヒ・フォン・モルゲンが十字軍従軍の帰途にインドにまで行って、聖トマスの遺骨と称する物をライプチヒに持ち帰ったこと・・・」
が大いに気になりました。今のドイツ周辺、バッハの時代に、13世紀以前にインドにいたキリスト教の聖者を崇めるということがあったとは驚きです!さらにインドはエルサレムとは逆方向の彼方にもかかわらずモルゲンという人物が長旅を経てその遺骨をドイツに持ち帰った?・・・当時インドにいたトマス・ベケットの名前がヨーロッパに響き渡っていたということだけでも驚きなのに、遺骨を?・・・仏舎利とストゥーパを彷彿とさせます。マニ教がキリスト教に色濃く残っていたことは想像がつきますが、それにしても興味深い内容です。
当時の文献を読める語学の達者な人に詳しく説明してもらったら面白いのではと思います。
回教が起こる200年の前の3世紀のイラン仏教についても驚きましたが、今回のこの箇所にも驚きました。

パーリ語サンスクリット語仏典と漢訳仏典の乖離に驚いているぼくごときの浅学には3世紀のイラン仏教事情、12世紀のインドキリスト教事情はとても手に負えるものではありません。

絵はラトゥールの「聖トマス」です。


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