江部遊観のブログ

リーラーの宇宙は第三章の脱稿をもって、その概要を表すことができたと考えています。世界を説明するのに「イエス・ノー・リーラー」による三重構造を基層にしました。それは一万年のながきにわたって戦争のなかった縄文時代のイデアを再構築する試みであり、それを現代に重ね合わせることによって、ひとがより豊かな精神性を獲得できるのではないかとの思いです。http://members.jcom.home.ne.jp/lila/

読みづらかった本~「イエスという男」田川建三 著

荒野のキリストこれは浅学なぼくの一書評にすぎないものであることをまずはお断りしておきたい。

 「イエスという男・田川建三 著・作品社」

田川建三先生は、ナザレやガリラヤはもちろんヨーロッパからも遠く離れた歴史も風土もまったく違う極東にある母語が日本語である日本人のキリスト教福音書研究家である。また、先生は同業研究者の実名をあげてあげつらうお茶目なところがある。
ヒーヒー言って、嫌々ながら働く庶民と違って、食うには困らない学者様のご身分だから仕方ないのかもしれないが、イエス様を含む、イエス様周辺の肉体労働者に気色悪く同情したりする。

 キンシャサで現地の人の苦労を垣間見て同情したり、木箱で机を作って~などと自慢げに語るが、おれは学者だ!という驕った態度はそのままだ。これじゃあ、「イエスという男」なんていう本を書いても、イエス様に嫌われるだけだ。そんな態度では先生がおっしゃっている「マタイやルカなどの福音書家の勘違いした挿入句は~」などとは批判できないはず。それなのに、真顔でできちゃう人でもある。
ご立派なのは分かるが~少し言いたいのだが~少し斜めっているから、似非インテリたちには受けるだろうが、自分では垣間見ただけにすぎない庶民の馬鹿さ、いい加減さ、醜さ、無能、哀れさ、貧しさを熟知しているかのように振る舞うのはやめた方がいい。
どちらかと言うと、物議をかもすようでいて、危ない橋は渡らないという中沢新一、梅原猛、大江健三郎的なスタンスのお人のようだ。
 
 彼の言抜けの極め付けはこの本の238頁12行目から~イェレミアスがパレスチナの肉体労働者を侮蔑していると散々非難した後に・・・
「みずからの肉体を消耗して明日の食いぶちのために働いたことのない者の無知のせいだろうか。それは本当に自分で経験しなければわからないことなのか。しかし、植民地支配の何たるかを知っていれば、たとえ自分では経験しなくても、かなりな程度まで理解できることではないのか。」と酔っ払いのようなふわふわした態度でイェレミアスの非難を続けていることだ。でもね、あのね、田川先生、あなたもイェレミアスと同じだよ、と言いたくなる。「植民地支配の何たるかを知っていれば~かなりな程度まで理解できることではないのか。」
バカじゃないの、知っていることを威張るのもいいが、他人を口汚く罵る人間に現地の人の苦しみ、悲しさなど分かるわけないだろう!
とにかく田川先生、他者に同情できる徳人のようだが、そこまで言うなら、数年間、食に事欠きながら肉体労働をしてみたらどうだろう。
博識のように見えるが、変人を気取ったりするのは、いかにもおぼっちゃまらしい。その態度は見え透いている。大組織であるキリスト教会攻撃はあまりしないのに、荒井先生、八木先生、土井先生、プルトマン先生などの個人攻撃は得意。先生の同情する肉体労働者の中でこれだけ他人を攻撃したら半端じゃないほど殴られることは確実だ。自分の説だけ正しいと、のたまわりたいお人のようだが、自分に似た考えを持つ同業者に対して、剽窃だ、盗用だと罵るのもどうかと思う。
このおぼっちゃんは、一度も殴られたことも、痛い目にあったこともないと思う。ある学校で教員をクビになったそうだが、路頭に迷う経歴をお持ちならば、まだ分かるが、その後も本人の言う学者様を続けられたわけだから、食うに困らないぼんぼんなのだろう。よほど甘やかされて育ったんだろうと思わせる。
イエス観については賛同できる部分もあるが、悪ガキのような頭の弱さには閉口する。この先生は勉強して知識はあるようだが、如何せん人として頭が弱い。
こんなに同業者を揶揄、愚弄しなければイエス研究はやれないのだろうか?繰り返すが、先生は今からでも、先生が上から目線で同情する肉体労働を少ししてみたら如何だろう。イエス様は田川先生のような学者様ではなく、大工の子で文盲の肉体労働者だ。そうすればイエス研究をしながら、同業者に罵詈雑言を浴びせかけることがどういうことか少しは分かると思う。

 ぼくは欧米の聖書学者の本は日本語訳でしか読めないが、福音書における後世の削除、挿入を語るときは、例えば10世紀以前の古写本にあるものが、11世紀以降の古写本には見られなくなるといういうようなことから、これは11世紀以降の削除であろうと、古文献資料をもとにして推測するのが常のようだが、田川先生はそうした手順を踏んでいるのだろうか。あるいは欧米のそうした学者の成果だと記さないまま、ご自分が直接その写本を調べたかのように、福音書の語句挿入、削除を論じてしまうのか。荒井献先生を233頁4行目で「アンチョコの焼き直し業者」とこき下ろすのも結構だが、まずご自分がどこの図書館の何世紀の何語のどの福音書写本を調べて判断したのかをきちんと明記するべきである。もし、それをしているなら写本の番号くらいは記せるだろう。していないということは、腹いせか逆恨みの揶揄、愚弄にすぎないと思われることを承知しなければならないと思う。もしかして「アンチョコの焼き直し業者」とはご自分のこと?
 それに・・・393頁の11行目に「もしもこれがQ資料の示しているように~」とあるのは何のことだろう?誰も見たことのない故にQ資料と呼ばれているのだが、不思議なことに田川先生はご覧になられているようだ。日本書紀の言い回しに「一書に曰く~」が多く出てくるが、Q資料はその日本書紀の「一書」のように、本当に散逸してしまったか、あるいはどこかに隠されているか、あるいは無いのにあると思わせるためか、の三点だろうが、いずれにせよ、福音書のQ資料と日本書紀の「一書」は永遠に日の目を見ることはないだろう。
でも、田川先生は「もしも~」はついているけれど、「Q資料の示しているように~」などと書いている。この本にはこのような曖昧、いい加減な記述が山ほどあることから、「イエスという男」は、「史的福音書研究」ではなく、キザに斜めって頭の軽いインテリさんたちにモテようとしたお文学の域を出ていない。
また、不思議なことに、この本で田川先生は福音書作者や同業者には罵詈雑言だが、高級外車に乗る現代の富裕な神父や牧師などの非難は余りしない。考えてみれば、マタイもマルコもルカも2000年前の人で死人に口無しだ。現代キリスト教のいい加減さを福音書研究上でけなすが、そんなにキリスト教が嫌いなら、現代のキリスト教会の組織にある高位の神父や牧師を批判すればいいと思う。梅原猛先生が「歎異抄・講談社学術文庫」で、ご宗派にとって都合の悪い文書である歎異抄を隠し続けた浄土真宗組織を一切批判しないのによく似ている。
そのやり方、生き方は狡くてみっともない。まずその酔っ払い口調をやめたほうがいい。それでも斜めってキリスト教研究をやりたいのなら、福音書ではなく、黙示録がお似合いだ。新約聖書の訳・注でヨハネの黙示録もおやりになられているが、ユダヤの黙示録文学はうわ言のような、ラリって書いたようなジャンルだから田川先生にはぴったりだ。しかし先生のご著作を何冊も読む気はもうない。
 アラム語やコプト語に詳しいと豪語される田川先生は、荒井献先生のナグハマディ文書翻訳(岩波書店)もお気に召していないだろうから、是非、田川先生による本格的な日本語訳をお願いしたいものだ。

宗教の定義として、さらに付け加えるべき重要なこと

img901e9c3dh65jcg[1]

 宗教を考える、というと、キリスト教国で構築された宗教観がこの日本でも当たり前のようになっている。日本のお偉い学者様たちはそうした欧米の社会的宗教観の受け売りに終始している。マックス・ウェーバー、バッハオーフェン、レヴィ・ストロース、などとしたり顔でうわ言を言うだけだ。欧米人が宗教という概念を語っていても、結局キリスト教を語っているにすぎない。日本語訳で読んでもそれが伝わってくる。
はい、ドイツ留学しました、キリスト教神学の博士号を取りましたと、ヨーロッパオタクの大衆芸能的美術ギャラリーに通う人々のようなおハイソさだ。宗教の神秘的なことや、大工であっただろう労働者イエスや、スッタニパータで「おいそこの坊主!」などと火の祭祀中のバラモンに蔑まれたお釈迦様を、中産階級のボンボンや中国禅をネタにアメリカで有名になるような学者様に宗教が理解できるはずがない。彼らは政治・権力・経済や階層という宗教組織の社会的現象だけを見て宗教を語る。
 キリスト教成立史の本を読めば分かるようにイエス様はご自分が殺された拷問具を首からぶらざげよ、ド派手な教会を立てよ、などとは一言も言っていない。福音書は四人の作者が書いたものだ。(福音書研究家は共観福音書のネタ本をQ資料として、意味不明のどうでもよいような議論を重ねている。) 
「心の貧しきものは幸いである」マタイ伝5-3、「貧しきものは幸いである」ルカ伝6-20、・・・「心の~」があるか無しでは大違いであるのに、これに明確な答えなど用意もできない「貧しき」学者様が多い。マタイはアレキサンドリア周辺のギリシャ語圏の富裕な人々へのためにこれを書いたために、貧乏人優先ではなく富裕層のために「心の~」と挿入したのだろう。(田川先生は文献上からそれを突き止めておられる)イエス様は底辺の民衆のために殺されたのに、日本のキリスト教会の駐車場にも高級外車が並んでいるのである。
実際、イエス様の周辺にはヨーロッパキリスト教史にあるように、王侯貴族、官僚、祭司、金持ちなどの裕福な人々はなく、ほとんどが漁師、羊飼い、徴税人、売春婦だ。使徒たちもローマと傀儡政権がイエス様に詰め寄ると平気で逃げ出した衆愚だ。
当時のユダヤ教祭司は私兵を擁した軍閥であり、宗教に関しては口先だけの支配層だった。
日本の宗教学者様もイエス様を含む周辺の人々の苦労など知りもしないし、知ろうともしない口先だけの甘ちゃん。イエス様のことを知りたかったら、費用のかかる外国留学で博士号を取ったりするよりは、聖書にあるように明日の食事の心配をしなければならない貧乏を二、三年してみるほうがいいと思う。
その博識と教示には敬意を表したいが、高名な聖書研究家の田川健三先生も、ヨーロッパなどの外国に留学して博士号を取ったり、外国で教鞭をとったことを自慢するよりも、少しでもそういう経験をなさった方が貧乏人の息子であったイエス研究に役立つのではないかと思う。
また「宗教学者」を自称するヨーロッパかぶれの人たちには、宗教組織の資料を見たり、翻訳したりして並べ替えたり、整理したりするだけの稚拙な仕事ぶりにに憐憫の情さえ覚える。そんな退屈で詰まらない仕事をするくらいなら、一般会社に勤めて、頑張って、悩んで、苦しんで、「宗教」というものを考えた方がいい。

 
 宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤だ。超次元を表すのに、あの世、天国、地獄、来世などの用語が使われているが、リーラーでは「向こうのフィールド」という用語を使っている。
 
 この列島は現在でもそうだが、新宗教のような妄信的な人々は少ない。ザビエル書簡集で、彼が一家の主人と奥さんと子どもがそれぞれ違う宗派の宗教を信じているのを相当不思議に思っていたように、この列島ではかなり前から妄信的一神教に汚されていない。15000年前から卓越した平和的文化・宗教の縄文時代を擁する民俗なのだから、この列島の土壌は本来、宗教について客観的な思索をすることが可能なはずだ。なのに、一神教に洗脳された欧米の学者の受け売りをしている貧しい宗教学の現状は悲惨だ。

 西ヨーロッパ人は人類史上では後発組のためか、(前回のアイスマンのことやケルト人のことなど)産業革命を起こすと鉄砲や大砲などの近代的武器や道具による残虐な暴力でアフリカ、アジア、アメリカの人々を虫けらのように殺し、収奪する人間として恥知らずな民族だった。その貧相な驕りは今でもナチズムや白人主義に見られる。イギリスやフランスの商船は、鎖につないだままアフリカからアメリカまで運ぶ生存率1~2割という奴隷貿易を続けた。狂人の為す行為だ。利潤のためにアフリカ、アジア、アメリカの人々から収奪し、反抗する者を虫ケラのように殺してきた。彼らのイデオロギーはユダヤ人のパウロがエジプトのギリシャ語圏のアレキサンドリア周辺で構築したキリスト教をさらに階層的、権力的にヨーロッパ風に改竄したものだ。例えば領民は領主の信仰に従う、という近代以前のドイツでは、領主がルター派から敬虔派になると領民も信仰を変えざるを得なかった。その極端な例は、王様がカトリックからプロテスタントに宗旨変えして、それを国民に押し付けたイギリスの例がある。

 西ヨーロッパ人は、古層にまで至るアフリカやアジアの文化を階層的、差別的、権力的キリスト教イデオロギーによって破壊して、あたかも自分たちこそが上なのだと思い込みたくて、勘違いして叫び、アフリカやアジアの人々を侮蔑してきた。
キリスト教に限らず、イデオロギーを信奉する宗教組織は政治・経済などの分野であり、宗教という概念とは相容れない。
そうした残酷で軽薄な人々が宗教の定義を語る・・・なんのことはない、彼らは「宗教」を語っているつもりでも、中東で興り、その後階層的ヨーロッパ社会で独自に構築されたキリスト教を語っているにすぎない。階層的、権力的キリスト教の呪縛から逃れられない。アニミズム、トーテミズム、シャーマニズム・・・一神教だ、多神教だ、構造主義から見れば~、哲学的には~などとまことしやかに語るが、まるでバカバカしい分類作業だ。
それを拝読、拝聴して剽窃、盗作、勘違いしているこの国の宗教学者様はもっと愚かだと思う。


宗教は人類にとって向こうのフィールドとの関連と動物にもともと組み込まれている共感、親和力のソフトを引き出すものであり、それは見えない「こと、もの」に対しての真摯な態度が含まれる。
宗教の第一義は物質的世界を超えた超次元と自らの精神、魂、心における葛藤である。


とリーラーでは定義する。


「なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するか」末尾の(注)

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

体内微生物

微生物先月は何となく本屋で手にした微生物についての本を読んだらとても興味深かったので、続けて何冊か読んでみた。また、それらの本に刺激されて、ナショナルジオグラフィックの体内微生物の番組を録画して見た。

 それによると人間の身体の8~9割は微生物であり、微生物が人間に寄生しているというより、人間の生命行為の実態はその逆である考えるべきだ、との主客転倒が正しいという考え方もあるということに驚きを感じた。
一つの細胞は平均10個の微生物と協調して存在しているらしいが、興味深いことだ。特に腸には分かっているだけで2500種の微生物があるらしい。
最近は精神病と腸内微生物の研究も進んでいる。例えばウツ病を発症するセロトニン欠乏において、腸内微生物との直接的な関連が指摘されている。それはセロトニンを生産する微生物が小腸内にあり、それが血液によって脳内に運ばれて健全な精神を維持するというシステムになっていることから、セロトニンだけを考えた場合は、心や精神、魂という問題よりも、ウツ病は小腸のセロトニンを生産する微生物の問題である、ということも言えるそうである。

 そう言えば、現代の医学は体内の9割を占める微生物統御をほとんど無視した対処的、部分的医療に限られている。
現代医学は対処的、部分的医療に特化してしまっているために、医者が治ると自信を持って判断して高度、高額な医療を施しても、なかなか治らない場合があるのは当然のことだろうと、考えさせられた。
 ぼくは医学のことなどまるで分からない一般大衆だが、これからの先端医療は微生物のことも考えるようになるのだろう、と考えるとなんだか不思議な気がする。アランナ・コリンさんの説得力のある「あなたの体は9割が細菌・河出書房・矢野真千子訳」が面白かった。中西貴之先生の「へんな細菌、すごい細菌」は驚くべき細菌利用について書いてあった。


なぜ宗教ではなく宗教組織を糾弾するのか?

般若0405-2 類人猿からヒトへの進化過程や動物行動学、人類学、考古学などの    本を読み続け、他国の巨石文明やこの列島の遺跡、博物館をぼくのできる範囲で見学してきた。その結果、もともとヒトが作る社会組織には慈愛、共感、同情などが優先されていた可能性が高いと考えるようになった。もちろん10000年前の現在のケニア・トゥルカナ湖付近での集団虐殺や、1991年にアルプスにあるイタリア・オーストリア国境のエッツ渓谷の氷河で見つかった約5300年前の男性のミイラ・アイスマン(注)の致死の原因がヒト同士の暴力によっていたことなど、人類が同胞の殺戮をしていた考古学的証拠はある。しかし、10000年以前のヒト同士の殺戮の発掘事例の少なさと、民族、民俗学事例から我々ヒトの本質は本来平和であったことが類推される。ましてやこの列島の縄文時代にヒト同士の確実な殺戮の証拠はいまだに無い。
 現代の我々ヒトも集団で殺し合いを演ずる理由のそのほとんどが政治、経済、イデオロギー、宗教が介在した場合に限る。実際、怨嗟など個人的な理由で人殺しをするヒトはマレである。しかもほとんどのヒトが怨嗟などを抱いても人殺しはしないものだ。ましてや自発的に徒党を組んでみんなで殺し合いをすることなど皆無だ。
 我々ヒトはどこかでボタンを掛け違え、暴力、権力、財力などというものを生じさせてしまったのだ。ジンメルやマックスウェーバーなど読まなくとも、「信用創造」という用語一つを見ても、貨幣の意味はもともと幻想であることは誰の目にも明らかだろう。嘘、虚構、収奪・・・心の醜い人々ほど富むのはそのためである。国家は王政であろうと民主主義であろうと、我々民衆は課役を負担する民であり、使う側ではない。その階層化によって政治は成り立っている。我々大衆は「課役負担民」と定義されている。

 人類は科学や芸術や国家や文化、宗教組織を構築したが、その中で最も古く人間臭いものが宗教組織である。当たり前のことだが、ヒト以外の動物は南無阿弥陀仏や南無妙法蓮華経、アーメンなどという唱え言などどうでもよく、完全に確実に無視し、一顧だにしない。
宗教組織は人間の作ったものだからである。この宇宙において普遍性も何もない誠に人間臭いものだ。
しかし、組織宗教ではなく、本来の「宗教」という概念は向こうのフィールドや彼岸の存在を確信する態度を持ち、清く、美しく、気高く、慈愛に満ちた平和的概念の元にあるべきものだ。また「原始宗教」というカテゴリーの研究などは「宗教」が社会構造をギスギスさせないためにあるという高度な側面を持っていると論じているが、その通りだろう。
 つまり「宗教」は貨幣や道具や思想、哲学にはない人間の中で最も汚れのないカテゴリーでないと機能しない。近現代のマネー大好き、尊敬されるの大好き、権力大好き、威張るの大好きの薄汚れた聖職者には荷が重い。
「宗教」は人間の構築した文化の中で、最も美しく気高く、清くなくてはならない。科学、芸術、政治、経済は暴力と権力、財力、見栄、嘘、欺瞞がはびこってしまった。宗教が鬱陶しい糞まみれになっては人類に未来はない。そう危惧している。
 宗教が人類の最後の砦!
 宗教本来の清く美しい姿を取り戻せば・・・ぼくはそう考えるマイノリティーである。
ここで考えるように、もし宗教が人類を高める可能性があるならば、事は簡単である。真っ当な宗教を取り戻すことだ。人類には現在美しく、気高い規範が一つもない。  無慈悲な計算可能性をもった貨幣が人類を貶め、さらに清いはずの宗教が政治・経済とつるんで穢れてしまった。

 前回のブログに書いたが・・・宗教組織のやることと言ったら、我々が愚かな大衆であることをいいことにして、1000年前に中国人が儒教的に翻訳した仏典のその表題を唱えるといいことがあるかもしれない、などという馬鹿げた洗脳を続けてきた。
 何かを念じて、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経などと唱えることは、心理的プラシーボ効果はあるだろうが、仏典にはそんなことは書いていないし、2500年前にインド・ネパール地方に居られたお釈迦様が、1000年後に中国語に翻訳された仏典の表題を唱えることが仏教である、などと言うだろうか?
こんなことは、子どもでも分かるはずなのに、我々愚かな大衆はそれに気付かない。

 例えば、原題とは違う変な日本語翻訳のバッハの「平均律クラビーア曲集」の題名を日本語で何度も唱えると、上手く弾けるようになるだろうか?
 上手く弾けるようになるには、日本語の表紙の題名を眺めているだけではなく、楽譜を開いて初めから終わりまでよく目を通して練習しなければ上手くならない。
 こんなこと当たり前のことだ!
 仏典の中身を読まずに、題名だけ唱えてその仏典が分かるだろうか?
 いい加減な嘘、欺瞞でも大衆は信じるさ~愚かな大衆に夢を持たせてやって何が悪い~文句を言われる筋合いはない~と開き直って仏教組織は大衆を衆愚に貶めてせっせと集金に励む。
釈尊寂滅から2500年もたっている。もう21世紀だ。いい加減なこんなバカバカしいことを信じるのは、もうやめよう。信仰?・・・それは愚かな我々大衆に対する洗脳!
 あなた方がこんなウソ、欺瞞ばかりだから、我々大衆の政治家、学者、芸術家もあなた方と同じように嘘、欺瞞の世界を構築している。
 とにかく、宗教は美しく清くなくてはならない。威張り腐ったアホに清濁併せ呑むもんだとか、ヘラヘラ言わせるのはもうやめよう!宗教は人類の文化の最古で最も人間臭いものだ。これが糞まみれになっているから、人類に救いがない。
 宗教は最後の砦だ。
 敵味方が同じ神に祈る、なんて!こんなバカことをしているのが我々人類の組織宗教なのだ。
 宗教とは誠に誠に個人的な、ピュアな、霊的なものだ。

参考 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/search?q=%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%AF%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A7

(注)アイスマンのDNA解析によると、5300年以前のヨーロッパに住んでいたのは現在のヨーロッパ人ではなく、トルコ系だった。アイスマン以降はケルト人と呼ばれる人々がヨーロッパ地方に住んでおり、そして遅れてコーカサス地方からヨーロッパ地方に進出して先住民と混血した人々が現代ヨーロッパ人の始祖となった。それ故にクレオール語(混交語)としてドイツ語やフランス語の成立が14~15世紀と新しい。フランス政府公認というラスコー洞窟壁画展では、図録に壁画を描いたのはフランス人の祖先クロマニヨン人とあり、その頃からフランス人は芸術に云々・・・などと書いてあるが、大雑把に言うとフランス語は13世紀以前には存在しないケルト語やラテン語とのクレオール語だし、フランク王国はもともとゲルマン系だ。フランスという概念がヨーロッパで行き渡るようになってから600年でしかない。牽強付会もここまで来るとバカバカしくて開いた口がふさがらない。

仏典や聖書を読んでいて・・・


img_176309_14549532_0[1]ユダヤ・キリスト・回教(セム語族の一神教というくくり)は、中東の砂漠地帯で毎日寝起きし、見る動物といえば家畜ばかり、砂漠には木も草も生えない、山々に降り注ぐ雨、豊かな自然風景など見たことがない民族が構築した宗教である。熱帯地方やわが国のような湿潤地帯の神観念とは違う。
イエス様はご自分が殺された拷問具である十字架を信者が首にぶら下げるのを喜ぶだろうか?現在ならば電気椅子や絞首刑具を首にぶら下げるようなものだ。実際、十字架がキリスト教のマークになったのは4~5世紀だ。それ以前はご存知のように魚のマークだった。
「問いかけるイエス・荒井献著・日本放送出版協会」には、山上の説教について浅学なぼくには気が付かなかったことがたくさん書いてあった。例えば・・・
マタイ福音書「心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」
ルカ福音書  「貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである」・・・
なるほど「心の貧しい人々」は必ずしも貧乏ではないが、「心が~」と断ってなければ、「貧しい人々」は貧乏と解釈するべきである。また、「天の国」と「神の国」は用語が違う。マタイ派とルカ派の違いだが、このように三つの共観福音書はかなり違う。詳細は荒井先生のご著作をお読みいただきたいが、この三本の福音書において使徒の名前もバラバラ、並行箇所もバラバラ、マタイ福音書にはイエスはマリアの処女懐妊だから父親の血筋とは関係がないのに父親の系図が延々と書いてある。それなのに教会はイエス様のこの三本の伝記を勘違いしたまま信じるように壇上から庶民に説教している。大衆を衆愚としてバカにしている。

 
 お釈迦様はインドの暑い国で生まれ育ち、そのお顔は現在のインド、ネパール人に似ていただろうが、日本の寺の仏像は薄目を開けた太り気味の中国人風がほとんどだ。こんなバカなことはない!お釈迦様は中国人ではない!そもそもお釈迦様が、気の触れた独裁者のように「俺の像を置いて、みんなに拝ませろ!」なんて言うわけがない。何を根拠にお釈迦様を揶揄するこんな風習を作ったのか!こんな恥ずべきことができる仏教僧という浅ましい輩の行き先は確実に浄土ではないだろう。大宗教組織の宗教者は、お釈迦様寂滅1000年後にパーリ語やサンスクリット語から中国語に翻訳されたものを完全なお釈迦様の言葉だと勘違いしている。なぜ原典であるパーリ語やサンスクリット語の優秀な研究者の翻訳、著作を読まないのだろう?

太り気味の薄目を開けた中国人風の像を民衆に拝ませるのが仏教なのだろうか?

高級外車好き、酒好きで葬式と墓地営業、観光営業にあくせくする僧に仏教を語る資格はあるだろうか?
南無釈迦牟尼仏、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経・・・と中国語のお釈迦様や、お釈迦様寂滅後800年も経ってから編纂されたインド経典の中国語翻訳の経典の題名を唱えると何かいいことがあると民衆に信じ込ませるのが仏教なのだろうか?

「リーラー」という思想

ナグハマネィ写本 例えば、言語学の本をいろいろ読んでいると~「言語を扱えるのはヒトだけである」と、言語が使えることで他の動物に勝ち誇ったような表現をみることがある。
「サルや類人猿にヒトの言語をカードや手話で教えても~、言語的思考は育まれない~」などというような文脈で使われる。当たり前のことだ。サルも類人猿も人間ではない。日常生活も思考構造も、これまでの進化の過程でも、発声の肉体的構造もヒトとは違う。言語を持たない類人猿やサルはヒトよりも劣っている~と言いたいがための、我々ヒトも動物なのに、他の動物を見下すだけのアホな言い回しに見える。サルや類人猿がヒトの言語を理解できない、などという当たり前の、こんな研究が馬鹿げていることに気が付かないアホな学者。ヒトとしてこれは悲しい、というよりもう痛い、としか言いようがない。言語学だけではなく、このプログで書いてきたように学者というカテゴリーの人たちはそんなアホが多く見受けられる。なんで頭の弱い人が学者を目指すのだろう?不思議でならない。学問は豊かな想像力、創造力、才能を必要とする。時流に乗るのが得意だとか、清濁併せ呑むとか、出世とかを考えるようなサラリーマンの輩は人々をリードする学問をやってはならない。ああだ、こうだのもっともらしい屁理屈と、きちんとした論理の違いはぼくのような浅学の者にも分かる。通暁などしていないにもかかわらず、何ヶ国語もの資料や本を参考文献としてあげたり、剽窃、盗作まがいのものでお茶を濁すだけなら、どこかの会社に勤めて一生懸命に汗を流した方がいいと思う。(例えばロシア語やドイツ語の資料や参考の場合、日本語か英語の翻訳本を読んでその当該原題をロシア語やドイツ語で表記したりする。アホな研究については下記でも書いた。)
 http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/1582115.html
 
 また、一般に、ぼくの経験からしても想像力、創造力のある者は、無味乾燥な受験勉強は得意ではない。知的水準の高い者は別だが~受験勉強が得意であることはすなわち人間性が軽い者である。学問を好きとか、好奇心旺盛ではなく、一流大学卒とか、そういものを欲しがる見栄っ張りは軽い人間である。そういう軽い者が人類をリードしているから、いつまでたっても人間世界のいい加減と嘘が主流の下品な文化がよくならない。興味のない科目をいくつもたて続けに覚えるのは確かに忍耐がいるが、優秀な者以外、それを覚えていたり、その知識を使うことはマレである。だから、ほとんどの政治家、大企業の経営者、宗教組織権力者はこの世界を「多い、少ない」だけでしか世界を見ない。

話は戻るが、類人猿やサルはヒトではないのだから、ヒトの言語の理解や扱いが出来ないのは当たり前のことだ!こんなことにお金を使うのはもったいない。
 それは平和の祭典と言われているオリンピックが政治家と土建屋と、見栄っ張りが国家のお金を掠めとるだけになっているように、こんなことにお金を使うのはやめて欲しいものだ。何兆円もかかる平和の祭典?そのお金を紛争地帯や貧しい人たちに使ったらどうだろう。どちらが平和に貢献する手段だろう?オリンピックは平和の祭典ではない。政治家、土建屋、取り巻きたちが国家のお金を掠めとるため、ああだ、こうだと、ヘラヘラと平和の祭典だと言い抜けているだけ。
 だけど勘違いしないで欲しい。ぼくはスポーツに対して、これっぽっちも非難していない。ぼくが非難しているのは、平和の祭典などとはとても言えないオリンピックを非難している。繰り返すが、オリンピックのために使う莫大なお金を紛争地帯や貧しい人たちに~。


  これまでこのブログでもずっと考えてきたが、頭の弱い自分勝手なアホたちが牛耳る暴力、権力、財力優先という貧しい文化を構築した人類第一の責任は、「宗教組織」と「宗教権力」、「宗教者」にある。人間の世界で最も、聖なる、美しい、清く整っていなければならない「宗教」が、嘘とマネー、戦争、権力、政治の糞まみれだからである。「宗教」には救いがあるが、「宗教組織」と「宗教権力」「宗教者」は神仏と清らかな人間性を否定する諸悪の根源だ。少なくともこの三つがまともになれば、人類はもう少しマシになれるだろう、ぼくはそう考える。そういう意味でリーラーという思想の構築をずっとやってきた。

「信仰」ではなく、「知る」

466ca5d7[1]「信仰」ではなく、「知る」という態度が肝要だ。対象についてほとんど知らなくても人は信ずることが出来る。これは我々衆愚の衆愚たる所以だ!
ヒトラーは偉大だ!ドイツ国民を良くしてくれる!天皇陛下に忠誠を尽くすことは国家と国民のためだ!
ご存知のように、ドイツも日本も第二次大戦でたくさんの国民が殺され、怪我をし、家族、恋人、友人を失い、財産を失い、重大なトラウマを抱える、という結果となった。
戦争に勝つと、王族や政治家とその取り巻き、武器商人だけが幸福になり、戦勝国であろうとも国民が幸福になることは絶対にない。戦勝国の国民が大いに幸せになったことなどあるだろうか?負けた国民はさらに恐ろしい不幸が待ち受けている。

 大多数の人々が信じていたことは間違っていた。原子爆弾を投下され、町々は灰燼に帰したくさんの人々が傷付き殺された。神国日本と信じていたのに~。教会はイエス様のその名のもとに殺しを続けてきた。ぐだぐだ言うのは結構だが、軍隊や銀行まで持つ組織宗教はイエス様とは関係ないだろう。イエス様の教えとマフィアのマネーロンダリングまでするバチカン銀行とは何の関係があるのだろうか?それでも醜い宗教権力者たちを疑いもせず信仰を捨てない人々は衆愚と見下げられても仕方がない。
とにかく信ずることが大事だと洗脳されている。
キリスト教徒はカトリックとプロテスタントで決着のつかない血みどろの戦いをしてきた。16世紀のユグノー戦争では、フランソワ・デヴォアの絵を見れば分かるように無慈悲で気味の悪いIS同様の凄惨な殺し合いをしてきた。
双方同じキリスト教なのに、これほどの憎悪が生まれる。
もし、彼らがきちんと聖書を読む宗教者ならこんな地獄図を演出することはなかっただろう。イエス様がユグノー戦争を見たら、どうお思いになるだろうか?
お互いに信仰を拠り所として、殺しあった。女、子どもの首を刎ね、腹を切り裂くようなことをしてきた。
信仰は精神の病である。
悪魔と結託した宗教組織が、大衆に何も考えさせずに、精神を盲目にさせるーそれが信仰という洗脳である。
もし、聖書を本気で読む者ならこんな残虐なことが出来るはずがない。信仰とは自らの所属する聖典や聖者の言葉さえ簡単に反故にしてボスに従う。これは宗教組織における殺人、略奪だけのことではなく、日常折々のことでも、結果的にイエス様を裏切り、罵倒する生活をさせている。
  宗教組織においての信ずることは、イエス様の言う信仰とは全く異質である。
もし信仰が人類に有益なものなら、同じ信仰を持つ者同士で殺し合いをすることはないはずだ。信仰は人類の幸福を促さない。

 
 信仰とはイデオロギー的な洗脳であるゆえ人類にとって有害である。信仰は宗教組織と権力を持つ者、その取り巻きだけに有益であり、一般信者は衆愚とさせられる。
「知る」ことと「信仰」は全く異質であるにもかかわらず、宗教組織はこれを同意とする。
キリスト教信者はきちんと聖書を読み、仏教徒はきちんと経典を読むべきである。そうすれば、我々は衆愚ではなくなり、我々にきちんとした宗教観が生まれる。
「信仰」ではなく、お釈迦様やイエスを「知る」べきである。

 宗教者は我々愚かな人民に組織に都合の良い箇所だけを提示し、組織に都合の良いように解釈して、衆愚から収奪して肥え太るという性質がある。

イースター島

イースター島人類の暴力性を喧伝する論調は多いが、下記のような研究や論調も意外と多いことからリーラーという思想を構築し始めた。
ここで平和的人類基層について本や資料など様々なところからぼくが集めた人類の平和的性向を少しずつご紹介していきたい。


イースター島、人殺しの武器を作らなかったと新説   
島内の争いがもとで衰退したとする従来説に異論

ナショジナル ジオグラフィック 2/25  2016 から


 ラパヌイ(イースター島の現地名)のモアイほど、世界的に有名な遺跡は数少ないだろう。また、その石像を作り上げたポリネシア人たちの悲しい結末ほど、人類の未来への警鐘となる話も少ないだろう。
 1722年にヨーロッパ人が初めてこの島へやってくる前のこと、島の人々は不思議な巨石像を次々と作り、そのおかげで島中の森林が伐採され、資源は急速に枯渇し、残された乏しい資源をめぐって島民の間に争いが起こり、やがて完全な社会崩壊、経済崩壊へつながったのだと言われてきた。(参考記事:「謎に満ちたモアイ」)
 しかし今、島のいたるところで発見されているごくありふれた遺物が、その通説を覆そうとしている。
1877年当時、島に住むラパヌイの末裔はわずか110人だった。ヨーロッパの民族学者たちが、イースター島の社会を崩壊させた武力闘争に関する口承を収集し始めたのがこの頃だった。島のいたるところで出土した数千個もの石器は、武器として使われたと考えられた。黒曜石で作られた石器は、小さく細長い三角形をしており、柄がつけられた。
 元ナショナル ジオグラフィック協会付きエクスプローラーのジャレド・ダイアモンド氏は、2005年に出版した著書『文明崩壊』で、マタアと呼ばれるこれらの石器を「頻発する内乱」の遺物として紹介した。米国の国防脅威削減局の刊行物でも、「石器時代の武器発達」の一例として挙げられている。
 ところが、新たに発表された研究報告により、マタアには実は殺傷能力はなかったとする証拠が示された。しかも最近では、後世に語られるようになった武力闘争も実際にあったのかどうか、ラパヌイ研究者の間で対立する意見が出始めている。島民たちは確かに森林伐採と環境破壊の影響に苦しめられたものの、文明崩壊まで至ったのは、外部の人間との接触があってから、彼らの持ち込んだ疫病と奴隷制のためであったという。

 論文の著者は、殺傷能力がないマタアを作ったのは、孤立した島社会に暮らす人々があえてそうしたのだと指摘する。彼らは、狭い島の中で互いに殺し合いをすれば、いつか全員が死んでしまうということに、早くから気付いていたのである。(参考記事:「石器時代の大規模な「武器工場」を発掘」)

AIを考えていたら・・・

02[1]AIは人間を超えるか?人口知能の将来!
AIと恋に落ちるか?

 最近AI関係のネタで 刺激的な言葉が飛び交うようになってきた。
だがほとんどの記事はこうしたことを論じる際に必要な大前提の欠落に気が付かないようだ。バカバカしい論議だと思う。
人間とは何か?
これを定義しないことには、AIが人間の何をどう超えたのか?分からない。
AIはそもそも人間ではなく、電気が流れることによって動く機械だ。
姿形や反応が似せたとしても、そもそも道具にすぎない。何も食べないし、飲まない。動物のように、体内に微生物が密集しているわけでもないし、灰白質の脳によって体が制御されているわけでもない。DNA、RNAによる生体複製もしない。

AIがプロ棋士に勝った。
AIが人間の計算能力の数兆倍の演算速度を持つようになった。
AI搭載機械が熟練労働者10人分の仕事を素晴らしい速度でこなせるようになった。
AIが瞬時に膨大なデータベースを検索して類推機能を持つようになった。
AIの人口皮膚を動かして、笑顔や悲しみの顔を作れるようになった。
こうした一部のことを取り上げて「人間」と比べる?
グラビアの美女に恋をするような、ディスプレー上のバーチャル世界と現実世界を混同するような、取り留めのないことを針小棒大に取り上げて、ヨタ話をしているにすぎないと思う。

 抵抗器や集積回路、ハードディスク、ケーブルに電気を流し、0と1の二進法の電気信号で動くコンピューターは、人間のようにオキシトシンやノルアドレナリンやセロトニンを分泌して感情表現をする人間とは似ても似つかないものだ。さらに人間についてその分泌を促す原因については何も分かっていない。セロトニンが分泌したから気分が落ち着いた?それは結果の分析で、なぜセロトニンが分泌されたのか、ということについて科学は何も知らない。仮説さえないのに、AIが人間を超える?
人間とは何か?・・・このことについて、哲学、宗教、科学、政治、経済学、生物学は真剣に考えようとしない。統合された仮説すらない!コンピューターには脳も血管も腎臓も心臓もない。無機質で出来ている。
さてAI搭載ロボットは家族や恋人を持っているのだろうか?帰宅して団欒を楽しむのだろうか?

 人間は・・・神が作った?コアセルベートのようなものから進化した?宇宙からアミノ酸が地球に飛んできてそれがもととなってウィルスや単細胞生物が生まれ・・・そして人間に進化した?人間をたんぱく質の塊だと考えるのならば、それは正解かもしれないが、実際はそんな数十億年前のことはどうでもいい。どうせ分かりはしない。
それよりも、現世人類である我々人間とは何か?これについて考えるのが先だろう。
人間は道徳や芸術、整った社会組織を持つ高度な存在?虐殺や略奪は闘争本能による?アーリア人が偉い。世界の中心は中国。白人が偉い。信奉する自分の宗教組織が人間の規範を示している。環境破壊はどうでもいい、儲かればいい!・・・こんな愚かなことを信じる人々が存在していると、人類の消滅は自然的消滅より早くなるだろう!それはそれで仕方がないが~。

現世人類の全てはアフリカ出身だ。

ホモ・サピエンスは10万年~20万年前にアフリカから出た。それを証明する化石人類学や遺伝子人類学、考古学が間違っているとは思えない。このような科学を否定する人々でもテレビも見るし、スマホも使う。自分に都合の悪いものは否定して、都合の良いものだけを肯定するという人々が人類を牛耳っている人間世界だ。
かつて求心力は宗教にあったが、21世紀の現世人類の一番の求心力はマネーだ。
100億円の財産が200億円になるとどう幸福になるのだろう?

我々現生人類は自分の快不快だけしか感じないバカが、権力と財力を握れる世界を構築してしまった哀れな類人猿だ。

とにかく人間とは?を真剣に考えないと我々は愚かな人々によって将来を閉ざされ、ホモ・サピエンスになってから10~20万年という短い期間だけ存在した類人猿ということで終焉を迎えるだろう。

存在物である以上終焉は免れないが、せめて一度くらいは人間の尊厳を現してからにしたいものだ。もちろんそれはこのブログでのぼくの個人的見解であり、賛同を得ようとは思わない。もちろん行動を起こすつもりもない。現世人類はどうせ哀れなまま消滅するに決まっている。
涅槃寂静・・・いい言葉だと思う・・・それでいいと思う。
http://blog.livedoor.jp/ebeyukan/archives/5932201.html

宗教組織について~

バベルの塔-ブリューゲル[1] 神は食事もしないし、排泄もしない。現金を欲しがったり、宮殿のような豪邸に住みたいわけでもない。
でも教会、寺社は莫大なマネーを集めている。数千年に渡って殺人、略奪、収奪を犯してきた。セム語族のユダヤ教、キリスト教、イスラム教だけでなく、わが国でも大寺が僧兵を擁していた。刀を千振り集めようと次々と人殺しをした武蔵坊弁慶という僧形の殺人鬼もいたようだ。大神社に所属していた神人(じにん)の一部は私兵である。とにかく宗教組織は教義をイデオロギーにして盛んに人々を弾圧し殺していた。現代同様キリスト教の聖書に出てくる司祭たちが私兵を擁して、イデオロギーと暴力で人々を苦しめていたと同様な構図である。
こんなに恐ろしく、醜く、暴力的な宗教組織を、洗脳された愚かな人びとは神だ仏だ信仰だなどといって、宗教者の言いなりになって崇め祭る。物理的肉体を持つ現世はほんのひと時にすぎない。早く気付かないと、死んだ後、宗教で生計を立てる悪魔の手先である宗教者と同じフィールドへ行ってしまう。
言っても無駄だと思うが、宗教者も洗脳を受けた信者も、「後悔先に立たず!」にならないように、お祈り申し上げます。

 まともな魂、精神を持つ者なら、宗教組織(宗教ではなくそれを標榜したその組織)が如何に悪辣な存在なのか直ぐに分かるはずである。
何度もこのブログに書いてきたが、宗教組織は悪辣そのもののである。反仏教、反キリストである。東大寺が自分の教えの延長にあることを知ったら釈尊は恥じ入るだろう。
バチカンが自分の教えの延長にあることを知ったらイエスは恥じ入るだろう。
イエスも釈尊も奴隷や殺人、集金、差別を容認していたのだろうか?優しそうな宗教者の実際はイエスや釈尊を裏切る悪魔以外の何者でもない。マネーと権力はどうやって手に入れているのか?華美な建物の中で人びとを騙し、贅沢な生活をするのをやめたほうがいい。
あなたたちの洗脳によって、信仰を持つ愚かな人びとは死後に後悔することになる。
宗教で生計を立てたり、裕福になることは悪魔の手先になることだ。直ぐにその商売をやめたほうがいい。あなたが死ぬ前に気付かないと、あなたの魂だけでなく、騙している愚かな人びとの魂も死後、大変後悔することになる。
向こうのフィールドは宗教組織のプロパガンダとは全く違う世界であることは、誰しも心の奥底では知っているのだから。


 次の引用はマタイ福音書の26章のユダの接吻の場面で宗教的にいろいろ潤色してあるが、イエスと一緒にいた者の一人が大祭司から遣わされた者の耳を切り落とす場面である。

『彼はすぐイエスに近寄り、「先生、いかがですか」と言って、イエスに接吻した。
しかし、イエスは彼に言われた、「友よ、なんのためにきたのか」。このとき、人々が進み寄って、イエスに手をかけてつかまえた。
すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕(しもべ)に切りかかって、その片耳を切り落した。』

 日本語では「イエスと一緒にいた者のひとり」が大祭司の僕(奴隷?)の耳を切り落とした、という翻訳で、奴隷の耳を切り落としたのはイエスに近しい者ではないように訳されている。そこで当該単語についてギリシャ語原文が分からないのでネットで検索するとギリシャ語では英語のmetaの意味のようだ。英語ではone of Jesus 'conpanions とある。companionの意味は「ある行動を共にし親密な関係にある仲間、友、連れ立っている人」だからこれは弟子である可能性が高い。そのイエスの弟子が常に剣を帯びていなければ、このように咄嗟に人を切れないであろう。
シリアの属州にされてしまって国とも認められなかった祖国を残酷で強大なローマから解放しようとしていたイエス教団なら、武装しているのは当然のことだと思う。シカリ党、ゼーロタイ(熱心党)、ヨハネ教団、イエス教団(キリスト教はパウロが作った?)・・・ユダヤの司祭や貴族がローマ権力者に侍って民衆を苦しめていた当時は民族解放戦線が乱立していたと、欧米の歴史的福音書研究家はそのように解釈している人も多い。

動物行動学の本など~

バイソン

 動物行動学はコンラート・ローレンツが有名だが、現在は多岐にわたり裾野が広い。そのためそれぞれ主張が違うことから、ぼくのような素人はその異なる主張に混乱するこもある。動物を観察した結果(ビデオや写真、観察記録)を生理学、遺伝学、神経学、また哲学や社会学的手法などで分析・整理するものだ。行動主義者の依怙地な主張から深い思索を交えた主張まであるが、いまだに「本能」などという怪しげな用語を使う人々もいるので読書の態度としては注意が必要だ。
 さらに重要なのはその観察の条件や観察者の態度である。例えばケージに入れた動物が鏡に写っている自分を認識しないのを観察して、これは自己認識ができない低級な動物である!などと短絡するおバカな動物行動学者さえいる。またチンパンジーがヘビ状のオモチャを見て怖がるのは「本能」である・・・などと酔っ払いのような口調で意味不明の「本能論」を振り回すお学者様もいる。そういうおバカに「本能とはなんですか?」と聞いてみたらいい。科学とお文学の区別がついていないと思う。

 ぼくは・・・縄文時代に暴力がほとんどなく、戦争が全くなかった理由を類推して現代に重ね合わせることができれば・・・と、才覚も教養も才能もないのにそれを考えてきた動物のホミニドである。我々は動物である。だから仲間である他の動物の行動や思索に興味を抱く。
わが国では今西錦司、日高敏隆先生など先駆的な人々もいたが、現在のぼくは最新の研究を一般向けに書いた欧米の研究者の翻訳本をよく読んでいる。またボノボやチンパンジー、ゴリラについてなどの専門家の著作、京都大学のボノボの生態観察、ナショジオやディスカバリーチャンネルなどの番組にもお世話になっている。
スティーブン・ミズンやフランス・ドゥ・ヴァール、ロビン・ダンバー、ダニエル・E・リーバーマン・・・の著作は何冊も翻訳本がありとても面白い。
 ただし、欧米人にはクリスチャンであろうと無神論者であろうと、キリスト教の洗脳から抜けきれない論調に哀れさを感じる。既にマニ教はなくなってしまったが、それに似た中東のごった煮宗教を、階層化と権力志向のヨーロッパ風に改竄されたキリスト教に、なぜ優秀な研究者が洗脳されたままなのか不思議でならない。フランス・ドゥ・ヴァール著の日本語題「道徳性の起源」紀伊国屋書店・・・原題は「The Bonobo and the Atheist」in search of Humanism Among the Primatesとなっている。霊長類に共感や同情などの高度な心理があることを立証していながら、この本の半分をニーチェが酔っ払いとまでバカにしたカントやキリスト教や聖書の話を延々としなければならない態度に憐憫の情を禁じえない。
ストーリーの辻褄も合っていない、パウロの手紙には女性蔑視もひどい、そんな聖書なのに21世紀の今も一流の学者が拘泥しているとは!さらにイエスの言葉とは裏腹な教会組織と聖職者の態度など数百万年の人類の歴史からみれば研究に加味するほどのことではないだろうに・・・。動物行動学の本になんでこんなに紙幅を費やざるを得ないのか?・・・神話に洗脳された哀れさ・・・可哀想に思う。ヨーロッパの宗教学者が哲学的、向こうのフィールド的、社会学的、霊的に一般宗教概念を語っているのではなく、その殆どがユーラシア大陸の西端にはびこる自分達のキリスト教のことを語っているのと同様なむなしさを感じる。フランス・ドゥ・ヴァールの著作は「道徳性の起源」より2010年に日本語訳が出版された「共感の時代」(THE AGE OF EMPATHY)の方がいい。

  しかし研究内容とその論拠は素晴らしい。

ラスコー洞窟壁画展を見て~独り言

radioactiveクロマニヨン人は当該人骨がフランスのクロマニヨンで発見されたことから命名されているホモ・サピエンスの地域性呼称である。考古学は分類、分析の都合上、一番初めに発見された地名を付ける。例えば弥生式土器は東京都文京区弥生町、勝坂式土器は相模原市勝坂の地名が付けられている。その様式の中心地というわけではない。弥生式土器から弥生時代の名称が生まれたり、勝坂式土器の多くは八ヶ岳周辺に栄えた縄文時代の遺跡から発掘される。余談だが、先日栃木県那須町にある那須歴史探訪館で勝坂式の特徴を備えていた高さ58センチの大型土器が陳列されていたのにはびっくりした。
ネアンデルタール人はその人骨がドイツのネアンデルタール渓谷ではじめに見つかったことからこの名称が使われている。日本語では旧人と表記されている場合が多いが、沖縄県で発掘された旧石器時代の人骨の名称は、原人と呼ばれることもあった。港川人は現在は旧石器時代人とされている。日本語では原人、旧人、新人など用語が統一されていないが、人類学上におけるホモ・サピエンスという用語の定義でさえ曖昧さが否めない。DNA遺伝子人類学等もサンプルの正確さという点を鑑みれば鵜呑みには出来ないのかもしれない。しかし、我々ホモ・サピエンスの最近のことについては信頼できるものと信じている。

  さて、ウルム氷河期の前半にアフリカから直接ヨーロッパに進出したホモ・サピエンスは寒さに適応できずに絶滅したようだ。その後アフリカから現在のトルコを経てコーカサスに進出していたホモ・サピエンスが今回のウルム氷河期中期の3万年から4万年前にヨーロッパ地方に至った。その人々をクロマニヨン人と呼んでいる。さらに現代ヨーロッパ人は先住民のクロマニヨン人の後に繁栄したケルト人の遺伝子の一部を受け継いでいる。だがケルト語の語順はVSOであり、ケルト人はもともと非印欧系の集団であったと考えられており、よく分かっていない。ガリア(現フランス国)のケルト人はギリシャ、ゲルマン、そして最後にローマの圧迫を受けて被支配層となり、ラテン語を話すようになった。中世にはゲルマン系のフランク人に吸収されフランス人に変質していった。そしてゲルマン語系(フランク国はゲルマン系)、ローマ語系(ラテン語)、ケルト語が混交して14世紀頃にフランス語が成立し、ようやっとフランス人が出現した。我々の列島では3000年前を反映していると考えられる日本書紀、古事記は日本語で書かれており、現代日本人は読むことができる!これは他の国々と比べるととてつもなく古くまで遡れる稀有な例である。最近の言語研究をみると、現代日本語は縄文時代に系譜があると考える研究者も多い!ウラル・アルタイ語に属すると言われてきたが、単語対応がほとんどないことから、日本語は数万年に渡って独自に形成された言語であると考えられるようになっているようだ。また日本書紀、古事記、万葉集がこの列島での始めての文字文献ということも間違いだろう。なぜなら古墳から硯が出土している。当たり前だが硯は文字を書くための道具である。漢字あるいは漢字に先行する文字があったと考えるほかはない。お-を、い-ゐ、え-ゑの関係の8母音と、現代語の5母音の問題もいずれ研究がもっと進むだろう。

 ラスコー洞窟の壁画を描いたとされる同時期の5体のクロマニヨン人は3万年から4万年前にヨーロッパに至ったクロマニョン人のY染色体ハプログループE系統であり、コーカサス人やクンダ文化を担った原北欧人、ケルト人の祖先だと考えられる。しかし現代ヨーロッパ人に、約2万9千年前に最も遅くアフリカを出たR系統が高い頻度で見られることから、ヨーロッパの先住民はR系統である。アフリカにいた手足が長く背の高いマサイ族のような人々がまだ氷河期であった3万年前頃にヨーロッパに到達した。(DE系統は3万8千年前に出アフリカ)到達したR系統やDE系統は3万年という短い期間では身体的的特徴において寒冷地適応進化を遂げられなかった。しかしメラニン色素は容易にその数が変わることから、低緯度と違いメラニン色素の必要性が希薄になり、出アフリカ後、コーカソイドが3万年から4万年前かけて皮膚を白色化させた。つまりヨーロッパ人の祖先であるR系統の人々の肌ははじめ黒褐色であった。
 オーリニャック文化からマドレーヌ文化を築いたとされるクロマニヨン人はアフリカを出てまだ間もない頃であることから、皮膚の色は白色化していなかったと考えられる。上野で行われているラスコー展の説明の多くは最新の遺伝子人類学のR系統とDE系統に分析するなどの精査な成果を反映せず、化石人類学同様、年代設定も遺伝子人類学と異なっていた。
 ヒトの類人猿からの分岐時期については、化石人類学が類推した見地と、DNA人類学や病理学的な見地とは一致していない。ただしDNA遺伝子人類学は生体標本が得られるものに限られている。かなり古い人骨や化石からはほとんど標本が取れないため限界がある。ルーシーで有名な約300万年前のアウストラロピテクス・アファレンシスもヒトなのか、類人猿なのか、という論議がある。ラスコー展の図録ではクロマニヨン洞窟付近で発見された人骨を現代型人間と表記しているが、何をもって現代型という用語を使用しているのかは説明がない。ホモ・サピエンスに古い型と新しい型があるということなのだろうか?古い型のホモ・サピエンスの全てはアフリカにしかない。クロマニヨン人は遺伝子的、形態的にアフリカ人に近いから、古い型ということになる。新しい型という表記を額面通り受け取れば、最も進化したホモ・サピエンスは寒冷地適応したモンゴロイドということになる。

 さて、このブログではヒト同士で殺し合いや略奪をする種族を揶揄的に低クロマニヨン人と呼び、平和で豊かな高度な社会を構成していたヒトたちを高度なクロマニヨン人と呼んできた。いずれにせよ、現在のヒト同士は全て交配可能で、雑食性でありどこにでも行く性質をもっているので特定できないのは当然であろう。
今から約20万年から10万年ほど前に、我々の全ての先祖であるハプログループY型~A型のヒトがアフリカから出て全世界に住むようになった。ネアンデルタール人も広くユーラシア大陸に生存していたが、絶滅して今はいない。
 我々ホモ・サピエンスの科学・技術が発達したからといって寿命が100倍になったわけでもないし、プロキシマ・ケンタウリなど隣の太陽系まで行くのに、現代最速のロケットを使っても何万年も何十万年もかかる程度だ。(計算は算数でできる。光の速さは一秒間に30万キロだから~30万キロに一日分の86.000秒をかけて、さらに365をかけると光が一年かけて到達できる距離が分かる。それで4.3年かかる距離だ。ロケットは光の速度の何パーセントの速度を出せるだろう?)
 
 資本主義だ共産主義だ、第四次IT産業革命だ、金を儲けよう、領土を広げよう、トランプ大統領だ、ISISの恐怖だ・・・などと悲しいことに人間の思惟や行動、組織はたくさんの道具を使う悪い群れのサルということになろう。

 我々ヒトと環境が豊かで幸せな時を過ごせるような高度な存在になる前に、我々はヒトという小賢しくも哀れな動物として絶滅していく。それはそれで運命なのだろう。我々ヒトは盛んに道具を作るが、チンパンジーやゴリラとの違いはそれだけにすぎないみたいだ。

Wikipedia から
ヒト科
は、哺乳類サル目(霊長類)の分類群のひとつ。

ヒト亜科ヒト属チンパンジー属ゴリラ属を含む)とオランウータン亜科で構成される。

旧来はヒトを分類するための分類項であったが、ヒトを中心とする古生物学の進展と、DNA解析の進展の結果、ヒトと類人猿、特にゴリラ属チンパンジー属の遺伝距離は小さいことが分かり、両者もヒト科に分類される意見が主流を占めることとなった。ただし、遺伝子と表現型の関係は未だ明確ではなく、遺伝距離を即、分類に反映させることに対しては慎重論もある。

縄文時代の物流は驚きだ!(6)それは宗教的行為か?・・・宗教の定義~

IMG_4100



 考古学者は発掘したものの使用方法やその制作意図が分からないと、近現代の組織宗教とは明らかに異質な古代・太古の宗教について説明無しに「宗教的な何か~」という用語を乱発するが、「宗教」の定義無しには誤解を生むだけである。
エジプト周辺(特にアレキサンドリア地方)から中東で発生した後に階層的、権力的キリスト教の土壌で育った欧米の古典的宗教社会学者は、宗教を「自然崇拝~多神教~一神教」などと、あたかも宗教は一神教に収斂されると言わんばかりの馬鹿げた主張をしたり、アフリカ、アジア、アメリカの人々に伝わる古い宗教をアニミズム、トーテミズム、シャーマニズムなどと分類して宗教現象の原始的形態と蔑んだりする。では・・・この列島の神社神道や民俗的宗教と呼ばれる宗教を原始的と呼ぶならば、さて近代的形態の宗教とは一体何を指すのか?まさかキリスト教?
自分らが作った宗教分類からすれば、モーゼもキリストもマホメットもシャーマンである。宗教には、原始的も近代的もあるわけがない!こんなくだらない論議をよくも長々と続けてきたものだ!この国の宗教学者と呼ばれる学者様の本もずいぶんと読んでみたが、欧米の学者の受け売りと追従だけで、本当に才能の無い駄文書きが多い。構造主義?ポスト構造主義・・・フォイエルバッハ?マックス・ヴェーバー?その人たちは哲学的、社会学的探求には優れているが、宗教をは論じていない・・・キリスト教を論じているのだ。ニーチェは「キリスト教は邪教である」を書いているが、わが国の宗教学者様はまずこれを読んだほうがいい。社会現象としての宗教の形態ばかりを追いかけていれば、そうした論議にうなづけないこともないが、それは宗教のほんの一面にすぎない。宗教書の文献批判は宗教を論ずるには欠かせないが、そもそも「宗教とは何か?」というアプローチと、「宗教組織」「宗教組織の歴史」「宗教の社会的意義」などを分析することとはかなり視点が違う。

 このブログで再三指摘してきたが、宗教組織はいい加減、守銭奴、デタラメ~などの言葉で定義できる。現代の宗教組織の定義は「集金能力抜群で権力を傘にして民衆の妄想を掻き立てて宗教者とその取り巻きだけが裕福になる腐った組織的洗脳集団」だ。
だが「宗教」の定義は違う!
縄文時代に宗教的なものがあったとしても、それは現代用語の意味合いとはおよそ相容れない異質なものの可能性が高いと思う。(~思う・・・と書いたのは、数千年前の太古の人の精神・心・魂だから類推、想像するしかない、という意味である。)
釈尊やイエス、マホメットが誕生する数千年前の話である。悪辣、残酷、守銭奴、洗脳の組織宗教が始まる何千年も前のことである。


 縄文時代の物流は権力者や宗教組織も存在していない太古の純粋な宗教的行為であった可能性を考えていきたいが、当然ここでの「宗教」の定義が必要になる。浅学を省みず、「宗教」の定義を試みた。
 
「宗教」の定義
「宗教」という用語は幕末の日米修好通商条約締結の際、通訳がreligionを当時そうした意味で使われていた「宗法」という用語に訳さず、原語の意味を含ませたためか「宗教」と訳したのが初出だが、そうした背景を加味したリーラー的定義とした。

 宗教のことを英語ではreligion だが、こちらの方がずっとその概念を表すにはふさわしいかもしれない。もちろん英語圏での現在の意味は保守的な神観念や贅沢な建物やかび臭い教義を指すようになってしまったが、religionはもともとラテン語のreligioからきているらしく、『再び結びつける」という意味だ。神と、宇宙と、世界と・・・再び結びつける・・・religion~宗教の概念は向こうのフィールドを意識し自己の平安を向こうのフィールドとこちらのフィールド双方を意識して祈ることであり、共通神話に見られるような人類共通のものである。宗教に向こうのフィールドという概念がなければ、その組織は洗脳によるただの集金組織にすぎない。アメリカの学校に通っていた友人によるとreligionの時間は古臭い道徳や聖書を史実として教えているそうだが、そういうアメリの学校教育におけるreligionの意味は権力者、財力者の奴隷になるように仕向けられたものと考えていいだろう。宗教世界に星の数ほどある組織宗教に見られる排他的、戦闘的、暴力的、悪魔的、また呪詛を伴うものは宗教のカテゴリーには入らない。宗教的教義を組織イデオロギーとした時点でその組織は宗教ではなくなり、洗脳による集金や暴力を背景とした悪辣な団体となる。つまり「宗教」とは向こうのフィールドとの関連による人の精神的態度を指すものであり、向こうのフィールドとの関連性を失ったもの、あるいは関連性を装うだけ、また宗教権力者に従う盲目的態度は宗教ではない。そもそも向こうのフィールドとの関連性においての個人の純粋宗教的態度は権力的、営業的に組織化出来るものではない。宗教は組織を構築した時点で宗教ではなくなり、洗脳や暴力、政治力が優先されるものとなる。
例えて言えば、現金化できない小切手や証券を乱発して顧客(信者)から金を奪う詐欺商売会社(組織宗教)にそっくりである。

このように「宗教」を定義すると当然「では向こうのフィールドとは?」ということになろうが、そのことについて言葉化できない部分はさておき、縄文時代の物流に即して考えていくつもりである。向こうのフィールドが「天国・地獄・煉獄・あの世・黄泉の国」・・・そうした妄想世界ではないことをまずお断りして、次の(7)に進みたい。

縄文時代の物流は驚きだ!(5)

IMG_4100   縄文時代の長距離かつ広範な物流

「縄文人は少ない人数で貝塚を形成するほど貝を食べまくる?」
例え数百年間にわたろうとも、小さな集落で山ほど集積した貝による貝塚が作られるのはどうみても不自然である。加曽利貝塚遺跡などで見学用に地下深くガラス張りにされた層を見るとその量に圧倒されるが、それも貝塚全体の一部に過ぎない。

「大量の塩を作る目的の製塩土器の存在は不思議だ。」
海のそばに住んでいる人なら、塩味が欲しければ、ちょっと海水を汲んでくればいいだけなのに、なぜ大量の塩を生産する製塩土器が必要なのだろう?どこかで需要があり、それに応えていたとしか考えられない。

「漆塗りの赤い顔料はベンガラ(赤色酸化鉄)と朱(赤色硫化水銀)があるが、縄文時代後期・晩期の関東平野の遺跡では、朱を使った漆製品が数多く出土しています。ー中略ーこの赤い顔料は北海道から下宅部(東京都東村山市)を含めて関東平野にもたらされていたものと考えられます。私たち考古学を研究する人たちは黒曜石や翡翠、琥珀等を手がかりに縄文時代の広域の物資の動きについて議論することもあるのですが、そういうもの以上に、この北海道が原産地と推定される朱というのは、非常に大きな意味をもっていると考えています」(「縄文人の植物利用」・工藤雄一郎/国立歴史民族博物館 編)
関東以北で出土する漆器の赤の顔料の半分が朱であり、それを普通に顔料として使っていたらしいが、その産地が北海道!
漆器は漆の木の管理・栽培、漆を漉す細かい目の布の使用など漆器製作の条件はよほど安定した社会でなければなし得ないことである。下宅部遺跡は数百年間に渡って漆器を作り続けていた。関東において北海道産の原料を安定的、定期的に入手していたということである!

「小さな集落の人々が石斧を数千点も制作する?」
北海道の納内遺跡という小さな集落からは数千点の完成品、未製品の石斧が出土しているが、納内遺跡製石斧は三内丸山遺跡などで大量に出土している。専門の研究者は納内遺跡の人は三内丸山遺跡の人の顔を見知っているようだと発言している。受注生産の可能性もある?しかし納内遺跡から三内丸山遺跡まではかなりの距離があるだけではなく、津軽海峡を挟んでいる・・・驚きである。

「黒曜石の矢じりが産地から遠く離れた場所でザクザクと発掘される?」
縄文時代に長野県霧ヶ峰や和田峠で産出される黒曜石を地元の縄文人がそれを大量の矢じりに加工し、遠隔地の青森県の三内丸山遺跡などまで運ぶ動機や理由が分からない。さらにこうした事例は伊豆七島の神津島の沖にある恩馳島の黒曜石は広く関東に、隠岐の黒曜石は広く中国地方にもたらされている。(ものの長距離運搬は、ヨーロッパのクロマニヨン人をはじめ、世界各地のホモ・サピエンスの先史文化にみられる普遍的な現象である。「ラスコー展図録から」)
矢じりの用途を考えれば、近辺で採れるチャートや頁岩など他の石でも全く問題はないはずである。

 
 石斧の事例は納内生産地近辺の集落の消費をとんでもなく上回る量であり、定期的な物流目的と考えるしかない。こうしたことについて、マスコミやステレオタイプの学者は、現代の大衆が好む「職人集団」とか「〇〇工房」などの用語をあてはめて、はしゃいでいるが、長距離運搬の理由についてなんらの解釈にもなっていない。
しかし利潤や利便性追求という概念の無い世界での物流の動機をどう解釈したらいいのだろう?
縄文時代の人びとは数千年間人類がどうやっても得られなかった人類史上類例を見ない恒久平和を構築してきた人びとだ。暴力と権力、財力という乱暴で品の無い社会組織を構築してきた現代人の常識などとは大きくかけ離れていると思う。(しかし世界の発掘事例を参照すると、ホモ・サピエンス全体では極めてまれだが1万年前のアフリカ(ケニア・トゥルカナ湖)や9000年前の中東や8000年前のヨーロッパでは虐殺されたと見られる複数の人骨が発見されている。全てのホモ・サピエンスに闘争の痕跡がなかったわけではない。)しかしこの列島の縄文人は、考古学的資料が語るように弥生時代に入るまではそうした暴力とは無縁だった。だから新石器時代に入っても、縄文人に旧石器時代的長距離物流形態が存在した理由だと思う。また縄文人の恒久平和を構築した文化を築けたのは、ハプログループ3種のもともとの平和志向だけでなく、約15000年前に世界に先がけて土器を発明し、煮炊きによる広範な植物の食料化を手にし、狩猟に頼らない平和的に安定した豊かな文化を築きあげたことも大きな要因の一つである。
当時は利潤という概念も、文字も貨幣もなく、運搬手段も人手以外ない時代だ。現代のような交易、利潤、収奪という概念は当てはまらない。もちろん牽強付会的妄想狂学者が言う原始共産制などという意味不明の取って付けたような用語にも当てはまらない。
縄文時代に生産、物流、消費の大きな流れがあったことは考古学の精査な調査によって把握できるが、その動機は考古学的物的資料だけでは見当はつかない。

 遠隔地を視野に入れたこれほど大きな物流の動機は分からないが、暴力と権力によって弱者、少数者に追い込まれてしまった人々に対する世界各地での文化人類学や民俗学などの成果に垣間見ることができる可能性はある。
 現在もその基層的な思想は我々に脈々と流れているように思うが、コンピューターなどの道具、兵器、戦争、弾圧、嘘寒い民主主義や共産主義などの政治思想、環境破壊、貨幣、嘘、欺瞞、見栄という悪魔に乗っ取られた先進国の権力者や富豪だけでなく我々大衆にもあまり見当たらない。しかし低クロマニヨン人が後進国と蔑む人びとには現代でも暴力や権力、財力によらない縄文時代によく似た物や食料の流れが存在しているようだ。拙著「イエス・ノー・リーラー」でふれたアフリカのマリでの飢饉の乗り越え方や、中世のこの列島にあった市場をアジールと考える商行為に、縄文時代の物流の動機を重ね合せることができると思う。実際に我々も日常生活において暴力や嘘や見栄が介在しない物の交換や、見返りを求めない一方的な贈与を経験している。

 しかし現代用語でこれを表すには不向きなことが多い。例えば交易という用語は見返りを求める概念を含むことから、縄文時代の物流を考える用語としてはふさわしくない。縄文時代の物流はもしかすると交換ですらなかったのかもしれないからである。見返りを求めない一方的な贈与なのだろうか?もしそうであったなら、その動機は?

縄文時代の物流は驚きだ! (4)

土偶 町を歩きながら、人の表情と態度、服装、物腰、歩き方などから、ぼくの独断と偏見で、物欲、財欲に染まってない美しく高度なクロマニヨン人を探してみた。
ぼく自身は財欲や物欲が希薄なほうだが、それでも高性能の四輪駆動車やベヒシュタインが欲しいという物欲があるから、こんな言挙げをする資格はないが、テレビやネット、新聞、雑誌や町の人たちにそう注意を向けてみたら、以外と面白かった。決して高飛車な視線から見たのではないことをお断りしておきたい。

 電車内で一様に俯いてスマホをいじる人たちばかりを見ると、人々の不安を種に人々を惑わしていた陰陽師という安部清明が跳梁跋扈していた平安後期の頃のように見える。現代も平安後期も戦争がない時代だが、人々の精神は針小棒大な恐怖に怯え、精神的疲弊に覆われて多くしみったれた暗い心で日々を過ごしている。
現代と平安後期は良く似ている。平安後期はその後、制度と価値観の崩壊と戦争という鎌倉時代に向かってビッグ・バンを迎えたが、現代もそれを繰り返すかもしれない。
 
 さて、欧州のピカピカな高級車に乗っている人たちは、品の無い見栄っぱりに見えるし、尊敬される商売をしている人たちは、みな一様に「尊敬されるのが好き」と顔に書いてあって精神の貧しさを思わせる。特に人々を指導する立場の人たちや宗教者の顔は、驕りのためか皆一様に貧相な顔をしていた・・・何日もそういう視点で町を歩いてみたが、自分を含めて高度なクロマニヨン人に会えないことに、ヒトとして惨めさを感じた。

 ところが、ある日高度なクロマニヨン人にお会い出来た!
慈悲に満ち、優しく、物欲や財欲、暴力、権力から完全に離れた方にお会いした。その方はもともと立派な方だったが、ぼくと立ち話をした数日後突然亡くなった方だ。
それから幼稚園、保育園の子どもたちが美しかった。
高度なクロマニヨン人は小さな子どもと、死を間近に控えた人だけだった。本当に美しい。無邪気で汚れなく、正直で、腐臭のする欲とは縁がない。生存欲でさえ、ぼくら大人のようにちっとも醜くなくキラキラと美しい!
子どもは数年前にはこの世に存在していないし、間も無く死を迎える人も直ぐにこの世から離れる。
ともに死に近い人たちだ!

 縄文時代の人たちは、村のメイン通りにずらりとお墓を並べたり、お墓の上に住居を建てたりした。おそらく死に親近感をもった暮らしと考え方をしていたのだと思う。
だから、暴力、権力、財力で仲間を苦しめたり、収奪したりしなかったのだろう。
「生き物の人間なんてどうせ必ず死ぬ!・・・だから今を楽しく明るく生きよう!」
という明るい「どうせ、死んじゃうんだ!」という死生観にあったのかもしれない。暴力、権力、財力、見栄っぱりを保持し続ける臭く醜い生き方よりも、「どうせ、死んじゃうんだ!」と前向きに明るく生きていたに違いない!
 縄文時代の人は、他者を傷付けながら生きるのを徹底的に拒否した。そして他者や環境を楽しませたり、喜ばせたりすることに人生の意義を見出していたに違いない。でなければ、どこへ行くにも電車も飛行機も車もない全て徒歩で、利潤などという概念が皆無の縄文時代に、黒曜石が長野県から青森までというとてつもない遠方にまで運ばれるわけがない。儲かるからとか、恩着せがましい贈与や、見返りを求める譲渡でもなかったと思う。
その辺りからさらに「縄文時代の物流」を考えてみたい。
階層化があった、奴隷がいた、統率する首長がいた~などと太古からそれらが存在したヨーロッパの研究者の文言をそのまま鵜呑みにする低レベルの研究者とは大分視点が違って、我が国の縄文時代の研究者は優秀であればあるほど、暴力や権力のないこの時代を口を揃えて絶賛、賛美する。

例えば、小泉保先生は「縄文語の発見」青土社・124頁で
『青森の三内丸山遺跡をおとずれ、偉大な縄文文化に接したとき、この文化を築きあげた人々の子孫がこの地に代々住みついてきたであろうこと、また琉球の島辺に生活している人々と言葉をかわすとき、やはり太古の祖先から世世この土地で暮らしてきたであろうことを筆者は信じて疑わない。』

また大場磐雄先生は「先史文化論考」雄山閣で
『彼らは食料に豊富な海岸を占拠した関係上、生活の安定を得て永住せしめ、そこに美しい芸術は、ととのった社会組織が生まれ、宗教もよほどすすんで来た。・・・独木舟をあやつり、時々は神への感謝のために歌ったり、舞ったりしていた。そして夢見るようにその日、その日を送って行ったのであった』

  崎谷 満先生は「DNAでたどる日本人10万年の旅」昭和堂で
『しかしこの日本列島では、豊かな水のおかげでドングリなどの食物を生み出す広大な森、そしてプランクトンが豊富な漁場に恵まれ、人々は争うことを避け、互いに助け合いながら、共に自然の脅威に立ち向かってきたことが推定される。そのためこの日本列島では少数者が生き残ることできるような、優しい思いやりの智慧が育まれてきたのである。』
 
 この他、藤森栄一先生、柳田國男先生、古田武彦先生・・・枚挙に暇が無い。

 蛇足だが、ちなみに35000年前にアフリカからヨーロッパにたどり着いたハプログルーブY染色体F系統の人々は現代キリスト教的階層化、不平等に根ざすヨーロッパ人とは別である。ミトコンドリアDNAの追跡では9千年前に分岐した人々が現代ヨーロッパ人につながるようだ。また現代ヨーロッパ語と違ってケルト語の文法構造は日本語文法に似てSOVであり、目的語が主語の次にくるそうだ。ドイツ語、フランス語が文書として登場してくるのは大体14世紀頃とその成立は比較的新しい。
しかし、この列島の現代人が使う言語は、例えば現代の我々が弥生時代以前までをも反映している古事記を読むことが出来るほど、太古に連綿とつながっている。日本語の成立は気の遠くなるほどの過去に遡れる可能性がある。
  世界に類例を見ないこの列島の一万年前の素晴らしい特質を我々は自信と誇りをもって後世に伝えていけば、ボノボが獲得したような暴力のない、弱者優先の宇宙的視野を得て、低クロマニヨン人からの進化・分岐も可能だろう。
しかし、ネアンデルタール人が消滅したように、現生人類も既に20万年を使ってしまったのに、まだ暴力、権力、財力を手にした低クロマニヨン人たちが大手を振っている。もう無理かもしれない。
もちろん、人は誰でも死ぬように、種にも終わりがあるのだからそれは致し方のないことだ。
 リーラーは集金優先の奢り高ぶる組織宗教内ではなく~「一人で祈る!」・・・・・これこそが人類進化・分岐の要だと考えている。

一人で祈る

青森三内丸山遺跡など 337前に述べたが最近の進化論が言うように、例えば扁桃核の研究成果などから、進化は内面の変化を促すためのものであると考えられるようになっている。確かに進化の究極目的は「内面」の変化であろう。ために進化による外面の変化から促される内面の変化が着目される。
 「リーラー」では恐竜の身体の肥大化とヒトの脳の肥大化による内面について考えた。巨大草食恐竜はその大きさから、肉食恐竜など簡単に一蹴できるようになったことから、肉食恐竜に狩られる恐怖から離れ、生きることが楽になり、生きていくことに大いなる安心感を持つようになり、恐竜生(人間で言えば「人生」)を充実出来るようになったと考えた。
さらに、ヒトには身体の肥大化ではなく脳の肥大化と精密さにおいて進化してきたが、それを自分の内面の豊かさのために使っているだろうか?と問うてみた。
ヒトはこの進化を同一種内への暴力と収奪、そして兵器やコンピーターなど無闇に道具を作り続けるだけで、その能力を持て余し道具の使い手としては落第生であり、種の絶滅はまもなくであろうと考察した。
確かにホモ・ハビリス(類人猿から進化した、器用なヒト、道具を作る類人猿の意味)から300万年を経て、産業革命からのたったの数百年で~600万年をかけて折角得た知能を内面の豊かさとは逆に恐怖を作り出すようになってしまった。新聞、テレビ、ネットでは同一種内の凄惨で陰湿な暴力と権力、財力による低クロマニヨン人の行状が毎日毎日報道されている。

 進化は突発的な突然変異がランダムにその種に生じてそれが定着していく。
みんなで一緒に~みたいな形ではない。
従来の種の中から、個体、個体が無意識に新しい能力を獲得していくものだ。
だから、暴力、権力、財力による精神的、肉体的快楽を求めない高度なクロマニヨン人に進化した固体はそのままの固体でいい。仲間意識など求めなくていい。
一人で祈る~とはそういうことである。進化が最終的には内面の変化であろう~ことを先に述べたが、クロマニヨン人の次の大いなる進化はまさにそれであり、手が3本になったり、眼が3つになったり、するわけではない。映画、漫画のように超能力が使えるようになるわけでもない。
動物の進化としてこれまでみたことのない大きな偉大な内面の変化である。
この進化を遂げて初めてヒトは宇宙にデヴュー出来るようになると思う。
ネアンデルタール人は既に滅びた。我々も現在の低クロマニヨン人のままなら、進化した知能による道具を使いこなせないまま、同一種内で残酷、陰惨な暴力、収奪を続け、消滅の日は近いと思う。

 一人で祈る~何もしなくていい。してはならない。高度なクロマニヨン人を目指すヒトは自分勝手やいい加減な考えをすて、思いやりや愛などの思いや考えを心に巡らせるだけでよい。思うだけでよい。革命だの、イノベーションだなどと行動すべきではない。徒党を組むことは進化とは関係がない。
リーラーに書いたように、一人一人の思いが向こうのフィールドにアップロードして蓄積され、それがダウンロードされるのを待つ。
その思いがある一定の量を超える臨界点に到達したとき、我々ヒトは高度なクロマニヨン人となるだろう。

 量で計る物質的快楽ではない楽しい思い、愛、慈愛、真なる同情を考えることだ。
そしてそれを一人思う。一人で祈ろう!
このことについて、話し合ったり論議するのは構わないが、徒党を組んで一緒に祈ったり、行動してはならない。
二人で祈れば、それはもう組織だ。
高度なクロマニヨン人は相手が例え低脳で残酷な低クロマニヨン人であったとしても、言葉や行動で彼らを威圧ようとはしない。また弱さを傘にして、おれは弱いんだぞ!おれをやっつけたりするとお天道様が見てて、お前は地獄に行くそ~みたいな陰湿な態度もとらない。

 とにかく、一人で祈る以外何もしないでほしい。縄文的なリーラー的な考えを常に持っているだけでよい。
それを一人で祈る~それだけでいい!何もしない。
行動してはならない。話し合ったり、論議したりするだけで、何もしないでほしい。
我々が高度なクロマニヨン人になる最も近道の方法だ。

 近道が必要?
その通り、我々はクロマニヨン人として既に20万年使ってしまっている。さらに道具の使い道で大失敗をしたこの数百年は類人猿からヒトに進化した全てを帳消しにしてしまっている。
我々低クロマニヨン人に、時間はあまり残されていない。
だから、何もしないでほしい!一人で祈る~それでいい!

ちなみに、イエスはマタイ福音書にて、一人で祈りなさいと言っていることは先にここに書いた。
お釈迦様は最古の仏典の一つスッタニパータで「一人サイのツノのように歩め」と繰り返しておられる。

リーラーで使う「縄文時代」という用語の定義

P6050061一般に縄文時代は人類のこの列島における約15000年前から金属器時代に入るまでの長期に渡る土器製作を伴う新石器時代文化を指す。しかし草創期の縄目のない無紋土器や南九州の貝文土器や土器を製作しない頃の琉球、またY染色体やミトコンドリアを追跡する遺伝子人類学や形質人類学の見解を含めてこの長い時代を一括して「縄文時代」と定義してもよいのかという研究者たちの論議が多々ある。
確かに縄目ではない貝文や無文土器は「縄文土器」ではないし、石器の分類や言語構造においても意見は分かれるだろう。

 しかし、ここで使用する「縄文時代」とは、考古学用語でも言語の特徴でも、ヒトの遺伝子をハプログループに分けて論議するものでもなく、社会学的・哲学的・宗教的な意味合いで使用していることを明記しておきたい。
世界史に類例を見ない・・・ここでは暴力がほとんどなかったと推察される時代を「縄文時代」と定義する。同時期の世界のほとんどの地域で暴力による死体が発掘されているにもかかわらず、この列島で発掘された数千体の縄文人骨に尺骨骨折すら一体もない。また権力の集中を表す巨大墳墓を作れる技術と生産性を有していたにもかかわらず、そうしたものもない。ところが弥生時代に入ると途端に首が無かったり、矢じりが骨に食い込んでいたり、撲殺されたりした人骨がたくさん発掘され、巨大墳墓が築造されるようになる。

 また文化人類学、構造主義など欧米の研究成果をそのまま「縄文時代」にあてはめて、「統率する首長」だの「階層化」などと大衆受けする用語を連発する人たちは別として、「縄文時代」の優れた研究者は異口同音にその平和性、温和性を絶賛している。

 同一種内の暴力・略奪の慣習のある我々クロマニヨン人は宗教的・宇宙的に見て低レベルの種だ。しかしコモンチンパンジーから進化・分岐したボノボには暴力が見られず、食べ物の優先順位が弱者優先など高度な社会を構築し、我々クロマニヨン人を含む類人猿の中では突出して平和社会を構築している。

 ユートピア的意味合いではなく、ヒトという類人猿の同一種内の暴力がなく、弱者優先、男女同権、美しく明るい文化を築いていたという実質的な高度な時代をここでは「縄文時代」と定義している。

コモンチンパンジー的世界のヒト課役負担民から高度なクロマニヨン人への進化、分岐。

PB140421大衆の我々は、働くとお上に強制的にお金を取られる課役負担民だ。産まれた時から税金を納める責務を負わされている。存在するだけで、つまり生きていくために不可欠な食べ物や日常品、家を買うことなどに理由をつけられてとにかくお金を収奪される。税金には、課税主体が国である「国税」と、地方公共団体である「地方税」がある。国税には、所得税、法人税、相続税、贈与税、消費税、酒税、たばこ税、自動車重量税などがあり、地方税には、個人住民税、固定資産税、自動車税などがある。
とにかく取り立ては気味悪いほどに徹底している。
 
 またお金の流れの特質は、物理的法則とは逆に、少ない方から多い方へ流れるシステムになっており、我々貧乏人から富裕な者に流れるようになっている。
気圧は高い方から低い方へ流れ、水は高い方から低い方へ流れる。ところがお金は少ない方から多い方へ流れる。自然力学とは逆だ。それを低クロマニヨン人は暴力、財力、権力、社会組織、社会機構によって、自由主義、共産主義、民主主義だのと嘘の手練手管で、お金を自然法則に逆らって逆流させている。


 さて、その収奪したお金を自由に使うのが為政者である。
我々はそういう世界に住んでいる。
自民党が分裂して民主党が政権を取ったときに騒がれた際の記事を読んだにすぎないので数字に関してはアバウトだが、国家その他が我々から集めたお金は一年間に約400兆円に昇るらしい。ところが道路や学校や公務員の給与など、我々大衆が分かるように実際に発表される一般会計の分は約90兆円にすぎない。約200〜300兆円は特別会計と呼ばれ、その使途は為政者に委ねられているとのことだ。
 とにかく我々課役負担民は働いだ分の半分ほどを国家に払わねばならない監獄にいる。
課役負担民は生きているかぎり自分の稼いだ約半分をお上に脅し取られている。
存在するだけで税金を負担する義務を負わされている。民主主義という訳のわからない巧妙な隠れ蓑で、その使い道は選挙によって我々大衆にあるかのようにされているが、とんでもない嘘だ。ポピュリズムが大手を振る選挙によって選ばれた元都知事のI氏やM氏が都税で私腹を肥やしていた醜さの報道をみれば一目瞭然だ。ほとんどの政治家も役人も大同小異だろう。
とにかく我々課役負担民は切ない。選挙で誰を選んでも我々は憐れなままだ。

 だが、近い将来に 暴力、財力、権力が優先される我々低クロマニヨン人の世界は、暴力、財力、権力が優先されるチンパンジー的行動から脱却する時期が来るだろう。チンパンジーからボノボが進化、分岐したように、我々も低クロマニヨン人から高度なクロマニヨン人になる時期が来るのは確かだ。それは来年?100年後〜10000年後?
残念だが直ぐには来ないが、進化、分岐以外の方法ならば少しは早くなるかもしれない。

 それは縄文時代人が可能にした高度な精神文化、精神文明というツールを使う方法である。それならば、100年後には?10000年後には?
やはり少し時間がかかるかな。
ただ誤解して欲しくない。みんなで党等を組んで革命やろう!ではない。
これはマタイ福音書五章にあるように・・・
「また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。.あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。」
つまり一人で高度な精神文化を模索することだ。・・・一人で!ということである。「共に祈りましょう」などと、二人で祈ればそれはもう組織化というこれまでの悪臭漂ううわべだけの醜いクソ宗教と変わらないことになる。
クリスチャンは聖書にそう書いてあるのに、イエスの言葉をバカにしてわざわざ徒党を組んで教会へ行き、うるさくて仰々しい嘘寒い祈りをささげ続けている。もちろんイエスは二千年前に・・・「彼らはその報いを受けてしまっている。」と断罪している。


 話を戻そう・・・やっとのことでウルム氷河期を越えた我々クロマニヨン人も低脳のままならば、次の温暖化や次の氷河期の前に消滅する可能性が高い。
また、もし人類がこのチンパンジー的体質から進化、分岐できたなら宇宙の高度な生命体がコンタクトして来る可能性もあると思うが、現今の人類を見たらとてもじゃないけど付き合ってなどくれないだろう。
我々低クロマニヨン人は・・・平凡で小さな太陽系の中だけで、井の中の蛙として滑稽で野蛮、バカ、自分勝手な自滅の道を歩むだけだろう。
まずは一人で祈りたいものだ。

 ネアンデルタール人は数十万年で姿を消した。次の我々クロマニヨン人は既に二十万年以上使っている。
そんなに時は残されていない!

最近思うこと・・・

宇宙人類学、生物学、社会学、芸術~まあどの分野でもいいが、ほとんどの学者はチンパンジーの次に分岐してきた我々自身を知的生命体だの、類人猿より高度だのと、いう思い込みから出発している。

本当に高度なのだろうか?本当に知的生命体なんだろうか?
知的の意味は~、
賢い?利口?他の動物と比べて身体全体に比べて脳が重い?大脳皮質が厚い?二本足で歩く?コンピューターなどの道具を作れるから?複雑な言語を操れるから?その複雑な言語で嘘、欺瞞、自分勝手をゴリ押し出来るから?仲間同士殺し合いを頻繁にできるから?権力、暴力、財力による抑圧と支配の社会的仕組みを作れるから?ヒエラルキーを構築出来るから?哲学や宗教、芸術などの文化を構築出来るから?
我々は自身をホモサピエンスと名付けるほど自惚れている。
人間の言語で言う、賢い、知的なとはどういう意味なんだろう?
他の動物より優れている?
優れている部分とは例えばなんなのだろうか?
芸術を愛したり、数学を理解出来るから?
コンピューターを作れるから?
それは本当に知的なことなんだろうか?

 この前のブログに書いたが、我々大衆を含む低クロマニヨン人は自分勝手な哺乳類チンパンジーにすぎないのではないだろうか?植民地支配は残酷な強盗だし、カトリックがプロテスタントの首を刎ねることは無慈悲だ。ISを非難など出来ないほどにヨーロッパのキリスト教は腐敗、堕落、暴力の限りを尽くしてきた。

 人類学や動物学は人類を最上位に置くが、それはつい最近チンパンジーから分岐した動物だということだけで、偉くもないし、賢くもないんじゃないだろうか?進化における後発組にすぎない。賢い動物が、仲間を殺したり、仲間から搾取したりするだろうか?現今の我々ヒトは明らかにサピエンス的ではない。どちらかというと、道具ばかり作る残酷で滑稽、無能な生命体だ。
進化の系統樹を縦にすれば、なるほど人類は最上位かもしれないが、横にすれば単なる後発組にすぎない。世界地図を南北逆にして見ると世界が少し違ったように見えるが、それと同じだ。

進化論や人類学や文化関係の本を読むと、ヒトを生命体の最上位に位置づけるところから始まるが、そういう自分勝手なわがままなこ子どもみたいな論拠はやめるべきだ。最上位ではなく、単に一番遅く出現した種にすぎない。
何をもって最上位とするのか?
言語が複雑だと偉いのだろうか?例えば我々が作る都市とは、全ての動植物を無慈悲に殺し尽くして構築するのが通例だ。都市はヒト意外の生命体を認めない。
環境を破壊し、ヒト同士殺し合ったり、仲間から搾取する存在は優れた生物なのだろうか?
道具を果てしなく作り続けるホモ・ハビリスだが、優れた生物のすることなのだろうか?
環境を破壊し続けるのは優れた生物のすることなのだろうか?

偉くもなければ、最上位でもない。もちろん優れた生物でもない。
残念だが、暴力的でバカな生物だ。
 
 政府と役人とマスコミがタバコを吸うのはとてもダメというキャンペーンを始めたが、お酒と車は問題無しみたいだ。
タバコの弊害についてはかなり喧伝されているが、禁酒法が施行された当時のアメリカのように、もし政府がお酒を禁止する風潮になったら、タバコ以上にすごいキャンペーンになるだろう。実際に~胃腸に悪い、精神疾患につながる、アルコール依存症、酒酔い運転による悲劇、酒による暴力と悲劇~とにかくお酒の功罪については圧倒的に功より罪が多い。タバコの場合、タバコを吸って殺人を犯すこともないし、お酒のように酒乱になって家族に暴力を加えることもない。精神疾患を患うこともない。
我が国のマスコミは政府の尻馬に乗ることが好きな嘘寒く気味悪い連中だから、お酒が禁止傾向になったら、手の平を返したようにお酒を非難するものと思う。
お酒がどれだけ悪いものかという大キャンペーンをはじめるはずだ。きっとすごいと思う。それはタバコの比ではないだろう。
 
 ぼくも車を運転するけど、車の運転を恥じなくては、と常々思う。今は必要な時だけレンタカーを借りたりしているが、つくづく自分は自分勝手な考えを持つ低脳なクロマニヨン人だと思う。
車一台生産するのにどれだけの環境を破壊するのだろう?生産に伴う破壊、排気ガスによる破壊と温暖化、
タバコを何万本吸っても、車一台分の環境破壊にはならない。
締め切った部屋に車を置いてエンジンをかけると汚染物質が大量に排出され30分でヒトは死ぬ。
同様に締め切った部屋でタバコを何本吸うと人は死ぬだろうか?
道を歩きながらタバコを吸う人を人は咎めるが、車を運転する人は咎められない。きちんとした世界観を持つ賢い人間なら、咎めるべきは車を運転する人の方だ。車を生産するだけで膨大な環境破壊には繋がるが、廃棄もこれまた大変なことだ。車は空きカン何個分の鉄でできているのだろう?プラスチックは?最近は大きな電池も搭載しているからその電池の捨て場所にも苦労するはずだ。

さて、人間は酒もタバコもやめて、車も乗らずに生きるべきなのだろうか?
人類自身と環境に優しい文化など、我々暴力、財力、権力が好きな低脳なクロマニヨン人には無理なのだろうか?


地球人が火星に住む~
火星人から見たら、地球に住む哺乳類ヒト科は恐ろしく自分勝手で侵略的な生物に映るだろう。何しろ自分たちが火星へ行くのを当然だと考え、あたかも火星を自分のもののように考える。
火星は明らかに哺乳類ヒト科のものではない。また、当たり前だがこの宇宙空間に存在するヒトが住めそうな惑星もヒトのものではない。自らの地球環境を破壊するだけでは飽き足らず、他の生命体が住む惑星もいずれは破壊しに行くのだろう。
これは宇宙的にどうなんだろうか?
人類の日常茶飯事である侵略、破壊、収奪、暴力は、宇宙の生命体共通の心理なのだろうか?

 他の星の生命体が地球に住みたい、と言って、大挙して押し寄せて来たらどうしたらいいだろう?
我々は彼らを拒否して追い出すか殺すかするだろう。
地球を奪い、人類を押しやる~そういう侵略者を殺すことは善だ。だが、我々が他の星に侵略してそこの住民を殺すのも善だ?~ということである。
いずれにせよ、自分のやることは全て善だと考える低脳なクロマニヨン人だということだろう。

記事検索
アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

livedoor プロフィール
kindleにて発売中です