前科無き日常

気づけば開設9周年。。。

May 2005

 久しぶりです。一応この度の顛末をごく簡単に報告します。
 
 先週は相当色々ありました。具体的なことはいえないのですがこの間の文脈で言えば「魚」は釣れました。しかし、その魚は猛毒を持っており食べると死に至り、その毒は人を殺さないと癒えないという魚でした。毒を口にすることは、やはり出来ませんでした。
  
 ですからさすがに凹んだのですが、未熟で無能であっても、それは克服していかなければ生きていけないし、こんな自分でも支えてくれる人たちを早く安心させるためにもまた頑張らねばならないと思っています。この度の不思議な体験をバネにまた一からやっていきます。とにかく希望を見失わずに。

腐りかけのカレー

 今日は、免許の更新の為守山へ。何回か行った事あるけど、何であんな辺鄙な場所に免許センターがあるのか未だに不明です。近場に国家の秘密基地でもあるのでしょうか。近場の池からサンダーバードみたいなのが発射するとか。そういえば、こないだテレビで、東京の地下鉄網は戦前にほぼ完成していたという事をしてました。まじめにやってたけどはだからなんなんだという感じです。
 
 昼に帰ってきて最近生活が不規則なため、眠気が襲い、世の中の必死で頑張っている皆さんにごめんなさいと思いながらも惰眠を貪ってしまいました。起きるとすでに夕方。お金もないので、5日以上前の腐りかけのカレーと腐りかけのご飯を炒めてドライカレーみたいなものを作りました。おいしかったけどグチャグチャで非常にウエットな矛盾溢れるドライカレーでした。
 
 昼寝の時に夢を見ました。昔の友達が沢山出てきました。夢では昔の友達が結構出てきます。友達といえば、気付いた方もいるかと思うけど、高校時代からの友人「zakaoka」君のブログが新たにリンクされました。彼の視点は中々キレてます。
 
 高校の時に彼とは知り合いました。友達の友達という感じでコミュニティーが広がり、グループで共に色々不思議なことをやってきました。27時間テレビとか映画とか作りました。映画とか出たこと無かったので全く演技もクソも無かったけど今までそんなことした事無かったので楽しかった記憶があります。ちなみに僕の役は悪役で「チェザリス」という名前でした。悪行の報いとしてヒットマンに最後に殺されてしまいました。何でチェザリス!?とは思いつつ、不思議とその役名が高校の時のあだ名の一つに定着しました。チェザリスの語源は未だ謎です。
 
 ちなみに今日のタイトルと内容は「思春期に少年から大人に変わる穢れの無いままに♪」の歌詞が印象的な「壊れかけのradio」をもじって、今日食った「腐りかけのカレー」と少年から大人に変わる時の事を新たに増えたリンクと昼寝で思い出したので半ば強引に掛け合わせました。その歌を歌っていた徳永英明は一時期「スーパーサッカー」にメインキャスターで出てて、きれいな歌声に似合わぬ毒舌ぶりに注目していたのですが、「モヤモヤ病」という奇病で降板したことをやけによく覚えています。
 
 明日は先日書いたとおり選考中の企業の営業について行きます。果たして僕の人生のモヤモヤ病は回復するのでしょうか!?(続く)

FISH ON?

 今日は、18時に面接があるため、行ったこともない天王寺へ。やれやれ。
 
 天王寺は随分ゴミゴミしてて、商店街の緑と赤の屋根と路面電車がアジアの街っぽくて、何か気に入った。
 
 会社に入ると、フランケンシュタインみたいに彫りが深く珍しい耳の形をした顔の人と面接をした。どうやら代表らしいが、いきなり、面接が始まる前に握手された。日本人が初対面で握手をするというのは違和感があったし、数多く面接を受けてきてもそういう人はいなかったので、何か気味悪かったけど、代表らしからぬ腰の低さで結構いい人だった。でも顔は怖かった。
 そんなに自己アピールの質問とかは無かったし、不必要な事はしゃべらず、至って自然に上機嫌に話せたので、自分のタスクとしては今日の面接は合格点。むしろ、フランケン代表による会社の説明の方が長かった。
 
 この会社は、セールスプロモーションという業務をやっており、平たくいえば他の会社や店を流行らす為のビジネスをしている。他の広告代理店などとは違い、「店に人が来るまで」が仕事という、ほんとに収益が出るのか?と疑いたくなる事をわずか5人の社員でしている。しかし、外資が入っているらしく、ここで働いてれば、営業スキルのみならずマーケティングやらマネジメントやらが勉強でき、8ヶ月で独立している人もいるとか。しかも、フランケンなんかいい人だし、うまい事ばっかいって、会社の借金肩代わりさせるつもりじゃないかとか内心勘繰ったりした。とはいえ、人の借金背負ったり、犯罪に手を染めたりするのでない限り、別に失うものはないし、話自体は悪い話では全然ないし、むしろ面白そうだからここで働きたいなあという思いは強くなった。
 
 終わりに、あさって試しに営業の人の仕事に着いて行って、実際に働くイメージを持ってもらいたいという提案をされた。こういうのも初めてだったけど、まあ面白そうと思って参加させてもらうことにした。ただの見学とは言っていたがこれも一つの隠れ試験で採用されるか否かの分かれ目かもしれないから、目ん玉ひん剥いて見学させてもらおう。
 
いよいよフリーター卒業か!?(続く)

魚が釣れる瞬間

 どうも、最近魚釣りがしたい。子供の時は親父や友達と近くの川や池に行ったものだ。川ではハヤ(ウグイ)という食っても旨くも無い凡庸な魚やフナを釣っていた。友達の影響でブラックバスにもはまり、リールやルアーを買いまくって行ったけど、何故かブラックバスは一度も釣れなかった。そもそも琵琶湖と違ってそんなにブラックバスがいないし、ルアーもケチって安っぽいの使ってたし、何より腕が無いから釣れる気がしなかった。あんまり釣れないものだから、熱意も失せ、釣りに行く事も無くなった。
 
 滋賀に移って以来、釣り行こうかなとか考えはしたものの、道具を揃えるのが億劫で結局行っていない。不思議に思うのだが、BKCの人で、釣りするために草津に来ましたって人を余り見たことが無い。あるかも知れないけど、釣りサークルも見たことが無い。釣りぐらいしかする事無いのに自分も含めてなんだか不思議に思う。
 
 今はちょっと無理だけど、仕事見つかったら、休みの日は釣りに行きたい。ボーっとしながら竿を垂らしてみたい。海とか行って食べれる魚をビキビキッと釣りたい。ニジマスを釣って、家で塩焼きにして食べたことあるけどあれは旨かった。
 
 釣りの話を唐突に始めるのには訳がある。今まで、周りの人に釣りに行きたいなんて言った事ないはずだけど、まあ訳がある。
 
 今日大阪のハローワークに行って職を探した。色々な求人票を見て、いくつか興味ある会社を見つけた。求人票だけでは分からないので、併設のパソコンで会社を詳しく調べた。一社だけ凄いスーッと素直に「入りたい」という会社があった。すぐハローワークの人に頼んで、その会社に電話してもらい瞬く間に面接の日取りが決まった。余りにもスムーズなので、何か自分でも変だった。こんな事はほとんど一度もない。今までは自分の性格とか能力と志向、そして会社の業務とかを情報を増やしつつ、両者のバランスを頭の中であーでもこーでもとやって「えいっ」て感じで開き直り気味に採用に入って、結局その天秤が採用の過程でグラグラしてだめっていうのがほとんどだったのだが、その会社に限ってそういうのがほとんど無かった。迷い無くスーッといく感じが気持ちよくも気味が悪い。今までの、先の見えないトンネルを先の見えないまま掘って勝手に追い詰められていく感じがない。先が見えるというか、視界が開けて、会社が突きつける重圧も無く体が軽い。上手くいきそうな予感がある。これで駄目だったら、ただの馬鹿(24)だけど、駄目だったらどうしよう的な事があまり頭をよぎらない。この感覚が魚が釣れる感覚によく似ている。魚は釣れない時にはどれだけやっても釣れないし、釣れる予感もないけど、釣れるときには、予期するようにチョンチョンっ浮きが動いて、自然にベストのタイミングでビュッて竿が上がって、糸がピンと張ってウネウネ魚がもがく。泳がせながら手前に徐々に連れてきて持ち上げる。今、浮きが動きそうな予感がある。釣れればバンザイ、釣れねば馬鹿(24)。
 
 就活は釣りに似てるかもしれない。釣れるとき、釣れる人は入れ食いのように釣れるし、釣れない時、釣れない人には全く釣れない。魚を釣るには何を釣るかを考えなければいけない。そしてその魚を釣るための道具を揃え、釣れるポイント、釣れる時間を調べて、釣る。ここまでが出来なければ釣れる確率は低い。極端な例えで言えば毛ばりで深海魚は釣れないし、フナは海では釣れない。去年は、こういう第一段階がお粗末だったと思う。道具も無く、糸を垂らす場所も見当はずれだった。あるいは、この世にいない魚を釣ろうとしていた節もある。
 何とかかんとかこれらの準備は最低限した。俺には海に出る船がないから、大物は釣れない。でも、地に立って糸を垂らす中で、より望ましい「魚」を現実的に選択しているのではないかと思う。
 
 ただし、以上は一段階。二段階目には全てが噛み合ってビュッと針を食わせて釣り上げる技術と感覚、そして運が必要である。準備とこれらの要素が噛み合って初めて魚が釣れる。多分、俺も含めて多くの人が第二段階で躓き苦しむ。いざ、浮きがビクビク動いて慌てる人、食いついたのに無理やり引っ張って糸を切る人。餌がとられていることに気付かず竿を垂らし続ける人、力がなくてもってかれる人、そして、釣るというイメージが掴めないで、竿をポーズで垂らしているだけの人。原因は色々ある。自分にとってこれらは全て当てはまるのだろうけど、一番最後の部分が大きい。「釣れる」っていう事の意味とか感覚が釣れないままに掴めていない。でもそういうのは釣れないと分からないからますますどつぼにはまる。釣れる人は、いつの間にか備わったセンスと技術、そして幸運にも恵まれ難なく釣ってしまう。一度釣ってしまえばいくらでも釣れるようになる。釣れる人と釣れない人の差は余りにも大きい。
 
 しかし、釣れるセンスは多分誰にでも備わるという仮説を敢えて立ててみる。今日の不思議な感覚を元に試してみたい。センスは一朝一夕にはやってはこず、ジタバタしてるうちに不意にやってくる。「あ、今なら釣れる」っていう感覚が。どうも、今運もあるように思える。能天気に聞こえるかもだろうけど全ての出来事が絡み合い何か一つの方向に文字通り「運ばれている」気がしないでもない(かなり妄想的)。運と、不意にやってきた不確かだが「釣れそうな感覚」に乗っかる感じで金曜日に迫った面接を受けてみようと思う。そして、本当の釣りに行きたい。
 
妄想的なウンチクをダラダラやってしまいました。すいません。でも止むに止まれず書きたかったのですいません。全ては今日現在仮説です。
 
 

ワールドクラス

久しく更新が途絶えていました。毎日疲れて夜さっさと寝てしまうのと、昨日またダラダラ書いてたら、間違って消えてしまっただけの事です。そして、今、マンデーフットボールを見ながら書いてます。
 
 今日は、第二新卒とか既卒者の人材紹介会社の紹介企業の説明会に行ってきました。海外の雑貨とか衣料品を製造委託の段階から請け負うというちょっと特殊な商社で、結構やりがいはあるだろうが中々タフな企業。一人で海外行って商談まとめてくるらしい。相当語学力いるのかと思いつつ、「徐々になれる」ので基礎レベルでいいらしいです。それに商談も「できるようになる」らしい。そのアバウトさとタフさが少し気に入りました。
 
 その後、紹介会社の担当の人と面談みたいな事して、結構色々話し込みました。もっと肩の力抜いて楽しむ精神を大事にしなさい的なことを言われました。楽しくするのも楽しくしないのもいいけど、楽しくないと損じゃない?みたいなノリです。「楽しむ」ということについてはまた書くことにして、面談では色々話せたし、有益な情報ももらえたのでまずまずです。
 
 今日は海外関係の事が身の回りに多かったので世界について考えました。最近思うのは、やっぱり日本人って良くも悪くも世界基準と距離があるなって感じます。さっきニュースで政府で国連理事国入りを目指す為に頑張ってるっていうのをみたけど、何とも言えないさもしさというか、それ入るとどういういい事あるんだろうとか考えるし、常任理事国と日本の差ってなんなんだろうとか思う。素人考えでいえば軍事力とか戦勝・敗戦国の差なのかなとは思うが、どうもそれだけじゃない。日本人は何か外人にオーラで負けてる。金持ち貧乏関係なく。日本人には大陸固有でかれらにしか使えない「論理」が感覚として掴めないのかなとか考える。構造の中で地道に上り詰める力はあるんだろうけど、構造とやりあう力(武力にくくられないある種の力)と頭がないな。
 
 話は飛んでふと思い出したけど昔家の親父が教員やめる前にあるロシア人に日本語教えてたけど、全然こびへつらってる様子はなく、当たり前のように「先生と生徒」だったのが立派だと思いなおした。親父くらい偏屈(俺も結構偏屈だけど数倍偏屈)な人が逆にワールドクラスなのかもしれない。そういや中田もイチローも偏屈だ。偏屈も才能の一つなのだろうか?海外では自分のスタイルを守る偏屈さは必要なのかも。でも日本の大人社会でいちばん嫌がられるのは「偏屈」だ。
 
なにやらまた、つれづれと変な一人言になってしまいました・・・

何か凄い人列伝

今日バイトに一緒に行った人は、高校時代家出して、仕送りゼロでばあちゃんの家、学校の部室、新聞配達の住み込みバイトを転々としながら学校に通い、卒業後一ヶ月で給料が安いからダイキンを辞め、静岡の自動車工場に再就職予定。ブラジルにサッカー留学するために金をためているという人でした。
 
むちゃくちゃだけど、別に誇るでもなく、当たり前のようにそういうこと話してたので何か凄い人だと感心しました。

砂嵐

 「海辺のカフカ」をGWの後半で全部読みきりました。内容はこれから読むかもしれない人のためにもいちいち書きませんが、今の自分にとっていい意味でのショックを与えるのに十分な作品だったといえます。文体的には独特ともいえる淡白さが全編漂っていますが内容面でグロテスクな部分もあり、何事にも影響されやすいもので、少しブルーになりもしました。そのことが多少の引き金で誕生日を祝ってくれた人の気を悪くさせてしまうこともあり、24歳にもなって自分の子供っぽさをつくづく反省しました。ごめんなさい。そしてありがとう。
 
 村上春樹の作品は今まで全く読んだ事はありませんでした。高校の時、「ねじ巻き鳥クロニクル」を図書館から借りたのですが、圧倒的分量と、ストーリーの意味不明さ、淡白な文体に早々にして飽きてしまいました。しかし、そういった村上春樹特有の「スタイル」は自分が今求めているもの、次のステップに進むのに本当に必要な要素なのではないかという気がしています。
 
 4月以来読んでいた本は、例えば資格の本であったり、ビジネス本であったり、割と現実を模索する為の本で、その事で多少これからの選択肢を考える上でも参考になったと思われます。しかし、自分の中で、そういった本に真にのめりこむだけの心構えが準備できない原因不明の心境があった。また、ブログや日々の行動においても気分を新たにとにかく無理やりにでも前向きに行こう、元気にやろうというスタンスを取り続けていた。でも、やはり無理やりという意味で引っかかりを感じながらも、そこを見ぬふりをしてやってきた部分があり、その反動で、徐々に何事にもうんざりしてしまう気持ちも生まれていた。面接や就業支援関係で色々なサラリーマンとも話をして、表面的には「勉強になりました!!」とは言ってみるものの、実際は社会の現実に生きる人たちの声を聞けたのは良かった部分もありながら、その声に何の魅力も新鮮さも無く、むやみに啓蒙的で悪い意味で普遍的なビジネス本の焼き増しにしか思えない虚無感を感じた。
 
 そういった声を受け止めるだけの許容量が自分には無かったともいえるが、一方で言葉の持つ背景というか深みをどうしても見出せないところがあった。今の自分の身分からいえば、この感覚は傲慢以外の何者でもない。間違いなく負け犬の遠吠えである。しかし、そう感じてしまう。
 
 テレビでもJR西日本のバッシングが続いている。犠牲になった人、その周りの人にしてみれば不条理極まりないし、怒りや悲しみは半永久的に残り続けるだろう。でも、そうではない人たち、事件の当事者ではない人たちが取るべき感情のあり方には少し違和感を感じる。運転手や事件の日にボーリングやコンパをしていた社員のことをこれでもかとばかりに言葉で串刺しにするマスコミは、何を理由にそこまで追及するのだろう。追求する事が悪いというのではなく、追及する理由が知りたい。どこまで追及して、何を契機に追及を終えるのだろうとか考える。やむにやまれぬマスコミ魂がそうさせるのか、世間の需要がそうさせるのか、人間の自然な感情がそうさせるのか。それを知りたいと思う。
 
 だいぶ話が飛んでしまったし、いつのまにか「である調」に変わってしまいましたが、要するにここのところ、自分のあり方、考え方と、社会、現実のあり方にギャップを感じて、整理が付かず、何事にもモチベーションが沸かないという状況が続いていました。そんな時に「海辺のカフカ」を読んだわけです。本には警句らしい明確なメッセージやテーマ性は具体的に提示されているわけではない。しかし、何かを何気なく指し示すメタファー(隠喩)はふんだんにちりばめられていて、メタファーを読み解く想像力がかきたてられます。メタファーが指し示す答えは読者それぞれの想像力にかかっており、自分とメタファーを関係付ける所に内面的な前進が見出せます。書店で売られている本の多くは驚くほど直接的に「ああしろ。こうしろ」と働きかけ、時にげんなりさせますが、特定の小説のもつ「自分で答えを見つけなさい」というスタンスは凄いおもしろいと感じたし、その行為にすっかりはまってしまいました。
 
 貧困な想像力を駆使して、今回掴んだもの、それは「反復」の意味と、「新しい世界の一部になる」ことの意味だと思います。「反復」する事は恐ろしく退屈と考えてしまいますが、多くの人は生活を反復し、少しずつ何かを蓄積し、新たな現実をすこしづつ作り出していく。その事は「楽しい」事かは分からないし、辛い事でもある。しかし、それが人が生きていくうえでの全てでもあるということを小説の各所、あるいは小説を生み出す作家(=村上春樹)に垣間見えます。村上春樹が好きな人嫌いな人いると思うけど「小説のプロ」である事は間違いない。ほんとに子供のころから本に親しみ本と共にあり続けてきた。中学生の頃から「マルクス・エンゲルス全集」を読んでいたということを何かで知ったり、小説における圧倒的な情報量を目の当たりにして、子供の頃からの読書の反復が作り上げるものの質の高さを実感します。すべからくプロは「反復」を苦にしない。イチローであっても松井であってもそれは同じで、プロは反復を苦にしないという前提に初めて出来上がるものだと感じ入ります。ちなみに何事においても飽きっぽく、全く「反復」の経験が無い自分がこれから何を積み上げていけばいいのかと思うと少しテンションが下がりますがそれが明確な課題の一つであることは明らかになりました。
 
 そして、「新しい世界の一部になる」ということ。これは、海辺のカフカの書評のサイトで見つけたのですが、「君と世界の戦いでは世界に支援せよ」という言葉です。この言葉はF・カフカという昔の小説家の言葉らしいのですが、ちょっと逆説的でおもしろい。今の自分のように社会に対して違和感をもっている状態(大げさだけど)にあると、どうしても、自分可愛さゆえに頑なに自分の城にこもってしまうことになる。しかし、高い視野で見ると、その事が絶対に正しいとは言い切れない。そういうクールさを取り戻してくれる言葉だと思います。現実世界とのコミットメント(接触)の中に新たな自分と出会い、新たな世界との出会いがあると考え至ります。単純にいえば主人公の田村カフカも、ある種の頑なな思いを胸に家出をし、様々な人や出来事との出会いを経て、強くなっていく。そして、もとの世界に帰る。しかし、もとの世界は彼にとって新しい世界である。多分新しい世界は想像力によってどこにでも存在すると思います。物理的に旅をするのも一つだし、話した事の無い人と話すのも一つ、読んだ事の無いジャンルの本を読むのも一つだし、考えた事の無い事を考える、したことの無いことをするのも一つであらゆるところに転がっているとは思うけど、そういうことを意識して、生活するのは意味のあることかなとは思います。
 全く相変わらずも長くダラダラ書いてしまいましたが(読む人なんているんだろうか・・・)、とにかく色々考えて、書きながら整理してきて、まあまたやってこうという気分です今は。コツコツ広げつつ、コツコツ蓄えつつ・・・

世界一タフに・・・

 GW、バイトも就活も無いため早々に実家に向かい、今日クサツに帰ってきました。
滞在中は取り立ててすることも無く、7日に迫るミッションに備えてSPIの勉強、時に昼寝、時に読書、時に運転の日々で、穏やかな日々を送ってきました。
 
 新潟までは約6時間くらいかかるため旅のお供に本を購入。何故か選んだのは村上春樹の「海辺のカフカ」。大雑把にいえば家出少年の話なんだろうけど、不思議な感じの話。淡々と物語は進む。この話の中で「君はこれから世界でいちばんタフな15歳の少年になる」というフレーズがあって、何か気に入りました。
 
 もうすぐ俺も24歳の誕生日。本に影響されやすいので「世界でいちばんタフな24歳」になろうと午後の日差しにキラキラ輝く日本海に誓いました。しかし、GWに実家に帰る23歳がどうやって世界一タフになるんだろうと考えたら、その思いも少し萎えかかりました。今のタフガイ偏差値は多分30あるかないか・・・世界には、何人の24歳がいて、何人のタフガイを追い越さなければならないんだろう・・・腕力でタフを証明できないならば何でタフを証明しなければならないんだろう・・・課題山積。
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