前科無き日常

気づけば開設9周年。。。

January 2006

ホルモン

 世間はホリエモン逮捕劇で騒いでるようだ。

 球界参入に始まり、メディア買収、選挙とガチャピンばりに色々なことに色々なことに挑戦するのは偉いとは思っていたけど、どれも結局何故かは知らんが最後までうまくいってないのは嫌だった。形にして、継続性のあるものにしてこそ本物だし若い人にも一つのモデルを示せる人物になれた。どうせならどれか一つでも成功していたらとは思う。今回のこともそうで、やはり従来の常識を超えた方法で企業をいいとこまでもっていったが、詰めの甘さや焦りが露呈される結果になった気がする。同じようなことをしてる会社なんて沢山あるだろうに。

 でも、ホリエモンよりも嫌だったのは日本人の節操のなさ。あれほどチヤホヤしてたのに、逮捕と決まれば手のひらを返したような態度。ニュースで流れてるライブドアの忘年会の気持ち悪さは、オウム真理教事件で麻原彰光が選挙で変な歌を歌ってる様を彷彿させる悪意溢れる編集だった。人を悪者にするのは簡単だが、悪者を支持した責任感を感じないのが大方の日本人なのだろうか。そういう浅ましさに自覚がないことの方が株価の乱高下よりよほど問題だと思う。戦争の責任、バブルの責任を感じない普通の人はあまりにも多い。何でもリーダーのせい、目立つ人のせいにしているようでは、民主主義なんて永久に完成しやしない。

 話し変わって、ビジネスの暗部として、インチキとかごまかしとかは必要悪として厳然と存在している。そもそも、会社がものの値段をつけるのだって結構いい加減なもので、限界生産費用も均衡価格もクソもない。会社対会社、会社対消費者のこれを売ってこれだけ儲けたい、乃至はこの商品はこの値段で仕入れたが、このお客さんにはこれくらいの価格で売ってもいいだろう、これくらいはゴネて負けてもらえるだろうという化かし合いのゲームを延々と繰り返している。そういう世界にどっぷり漬かっていくと、徐々に言う事なすこと嘘だらけになってしまうのではないかという怖さを最近感じる。お金を儲けなければという欲望、切迫感が、人間としての真っ当なあり方を食いつぶしていく。お金のために人を騙したり嘘をつくのが当たり前になったらお終いだ。とはいえ労働の対価といえば聞こえはいいが利益を得るということの一側面には法には触れずともこういうブラックなことが結構普通にあったりするのである。そういうもんだと思いつつ胸クソ悪くなる。しかし俺の胸くそ程度でどうにかなるものではない。 

 でもやっぱり胸くそ悪いから人としてまともな営業というやや矛盾したテーマを目指して今後も黙々とやるしかないんだろう。早くけちらせられるくらいになりたい。 色々な嫌な事を。

野洲

 今日はテレビで高校サッカー選手権の決勝を見ました。

 4年半過ごした滋賀県の野洲高校が決勝に進出した事もあり、自然と野洲高校を応援。この学校のサッカースタイル、相手の鹿児島実業とのサッカースタイルのぶつかり合いは、ただの高校サッカーの決勝戦という意味合い以上のものを感じさせました。鹿児島実業のサッカーはトーナメント仕様の負けないサッカー。日ごろの厳しいトレーニングで培った体力を活かした当たりの強さ、プレッシングの厳しさが特長。一方、野洲のサッカーは、個人技を活かしたドリブル勝負、パスワークを活かしたサッカー。今ニュースで「セクシーサッカー」っていってました。このネーミングはやや気持ち悪い。  鹿児島実業のサッカーはJリーグや海外組のいない日本代表のサッカーに近いものがあったけど、一方の野洲のサッカーは世界基準を感じさせるものでした。とりわけボールの扱いの上手さが抜群で、こんなにボールを上手く使う高校のチームがあって、それが滋賀県の片田舎のチームであるという事が凄いと思いました。これだけのサッカーができるチームが高校に出ることが事件だし、ただの優勝ではないと思います。日本サッカーもいよいよ個人レベルで世界基準になっているという事なのかもしれません。

 そして、ネットでサッカーのコラムを調べてたら、このボールの扱いの上手さのキーワードとなっているのが「二軸動作」と呼ばれるものらしいです。ロナウジーニョなど世界のトップクラスの選手の動きはこの二軸動作に基づいており、非常に注目されている身体操作法です。説明するのは難しく、まだ勉強しないと分からない点も多いんだけど、従来のスポーツの動きは、からだの動きの軸が一つで、軸を基準とした筋肉のねじれから生じるパワーをパフォーマンスに活かしていました。一方で二軸動作は、ねじれを作らない動きにより、機動性の高い動き相手に予想しづらい動き、従来のスポーツにはない動きが可能になるそうです。

 この二軸動作、何かサッカーだけでなく日ごろのことに使えないかなあと思案してます。一つの軸から二つの軸へ。なんのこっちゃだけどサッカーのみならず思考の幅を広げるヒントになる予感がしてます。

謹賀新年と整理整頓と個人と家族と社会について

 あけましておめでとうございます。このブログを見てくれているみなさんもそうでない人も、健やかに一年を過ごせるよう、切に願います。

 さて、この年末年始は、会社の先輩や大学の先輩後輩とのささやかな忘年会に参加し、大晦日には病院に配達にいき、その足で実家に帰省、特に人と会うこともなく、ただただ餅を食らい、ふてねを決め込み、水増しテレビを見るという、僕にとっては至って自然かつ贅沢な正月を送りました。

 途切れない日々の暮らしの中で自分のあり方を振り返る事も出来なかったので、ゆっくり考え事にふける事もできました。その中で今年は、とにかく生活、仕事全般において整理整頓をきちんと行っていこうと思いたち、整理術の本などを何冊か購入し、研究に浸りました。何かを始める時、人を頼る人、道具を揃えてカッコから入る人、色々いますが、僕はまず関連の本を買います。昔から「〜入門」的な本をよく買ってました。そういえば。でも結局、本を読んでも実行しなければ意味がない。ほとんどのことは、本を読んだ後にやった気になって結局何も変わらないことが余りにも多かったので、企画倒れにならないようしっかり実行しないといけません。煎じ詰めればだらしないのを治すのが今年の目標です。

 話は変わって、年末年始の休みの中で感じた事を少し。元旦の日に、京都に住んでて今実家の近くに住んでいるおじさんと家の父親と話していたけど、京都の河原町に近頃暴走族が出没している→昔はこんなことなかった。それに河原町の様子が豹変している→丸善という本の老舗がカラオケ屋になった→こういう風になっているのは小泉首相のせいだ(父曰く)という話をしたのを良く覚えています。

 父親の何でも小泉のせい理論の根拠は深くまでは図れませんが、京都の景観一つにも構造改革の影響は及んでいるというような事でしょうか。新自由主義的な改革により、様々な規制は緩和されています。一体今まで何について規制がかけられていたのかというと多分「誰でも好き勝手に金儲けができること」に対する規制でしょう。「誰でも」とは日本企業はもちろん、ハゲタカ外資も含まれます。バブル崩壊以降、最近になってやっと経済的には株価も上昇し、失業率なども改善の兆しを見せているそうです。でも、何故かあまり楽になった気がせず、段々しんどくなってる気がしないでもない。まがいなりに働いていて感じる実感、同僚の生活の話を聞いても「楽になった」という声は聞かないです。

 大きな資本を持っている人は、その元手を駆使し、更にそのボリュームを拡大しようと努めます。社会全体が「好き勝手な」金儲けを許容しているのだから、歴史的景観にカラオケ屋をぼんぼん建てようが別に社会の枠組み的には問題がない。むしろ「経済」のメガネから見れば、格好つけてばかりでそんなに儲けがない本屋(極端な例えだけど)より、人口密度が高い繁華街に消費が見込めるカラオケ屋を建てれば、ますます景気は上昇して万歳ということになる。別にカラオケ屋さんに限らず、経済の輪に加わる人は、その個人個人が志や自己実現の欲求に基づき頑張っていると思う。でも一方で、「すっごい頑張ってるんだけどいいようのないしんどさ」を感じている人は少なからずいると思う。そのしんどさの原因って一体なんなんだろうと考えた結果、一つのポイントを見つけました。それが「個人と家族」。

 正月、実家に帰っているとき感じたのは「何て家族って素晴らしいんだろう」ではなく、「何て家族って楽なシステムなんだろう!!」です。世の中に家族は無数にあって形も様々ですが、基本的には家に帰れば、暖房はちゃんとついてて、黙っていれば風呂は沸き、洗濯はしてあって、飯も時間になれば出てくる(いくらかの手伝いはしますが)。普段一人暮らしで、それらの作業を全部しなければならない自分にとってはこれを楽といわずしてなんだろうという罰当たりなことを思いました。当然こういった面倒をしてくれてるのは主に母親なのでしょうが、そうだとしてもに家業は分担されていて、相互扶助がそれなりに出来ていて、負担のシェアがなされているんだなあとしみじみ思いました。でも、このような日本におけるこのようなシステムは早晩崩れ去る危機も感じました。その理由が「何でもありの金儲け社会システム」=「新自由主義的構造改革」に踏み切った日本社会にあると思うのです。

 これからの日本社会(≒新自由主義的な資本主義社会)の基礎単位は「お金を稼ぐ」個人。社会的責任は個人に帰着し、何でもかんでも個人で対処しなければならない事も増えてくるでしょうし、システムもその傾きが強くなってくるでしょう。お金を稼ぐ≒働くというのは人間の生業として古今変わらないとしても、余りにも社会においてその事がクローズアップされるがゆえに、人間の基礎的な生存基盤である「生活」が捨象されてしまいます。だから、朝から晩まで働きづめになったり、せっかく家庭を持っても、家族を基準とした社会ではないがために、ミスマッチが発生し「生活」が成り立たず、家族というシステムは破綻してしまうケースが続発する。例えば、夫婦共働きで、一緒の家に住んでても全く別の生活で、すれ違いが発生し離婚とか、親が働く事ばかり考えて、子供をほったらかしとか、老いた両親の面倒が見切れないというのは良く聞く話でもあります。家族は存在しても社会は個人単位で動いているから、家族とはいえ、やっぱり「働く」自分を中心に考えざるを得ない。いくらそのギャップを埋めようと思っても、個人本位の考え方を捨てない限り、いや捨てたとしても個人としての自分と家族の一員としての自分のギャップは容易に埋める事は出来ない。社会自体が家族というシステム、あるいはお金を稼ぐ以外の人間、及びお金を稼ぐ以外の行為≒生活を排除しようとしているのだからその基盤の上に生きる我々はいかんともしがたい溝にはまるのではないかと思います。

 個人で責任がなんでもとれてばりばり稼ぎたい人にとってみればこれほどいい社会はないけど、その対価として、今後、家族を基盤とした生活、仕事以外の生活は荒れに荒れることでしょう。楽は出来ないし、働く以外の人生のオルタナティブは貧弱だし、全てを自分でやりくりしなければいけないというのは大変だと、日々金を稼ぐために意味も分からずに働いている無精者の僕は実感に近い形で感じます。「個人が基本単位の社会の中で、人間の生活、あるいは人同士の連携は衰弱する」これが新年の結論。これを打開するには個人を基準とする新しい生活体系を模索するか、今の社会システム自体を見直すかでしょうがそこら辺の詳しいところはそのうちです。

 かなり文脈的にも考え的にもねじれた物になって、全くのでたらめを書いた気もしないでもないけど、今年は、以上を踏まえ働く以外の生活も豊かにしていこうと思う仕事はじめ前夜でした。

 

 

 

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