前科無き日常

気づけば開設9周年。。。

June 2006

できない系

 昨日は京都で全社会議があった。本社の人などほぼ見たことがないので、興味深々だったが、何か別の会社の人みたいで違和感バリバリだった。

 日ごろ世話になっていた京都の上司が降格した。今までは会社の重厚な椅子にドテンと座っていたのが、また現場をはいずり回される羽目になった。囲む人もなくひとり仏頂面で、壇上の政敵を鋭く見上げる様には少し心を打たれた。その上司が見せた今までで一番格好いい風情だ。人間廃れてなんぼ、廃れた境遇にいる時の過ごし方、ありようがその人の真価だと、同僚に意味もなく吹聴した。

 会議が終わった後、何故か会社の後輩と2人で京都の街に繰り出した。あてどもなくフラフラした。前に他の友達といった飯屋につれてこうとしたが、結局店の場所が分からずたどり着けなかった。しかも雨が降り出してきて、傘もささなかったので濡れに濡れた。自嘲気味に「これができない男のやることだ」と後輩に意味もなく偉そうに吹聴した。「いつかいい思い出になりますよ」と優しく悲しいフォローが返ってきた。そうやって、いつも誰かに助けられている。

 フラフラ道中や帰りの電車でも色々話した。全く違う人生を歩んでいるので、少し刺激的だ。でも結局俺は俺だと思った。良くも悪くも。とはいえ雨が降ったら傘を差すぐらいはできるようにならないととは思った。常識として。人助けの一環として。

克己の国の盲点

 どこへ行ってもこの話題で持ちきりだが、ワールドカップで日本はオーストラリアに負けた。

 なぜ負けたのか?原因は挙げればきりがない。決定力不足、DFのパワー不足、後半のスタミナ切れ、根本的な技術のなさ、采配のミス、それ以外、無数にあげられるだろう。

 日本代表が負けた後、今日の仕事中もかなり色々考えた。考えるほどにサッカーの日本代表チームが負けたというより日本人が余りにも日本人らしい象徴的な負け方をしたように思えてきた。そしてオーストラリアは至って外国≒英米文化圏的な勝ち方をしたように思えた。

 ここからはもっと主観。日本代表はまず自分たちのサッカーをしようと思ってやっていた。スピード、コンビネーション、早いプレス。走り勝つ。イメージにおける日本サッカーの美点に近づこうという意識が画面から見て取れた。自分たちのサッカー。凄く聞こえがいい。しかしそこに落とし穴があった。自分たちのサッカーを追求する事がそれぞれ自分との戦いになっていた。こういうサッカーをしよう。できるはずだ。でも、ボールが上手く扱えない、つながらない、ボールが取れない、そしてゴールが奪えない。走れない。なぜだ?と自分たちにいらだち、消耗が始まる。

 一方のオーストラリア。オーストラリアは自分たちのサッカーをする=相手に勝つということを明確に意識していた。対戦チームの分析に長けた敵将ヒディンクは「日本に勝つ」ために、自分たちの優位性をフルに発揮する。最襲ラインの高さに不安があることに付け込みでかいFWめがけてロングボールを徹底して放る。その事により、日本のラインが間延びし、コンパクトな守備、速攻の効率も低下する。放り込み戦略により中盤が省略されスタミナは温存され、日本のDFラインは守備機会の増大で消耗が激しくなる。そこに畳み掛けるようにでかい選手を前線に投入し、決壊が始まる。

 オーストラリアはただ目の前の日本という相手に勝つことを前提に戦い、一方の日本は、自分たちの望むサッカーと現実のままならないサッカーのギャップと戦っていた。つまり相手ありきのサッカーという競技において相手がぼやけたまま、すなわち現実のサッカーがままならない原因を真に見極められないままだったように思える。極端な話、日本代表が幼稚園児や小学生相手ならば理想に限りなく近いサッカーはできる。決定力不足なんてこともないはずだ。しかし、WCには、厳しい予選を勝ち上がってきた強豪が出場しているのだ。そういう輩を相手に自分たちの思うようにサッカーはできない。相手だってちゃんと勝つ算段を整えているのだ。簡単に点など取れないのだ。そして相手に勝つには相手の勝つ算段を更に上回る算段に基づき動かなければならないのだが、それができなかった。勝負という極めて相対的な局面において勝負は相対的であるという大前提を意識できないままの敗北だったと思うのだ。

 自分との戦い。自分に克つ。日本人はこういうの好きだ。多分にもれず俺も好きだ。もちろんはまる局面においてははまる。日本の経済発展なんてまさにこの「思想」に支えられたといっても過言ではないと思う。しかし「相手」ありきの局面になるともろさがでる。これって、サッカーに限らず日本と外国の関係そのままじゃないのか?今は言うまでもなく競争の時代で、アメリカを中心としていいようにやられている。相手が見えないままだと、どこまでも翻弄されてしまう。そんな「当たり前」のことに今更ながら気付かされた。でもなんかやだ。こんなのはいやだ。

 駄々長くなってしまった・・・しかし耐えざる語弊に恥を偲んで書かずにはいられなかった。とにかく、自分との戦い好きの自分にとって日本代表の敗北はかなりショックな出来事だった。不思議と覚めた目で見たり、気分をさっぱり切り替えることができなかった。だが色々考える視点が増えて少しお腹一杯になった。初戦だけでも変な意味で満足したが、自分との戦い集団が、その拠ってたつところによって敗北したその後は一体どうなるか?気になるところだ。

 

ちょいワル

 先週来の風邪がまだ完治せず、まだ夜になると咳が止まらない。お陰で腹筋がバキバキだ。毎日病原菌のデパートみたいなとこ行ってるし風邪がレベルアップして変な病気になっているのではないかと勘ぐるがまあ気長に治すしかない。

 こんなだから今週末も何もできず引きこもり。でも、日ごろの食生活を見直して、自炊。初めて味噌汁を自分で作ってみた。他のものは結構作ったことあるけど味噌汁は不可侵領域だった。それを病気の拍子に侵す。不恰好に刻まれた大根と何故か見栄えの悪いわかめの入った味噌汁は殊の外うまい。レトルトの味噌汁と比べても自炊の格調がぐっと上がる。中々充実した飯となった。

 でも、引きこもりであることに変わりはない。それはそれで悪びれるところもないところがばつが悪い。来週は体調整えてパーッと脱出したいところだ。でも土曜日半日は京都で会議だ。こんな会社土曜日までに○○すればいいのにとちょいワル社員を気取る(○○とぼやかす辺りがちょいワル)。成績はちょいワルどころか最低社員だけど。

 病中には何らか感性が宿るかと思ったけど、今日もまた何のことはない廃れ節になった。

ワールドカップはじめました

 ワールドカップが始まった。スター選手たちの色々と華麗なプレイの数々、優れた戦術などをイメージするとわくわくするけど、実際見るとファールばっかりでプレイが途切れ途切れになったりで幻滅する事多いんだろうなと「イングランド×パラグアイ」の序盤を見て思った。少しでも多くのスペクタクルが発生する事を期待したい。でも、世界中の人たちが盛り上がるのは悪くない感じだ。盛り上がりすぎて世界中でストライキが起きて会社休みになったらいいのにと思う。でも、その隙に儲けようとか野暮な事を考える人もいるかもしれないけど。

 話はがらりと変わる。今日夕方近所に買い物行って思ったけど、敦賀って不自然なくらい若者が多いと思った。結構いたるところで若者がいる。別にそういうスポットがあるわけではないのに。今まで余り気にしてなかったけど、新潟ってこんなに若い人たくさんうろついてたかな?と思った。俺の地元の町は家のばあちゃんくらいしか歩いていないくらいそもそも誰も歩いてなかった。

 若い時はとりわけ都会に出たい、死にたいくらいに憧れた華の都大東京というような清原的感情は多くの人は持っているのだろうと思い込んでたけど、そういう人ばかりでもないのだろうか?ずっと地元で育って、地元で働いてって人はどういう思いで、そういう生き方を選択しているのか純粋に気になる。そういうのは悪い事とは全然思わないけど、自分は出来る限り日本中、あるいは世界中色々なところ行ってみたいし、あわよくば生活してみたいと思うので、そういう考え方とは180度違う人生の拠点を一点に定める人の「思想」には凄く興味がある。しかも、昔の人じゃなくて、若い人の。敦賀や福井にはそういう人多いだろうから聞いてみよう。にしても、敦賀を含む福井県の若者の多さは不自然だ。地方の過疎化はもはや自然な事だと思っていただけに、この現象は日本社会にとって喜ばしい事なのかもしれないが、どうも違和感があってたまらない。

今日の格言「止まるを知りて のちに定まるあり」

 今日の流れの締めという事で中国の故事。ある意味流浪を続ける自分にとって「?」な言葉だったが、存外奥深い言葉だなと思い始めている。どこまでも動き続ける姿勢は重要だが、方向性を持った生き方をなす上では、方向の基点→「止まる」場所や環境、考え方も必要なのかもしれない。未だ人生定まらず。況や止まるをや。しばらく迷走は続く。止まる気がしない。

tv children

  明日から仕事だしもう寝ようと思ったけど、色々思いついたのでしばし独り言。

 風邪引き休みの間、一つだけやり残した事(寝てるだけなので何かやるもクソもないが)に気がついた。 それは、教育テレビをじっくり見ることである。子供の時、学校休んだらワイドショーよりもまず教育テレビを見てた。そういえば。教育テレビというのはよくよく考えれば存外に奥深い。教育というのは時に強制的、高圧的であり、教育を受ける側にとっては往々にしてうっとうしいものでもある。しかし、教育テレビはまず強制することがテレビである以上できない。嫌と思えば消せばいいのだ。しかし、多くの子供を引き込む雰囲気を放っている。とりわけ刺激的なことも、小難しい事もやっているわけではないのに何故か。でも、子供が分かるなりにインテリジェンスでもあり、さらに、普通に学校行ってる子供たちは見れない→学校をそれぞれの事情で休んでる人たちが主な視聴者、時間帯に盛り上がってる辺り、親鸞の悪人正機説にも似た懐の深さを感じる。大げさかもしれないが教育テレビは傾きかけた日本社会に残された数少ない良心(経済主義的でないとこも含めて)であり、心ある大人の子供に対する無差別的な愛情とも言える。教育テレビというネーミングはかなり高いレベルで名づけられている。別に「ごくせん」の人や「金八先生」だけが理想の教育者ではないのである。

 教育テレビではないが「ひらけポンキッキ」という番組もあった。今もやってるんだろうかわからないけど、ガチャピン、ムックは偉いと今更ながら思った。見た目超グロテスクなんだけど2匹とも「人間」の鑑のような性格だったように思える。気の利いたコメントを言うわけでもない(俺は彼らの言葉を何一つ覚えてはいない)が適度に人といい感じで関わり、適度に人をたしなめ、適度に人を誉め、適度に色々なことをやり、適度に存在感があった。そういうパーソナリティが今後日本に現れるだろうか。今なおポンキッキはやっているのかもしれないが、全盛期ほどの影響力はないのだろう。今は全てが過剰である。

 親が子を殺したり、大人が子供を殺める事件を最近よく聞く。それは何故かと色々考える。思いついた一つのシチュエーション。朝、一人の母親が旦那を送ったひと時、まだ手のかかる子供と二人きり。その時見てるテレビは,箸だねの猟奇的な殺人のレポート △呂覆泙襯沺璽吋奪函覆泙世笋辰討鵑里TBS系列が福井では映らないので分からない) おかあさんといっしょ ,鮓ていたら、何となく嫌な気分になって、自分ももしかしたらこの子を・・・なんて考えなくてもいい妄想をするかもしれない。△廊,茲蠅いい里もしれないが余りにも所帯じみていて逆に疲れる。これは抜群である。適度にゆるく適度に子供が喜び、適度に空想的で、和む。なにより子供目線で作られる番組だから離乳食で抵抗感がない。エンディングの子供が沢山いてグルグル回っているのは違和感あるけど・・・家畜のようで。ちょっとずれたけど現代は言うまでもなく,△主流。という事は・・・考えるのも恐ろしい事になっているのではないだろうか。

 ダラダラしたけど結局言いたかったのは、今のテレビには色々なものが過剰だが愛情がないと思った。特に子供に対して。全部大人(業界人)目線。今のテレビ見て育った子供たちが心配だしかわいそうだ。そして俺は、夕方のアニメの再放送を追放したダラダラしてるだけの情報番組を今なお憎悪している。そして、俺は何かいてんだろう。こんな夜遅くに・・・熱か寝すぎの後遺症で頭がおかしくなったのかもしれない。

風邪引く朝焼け

 日ごろの不摂生が祟り、ついに風邪を引いてダウンしてしまいました。何年ぶりかに38℃近い熱が出てフラフラ、寒いし、のども痛い。だもんで昨日ついに就職以来初の早退をしてしまいました。

 夜遅くまで会社に残って、車に一日中乗って、飯もろくに食べていなければこの結果は当然。生活がだいぶ乱れていたので正さないと。

 しかし、早退するというのは気分がいいような悪いような。まだ大多数の人がアクセク働いてるのにドロップアウト。すみませんとざまあみろが交錯する不思議な感情。

 家に帰ってからは寝るでもなく布団にもぐりこんでゲームに没頭。先日何気に購入したDS liteで「MOTHER3」をやりこむ。社会人のクセに小学生のような「欠席した日の過ごし方」をしている。学生時代はたまに人生に疲れてくると学校休んでゲームとかしてた。

 そんなに長い時間ではないけど、体調だけではなく、精神的にも少しリフレッシュできた気がする。土曜日日曜日だけではどうしても抜けない疲れがあることが分かった。でも風邪はまだ治らない。ゴフッゴフッ(咳の音)。

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