January 30, 2005

エコール N°1

Ēcole du classiqueは池田陽介氏とご協力いただき、氏のリサイタル(2005年2月某日 於:あいれふホール)に先立ち、「Ēcole du classiqueの前説つき公開リハーサル」を開催(2005/1/30 於:ファイネスト福岡)、リストのロ短調ソナタについて考えました。以下は、その前説の内容を文章にしたものです。
今回、池田陽介氏のリサイタルでは、ドビュッシー、ショパンそしてリストの作品が取り上げられています。プログラム前半は、わりと聴きやすい曲で、池田氏のお披露目演奏といったところでしょう。一方、後半のリストのピアノソナタロ短調は、華麗なピアノ技巧を要求する、やたら長くて(30分強で休み無し)ごちゃごちゃした作品です。

今回はF.リストのピアノソナタロ短調についてお話します。実際にお聴き頂くにあたって、前説するわけですが、ロ短調ソナタを、例えば悲劇的な英雄の一生、といった物語として説明するのが、案外簡単でわかりやすいのかもしれません。そのように解釈することは可能だし、事実、この曲の解釈を巡る様々な議論の中では、文学的なテーマ、特にゲーテのファウストの登場人物との関係を主張するものが有力です。

しかしここでは、もっと別の側面、音楽的な事柄から、ロ短調ソナタとは一体どんな音楽なのか、捉えなおしてみたいと思います。

リストのロ短調ソナタは、1852-3年にかけて作曲されたものです。この作品は様々な論議を巻き起こしたことで有名で、中でもヴィーン初演を聴いたハンスリック(当時の有力な音楽批評家)が、この曲に憤慨し新聞に寄稿した記事は、非常に興味深いものです。曰く、

「ロ短調ソナタは、いつもむなしく動いている天才の蒸気製粉機である。ほとんど演奏不可能な、音楽の暴力である。私はいまだかつて、支離滅裂な要素がこれほど抜け目なく厚かましくつなぎ合わされたものを聴いたことがなかった。…この作品を聴いて、しかもなかなかの曲だと思うような人は、もうどうすることもできない。」
Neue freie Presse 1881年2月28日付(下線部:引用者)

当時のいわばワーグナー派対ブラームス派という構図にあって、ブラームス派筆頭のハンスリックが、ワーグナー派だったリストに対して敵対的な感情を持っていたのは事実でしょう。が、ハンスリックの批判点が、実はこの曲の持つソナタとしての意義だった、というところが面白い逆説です。以下では、ハンスリックが批判したロ短調ソナタの特色に着目しながら、その意義について、話を進めていきましょう。

[ソナタについて]
この曲は「ソナタ」といわれます。ではまず、「ソナタ」についてお話しましょう。ソナタとは多楽章の器楽曲(声が入らない)のことで、イタリア語のsonare(鳴らす、響かせる)に由来します。大雑把に言って、19世紀、ピアノやヴァイオリンといった独奏楽器のためのソナタは3楽章構成になっていました。

ここではちょっと踏み込んで、この「ソナタ」というジャンル自体がどのような表現だったのか、何を表現していたのか、を問題としましょう。結論から言えば、それは「調和」達成のドラマだった、ということなのですが、これには説明が必要ですね。

[調和の表現]
ここでいう「調和」とは何か?簡単にいえば、安定感、安心感です。シンメトリーってあるでしょう?あのことです。そして、音楽において「調和」は、
α−主調の確立:最初いた所に戻ったという安心感
β−形式的安定感:都合よく事態が進む安心感
という二つの方法で効果的に表現されます。

[−αについて:調和の基本的表現]
これは実際にお聴き頂くのが分かりやすいでしょう。

ピアノ:典型的なカデンツの演奏

この感じが、主調の確立です。19世紀では、更に主調における短調から長調への移行という表現が求められるようになります。が、ちょっとネタをばらせば、たいていの場合、それはきちんと主和音に終止します。主調に終わらないと、どうも気持ちが悪いんですね。楽曲が機能和声の原理に従わざるを得ない以上、主和音に落ち着くのは、ある意味当然なことなのです。

しかし、それだけでは「調和」が達成されたとは思えません。当然のことなのだが、しかしそれをあたかも奇跡のように、もっと強力に示したい!そこでやり方二つ。一つは和声進行を複雑にすることです。

ピアノ:複雑な和声進行を演奏

こんな感じですね。そしてもう一つが、βの方法です。

[−βについて:調和の効果的表現]
 形式的安定感を達成して、「調和」を表現する。これは、ソナタ形式という形式において効果的になされます。

[ソナタ形式:調性と主題によるドラマの舞台]
この形式は、ソナタの冒頭楽章に用いられていた曲の形式だったために「ソナタ形式」と呼ばれます。ソナタ形式とは、主題が主調で登場、その後様々な変化を被って、再び元に戻る、という形式のことです。これらは提示部−展開部−再現部と呼ばれます。

ここでちょっと補足。音楽の主題とは、代表的な旋律、メロディのことです(この曲の主題は「愛」です!とかいうのではなくて)。曲はこの主題によって構成されます。

ここでは主題の出てくる順番に注意しましょう。提示部でA-B-Cと出てきた主題が、展開部で順番を撹乱され、で、再現部でA-B-Cと出てくるから、安心する。帰ってきた、という感じが生まれる。Aが再現され始めると、次Bだな、と思う。果たして、そうなる。このようにして、再現部では思い通りに、都合よく事が進むわけです。

面白いことに、ベートーヴェン以降のロマン派では、このソナタ形式において、再現部の入り口が強調されるようになります。

[「予定調和」の音楽から「調和を求める」音楽へ]
これは古典派とロマン派のソナタ形式の比較で考えると分かりやすいでしょう。モーツァルトやハイドンといった古典派の時代では、主調に始まった音楽は必ず主調に終止するのが当然でした。故に、再現部冒頭や最後の主和音が大げさに強調されることはありません。調和が予定された、「予定調和」の音楽なのです。

しかし、ロマン派、特にベートーヴェン以降のソナタでは、時として再現冒頭は大げさであり、また終結和音がこれでもか、とばかりに強調されることが多くなります。これは「予定調和」に対する疑念が生じていること(これは、中心の喪失というロマン派の基本概念と関連があります)、そしてそれ故に、確固たる基盤を確実なものにしたいという欲求の現れと考えられるでしょう。つまり「調和」を求める音楽というわけです。

[調和達成という目的にとっての手段としての主題展開]
このロマン派の代表的なソナタ形式で、「調和」を求めるドラマの主役は、主題です。主題は、再現が奇跡的であることを強調するために、展開部でこねくり回されます。このように、ロマン派のソナタ形式で主題が展開されるのは、葛藤の展開部から、安定の再現部に向うため、ひいては「調和」を達成するためなのです。

つまり主題展開は、調和達成という「目的」のための「手段」となります。そして、ソナタ形式の楽章を最初と最後にもつ19世紀のソナタは、主題展開を駆使することで、「調和」を求め、やがては達成する、そんな一連の過程を表現する芸術作品になったといえるでしょう。

[ロ短調ソナタの主題展開]
では、今回とりあげるロ短調ソナタは、「調和」達成が期待されるソナタとして、果たしてどうなのでしょうか?ここから具体的にロ短調ソナタについて話を進めていきましょう。

ロ短調ソナタでまず指摘されるべきは、緻密な主題展開の様子です。曲は、冒頭に示される3つの主題、及び二つの副主題によって綿密に構成され、どこをとっても、これら5つの主題のどれかによって構成されています。

ピアノ:ロ短調ソナタの演奏 主題展開の様子の解説

面白いことに、緻密な動機展開による作曲を素晴らしい!とベタ褒めしたのは、ハンスリックでした。つまりハンスリックは、この曲を褒めなければいけないはずなのです。

[ロ短調ソナタの「ソナタ」としての特異点]
では、ハンスリックは何故酷評したのでしょう。先述した敵対的な感情があったことのみが、原因ではないと私は思います。というのも、ロ短調ソナタは、もしこれが「幻想曲」なら議論はそんなに起きなかっただろう、と言われているからです。

つまりソナタとして、どこかおかしい。確かに単一楽章というのは変わっている。しかしここでもっぱら問題となるのは、

〃措暗安定感がない ⊇わり方が消極的

という点です。というのも、先述のように、ソナタは通常、安定した/させる形式(ソナタ形式)を持ち、それ故に曲は、特に終結部、調和を達成したものとして(たいていの場合華々しく)終結するものだったからです。

[ロ短調ソナタのソナタとしての矛盾]
ソナタ形式では、主題展開の結果、再現部で主調確立&形式的安定感が確保され、調和が達成されるというのが普通でした。そこにおいて、主題展開は調和達成の手段です。ロ短調ソナタは、主題展開によって緻密に構成されています。では、どこがおかしかったのか?以下では、聴き所ともなる、二つのポイントについて話を進めましょう。

[−ポイント Х措暗安定感の破壊]
まず、ロ短調ソナタ再現部での支離滅裂な形式構成について。ロ短調ソナタはソナタ形式っぽい構成を持ちます。提示部があって、展開されて、再現する。しかし、この再現部が変なのです。

ピアノ:提示部と再現部をそれぞれ演奏

このように、再現に思いもよらない要素が介入してきます。しかも介入してくるのが、主題展開というのが皮肉です。展開部で撹乱された秩序は再現部で回復されるのが普通でした。そしてその再現での安定:調和にたどり着くために主題展開をするはずです。

でも、ロ短調ソナタは、この主題展開という調和をもたらす手段を、いわば濫用して、形式的な安定感を破壊してしまいます。ここでは、主題展開が、ハンスリックに言わせれば、暴力的に、支離滅裂につなぎ合わさっているという、通常のソナタではあり得ない状態が生じています。
(※この箇所について、エコールにお越しくださった方から、ドイツ後期ロマン主義文学の作品構造との類似性をご指摘いただきました。)

[−ポイント◆Ы結部の消極性]
次に調性について(レジュメ参照)。この曲は、調性的には、実は早々とロ長調が確立してしまいます。つまり目的に早々と到達する。しかしポイント,埜たように、展開が続きます。一体何のために?よくわかりませんが、そんな再現部の後、曲は当初、輝かしいロ長調主和音によって終わる予定でした。

ピアノ:オリジナルのフィナーレの演奏

これだったら、部分的に破綻はあるものの、華々しい最終和音に到達したということで、オッケーだったかもしれません。終わりよければ全てよし、というわけです(実はほとんどのロマン派の曲がこんなかんじで、勢いで終わります)。実際、ロ短調ソナタも最後付近で盛り上がります。

が、現行では、最後で消極的になり、ロ長調ではあるものの、それが強調されないで終わっていきます。

ピアノ:現行のフィナーレの演奏

展開された諸主題は、ここにおいて、目的との関係を曖昧なものにされます。「調和」に至らんがための、展開ではなかったのか?ロ短調ソナタは、それを曖昧にしてしまうことによって、それまでの展開の過程を無慈悲にもほったらかしにしてしまいます。後に残るのは、ハンスリックのいうように、主題達がむなしく動きまわった軌跡なのです。

[結:失われた「調和」を求める努力とその暴力性]
このような、主題を緻密に展開しているのに調和が達成されない、というロ短調ソナタの「ソナタ」としての矛盾は、調和達成の手段としての主題展開という目的と手段の関係に疑問を投げかけます。

もっとも、ロ短調ソナタは、新たな可能性を示唆しているとも考えられるでしょう。つまり、「調和」達成という目的、それ自体への懐疑です。しかし、その具体的かつラディカルな実践は、調性への服従から音楽を解放、無調へ突入し、主題展開のみを楽曲構成原理としたシェーンベルクの登場を待たなければならないでしょう。

[ピアノ:シェーンベルク《ピアノ曲op.33a》冒頭の演奏]

これに比べ、ロ短調ソナタは、消極的ながらも主調に終わります。つまり元に戻るという目的に、未だ従っているわけです。ただ、その目的達成のために、あまりにも過剰な手段が講じられたということなのでしょう。ロ短調ソナタは、目的との関係を曖昧にされながらも、なお目的への支配に拘束された欲求不満な諸主題が、あてどもなく蠢く過程として、立ち現れて来ます。

これは、ある目的に拘束され、その目的に奉仕するものが、手段として活動する際に、不可避的に被る傷のようなものなのではないでしょうか。「調和」を求めるという目的の強制的な支配による傷跡として、ロ短調ソナタは、手段として酷使された主題達の様々な表情を露にしていきます。それがグロテスクだったり、生き生きとしていたり、綺麗に聴こえるとすれば、それは、「調和」という理想を求めることの、異様さや健気さであり、また儚さだったりするのかもしれません。

このような目的による強制的支配とその手段への暴力は、失われてしまった「調和」を獲得しようとする努力、つまり理想を実現しようとする努力が、根源的に孕む問題なのでしょう。ロ短調ソナタは、そんなジレンマを、強く印象付ける音楽なのではないでしょうか。

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