2014年02月10日

38cacdd5.jpg明日、2月11日は、建国記念の日である。祝祭日には、当然意味があるのだがその内容をご存知であろうか。国民の祝日に関する法律(祝日法)第2条はこうある。「建国をしのび、国を愛する心を養う。」と規定している。1966年(昭和41年)の祝日法改正により国民の祝日に加えられ、翌1967年(昭和42年)2月11日から適用されたものだ。

建国記念の日は、独立を宣言した日や立憲君主国になった日など、主権回復や国体が定まった日と言ってもいいと思う。我が国の場合は日本の初代天皇である神武天皇が即位された日を指す。何故2月11日が建国記念日かというと、神武天皇が即位されたのが旧暦の皇紀元年一月一日。いまから2674年前のことである。旧暦を新暦に直すと、2月11日になる。実は、昭和24(1949)年2月11日から、昭和41(1966)年2月11日までの18年間、この日は国民の祝日ではなかった。昭和41年12月、佐藤栄作内閣が、建国記念の日となる日を定める政令を定めて、「建国記念の日」を2月11日と定めてくれ、これでようやく翌昭和42(1967)年から、祝日として復活したものだ。もともと建国記念日は、明治5(1873)年に「紀元節」という名で国民の祝日に定められていた。紀元節は、国の歴史が始まった日、そして戦前は、日本の国民が、日本の建国の理想を再確認する日でもあった。
神武天皇が建国の詔において、
『八紘を おほひて宇と為む(八紘一宇)こと、また可からずや』と詠まれまたことに由来する。
口語訳すると、
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
天地四方に住むすべての者が、
ひとつの屋根の下の大家族のように
仲良く暮らすなら
それはなんと
楽しくうれしいことだろうか
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これが、我が国の建国の理想である。この時すでに神武天皇は「人類みな兄弟」世界平和を説いていたのだ。日本は、こういう高い理想をもった世界に誇るべき国なのである。

昭和22(2947)年、GHQの圧力により我が国の建国を記念する「紀元節」は、国民の祝日から削除されてしまう。その後、サンフランシスコ平和条約の締結により、主権を回復したことから国民運動として紀元節の祝日復活案が国会に提出された。ところが左派系の政治家がこの法案に猛反発。合計9回も国会に紀元節の復活案が提出されたけれど、否決されてしまう。当時の国民のアンケートにおいても、国民の80%以上が、紀元節の復活を望んでいたのに・・・そして、ようやく昭和41(1966)年、ときの佐藤内閣によって、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、「紀元節」は「建国記念の日」と名前を変えて復活した。GHQが紀元節を削除した理由は、「紀元節を認めると、天皇を中心とする日本人の団結力が高まって、再び日本が米国の脅威となる」からだそうだ。さらにGHQは、「神道指令」によって、日本の学校で古事記や日本書紀の神話をも禁止した。たかが祝日と思うことなかれ。意味を知らないからこそありがたみも感謝の心も持たずにこれまでこれたのである。しかし、このブログを読んでいただいた方はその理由を知ってしまった。ならば2月11日は国旗をあげてお祝いしましょう。建国当時に思いを馳せ、今日を築いて下さった先人達に感謝し、これからの日本はどうあるべきか、また一人の日本人として、自分は何をするべきか、そんなことを真剣に考える日にしていただきたい。いま日本は、国の内外において、重要な転換期を迎えているようとしている。戦後生まれの我々が、当然のように享受してきた恵まれた環境を、今後もずっと子々孫々に残せるよう尽くしたいと思う。



(09:36)

2013年05月01日

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5月3日は憲法記念日である。単純に改憲か護憲かと言った事だけではなく、「不磨の大典」であり続ける現憲法ではいつか弊害が起こることに気づかねばならない。(現に起きているが)

 

改憲=右翼といった考え方があるがそうではない。改憲の中にも、皇室を解体し共和制へと唱える意見や社会主義、共産主義化を言う意見など、憲法9条に対する意見ばかりが注目されるがそうではない。逆に護憲にも様々な意見がある。いわゆる平和法規と言われる憲法9条の維持や共産化の阻止、天皇の維持などがあげられる。その他にも地方自治や国会の二院制の問題、今の時代に合わすに改正すべき点、議論をすべきは大いにあると思う。しかし、9条(戦争放棄)を主として改憲どころか議論することにもアレルギー反応を示す人が少なくない。本当にこの9条によって日本の平和、安全が保たれるのであればこのままでいいと思う、しかし、その考えは世界を見ない一個人的な考えに過ぎない。そもそも、こんなのん気な事を言っているのも、議論させできないのも、この日本ぐらいではないだろうか。

 

20130304日 日本人215人を救助したトルコ航空の元機長死去

 イラン・イラク戦争中の1985年、テヘランに取り残された日本人215人を救出したトルコ航空の元機長、オルハン・スヨルジュ氏が224日に死去していたと報じられた。

 イラン・イラク戦争中の1985317日に、イラクのフセイン大統領(当時)が、48時間経過後にイラン領空を飛ぶ飛行機は、民間機といえども撃墜すると突然に宣言した。

 タイムリミットは1985319日の20時。各国は大慌てで救援機を飛ばすが自国民の救出で手一杯で、日本人の救出までは手が回らない。日本ではJALが組合の大反対で救援機が飛ばず、政府も社会党(当時)の「自衛隊を戦闘地域に派遣してはならない」との主張で自衛隊機も派遣できず、刻一刻とタイムリミットに近づいて行く。

最終的に215人の日本の民間人が、文字通り戦闘地域に見捨てられたのだ。憲法を守るために・・・

 そこへ奇跡的に手を差し伸べてくれたのがトルコ政府であった。トルコ航空機を2機テヘランに飛ばし、215人全員を乗せて在留邦人を救出してくれた。先月亡くなられたスヨルジュ元機長が1番機を操縦して3191915分にテヘランを飛び立ち、2番機が飛び立ったのが、何とタイムリミットの20時であった。つまりイラン領空で撃墜される危険性すらあった。

 昨年の夏に、オルハン・スヨルジュ氏が来日した際にこんな言葉を残した。「日本人救出の依頼が来たときは家族に言えなかった。危険だし、反対されるから。でも、同じような要請があればまた行く。自分が操縦桿を握る」と答えたそうだ。

 

日本人が日本人のためになにができるのだろうか。

 



(08:52)

2013年03月26日

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東北の大震災で、自然の前に人間が如何に無力であるかということを思い知らされた。それと同時に、わが国の歴史・伝統・文化で育まれた日本人としてのDNAが、残っていること改めて知った出来事でもあった。その姿に世界から、日本人は非常事態にもかかわらず規律を守る、相互に助け合う、苦難に耐えるなどの声が寄せられた。

 

明治23年来日し、島根県松江中学に英語教師として赴任したラフカディオ・ハーンこと小泉八雲は、日記にこう記している。「授業中の子供達の行儀作法は完璧というほかない。私語は全くない。」しかし今、小学校では、子供達が教室を徘徊し、授業が成り立たない学級崩壊が問題になっている。戦時中の昭和18年、元フランスの駐日大使で詩人のポール・クローデルは、「世界の中で、滅んで欲しくない民族がある。それは日本人だ。なぜなら彼等は高貴だ」と言った。しかし、その一方で自分を産み育ててくれた親の弔いもせず放置し、その年金を搾取していた事例が各地で発覚した。その報に接し石原東京都知事は「多くの日本人の芯における堕落をこれほど象徴した事例を私は知らない。」と語った。

 

戦後の昭和23年、新しい教育基本法、学校教育法が施行され、かつて最も重んじられた「修身教育」がなくなった。周知の通りGHQの指令によるものである。続いて衆参両院で教育勅語の失効決議がなされ、明治維新以降、国力の源泉として重視してきた国民教育の理念は、完全に葬り去られたのである。修身教育・道徳教育のない学校教育が、すでに60年以上続いているのだ。

 

修身教育とは、明治22年、大日本帝国憲法公布、23年、帝国議会開設、そして教育勅語が発布された。

教育勅語の趣旨にもとづき、児童の徳性を涵養し、道徳の指導を実践し、健全なる国民として必須の道徳を授ける。

具体的な例話として、日本歴史上の人物だけではなく、外国人の例話も加える。

その内容は「尊敬すべき人格とは何か」、「優れた人格とは何か」というものを具体的に示した「物語」の集大成である。(偉人・賢人の具体的なエピソード)子供達は、正直、努力、忍耐、勤勉、勇気などの徳目に関して、「〜をせよ」とか、「〜をするな」という抽象的なものではなく、具体的な人物像を通じて、血の通った形で、道徳を学んだ。そして共通の人物像を介することにより、親と子が、兄弟姉妹が、夫婦が、職場の同僚が、共通の理解を行い、国民としての共通の価値観を産んだのである。

 

1960年代から70年代にかけて、アメリカでは自由放任や個性重視の教育が行われた。結果として学校は規律を失い、校内暴力、麻薬・アルコールの乱用、十代の妊娠などが蔓延したのだ。「何とかしなければアメリカの将来はない。」時のレーガン大統領は就任早々から、教育改革に取り組み、「日本に学べ」と教育視察団を日本へ派遣。日本で学んだものそれは戦前の修身教育だったのである。そして教育改革は大きな成果を収めた。時の教育庁長官ウィリアム・ベネットは後年、「道徳読本」を発表した。その内容とは、自己規律、思いやり、責任、友情、仕事、勉学、勇気、忍耐、正直などの徳目について、古今東西の偉人・賢人の逸話をまとめたもので、まさにアメリカ版「修身書」と言える。

 

道徳教育は価値観の押しつけは教育になじまないという耳に心地よい言葉を口実に、親と教師は子供たちに道徳を語ることから逃げてきたように思う。子供たちの人格形成、価値判断の基準となる、人生の羅針盤の役割を果たす具体的モデルを示すことはしなかった。

もともと教育には押しつけなしには成立しない。価値観が多様化している現代だからこそ、子供たちには社会を構成する一員として守るべき時代を超えて変わらないルールや、その場にふさわしい振る舞いのできるわきまえを身に付けさせるべきである。幼いうちから「ダメなものはダメ」と子供に教え育てることは押しつけでも何でもない。子供たちの人間形成の多くは学校における学習や生活の場面での子供同士の交流を通してなされる。楽しいことや、不愉快なこと、屈辱的なことも含めて多様な経験を重ね子供たちは自らの道を切り開いて社会的自立を果たしていくのだ。

 



(16:38)

2013年02月21日

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人間であれば「いざ」というときに取り乱し冷静な判断をすることができなくなる。今回紹介するのは、寺子屋の教材で使用した。まだ造船技術が発展途上だった明治時代に起こった潜水艇の事故のお話です。

 

深い海の底で、艇長と乗組員は、持ち場を離れずに、従容として死を迎えた。酸素がなくなり、有毒ガスが充満し、死を待つのみとなった極限状況の中で、その事故がこれからの日本の潜水艇造船技術の開発に役立つよう、克明に経緯のメモに残した艦長がいた。

 

時は明治四十三(1910)年四月十五日。

小型潜水艇が、ガソリン潜航実験の訓練などを行うため山口県の岩国を出航して、広島湾へ向かう。

(当時、日本は九隻の潜水艇を保有していた。そのうちの七隻は輸入したもの。今回事故を起こした第六潜水艇は、国産の初の潜水艦だった。)

 

第六潜水艇は、午前十時ごろから訓練を開始。

ところが十時四十五分ごろ、何らかの理由で通風筒の長さ以上に艇体が潜航。

艦内に海水が浸水。乗組員はすぐに、浸水を防ぐための閉鎖機構を操作。

閉鎖機構が、故障。乗組員は、必死になって手動で閉鎖しようと努力します。

しかし、第六潜水艇は、十七メートルの海底に着底。

付近にいた監視船は、長時間たっても浮上しないことに気づき、ただちに広島県の呉港に在泊の艦船に「遭難」の報告をし、救援の艦船が駆けつけた。しかし、艇長の佐久間勉大尉以下、乗組員十四人の死亡が確認された。

実はこの事故より先に、イタリア海軍で同じような事故あった。このときイタリア潜水艇では、乗組員が脱出用のハッチ(昇降口扉)に折り重なり、他人より先に脱出しようとして乱闘をしたまま死亡するという事故があったのだ。当時はまだ潜水艇の造船技術が低く、世界各地でこうした悼ましい事故が報告されており、直近のイタリア海軍の事故の模様は、全世界に知られていた。

 

一方、第六潜水艇の乗員十四名は、艇長は司令塔に、機関中尉は電動機の側に、機関兵曹はガソリン機関の前に、舵手は舵席に、空気手は圧搾管の前にと、それぞれ全員、持ち場に就いたままの姿で亡くなっていた。

引き上げられた六号艇を検分した一同は、死に至るまで職務に忠実であった様を見て、帝国海軍軍人として正にふさわしい死に方をしたと号泣しました。この事件は、日本人の責任感と勇敢さを示したものとして、世界に配信された。

 

イギリスの新聞グローブ紙は「この事件で分かることは、日本人は体力上勇敢であるばかりか、道徳上、精神上も、また勇敢であるということを証明している。今も昔もこのようなことは前例がない」と惜しみない賞賛の声。

各国の駐在武官も、海軍省に訪れ弔意を表明します。それは通常の外交儀礼を超えたものであった。

明治天皇からは、遺族に見舞金が届けられ、当時の朝日新聞によって、全国から寄せられたた義援金は、現在の貨幣価値なら億単位となる五万六千円にもなる金額が全国から寄せられた。

 

与謝野晶子も、次のように追悼の歌を詠んでいます。

 海底の

 水の明かりに したためし

 永き別れの

 ますら男の文

 

佐久間艇長は死がせまる苦しい中、多くのメモを残しこの世を去った。

そのメモを紹介する。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

謹んで陛下に申します。わが部下の遺族をして、窮する者のないよう、お取りはからいください。

私の念頭にあるのは、これあるのみです。

(当時は事故に対する補償金などの支払いの制度はありませんでした。自分が息を引き取ろうとする間際において、部下たちの勇気と冷静沈着な行動に対して、その遺族に暖かな手を差しのべて欲しいと願い出ているのです。最後に次のように恩人へのお礼を述べます。)

以下の諸君によろしく(順序不順)

斎藤大臣、島村中將、藤井中將、名和中將、山下少將一、成田少將

(気圧高まり、鼓膜が破られるような感じがある) 

小栗大佐、井手大佐、松村中佐、松村大佐、

松村小佐(自分の兄です)

船越大佐、成田綱太郎先生、生田小金次先生

十二時三十分、呼吸、非常にくるしい。ガソリンをブローアウトしたつもりだけれども、ガソリンに酔うた。

中野大佐

十二時四十分なり・・・

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

佐久間艇長のメモは、ここで終わっています。

艇長は、このあと、息絶えた。

 

この事故で亡くなられた佐久間艇長は、空気が乏しくなり、薄れゆく意識の中で、死の直前まで手帳に書き続けたメモを残し亡くなった。この話は、「やるべきことを最後まで成し遂げる」「職務を全うする」ということで、戦前の小学校の修身の教科書に取り上げられている。

子どもたちは、修身の時間に、佐久間艇長の話を通じて、生きていくために人として備えなければならない徳目を学ぶ。職務を全うすること、責任を果たすこと、部下を思いやること。そして感謝の気持ちである。



(16:22)

2013年02月01日

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「本当に勝ったのは日本」

日本はかつて大東亜戦争で、アメリカをはじめとする連合国と戦い、負け、結局、何もかも失った。戦争なんてバカなことをしたからだ、と思う人もいるだろうが、しかし、あの弱肉強食の植民地時代、残酷きわまりない西欧列強がひしめく時代にあって、はたして本当に戦争が回避できたであろうか。幾つか歴史の大きな分かれ目はあったものの、歴史は戦争へと向かっていったのだ。それが「歴史の必然」だったといえる。ただし、日本の戦争は本当に悪いことばかりだったのか・・・思想家P・F・ドラッカーが、日本は物理的には負けたが、本当に勝ったのは日本である、といった意味の言葉を残している。それは、この戦争で日本が戦ったことによって、それまで西欧諸国が築きあげてきた人種差別世界が打ち砕かれたからである。あの戦争以前、アジアで近代的な独立国家として歩んでいたのは、日本だけであった。あとはみな、アジアのほとんどが西欧諸国の植民地と化していたことはご存知の通りである。アジアは西欧の植民地で、白人が黄色人種を支配し、搾取していた。そのため、アジアはますます貧しくなり、西欧諸国はますます富んでいく一方であった。アジア人は白人に、召使いのようになって仕え、アジア人は自分の国にいながら、権利を制限され、苛酷な人種差別のもとで暮らしていたのが現実である。しかしそのとき日本が、それらの植民地にいる西欧諸国の軍隊を次々に追い出したのである。そして、日本がアジア諸国にはぐくんだ独立への意志は、そののち日本が敗戦を迎えたあとも、確実に育っていく。日本の敗戦後、西欧諸国は再びアジアに来て、再度植民地政策をとろうとした。しかしアジア人はもう、白人の言いなりになることはなく、彼らは戦後、次々に独立していった。結局、大東亜戦争によって、西欧諸国は植民地をすべて失なって終わったのだ

戦争の勝ち負けは、戦争目的を達成したかどうかで決まる。日本の戦争は、人種差別世界を叩きつぶすという目的、また自存自衛の目的を十分に果たした。その意味では、日本こそが勝者だといえる。これは我々が誇るべきことではないだろいうか。タイの元・首相ククリッド・プラモードは、新聞にこんな一文を載せている。「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは難産して母体をそこなったが、生まれた子どもはすくすくと育っている。今日、東南アジアの諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、いったい誰のおかげであるか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあったためである」。大東亜戦争は、大航海時代以来の欧米諸国によるアジア・アフリカ収奪の歴史に、終止符を打ったのは紛れもいない事実。歴史学者H・G・ウェルズも述べています。 「この戦争は植民地主義に終止符を打ち、白人と有色人種との平等をもたらし、世界連邦の礎石を置いた」。その主役を果たしたのがわが国日本である。あの空前のスケールの戦争だった大東亜戦争の意義がここにあるのではないか。戦争などしない方はいいに決まっている。しかし、もしあの戦争がなかったなら、今もってアジア諸国は西欧の植民地のままであり、日本語から英語をしゃべり、食事さえもままならず痩せこけて怪我や病気をしたら殺されるのを待つのみ人間でよかったのか。白人はアジアからの搾取によってますます富み、アジアはますます貧しく放置されていたに違いない。しかし大きな犠牲をともなった戦いであったが、日本の戦争がその歴史の流れを変え、我々の人生さえも変えたのである。今はただ先人の功績に感謝をし、そしてその想いを引き継ぎ次に伝え残すことが我々の使命である。



(08:22)