橋下徹 元大阪(府知事・市長)(以下、敬称略す。)は著書『政権奪取論』において、政治家の掲げる政策は「保守」や「リベラル」といった政治スタンス(イデオロギー)からではなく、その政策が国民の暮らしを支えるか否かという「合理性」から決定されるべきものであり、また政治家の仕事とは国を誤らせないように一生懸命に考え抜いて方向性を示すことであると述べている。
しかし、どのような政策が国民の暮らしを支え、また逆に暮らしを破壊することになるのか等について、政策のイデオロギー的な考慮のない「マーケッティング政治」手法のみによって合理的な判断ができるとすること自体が既に「非合理的」である。また、「国を誤らせないような方向性」とはいかなる方向なのか?についても全く同じことが言える。
橋下徹はこうした自らの政治手法を「正しいポピュリズム」と称しているが、こうした言葉を聞くと私には即座に米国憲法の解説書『ザ・フェデラリスト』の次の一節が思い浮かぶのである。
| 『ザ・フェデラリスト』第一篇---A.ハミルトン 「歴史の教えるところでは、人民の友といった仮面のほうが、強力な政府権力よりも、はるかに専制主義を導入するのに確実な道であった。事実、共和国の自由を転覆するにいたった連中の大多数のものは、その政治的経歴を人民へのこびへつらいから始めている。すなわち、扇動者たることから始まり、専制者として終わっているのである。」(A.ハミルトン/J.ジェイ/J.マディソン『ザ・フェデラリスト』、福村出版、5頁) |
さて、橋下徹が『政権奪取論』において「合理性のある政策」、「国民の暮らしを支える政策」、あるいは「国を誤らせない方向性」として掲げている政策を一覧表にすれば以下の通りとなる。
| ■ 橋下徹 著『政権奪取論』で描かれた「日本の新しい道」政策一覧表。 (1) 事実婚を法制度とする。 (2) 選択的夫婦別姓の容認(導入)。 (3) 家族単位の戸籍の廃止、個人単位のマイナンバー制。出生地の記載は「削除」。 (4) LGBTのための法整備をする(同性婚の容認・導入)。 (5) 外国人の受け入れ(外国人に国を開き、日本をより豊かに強くするために移民政策に賛成。 *「外国人労働者」ではなく「外国人」の受け入れであると本人が強調している。また、橋下徹は「日本の超少子高齢化」を大前提とみなすが、その「改善」にはほとんど興味も関心も示さない。 (6) 女性宮家の創設を容認する。 (7) 戦後70年談話(安倍:村山談話継承)を支持する。 (8) 慰安婦の日韓合意(安倍)は河野談話を継承しており支持する。 (9) (安倍の)靖国参拝1度のみを支持(=日本国の首相は参拝するな!)。 (10) (マルクスの破綻した労働価値説を彷彿とさせる)同一労働同一賃金を支持する。 (11) 幼児教育・高等教育の無償化。 (12) 高齢者の年金給付額減、年金給付年齢65歳からさらに引き上げる必要もある(「すべては次世代のために!」)。 (13) カジノ(ギャンブル)を含む統合リゾートの誘致。 (14) 現行の政治体制、つまり権力機構・統治機構を抜本的に変える(大阪都構想・地方主権)。 (15) 外交問題(特に領土問題)は国際裁判で解決すべき。国際司法裁判所への提訴を行う。 *但し、「原則として両当事国が合意しない限り、国際司法裁判所を利用することはできない」、「その判決に強制力もない」ことを承知の上で提案している。ゆえに相手国の出方(意思)に依存する主義と捉えることも可能。 (16)「自由」「開かれた社会」「新しい技術」「ルール重視」。 *自由主義の政治哲学者F・A・ハイエクの使用する学術用語“自由”・“開かれた(大きな)社会”・“法”とは無関係の意味(むしろ逆の意味)で使用している。 ・・・等々。 |
これらが橋下徹氏の「マーケティング政治」に基づく保守やリベラルのイデオロギーに基づかない「合理性のある政策」、「国民の暮らしを支える政策」、あるいは「国を誤らせない方向性の政策」である。普通の日本国民ならばこのリストを一瞥しただけで驚いて腰を抜かすのではないか?なぜなら、明らかに誰がどう見ても「反日」的、「極左」的なゴリゴリのイデオロギー的政策ばかりだからである。
そこで今回は橋下徹の政策(1)~(6)に絞って、それらがいかなる意味で「反日」的、「極左」的なのか(=日本国民にとって不利益なものであるのか)を考察したいと思う。紙幅の都合上、(7)~(16)の政策については機会を改め、別途考察したいと考えている。
橋下徹が『政権奪取論』において「日本の新しい道」政策の前提条件としているのが次の「積極的な外国人移民受け入れ」政策である。
| 外国人の受け入れ(外国人に国を開き、日本をより豊かに強くするために移民政策に賛成。 *「外国人労働者」ではなく「外国人」の受け入れであると本人が強調している。また、橋下徹は「日本の超少子高齢化」を大前提とみなすが、その「改善」にはほとんど興味も関心も示さない。 |
橋下徹の政策群の論理構成は概ね次のようなものである。
・ 超少子高齢化社会の日本においては労働力・労働人口その他の必要の確保のために積極的な外国人移民の受け入れを進めるしかない。
・ 将来日本国に外国人移民が大量に入国してくる状況を想定しなければならない。
・ そのため、外国人移民が(ネイティブの)日本国民と全く区別なく(日本人として)溶け込める(混淆できる)ように環境を整える必要がある。
・ すなわち、外国人移民に合わせるために、日本国(日本国民)の古い伝統的諸制度(の方)を解体・変革しなければならない。つまり、外国人移民と(ネイティブ)日本国民とを「平等化する」ために、日本国民の「非・国民化」、「非・歴史化」を進めなければならない。
これが橋下徹の描く「日本の新しい道」の真意(正体)である。
その根拠をいくつか挙げよう。
第一に、橋下徹は『政権奪取論』において日本国民の超少子高齢化を認識しているのにそれ自体は問題視せず、その「改善」については関心も興味も示さない。しかし、この「重大問題の解決」こそが、日本国民にとって真に重要な政策課題とされるべきものである。つまり、橋下徹は日本国民の超少子高齢化をやむを得ない大前提として断念(放棄)した上で積極的な外国人移民政策を奨励している。これでは日本国民(民族)は減少し続け、遠くない将来、我われの子孫は日本国内で少数民族となり大量の外国人移民に囲まれることとなるのは必然である。このような《自国民の子孫らの予測される悲惨な未来図を「それで良し」とする》発想は、「日本国民(民族)に対する激しい憎悪の精神(真意)」なくしては決して出てこない。
次に、橋下徹は「古き良き日本」に対して、極端な敵愾心を表明し、それを「変革(破壊)せよ!」、「制度を新規につくり直せ!」、「それが《日本の新しい道》である!」と煽るが、そこには2つの目的が見え隠れする。
〔1〕 精神面において、歴史的・伝統的な日本国に対する日本国民の帰属意識を希薄化する狙い。日本国民を歴史と伝統から切断(解放)し、「無規範的人間」、「根無し草的人間」に堕落させる。
〔2〕 制度面において、日本国の伝統的な諸制度を破棄・廃止して、外国人移民に有利な新制度につくり変える。そして外見上、(ネイティブの)日本国民と外国人移民の区別が全くつかなくする。制度的な面から日本国民と外国人移民とを「新しい日本人」として「同化」させるのである。
これらの政策を推進することによって、遠くない将来に、日本国は精神的にも制度的にも外国人移民と同化した「新日本人による新日本」(=「非・日本国」)となる。しかも「新日本」では我われ(ネイティブの)日本国民は少数派の弱小勢力となる。
このように見ると橋下徹の掲げる「日本の新しい道(政策)」とは、日本の国内政策の誘導による、外国人(背後に外国政府の指揮か?)の武力を用いない日本侵略への幇助(環境整備)政策であり、「日本国内破政策」と呼ぶのが正しい。意識的か無意識的かに関わらず、橋下徹の政策群は、実質上、日本支配(侵略)を目論む、(どこか)他国の、謀略工作に全面加担する政策であり、日本国民(民族)の利益を代表していない。
橋下徹氏の各政策をさらに詳しく検討してみよう。
| 選択的夫婦別姓の容認(導入)について。 |
中国や朝鮮では古来より「夫婦別姓」である。これらの国では儒教的な男系血統主義の伝統・慣習が存在し、「姓」は「血族」の標識だからである。
一方、日本国では、武家等を除く一般庶民レベルでは古来(「姓」は名乗れなかったが)「同じ家に住む者を家族とみなす」のが「一般慣行(慣習)」となっていた。そのため明治8年に「姓」を名乗ることが義務付けられた時、大多数の国民が慣習に従い「家族同姓」を選択した。そして明治31年に旧民法(明治民法)が制定された時には「戸主及び家族はその家の氏を称す」と規定され、姓(氏)を「家(家族)」の標識とする「家族同姓(氏)」となった。つまり、日本国古来の不文の慣習を明文化したのである。
このように中国や朝鮮では「夫婦別姓」であり、各個人は家族よりも「血族」への帰属意識が強い。逆に日本国では「家族同姓」であり、各個人は血族よりも「家族という集団(共同体)」への帰属意識が強い。それぞれの国の伝統・慣習に基づく文化が相違するからである。「姓」のあり方は各国の歴史的・文化的産物(自生的秩序)であって、文明以前の「自然人の存在様式」を基準にしたり、歴史・文化の異なる他国の制度と比較したりすることで、その是非を論ずるものではない。日本国の場合、「姓」は「家・家族(夫婦も含む)という共同体」に帰属するものであり、「個人」に帰属するものではない。それゆえ個人毎に(個人単位で)「姓」を選択する自由はない。例えば、ある会社の社名(例えば「J商社」)を、その社員毎に(社員C氏、K氏、R氏、N氏・・・毎に)に自由に名乗ってよい権利など存在しないのと同じである(「社名」=「家族名」=「姓」、「各社員」=「家族の各成員」)。
「選択的夫婦別姓運動」の本質は日本国の歴史と文化の産物である「家・家族に帰属する姓」を廃止して「個人に帰属する姓」に変えようとする「日本文化の大革新運動」なのであり、単に「各個人に姓の選択の自由を与える運動」なのではない。別姓推進者の「選択の自由」の主張とは裏腹に夫婦別姓運動は、すべての日本国民に対して「姓を個人に帰属するものとせよ!」という価値観の「強制」を目論む運動なのである。良識ある日本国民はこの本質を決して見誤ってはならない。
さて、日本国において選択的夫婦別姓が法制化され、別姓夫婦が増えて行くと仮定する。また他方で積極的移民政策によって日本国内に中国や朝鮮などの国々から外国人が大量に入国してくる時、日本国内で何が起こるかを考えてみる。
日本国民は、精神面において、「姓」が帰属していた「家・家族共同体」という基盤を喪失して行く。また、「家族共同体」を最小単位(基本単位)として構成されている「中間組織」の重層構造が日本国を構成しているが、それが弱体化または崩壊して、日本国(祖国)への帰属意識(紐帯意識)も希薄化する。一方で、もともと血族への帰属意識が強く「夫婦別姓」である外国人移民が、日本国内に同族コミュニティーを形成するには極めて都合のよい制度となる。つまり、選択的夫婦別姓制度とは日本国民全体としてはデメリットしかないが、外国人移民にとっては非常にメリットのある「日本国の制度変革」と言える。
こうして精神面からも、制度面からも、外見からも「(ネイティブの)日本国民」と「(外国人移民の)日本人」の区別は除去されて希薄化して行き、「新しい日本人(住人)」へと両者の「同化」・「混淆」が促進されるであろう。
つまり、選択的夫婦別姓の容認(法制化)は、積極的移民政策と結びついた途端に、単なる「姓」の自由選択の問題ではなくなり、日本国(日本国民)の国家主権に関する安全保障問題に発展する。
| 家族単位の戸籍の廃止、個人単位のマイナンバー制にする。 出生地の記載は、「差別」の原因となっており、「不要」であるから削除する。 という政策について。 |
もはや洞察力のある読者にはお判りかもしれないが、「家族単位の戸籍」を廃止して「個人単位の戸籍(マイナンバー)」に変えようとする政策(運動)は、選択的夫婦別姓運動と「表裏一体」をなしている。なぜなら現行の制度では「姓」も「戸籍」も「家族に帰属」している(家族単位の編制である)からである。それゆえ「姓」または「戸籍」の一方の側を「個人単位」に変革すれば「家族の紐帯」が弱体化するから他方の側も自然と「個人単位」に移行せざるを得なくなるのである。しかし、いずれが先であるにせよ、これらの政策によって、「家族の紐帯(絆)」が弱められ、日本国民は「一億のバラバラの個(アトム)」に分解されて行く。日本国民は旧民法下の「家」制度もなく、現行民法下の「同姓家族」の紐帯すらない「根無し草的人間」となり、集団からの疎外感に苛まれ人格も自己の存在意義も喪失して行くこととなる。しかも橋下徹は個人単位化した戸籍(マイナンバー)から(個人の)「出生地の記載」まで、不要であるから「削除」すべきだと主張している。燃えるような日本国民憎悪・呪詛の情念無くしては、このような徹底した「日本人に対するヘイト政策(発想)」は思い浮かばないのではないだろうか?
| 中川八洋曰く、 「個人は自然に成長してきた、階級という共同体、家族・親族という血縁の共同体、教会を縁とする信仰の共同体、村を縁とする住居の共同体、・・・などの《中間組織》に何重にも属することによって、単なる《裸の個人》〔アトム〕にならずに済むだけではない。社会に浮遊する《裸の個人》になれば、国家権力が個人に対する自由の侵害をするとき、自らの自由を守ってくれるバリアーは存在せず、直ちに自由を喪失する。個人は国家権力に対して砂粒にすぎない。また、民族の伝統や慣習、あるいはそれらがつくる権威は、これらの《中間組織》に宿っているのであり、《中間組織》で育たない限り、自己を認識できる健全な人格は形成されない。伝統と慣習と権威とが《人間を人格化する》のである。」(中川八洋『保守主義の哲学』、PHP、170~171頁) |
つまり、「選択的夫婦別姓」運動や「戸籍の個人単位化」運動などの真の狙いは、「家族の解体・廃止」という「共産主義運動」の一環なのである。「家族の解体」が推し進められ、日本国民がバラバラの個(アトム)に分解されて行くと日本国(社会)の紐帯であった古来の自生的秩序は崩壊し、無秩序化する。そしてこの無秩序化した社会を再統合するために、国家権力は極限まで肥大化せざるを得なくなり、個人的自由の全く存在しない「全体主義体制(共産主義体制」が誕生する。
「選択的夫婦別姓」や「戸籍の個人単位化」の推進者は、単に個人の選択の自由を確保したいだけだ!と主張するが、これは明確な「嘘」である。なぜなら、すべての別姓推進者が「夫婦別姓を国民に広く浸透させたい」と希望するし、戸籍の個人単位化に関しては、それをすべての国民に適用(=強制)しようと目論むからである。これは「夫婦別姓が当たり前の社会になれば、外見上、事実婚と法律婚の区別がなくなり、偏見や差別がなくなるから良い事だ!」という事実婚の制度化推進者の屁理屈(下記参照)とも整合している。
| 【屁理屈1】 「(別姓夫婦が増加すれば)外からみると、事実婚なのか、法律婚なのか、分からないと思います。私は、事実婚なのか、法律婚なのか、まったく分からなくした方がいいと思うんです」(福島瑞穂『夫婦別姓はいかが』) 【屁理屈2】 「別姓を選択する人びとが増えてくれば、夫婦、親子、兄弟姉妹で氏が違うことは当たり前になり、これまでのように、氏が違うからなにか家族に事情があるのではないかと特別に見る意識を減少させるだろう。それは事実婚、離婚母子・父子家庭非婚母子、再婚家族など、多様な家族形態にたいする偏見を弱めることにつながる」(高橋菊江ほか『夫婦別姓への招待』) * 下線:私。 |
こうした身勝手な言い分を聞くと「ちょっと待てよ!」と言いたくならないだろうか?
「事実婚」に偏見や差別を感じるならば婚姻届を出して「法律婚」の手続きをとればよいではないか。“国(社会)の法”とは国(社会)の長い歴史を通じて自生的に成長した“国民の行動ルール”のことであり、その“法の下の平等”とは“法”がすべての国民に対して等しく適用されることを意味する。それゆえ、個々人がその“法の下”で行動したことによる「結果」については原則として個人が責任を負うものである。それが自由社会を成立させる基本原理である。夫婦別姓推進者や事実婚推進者らは“法の下の平等”と「(個々人)行為の結果の平等」とを混同している。“法の下の平等”において生じる個々人の「結果の差異」は、誰かに強制された結果ではない以上、それを「不平等である」とか「差別された」とは言わない。逆に、行為の「結果の平等」をすべての人々に「強制」しようとすれば、(多様な差異のある)個々人の行動の仕方について、政府権力が個別的に強制する(=個々人を「差別的」に取り扱う)必要が生じ、それがすべての人々の(法の下での行動の)自由を喪失させるのである。この「結果の平等主義」の徹底こそが、世界のすべての共産主義国家を自由の全く存在しない暗黒の専制主義体制(全体主義体制)へと導いた「原理」なのである。
| F・A・ハイエク曰く、 「法と行為に関する一般的規則の平等こそが自由のために役立つ唯一の平等であり、また自由を破壊せずに確保することのできる唯一の平等である。」(『ハイエク全集Ⅰ‐5「自由の条件〔Ⅰ〕」』、春秋社、121頁) 「物質的平等(結果の平等)に対する広く行きわたっている要求はおそらく、既存の不平等は誰かある人の決定の結果であるという思い込みを根拠にしていることが多い。」(『ハイエク全集Ⅰ‐9「法と立法と自由〔Ⅱ〕」』、春秋社、114頁、( )内:私の補足) 「人びとは政府が変えることのできない多くの属性の点で違っているから、彼らに同じ地位(結果の平等)を保証するためには、政府はまったく別々に処理する必要に迫られる。物理的社会的環境だけでなく、力、知性、技術、知識そして忍耐心の点で大きく異なる人びとに、同じ地位(結果の平等)を保証するためには、政府自らが直接変えることのできない不利や欠点を補償するために、(個々人を)まったく別々に処理しなければならないことは明らかである。」(同、115~116頁、( )内:私の補足) |
なお、外国人が日本国に移住したい場合には、彼らの側が日本国の「家族(姓)制度」や「法律婚制度」に従うべき(適応すべき)であって、それを逆さまにして「外国人移民のために日本国民の側が固有の法制度を変更しなければならない」などと考える人間は、精神が祖国日本に根付いた日本人とは言えまい。
なお、「事実婚主義」については、ソ連のレーニンが実行した悪名高い事例(歴史的経験)があり、その「惨憺たる結果」は世界中でよく知られている。「事実婚の制度化」を推進する人びとは、あのレーニンの悪政の結果を知りながら、それを現在の日本国で再現せよと主張しているのだろうか?
| 中川八洋曰く、 「マルクス/エンゲルスの信徒であったレーニンは、1917年の革命直後から、離婚を奨励し、刑法から重婚/近親相姦等の加罰規定を全面削除した。レーニンの命令としての家族制度破壊の総仕上げが〔1924年のレーニンの死後となったが〕1926年の上記の福島(瑞穂)弁護士が引用する法律(婚姻、家族及び後見に関する法典)であった。しかし、この家族制度の廃止は、凄まじい数の重婚とレイプの大洪水となった。当たり前ではないか。事実婚になれば、モテる男はとっかえひっかえ若い《妻》を20~30名持つことができる。若さと性的魅力を失った女性はことごとく棄てられる。また、レイプを、短期間の事実婚と法的に区別することは困難である。 このレーニンの史上最悪・史上最愚の実験によって逆に判明したのは、法律婚や慣習の儀式を経た婚姻こそが、“女性を守る”ことを第一の目的として、自生的に発展してきた人類最高の智恵に基づく制度であるということであった。“女性を守る”とは、その一は少女や若い女性をレイプから守ることであり、その二に中年以上の老いた女性が〔男に棄てられて〕孤独や貧困に陥ることから守ることである。 また、法律婚や宗教的・慣習上の儀式を経た婚姻の第二の目的は、社会秩序が維持された方が是であり倫理・道徳のある社会の方が是であるが、これらを具現するためであった。社会秩序と倫理・道徳を支える基盤として婚姻制度は自生的に発展してきたのである。人類の偉大な叡智であった。 現実に、レーニンの家族破壊後に生じたのは掠奪・殺人を含めた非行少年の爆発的な増加であり、また全国的な犯罪発生率の急騰であった。家族の存在において子供は躾けられ社会秩序の基本や倫理・道徳が教育されるのである。 だが、それなしには、社会は文明の社会としての機能を全面的に麻痺させられていくしかない。かくして、数千万人の自国民の虐殺をしたあの残忍なスターリンですら、1934年頃から1944年にかけて、この犯罪の余りの激増に懲りて、家族破壊を聖なる正義と見なしたレーニンの法令を、レーニンの忠実な後継者でありながら廃止して、婚姻関係の法令をほぼ皇帝〔ツアーリ〕時代のものに戻してしまった。 ・・・日本に跋扈する《夫婦別姓》運動とは、錬金術の大実験のごとき暗愚を極めた《レーニンの実験》を日本にもう一度させることを唯一の目標としている。」(中川八洋『国が亡びる―教育・家族・国家の自壊』、徳間書店、148~149頁、〔 〕内:著者、( )内:私の補足) |
【参 考Ⅰ】 F・A・ハイエク「社会過程の《意識的な》管理や指導は不可能である。」
| 共産主義者(マルク主義フェミニスト等を含む)は、日本国の自生的な伝統・慣習としての“婚姻制度”や“家族(同姓)制度”等について、「妻(女性)が夫(男性)に搾取され、子供が両親に搾取される非合理的な制度(封建制度の残滓)」であるから、「夫婦別姓」や「戸籍の個人単位化」を勝ち取って「婚姻の廃止」、「家族の廃止」へと社会の進歩が意識的(意図的)に導かれることこそが「合理的な社会過程」であると考える。 つまり、「家族同姓制度」である現在の日本国民の意識は時勢(または思想潮流)から遅れており、歴史の発展法則を理解できない暗愚な国民を「あるべき意識の発展の方向(進歩の方向)」へ誘導すること(=社会過程を「意識的(意図的)に」管理・指導すること)が、人間精神と社会の進歩の正しい道筋(ルート)なのだと考える(=妄想する)。 しかし、こうした考え方は誤謬である。 「意識的」や「意図的」という言葉は、個人に適用される場合に限って意味を持ちうる概念である。例えば、個人の成長過程において、自分の経験を踏まえた反省や教訓をもとに、自分の今後の成長(行動の仕方や考え方など)を「意識的(意図的)に改善する」などと述べる場合である。 一方、多数の人びとから成る大きな社会において「社会的」と呼びうる過程は、個人の意識や行動とは異なり、その定義において「意識的(意図的)」なものではない。「社会的過程」が個的な「意識」や「意図」を持ちうるという信念は社会を「一つの全体」、つまり「一個の有機体(=個人)」と同じにみなす場合に限られる。 しかし、実際には、「一つの全体(としての社会)」に個人の場合のような「一つの精神」は存在しないから、社会全体に「意識」とか「意図」とかと定義できる実体は存在しない。すなわち、「社会を意識的(意図的)に管理・指導する」と述べる場合の「意識的(意図的)」とは、せいぜい「そのように(巫女的に)語る者」---つまり、“自分の”信じる歴史法則によって社会を説明したい研究者や“自分の”理想とする社会を実現したい政治家、あるいは同種の信念を持つ特定集団(グループ)---の「意識(意図)によって」という意味にすぎないのである。 さらに、《大きな社会を構成する多数の人びとの“自生的な相互作用”が、特定個人や特定集団の「意識的な指導」によっては生み出せない“有益な全体秩序(自生的秩序)”をもたらし得る》ことが、知られている。例えば、アダム・スミスの「経済的分業(見えざる手)」は有名であるが、その他にも【経済】マンデヴィル/メンガー/ハイエク、【社会】ヒューム/ファーガソン/フンボルト/ニスベット、【法】モンテスキュー/サヴィニー/コーク、【政治・歴史】バーク/ハミルトン/トクヴィル/アクトン・・・等々、多数の偉大な業績(=人類への貢献)がある。 つまり、諸個人の間の“自生的な相互作用”が、いかなる個的(=特定個人や特定集団の)精神でも「意識的」に解きえず、知覚さえもできないような社会的問題を解くことができ、そのことによって諸個人の能力を一層高めるのに役立つ秩序が---誰かに意識的に設計されることなく---形成され得ることが知られている。 それゆえ、社会的過程を個的精神の意識的(意図的)な管理や指導に服従させようとするどんな試みも、もし人々の自生的な相互作用に委ねるなら達成し得るはずの秩序を、個的精神(=個人または少数の人間集団の)の能力の範囲内に制限(縮小)してしまう結果となるのである。 つまり、F・A・ハイエクが言うように、実際には「(各種の歴史法則主義や唯物史観に見られるような)意識的に指導される(社会)過程はどんな自生的過程よりも必然的に優れているという信念は、根拠のない迷信である。」(『ハイエク全集Ⅱ‐3「科学による反革命」』、春秋社、93頁、( )内:私の補足) なお、これまでの私の小論等で何度か触れてきたことであるが、「進化」に関する次の事実も再度強調しておきたいと思う。
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文明の進化と保存は《祖先の叡智の堆積物》と《多くの同時代人の知識》とが自生的な相互作用により組み合わされ、調整される過程に依存している。そのような自生的過程の中に潜在している《人々に分散した知識の全体》は、いかなる特定個人(特定集団)によっても決して把握することはできない。すべての歴史法則主義の教義は、「知り得ないものを自分達だけは知ることができる」と明言する欺瞞の上に築かれた仮構(蜃気楼)である。
人間に可能なことは文明を築いてきた自生的原理を可能な限り理解する努力をし、得られた理解によって文明のさらなる成長(改善)にとっての《好条件を生み出す能力を高めて行くこと》だけである。
それゆえ、「意識的な理性の能力の限界を悟るための十分な理性をもたず、意識的に設計されたのではないすべての(自生的な)制度や慣習を見下す合理主義者は、それらの制度や慣習の上に築かれた文明の破壊者となる」のである。(『ハイエク全集Ⅱ-3「科学による反革命」』、春秋社、99頁)
真の意味での人間の進化(進歩)とは、品格と徳性のある道徳的人間を基盤として、法により統治される文明社会を形成し、保存し、改善して行くという努力・向上の過程の中から生じるものである。その意味では、日本国の明治31年の旧民法(明治民法)は家族の中での女性の不安定な地位を厚く保護することを目的の一つとする「女性とっても社会にとってもまことに喜ばしい進歩だったと考えるべき」であると労農派の社会主義者・山川菊栄は述べている。
しかし、現在の日本のフェミニストや共産主義者らは旧民法について、「封建体制の残滓であった」とか「男性が女性を支配し搾取する制度として作られた」とかと言って、すべてを「時代遅れ」、「悪」として切り捨てる。逆に、善い事実(側面)はすべて「隠蔽」して触れない。
そうして自分たちの考える「進歩した社会」---夫婦別姓、戸籍の個人単位化、事実婚の法制化、LGBT同性婚法制化・・・等々---に日本国民を「意識的」に導こうと企てるのである。
| 山川菊栄は言う。 「わが国の離婚率は新しい戸籍法の実施された明治16年当時から、年とともに低下し、殊に明治31年民法の制定によって、妻の地位が在来よりはるかに安定し、みだりに離婚ができなくなってから急に低くなっています。明治16年・・・の離婚率が昭和13年には・・・5分の1以下に減っていることは、女性にとっても社会にとってもまことに喜ばしい進歩と考えなければなりません。・・・あまりに早い結婚は、晩婚と同じく出産による病気や死亡、乳幼児の死亡率と関係の深いものですが、この点でも封建時代のような過度の早婚が、社会的に健全なものでなかったことはいうまでもありません。 封建時代の家族制度は、一面ではどういう時代にも必要な勤労、節度、忍耐、規律への服従というような美徳を養い、それを根強い伝統として発達させたと同時に他の一面では、家の名で、今日から見て不合理な親権の濫用や、妻の地位の不安定によって、かえって家族生活そのものを危うくし、子女の幸福を破壊する暗黒面をも伴ったことは明白で、この点で、明治以来の社会の進歩は、日本の女性のため、かつ国民全体のために祝福されなければなりません。」(山川菊栄『武家の女性』、岩波文庫、145~146頁) * 下線:私。 |
また、昭和22年の民法の大改正(改悪)によって、文明的な日本の家族が非文明的な方向へと退行しているのは明らかである。中川八洋筑波大学名誉教授は次のように述べている。
| 中川八洋曰く、 「昭和22年、日本はGHQ製の憲法第24条に便乗して、《家》制度を解体し核家族主義へと民法の大改正〔改悪〕をなした。その結果、日本の家族は蝉の抜殻のごとき《ホテル家族》となった。父〔親〕子の絆における躾と徳育こそが家族の脊柱であって、これを欠いて文明の家族は成立せず、野蛮な動物的家族へと変質していかざるをえない。 明治31年の民法の方が昭和22年の現在の民法より遥かに文明に適合する民法であったことは、結果においてもはや明白であろう。砂のごとくボロボロと崩れる日本の家族、言葉遣いも立居振舞いも賤しき少女の群れ、無気力でうつろ顔の人格喪失者のごとき日本の若者・・・。戦後民法は破綻した。戦後民法は有害であったし間違っていたことは証明された。裏を返せば、明治以来の旧民法こそ先進性を備えた立派な法律だったことになろう。 民族の伝統や慣習は家族を土壌にしてその生命を得て、ここに宿り、またここをパイプとして次世代に継承されていく。国家の法秩序や社会規範は人為的な法令によって形成されるものではなく、それはむしろその国家全体のもつ倫理性・道徳性に支えられているものであるが、倫理や道徳とはこの家族に伝わる伝統や慣習の温室で初めて咲きうる花〔精華〕である。 ・・・現在の戦後民法に対して、明治民法の中で優れたいくつかの条項を復活させる修正と改正こそが急がれる。」(中川八洋『国が亡びる―教育・家族・国家の自壊』、徳間書店、127~128頁、下線:私。) |
* なお、「夫婦別姓」については、平成27年12月16日最高裁判所大法廷判決において、
「民法第750条の夫婦同姓規定は、憲法第13条、第14条、第24条の規定に対して合憲である」という判決が下されたことを付記しておく。但し、現在も選択的夫婦別姓運動は継続され、訴訟が繰り返されている。
| LGBTのための法整備をする(同性婚の容認・導入)について。 |
「選択的夫婦別姓」、「戸籍の個人単位化(出生地記載の廃止含む)」、「事実婚」、そして「(LGBT)同性婚」などの推進運動は、すべて伝統的「家族」の解体運動に収斂する。これらの運動推進者らの「家族解体」→「日本国解体」にかける、これほど凄まじい憎悪と怨念のエネルギーが湧き出る根源は一体何なのだろうか?
これらの運動エネルギーの根源は、概ね次の2つに総括できるように思われる。
| 〔Ⅰ〕 共産主義及びそれと化合したフェミニズムの階級闘争の宗教エネルギー。運動主体は、共産主義者とそのシンパ(フェミニスト含む)等。 〔Ⅱ〕 無制限の対日収奪を正当化するポスト・コロニアリズム(反転・植民地主義)という日本憎悪ドグマのエネルギー。運動主体は日本に生活の本拠を置く外国人(北朝鮮人・中国人・韓国人など)。 * なお、〔Ⅰ〕と〔Ⅱ〕の思想は多くの場合、互いに親和し、混合している。 * また、共産ソ連の後継国家であり、他国への侵略・属国化を民族の本性とする(日本に生活の本拠を置く)ロシア人も、その自らの目的(=北海道侵略)のために〔Ⅰ〕〔Ⅱ〕の運動と連携している。 * 日本フェミニズム(女性学)が、いかに日本国・日本国民憎悪の本質を持っているかについては、私の以下の2つの論文を参照のこと。 →「フェミニズム(女性学)の嘘言説を理論的に反駁するための教本(案)」 |
なお、これらに関する詳細な内容については、中川八洋 筑波大学名誉教授が著書『民主党大不況』、清流出版、第Ⅰ部などを参照されたい。
さて、橋下徹は『政権奪取論』において「私見であるが」と前置きした上で、(LGBT)「同性婚」について次のような見解を提示している。
橋下徹は言う。
「憲法24条が《婚姻は両性の合意のみに基づいて成立する》としていることをもって、憲法は同性婚を禁じていると主張することはバカげている。」(橋下徹『政権奪取論』、249頁)
そして彼は、憲法9条2項の戦力不保持規定が存在するのに、政府は解釈によって自衛隊を合憲としているではないか、安保法制すらも合憲と解釈したではないか、そうであれば憲法第24条も同性婚を禁じていないと解釈できるのではないか、という主旨の主張をする。
だが、憲法第24条の規定には続きの文言があるのを(中学3年生以上なら)日本国民の誰もが知っている。
憲法第24条
「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」
English:Article 24.
《Marriage shall be based only on the mutual consent of both sexes andit shall be maintained through mutual cooperation with the equal rights of husbandand wife as a basis.》
と規定されている(下線:私)。
条文の後半部を橋下徹は『政権奪取論』の中で意図的に無視(省略)している。
憲法制定当時においても、現在においても、用語「夫婦」・《husband and wife》を「同性のパートナーの場合を含む」用語であるとする「解釈」は、どう理屈をこねても決してできない。それを憲法第9条2項の「条文解釈」と第24条の「用語の解釈」とを同値に扱うことはできない。
実際にも憲法第24条が婚姻を「男女に限定している」としか解釈不可能だからこそ、
【民法】
第739条「婚姻は、戸籍法(昭和二十二年法律第二百二十四号)の定めるところにより届け出ることによって、その効力を生ずる。」
【戸籍法】第74条「婚姻をしようとする者は、左の事項を届書に記載して、その旨を届け出なければならない。一 夫婦が称する氏 二 その他法務省令で定める事項」
【戸籍法施行規則】婚姻届の様式「附録第十二号様式」は、夫婦となる者(つまり男女)が記載する様式
という法体系になっているのである。
さらに、他国の武力攻撃に対抗するための自衛権の行使(自衛力の行使)は、国連憲章51条において「主権国家の固有の権利」として認められている。つまり、「自衛権と自衛力の保持」は、主権国家が「主権」と「領土」と「国民の生命・財産・自由等」を他国の侵害から守る手段として、必要不可欠なものとみなすのが、世界諸国の常識(=国際“法・慣習”)である。日本国は日本国憲法の制定時にGHQの占領下にあり、国家主権を喪失した状態(行使できない状態)にあったから、憲法第9条の規定となったのである。確かに日本国の主権回復以降に政府(国民)が憲法第9条を改正せずに今日に至っているのは政治的怠慢(堕落)と言えよう。しかし、日本国周辺に外国による武力侵略の可能性が「現実に存在する」限り、日本国(日本国民)には憲法解釈によって自衛隊(自衛力)の保有を合憲とみなす以外に選択の余地などない(なかった)。そして外国による武力侵略に対する日本国・日本国民の安全保障の確立があってこそ、憲法第24条の婚姻規定が意味をなし得るのだから、憲法第9条と第24条を同じ次元で論じることなどできない。つまり、橋下徹が両者を同次元で論じることができるのは、彼が日本国・日本国民の対外的安全保障を極めて軽視していることの証左と言える。
なお、繰り返しになるが、「法の下の平等とはすべての人々(国民)に法が“等しく(=平等に)適用される」と言う意味である。それゆえ、憲法第24条の「婚姻の成立を男女に限定する」規定(=“法”)と、憲法第14条の「すべて国民は法の下に平等であって(=法が等しく適用されるのであって)、人種、信条、性別、・・・において差別されない(=差別的に適用してはならない)」の規定とは、何ら背反するものではない。ましてや、憲法第24条(=“法”)が憲法第14条(=“法の下の平等”)に違反するなどという理屈は全く成立しない。
【参 考Ⅱ】 「婚姻」についての若干の考察。
| 人間は独立二足歩行と脳の大型化という進化の過程で「難産」となった。また、人間には固有の「幼年期」と「青年期」とが存在するために、育児(子育て)に「非常に長い期間」と「多大な労力」とを必要とする。 こうした理由から、人間の女性が単独で育児を行なうことは困難であり、育児には誰か他者の助力を得る必要が生じたが、子供の父親である夫、女性の両親、兄弟姉妹、あるいは親類のメンバーなどがその役割を担うようになった。 元来、「婚姻」はこのような人間の生存と繁殖に関する必要性から生じ、その諸形態は諸民族の歴史的過程で形成された文化的産物である。「婚姻」は単に夫婦相互の関係だけでなく、家族の成員間の関係、家族と家族との関係、および家族と社会全体との関係など、すべての関係の基礎をなす「社会的・道徳的制度」である。 言い換えれば、「婚姻」とは自然的(本能的)情愛を基礎とする「恋愛」の単なる延長線上にあるものではなく、そこに責任や義務などの「人間道徳」を接木した「社会的・道徳的制度」なのである。
なお、保守主義の父と言われるエドマンド・バークは18世紀の英国人であるが、結婚(婚姻)とそれに伴う両親および子供(=家族の成員)の責任・義務について次のように述べている。それは21世紀の現在においても燦然と輝く“永遠の真理”であって、「時代遅れの考え方」でも、「封建制度の残滓」でもない。ゆえに、現在の日本国民は、拳々服膺して、耳を傾けるべきである。
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| 女性宮家の創設を容認するという政策について。 |
「女系天皇(なるもの)の容認」、「女性天皇の容認」、および「女性宮家の容認」はすべて「女系天皇(なるもの)=非・天皇の容認」に帰結し、古来の(男系男子)皇統の永続(=真の皇位の安定的継承)には、ほとんど何の貢献もしない。それどころか、「女系天皇(なるもの)の容認」は「非・天皇の容認」であるから、《日本国古来の天皇制度(男系男子の皇統)》の廃止を目論む「天皇制廃止の共産革命」のことに他ならない。
* 日本国古来の天皇制度の基礎知識については、次の私の小論を参照されたい。
「非・天皇の容認」をもって「皇位の安定的継承の方策である」という大詭弁を口にすることは、日本国の歴史を生きたすべての祖先に対する冒瀆であり、祖国と祖先の歴史と文化に敬意と誇りを持つ日本国民には決して発想すらできない行為である。明らかに日本国・日本国民を呪詛する「反日行為」に該当する。良識ある日本国民は、そうした観点で政治家・マスメディア・学者・書物出版社などの思想・イデオロギーを分別し、対処策(対抗策)を講ずるべきである。
なお、安倍晋三首相と菅義偉内閣官房長官らの安倍内閣(自民党)には、本心から古来の天皇制度(男系男子の皇統)を保守しなければならないという義務意識など、微塵も存在しない。逆に、安倍晋三首相と菅義偉内閣官房長官らの率いる自民党が、実際には、古来の天皇制度を積極的に破壊しようと目論む「平成時代の道鏡」とも言うべき逆臣政党であることが、2019年4月30日と5月1日の両日に行われた事実を以て100%確定済みとなった。おそらく、このまま進めば、令和元年9月以降には、安倍晋三内閣は、「菅義偉」に主導されて、「女性宮家創設」の検討を本格化させ、「皇統断絶」を不可逆の既定路線にしてしまうだろう。我われ日本国民はこの最悪事態を断固として「阻止・排除」しなければならない。
安倍晋三自民党の「反天皇(皇室)の本質」については私の次のブログ記事を参照のこと。
→保守主義の哲学---古来の天皇制度(男系男子皇統)の保守こそ、“日本国民の義務”
→保守主義の哲学---安倍内閣の退位特例法と4/30退位式典の本質(正体)を知れ!
なお、天皇制廃止(皇統断絶)の共産革命も、先に述べた2つの思想・イデオロギーをその運動エネルギーの根源としており、日本国という「国家の解体」、「日本国民の(精神的かつ物理的な)非・国民化(ディアスポラ化)を究極の最終目標としている。
| 〔Ⅰ〕 共産主義及びそれと化合したフェミニズムの宗教エネルギー。運動主体は、共産主義者とそのシンパ(フェミニスト含む)等。
〔Ⅱ〕 無制限の対日収奪を正当化するポスト・コロニアリズム(反転・植民地主義)という日本憎悪ドグマのエネルギー。運動主体は日本に生活の本拠を置く外国人(北朝鮮人・中国人・韓国人など)。
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