先日文部科学省が昨年実施した学力テストの学校の取り組みと学力の相関関係を発表しまして「朝の読書」の時間を設けている学校とそうでない学校では正解率に差が出たといいます。(もちろんしている方が高ポイントをマーク)
たしかに、本は読まないより読んだ方が断然いいのであります。
しかし読まされるというのってどうもお姐はなじみません。
ゴロゴロ横になりながらコタツで、学校のお気に入りスポットで、あるいは公園の片隅で、樹の上で、土手の草っぱらにねっ転んで本を読みたい。
それは誰に選んでもらったものではなくって
親の書棚からこっそり持ち出したり
図書館で自分で選んだり
お小遣いで自分で買ったものであって欲しい。
本を自分から手に取らない時点で終わっている…。
いやあきらめちゃいけませんっ(^^;
世界中があきらめても我が子のことをあきらめない唯一無二の存在カーチャンとしてはいつかこっそり持ち出してもらえることを願いジーチャンに叱られながらも同居すると同時にデカイ書棚をよりによって居間においているわけで。
そこでは
「モモ」「はてしない物語」「グリム童話(原本)」「トルストイの民話」「坊ちゃん」「細雪」「選択の自由」「学問のススメ」ete…
が出番をひっそり待っております。
未だに出番はありませんがε-(≡Д≡;)ハァァ....
「本を読め!」とのど元まで出かかるけど、お姐は時間がちょっとでもあると本を読んでいた亡父に一度も本を読めと言われたことがなかったから、ごくりと言葉を飲み込みます。
お姐が本を読むのが好きなのは、そんな父があるときは怒ったり笑ったり時に涙しながらいかにも楽しそうに本にを読み本に親しむ生活をしていたから。
本を手にしたときのワクワクする気持は強制されちゃったら生まれてこない。
ワクワクしながら本を読んでいる大人を見て「なんだなんだ?!ワクワクすることやってるぞ」と思うことが先なんではないかなー
と、いうわけで
子どもに本を読ませたいならまずはカーチャンが読まないと。
書き手が数十時間数百時間場合によっては何年もかかって書いたものをわずか数時間で享受できるありがたさ。時代を超えて書き手と出会える喜びよ。
ああ、積読の山を見ながら嬉しい溜息デス
だって本は頭のごちそうだから♪
たしかに、本は読まないより読んだ方が断然いいのであります。
しかし読まされるというのってどうもお姐はなじみません。
ゴロゴロ横になりながらコタツで、学校のお気に入りスポットで、あるいは公園の片隅で、樹の上で、土手の草っぱらにねっ転んで本を読みたい。
それは誰に選んでもらったものではなくって
親の書棚からこっそり持ち出したり
図書館で自分で選んだり
お小遣いで自分で買ったものであって欲しい。
本を自分から手に取らない時点で終わっている…。
いやあきらめちゃいけませんっ(^^;
世界中があきらめても我が子のことをあきらめない唯一無二の存在カーチャンとしてはいつかこっそり持ち出してもらえることを願いジーチャンに叱られながらも同居すると同時にデカイ書棚をよりによって居間においているわけで。
そこでは
「モモ」「はてしない物語」「グリム童話(原本)」「トルストイの民話」「坊ちゃん」「細雪」「選択の自由」「学問のススメ」ete…
が出番をひっそり待っております。
未だに出番はありませんがε-(≡Д≡;)ハァァ....
「本を読め!」とのど元まで出かかるけど、お姐は時間がちょっとでもあると本を読んでいた亡父に一度も本を読めと言われたことがなかったから、ごくりと言葉を飲み込みます。
お姐が本を読むのが好きなのは、そんな父があるときは怒ったり笑ったり時に涙しながらいかにも楽しそうに本にを読み本に親しむ生活をしていたから。
本を手にしたときのワクワクする気持は強制されちゃったら生まれてこない。
ワクワクしながら本を読んでいる大人を見て「なんだなんだ?!ワクワクすることやってるぞ」と思うことが先なんではないかなー
と、いうわけで
子どもに本を読ませたいならまずはカーチャンが読まないと。
書き手が数十時間数百時間場合によっては何年もかかって書いたものをわずか数時間で享受できるありがたさ。時代を超えて書き手と出会える喜びよ。
ああ、積読の山を見ながら嬉しい溜息デス
だって本は頭のごちそうだから♪
