March 30, 2005

日本語化した英語の発音

 英語が言語である以上、発音をおろそかにするわけにはいかないが、多くの日本人は日本語化した英語(例えば「テーブル」)が示すようにもとの英語tableテイボオ」)とは似ても似つかない発音をする。英語を(おん)からでなく活字を見て学ぶことの弊害かもしれない。その証拠に、mad bomberメァッド・ムゥ」(bは黙字)を「マッド・ボンバー」と言ったり、peopleピーポオ」を「ピープル」と言ったりする。
 そうした悪習が英語学習の妨げになっているのではないかと危惧する道場主は、特に日本語化した英語の単語について原語の発音に近いものを発音記号の代わりにカタカナで表記したものを提供する。それを反復練習することによって学習者諸君の発音が矯正されて英語学習が大きく改善されれば幸いというもの。
 ただし、カタカナ表記ではrlfhの区別、sthzthの区別、「ジャ、ジ、ジュ、ジェ、ジョ」の破裂音摩擦音の区別などまでは面倒を見切れないので、そこは目をつぶるしかないが、fhの違いだけはfカタカナで、hひらがなで表わすという苦肉の策の例外を認めてもらいたい。
 苦肉の策といえば、例えばyoungン(グ)」でカッコつきの「(グ)」は、「グ」と発音する直前で止めて鼻に抜く鼻母音を示すためのもの、また、例えばmadメァッド」は実際は「メァッ」に近いが、それではmatメァット」(これも実際は「メァッ」に近い)と区別できないので、便宜上「メァッド」とする、などといったことも了解してほしい。
 ところで、道場主米語が嫌いなので、英語と米語で区別される音については英語式を採用することにする。あしからず。
 ただし、多くの場合、英語の「アー」は米語では「エァ」(例えばpassportパースポート」(英)は「ペァスポート」(米))と置き換えればよいし、英語の「」は米語では「」(例えばnice bodyナイディ」(英)は「ナイディ」(米)))という具合。
 ちなみに、tの音が米語ではまるでrのようになる(Peterピートゥ」(英)が「ピールー」(米)だったり、waterウォートゥ」(英)が「ウァールー」(米))とか、また、母音字+rについて、例えばdoor英語では「ドー」とあっさり発音するのに対して米語では「ドーァ」とねっとり発音するとかの違いもあるが、いずれも米語式の発音はどうしても好きになれない。  続きを読む

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なぜか「オーストリッチ」

 ostrich「ダチョウ」は、oにアクセントを置いて「ストリッチ」(英)や「ストリッチ」(米)と発音するものと認識していたが、「ダチョウの革」のことを日本語ではたいてい「オーストリッチ」と「オー」にアクセント置かずに平坦に言う。アクセントなしで長母音というのは英語では考えにくい(「オーストリッチ」ならOK)が、平坦な発音が常の日本語のことだからもちろん文句を言う筋合いはない。
 では、同じ平坦な発音でも、なぜ「オストリッチ」ではなく「オーストリッチ」音引きが入るのかというと、どうも「オーストラリア」に原因があるのではないかと思う。Australiaオーストレイリャ」(「オー」に第二アクセント)のことを日本語では平坦な発音で「オーストラリア」と言っているが、この「オースト」を真似てオーストリッチ」と言うようになったのではないかと兼ねてより疑っているのだ。さらに言えば、「オーストッチ)」なら「オーストリア)」と同じく、「オースト」の後に「r+母音」が続くところがますます怪しい。
 そういえば、「プエルトリコ」という国名についても、本当は「プエルト・リコ」であるにもかかわらず「プエル・トリコ」と言う人が多いが、これは「トルコ」という国名に「トリコ」が似ているために、「プエル」「トリコ」に分解するようになったのではないかと勝手に思っている。
 同じ論法で、major leagueメイジャ・リーグ」が「メジャー・リーグ」になってしまったのは「計量用の物差しや巻尺」を意味する「メジャー」つまりmeasureに影響されたためであるような気がする。
 以上の話について、真相はどうなのか、知っている人には是非教えていただきたいものだと思う。  
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March 28, 2005

「できる方法を考える人」と「できない理由を考える人」

 「世の中には『できる方法を考える人』『できない理由を考える人』の二種類がいる」という趣旨のことを、「不倫は文化だ」発言で有名な俳優の石田純一がよく口にするが、実に至言だと思う。
 もちろん、前者は前向きでプラス思考、後者は後ろ向きでマイナス思考ということになるが、成功する人は必ず前者に属し、後者は何も実行しないので失敗もしないかわりに成功もしない。
 大学受験生も、合格するためにはもちろん前者でなくてはいけない。
 
 この記事は、極め付き・入試必勝法(2005年版)に早速つけ加えておこうと思う。  
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March 27, 2005

「英語ができない、英語教師」(非制限用法)と「英語ができない英語教師」(制限用法)

 「英語ができない」は、「英語教師」を追加説明する非制限用法。つまり、英語ができないのは英語教師の必然であるということ。
 こんなことを言うと日本中の英語教師を敵に回すことになりかねないが、例外の諸氏ならこんな話は歯牙にもかけないだろうから、自戒の意味であえて言わせてもらう。
 辛らつな言説で有名なバーナード・ショーHe who can, does. He who can't, teaches.「できる人はする。できない人は教える」という名言が示す通り、能力のある人は自ら行い、自分ではできない人は他人に講釈をたれることを生業にするのが世の常。
 例えば競馬の予想屋になるのは、自分で馬券を的中させることが上手くないからであるし、証券会社の社員、俗に言うところの株屋になるのは、株価の上げ下げの予測が下手だからであって、競馬の予想や株価の予測が巧みであれば自分で馬券を買ったり、株の売買をして儲けることができるので、好んで予想屋や株屋になったりしないもの。
 英語教師に関してもこの理屈は成り立つはずで、本当に英語ができれば英語を道具として使う余裕があるので、英語教師になるのが何よりも夢であるというのでない限り、何も好き好んで英語教師になる必要はない。
 予想屋であることが予想下手である証拠であり、株屋であることが株価予測が下手である証拠であるように、英語教師であることが英語がろくにできないことの証拠であると言えると思う。もちろん、そうではない英語教師諸氏には一笑に付していただければよいが、少なくとも道場主は自分は英語ができないから英語教師をしていると自覚し、いつも自己嫌悪を免れることができないでいる。
 そこで、かつて予備校で新任の英語講師を迎えての会議で「私は英語ができないから英語教師をやっているようなものです」と発言したところ、新任のある講師が「先ほど英語ができないから英語教師をしているとおっしゃいましたが、私は違うと思います。できなくては教えることはできません。英語ができるから英語教師をやっているというのが正しいのではないでしょうか」と返されて唖然としてしまったことがある。
 発言の主は「英語ができない、英語教師」という非制限用法のシャレが理解できず、「英語ができない英語教師」という制限用法に解していたのだ。  
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「1,000円からお預かりします」

 これは「1,000円お預かりします」と「1,000円から代金を差し引いておつりをお支払いします」を焦ってまとめてしまったものと考えることができるのではないだろうか。
 つまり、「1,000円から(おつりをお支払いするべく、その1,000円を)お預かりします」ということになる。  
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March 26, 2005

新説:「クジラは魚類」で「ウナギは爬虫類」

 A whale is no more a fish than a horse is.「馬が魚でないように、クジラも魚ではない」といういわゆるクジラ構文で有名な「クジラ」は、幼少の折の道場主にとって感覚的には魚類だった。
 まず、ひれを使って泳いで生活しているところなどは魚そっくりだし、生活の場が海であるところも魚と同じなので、もし「クジラは魚である」と教わったら素直に納得したことだろう。
 道場主は、牛、豚、鶏などは人間と同じ陸上の動物であることを理由に、物心つく頃にその肉を一切食べられなくなったが、牛や豚と同じく哺乳類であるクジラは、その哺乳類であるという事実を学校で教わっても実感が伴わず、半ば強引に魚とみなして10代後半に至るまで食べていた。尤も、その後は哺乳類という認識が強くなるにつれて食べなくなってしまったが。
 道場主がある動物の肉を食べるか食べないかは、その動物の生活の場が人間と同じであるかどうかによる。「は生活の場が人間と同じ陸上だから食べないが、魚は生活の場が人間とは違って水中だから食べる。その伝でクジラは後者だから食べる」という理屈が少なくとも10代後半までは有効だったのだ。
 ではスズメは生活の場が空中であって人間とは異なるから食べるのかというと、食べない。なぜならスズメといえども四六時中ずっと空中に留まっているわけではなく、地面に舞い下りてきて餌を漁るという点でやはり人間と同じく陸上動物だからで、スズメは空中国陸上国二重国籍を持っているようなもの。
 また、カニ水中動物だから食べるかというと、食べない。陸に上がってきて歩くことがあるため、やっぱり陸上動物でもあるからだ。カニは言わば水中国陸上国を股にかけて活躍する国際人のようなもの、あるいは国籍水中国でも陸上国永住権を得ているような存在。
 ちなみに、同じ甲殻類でもエビに上がって歩いたりしないのでセーフ。エビはパスポートを所持せず、陸上国への渡航をしない動物なのだ。

 次に、Some people dislike eels because they look like snakes.「ウナギは外見がヘビだから嫌いである人もいる」という文で登場するウナギを道場主は食べることができないが、それは見た目がヘビのウナギが感覚的には爬虫類だからである、というのは嘘で、その証拠に同じような外見でもアナゴハモなら大丈夫。
 実は道場主がウナギを食べないのは、ピーマンを食べないのと同様に、味が嫌いだからにすぎない。アナゴ(あぶら)は許せるがウナギ(あぶら)は味覚的にどうしても受けつけることができないのだ。
 それに、ウナギは時に水から上がって陸上を移動することがあるらしいので、陸上動物の仲間とも言えるが、堂々とではなくこっそりと移動するという点で、水中国の国民でありながら陸上国ビザなしで不法滞在することがあるといったところだろうか。  
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March 24, 2005

小学校の同窓会から2ヶ月半ぶりの再開

 一般の読者諸君には無関係なことで申し訳ないが、道場主は今、岡山県津山市の宿で就寝前のひと時。
 去る1月2日に47年ぶりに津山市立林田(はいだ)小学校の同窓会が市内の鶴山(かくざん)ホテルで開催され、会場に到着して受付でこちらが名乗る前に数人の同窓生から「おお、飯田よう来たのう」と言われてびっくり。「えっ、わかるの?」と言うと「わかるがな。お前、昔とちっとも変わっとらんけん」と、47年の空白がまるで嘘のよう。一方、こちらは相手の誰一人として認識できず、ただただ申し訳なく思うばかり。その後、神主の祈祷と記念撮影の後、会が始まって間もなく各自が順番にマイクを持って近況報告をする際に、幹事の1人は出席者40数名の顔を見てフルネームを完璧に言い当てるという離れ業をやってのけたのには再度びっくりで、この驚嘆の震度は阪神大震災級。
 あれから2ヶ月半余り、1月1日に92歳の長寿を全うした父の納骨で岡山に帰るついでに津山を訪問。平日で、しかも予告なしであったにもかかわらず、10人もの同窓生と再会を果たすことができたのは身に余る幸せ。
 再開メンバーは岸本、西村克、寺本利、赤田、西村寛、光岡(以上、岸本よっちゃん経営の「金波(きんぱ)」で1次会⇒「あすなろ」で2次会)、秋山(「金波」で)、山下(自営の美容室で)、八木(自営の時計店で)、幸田(電話で)。
 岸本よっちゃんには、4月半ばに予定されている同窓生の花見用に焼酎の銘酒「とりかい」(6本入り)を送ることと、8月末に再会することを約束。忘れないようにそれをここに記載しておく。  
Posted by eg_daw_jaw at 23:30Comments(0)TrackBack(0) エッセー・雑文など(私生活編) 

March 22, 2005

「鰹のたたきになります」と「今日は鯛になります」

 居酒屋で注文した料理をアルバイトのおネエちゃんがテーブルに出すときに「鰹のたたきでございます」と言ってくれればいいものを、「鰹のたたきになります」と言われると、「鰹のたたきになる前は何だったの?」とつい意地悪な質問をしたくなる。
 「になります」といえば、寿司屋で「平目(ヒラメ)下さい」と注文すると「今日は鯛(タイ)になります」、「平貝(タイラガイ)ありますか」には「帆立(ホタテ)になります」、「鰯(イワシ)は?」には「鯵(アジ)になります」という具合で、なぜか「になります」で終わるのが特徴。
 それにしても、こちらは平目(ヒラメ)を食べたいわけであって、決して鯛(タイ)を食べたいわけではないのだから、いくら同じ白身魚だからといって一緒にしないでほしい。「今日は鰈(カレイ)になります」なら目の位置が逆についているだけで体形は酷似しているのでまだ許容できる気がするが、鯛(タイ)では違いすぎる。それならむしろ「平目(ヒラメ)ください」に「今日は中トロになります」くらいの方が冗談がきつい分だけ面白いかもしれない。
 平貝(タイラガイ)帆立(ホタテ)についても、似ているのはせいぜい色だけで、味も歯ざわりも大違い。一度平貝(タイラガイ)の味を知ってしまったら帆立(ホタテ)は食べる気がしない。また、鰯(イワシ)は食べたいが、鯵(アジ)は天ぷらやフライならともかく、寿司で食べたいとは思わない。
 そういえば、「小柱(コバシラ)ありますか」に「青柳(アオヤギ)になります」というのもあるが、いくら小柱が青柳の貝柱だからといって、あれほど味が違うと同一の貝の異なる部分とはとても思えない。貝は概ね好きなのに、青柳(アオヤギ)だけは大の苦手なのだ。  
Posted by eg_daw_jaw at 22:01Comments(2)TrackBack(0) エッセー・雑文など(私生活編) 

March 20, 2005

第一志望に「受かる受験生」と「落ちる受験生」

 受かる受験生落ちる受験生の運命の分かれ目は、「合否は自分次第」と考えているかどうかにある。
 何でも他人に依存したり、他人せいにしたりするのは、「合否は自分次第」の対極にある態度と言えるだろうが、こうした依存度他責度が高ければ高いほど合格の可能性が低い。
 「合格可能性自立度自責度比例し、依存度他責度反比例する」という法則が成立すると言ってよいだろう。  
Posted by eg_daw_jaw at 23:13Comments(0)TrackBack(0) エッセー・雑文など(予備校編) 

大意要約

 例えば300語の英語で書かれた文章を和訳したものが500字の日本語に相当するとして、それを80〜100字の日本語に要約することを課すいわゆる大意要約問題というのがどうもうそ臭い。
 第一、80〜100字にまとめることができるくらいなら、初めからその字数に相当する語数の英語で書けばよいではないか。それができないからこそ500字の日本語に相当する語数の英語で書いているはずであると考えれば、そもそも「要約せよ」などというのは無理難題も甚だしいということになる。
 道場主は大意要約問題が大嫌い。作問も嫌なら解答するのも嫌、授業で扱うのも質問を受けて説明するのも嫌、一切関わりたくない、というのが正直なところ。  
Posted by eg_daw_jaw at 21:51Comments(2)TrackBack(0) エッセー・雑文など(予備校編)