2006年03月14日
『うつせみ』
キム・ギドク2004年の作品であるうつせみを目あてに恵比寿まで出かけた。原題には「3iron」とある。これはゴルフクラブの3番アイアンを指すが、ゴルフへの執拗なこだわりと「3=三角関係」を表現したこの原題を直訳したほうが、空虚な邦題(うつせみ)より断然良かったのでは?
主人公の少年が第1打から百発百中。プロ並みの腕前。唖然。
街中でもスイングの練習に没頭し、かなりヘンです。
留守宅に侵入しては工具を用いてなにかを修理する器用さを見せつけられるのだが、これも奇異。
この少年、一言も発さない。言語的なコミュニケーションそのものが障害されている、と考えると、これらの常同的な奇異行動にも納得がいく。そして、だからこそ、(言語以外の手段として)その視線や表情で意志や感情を表現する演技が際立つ、ともいえよう。
前半(警察に逮捕されるまで)は男女2人の逃避行を刹那的な活劇として描き、二人のあいだが警察と女の夫に引き裂かれたところから一気に転調。その後はオカルティックで幻想的となり現実性があやふやになっていく。この「二段構成」のためにともすれば間延びして眠たくなるような題材でも最後まで観客を引きずっていくつくり。
躍動感や生々しさはなく、やや技巧に溺れている感はあるものの、楽しめた。いくらでも撮れそうな力量をキム・ギドクに感じた。
★3つ、、、期待も込めて4つにする。
2006年03月12日
『アメリカ、家族のいる風景』
もう先週になるが銀座シネスイッチでアメリカ、家族のいる風景(ヴィム・ヴェンダース監督、サム・シェパード脚本&主演)を観た。『ランドオブプレンティ』に続いてヴェンダースの新作である。が、『ランド〜』が9・11を、あからさまに「現在」を主題としたのに対して、この『アメリカ〜』は過去に囚われた人々の、そして失われた家族の物語である。
代表作『パリ、テキサス』を否が応でも連想させるが、主人公が西部劇俳優という設定やそれを演じるサム・シェパードのくたびれ感もあって(救いようのない歯並びの醜悪さは相変わらず、、、)、老いを、死を感じさせる映画となった。ヴェンダース自身の高齢化、ドイツへの再移住、も関連しているだろう。
家族が再生することはあらかじめ不可能であるのだが、絶望的でもない。どちらかというと楽観的で、男は身勝手で女はたくましい、といったところ。
『ランド〜』のほうが刺激的だったぶん、やや拍子抜け。だが、これが本来のヴェンダース節でもあり、ファンとしては安堵したことも認めねばなるまい。
2006年02月10日
『エリ・エリ・レマ・サバクタニ』
エリ・エリ・レマ・サバクタニ(監督・青山真治、主演・浅野忠信・宮崎あおい)感染すると自殺してしまうレミング病。
主人公たちの音楽(ノイズ)が唯一の治療薬という設定である。
病原体は視神経を介して自殺の命令を脳に送るのだが、その病原体は音で「おなかがいっぱいになってしまう」と主人公は言う。本気かどうかは分からないが。
ノイズだって数多くのバンドがあるでしょうに。なぜ浅野と中原の音楽だけ効果があるのか?
ひたすら爆音を聴いても、その答えを感じとることはできなかった。
彼らの音楽は病原体の活動性を抑えることはできても、脳中枢を直に破壊してしまう、のではないか?
「映像に音楽を後づけする」のではなく、「映画(ライブシーン)のなかで生みだされた音楽を編集して他のシーンに用いて」いる。さながら『ワン・プラス・ワン』で、映画と音楽との新たな関係性を追求しようとしているのだが、結局はライブビデオと映画の中間にとどまっているに過ぎないと思う。
2006年02月03日
『カミュなんて知らない』
カミュなんて知らない(柳町光男監督、柏原収史・吉川ひなの主演)「人を殺してみたかった」
愛知豊川での主婦刺殺事件で犯人である17歳の少年が語った言葉。
この事件を題材にした映画を撮る大学生の群像劇。
「正常と異常」「現実と非現実」が錯綜し、巨匠へのオマージュ(というよりもパロディ)も盛り込み、隋所に映画の題名が口にされる。
これといった驚きはないが、「映画を愛している」という感情はまっすぐ伝わってきた。「映画に愛されている」のかどうか、はなんとも言えず。
吉川ひなのの役どころは「情緒が不安定な女」とのことだけど、恋人とのメールのやりとりのチグハグさや突然の茫然自失ぶりから判断するに「解離」しているだろう。
この恋人間の「殺人(?)未遂」と劇中映画での「殺人」がどうも絡み合わないところが腑に落ちなかった。
2006年01月30日
「陽気なギャングが地球を回す」
陽気なギャングが地球を回す(伊坂幸太郎著)「ラッシュライフ」の次に読んだためか、ストーリーが単軸であっさり。
映画化されて今年5月に公開予定とのこと。
映画のオフィシャルサイト→http://www.yo-gang.com/
たしかに、他の伊坂作品よりは映画化が容易だろう。
が「映像よりも映像らしい」他の作品に比べると、「いかにもな(=誰が想像しても同じような映像が浮かぶ)」作品なので、とっつきやすいといえばとっつきやすいが味わいは薄め。
2006年01月27日
「貴族の階段」
貴族の階段(武田泰淳著)「殺す」という言葉の表現として「眠らせる(心的な死)」と「バラす(肉体としての死)」を使い分けるあたり、言葉を使うことへの注意深さが研ぎ澄まされている。
主要人物の名づけかたも、自然さを損なうことなく、暗示的である。微妙な感覚に、唸る。
さまざまな死。「なにかのために」死ぬのだと思い込みたいそれぞれの心理が、切ない。
2006年01月15日
「ラ・ロシュフーコー公爵傳説」
題名買いしたラ・ロシュフーコー公爵傳説(堀田善衛著)を読む。堀田作品は初めて。ヨーロッパ、しかも中世以前を題材にした作品を日本人が描くことに今まで抵抗があって、堀田や塩野をはじめとした作家たちを避けていた。これぞ食わず嫌い。フランソワ・ド・ラ・ロシュフーコー。名前に魅かれた。ロジェストヴェンスキーとかロストロポーヴィッチなどと同じように。そういえば指揮者には名前だけで惹きつける人が多い。クナッパーツブッシュ(通称クナ)やチェリビダッケ、スクロバチェフスキー。これは余談。
で、「太陽も死もじっと見つめることは出来ない」「友を疑うのは友に欺かれるのよりも恥ずかしいことだ」「知は情にいつも騙される」などの『マキシム(箴言集)』を著した公爵の波瀾万丈の人生を一人称と三人称を複雑に(自在に)使い分けながら描いた伝記。公爵の残した自叙伝そのまま、というのでなくかなり堀田の創作なところがあるらしいが、完成度が高くどこまでがフィクションかは不明である。500ページを越える大著。
16世紀から17世紀、おもにアンリ4世からルイ13世・14世(太陽王)の宮廷・政治に深く関わった人物なので歴史ものとしても読みごたえ十分。フランス史に疎い小生でも楽しめた。
2006年01月02日
「ラッシュライフ」
またまた伊坂でラッシュライフ(伊坂幸太郎著)。「文章でしか表現できないような映像よりも映像らしい世界」をつくりあげたい、という意図がまさに実現されている。
この作品のように時間軸も複雑な群像劇はもともと映画の独壇場だったけど、このところはコレといった成功作はない(パルプフィクションあたりが最後か、、、)。
ちなみに小説よりも映画にインスパイアされるとのことで、クストリッツァが好きだという。同世代でも腕のある作家がいるのだな、と感慨。
2005年12月30日
「死神の精度」
引きつづいて伊坂作品を読む。死神の精度(伊坂幸太郎著)は「千葉」と名乗る死神を主人公とする短編集。各章それぞれがミステリーとして完結し(結末を伏せて余韻を残したりもしているが)、章ごとのつながりはともすると乏しく感じるが、終章で見事にまとめる。字義通りにしか言葉を理解できずコミュニケーションがちぐはぐな死神(学習能力はあるようだ。人間で言ったら高機能の自閉症だろうか)、全編を覆う雨と曇天、そして「仕事に忠実な」死神が上司へ「可」と調査報告した翌日に確実に遂行される死。「人間はみんな死ぬ」さまが救いようのないトーンで描かれる。
幸せな死なんていうのはあり得ない。そうそう。だから、せめて「最善じゃないけど、最悪でもない」死を、と。著者の暖かさを感じる。
「スタイリッシュ」との評価が高いが、それは疑問。まったく逆にメッセージは無骨だ。そこが、良い。
2005年12月20日
「オーデュボンの祈り」
オーデュボンの祈り(伊坂幸太郎著)。はじめて伊坂幸太郎を読む。
近ごろの作家ではめずらしく、作品内に(小説にしか表現できない)独自の世界をつくり出している。ミステリーがストーリーの基になっているが、あくまで基。超現実的な世界を描くためのネタ、のような。
21世紀の小説で個人的に好むのは、この作品にしても「海辺のカフカ」にしてもファンタジー(寓話ともいう)なのだな、と自覚した。