旧約は語る「キリストの福音」

聖書66巻、旧約39巻、新約27巻、膨大な頁数を擁するこの書を一口に纏め得たとすれば、一體それは何か。

たたみ5

しかし、主はサムエルに言われた。
 
「容姿や背の高さに目を向けるな。
わたしは彼を退ける。
人間が見るようには見ない。
人は目に映ることを見るが、
主は心によって見る。」
 
(サムエル前書 16章7節 新共同訳)
 


インドネシア福音伝道の記録




たたみ
新しいたたみ
い草のほのかな香り、うすい萌黄いろ
アフリカにいる巡回たちが、たたみの部屋にいる、と聞いた
そういえば、コンテナで運んだという話
日本の快適さ、心地よさ、ゆきとどいた配慮
離れてみて、改めて実感する

 
畳やさん
朝とりにきて、夕べには張り替えたたたみを持って来た
お客さんの立場で考える、この態度、この姿勢
立派なものではないか
「美しい日本のわたし」と聞いたが本当だ
日本の伝統・文化には「すぐれもの」の多いこと
じっくりと見直して、楽しく味わう


それにしても、この畳やさん
今までのたたみをみていう、◯◯さんの仕事ですね
「仕事を見れば読み取れる」
いやー参ったなー
きちんとした仕事、がさつな仕事
残っているこのたたみを見れば、誰が手掛けたかわかる
名前を書いているわけでも無いのに・・・・
プロの世界の奥深さ、厳しさが
このこと一つでわかる


私達を造ったかみさまが
わたしたちを見るだけで
隠れた心の中までも、全部おわかりになるのは当たり前だ


主は言われた。
「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ。」
 
サムエルは油の入った角を取り出し、
兄弟たちの中で彼に油を注いだ。
その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった。
サムエルは立ってラマに帰った。
 
(サムエル前書 16章13節 新共同訳)


 
 

ロバの子


娘シオンよ、大いに踊れ。
娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ロバに乗ってくる
雌ロバの子であるロバに乗って。

(ゼカリヤ書 9章9節 文語訳)



マラウイ伝道・踊りの輪

 

ロバの子
可愛いいロバの子
イエスさまをおのせしたロバの子
エルサレムに向かうオリーブ山の下りあたり
おおぜいの人々、子供たちが手に手に
棕櫚の葉を振りながら迎えてくれた

 
ホザナ、ホザナと主を讃美しながら・・・
みんなの笑顔、沸き上がる歓声があたりに響いた
乗っていて下さるイエスさま
背中にずっしりと・・・
ロバの子の足は木の枝の上をザクザクと踏んで進む
うれしいな
 

冒頭にご紹介した聖言、
ゼカリヤ書9章は来るべき千年王国時代の
慈愛に満ちた主イエス様のご支配の様子の
一端を預言している。
その輝きのようすを
最後の節に次の様に描いている。

 
彼らの神なる主は、その日、彼らを救い
その民を羊のように養われる。
彼らは王冠の宝石のように
主の土地の上で高貴な光を放つ。
 
それはなんと美しいことか
なんと輝かしいことか。
穀物は若者を
新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。
 
(ゼカリヤ書 9章16〜17節 新共同訳)

 

さて、この主イエス様のエルサレム入城の日は
いまの暦で表わすと
何年何月何日で何曜日であったか?
 

ロバート・アンダーソン卿が1895年に出版した著書
THE COMING PRINCE の中で
それは紀元32年4月6日で火曜日であった、と。
 

これに関して、徹底的に調べて
ついに納得した友人の牧師先生から
その研究成果の書き物を頂いた。

 
ダニエルの預言のこと、
うるう年の回数のこと、ロバの子のこと。
なるほど、そういうことか・・・
懸命に歩くロバの子がいとしい


過越の祭の六日前に、イエス、ベタニヤに来り給う
 
(ヨハネ伝12章1節 文語訳)

 
過越の六日前とは日曜日に当たる。
大衆が主を出迎えたのは翌月曜日、
しかし、ロバの子の歩み遅く、
しかも群衆の歓迎のために
さらに時間がかかったと想像できる。
主が宮に到着された時点ですでに夜となった。
すなわち火曜日。
(ユダヤの日の数え方は日没から日没まで)
 

友人のコメント
ロバは馬よりも小さい、
ロバの子はさらに小さく、
大人一人の体重を辛うじて支え得るかどうか、である。
その歩みはヨロヨロとして、
短距離でも相当の時間がかかった、というのは、
大いにあり得ることである。


 

胎児である時


ヤコブは眠りから覚めて言った。
「まことに主がこの場所におられるのに、
わたしはしらなかった。」
 
そして、恐れおののいて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。
これはまさしく神の家である。
そうだ、ここは天の門だ。」
 
(創世記 28章16〜17節 新共同訳)



マラウイの花


 
「写真屋」の長男として生まれた私。
生まれた日の様子を写真でみる、
産湯につけて貰って、お世話になっている。
 
「産婆さんの家にゆき、あなたを産んだのよ」
「へー、それで?」
「真夜中の零時を少しまわっていたのよ」 
この産婆さんにお世話になったんだ!
今のいままで、その方に頂いた「ぬくもり」を知らなかった。
どれ程多くの方々のお世話になりながら、日を過ごしてきたことか。
「あたたかな愛情」がすっぽりとわたしを包んでくれていた。

 
幼い日のかすかな記憶に、
「眠れ・・よいこよ・・」とオルゴールが歌い、
ガラガラがわたしの頭上をまわる。
場面がかわって、薬を調合して測る「はかり」がある。
ひよわな、胃腸の弱い、腺病質な子。
どれほど、心にかけていただいたのか!
過ぎこし方を顧みて、感謝の念の希薄な自分を重ねて、
恥ずかしい。

 
・・・・
 
産声をあげる、それ以前のこと
わたしは母の体内にいた。
不思議な環境のなかにわたしは育てられていた。
胎教ということばを聞いたことがある。
胎児である時に母親を通して受けたものが、
重要な影響をその人の性格や体質にあたえる。
なるほど・・・・。

 
胎児の映像が紹介されて、興味津々、
あの目、あの口、あの耳、もう立派に出来ている。
でもまだ、あの目で見ているわけでなく、
あの口で呼吸しているわけでなく、
あの耳で聞いているわけでもない。
そうだ!母親の胎盤からあのパイプをとうして、
すべての栄養分が流れ込んでいる。
そして母親の鼓動を聞いている。
母親の全てがわたしに与えられたのだ!!


 
・・・・
 
ヤコブは天にいたる梯子が自分の側にたって
神の使者がその梯子をのぼりくだりしている夢を見た。
 
ひとり寂しく、将来の不安を心に野宿した夜、
「天ひらけ」 神の大きな祝福のおことば・・・
そして生かされ、守られ、育てられている自分に気付く。
 
ヤコブ(おしのくる者)、
その名をイスラエル(神が支配する)
と変えて下さった天地創造の神、
主イエスさま。


ヤコブ、すなはちイスラエルはヨセフに言った。
「お前の顔さえ見ることができようとは思わなかったのに、
なんと、神はお前の子供たちまで見せてくださった。」

 
・・・・
 
そして、ヨセフを祝福して言った。
 
「わたしの先祖アブラハムとイサクが
その御前に歩んだ神よ。
わたしの生涯を今日まで
導かれた牧者なる神よ。
わたしをあらゆる苦しみから
贖われた御使いよ。
 
どうか、この子供たちの上に
祝福をお与えください。
どうか、わたしの名と
わたしの先祖アブラハム、イサクの名が
彼らによって覚えられますように。
どうか、彼らがこの地上に
数多く増え続けますように」
 
(創世記 48章11,15〜16節 新共同訳)

 

地球大紀行4


子はあなたの魂を生き返らせる者となり、
老後の支えとなるでしょう。
あなたを愛する嫁、
七人の息子にもまさるあの嫁が
その子を産んだのですから。
 
(ルツ記 4章15節 新共同訳)



マラウイの花


 
アルゼンチン
ブエノスアイレスの教会
その応接間でくつろいでいると
「面白いビデオを見ませんか?」
それは、NHKの編集による「地球大紀行」であった。

 
世界の屋根ヒマラヤ山脈、エベレストの高嶺附近に、なんと
かつて海に住んでいた生物アンモナイトなどの化石が
いまもなお大量に目撃される。
それは何故か?

 
その雄大な「謎とき」が始まる。実に面白い!
科学的探究によって積年のこうした疑問が氷解してきた。
それを分かりやすく解説してくれるのだ。

 
はるかなる地球の歴史の一こま・・・
現在「インド亜大陸」とよばれる、その「かたまり」が
アフリカ大陸から別れ、その南の海から移動し、
ユーラシア大陸に近づき、そして衝突。

 
押して押してゆくうちに、両者に挟まれて海であった
海抜下のところが、どんどんと高く、高く押し上げられ、
遂には、世界第一の高嶺ヒマラヤを形成したという。
今なお、押しつづけて、高嶺はさらに高くなっているとか、
実に驚きを禁じえない。



トバ湖の景色 - Ricoh GR DIGITAL 3



 
ナオミかれらにいひけるは
我をナオミ(楽し)と呼ぶなかれ
マラ(苦し)とよぶべし
全能者痛く我を苦しめたまひたればなり
 
(ルツ記 1章20節 文語訳)

 
ここで、ルツ記に登場する婦人、
ルツのしゅうとめ「ナオミ」を思う。
異邦の地モアブにて、夫の先立たれ、
さらには、二人の息子にも先立たれた悲運の婦人。

 
自分の名前のナオミ(楽し)をマラ(苦し)と
呼びかえたいと思った、悲しみのどん底にいた彼女が
贖いを受け、亡き息子の嫁であった「ルツ」が
ベツレヘムノ有力者である親族の一人「ボアズ」の妻となり
イスラエルの歴史に輝く、ダビデ、ソロモンの家系の
貴い先祖の一人となって、永遠の喜びを享受するとは・・・

 
マタイ伝一章にある主イエスさまの系図の中の
ダビデの祖父「オベデ」が愛する嫁ルツの
産んだ一人息子であったことを熟慮すると・・・
神の選びの摂理のすごさを思う。

 
ルツのしゅうとめ「ナオミ」
彼女は人生の最大の苦難の中にあって、
偶像の国から神の国に立ち返ろうと、
故国ユダをめざして帰国の途についたが、
それはほんとうに正しい判断であった。
実に、彼女を恵まんとする神の「お導き」であった。

 
遠方よりエホバ我に顕れていひたまふ
我 窮なき愛をもて汝を愛せり
故にわれたえず汝をめぐむなり
 
(エレミヤ記 31章3節 文語訳)

 

心のときめき4


の御使いは、
「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、
肉汁を注ぎなさい」
と言った。

ギデオンはそのとおりにした。
主の使いは、
手にしていた杖の先を差し伸べ、
肉とパンに触れた。
すると、岩から火が燃え上がり、
肉とパンを焼き尽くした。
主の御使いは消えていた。

(士師記 62021節 新共同訳)


 

きょうは朝から雨が降って、
軒にはり出したトタン屋根をリズミカルに叩いている。
 

先週末より秋晴れの日が続いたが、
こうして天気が崩れるとなんだか落着いた気持ちになる。
不思議だ。あの壮大なソロモン王の世界もいいけれど、
自己を「小さい存在だ」と意識するギデオンも、
尚さらいいな・・・と思う。
ギデオンの主にたいする供え物は子山羊一匹と
麦粉一エファの酵母を入れないパン、それに肉汁であった。
 

自分に出来る精一杯のもの、
その供え物が主なる神さまに貴く受け入れられている。



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そういえば、旧約の預言者ミカはこんなことを言っていますね。


焼き尽くす献げ物として
当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
主は喜ばれるだろうか
幾千の雄羊、幾万の油の流れを。

・・・

人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。

(ミカ書 668節 新共同訳)

 

どんな人にも「こころの世界」がある。その目には見えない部分を神がしっかりと見据えていてくださる、というこの事実に気付く時に「へりくだって神と共に歩む」という静かな動きがとても貴いものと思えてくる。祈りの時、このわたしという存在を主さまに捧げてゆきたいと思うし、主がこれを受け入れて下さるだろうか・・・と自問したりする。

 

最近のことだが、主のご聖餐にあずかり、主の御血と御肉にあずかる時に捧げる霊の祈りがまた特別な恵みを感じさせるのだ。「血は生命」ということだが、主イエスさまの生命が次第に「教会」に「我が家」に「わたし自身」に充満してくることに気付いている。この漲るものは何なのか?そして周りに現れてくるかつてない出来事、それも若々しい新芽ともいえるもの・・・。そうだ偶然にしてはあまりにも頻度が高く、こうして今もこころに喜びをもたらす。
 

このあいだ、ずっしりと重くなった孫を抱いた。この子が頭をさげてすり寄ってくるこのしぐさ。目を細めてわたしに手を延ばす、その姿。長らく忘れていた「こころのときめき」、これは決して作り物ではなかった。

 

異邦人伝道4


されど我は感謝の聲をもて汝に献祭(ささげもの)をなし
又わが誓願(せいがん)をなんぢに償(はた)さん
救(すくひ)はエホバより出(いづ)るなりと

(ヨナ書 2章9節 文語訳)



大きな魚の腹の中。
ヨナは三日三夜、ここにいて、
主に祈りを捧げたその最後の言葉がこれであった。
新共同訳聖書の「救いは主にこそある」
という表現もすてがたいが、
文語訳聖書の「救はエホバより出るなり」
もいいですね。
 

ビクトリア湖での洗礼



さて、私たちの主なるイエス・キリストの
「イエス」というお名前は、
ヘブル語で「ヨシュア」
つまり「ヤーウェ・シュア」。
ヤーウェは神。シュアは救い。
ですから、「救いたまう神」といえばよいでしょうか。
あるいは、「神は救いたまう」といえばよいでしょうか。
そういう意味合いから、この箇所を意訳してみると・・・・
 

わたしは感謝の声をあげ
いけにえをささげて、誓ったことを果たそう。
「わたしのイエスさま・・・・!」

(ヨナ書 2章9節 意訳)


大きな魚の腹の中で絶叫したヨナさんを想像してみる。
「わたしのイエスさま・・・・!」
 
すると・・・
 
主が命じられると、魚はヨナを陸地に吐き出した。

(ヨナ書 2章11節 新共同訳)


とにかく、神なる主イエスさまの
「み救い」にかける情熱たるやすごいものだ。
この激しい炎が、つまり「神の愛」が、
私たちの心までも燃やそうとしておられる。
 

愛は死のように強く
熱情は陰府(よみ)のように酷(むご)い。
火花を散らして燃える炎(ほのお)。
大水も愛を消すことはできない。
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと
財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。

(雅歌 8章6〜7節 新共同訳)


そういう観点からもう一度、このヨナ書を読み直してみる。ヘブル人であり、民族主義者であるといえるヨナさんにとっては、アッスリアの都「ニネベの救い」はあまり気の進まぬはずで、できればタルシシにでも逃げてしまいたいという気持ちはわかる。ヘブル人の立場の利害得失を考えるならば、こういう異民族の「救い」に燃えてゆくということは難しい。殊にこのニネベは自分の国イスラエルを大きな軍事力で常に圧迫しているというアッスリア帝国の首都である。しかし、神さまの目は全世界を遍く見ておられて、ヨナに使命を与えて、お声をかけられたのだ。実に彼こそ、福音の歴史に残る「異邦人伝道」の先駆けであり、このヨナ書は「異邦人伝道」に対する神のご熱心を知らせる燈台である。
 

それから、イエスは言われた。
「全世界に行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。
信じて洗礼を受ける者は救われるが、
信じない者は滅びの宣告を受ける。
信じる者には次のようなしるしが伴う。
彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、
新しい言葉を語る。
手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、
病人に手を置けば治る。」
 
(マルコによる福音書 16章15〜18節 新共同訳)


主イエスさまの御心に滾る「全世界の救い」をまず愛弟子ペテロに伝えたいという気持ちから「バルヨナ(ヨナの子)・シモン」と呼びかけられたのではなかったであろうか。
 

我は火を地に投ぜんとて來れり。
此の火すでに燃えたらんには、
我また何をか望まん。
 
(ルカ伝12章49節 文語訳)

 

巻物を開きてその封印を解く3


栄華を極めたソロモンでさえ、
この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
今日生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、
神はこのように粧ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。
 
(マタイによる福音書 6章29〜30節 新共同訳)

 

マラウイ伝道の記録




主イエスさまの御口にのぼった「ソロモン」という名前。ダビデの子のソロモンである。不思議なことに、主イエスさまも「ダビデの子」と呼ばれていた。きょうはソロモンのことから聖書について、少し思いを巡らしてみたい。
 

ソロモン、エジプトの王パロと縁を結び
パロの女(むすめ)を娶りて之を携(つれ)來り
 
(列王紀略上 3章1節 文語訳)
 

彼が即位して間もなくのこと、
こうした記事が「唐突」にも、記載されている。
全く前置きもなく・・・である。
その前の節には「しかして国はソロモンの手に
固く立てり」(列王紀略上 2章46節 文語訳)とある。
ダビデの生涯をじっくり読みすすめて、ここにきて、
何だか別世界に入ったという気持ちがする。

 
ダビデなら「エホバが己を諸々に敵の手とサウルの手より救い出したまえる・・・」(サムエル後書 22章1節 文語訳)とあるように、神によって生かされ、保たれている自分を常に意識するという謙虚さがみられるのに、それがソロモンにはみえない。
 

然れば自ら立てりと思う者は倒れぬように心せよ。
 
(コリント前書 10章12節 文語訳)
 

神はソロモンの生涯とその後のなりゆきとを
私たちに「鏡」として置いておられる。
人間は誰しも「あやうい存在」なのだ
ということ・・・なのだろう。
もうこれで大丈夫と思ったその時に、
滅亡の第一歩が始まっているということだ。

 
ソロモン以後のイスラエルは
坂道をどこまでも転げ落ちて、落ちて・・・
遂にはアッスリアに、
さらにはバビロンにと滅ぼされ、
捕囚となっていった。

 
あれほどの、きらびやかなソロモンの神殿も
王宮の金も剥ぎ取られ、柱も打ち倒されて、
偶像に迷ったイスラエルに向かって神のみ怒りが
襲い掛かったと聖書は告げている。


こうしたイスラエルの悲しい歴史を克明に
聖書記者は書き残している。
ユダヤ教の「聖書(タナク)」は
歴代志略下36章25節を
もって完結しているが、それは・・・
 

ペルシャ王クロスかく言ふ
天の神エホバ地上の諸国を我に賜へり
その家をユダのエルサレムに建つることを我に命ず
凡そ汝らの中もしその民たる者あらば
その神エホバの助けを得て上りゆけ

 
それは、エルサレム神殿の復興を呼びかける言葉である。
かれらが神から賜わった「巻物」の聖書は
イスラエルの民たちにそのことを
メッセージとして語り続けている。
「その神エホバの助けを得て上りゆけ」
神の御指導に従って、
エルサレム神殿の立て直しをせよと促している。
 

肉なるイスラエルをあくまでも「設計図」と
お考えになられた主なる神さまが
霊のイスラエルなる「教会」を興された
ということが判ってくると、
この「巻物」なる聖書(タナク)には
輝かしい一定の価値が賦与されてくるのだ。
 

巻物を開きてその封印を解くに相応しき者は誰ぞ
 
(ヨハネ黙示録 5章2節 文語訳)
 

「屠られたるが如き羔羊」
まさに主イエスさまがこの巻物をうけてくださり、
封印を解き、巻物を開いてくださったのである。
 

なんぢは巻物を受け、その封印を解くに相応しきなり、
汝は屠られ、その血をもて諸種(もろもろ)の族(やから)・
国語(くにことば)・民・国の中より人々を神のために買ひ、
之を我らの神のために国民となし、祭司となし給へばなり。
彼らは地の上に王となるべし。
 
(ヨハネ黙示録 5章9〜10節 文語訳)
 

ペンテコステの日に天から聖霊が火の如くに降り、
エルサレムに最初の教会が出来た。
聖霊は主イエスさま御自身である。
 

助け主、即ちわが名によりて父の遣わしたまふ聖霊は、
汝らに萬(よろず)の事ををしへ、
又すべて我が汝らに言ひしことを思ひ出さしむべし。
 
(ヨハネ伝 14章26節 文語訳)
 

使徒たち、初代教会のみ弟子達、
教会が興されて彼らの霊と心に
かの「巻物」なる聖書が明解に、
解き明かされてきたのであった。
巻物が広げられ、そこに書かれている神の言葉を読み、
彼らは驚きを持って理解したのである。
それはイスラエルの人々が
待望して止まなかったメシヤ(キリスト)は
主イエスさまなりと読み取ることが出来たのである。
 

かくして聖霊は彼ら主の弟子たちクリスチャンの目を見開かせた。ギリシャ語で書かれた「七十人訳聖書」の配列の違いの意味するところを・・・であった。聖霊はかつてアレキサンドリアにおいてヘブル語よりの翻訳作業を七十人の学者たちに重荷をおわせ、その際にかつての「巻物」なる聖書の配列を変えさせたのである。


「タナク」という「巻物」の中の第三部を構成している「諸書(ケトゥビーム)」を第二部の中に納め、逆に第二部の中に納められてあった「後の預言者たち(ネビイーム)」を第三部に移したのである。そうすることによって、何が起こったかというと、実に驚くべき変化がここに生じた。前途を遮っていたところが開かれ、通るべき道ができたのである。モーセの手もあった杖が海に向かって指し伸ばされたその時のように・・・
 

それはイザヤ書からマラキ書までが
メシア出現を語る預言書として明示され、
聖書全体の性質が
「キリストの出現を予告する使命をもったもの」
に変貌を遂げたのであった。
そしてクリスチャンたちは知ったに違いない。


これはまさにバプテスマのヨハネの出現が
その使命であったのと同じで、
聖霊はその開かれた巻物を「旧約聖書」と呼び
その後に、我らの主なる救い主
イエス・キリストの「新約聖書」を
続けて置くことによって完備するのだ・・・と。
 

今われらが手にしている「旧新約聖書」を、
はじめの創世記からヨハネ黙示録までを
こうして読み進めてみる時に、
新約聖書の第一巻であるマタイ伝に多く見られる
この同種のことばに深い意味を読み取るのである。
 

すべて此の事の起りしは、預言者によりて
主の云ひ給ひし言の成就せん為なり。
 
(マタイ伝 1章22節 文語訳)

 

死ぬべくば死ぬべし4


なんぢ往き、 
シュシャンにをるユダヤ人を
ことごとく集めてわがために断食せよ 。
 
三日の間 夜昼とも食ふことも飲むこともするなかれ。
我とわが侍女(こしもと)等も おなじく断食せん。
 
しかして我 法律(おきて)にそむく事なれども王にいたらん。
我もし 死ぬべくば死ぬべし。
 
(エステル書 4章16節 文語訳)




マラウイ伝道の記録



 
エステル書には
ユダヤ人のプリムの祭の起源が記録されているが、
正月はニサンの月とよび、この十二月をアダルの月とよぶ。

 
正月にハマンがプル(籤)を投げて、
ユダヤ民族殺戮の戦慄が王国に広がり、
エステル皇后の生命を投げうった嘆願により、
三月のシワンの月には驚くべき大逆転がおこった。

 
ユダヤ人には光輝(ひかり)あり
喜悦(よろこび)あり 尊栄(ほまれ)ありき

(エステル書 8章16節 文語訳)

 
十二月にはその大事件の最終結論が出た。
それは民族の大いなる喜びの祭「プリム」として
世々にユダヤ人に祝われている。
 

主なる登場人物は次の四人。
アハシュエロス王、エステル皇后、大臣ハマン、モルデカイ。
エステルの養父モルデカイを中心にして物語はすすむ。
彼個人の運命が全ユダヤ人の運命と連繋して
その「光と影」が織り成されている。
 

聖書全66巻に流れる「贖罪」の問題が
このエステル書のテーマである。
とても大きな力を握っているペルシャ帝国のアハシュエロス王。
この王にたくみに食い込み、
折りあらばその地位までもねらう大臣ハマン。

 
ここに霊の世界における
唯一神とサタンとの地位の相関関係をみる。
ハマンの隠れた部分を適確に見抜いていたモルデカイと
ハマンとの内的争いが突然拡大し、
離散のユダヤ民族にとって
ゆゆしき滅亡の危機にまで発展してゆく。
 

危機に際して対抗の手段は唯一、
アハシュエロス王の裁断のみとなり、
エステル皇后の生命を投げうった涙の嘆願が
クライマックスとなっている。

 
危機一髪、
ハマンによってモルデカイの生命が断たれんとしたその日、
大逆転してハマンが断たれ、モルデカイが王命により
ハマンの大臣の座についた。

 
これはまさに、主イエスさまが十字架において
サタンの頭を打ち砕いたことであり、
いのちをかけた御血による贖罪の重さが
我らの心にずっしりと響いてくる。
 

大逆転の三月から十二月までは、
すでにモルデカイの権威は確立してはいたが、
ハマンの勢力は存命中であり、
王国の各地にその影響力を行使していた。

 
ユダヤ民族を滅亡すべしとした十二月十三日が
逆に大勝利の日となり、
十三日、十四日の両日には
王国よりハマンに属する全ての勢力が一掃されたわけで、
毎年その月の十四日と十五日に
ユダヤ民族は「プリムの祭」を祝うこととなった。
 

ユダヤ人モルデカイはアハシュエロス王に次ぐ者となり
ユダヤ人の中にありて大いなる者にして
その衆多(おほく)の兄弟によろこばれたり
彼はその民の福祉(さいはい)をもとめ
その一切の宗族(やから)に平和の言をのべたりき
 
(エステル書 10章3節 文語訳)

 
真のクリスチャンにとって
「プリムの祭」は、
まさに主イエスさまの御再臨という
喜ばしい日の予表である。

 
いまや各方面に己の終末を知る
サタンのあがきを感じる世相となり、
われらは主の御再臨を心より待ちわびている。

 

憐れみと裁き4


老人となり、長寿に恵まれたダビデは、
その子ソロモンをイスラエルの王とし、
イスラエルの全高官、祭司、レビ人を呼び集めた。
 
(歴代志略上 23章1〜2節 新共同訳)



遠くから見ると確かに一つのものだが、
近づいてよく見ると「二重構造」になっている。
「契約の箱」とそれを覆っている「贖罪の座」がそれだ。



メグミスクールの子どもたち
 


ダビデの生涯を描く「歴代志略」の記者は
何故か・・・あの晩年のダビデの苦悩、
「アブサロム事件」をはじめとする
王位継承にまつわる悲劇の数々を一切無視しているように
まったくそれに触れずに文書として書き残している。

 
「罪を覆われた者」の幸い(詩編32篇1節)
という表現をダビデは好んで唇に乗せているが、
それは実に彼の心の深いところを吐露したものに違いない。
神の慈しみと憐れみに縋る彼のこころに
深く応えておられる「神のご愛」をここに観るのである。
 

一個人に多くのページを割いて、
「サムエル記」を書き「歴代志略」を書き残し給うたのは
実は「神の御霊」であるとわたしは信じているのだが、
彼の一代記を記録した二つの文書
内容の違いと執筆態度の違いには驚きを覚える。


その理由は・・・?  
これは神のみ心にある「憐れみと裁き」という
貴い「二重構造」の存在を
読者である我らに気付かせるものなのである。

 

人に憐れみをかけない者には、
憐れみのない裁きが下されます。
憐れみは裁きに打ち勝つのです。
 
(ヤコブの手紙 2章13節 新共同訳)

 

背きを赦すこと4


そこでダビデは言った。
 
神なる主の神殿はここにこそあるべきだ。
イスラエルの焼き尽くす献げ物をささげる祭壇は、
ここにこそあるべきだ。

(歴代志略上 22章1節 新共同訳)



マラウイの日常 



エルサレムを訪れてみると、
多くの史跡があるので
「くまなく巡ってみたい」
という衝動にかられるが、
でも限られた日程のために
どうしても今回も行ってみたい・・・
という場所を限定せねばならない。


そのひとつが「オルナンの麦打ち場」であったという「ここ」
つまり現在の「黄金の大モスク」ということになる。
そこはアブラハムがイサクを捧げたモリヤ山であり、
ソロモン王の建てた「神の神殿」のあった場所である。
 

わたしたちが「麦打ち場」の中の
あの大きな岩に手触りし、
穿たれた洞くつの中にまで入ると、
遠い過去、4000年を越える歳月の流れと共に
「永遠を想う」という人間の本性がすくっと立ち上がってくる。
 

ダビデ王は自分の過ちのために
多くの民が疫病で死に倒れて行く
この恐ろしい現実を前にして、
贖罪のためにと「神の祭壇」の設置を促されてゆく。


そこで畏れおののく彼が目撃したものは
「神の確かなご意志」、
天よりの火が降ってきて焼き尽くされた「献げ物」と、
そこに広がった香ばしい香りであったにちがいない。


凡ての汚れが赦され浄められてゆく・・・
その「幸福感」が神のご愛と共に
彼の心を満たしたのであった。
赦し給う神の輝きが・・・
 



成功する人は忍耐する人。
背きを赦すことは人に輝きをそえる。

(箴言 19章11節 新共同訳)

 
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