わたしは彼を退ける。
人は目に映ることを見るが、

たたみ
聖書66巻、旧約39巻、新約27巻、膨大な頁数を擁するこの書を一口に纏め得たとすれば、一體それは何か。

神の御使いは、
「肉とパンを取ってこの岩の上に置き、
肉汁を注ぎなさい」
と言った。
ギデオンはそのとおりにした。
主の使いは、
手にしていた杖の先を差し伸べ、
肉とパンに触れた。
すると、岩から火が燃え上がり、
肉とパンを焼き尽くした。
主の御使いは消えていた。
(士師記 6章20〜21節 新共同訳)
きょうは朝から雨が降って、
軒にはり出したトタン屋根をリズミカルに叩いている。
先週末より秋晴れの日が続いたが、
こうして天気が崩れるとなんだか落着いた気持ちになる。
不思議だ。あの壮大なソロモン王の世界もいいけれど、
自己を「小さい存在だ」と意識するギデオンも、
尚さらいいな・・・と思う。
ギデオンの主にたいする供え物は子山羊一匹と
麦粉一エファの酵母を入れないパン、それに肉汁であった。
自分に出来る精一杯のもの、
その供え物が主なる神さまに貴く受け入れられている。
そういえば、旧約の預言者ミカはこんなことを言っていますね。
焼き尽くす献げ物として
当歳の子牛をもって御前に出るべきか。
主は喜ばれるだろうか
幾千の雄羊、幾万の油の流れを。
・・・
人よ、何が善であり
主が何をお前に求めておられるかは
お前に告げられている。
正義を行い、慈しみを愛し
へりくだって神と共に歩むこと、これである。
(ミカ書 6章6〜8節 新共同訳)
どんな人にも「こころの世界」がある。その目には見えない部分を神がしっかりと見据えていてくださる、というこの事実に気付く時に「へりくだって神と共に歩む」という静かな動きがとても貴いものと思えてくる。祈りの時、このわたしという存在を主さまに捧げてゆきたいと思うし、主がこれを受け入れて下さるだろうか・・・と自問したりする。
最近のことだが、主のご聖餐にあずかり、主の御血と御肉にあずかる時に捧げる霊の祈りがまた特別な恵みを感じさせるのだ。「血は生命」ということだが、主イエスさまの生命が次第に「教会」に「我が家」に「わたし自身」に充満してくることに気付いている。この漲るものは何なのか?そして周りに現れてくるかつてない出来事、それも若々しい新芽ともいえるもの・・・。そうだ偶然にしてはあまりにも頻度が高く、こうして今もこころに喜びをもたらす。
このあいだ、ずっしりと重くなった孫を抱いた。この子が頭をさげてすり寄ってくるこのしぐさ。目を細めてわたしに手を延ばす、その姿。長らく忘れていた「こころのときめき」、これは決して作り物ではなかった。