「花さき山」
 (作:斎藤隆介、絵:滝平二郎
  『小学どうとく4 生きる力』日本文教出版、道徳教科書)

〔読み物資料のあらすじ〕おそらくは江戸時代の頃、貧しい農村の話です。山姥と呼ばれる老女の語りから始まります。あやという10才の女の子は山奥で山姥と会います。そこに咲く美しい花は、人間がやさしいことをすると咲く花だといいます。相手のことを考えて自分は我慢しているようなことがあると、ここに綺麗な花が咲く。家に帰ったあやはその話を周囲にするのですが、誰も信じてくれません。再び、山にはいるのですが、山姥にも会わず、花さき山もありませんでした。しかしあやは、やさしいことをするたびに、「あっ!、いま、花さき山で、おらの 花が 咲いてるな」と思うのでした。

 あやという女の子が山菜を取りに山奥へ入っていき、道に迷ってしまったところ、山姥と呼ばれる老女と出会います。山姥についての簡単な自己紹介から始まります。山姥とは、どういう存在でしょうか。ここで語られているように、何も悪さをしていないのに、村人が怖がっているということでしょう。村人たちの生活圏からは追い出されてはいますが、しかしながら山中でそれなりに生きているという存在、社会的な意味では死んでいるわけですが、生命としては依然として生きている。「生」と「死」の中間ということでしょうか。この点についてはまた後で考えます。
 山姥はあやに対して言いたいことがあるようです。そこにはあたり一面に美しい花が咲いていました。この花は、ふもとの村の人間がやさしいことをすると咲く花だと山姥は言います。あやの足元の小さいその花は、あやが昨日、咲かせた花です。あやは、昨日、自分は我慢して、妹に祭り服を与えるように言いました。妹は喜び、母は助かった。この時、赤い花が咲いたのです。つらいのをしんぼうして、自分よりも人のことを思って。そうするとここに美しい花が咲く。
 あやの思いについてです。あやはなぜ、自分が我慢して妹に祭り服を与えたのでしょうか。妹のためを思ったとか、妹の喜ぶ顔が見たかったというのは、少しずれているように思います。家が貧乏だったために二つも三つも買うことはできません。綺麗な服は一つしかありませんでした。あやはおそらくは自分が着たかった。10才の女の子です。美しい服を着てみんな見てもらいたい、そんなふうに思うのが自然です。しかし同じように妹もまたその服を欲しがります。祭りは同じ日にあるので、交替で着るわけにもいきません。もし自分が服を着てしまえば、妹は大泣きします。おそらく妹はいつまでも大泣きするはずです。その上で暴れたり、物にあたったり、さらにはいじけたりするはずです。そうなれば父母の手を煩わせることになります。そんな顛末が見えてくるのです。それゆえ自分が我慢しようと思ったのです。なかなかできることではありません。
 山姥は別の話を出します。1才くらい違う兄弟の話です。下の子はお母さんの乳に吸い付いています。もう一つの乳を手でつまんで話そうとしません。上の子は涙いっぱいためて我慢しているのです。この話は現代社会ではピンと来ないかもしれませんが、例えば二つあるデザートのプリンを二つとも独り占めしようとする姿を想起すればよいかもしれません。こちらもあやの話と似ています。独り占めする子はワガママというよりはむしろ自分のことで精一杯なのでしょう。
 さて、こうした小さい子どもたちの我慢や苦悩について、親たちはどの程度関心があるでしょうか。上の子が我慢するのは当たり前だといった思いなのではないでしょうか。というのも、本作品において大人たちはわりと冷たいというか、子どもの心に無関心というか、無頓着なのです。あやが山での出来事を語ったときも、現実的な回答をするだけでした。勿論悪気はありません。父母たちに空想の世界を楽しむという余裕はありません。あるいは子どもに合わせてあげるというような、ゆったりとした気持ちもありません。毎日食べていくのにやっと、ということでしょう。おそらく「あやは偉いね」とか「すごいね」とか「ありがとう、嬉しかったよ」なんて言葉はかけていないと思うのです。やさしいことをしたり、頑張っている子どもはたくさんいます。しかしながら、このことに気づいている人は少ない。みんな生活のことで精いっぱいなのでしょう。
 山姥があやに対してこんな話をしてあげているのは、なぜでしょうか。山姥の思いを推察してみましょう。おそらくは周囲の大人が優しい言葉をかけていないのです。子どもたちの行為に対して、それに見合った評価というか、称賛といったものがそこにないのです。それが立派なことだということを誰も言っていない。そもそもあやが苦しい思いをしているということに気づいてもいない。山姥は、それがかわいそうでならないと思っているのでしょう。自己中心的な姿は、ちっともカッコよくない。オシャレをしたり、自慢したりするような姿は、やはり醜い。自分の希望を後まわしにした上で、相手が幸せになるように努力すること。自分の周囲がどんどん輝いてみえるようにすること。それこそが美しい姿なのです。綺麗な服を着ているから綺麗に見えるのではありません。綺麗な心を持った人が綺麗に見えてくるのです。山姥が言いたいのは、「花が咲いているのだから、今が我慢しなさい」といった慰めでも、「花が咲いているのだから自信を持ってね」といった励ましでもありません。周囲の大人たちは何も言ってくれないけど、あなたがやったことはとても素晴らしいことなんだよ、あなたの心はとても美しいんだよ、ということが言いたいのです。美しい物に感動しているということが言いたいのです。ニュアンスとしては「ごめんね」というような意味も少し含まれていると思う。大人としての責任のような感覚だと思います。
 さて、山姥とはどんな存在でしょうか。山姥は、あやの優しい心に気づいています。山姥は村の中に入ることは出来ませんが、いわば外から村人たちを見つめているのです。そしてあやを見つけると、「花が咲いているよ」と声をかけてあげるのです。山姥は、村人たちの共同生活の外側に位置します。そして、美しいとか、素晴らしいとか、そういった気持ちのあり方もまた、日常生活に直接役に立つような話ではないので、共同生活の外側の方に入ります。すなわち美しいという感覚は、山姥だからこそ見いだせたということなのです。この絵本では、厳しい日常的な現実世界から離れた場所におけるあやと山姥との奇妙な出会いを描いているように思えます。
 気高く生きるというのはどういうことでしょうか。これは言い換えれば美しさだと思います。より善く生きる、美しく生きるということです。では何が美しいのかといえば、それは一人ひとりによって大きく異なってくるでしょう。「醜い生き方」というのははっきりしています。人を傷付けたり、自分のことばかり考えているのが醜い生き方です。では何が美しいかというのは、それは分かりにくいのです。本資料で示している通り、小さな子どもであっても、誰も気づかれないところで気高く生きようとしているということはあるはずです。気高く生きているにもかかわらず、本人がそのことに気づいていないかもしれません。そんな時は是非とも周囲の大人が気付いてあげて、あなたの生き方は素晴らしい、とても美しいと言葉をかけてあげるべきだと思います。
 私の手元には岩崎書店の絵本があります。当然ながら絵本の方が素晴らしい絵が並んでいて、インパクトは強烈です。教科書に入れるにあたって一部削除したり、日本語を整理したりした箇所もあります。絵本としての読み方と道徳授業としての読み方は少し違ってくるように思えます。しかしながらこの素晴らしい作品を教科書に入れて、多くの子どもたちに触れるようにしていただいたことに感謝したくなります。