「ブランコ乗りとピエロ」
(『生きる力 6』日本文教出版、道徳教科書)

 〔読み物資料のあらすじ〕サーカス団の話。ピエロは古くからのスターであり、リーダー格であった。一方のサムは新入りで実力派。サムはスター気取りでピエロの指示には従わなかった。この日も時間が限られ、他のメンバーと分担していたはずであったが、サムは一人で時間いっぱいの演技をしてしまう。ピエロは、当初は怒りでいっぱいだったが、サムの真剣な姿を見て、いつしかサムを憎む気持ちが消えてしまう。

 さて、サムがこのサーカス団に入った当初、彼が新参者であるにもかかわらず、ピエロの指示に従わなかったのはなぜでしょうか。いくつかの理由が推察されます。サムは他のサーカス団でスター的な存在だった、ということでしょうか。あるいは、若者ゆえの、いわゆる根拠のない自信。「俺様はすごいんだぞ!」といった気持ちなのかもしれません。中学生や高校生くらいの少年には、ありがちな話です。自分は、本当はもっとすごいパワーがあって、圧倒的な実力が眠っているはずなのだと思いたくなる年頃です。それはそれで大切なことだと私は思います。彼がリーダーの指示に従わないのは、リーダーのスタンスや言い方などに問題があるから、なのかもしれません。ピエロは気づいていないのです。その言い方や表情が、どうしても命令的高圧的になってしまう。それゆえサムはとにかく条件反射的な形で反発してしまう。そんな理由だったのでしょうか。あるいはサムは、ピエロが示しているそのビジョン、理想像、方向性そのものに反発しているのかもしれません。あまりにも古い体質に、イライラしてしまっている、なんてこともありうる話です。
 いろいろと挙げていますが、組織に入った時の若者と、組織の古株との間はどうしても対立的です。会社やサークルのような組織でも、学校や仲間関係のような集まりでも起こりうることです。若者は、いざ自分が古株になった際にはその時の思いは忘れて、上司として若者を厳しく指導してしまうのです。「あるある話」だと思います。
 さて、この物語のこの場面です。サーカス演技の場面で、サムは一人で1時間近く、演技を披露します。本来は他のメンバーにも登場場面があったはずなのですが、サムがステージから下がらなかったため、あっという間に時間いっぱいになってしまったのです。とはいえ演技は非常に素晴らしく、観客は大喜びでした。さてあなたは、このように予定を変更してステージを行ったことについて、どのように評価するでしょうか。予定では3人が登場するということでした。予定は大幅に変更になったということです。いくらそこで面白くて素晴らしい演技があったとしても、予定を期待していた客からすればそれは納得できない話です。一方、予定の演目にそれほどこだわりや思いを持っていなかった客からすれば、目の前で展開するその演技が面白いかどうかだけで評価できます。文面からは大盛況ということですから、予定は変更してよかった、ということでしょうか。この時のサムの行動の是非は、この場面の客の思いや契約(予定演目の重み)によって評価が決まるのです。文脈からすれば、おそらくは予定や決まりを破ってでも、面白ければそれでよいというような観客だったのでしょう。ですからこの場合、サムの判断は的確だったということだと思います。
 では、ピエロの考えはどうでしょうか。ピエロが、1時間で3人という配置を決めて、実力のサム一人に集中しないようにしたのはなぜでしょうか。おそらくは、出来るだけ多くのメンバーが力を合わせた方がよいと考えているのです。一人が1時間演技するとすれば、リスクが高いのです。彼が成功したからよかったものの、もし彼が失敗してしまえば、1時間が台無しになってしまう。勿論、圧倒的な実力者に多くの時間を与えて彼の技能を高める、多くの観客にアピールするという方法もあるわけです(サムはそちらに賭けていたと言えます)。ピエロが3人体制を考えた理由は他にも考えられます。ピエロは自分が目立ちたいという思いを持っていました。それは表現者ならば当然の欲求であって、悪いことではありません。ピエロは、自分以外のメンバーもそれぞれ自分の世界を持っていて、それを表現しようとしているということを知っていました。全体を見渡し、全体のバランスというか、メンバーの思いのようなものを感じていたはずです。ピエロはリーダー的であり、サムにはその観点はいささか欠けているようでもあります。例えるならば、1時間の舞台があって、歌や笑いやアクションなどをごちゃまぜで出した方がいいという座長の考えと、今大人気のアイドル一人を焦点化した方がいいという考え方との対立でしょうか。どちらが絶対的に正しいという話ではありませんが、悩む話です。
 本資料の最も重要なテーマは「寛容」です。多少なりとも怒りの感情をいだいていたピエロが、すーっと冷静になっていったのはなぜか、憎しみのような感情が消えていったのはなぜか、という点です。素晴らしいパフォーマンスに感動した、というのが一応の答えですが、もう一歩踏み込んでみたい。サムの演技はそれまでも見ているはずなのです。今回、素晴らしい演技を見て、怒りや憎しみが消えたのはなぜでしょうか。懸命に努力する姿を見て、ピエロは何を感じたのでしょうか。私の推察では、おそらくはサムの純粋さ、幼児性といってもいいくらいの無垢な姿を見たのだと思います。そもそもピエロが怒りを感じていたのは、サムが傲慢で自己中心的で、しかも他者を踏みにじるような強引さがあったためです。ひょっとしたらサムはこのサーカス団にマイナスになってしまうのではないか。他の人の気持ちや思いを踏みつぶしてしまうような部分があるのではないか。そういうピエロの考えがゆえに、怒りや憎しみが起こったと考えられます。ところがピエロは気づきます。サムはそんな人間ではなく、単純なほどに演技に夢中なだけだったのです。自分の身体がボロボロになるまで、限界まで頑張っているだけなのです。語弊があるかもしれませんが、サムはもっと小さな人間だったのです。このサーカス団を支配しようと思っているわけではありません。そのことに気づいたピエロは、怒りや憎しみではなく、慈しみにも似た感情になったのだと思います。支えなければならないという思いになったのだと思います。
 「相手を受け入れる」「相手を認める」とは、どういうことでしょうか。それは相手を知るということでしょうか。相手の良いところを見つけるということでしょうか。微妙な話かもしれませんが、私と相手との距離の問題なのです。相手が私を支配しようとしている、相手が私を攻撃しようとしている、などという理解のもとであれば、決して相手を認めることはできません。相手の性格を捻じ曲げて変えてしまおうという野心が出てきます。もはやケンカです。しかし冷静に相手を見つめる。相手が純粋に自分の人生を全うしようとしているだけであり、それを少し離れたところから眺めることが出来れば、彼の人生を温かく見守ってあげようという気になるはずです。すなわち「彼を知る」というよりはむしろ、「広い世界の中で生きる彼を知る」ということなのです。相手を受け入れるということは、自分の感情を切り離しながら、広い視野で見つめるということなのです。
 教科書には「お互いの違いを生かしてうまくいった経験を発表しよう」という課題が示されています。なかなか難しいと思います。おそらく小学校や中学校では、子どもたちのお互いの距離が近すぎて、それでお互い傷つけ合っているようなところがあると思います。ある子の自慢話は隣の子のプライドを傷付けてしまいます。ある子が100点を獲れば隣の子は不満です。地味で陰気な子がいれば、その場の全員の空気さえも陰気になってしまう。影響を受けやすいからこそ、その影響を遮断するために暴力を振るう、という言い方が適当だと思います。私は、教室という狭い空間にぎゅうぎゅう詰めで呼吸することが、排他的で攻撃的な文化を作り上げているように思えてなりません。